最上義光歴史館
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最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
館長裏日誌 令和6年10月17日付け
今回は、「秋の読書特大号」ということで、字数でいくと通常の約4割増しです。とは言え、ただ引用文が多いだけですので、よろしくお付き合い願います。
○ 可笑記の話
ここで少々「可笑記」からいくつかを要約してご紹介します。
〈その1〉慈悲に大小のある事
「人間だれにでも慈悲の心があるが、慈悲には大小の二つあり、小を捨てて、大を取らなければならぬ。
たとえば、冬の寒いとき、船も橋もない川に行き当って、渡りかねている旅人をみつけて、その地の領主が、家来に令して、旅人を一人ずつ背負って渡したとしよう。慈悲深い行いとして、感謝されるに違いない。しかし、これは小の慈悲である。
なぜならば旅人たちはありがたいと思うであろうが、背負って渡した家来たちは、冷えて腹を立てるに違いない。その川には橋を掛ければよいのである。橋を掛けるのが困難ならば、渡し舟を設け、渡し守りに手当を与えるがよい。そのようにすれば、川を渡りかねて困る旅人もなく、冷え凍えて腹を立てる家来を出すこともない。これが大の慈悲である。
むかし、賢君と言われた某帝は、寒夜に衣を脱ぎ、民と寒さを共にされたとのこと。帝王として民を思われる御心のほどはありがたいことだが、万民に衣服食物が行きわたって、飢えず凍えぬような正しい政治が行われるのに比べたら、劣ると言わねばならない。これも小の慈悲である。」(卷二_35)
という話ですが、慈悲があるくらいならまだいい方で、今の政(まつりごと)は成果すら出ない、言い訳程度とかやった感とか、そんなのが多いような気がします。
〈その2〉それもまたよし
「後漢の時代に、司馬徳操といぅ高徳の誉れを専らとする人があった。この人は、何を尋られても、ただ「それもまたよし」と返事するだけであった。
ある人が尋ねて、
「世間であなたのことを高徳の人として専ら評判しています」
「それもまたよし」
また、ある人が尋ねて、
「世間であなたのことを、馬鹿者と評判しています。悔しいじゃありませんか」
「それもまたよし」
というありさま。
あるとき、人がやって来て、
「私、最愛の独り息子に先立たれました」
と涙ながらに訴えると、それにも
「それもまたよし」
とだけ答えた。妻が見かねて、
「なんということですか。高徳という評判を信じて、悲しみを訴え、励ましのことばの一つも聞いて、寂しさを慰めようと、遠くから尋ねていらっしゃったというのに、お子さんが亡くなったと聞いて、それもまたよし、なんて言う人がありますか」
と、声を荒らげると、
「それもまたよし」
と答えた、とのことである。」(卷三-15)
実はこれ、周りが優秀の場合、もっとも理想的な主人のような気がします。そして、この対応はまさに、ブレていないと言うか、ブレようがないと言うか。
〈その3〉金剛の正体
この男、仏に具わる三つの徳を知りたいと高僧を訪れた。そこで先ず「金剛(こんごう)の正体というものを考え出してみよ」とその僧にいわれる。
とりあえず彼は「藁(わら)」と答える。金剛というはき物(金剛草履)が藁でできているから、という。
高僧はかすかな笑みを浮かべ、それを打ち消す。そして「金剛の正体というは、音ありて、なき物かと思えば、元来、その時にしたがって、あるもの也」と教える。
男は、難しい問答だと思いながら、ひとまず高僧のもとを辞すが、山門近くまで来て突然ひらめいた。高僧の所へ急ぎ立ち返り「ただいま教わった金剛の正体は、”へ”であるに違いない」という。高僧は片腹痛く可笑しさをこらえ、「その心は」と問う。
男は「”へ”と申す物ハ、音ありて、手にもとられず、目にもみえず、色にもそまず、火にもやけず、水にもぬれず、きってもきられず、かくては、元来なき物かと思えば、腹中のときにより、いくつもある物にて候」と答えた。」(卷四-11)
