最上義光歴史館

最上義光歴史館
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〇 アイヌ語由来の地名の話 
 真室川町も鮭川村も、実は明治の大合併(明治22年)以後に現れた町村名です。合併時にそこを流れる川の名称をそのまま町村名としたようです。そこで川の名称の由来ですが、鮭が遡上してくる川を「鮭川」と言うのはわかりやすいのですが、「真室川」となると見当がつきません。一説では付近の「神室(カムロ)山」がなまって「マムロ」になったとにことですが、カ行がマ行になるというのはどうかと。
 もうひとつはアイヌ語源説です。特に東北の場合、由来がわからず当て字のような地名は、アイヌ語に因ってみよと。困った時のアイヌ語源説ということで、ちなみに「マムロ」というのはマ(泳ぐ→船着き場)とムロ(村)からなりたつとの説を見つけました。しかし、少々調べたのですが、ムロ(村)というアイヌ語は見当たらず、単語を見比べているうち、別の説が浮かびました。あくまでも素人考えなのですが、モム(流れる)という語とオロ(所)という語で、モムオロ(流れる所)ではないかと。ただ、川沿いの場所を「流れる所」と言うには、「鮭川」以上にそのままなので、どうしたものかなぁ、という感じではありますが。
 ついでにもうひとつ。鮭川が流れ込む最上川ですが、「最上川舟歌」という民謡業界では有名な民謡があります。その冒頭は「ヨーイサノマガショ エンヤコラマカセ」と、作業歌としてごく当たり前の掛け声で始まるのですが、続く「エーエンヤーエー、ヤーエー、エーエンヤーエー、 エード」という部分(なんか区切り方がおかしいのですが)が、イスラエルの神聖なる神の名前「ヤーエー」が繰り返し連呼されているという「最上川舟歌=ヘブライ語説」がネットで流されています。「私と神、我が神、永久の神」という意味なのだとか。
 ちなみにこの曲のカラオケは、結構な難易度です。このヘブライ語と言われる囃子詞(はやしことば)の後の歌い出し部分が、尺八だけとの絡みとなって、どう音をとっていいのかわからないのです。音が合せられないという点では、クィーンの「ウィ・ウィル・ロックユー」のカラオケに通じるものがあります。もちろん個人的な感想ですが。
 実は「最上川舟唄」には、日本語以外にも英語版、韓国語版、中国語版の他、フランス語版があり、最上川船下りの「最上峡芭蕉ライン観光」の船内では、海外のお客さんなどからのリクエストにあわせ披露しているそうです。
 フランス語版を作った時は、船頭全員が毎朝の発声練習の際に、フランス語で舟唄を歌っていたそうで、例えば歌詞中の「股(まっかん)大根の塩汁(しょっつる)煮」は、「ルポトフ、サレ、ドゥ、ラディ、デフォルメ」となっているそうです。そうか、二股大根はドゥ・ラディ・デフォルメと言うのかと。さて、パリ・オリンピックにお出かけされている皆様、現地でなにか一節という機会がありましたら、このフランス語版「最上川舟唄」でもいかがかしらん。それにしても、あの雨の中の開会式、本当にトレビアンだったけど、長かったですなぁ。

〇 鮭図の話
 東京芸大美術館にある高橋由一の「鮭」は明治10年頃に作成されたもので、30年に芸大が買い入れ、所蔵したものです。山形美術館が所蔵する「鮭」は、昭和39年に秋田県湯沢市で発見され、由一が滞在していた山形県北村山郡楯岡町(現・村山市)の旅館「伊勢屋」の帳場に掲げられていたことから「伊勢屋の鮭」と呼ばれていました。笠間日動美術館が所蔵する「鮭」は、ヤンマーディーゼル創業者が所有しているとされるも幻となっていたものが、平成12年に日動美術財団へ寄贈されたものです。
 製作年もこの順とみられているのですが、ちょっとミステリアス(?)なことに、年を経るごとに、鮭の身が削がれています。もし今後、新たな「鮭」が発見されることがあれば、裏側の身もなくなり骨が露わになっているかもしれません。なお、神奈川県立博物館には、頭ではなく尾から吊り下がる「鮭」図があります。
 また、「鮭」の類型作品として、山形県酒田市の画家で写真師である池田亀太郎が描いた「川鱒図」というのがあります。これも3点の絵が残されていて、うち2点は酒田市美術館に収蔵されています。高橋由一は明治17年10月5日から14日までの間、酒田に滞在しました。この時、亀太郎は22歳。由一は「絵描きになりたいなら、先ず写真術を習いなさい」と助言したそうです。
 亀太郎は東京に出て、写真術とクリーニングの技術を習得しました。洋画を学ぶために写真術を習得したのですが、それが本業となり、酒田港付近で池田写真館を開業しました。亀太郎は、撮影した写真を駆使して、主に酒田の名士の肖像画を描いたそうで、写真を商売敵とせず、むしろ相乗効果というか、うまく使いこなしていたようです。

