最上義光歴史館

最上義光歴史館
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◆◇◆義光周辺の芸文活動◆◇◆
                  
 京都における義光らの活動は周知のことだが、それならお膝下山形ではどうだったか。
 さかのぼると一四〇〇年前後、最上二代直家の頃には室町幕府の将軍足利義満の直臣、武人にして連歌の達者朝山朝綱(梵燈庵)が出羽に滞在したといわれるから、山形にも連歌をたしなむ人々がいたと見てよいだろう。ただ、残念なことに確かな史料は今のところ見出せない。
 隣接地会津出身の猪苗代兼載(〜一五一〇)が著した連歌作法書『若草記』は義光の愛読書だったし、彼自身の著述『連歌新式注』もあるほどだから、家臣のなかに連歌愛好者が少なからずいただろうと想像される。洛中外で催される連歌会に義光に随伴出座した最上家(関係者)をあげてみると次のようになる。



 *を付した人物は姓名字未詳。義光の座にのみ参加。それ以外はなし。弥阿は翌年五月、近江配流中の里村紹巴を訪問し、紹巴自筆の発句懐紙を入手している。
 もちろんこれ以外にもいたはずで、山形光明寺に一花堂乗阿が住職となっていた時期には、「義光公御一門方、毎度連歌之御会これあり」(光明寺由来記)といった有様だった。
 「山形歌壇」とでも言えそうな盛況だったのだろう。
 特に熱心だったのが、東根城主、里見薩摩のグループで、東根で催した連歌作品を京都の宗匠に届けて、通信指導まで受けていた。慶長十二年七月二十七日里見薩摩あて里村昌琢書状からは、その状況がおおかた読み取れる。一昨年は百韻一巻を見たとか、謝礼に紅花が贈られたとか、里村玄仍が急逝したとかの記事もある。惜しむらくは、東根衆の連歌作品が見つからないことだ。
 庄内では、わずかな文書の断簡から、志村光惟の二句を見つけることができた。

 千世や引きそへぬ子の日の野辺の松
 
 今日たつも世々にかはらぬ霞かな

 庄内以外でも、最上領内のどこかに、出羽人の作が埋もれているかも知れない。
 
 霧となり霞と消ゆる夕べかな

 これは、義光の黄泉の旅にお供をした寒河江肥前守の辞世として伝えられる一句である。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��25/研究余滴17」より


◆◇◆ちょっと立ち止まって◆◇◆
  
 地域史研究の一環として、最上義光の周辺を探ってきたつもりだが、ふと、こんなことを考えるときがある。
 研究を進めるにはより多くの史料を捜して、史料批判を経て客観冷静に考察し、わかりやすい文章にすることが大事だろう。だが、ふるさと山形の歴史となると面倒な事態がかずかず出てくる。
 一つは史料不足。山形は特にひどい。まず、中世以前の文書の不足。村山地域では例の大きな石鳥居、いったい何物か。鳥居は何もしゃべらない。最上義光についてなら「言語で表現された史料」はたくさんあるが、これらは、書き手の主観による誤謬とか意図的な虚構が入りこんでいる可能性大で、「真実」を引き出すには慎重さが求められる。
 二つめは研究する者の心情的な問題がある。たとえば山形を「ふるさと」とする人間か否かというようなことが微妙に影響するのである。この土地に生まれ、育ち、幾世代にわたって祖先が築き上げた現実の山形。この地に自分は密着して生きている。こういう感覚や観念が愛郷心となり、時に逆に作用して嫌悪の情となったりもする。
 研究作業に当たっては、研究者相互の協力や競争意識もあろうし、先輩後輩のしがらみもあるだろう。封建時代の大名家が厳然と存在し、所蔵する史料を利用させてもらうような立場になると、ことは冷静客観とばかりはいかないこともありそうだ。
 視野の広狭も問題となる。
 以前、山形近辺で掘り出された「開元通宝」を、「八世紀の渡来品」と決めつけて疑わなかった例がある。『須川温泉神』は、現在の『蔵王温泉の神』と見てよいのか、秋田側の意見も聞かねばならないだろう。重要な古文書を無視して、想像を自在に繰り広げている研究もある。かと思えば、江戸時代の好事家が、思い付きで執筆した物語類を重要史料のごとく扱っている例もある。
 だが……と、考える。これらを一概に非とするわけにもいかないのじゃないか。そもそも、人間はまちがいを犯しやすいもので、これは逃れえぬ宿命だ。だが、幸いにこれを免れる方法がないわけでもない。そしてこれが大切なのだが、自分の研究を公表し他者の目で見てもらい、不足を補ってもらうことである。それによって誤りや不備を修正することができるのだ。論文類を読む、発表を聴く。相互に意見を交流しあって、より確かな歴史を構築していきたいものだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��24/研究余滴[番外]」より

