最上義光歴史館

最上義光歴史館
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■ラーメン消費が日本一の理由の話
 「おすすめの店はどこ」とか「山形ラーメンとはどんなもの」とかの前に、「山形の消費はなぜ多いの」ということについてですが、かつて山形では、自宅に親戚や客人がくると出前のラーメンでもてなすことが一般的でした。あくまでも感覚的なことですが、都会でのラーメンの出前というのは、仕事が忙しく外に行けず昼にとったり、夜食にとったりと仕事の合間にとるものかとは思いますが、山形ではラーメンはごちそうであり、それは、鮨や鰻の出前に相当するようなものであったわけです。
 そのような生活史的な背景があるのですが、現在は出前をしてくれる店も少なくなり、また出前で伸びたラーメンを食べることも当然好まれず、店に出かけて食べるようになっています。それではなぜ今も消費額が多いのか。あくまでも生活感覚的なことなのですが、それほど金もない中で家族で外食しようとすればラーメン屋であり、特に目新しい場所もない地方都市で話題となるのがラーメン屋であり、ローカル放送やフリーペーパーでとりあげられる情報がラーメン店であり、いずれにせよ、若干、恵まれない理由からラーメンに寄っていっている感じではあります。

■「そば」の聖地になれない話
 ラーメンだけじゃなく、そばもいけるのなら、そっちも聖地をめざしては、という話がでてくるかとは思いますが、総務省の統計区分では、「そば」は「うどん」と一緒になっていて、そうなると高松市が断トツで1位になります。かの地では1日3食以上うどんを食べ、喫茶店がわりにうどん屋に入り、また、�眈召砲呂Δ匹鵐織�シーという、タクシーを貸し切って運転手さんおススメのうどん屋さんのはしごまでできるわけで、さすがにラーメンではこうはいきません。ラーメンのはしごは、なかなかにキツイものです。
 山形ではかつて、そば屋でラーメンを出すのが普通で、単に「そばだけ」とか「ラーメンだけ」の店より、両方出せる店の方が格上的でしたが、これと同じく総務省の統計が「日本そば・中華そば」というくくりになっていれば、山形市は1位になっていたかと。とは言うものの世間様では既に、日本三大そば(わんこそば、戸隠そば、出雲そば)というものがあり、日本三大ラーメン(札幌ラーメン、博多ラーメン、喜多方ラーメン)というものも、やはり衆目の一致するところではないかとは思います。
 また、「聖地」を名乗ることについては、山形大学の副学長(企画・評価・総務・危機管理・内部統制担当)が主宰する「がっさん通信」の「〈折に触れて〉ラーメン消費額、山形市首位奪還」という記事で、至極まっとうなご意見が述べられており、ここにあるとおり山形はやはり「ラーメン天国」と称するべきでしょう。あとは「ラーメン天国、おそば天国」なんていう曲が出てくればいいのでは。つれてゆこうかこれから、ラーメン天国え〜♪、さすがにユーミンに、とは言わないので。
 ところで、世帯当たりの消費額日本一を「聖地」と言うのであれば、「すしの聖地」は金沢市、「焼肉の聖地」は高知市、「ハンバーガーの聖地」は熊本市となります。その金沢市は納得できますが、焼肉とハンバーガーは意外な感じです。そして「まんじゅうの聖地」は福島市、これも理解できるのですが、「ゼリーの聖地」が秋田市、これはどんな事情なのでしょう。ちなみに金沢市は「ケーキの聖地」、「チョコレートの聖地」、「アイスクリームの聖地」というデザート三冠の地でもあります。金沢市は能登半島震災の影響で観光客激減とのことですが、対策キャンペーンもあるそうで、復興支援に「デザート聖地めぐり」はいかがでしょうか。そうそう、お鮨も忘れずに。

