小野川温泉 吾妻荘

小野川温泉 吾妻荘
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   隷とは、奴隷のれいですが漢時代には下級役人
   を意味したようで、隷書とは、漢の時代に広く
   普及した書体のようです。これは隷書を真似て
   少しアレンジしたものです。歓迎看板の書でした。

    


   吾妻しゃくなげは米沢市花ですが、この石楠花は
   原生地ヒマラヤの大木を福王子法林が描いたものです。
   ちなみに米沢市名誉市民の賞状には石楠花が描かれて
   いるそうで、文化勲章の賞状よりも立派だそうです。
   出張がてら福王子さんの自宅に訪問した米沢市長の
   センスが伺われます。

                          

   この蛍は、大広間の床の間に手で切って
   貼られた蛍で山形の本間設計事務所の本
   間りえさんのボランチィア作品です。
   



 米沢、上杉藩の歴史を語るのに著名な指導者鷹山公が真っ先にうかびます。200年ほど前になりますが、藩士を長崎に派遣して、洋学を学ばせますが、これがもとで「東北の長崎」と呼ばれる藩士の洋学の伝統が形成されます。鷹山の先進的な改革を実現させたスピリットはどこから来たのでしょうか。郷土史家に鷹山公の何代か前の先祖が朝鮮人だと言う話を聞いた事がありますが、鷹山のルーツの大陸性に改革のスピリットを見ようとするのは私だけでしょうか。

小野川地内に「開発」と言う地名がのこっています.現在の旅館組合駐車場、もやし場のあたりですが、ここで鷹山は仙台から技術者を招いて温泉から塩を採っています.温泉中の塩分が保温作用をつくり体の芯から温まる名湯の元になっています.伊達藩上杉藩を通じて湯治場として利用されてきました.又、上客には
お膳に名前が書いてあって、専用に準備されていました.春になって、馬車で、種もやしといって、籾を発芽させるため置賜一円から農家の人たちが廃湯を利用しにやってきました.