実はこれは、以前「歴史館だより」に紹介されていた話です。禅問答を揶揄しているものですが、これに似たような噺をつぎにもう一つ。
〈その4〉 熊野山伏と禅僧
昔、臨済宗の行脚僧が、熊野山の駆出山伏と道連れになって言った。
「山伏殿、そなたはどんな霊験をお持ちかな」
「役の行者を慕い金剛胎蔵両峰の峰入りをはたし、不動明王が左手に持つ索の縄の威力を体得したところ。この笈(おい)の内から不動の尊像を出して祈れば、たちまちわが身より火炎を吹き出してご覧に入れよう。さて、そなたの霊験は、いかなるものかな」
「そもそも禅宗は、ぬか漬ひときれ、一膳めしの粗食ゆえ、霊験などもってのほか。さりながら、ひとたび精神を集中すれば、たちまちわが身より水を吹き出し、いかなる猛火も消してご覧に入れよう」
それを聞いて山伏は烈火のごとく怒り
「さらば、わが火炎を消してみよ」
と、背中の笈を道ばたにおろし、不動の画像をぱらりと掛け、数珠を音高くすり上げすり下し祈ると、不思議や、絵像の不動が立ち上り、山伏の頭からつま先まで走りぬける。すると、頭巾や衣が煙をあげて燃え出した。山伏は勝ち誇って、
「これを見よ、禅坊主。消せるなら消してみよ」
と叫ぶ。すると僧は、少しもあわてず、
「しからば消してご覧に入れよう」
と、山伏の面前に立ってまたを広げ、衣のすそをかかげ、おもむろに下帯をはずし、山伏の頭肛、衣、数珠、不動明王の尊像をめがけて、小便をかけた。すると、さしもの猛火もたちまち消えうせる。これもまた不思議な霊験。」(卷五-50)
今度は禅僧を持ち上げた話、と言ってよいのやら。なんか下ネタが続いてしまいました。ならばここは、下ネタついでにもうひとつ。
〈その5〉 夜の洗濯
「昔、ある坊主が、若い女を寺においた。あるとき、壇家の一がやって来て言った。
「寺に若い女は似つかわしくありません。どんな御用があって召し置かれるのか、うけたまわりたいものです」
「さよう。昼間は参詣の女人のお相手をさせるため。夜には、洗濯を言いつけており
まする」
と坊主は答えた。夜の洗濯とは、はて、何をもみ洗いするのであろう。」(卷五-10)
そんな、何をもみ洗いするのであろう、と言われても、ねぇ。
○ 土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)の話
「土芥寇讎記」は、なかなか辛口な人物評で知られています。しかし、松平直矩についてはベタ褒めで、「直矩、生得寛然トシテ、将之威自ラ備リ、殊文武ノ両道心ヲ掛、旧記麗ヲ好テ、古戦又雌雄・主将ノ智愚・謀略ノ是非ヲ論ズ。生得勇智発明ニ、仁義ヲ正シ、忠節ヲ尽ト欲セラル。人使ヒ能ク、家民ヲ憐ム叟厚シ。物毎立派ヲ好ル故、家士奇羅ニ弊アリト云リ。美小人ヲ愛セラルト云トモ、聊偏愛ノ気ナシ。当時誉ノ将卜、世以沙汰ス。」とあり、結びに「尤も誉ノ善将、褒美スルニ余り有ベク。」とあります。
ここで、美小人とは美少年のことで、この手の情報もこの「土芥寇讎記」にはよく記載されて、その影響も記載されているのですが、どうやって調べているのやら。
さて、「引越し大名」とも言われた松平直矩(1642〜95)は、徳川家康の男子直系の曽孫にあたります。つまり、父・直基(1604〜48)は、徳川家康の男子直系の孫にあたりますが、徳川家康の次男である結城秀康の五男です。
さて、この結城秀康(1574-1607)は不運の人とも言われています。まずその生い立ちでは母が妾として認められず、兄の信康が織田信長に切腹を命じられ(1579年)亡くなったのですが、小牧・長久手の戦い(1584年)により羽柴秀吉の養子として差し出されたため、徳川を継ぐことができませんでした。しかし、下総の大名・結城晴朝の孫娘との婚姻を機に結城家の家督を継ぎます。その後秀康は、関ヶ原の戦いの戦功を評価され、慶長6(1601)年、越前国へ転封、68万石(!!)を領したものの、34歳で亡くなります。跡を継いだ秀康の嫡男の忠直は松平姓を称します。