■ソバリエの話
 かつて、そばの案内人である「ソバリエ」の実地研修に同行することがありました。その内容は、市内の代表的なそば屋さん10軒を5件ずつ2日間にわけて食べ歩くというもので、はしごして食べることでそれぞれの違いが明確にわかります。その量は基本的に1件あたり半人前ですが、結局1人前くらい食べてしまうので、1日で5人前近くのそばを食べることとなります。
 店では、そば粉の挽き方や水(天然水、井戸水、電解水の店もありました)の種類などを聞き、そば粉と小麦粉の割合やそばつゆの原材料なども聞いて試食します。まずはそばをそのままで一口すすり、次につゆだけをすすり、そしてつゆに入れて食べます。その後、薬味も入れて、そば湯もいただきます。
 ここで何件かの店主から聞いたのが、本当はつゆを辛く(濃く)したいのだが、どっぷりつけて食べるお客さんから苦情がくるので薄くしてある、ということ。どっぷりつけると、そばの香りがわからなくなってしまうので、本当は辛いつゆに少しだけつけて食べるとのことです。有名な小噺に、「そばは、ほんの一寸か二寸、つゆをつけてたぐり込むものだ。」と講釈していた江戸っ子が病気になり、見舞いに来た友人に「たった一度でいいから、そばに、つゆをたっぷりつけて食べたい。」と言った、というのがありますが、まあ、商売としてはどちらに合せるべきか難しいところでしょう。もっとも、店によっては、あらかじめ「そば」に「つゆ」がかけてある「ぶっかけそば」というものもあり、これはこれで美味しいのですが。

■ラーメン戦国時代の話
 東北のラーメンはまさしく戦国時代で、ラーメンの消費統計でも、東北の全ての県庁所在都市が10位以内に入っているという状況です。山形ラーメンに対しては、いつものように上杉家と伊達家が、いや、「米沢ラーメン」と「仙台ラーメン」が並び立ち、その両雄の手前には、天童の「鳥中華」と赤湯の「辛みそラーメン」がコンビニカップ麺にもなるほどその名を轟かせています。全国区では「家系」と「二郎系」が天下分け目の戦いを繰り広げ、その余波は東北各地にも広がり、山形では「油そば」や「つけ麺」もその頭角を現しつつあります。
 そんな戦国時代の中で、歴史好きであれば、ラーメンの「川中島の戦い」はどこだとか、「関ケ原の戦い」はどうだとかと例えてみたくなるのではないのでしょうか。例えば、山形市内の「川中島の戦い」とも言えそうなのが、どちらも「K」ちゃんラーメンという名の店同士で、幹線道路一本で隔てられている超人気店なのですが、そこで出されるラーメンは全く違い、好みがはっきり分かれます。これが「関ケ原の戦い」となると、まずは山形市内を東西の勢力にわけるようなことは難しく、まあ、「夏の陣」であれば、冷やしラーメンの天下とでもなるのでしょうか。しかしそこには、仙台発祥の「冷やし中華」ファンもいれば、最近は「冷やし担々麺」という強力メニューもあり、気は抜けません。
 一方、上杉家と伊達家、いや、「米沢ラーメン」と「仙台ラーメン」の新勢力としては、米沢の「地獄ラーメン」と仙台の「麻婆焼きそば」というのがあり、うーむ、これは山形でも冬にいける何かを、たとえば「納豆味噌ラーメン」あたりでしょうか。まあ、「納豆」というのは飛び道具のような気もしないではないのですが。