◆◇◆山形城の立地◆◇◆

 最後の山形藩主水野氏についてきた高名な学者塩谷宕陰が、「山形は江戸に似ているというより、京都に似ている」と言って、新封地に着任した主君に賀詩を献じた。たしかに、京都は中央に川、東西に山・・ということで、盆地の山形と似たところがある。
 ところで、山形が出羽国の中枢年として発展してきた背景には、十四世紀の斯波兼頼の入部、以降十七世紀初頭までの最上時代があった。十五世紀などは、史料不足の「暗黒の時代」だが、とりあえず最上氏の存在が山形を支えてきたのではあるだろう。
 それなら、山形城がなぜこの場所につくられたのか。
 高橋信敬先生の名著『最上時代山形城下絵図』では、斯波兼頼入部時代の近辺の地勢や歴史的な沿革には触れておられるが、「なにゆえに、この場が選ばれたか」についての所見は、残念ながらない。
 先頃、中川重先生、伊藤清郎先生とご一緒したとき、「風水」ということについておたずねしたことがあった。「山形城の風水(学)的立地はどうなんでしょう」という私の質問に、お二方は町づくりにおける「山あて」の事例を教えてくださったが、「風水」についてはお話しにならなかった。学術の網に掛かりそうもない(?)「風水」を取り上げるのはお避けなさるのが当然と、私は納得をもらったのだったが、その後も山形城の位置・立地は気にしていた。
 山形県の地図を広げて、眺めて、今のところ次のことは確かなようだ。



� 〇碍曽襪琉銘屬蓮∨明昌容鶚劼妨�える月山の頂上(一九八四m)と、南東一〇�劼砲修咾┐詢胸�(一三六二m)の頂を結ぶ直線上にある[直線A]。 この二つの山は、山形城から見て一番高くて目につく。

�◆〇碍曽襪琉銘屬蓮∪�(三五��)の大朝日岳の頂(一八七一m)と東(一四��)の神室岳の頂上(一三五六m)を結んだ線上にある[直線B]。この両山は、めだたぬながら、山形城の真東、真西にある最高の峰である。

�� つまり、直線AとBの交点が山形城の現場に当たるわけである。

 馬見ケ崎川扇状地の中央部分。標高一三〇m前後。水はけよく乾いた平地、地下水は豊冨。所々に泉が湧いている雑木林。積雪は山形盆地のなかで最も少ないところ。人が暮らし集落を形成するには具合がいい。このあたりの条件は、誰でも気がつきやすい。
 しかし、山形城が周辺の山岳(等)と関係づけて築かれたかとなると、私には何も言えない。もう一つ、山形の随所で遠望される雁戸山(一四八五m)は、無関係なのか。どうなのだろう。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��23/研究余滴16」より