〇 写実主義と印象派の話
 芸美の「鮭図」が描かれたのは1877年前後ですが、あのモネの「印象・日の出」は1873年に作成されています。日本では油彩による写実に傾倒している時に、かの地ではすでに印象派が勃興していたわけです。
 もともと武士であった高橋由一は、剣術修行のかたわら、狩野派の絵師に学んでおり、後に「蕃書調所」という江戸幕府によって設立された、西洋の書籍を解読し海外事情を調査する組織で学びました。その画学部門では西洋の文物を記録する人材が求められ、蒸気機関や近代的建築、武器などを分析し、戦争時には陣地、地形などをリアルにスケッチし製図していたとのこと。絵の得意な若者を集め西洋の遠近法に基づいた描写法などを学ばせたそうです。殖産興業のための近代化技術の一つとして、西洋絵画が学ばれていたのでした。
 一方、印象派は、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが当時求めていた新古典主義的な技法やテーマ、出身や経歴というものに対抗したものです。印象派はまた、写実主義やバルビゾン派の延長でもあるのですが、由一の写実と決定的に違うのは、一瞬の色彩を描いていることです。時間の移り変り変りとともに色彩も変化するということを表現したわけです。モネに言わせると「すべては千変万化する、石でさえも」ということで、一方、由一は「画ハ物形ヲ写スノミナラズ併セテ物意ヲ写得スルガ故ニ、人ヲシテ感動セシメルニ足ル」と書き残していて、さて、ここで言う「物意」とは何か、という問題にはなりますが、これが「印象」と真逆のものなのか、はたまた同根のものなのか、難しいところです。
 ではなぜ「印象」と称するのか。「印象・日の出」という画題からきているのは間違いないのですが、最初の印象、見たままの新鮮さを大切にして描こうとしたのがこの印象派です。一瞬の間にあれこれの詳細まで見ることはできない。詳細を覚知するためには、経験や想像などが必要となり、脳が追いついたころには、最初の印象は消えてしまう。細部を丁寧に描写するよりも、色彩や光の印象をそのまま伝えようとしたのです。その瞬時性こそが印象派のキモなのです。
 そしてこの時代、画家は写真にも影響されました。写実派の画家は当時の写真技術では写しきれないものを描画し、印象派の画家は写真と競合しない表現を求めました。例えば当時、写真はモノクロのみで、色の表現ができませんでした。高橋由一は「油絵は写真に勝る」と言い切り、よりリアルな絵を描き、印象派の画家たちはこれまでにない色彩豊かな絵を描きました。まとめると印象派の画家たちは、アカデミーの伝統に対抗し、同時に写真にも対抗しながら、感性による絵を描こうとしたのです。
 写真界にもその後、「写実性」を追求する写真家と「瞬時性」を尊重する写真家が現れます。そうです、土門拳(1909〜1990)とアンリ・カルティエ=ブレッソン(1908〜2004)です。まさしく同時代の写真家で、土門拳―は山形県酒田の出身、ブレッソンはフランスの写真家です。正確には「絶対非演出の絶対スナップ」と「決定的瞬間」との日仏対決ということですが、ブレッソンの「決定的瞬間」について土門は、「本質を写し取ったものではない」と批判的に論じています。しかし「決定的瞬間」はまた「絶対非演出」でもあるわけで、すると「本質」とはなにかという「そもそも論」になってしまいます。先ほどの「物意」とは何かというのも同じです。
 そこで「そもそも」ですが、写真の場合は「写実性」も「瞬時性」も両方備えているわけで、つまりは写すまでは両方ともアリという、量子力学の重ね合わせの原理のような話になってしまうのではないかと。ついでに、返す刀で言及すれば、「写実性」と「瞬時性」、つまり「微細な観察」と「瞬間の印象」のどちらが「物意」を捉えることができるかというと、そうです、やはり量子力学で言う「位置」と「速度」の関係ではないかと。「位置」が決まれば「速度」が決まらず、「速度」が決まれば「位置」が決まらない、というあれです。まあ、わかるような、わからないような例え話ではありますが。
 とにかくその、「写実性」と「瞬時性」の論争というのは、同じリングの戦いではあっても猪木とアリの戦いというか(昭和の話ですみません)、いやその、ブレッソンにも土門にもそら恐ろしいくらいの論客がいて、モネにも高橋由一にも想像を絶するような論が交わされている中、にわか仕込みの私見を述べたかったわけではなく、ただ、パリ・オリンピックということで、「山形とフランス」つながりの話がしたかっただけです。まして、量子力学に首をつっこみたかったわけでもありません。