■健康管理の話
 「『山ラー』フェア」ですが、ちなみに「山ラー」というと、かつて、アムラー、シノラー、シャネラーという方々がいましたが、すみません、余計な話でした。そのフェアでのスタンプラリーの参加予定店は、ポータルサイト「#推しメンやまがた」に出ているのですが、あの「ラーメン・つけ麺・僕イケメン」の狩野英孝さんは、実は小麦アレルギーで、ラーメン店のロケでも「全部は食べてない」とのこと。すみません、余計な情報でした。
 ところで、麺類の摂取過多は健康にも影響して、香川県はかつて「うどん県」として売り出していましたが、うどんばかりを食べていたら県民の栄養バランスが悪くなり、特に糖尿病が問題とされました。また、讃岐うどんは粉の3%以上の量の塩を使うことが定められていて、塩分の影響も要注意です。今は野菜も食べてと呼びかけているようです。実は山形県も昨年10月、新たなキャッチフレーズとして「ラーメン県、そば王国」を打ち出したのですが、「うどん県」を他山の石として、などと言える立場にもないので、むにゃむにゃ。
 ただ、健康面からラーメンはどうかというと、少なくてもラーメン食を勧める医者など聞いたことがありません。通常、ラーメンは脂肪や塩分が多く、特に脳循環系の疾患がある方などは要注意です。一方、店によっては糖質制限ができるよう麵抜きのメニューもあり、麺なしのラーメンをラーメンと呼ぶべきか、むずかしいところではあります。もちろんラーメンは、料理としてはすばらしいもので、様々な調理法や具材を駆使した究極の料理として、中にはオマール海老専門のフレンチラーメン店まであるそうですが、健康面からすればやはり気になります。
 これが「そば」であれば、健康食として、また「そば湯」や「そば茶」にも効用があると言います。毎年の健康診断で、健康指導を受けるようにと通知がくる私としては、やはり「そば推し」です。そしてこれを同じ健康食の納豆と組み合わせて「納豆そば」とすれば、タプルパワーの健康食となるはずですが、なぜか「納豆そば推し」というのを聞いたことがありません。「納豆」と「そば」には、なんか見えない壁があるようです。ちなみに山形では、「うどん」は「納豆」とかなりの親和性があります。しかし、これを関西出身の人に言ったら「うどんは喉ごしで食べるもの、納豆と一緒に食うなんて考えられへん。」と一刀両断にされました。

■昼に混む店の話
 同じ店でも、昼と夜とでは、出来上がりが全く違うことがあります。昼にやたら混むラーメン屋は、夕方にはスープが薄味で水っぽくなっていたりします。逆に、お客さんが少ない店は、スープが煮詰まっていたりします。昼に混むそば屋では、昼はそばが伸びてしまったりしているのに、客の少ない夕方は、茹でたてのきりっとしたそばが出てきたりします。
 麵が伸びているかどうかとか、スープの状態がどうかとか、これはワインでいえば、保存状態(瓶の中身や酸化)はとか、提供される温度はとか、と同じようなことかとは思います。ソムリエが開栓してまず確認するのは、カビ臭くないかということです。こうした劣化を「ブショネ」と言いコルク栓の汚染が原因なのだそうです。ワインのホストテイスティングは、まずこれを確認するためのものですが、経験がないともともとそういう風味のワインと受け取られることが少なくないそうです。ソムリエは、コルク栓の具合と香りで見分けて、このようなワインは交換するそうです。これがラーメンであれば、やはり、こんなものかと食べてしまうこともあり、本当にヤバいものは、交換というよりまずは保健所に相談、ということになるとは思います。
 ちなみにブショネとされるワインは、「廃墟のよう」、「ダンボールが湿った匂い」、「雑巾のような」などという表現をすることもあるそうですが、雑巾のような匂いのする「ラーメン」は、やはり遠慮すべきかと。そう言えば過去に、雑巾の匂いがする「ご飯」を上野公園近くの某大学の食堂で出されたことがあります。腹こそ壊しはしませんでしたが、芸術を志す東京の学生さんは、なかなか大変だなぁ、と思いました。