一方、松平直基は慶長十二(1607)年に結城家の家督を相続し、慶長十九(1614)年に結城晴朝が死去したため、その隠居料5千石を相続。元和元(1615)年、越前国勝山の1万石を与えられます。寛永3(1626)年に従四位下(大和守)となり、結城を改めて松平を名乗ります。直基は、4度の引っ越しがありました。
寛永元(1624)年 越前勝山藩3万石
寛永十二(1635)年 越前大野藩5万石
正保元(1644)年 山形藩15万石
慶安元(1648)年 姫路藩15万石
ここで直基は、姫路城に国入りする途中に急逝。子の直矩は、姫路城主としてはまだ幼すぎるとの理由で、翌年に越後村上15万石に所替え。寛文七(1667)年に播磨姫路の藩主にあらためて任せられます。しかし、越後高田藩で起きたお家騒動=越後騒動に巻き込まれ、天和二年(1682)に蟹居の命を受け減封されました。
天和二(1682)年 豊後日田藩 7万石
貞享三(1686)年 出羽山形藩 10万石
元禄五(1692)年 陸奥白河藩 15万石
結局、直矩は延べ5つの藩主を経験し、江戸時代の全大名の中で最多の地を経験した大名となるそうです。なお、この話を基に「引っ越し大名」という映画も作られています。(松竹映画2019年公開、監督:犬童一心、主演:星野源)
○ 松平大和守日記の話
松平直矩は17歳から54歳で亡くなるまで、「大和守日記」を書き続けています。原本は明歴二(1656)年から元禄八(1695)年までの39年分があったとされ、長い間保存されて昭和に入ってもこの家の当主である松平伯爵邸にありましたが、戦災で焼失してしまい存在しないそうです。活字化されたものとしては、朝倉治彦「松平大和守日記」(「日本庶民文化史料集成・第十二卷」所載)、と鈴木紳三の同名の本(村上古文書刊行会)があります。
では、その日記の内容を。まずは、萬治二(1659)年新年から
萬治二年 越後国村上ト云所ニテ
正月一日祝 書院ニテ鷹共見ル 数二十居也
礼之次第 (以下、来客および持参品を列挙)
同日 江戸より飛脚来ル 参勤之時分正月中仰御奉書来ル
同二日 桜ノ馬場ニテ馬之ノリ初スル
同日 鷹ツカイ初出ル
同三日晩 謡初次第 居間ニテ吸物相伴 (以下、来客を列挙)
於書院高砂謡初 書院酒過 於居間ニ酒モリ在之
同四日 能見物覚
高砂、実盛、あふみの上、三井寺、猩々 (それぞれに演者を列挙)
同六日 弓初之次第 (以下、参加者14名を列挙)
同晩 十烓香之次第 (以下、品目と参加者20名を列挙)
以上が、正月はじめ一週間の日記ですが、村上の城内であろうともまあ、忙しい。
一日には鷹を見て、多くの来客を迎え、江戸からは参勤交代の手紙がくる。二日には馬に乗り、鷹を飛ばす。三日には謡の宴会、四日に能の見物、六日に初射会と烓香(なんと20本)であります。続けて参勤交代の道中の記録を、
同月十二日 村上発足。
同十三日 あじろ新田 〜 にいかた
以下、寺泊、かしハ崎、春日新田 泊
同十七日 高田 中殿ニ懸御目 松嵜 是よりそり(橇)にのる
越後殿よりのこらす晩朝料理被下
同十八日 善光寺
以下、坂木、追分、くらかね、鴻巣 泊
同廿三日 本郷 (江戸の鳥越屋敷に到着)
この道中には1月12日〜23日の12日間を要したことになります。冬の越後を抜けるのに日数がかかったようですが、それにしても参勤交代に橇(そり)も使っていたとは。通常はこれとは違うルートで村上〜江戸を10日以内で行けていたようです。日記には、道中、立ち寄った地名が、いずれの日についても20か所近く記録されています。地名を地図でたどるのも一興でしょう。
江戸に着くと早速、登城についての手紙を受け取り、その後2月上旬まであいさつ回りをしているようです。どこそこにふるまいに行くという記録はマメにあります。また、この頃の日記でよく目にするのは、食べ物と飼い鳥のことです。4月には、初かつを、初なすび、初白瓜などを見たとあり、鳥屋などから、小瑠璃、三光、ゑなか子、雲雀ノ子、こま鳥、白頭鳥などを取り寄せるとあります。一方、「裏の土手にて雀一匹吹き矢にあたる」という記録も残しています。