〇 写実技法の話
 さてさて、絵画の技法書の中で印象深いのが、松本キミ子著「三原色の絵の具箱」(ほるぷ出版)という3冊組の本です。絵が描けない子どもに接する中で考案した指導法で、三原色と白だけで色を作り、描きはじめの一点を決め、その部分からとなり、となりへと描きすすめていくものです。構図を決めてから輪郭を描き、色を塗るという描き方と、まったく逆で、画用紙が余れば切り、足りなければ貼り足して、最後に構図を決めます。例題も「もやし」とか「イカ」とか、かなり意表をつきます。
 実は三原色で色をつくろうとしても濁った色ばかりになり、下描きをせず、直接、絵の具で描くというのもかなり勇気がいるのですが、ここで注目すべきは、絵の大きさに画用紙を合わせていくということ。初心者が戸惑うのは、画用紙の大きさに絵を納めることなのだそうです。確かに画用紙の大きさに合せようとして、対象物のバランスがおかしくなったりします。例えば「はいだ画伯」こと、はいだしょうこさん。多分、これに悩んでいたのではないかと。いや、もしかして、枠などは全く意識していないのかもしれませんが。その画力というか破壊力は、皆が認めるところです。もし画伯の絵が出品されるのなら、個人的に購入を希望します。
 また、写実画であれば、実物大に描くことも有効です。写実の基本でもあるのではないかと。例えば鮭図は、実寸大に合せた縦長の140.0×46.5cm。モネにも「ラ・ジャポネーズ」という、ほぼ実物大で描いている人物画があります。モネの妻カミーユが日本の着物を着た姿を描いたもので、231.5x142cmの中に全身が描かれています。特に着物の柄などは、原寸大で描けば間違いないかと。
 さて、絵の評価というと、印象派以前では、「絵なのに実物のようだ」というのがその評価、少なくても写実画への評価でしたが、今や、そこに費やした時間や手間に驚嘆し、表現の仕方に感嘆するものとなっているわけで、絵がどれだけリアルかというのとは別の評価がなされている感じです。現代においては、単に立体を平面に写し取るだけであるなら、描画技術のみに頼る必要はなく、リアルを追求するのであれば、それはすなわち、どれだけ「描かれた絵」でなくなるかを求めることにもなり・・・おっ、なんか小面倒くさい美術評論のようになってしまっているぞ。
 とにかく、高橋由一の目指す写実は徹底していて、その絵にはサインも制作年もなく、それはすなわち、画面のサインなどは本物らしさを減殺してしまうからだそうです。写実画の究極型はやはり「描かれた絵」でなくすることのようですが、なんか絵画の存在価値と矛盾しているような。ちなみに、スーパーリアリズムで有名な上田薫さんの作品のサインは、ダイモテープに似せたもので、作品が世に知られた当時、かなりオシャレな表現でした。あのダイモテープには、一種の憧れ感すらあるのですが、これってやっぱり昭和の感覚なんですかね。


ご無沙汰しておりましたひねもす記、久々の更新です。
いつの間にか梅雨が開けたと思っていたら連日の猛暑、いよいよ夏ですね。


さて歴史館では7月7日(水)より新たな展示が始まりました。

「武士好みのデザイン」〜吉祥の表現と動物・植物の意匠〜
柏倉惣右衛門コレクション

中山町の旧家・柏倉惣右衛門家から山形市に寄贈された甲冑・刀装具
約400点のうち、吉祥の図柄や動物・植物の意匠を選び展示しています。
会期は11月7日(水)までの予定となっております。

植物の意匠の中から1点ご紹介します。

鐔 垣透し朝顔図   夏らしい意匠を選んでみました。

会期中はスタッフ好みのデザインをこちらでご紹介していきます。
皆さまも歴史館でお好みのデザインを見つけてみてください。

《2021年6月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和3年6月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (6/1 〜 6/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・959名
回答者数・・・・・・・・・・・・・40人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・3%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・3%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・15%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・3%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・5%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・40%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・23%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・10%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・70%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・23%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・8%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・55%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・5%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・50%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・45%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・3%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ魁�

〜利用者の声〜

東京都 男性/20代
謀将としての面を知りたかった。色々と見れたことは満足。有能な部下も知れてよかった。記念品とか買いたかった(キーホルダーとか)。

山形市 女性/8歳
こまひめのことを、もう少し知りたいです。クイズが楽しかったです。

男性/30代
ただ情報をならべるのではなく、興味をもたせる仕掛けがあってよかったです。

宮城県仙台市 女性
無料とはありがたいです。本丸を復元されたら、さらに展示を増やしてもいいですね。東北の武将、特に政宗とのエピソードを増やしていただくと、東北人は皆うれしいと思います。

山形市 男性/30代
特にないです。

山形市 男性/10代
学校の社会科見学で最上義光歴史館を知りました。

山形市 男性/8歳
楽しかった。

山形県・河北町 男性/50代
大変参考になりました。記念にグッズ類を多く販売していただけるとよいと思います。最上義光の像のレプリカ等。"

大阪府摂津市 男性/40代
大変勉強になりました。義光最高!