◆◇◆「石鳥居」のこと◆◇◆

 山形周辺のあちこちに特徴のはっきりした古めかしい石鳥居があって、いろいろと話題になってきた。
 むかし尾花沢野黒沢の諏訪神社前に、倒れた石鳥居があった。これを、山形師範学校の長井政太郎氏と、東根八幡宮の神官・三浦桂一氏のお二人が、礎石の柱穴まで土砂を掘り払ってみたところ、土の中から永楽通宝3枚を含む渡来銭が数枚発見されたという。これは鳥居建立の時代の手がかりになるはずと、更に慎重に作業を続けられたそうである。
 ちょっと歴史を前に戻すと、日本では平家政権以後も、中国とはますます深い関わりが生まれ、鎌倉仏教など宗教の面においても重大な発展が見られるようになった。日本中世の発展を下支えしたのが、中国から輸入された銭貨だったわけで、室町時代以後では「永楽銭」がその代表的存在だったのである。山形地方での鎌倉・室町時代は、柏倉の寺山に大曽根荘の荘官安達氏によって、堂々たる山岳寺院が創建されていたし、近隣の長谷堂滝の山には、羽黒山を「御本社」と称する山岳修行者の拠点として、「滝山寺」が活気を呈していた。当然、これらの寺跡からは同時代の遺物と共に量は少ないが、渡来銭も出土している。近くの谷柏では、鎌倉時代に渡来したと考えられる唐、宋・元朝時代の渡来銭が数千枚掘り出されたこともある。
 さて、室町幕府によって独占的に輸入された「永楽銭」は、幕府や有力大名たちの挺子いれもあって、流通期間が非常に長かったそうで、国内での流通はますます盛んになり、量的にも膨大なものになったらしい。山形地方では、江戸時代初期の貞享二年(1685)大石田村「道天」というところの畑から40貫目(約4000枚)の永楽銭が掘り出されたという。この当時は永楽銭を示す「永」が銭を指す普通名詞にもなっていたそうである。足利・織豊・徳川と、時代は戦国から太平の時代にはいる。
 安定的に動きはじめた幕府は、自国の銭は自国で鋳造すべきだとの方針を定め、寛永十三年(1636)以後は「寛永通宝」が各所で鋳造されるに至った。それが相当広まって、頃合を見計らったのであろう、寛文十年(1670)には、渡来銭の通用を禁止するにいたった。もちろん、全国的に一気に実行されたわけでもないだろうと思われる。
 芭蕉の句「この筋は銀も見知らず不自由さよ」という句は、こういう時代の通貨流通状況を実感させてくれる。
 尾花沢近隣の野黒沢で永楽銭が発見されたということは、永楽銭が大量に流通していた時代があったと考えられるわけである。鳥居柱石の下にこの銭貨が置かれたかまたはたまたま土に紛れこんだか、とは考えてよかろう。
 長井先生は、このことから、歴史・地理学者として、山形市元木・成沢の石鳥が平安時代のものという考えには否定的になられたようだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��27/研究余滴19」より

■ 辞世の句の話
 辞世の句とは別に、生死に関わる言葉としては、アインシュタインの「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」から、アンネ・フランクの「私は、死んだ後でも生き続けたい」まで、本当にいろいろあり、他の言葉はネットでも検索いただくとして、さらに検索を続けると「死んだつもりで生きる」という言葉も出てきて、こうなると結構重い話がぶらさがります。
 それに並んで「死んだ者勝ち」とか「死んだ者負け」とかいう言葉も出てきますが、そこにはもう、かなり深刻な相談ごとが出てきます。こういうのを前にすると、うかつなことは言えなくなるのですが、そもそも人の生き死にを勝負事のように表すこと自体いかがなものか、とは思います。
 また別に「死ぬ者の損」とか「死ぬ者貧乏」とかいう損得に絡める表現があり、「死ねば死に損、生くれば生き得」ということわざもあります。最近では「生きてるだけで丸儲け」というお笑い怪獣と言われる師匠の言葉が有名で、このくらい振り切れれば、なんか死なないような気にもなります。一方では「命長ければ恥多し」ということわざもあるのですが。
 個人的に好きな辞世の句は、十返舎一九の「この世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の 煙とともに 灰(はい)左様なら」というものですが、なんともシャレていて、かくありたいと思います。しかも周りを驚かすために、棺桶に花火を入れたとも伝えられます。まあ、さすがにそこまで真似ることはできませんが。