また江戸では、出羽殿という方との親交が深く、互いに行き来し、匂袋や遠眼鏡などをもらったという記載もあります。また、能や狂言などは舞台を見に行くほか、屋敷に演者を招くこともあり、例えば「晩 出羽殿へ行き狂言見物」とあり、「祝言、川原市、かさの下、つんほうざとう、ちねんこじ、くまの物語、羽衣、などの演目と演者が記録されている他、後藤左衛門が女装束で団扇で舞うとか出羽様の小坊主3人が三味線、鼓を奏で、しはかきを舞う、などとあります。
同年6月6日には「御本丸小屋へ絵書探幽、同図書来」とあります。つまりあの狩野探幽がきたと。「同十二日探幽・図書ニ申付候屏風出来」。一週間もしないうちに屏風が納品されたようです。28日には探幽に、富士山の横物絵を一幅、四季花鳥の絵を四幅一対を依頼し、7月9日には富士山の絵ができ上ってきます。
こうしたことの他に、地震や大風、火事などの発生や被災者数などの記録もあり、災害年表の記録としても価値のある資料となっています。そのような中、ちょっと珍しい事柄について詳しく書かれていることがあります。
寛文三年(1663年)5月21日の日記です。
信濃守の御噺として、雲州の桐橋伊兵衛小女に狐がつく、というものでしたが、小女に憑いた理由を問うと、この女にうらみはないのだけれど、われわれの杉の木を植え替えたためと云うので、杉を植え直ししたところ、元に戻った。とのこと。
これに続けて、別の狐憑きの話が記されます。原文を掲載しますと、「浅野因幡守殿にて小女二きつねつき有 其比因州庭に狐昼ねして居候を見つけられ 鉄胞にてうたれ候へハ ミおとりをとつてくるくるとまわり死 其刻かの女も如右にして死 このよしいなは殿きかれ それならハ気本復すへしとて 気つけなとのませられ候へハ 追付本ふくすよし」。つまり、憑いた狐を鉄砲で打ったら、女も死んでしまったのだが、これをきいた殿は、それなら元に戻ると、きつけ薬を飲ませたら、復活したということです。狐憑きを目の当たりにしていた時代だったようです。
○ 秋と言えば、芭蕉の有名な句の話
「土芥寇讎記」が手掛けられる前年の元禄2年に、松尾芭蕉が山形を訪れています。もちろん「土芥寇讎記」と「おくの細道」との関連は不明ですが。
松尾芭蕉の有名な秋の句に、「秋深き 隣は何をするひとぞ」というのがあります。晩秋に自分の孤独感を重ねて、人恋しさを表現した句とのことで、予定していた俳席に体調不良で出られなかった際に、弟子に渡した発句です。元禄7年9月28日、芭蕉51歳のときの作で、寝込んだまま翌29日から亡くなる10月12日までついに起きることができなかったとのこと。10月8日深更に最後の句となる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んでいます。
この「秋深き〜」は本来、なかなかな寂寥感漂う句ではありますが、現代の状況にあてはめると、また、違った意味を持つ句となります。例えば、パソコン相手に仕事をしている職場であれば、隣席の人にこんな思いを抱くことがしばしばあるかも。まして、リモートワークとなれば、隣が誰かもわからないわけでして。
また、パロディも多く派生している句でもあります。例えば、ネットでみかけた句で「秋深き あなたは何をするひとぞ」というのがありましたが、普通はそんな真っすぐな物言いはしないものですが、恐らくちょっと風流な職務質問とかでしょうか。
「秋深き 隣は何を買うひとぞ」
これはコスト○とかドン・キホー○の「あるある」です。
「秋深き 隣は何を着るひとぞ」
いわゆるコンフォートビズの様子を詠んでみました。「着る」と言えばこんな句も。
「秋深し ユニク○にユニク○ 重ね着る」
「秋深き」を具体的に表してみました。実は「ユニク○にユニク○ 重ねて 秋深し」とすれば落ち着くのですが、「秋深き」を用いてしかも字余りとすることにより、なんとなく新味な感じになるような。
そして、食欲の秋ということで三句。