山梨県上野原市 男性/50代
関ヶ原の際の長谷堂の戦いに興味があったので色々資料があり面白かったです。

山形市 男性/50代
最上義光と最上家について、もう少し深く掘り下げてほしい。山形大学との連携を深めてほしい。収蔵品等、もの足りなさを感じる。共同で研究し、歴史館の維持やガイドボランティアなど学生から募り、より充実した展示を期待したい。

東京都台東区 男性/40代
山形の誇る偉大な人物であることが、とても良くわかりました。

宮城県仙台市 男性/50代
資料映像があれば、より有難いと思います。

埼玉県桶川市 男性/30代
ケース内展示の説明書きが遠く、字が読めない方もいると思います。

宮城県仙台市 女性/30代
子供達に詳しく教えて下さり、ありがとうございました。

宮城県仙台市 男性/10代
最上義光、義光との関連人物のグッズを売ってほしい。

山形県・中山町 女性/20代
また来年も刀の展示があると嬉しいです。山形の刀の展示の中で、一番刀を見やすく展示していただいているので毎年きています。

宮城県加美町 男性/50代
加美町(旧中新田町)との縁を初めて知り、大変よかったです。

新潟県新潟市 男性/30代
最上義光を大河ドラマにしたい。

神奈川県川崎市 男性/10代
ボランティアの方に詳しく解説していただいて、よく分かりました。よかったです。

山形県寒河江市 女性/30 代
このような展示を気軽に見られることは、とても貴重なことだと感じました。館内もきれいで、スタッフの方も親切でした。"

東京都葛飾区 男性/30 代
グッズを売ってたら良かったです。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。




■「おくの細道」出羽三山の話
 以下、「おくの細道」の月山の鍛冶小屋の記述部分です。山形県には旧暦5月17日(新暦7月3日)に尾花沢に入り、6月27日(新暦8月12日)に温海を出ます。なので、文頭の「八日」は6月8日(新暦7月24日)のことです。また文中に「彼竜泉に剣を淬(にら)ぐとかや。干将・莫耶の昔をしたふ。」とありますがこれは、「かの中国の龍泉では(その霊水で)剣を鍛えた。(刀工夫婦の)干将・莫耶の苦労をしのぶ」というものです。
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 八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して剣を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に剣を淬とかや。干将・莫耶の昔をしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。
 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。
 行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

涼しさや ほの三か月の 羽黒山
雲の峰 いくつ崩れて 月の山
語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな
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 芭蕉は出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山) の三山を巡礼した後、その順に句を書き留めています。それら句の芭蕉の真筆の短冊は山形美術館に所蔵されていますが、山寺芭蕉記念館ではその複製を展示しています。
 羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)とされ、出羽三山への参拝は、江戸時代に現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」として広がりました。
 この三山を合祀する出羽三山神社の御朱印は、見開き2頁にいただく迫力あるもので、神社まで2,446段の石段を上るだけのありがたみがあります。とは言うものの、実は神社まで直接、路線バスで行けます。逆に神社からスタートして石段を下ることもできますが、体力的には楽でも、膝にきます。

■湯殿山の話
 この芭蕉の詠んだ出羽三山の句に続き、弟子の曾良も並べてられています。
「湯殿山 銭ふむ道の 泪かな」〜湯殿山の山道には、賽銭がいっぱい落ちていて、それを踏んで参拝することに涙が流れるほど感銘を受けた〜というもので、湯殿山では、地に落ちたものは拾うことを法で禁じていることによるものです。
 また、中腹にある湯殿山神社は「語るなかれ」「聞くなかれ」といわれ、今も本宮は撮影禁止です。「おくの細道」にも「惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。」とあります。しかしながら、今やもうネット上には、御神体の写真までアップされています。
 湯殿山という名のとおり、お湯があふれ出る山が御神体で、参拝場内はそのあふれるお湯の「源泉かけ流し」状態で、夏はお湯が熱いくらいのところを、御神体まで裸足で歩きです。参拝場の出口には立派な足湯施設があるのですが、温泉マニアの方には、手前の大鳥居近くにある湯殿山参籠所の「御神湯」というものが知られています。6畳ほどの部屋に青森ヒバの浴槽があり、正面の壁に神棚があります。天照大神の妹神と言われる丹生都日女神(にぶつひめのかみ) が祀られ、神棚に手を合わせ一礼してから入湯します。
 余談ですが、お湯の神様と言えば、月山の登拝道に「今神(いまがみ)温泉」という湯治場があります。1000年以上前から難病で苦しむ人々が湯治のため長期間滞在した温泉ですが、現在は休業中です。山形県戸沢村の山奥の秘湯で、生活道から4キロほど山道を進んだ場所にあり、6月から9月末までの営業に合わせて仮設の橋を架け、かつては片道3時間近くかけて歩いてきたそうです。それでも効能、いや効験あらたかで、訪れる人の後が断たなかったようです。
 浴場には祭壇が備えられており、混浴で各自が白装束をまとい、念仏を唱え祝詞をあげながら入浴します。浴室の壁面にはびっしりと祈願の書付が懸垂してあり、ビジュアルだけでも圧倒されます。ぬる湯で、1回の入浴は3時間ほど、最初は1日5時間ほど入浴。3度の食事や休憩をはさみながら入浴し、だんだんと8〜10時間も湯につかり、合わせて150時間ほどになるまで滞在するとのことで、日帰り入浴はおろか1週間でもお断りしたそうです。飲泉の効果もあり、特に胃腸病や皮膚病、リウマチなどに効くとされました。このまま「伝説の湯」とならないことを祈るばかりです。