◆◇◆細川忠利の手紙から◆◇◆

 『細川家史料』元和八年(一六二二)の巻は、当時の小倉藩主細川忠利が国許の魚住伝左衛門あてに書いた書簡の集成である。
 四月二十四日の書状では、将軍秀忠の日光社参のときの異常な厳戒に注意を向けている。
 「ことのほか御用心にて、東照宮を二重三重にとりまわし、見張り警戒を仰せつけられたそうだ。お供の数も五、六万人もいただろうということだ」
 平和なはずの社参が、ただならぬ厳戒のなかでなされたのである。
 幕府発足後まだ十年そこそこ、泰平の世といっても、けっして安泰ではなかった。
 山形も元和三年の家親没後は、重臣たちの反目がつよまり政権はばらばら、元和六年からは幕府の横目付が山形城二の丸に常駐して、監視、指導を強めていた。
 さて、本史料には何ヵ所かに「東国大名に、帰国許可が出ていない」という趣旨の記載がある。四月から毎月のようにこれがある。日光での厳戒と関係がありそうだ。
 それと並んで忠利は、最上家の行方に注目している。「最上の身上も近々果ててしまうだろうとのうわさ。見聞きするところその通りらしい」と書き、その一方「最上家は祖父義光の時から徳川家に心入れ深く、その子家親は幼少より江戸勤務で将軍に奉公したので、この度は新しい国を下さることで相済みとなった」と、一件落着と思ったこともあった。
 彼の心中、最上家親とともに初めて宮中へ参内した若き日の記憶が鮮明に残っていただろう。慶長十年(一六〇五)四月九日、初夏の晴れた日、忠利も家親も侍従に叙任された。二人とも二十歳前後の貴公子、名門大名の後継者だった。だが今、最上家は浮沈存亡の危機にある。
 忠利は心配していた。八月十日、「最前も申し上げた最上のことだが、将軍様の前で決定したとおりにいかず、家老どもが勝手を言って決着がつかぬ」
 そして八月半ば、五十七万石最上家は改易。近江大森一万石となる。
 九月二日「東国大名衆は今なお江戸に逗留中。最上の跡に誰が入るかわからない」。九月二十二日「最上の跡山形・鳥居左京父子、新庄・戸沢右京、鶴岡・酒井家次父子等。決めたのは土居、酒井…」幕政初期の実力者だ。
 最上家信は父祖の地最上にもどることはできなかっただろう。
 忠利の書状に最上重臣の動静はあるが、家信には触れられていない。
 「最上義光の弟で伊達政宗の叔父にあたる楯岡甲斐守光直を、わが細川家が預かることとなった」と、やや緊張ぎみの報らせだ。
 最上家改易、後任者決定。
 東国大名諸侯も帰国の許しが出て、自国でゆっくりできたのだろう。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��22/研究余滴15」より

◆◇◆義光の辞世◆◇◆

 最上義光が亡くなった日は慶長十九年一月十八日。太陽暦では二月二十六日。余寒なお厳しい時節である。晴れた夜なら満月に近い月は、冷たい光を地上に投げかけるだろう。
 さて、石川県金沢市の研究家から、歴史館に一通の封書が届いた。『政隣記』という古記録の一節をコピーして届けてくださったのだ。

「一 最上駿河辞世并詠歌
   一生居敬全 今日命帰天 
   六十余霜事 対花拍手眠
   有といひ無しと教へて久堅の
   月白妙の雪清きかな」


 先様の疑問は、これが確かに「最上駿河守家親」の作だろうかということのようであったが、家親なら、元和三年没、三十六歳であるから、「六十余霜」とは合わない。亡くなったのは三月六日(太陽暦四月十一日)とされているから、春燗漫ではあっても、「久方の月の光、白妙の雪」といった景物からは程遠い。さらに亡くなる前二晩ほど苦しんだとする記録もあるのだから、月雪を称賛し、花にまで感謝しながら命終を迎えるという境地には到底なりえないだろう。
 間違いなく、この辞世二編は、最上義光の作と見てよい。
 そこで、作品そのものを見てみよう。
 まず漢詩。読み下しと、その趣意。

「一生の居、敬をまっとうし、
 今日、命天に帰る。
 六十余霜のこと、
 花にむかい拍手して眠らん」

趣意。
「自分の一生は敬いと慎しみを貫いてきた。
 今日、わが命は天に帰る。
 六十余年を顧みれば多事多端。
 美しく咲いた花に拍手を贈って、わたしは眠ろう」
 
 生涯を振り返っての満足感と、折々に自分を慰めてくれた花への感謝。
 
 次に和歌。「久堅の」は、「久方の」と書かれることが多い。解釈上は「白
妙の」は、懸詞と見るのがよいようだ。難解な和歌だが、以下は筆者の解釈。

――有りといえばある。無しといえばない。月の光と雪の白妙とは、はたして実体は何なのか。
 自然そのままでありながら、この上なく清らかなもの……。
 
 真実の姿は知れなくても、義光は死の直前まで宗教的存在とでもいうべき「美」を見つめていたのである。(『政隣記』義光辞世の直前には、細川幽斎と沢庵和尚の詠歌各一首が記されている。)