■ 墓マイラーの話
 命日というとお墓参りの話がついて回るのですが、命日などとは関係なく、有名人の墓参りを趣味としている方々もいて、最近はこれを墓マイラーと呼ぶのだそうです。
 ネット情報で恐縮ですが「ウィキペディア」の「墓めぐり」という項目には、「近世後期以降の日本では、宗教や信仰上の動機とは別に、故人の墓を訪問してその人を偲び、歴史に思いを馳せることが文化として定着した。この一連の行為は「掃苔」と呼ばれ、趣味やライフワークとして掃苔を行う人々である「掃苔家」が、近代を経て現代にも存在している。掃苔の字義は墓石に生じた苔を掃(はら)うことだが、転じて墓参りを意味するようになり、お盆前の墓参を指す秋の季語にもなった。」とあります。勉強になりました。ちなみに、掃苔家として著名な人物ないし掃苔趣味での業績がある人物として森鴎外の名が挙げられています。
 また、主な戦国武将の供養をしたいときには、高野山の奥之院参道に行けば、最上義光やその後継の家親の五輪塔をはじめ、伊達政宗、上杉謙信、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉などの墓や供養塔を一気にお参りできます。それぞれのお墓について墓守している方がきっといるとは思うのですが、やはり苔むしているお墓もあります。著名な武将の墓には、途中で案内板が出されていたりしますが、約20万基もの墓が並んでいるそうで、あらかじめどこにあるかを確認してから行くことをお勧めします。なお、著名企業のお墓というのも数多くあり、その形には驚くものもあります。
 外国の墓めぐりでは、歴史上の著名人の墓のデータベースや著名人の墓を見つけるアプリが公開されています。確かに海外旅行に行くと、有名音楽家や画家の墓を訪ねたりすることも少なくなく、教会では床に埋められた墓を案内される場合もあります。このあたりは、あの地球の歩き方シリーズで「世界のすごい墓」というのが昨年出版されていますのでそちらもご参照を。また、「一般社団法人全国優良石材店の会」のホームページには「有名人のお墓」というサイトがあり、なぜか外国のお墓だけの詳しい説明が写真とともに掲載されています。これを見ると、ココ・シャネルの墓はただただ白い花が一面に並ぶ華憐な墓地で、対照的にゴッホの墓は弟テオに墓に寄り添うように緑に囲まれ並んでいます。
 さて、お墓参りで思い出すのが、「私のぉ〜、お墓のま〜えで」というあの歌ですが、これは作者不詳の英語の詩「A Thousand Winds」をもとに、芥川賞作家の新井満さんが翻訳、作曲、歌唱(売れたのは秋川雅史歌唱)したものです。しかし彼は、実は墓マイラーでして、「お墓参りは楽しい」という本まで執筆されています。
 余談ですが、新井満は1976年に、森敦の芥川賞受賞作「月山」を歌詞にして曲をつけ、「組曲月山」というレコードを出しています。山形では以前、この中の曲がテレビCMの合間に流れていました。物語は、放浪者の「私」が訪ねた湯殿山注連寺で、寺男のじさまと二人きりで厳冬期を暮らすというものですが、なかなか不気味な話も多く、しかも方言が活字になると、かなりがちゃがちゃした印象です。これが「組曲月山」では、なんとも美しくも楽しい曲になっています。実はこのLPレコードを持っていて、これはこれで気分がでるのですが、ネットでも手軽に聴くことができます。是非ご一聴を。
 最後にお墓参りのマナーを。宗派によって線香の本数が違う、腐るような供物は持ち帰る、墓が傷むので酒はぶっかけない、とのことです。水を掛けそのまま帰る、たわしなどの固いものでこする、ということはやってはいけないらしいのですが、私の先祖の墓があるお寺には、たわしがバケツ満杯で置いてあります。


「時は今 天が下しる 五月哉」について雑感

 連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。

 さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
 以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)

  賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉     光秀
2  水上まさる庭の池水       行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

 島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
 時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。

 信長を討つ決意を秘めたとする解釈は、人々に疑われることもなかった。(あくまで俗説であるが、それを察知した紹巴は「せきとめて」と、中止させようとの意を含ませた句を詠じたとされることもある)江戸期の人々も浄瑠璃や歌舞伎の中などで、そのような解釈を常識として来た。四世鶴屋南北の「時今也桔梗旗挙(ときはいまなりききょうのはたあげ)」一八四八年作は外題でこの発句を活している。これ以前に近松半二等の「三日太平記(みっかたいへいき)」一七六七年作の中で光秀の口にするせりふにこの句が採り上げられている。その場面は、以下の通りである。