■アブラゼミの話
 「蝉の声論争」、つまり、アブラゼミとする歌人斎藤茂吉とニイニイゼミとするドイツ文学者小宮豊隆との論争については、芭蕉が訪れた時期はアブラゼミでは早い、という理由でニイニイゼミに軍配があげられたようです。しかしながら学芸員Aさんは、この時期ヒグラシの声も聞こえた年があるとして、アブラゼミの可能性はあると指摘しています。一般的に蝉の鳴き始める順は、ニイニイゼミ→アブラゼミ→ミンミンゼミ→ヒグラシ→クマゼミ→ツクツクボウシ→エゾゼミらしいです。
 蝉の声論争にあえて参戦するなら、「岩にしみ入る」のは個人的に、ビジュアル的には透明な羽をもつミンミンゼミ、サウンド的にはカナカナゼミことヒグラシであればいいなとは思っています。しかしながら、山形の皮膚感覚ではアブラゼミで、とにかく身近な蝉はアブラゼミで、茂吉の感性は地元ならではとも思います。
 ところで、ミンミンとかツクツクボウシとか、他の蝉は音声(羽音)なのに、なぜこれは「アブラ」なのか。もしかしてそれを食べたら、なんか油ぽかったからなのでしょうか。なんとあの「クック・パッ〇」でも蝉料理が紹介されてはいるのですが、これがまたすごい料理バリエーションとなっています。
 実はその鳴き声が、油を熱した時の「ジリジリ」という音に似ていることでアブラゼミと名づけられたとのこと。ならば「ジリジリゼミ」でもよかったのではと。でもジリジリゼミでないのはきっと、この蝉が鳴く時期の油を熱したような暑さと、このアブラゼミが重なってしまったのでしょう。ちなみに山形の夏は意外に暑く、暑すぎると蝉は鳴き止み、木から落ちることもあります。
もっとも、山寺はそれなりに涼しくもあり、よろしければこの夏、蝉の声を聴きに出かけられてみてはいかがでしょうか。山形駅から山寺駅まで、電車で20分程度です。山寺芭蕉記念館の「妖怪」展もあわせていかがでしょうか。もしかしたら、学芸員Aさんとも遭遇できるかもしれません。

■ことわざ・名言の話
 学芸員Aさんは、「月山刀」でも「キヨシロー」でも、どうも「食わず嫌い」というか、「馬を水辺につれていけても、水を飲ませることはできない」という感じというか。結構なペースで居酒屋などに出没するのに、日本酒は「山形政宗」という天童の酒しか飲まず、鶏肉以外の獣肉は食べないという、どこの宗教にもないようなルールで身を律しています。まあ、お互い還暦を過ぎているため無理強いはしないのですが、たまには「清濁併せ呑む」ようなことも期待したいわけで。
 さて、「好きこそものの上手なれ」と言うことわざがあります。いまや山寺芭蕉記念館の看板企画となっている妖怪展などは、まさしくこれで成し遂げられたのですが、歴史でも文学でも刀剣でも妖怪でも、好きな人にはかないません。好きなことには熱心になり、自然に工夫し勉強するようになるので、上達も非常に早くなるわけで、これがさらに論語では、「子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者」(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)とあります。「好き」の上には「楽しい」がくるんですね。やはり大谷さんとか藤井さんとか、そんな感じがします。確か、昨年の夏の高校野球大会で優勝した某高校野球部の合言葉も「Enjoy Baseball」でした。