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��21/研究余滴14」より

史料紹介 一花堂乗阿『最上下向道記』から考える

【一】
 山形市七日町の光明寺に、一花堂乗阿の『最上下向道記』が秘蔵されている。
 乗阿は時宗の僧侶で、桃山〜江戸初期(一六〇〇年前後)に京都を中心に活躍し、『源氏物語』『古今和歌集』などの古典研究に寄与した学者である。歌人として、また連歌の指導者としても知られていた。貞門俳譜の祖松永貞徳は、その著『戴恩記』に乗阿との接触があったことを述べている。また、青年時代の林羅山と『源氏物語』をめぐる論争をしたこともあったという。このような著名な文人が山形を訪れて滞在し、最上一門や周辺の人々を指導した事実は、山形の文化史を考察する上で重要な示唆を与えるものだ。
 「光明寺由来記」によると、義光は在京中に乗阿から『源氏物語』を学び、切り紙(免許状)を伝授されたとされる。これが機縁となって義光の要請を受け、山形に来て光明寺十八世住職となった。小高敏郎博士の大著『近世初期文壇の研究』(昭和三十九/明治書院)では、乗阿が出羽に下ったときの「道之記」について、「あるはるずだが、目賭の機を得ない」と残念がっておられ、また、乗阿が後陽成上皇や智仁親王らとともに詠じた「御当座百首」一巻は、戦災に遭って失われたのではないかとの懸念を述べておられる。
 ところがこの両作品が、ともに光明寺に蔵されていたのである。

【二】
 以下、『最上下向道記』による。
 七三歳の乗阿は、慶長八(一六〇三)年五月十二日(太陽暦六月二十一日)の昼に京都を発つ。道中さまざまな出来事を経ながら、越後本庄(村上市)を経て出羽に入る。



 「羽州庄内、今あらため鶴岡というに到れば、御城の普請の奉行衆とて両三人、今行くべき先々の道のことまで沙汰せらる」……「亀ケ崎」(酒田市)「鶴ケ岡」(鶴岡)と佳名に改められたのは同年三月とされるから、乗阿は地名が変わって間もないころにここを通ったことになる。一泊して翌日は最上川の舟に乗り、ほどなく山形に着く。
 山形については、「造り並べたる家々数多く、柳・桜植えぬ門もなく、見る目輝くばかりなれば、覚えずしてまたもとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはべりぬ」と称賛した。太守義光への儀礼的挨拶が加わっているとしても、この時代の山形は美しかった。最上五七万石、全国屈指の大大名の城下である。義光自身が京文化への憧憬をいだき、山形にすぐれた文化を移入しようと努めていた、まさにその時代である。乗阿の描写は、美しい山形を語って印象深い。

【三】
 乗阿の山形滞在は足掛け三年という短い期間だったが、その間最上一門は光明寺において、しばしば彼の指導のもとで連歌会を開催した(「由来記」)。東根城主里見一家が連歌に熱心だったのは、この影響があったと見てもよい。城下の士庶、僧俗が芸術・文化に開眼
するきっかけとなった可能性もある。
 江戸時代の早い時期に、旧最上家臣の一人斎藤親盛(如儡子)は、名著『可笑記』を著した。本来貴族の行事だった人麿影供を、山形の町人が催した形跡もある。芭蕉来訪以前に、井上、富田、斎藤、松岡、豊田などという山形の住人たちが、座をつくって俳譜を楽しんでいた(落合晃氏『やまがた俳譜一人案内』)。捜せば、他にも事例があるだろう。
 最上時代の山形の芸術文化を、ばらばらに切り離さず、義光に代表される山形人の精神の体現として改めて見直すとき、山形の歴史はいちだんとふくよかになるに違いない。

■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長)「館だより��14」より