「秋深き 大盛 つゆだく オム玉子」 某牛丼店にて詠めり
「秋深き ましまし もっと ましましに」 某ラーメン店にて詠めり
「秋深き 昼からワインを マグナムで 」 某イタリアン店にて詠めり
お粗末様でした。
○ 「積ん読ざんまい」の話
読書系のポッドキャストに「積ん読ざんまい」という番組があります。2人の女性読書家(?!)によるトーク番組で、ひとつの本を話題に1〜2時間、話をするものです。月1回のペースで既に40本以上アップされています。ある回で山形国際ドキュメンタリー映画祭のことを熱く語っているので、あれっと思ったのですが、バリバリに山形・宮城方面で活動されている方々からの発信でした。
「誰もが知っている名作から、あなたの知らないニッチ過ぎる本まで、ゆるいトークで紹介していく読書系Podcastです」との自己紹介がなされていますが、かなり振り幅の広い選本となっています。
特に興味深かった回が「スヌープ・ドッグのお料理教室」、あのパリオリンピック閉会式でロスからの生中継で歌っていたラッパーのスヌープ・ドッグが著した料理本です。日本語版は「スヌープ・ドッグのお料理教室 60のプラチナ極上レシピ」(晶文社、2022年)。彼はテレビの料理番組をもつほどの料理好きとのことで、この本でもかなり強めのビジュアルな料理が並び、そのレシピには日本、特に山形では見ることのできない調味料が次々とでてきて、再現が大変という話などが語られていました。なんとあの土井善晴先生もこの本のレシピを試していて、思うように再現できなかった、と書評をあげてました。
あと「月刊ドライブイン」の回も興味深いものです。昭和生まれの者にとってドライブインというのは、道中必ず立ち寄る場所でして、これが道しるべともなっていたわけですが、今や絶滅の危機に瀕しています。この月刊誌はいわゆる業界誌ではなく、全国各地に残るドライブインを訪ねながら毎号2軒を紹介。店主へのインタビューやお店の歴史、食事メニューなどをルポルタージュしている冊子ですがvol12で終刊となっています。これをまとめた「ドライブイン探訪」(筑摩書房、文庫版もあり)という本が出ているのですが、月刊も入手できたとか、山形〜宮城にあるドライブインの話とか、共感溢れ出る内容でした。
元書店員の「マト文庫」さんと犬と珈琲を愛する「カジワラ珈琲」さんによる番組ですが、どちらかというと聞き役のカジワラ珈琲さんという人は、実は山形では知る人ぞ知るコーヒーの焙煎士であり、店を持たないため、その豆は幻ともなっているのですが、映画館「フォーラム」に隣接する店で、常時このカジワラコーヒーが飲めます。
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館長裏日誌 令和6年10月4日付け
◎ 見仏記のお話 その1
阿弥陀如来像で有名なのは、鎌倉の大仏や長野の善光寺などですが、一番インパクトがある像は六波羅蜜寺の「空也上人立像」ではないでしょうか。空也上人の開いた口から木造の小さな阿弥陀立像が六体現れ出るあの像で、これは空也上人が「南無阿弥陀仏」すなわち六字名号を唱えると、その声が阿弥陀如来の姿に変じたというものです。
この「空也上人立像」については、あの「見仏記」(いとうせいこう、みうらじゅん著、1993年刊)で、いとうせいこうさんが「踊りながら念仏を唱えてストリートに生きた上人は、私にとって尊敬すべきラッパーだ」と言い、ニューヨークの某ラッパーが自身のラップを、エデュケーションとエンターテインメントを合わせた「エデュテインメント」であると称したことに対し、「この言葉を聞いた時、私はまっさきに空也上人のことを思い出した」と著述しています。