 尾田春永(「小田」とも、以下役名)は天下平定を目指し、各方面へ武将を遣し、当人は中国の真柴久吉を助けようと、本能寺に宿泊していた。そこに勘気を蒙って遠ざけられていた武智光秀が、あえて目通りを願い出る。
 光秀は、春永に武人の鑑となってほしいとして、劉備玄徳を例に挙げ直諌する。怒った春永の命で、森蘭丸が、鉄扇で光秀を打ち、要で額を割る。(眉間割り)
 屈辱に耐えていた光秀は「最早これまで」と、謀反を決意しこの発句を呟く。時ならぬ陣太鼓等が打ち鳴らされ人々は狼唄する。小柄を抜いた光秀は「忠孝」と書かれた額を、それで打ち落し、春永に張本が自分であることを告げる。
 
 近世までの人々は、この発句の重要性・意図を、例えば以上のように理解していた。すなわち、謀反の意を読みとっていた。
 近代に至り、この理解に疑義が、桑田忠親氏を中心として、さしはさまれる。論点は二つある。その一は、本文の問題である。底本等は「連歌集」島津氏校注の解題にあるので参照してほしいが、この懐紙の原本はなく、写本の中で「天が下しる」を「天が下なる」とするものもある。後者ならば「世の中すべて五月雨の今にふさわしい光景」との従来の作法通りの自然詠となる。先述した紹巴に関する物語の中には、後に秀吉の追求を怖れた紹巴が書き改めたとするものまである。
 その二は、仮に、光秀が決意を秘めたこの発句を詠じた時に、一座の者などの中に( 連衆は光秀を含め九名、五名は連歌師。光秀の縁者は行澄(ゆきずみ)・光慶(みつよし)の二名)、光秀の意図を察して、信長方に通報するような者がいなかったであろうか、光秀は安心して心情を吐露出来たかという点である。
 言われてみればその可能性もあって、通説を否定する考えの柱となっている。

 以上のことは、光秀という謎に満ちた人物の魅力もあってか、多くの研究書・文芸書に採り上げられている。興味のある方は、サイト等で、詳細を調べてほしい。
 
 今年でNHK大河ドラマは六十作目。この稿を記している時点で様々の困難に直面しているようである。筆者としては、第三作目「太閤記」の佐藤慶が良かったように、個人的には思っている。               

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��27」より

《2020年12月の利用者アンケート集計結果》

アンケートの回答なし
※新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、入館者情報カードへの記入を優先して依頼しているため。

常設展示  (12/1 〜 12/27)
開館日数・・・・・・・・・・・・・24日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・868人
回答者数・・・・・・・・・・・・・0人



〇 初市のはなし
 初市は十日町〜本町〜七日町〜旅籠町の国道112号線沿で開催されますが、山形市を知る方には、十日町と七日町とに挟まれている「本町」は市日町とは関係ないのかと思われる方もいると思います。実は本町という町名は戦後昭和のものであり、それまでは「横町」という地名でした。
 横町は、最上義光の山形城拡張時に十日町とともに移転した町で、特に市は立たない町でしたが、「仙臺越後庄内より生魚干魚塩魚」を売買する魚屋で繁盛した町で、「海はなけれども8月より5月迄は海辺のごとし」と「山形風流松木枕」にあります。
 また、紅花の最盛期である1700年代前半は、この十日町から七日町にかけて紅花市が立ち、紅花の摘花の時期は「1月の儲けが1年中の暮らし」となったとそうで、「京都より紅花仲買下りて、仲買商人乃有様狂人の如く、何れ餘国になき珍敷商の模様なり」と「山形風流松木枕」にあります。
 一方その頃の山形城は、享保4年(1719年)の堀田氏時代の城下絵図によると、郊外の武家屋敷地はほとんど姿を消し、三の丸内は空き屋敷が目立つようになりました。明和元年(1764年)からの4年間は幕府領となり、二ノ丸・三の丸の武家屋敷地は大半が取り払われ、城下住民に請け負わせて田畑を開かせたとあります。その明和年間の地図と思われる「羽州最上御城内乃図」も今回の企画展で展示していま す。
 山形城の絵図からもその変遷が見て取れるのですが、この流れはもしかして「民間活用、小さな政府」ということなのかしらん。