■一遍伝説の話
 一遍上人の有名な言葉に「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え」というものがあります。弘安5年(1282年)3月、一遍と時衆の一行は鎌倉に入ろうとしたのですが武士団に制止され、「鎌倉の外ならおとがめはない」と言われ、やってきたのが片瀬の地蔵堂です。武士、庶民、高僧らが続々と片瀬に集まり、多くの人々が歌い踊ったとき、周囲に紫の雲がたなびき、天から花が舞い落ちてきました。一人が不思議に思い一遍上人に尋ねたところ、「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍知らず」と応えます。花も紫雲も自分が何かしたものではないと。続けて「花がいろ月がひかりとながむれば こころはものをおもわざりけり」と詠んだそうです。ただただ、目の前の事象を受け止めればよいと。
 地蔵堂には4カ月も滞在し、踊り念仏をしています。この時一遍は44歳。「南無阿弥陀佛」と踊りまくったのです。一遍は平安時代の高僧「空也上人」に倣い、人々が集まる場所に簡易の舞台を設け、同行者とともに輪になって歌い踊りました。踊念仏に参加すれば極楽往生できると説いたため、周囲の人々が大挙して熱狂的に踊り、舞台の床板が抜けたという記録もあるといいます。
 弘安7年(1284)に京都に入ります。「紙本著色遊行上人絵」巻第三には、四条大橋を渡り念仏札を配り、市場京極の釈迦堂に入り説法をする場面が描かれています。一遍の行くところでは必ず「御賦算」、つまりお札くばりをしました。お札には「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷り込まれ、一枚ずつ手ずから配ったそうです。60万人にお札を配ることを願ったものですが、25万1千余人配られました。
 京都では「勢至菩薩」の生まれ変わりと噂され、藤原基長は夢に一遍が現れたことを喜び手紙を送ります。しかし一遍は、「それで仏を信じる心が生まれれば良いことだ」と言っただけでした。踊りは熱いのに、応対はクールです。
 正応2年(1289)8月に兵庫観音堂で遊行を終えます。死を覚悟した一遍は、「我が化導は一期ばかり(私が指導を行うのは私が生きている間だけ)」と言い、持っていた少しの経を書写山圓教寺の僧に送った以外は焼き捨て、亡くなりました。最後に「我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」と言い残したそうです。終活の手本のようでもあります。

■狩野派について
 狩野派とは、室町から江戸にかけて続いた流派です。血縁関係でつながった絵師の集団で、幕府の仕事を担ってきました。足利将軍家の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その嫡男・狩野元信、元信の孫・狩野永徳、さらにその孫の狩野探幽らが有名です。特に桃山から江戸初期の時代に建築ブームが始まると、集団による分業制によって障壁画など大きな作品を手掛けました。襖障子や屏風など大きく貴重なものも多く、博物館スタッフの間では、狩野派ものの展示となると「ここに狩野は、可能かのぅ」といった駄洒落が飛び交うらしいです。
 狩野永徳は、織田信長、豊臣秀吉といった権力者の画用を務め、安土城や大坂城の障壁画を多く描きましたが、これらは建物とともに消滅しています。現存するものとしては、国宝「唐獅子図屏風」(宮内庁) 、国宝「檜図屏風」(東京国立博物館)、国宝「洛中洛外図屏風」(上杉博物館)などがあります。信長や秀吉の生前には、他の戦国武将が狩野永徳やその後継者・長男の光信に製作を依頼することができなかったため、最上義光は永徳の弟である狩野宗秀に「紙本著色遊行上人絵」の模写を依頼したと思われます。
 狩野宗秀の現存する作品は少なく、国宝もありませんが、教科書やテレビでおなじみのあの「織田信長像」(重要文化財、長興寺)があります。また、「柳図屏風」(相国寺)という六曲一隻の屏風があります。これが兄・永徳の堂々とした四曲一双の「檜図屏風」とあまりにも対照的で、柳の枝は風に流される一方、その幹は風上に向かっていくような、まるでディズニーアニメにでてきそうな感じの、そして琳派をも思わせるようなシンプルな絵柄です。織田信長像もそうですが、宗秀の絵図はなんか動かしてみたくなる、そんな作風です。
 
■源五郎の話
 源五郎とは、最上義光の孫で第三代山形藩主である「最上家信」こと「最上源五郎義俊」のことです。
 元和3年(1617)3月6日、初代山形藩主の最上義光の跡を継いだ最上家親が急逝(享年35歳)しました。義光没後わずか3年、このとき源五郎は12歳でした。その2日後の3月8日、山形城下が大火に見舞われました。光明寺の記録には「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」とあります。重なる凶事に最上領内は不安に覆われ、12歳の源五郎でよいかどうか、幕府内部でも検討されましたが、家督相続は源五郎がすることを5月3日に承認しました。源五郎が、父が家康からもらい引き継いだ「家」字による「家信」を名乗るようになったのはこの頃です。
 家信は程なく江戸に出て、江戸城和田倉門付近の最上邸に滞在したようです。広島藩主福島正則の改易において、福島邸を接収するなど成果をあげる一方、元和6年9月12日の「徳川実記」には、「十二日、最上源五郎義俊(=家信)は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」とあります。
 このような主君ということで家臣は離反しはじめます。重臣たちは相互に不信感をつのらせ仲間割れします。家来の多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主とし最上家を継がせようとしました。
 ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しませんでした。のみならず、彼は家親の死について「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出ました。家親が鷹狩りの帰途の宴席でにわかに病を発し絶命したことについて、「山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」と。しかし、幕府が取り調べをしたところ、松根の言い分には根拠がないことが判明。
 義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年(1622)8月18日、ついに断を下しました。「最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。」
 こうして義光が築き上げた藩体制は崩壊しました。これほど大きな大名が改易処分となった例はほかになく、全国諸大名にとって衝撃的な事件でした。しかも最上家は、徳川家康、秀忠の二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずです。
 この年、家信は17歳。江戸の最上邸は返還させられ、元和9年8月以後「家信」の名も返し、「源五郎義俊」が呼び名となります。その栄枯盛衰について詳しくは、当館ホームページ「源五郎」で検索を。


