ダリアの歴史
ダリア (Dahlia キク科)
(花の西洋史辞典より:アリス・M・コーツ 白幡洋三郎・白幡節子訳 八坂書房) (Vol.397のつづき) ダリアの歴史の初期に、その名前を「ゲオルギア」と改名しようという試みがあった。それはロシアの植物学者ゲオルギにちなむもので、モーンドが残念がっていっているように、「イギリス国民の尊敬の的であった故ジョージ三世にちなむものではない」。改名の動きは、ダリア(Dahlia)と「デイレア」(Dalea)との間で混乱が起こるといけないという理由からであった。デイレアというのは、イギリスの植物学者サミュエル・ディル博士にちなんで付けられたアメリカのマメ科の植物で、大きく育つが興味をひかない植物である。また、ダリアは、ヨーロッパ大陸の一部ではまだ「ジョルジーヌ」という名で知られている。また普通の(または庭の花用の)英語名がないので、原産地メキシコの名前「ココクソチトル」を採用しようと主張する人がいるかもしれない。ココクソチトルという名は、この植物にまさにぴったりと合っている。ダリアは栽培を続ければ続けるほど、それだけいっそう原始的に野蛮になり、人に馴染まないから。ダリアは清楚で小さな野生のままのようなものから、お化けのような巨大なものまで、さまざまな大きさの花を咲かせる。インディアンはその苦い根を強壮剤として用いているとエルナンデスは報告している。最近では、イヌリンの原料として商業化しようとする試みがある。イヌリンからは薬用のレブロースという糖が採れる。余剰の園芸種ダリアの塊茎をこの目的のために使用するのが年々増えている。しかもその需要が増大してきたので、ダリアが畑の作物として栽培される日が来るかもしれない。花びらはマリーゴールドやキクと同じで、サラダとして生食用になる。 (おわり) |
ダリア (Dahlia キク科)
(花の西洋史辞典より:アリス・M・コーツ 白幡洋三郎・白幡節子訳 八坂書房) (Vol.392のつづき) 初期のダリアはさほど華やかなものではなかったが、最上流の階級に広まっていった。イギリスに入った最初のダリアは、1798年ブート侯爵夫人からキュー植物園に送られてきたものである。彼女の夫は、当時マドリッド駐在のイギリス大使であった。このダリアは数年後には枯れてしまったが、おそらく、当時その栽培方法がよくわかっていなかったからであろう。これと同じ運命をダリア・コッキネアもたどっている。コッキネア種はチェルシーの種苗商、ジョン・フレイザーが持っていたもので、1804年『ボタニカル・マガジン』に図入りで紹介された。オランダ公夫人はこらら3種類をマドリッドからブオナイウティという人物宛に送っている。ブオナイウティ氏はイタリア人で、オランダ公の司書であった。彼は熱心にこれらを栽培し、その年に花を咲かせ、種子を採ることに成功した。さて、1804年からおよそ10年間にわたるナポレオン戦争には、フランスで多くの新しい園芸種が栽培されており、それらのうちいくつかはマルメゾンでジョゼフィーヌ皇妃が庭に植えていた。最初の塊茎は、彼女が自らの手で植えたと言われる。1814年にヨーロッパが平穏になった後、多くの園芸変種はフランスからイギリスに輸出され、1829年にはダリアは「イギリスでもっとも流行している花であり、……種苗園での栽培面積に拡大は本当に驚くばかりである」とJ.C.ラウドンが『造園辞典』に記すほどの人気の花となった。1823年に種苗商のトーマス・ホッグは、「ダリアの花は小さい庭には大き過ぎる」ので、むしろ「装飾用の低木のすき間を埋めるのに最適である」と考えた。しかし10年後には、ダリアは花屋の扱う重要な花になっていた。1835年には、園芸協会の創始者、ジョン・ウェッジウッドが200種の園芸種を育てており、その中には黒いものやラヴェンダー色のものまで含まれていた。この花に関する大事な文献は1838年にジョゼフ・パクストンが発表したものである。 (つづく) |
「花の西洋史辞典」とアリス・マーガレット・コーツ
ダリアの項の紹介をしている「花の西洋史辞典」について紹介します。著者がイギリス人と言うことで、イギリスの視点が中心となっていますが、植物の起源が丁寧に解説され、とても勉強・参考になる書籍です。 「花の西洋史辞典」は、イギリスの園芸植物史家アリス・M・コーツ(Alice M.Coats)の訳書である八坂書房より刊行された、『花の西洋史 草花編』(1989)、『花の西洋史 花木編』(1991)を改版し、事典として再編集したものである。 著者のアリス・マーガレット・コーツは、1905年にイギリス、バーミンガムのハンズワースに生まれる。バーミンガムの美術学校を経て、ロンドン、パリでグラフィック・アートを学んだ。第2次世界大戦前は、児童書の挿絵を描いていたらしい。戦争中は婦人国防軍なるもので働いていたが、その仕事は、主として野菜や果物を栽培するものであったという。戦後は挿絵描きの仕事を縮小し、その後彼女の主要な分野になる園芸植物史研究に力を注ぐようになった。その成果が本書の原本となった2書である。 |
ダリア (Dahlia キク科)
(花の西洋史辞典より:アリス・M・コーツ 白幡洋三郎・白幡節子訳 八坂書房) ああ! 霜だ! ダリアがみんな枯れてしまった! サーティーズ『ハンドリー・クロス』1843 ダリア・ピンナータ(Dahlia pinnata)はヴァリアビリス種(D.variabilis)とも呼ばれる。このあでやかな色を持った原始的な感じのする花は、メキシコが原産である。メキシコでは、相当古くからアステカ人の庭に育っていたに違いない。スペイン人がメキシコを征服した時(1519~24)、野生の状態では見られない変わった種類のダリアが、もうすでに栽培されていたといわれる。スペイン王フェリペ2世おかかえの植物学者であり、医者でもあったフランシスコ・エルナンデスは、新世界の植物とその薬効について書いた自著の中で、ダリアについて述べ、その図を載せている。この本は彼の死後1651年に出版された。しかしダリアは、1789年までヨーロッパには導入されなかった。1789年、現在のメキシコシティーにあたる場所にあった植物園のヴィンセント・セルバンテスがマドリット王立植物園のカヴァニレス神父に種子を送った。翌年、その苗の一つが半八重のダリアの花を咲かせた。それについては、1791年に出版されたカヴァニレス神父の本『植物図説』の第1巻に述べられている。カヴァニレス神父はこの植物にダリア・ピンナータという名前を付けた。これはスウェーデンの植物学者でリンネの弟子であるダール博士の名にちなんだものである。その後、また2種類のダリアが咲き、同書の第3巻でロゼア種(D.rosea)とコッキネア種(D.coccinea)と名付けられ図入りで紹介された。コッキネア種は、1800年にパリの自然史博物館の教授ツーアン氏の所に送られた。ダール博士もツーアン氏もダリアはジャガイモと同じで、新発見の有用な野菜になるだろうと大いに期待していたらしい。ところが、その塊茎は「食べられるが、おいしくない」ので人間用にも家畜用にも不向きだとわかった。彼らは大いに失望したにちがいない。 (つづく) |
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