〇 堺石(さかいいし)のはなし
 かつて土地関係の仕事を担当していたことがあったのですが、この十日町とは別の場所の堺石で、ちょっと戸惑ったことがありました。土地の現地調査に行くとまず、その土地の境界を確認するのですが、ある畑地で、境界を地権者の方に確認すると、そこの石が境界だと先代から聞いている、と言われたのですが、見るとそれは大きめの漬物石程度で、その気になればいくらでも動かせそうなものでした。それもさることながら問題は、この石のどこの部分が境界になるのか、中心なのか縁なのか、とりようによっては30センチぐらいはズレてしまいます。
 また、田んぼの境界も、土地改良をした場所でも、いつのまにか畦畔が移動していることも珍しくなく、まずは1メートルくらいの深さで境界付近を掘ります。すると野球のバットを一回り大きくしたような木杭があらわれてきます。松の木であれば50年くらいは腐らずにあります。それを掘り起こして新たな杭を設置したりするのですが、当然、数センチ単位ズレます。まあ、登記面積としては宅地および10平方メートル以下の土地以外は、小数点以下を切り捨てることになっているのですが。
 宅地の場合は、やはりシビアな場合があります。よくあるのが、道路との境界がわからない、ブロック塀の内、外、真ん中のどこが境界かわからない、といったもの。意外とトラブルになるのが、本家から土地を分けてもらった分家同士が隣接していて、その境界があいまいな場合、仲がいいとその場で決まるのですが、そうでないこともままあります。これが山林となると、立木が堺になっていることがあり、相続をうけた山林などでは、その木がどれかわからない、ということもあります。
 絵図の場合、まずは位置関係がわかれば、距離的な精度は適当でもいいのですが、年貢がからむとなるとそうはいきません。戦国大名の時代になると、独自の領地高権(「切り取り次第」というアレです)をもつこととなり検地がなされました。織田信長が行った検地では、奉行人であった木下藤吉郎も実務を担当しており、その後、太閤検地、つまり秀吉による検地がなされます。
 当初は,家臣に自分の所領の明細を書き上げさせる指出(さしだし)検地が多かったのですが、1594年に基準や方法がほぼ確定し、慶長〜元和(1596年−1624年)に全国規模の検地が実施されました。
 検地には間竿(けんざお)や間縄(けんなわ)が用いられました。間縄とは1間ごとに印を付けた縄ですが、今も使われる言葉に「縄伸び」とか「縄縮み」というのがあります。
 「縄伸び」というのは、検地の際、年貢の負担を軽減するため、実際よりも長めに目盛りをつけた縄で、面積を小さめに測量したことに由来します。一方、縄縮みは、田畑などの小作地の場合、地主が多少地租を多く納めても、小作料をそれ以上に納めさせたい場合などに面積を実際より大きくしたものです。今でも、固定資産税のことを考えれば縄延びしたほうがよく、土地を売ることを考えれば縄縮みした方がいいのでしょうが、近年は課税も売買も地籍調査を含め実測でなされることが多いです。
 なにはさておき、実測にいたる前提は境界の確認です。境界がわからないことには、長さを測ることができません。その境界沿いには縄を張ることもあり、つまり「縄張り」ですが、「俺の縄張りを荒らしやがって」と言うその筋の方を引き合いに出すまでもなく、その重要性はご理解いただけるかと思います。
 この境界問題というのは、ロシアとの境界、中国との境界、韓国との境界をはじめ、繁華街や隣家レベル、場合によっては夫婦間や職場の机レベルでも抗争の原因となることがあります。たかが境界、されど境界、とでも言うべきでしょうか。まずは、世界人類が平和でありますように。