■カリヨンの選曲の話
 当地にあるカリヨンは昭和62年 (1987年)に設置されたもので、演奏はコンピュータ制御(今となってはレトロな語句ですが)によるものです。
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 鳴動時間 ��10時 ��12時 ��13時 ��15時 ��18時
〈春季〉3月1日〜5月31日
�.蹈競爛鵐粘崛婉�(シューベルト)、�⊇佞�来た(岡野貞一)、��春(ビバルディ)、
�ぅ團▲離愁淵紳�11番(モーツアルト)、�チ畚嬋�(中田章)
〈夏季〉6月1日〜8月31日
�〔遒个�(シューベルト)、��茶摘み(文部省唱歌)、�2討詫茲�(小山作之助)、
�じ魘繕並�6番(ベートーベン)、�ド誉蘢�(弘田龍太郎)
〈秋季〉9月1日〜11月30日
�,佞襪気�(岡野貞一)、��展覧会の絵(ムソグルスキー)、
��小さい秋見つけた(中田喜直)、�のい僚�(貝沼実)、�ネ湿討云�焼け(草川信)
〈冬季〉12月1日〜2月末日
�.哀蝓璽鵝Ε好蝓璽屮�(イギリス民謡)、��楽興の時(シューベルト)、
��主よ人の望みの喜びよ(バッハ)、�せ匱蕷�(シューベルト)、�ヅ澆寮浦�(ヘイズ)
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 「展覧会の絵」からは第5曲「卵の殻をつけたひよこの踊り」とか、「四季」からは夏の第3楽章とか、ちょっとしたひねりがあってもよさそうなものですが、カリヨンでこれをやられると、やはり忙しいというかうるさくってたまらないわけで、節度というかその辺もあっての選曲なのでしょう。

■ホロヴィッツの話
 ベートーヴェンのピアノソナタは32番までありますが、そのピアノソナタ全集のCDがいつの間にか手元にも何セットか溜まっていて、全てを丁寧に聴いているわけでもないのですが、仲道さんの他、ゼルキンさんとかポリーニさん、グルダさん、ブレンデルさん、最近はイゴール・レヴィットさんという人のものを入手しました。今は安価で入手できる全集も多く、中古品などは3千円程度で買えるものもあります。
 この全曲演奏ということについては、かつてあのホロヴィッツさんが来日したときに、インタビューで次のように答えていました。(以下、「音楽の友 1986年8月号」〜ひとりの作曲家のピアノソナタ全集をレコーディングしない理由〜を引用)
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〇インタビュアー:さまざまなピアニストが、たとえばベートーヴェンのピアノソナタ全集とか、モーツァルトのピアノソナタ全集といったかたちでレコーディングしますが、ホロヴィッツさんには、そのような、いわゆる「全集」がありません。これといったお考えがあってのことでしょうか?
●ホロヴィッツ:そのような「全集」を録音することに対しては、とても反対です。というのは、いかに素晴らしい作曲家が作曲したとはいえ、なかにはそれほどよくない作品もあるからです。わたしは、やはり、いい作品だけを弾きたいと思います。わたしの家内の父(ホロヴィッツ夫人は、往年の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニのお嬢さんである)の名文句ですが、いくら天才といったって、24 時間、ずっと天才でいられるというわけではない、という言葉があります。ベートーヴェンを例にとっておはなしすれば、初期のソナタは気にいっています。しかし、晩年の、耳が聞こえなくなってからのベートーヴェンのソナタは、それほど気にいっていません。それに、こういうこともいえます。ベートー ヴェンは、32 曲のソナタを作曲するのに、ほぼ 30 年もかけました。ベートーヴェンが 30 年もかけて作曲したものを、ピアニストが、わずか 2 週間ほどで録音してしまうというのは、もともと無理だと思いますね(笑)。
〇インタビュアー:おっしゃることはとてもよくわかるのですが、ききての側から申しますと、いろいろな作品をホロヴィッツさんの演奏できいてみたい、という気持があります。
●ホロヴィッツ: それにしても、ベートーヴェンのソナタの 32 曲すべて、というのは無理ですね。ただ、モーツァルトのソナタは、どれも好きですから、「全集」の録音も考えられなくはありませんが、そんなことは 必要ないとも思います。ある、モーツァルトをとても得意にしている、したがってモーツァルトのソナタの「全集」を録音しているピアニストの演奏を、ある時、コンサートで聴きました。素晴らしい演奏だったので、後で、その人の「全集」のレコードを聴いてみました。そうしたら、なかには、これはと思うような演奏もありました。だからといって、そのピアニストがいいとか悪いとかいうことではなくて、やはり全部をひとりでこなすことに無理があったんです。
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 ということで、それはそのとおりとも思いますが、リスナーとしては、曲の良し悪しや演奏のアタリハズレを云々するという楽しみ方もあるので。また、後期のソナタ、特に30番から32番というのは人気があり、先日亡くなったポリーニさんの2012年来日時の最終日プログラムがこの3曲でした。この来日ではなんと第21番から32番までを日替わりで4回にわけ演奏しました。しかしながら、全曲録音には39年の歳月を費やしています。
 仲道郁代さんの場合、ソナタ全集のCDがベートーヴェン生誕250年記念特別企画として出されています。また、2027年が仲道さんの演奏活動40周年とベートーヴェンの没後200年とが重なる年ということで、2018年から全20回シリーズでリサイタルに挑んでいるそうです。なんかポリーニさんより戦略的です。
個人的にはグールドさんが弾いた第30番がとても好きです。ショパンのピアノソナタのような感じで、曲自体もショパンのソナタ第2番「葬送」の最終楽章よりはずっとショパンぽいです。それにしてもその楽章はなんともつかみどころがなく、ショパン自身は「行進曲のあと左手が右手とユニゾンでおしゃべりをするのだ。」と書き残しているそうですが、サティやケージがやりそうなことをすでにショパンがやってた感じです。

