小野川温泉 吾妻荘

小野川温泉 吾妻荘
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 徒歩で片道2時間の道のりを3年間通い、
 大正3年の3月に3級下の弟の盛が米沢中学に合格
 したので、2人中学に通わせるのは無理だと言うことで、
 長男の金六は退学し家で働くことになりました。
 
  この年、長姉が綱木の田中久三郎に嫁ぎました。

 明治末、44年、4月 中学校に入学した金六は
 徒歩で片道2時間ぐらいかけて今の西大通り、アクテイー
 米沢にあった学校に通いました。
  冬は、矢来に下宿したそうです。

 赤芝の佐々木武雄さんが一級後輩で一緒に通ったそうです。
  英語の先生がアメリカの女性の先生で、家までどのぐらいの
 距離ですかと聞かれて 4里(フォーリ)と答えてしまった
 といっていました。
  リベッカ・J・ワトソン(ネブラスカ州リンカーン出身)
 が2年の時に着任しています。

 明治5年10月、置賜県学の興譲館が廃止され
 明治7年藩士協立私立米沢中学校と改称され、
 藩学の命脈がたもたれていましたが、明治も
 後期になり山形県知事管理、明治33年県立
 米沢中学校となり34年関東町(現西大通り
 アクテイー米沢)の新校舎に移転しました。
  県立校になると卒業生もふえ、在郷からも
 次第に入学者が増えてきました。

 先生 教えを施し 弟子 これに則る(のっとる)
 温恭 自ら虚うし 受くる所 これを極む(きわむ)

 善を見ては これに従い 義を聞いては すなわち服す
 温柔孝悌(おんじゅうこうてい)にして 驕りて力恃む(たのむ)
 ことなく 
 
 志に虚邪なく  行いは必ず正直
 遊居 常にあり 必ず有徳に就く

 顔色 整斉  中心必ずつつしみ

 夙に興き(つとにおき) 夜に寝ね
 衣帯 必ずととのう

 朝に益し暮れに習い 小心翼々(しょうしんよくよく)
 此を一にしておこたらず 是を 学則という

                 細井平洲書

 明治41年の小野川尋常小学校(6年)は
 学級数2クラス,生徒数が男48,女51計100名
 近く在籍していまいた。
  高等小学校(2年)は1クラスで男8名、女4名でした。
 (米沢市史近代編)

 金六は、明治後期いっぱい小野川の小学校にかよい、
 平仮名、漢字、読書、作文、習字、算術、そろばんなどを
 ならい、高等科を明治44年に卒業しその年の4月、
 米沢中学に入学しました。
  
 写真は、明治36年に坂本屋が発行した版画で金六が
 通っていた小野川の高等、尋常小学校です。いまの
 小野川入り口左、農協さんの敷地にあり、大正11年
 に簗沢小学校と合併されてからは、昭和の戦後しばらくまで
 公会堂として使用され、無声映画などを上映していたものです。


 小野川温泉は、明治期に二度の大火に見舞われています。
  明治五年五月一四日、六二戸焼失とあり、その年は、
 復興作業が行われたものでしょう。同じ年、八月三日
 明治新政府により学生が発布され、近代の教育の種が
 蒔かれた年です。
  翌年、江戸期に寺子屋であった金乗院で小野川小学校
 が開校されました。
  明治11年11月、現在の農協さんの場所に和洋折衷の
 小学校校舎が建てられました。最初は、特に女子の修学
 率は低かったようです。明治期を通して次第に修学率が
 高まっていったもののようです。
  金六は、明治後期に徒歩で2〜3分のこの明治の小学校
 に通いました。

 個人史の立場からは、情報が豊富で何百、何千の
 小野川近現代史が記せるでしょう。
  例えば、太平洋諸島での軍役従事者、南米、満州への
 移住者、の記録だけでも何十の近現代個人史が記せるでしょう。
  
  祖父の名前は、遠藤金六。その父は芳賀善次郎。善次郎は
 扇屋善五郎の兄弟で、扇屋さんから坂本屋六郎兵衛に明治前
 期に養子に入ったものです。
  江戸期は、尼湯のすぐ南隣に湯の神 薬師堂があったものです。
 そのすぐ南に春木屋 鈴木重助、その隣に坂本屋 遠藤六郎兵衛
 が大昔から宿を構えていました。
 
  

  今の西裏公園いったいに江戸期は塩とりばがあった
 ものです。鷹山公は仙台から技師を招いて、湯を
 炊いて塩をとりました。それ以前から、西側のあまり湯
 を流して、塩田の様にして塩をとっていたものと思われます。
  湯には、塩の差し引きありて山塩おおくいけどるるなり
 と江戸期の版画に記してあります。
 

  江戸中後期の白布高湯の版画です。
 三軒の湯船の所から石段を登って、鳥居があり
 それぞれ湯の神様が奉ってあります。
 湯に入って石段をのぼり湯の神様に祈り
 また湯につかるという風習が行われていたそうです。
 スカイバレーが抜ける前は、全くの山奥の
 湯治場で信仰と湯治が一体になっていた様子が
 伺われます。