■神童の話
 ベートーヴェンの話のついでにモーツァルトの話も少々。
 有名人には何かしらの呼称がつけられることがあります。ベートーヴェンは「楽聖」、バッハは「音楽の父」、ヘンデルは「音楽の母」。ということで、父がいて母もいるということは、タロウもいることになりますが、音楽のタロウというと、タキレンタロウかピコタロウぐらいしか思い浮かばず、かわりに「神童」というのがおりまして。そうです、モーツァルトです。ということで、彼が神童といわれる逸話をひとつ。
 ローマのシスティーナ礼拝堂の「暗闇の朝課」という特別な礼拝では、アレグリ作曲の「ミゼレーレ」という曲が用いられます。この作品は、霊性を保つ目的で採譜を禁じられ、この特別な礼拝でのみ演奏されることを許されていました。システィーナ礼拝堂以外の場所で記譜または演奏する行為は、破門によって処罰されました。
 モーツァルトは幼い時から音楽の才能があり、父はそれをもって欧州各国をまわり商売にしていました。当時14歳であった彼がローマを訪れていた際、この楽曲を水曜礼拝で初めて耳にしました。その記憶を頼りに採譜し、金曜日に再び礼拝堂へ赴き曲を聞いて修正し、完コピしたそうです。9声で構成され、4声と5声の二重合唱の曲ですが、9声部を聞き分け譜面におこすという、やはり「神童」です。
 アレグリ作曲の「ミゼレーレ」は大変美しい曲で、今は門外不出でもなく、まして、モーツァルトのような神童による採譜も必要なく、ネットでお手軽に聴くことができます。

■山寺の焼き打ちの新説の話
 ここで突然ですが、前回、鬼門特集の日誌をアップした翌日に、当館ボランティアの方から、山寺が焼き討ちに合い不滅の法灯が消滅したのは大永元年(1521)ではなく大永4年(1524)であると、最近の郷土史研修会で聴いた、という話がありました。
 世間一般には大永元年(1521)であると知られていて、先出の当館「歴史館だより��10」に寄稿いただいた伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)の論説にも、天童市成生地区地域づくり委員会の天童頼直公の資料にも「1521年 天童頼長、成生十郎伊達郡に協力した山寺立石寺を攻め一山を焼き打ちする。」とあります。しかし先の研修会では、「干戈(かんか)」すなわち戦(いくさ)の記録があるのは大永4年(1524)であり、また伊達氏に加担したことが理由ではなく、周辺の領地争いによるもので、「大永の兵乱」と称するとの説明がなされたとのことです。
 ネット情報のコピペばかりで物を書いている私としては、一次資料として何を求めればいいのかなどわかるわけもないのですが、郷土史においても、というか、郷土史こそ年々新たな発見がなされるのだなぁと、畏敬の念をもって傍観するばかりです。