その後、東北を取材し山寺「立石寺」を訪れます。山寺に登ると、仏像のことはそこそこに奥の院にある如法堂にたどり着きます。そこには結婚写真や素朴な絵が並び、それは生前、結婚できずに亡くなった人をあの世で結ばせるという、いわゆるムカサリ絵馬の類なのですが、みうらじゅんさんは「やばいよ、ここ」と言い「俺、さすがに手をあわせるよ」と合掌。いとうせいこうさんもその時、仏像の後ろにある十数段の棚に小さな花嫁人形がびっしり詰まっているのに気付き背筋が凍った、とあります。この如法堂、実は僧侶の修行として非常な労力を必要とする写経を行う場です。「法華経」を1 文字ずつ写し1文字写すごとにひれ伏して経の全文を3回暗唱します。このため、法華経8 巻全てを写すのに4年かかることも。写し終えた経は、うるう年の 11 月 28 日に円仁への捧げものとして、納経堂に納められるそうです。
この「見仏記」の取材から25年後、「新TV見仏記」(DVD「新TV見仏記(20) 〜みちのく山形編」としても発売)の取材で、再び山寺「立石寺」を訪れるとともに、癒し系の平安仏がある「吉祥院」も訪れています。この吉祥院は千手堂とも言われ、その奥之院の厨子には、平安時代初期の作とみられる一木造りの立像があり、中央に千手観音菩薩像、右に菩薩立像(伝薬師如来像)、左に菩薩立像(伝阿弥陀如来像)の三躰が祀られています(事前申し込みで拝観が可能とのこと)。また、このお寺の庭には小さなテーマパークというか等身大の双六のようなものがあります。千手観音などの石仏を百八個の踏み石が囲むように並べてあり、最後の「百八」と彫られた石の先にある「消除」と彫られた石まで行くと、百八個の煩悩や厄が消えるというものです。自身の百八個の煩悩や厄を思い出しながらその石を踏みしめると、結構キツイものがあります。
◎ 見仏記のお話 その2
「見仏記」の末文に「三十三年後の約束」というのがあります。最後の取材となった宇治の平等院の阿弥陀仏を観た後、一番最初の見仏記で寄った京都駅構内の喫茶店に入り、一年以上にわたる取材を振り返ったいとうせいこうさんは、昔そこで、みうらじゅんさんと交わした「三十三年後三月三日三時三十三分三十三間堂で会いましょう」という約束を思い出しています。そして、その約束の2025年が迫るこのタイミングで、5年ぶりの「見仏記」連載を始めるそうです。
三十三間堂の正式名称は「蓮華王院本堂」というのですが、三十三間堂と呼ばれるのは建物の桁行、つまり柱と柱の間が33ある寺ということからです。ただ、この「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語で、実際、三十三間堂の柱間寸法は一定ではないそうです。ここで重要なのは、その柱の数の多さとかではなく、仏教における33という数字の意味です。33という数字は、すべてを見通し、すべてに慈悲を示す観音菩薩が、33の異なる姿になって人々を救済するというもので、観音菩薩が三十三間堂の本尊であるのも偶然ではないとのことです。
ところで「三十三観音巡り」というのが全国各地にあるとは思いますが、山形県内には3つの三十三観音巡りのエリア(最上、庄内、置賜)があり、それを束ねて「やまがた出羽百観音」としています。3つの三十三観音を合わせて百観音としているのは他所にもありますが、1つの県の中で完結するのは「やまがた出羽百観音」だけとのこと。山形県では、「札所だけでもおよそ100、ランチや休憩できるカフェ、お土産どころや名所旧跡、立寄施設などを組み合わせると巡り方や旅の楽しみは、無限大に広がります。」と算盤を弾いています。一方、暗算の得意な方は「三十三観音×3で99観音では?」と思われるかもしれませんが、最上三十三観音には番外(世照観音)、庄内三十三観音には首番(荒澤寺)と番外(観音寺)があり、これらを加えた102観音をやまがた出羽百観音と称しているそうです。いずれにしても四捨五入ということで。
一方、四国八十八か所巡りにおいては、その遍路にあるうどん店を巡る「うどん遍路」というものもあるそうです。札所をめぐることを「打つ」と言いますが、すると「うどん遍路」では、うどん店を打って、打ったうどんをいただく、ということになるわけです。「ラーメン県そば王国やまがた」を標榜している本県においても、「やまがた出羽百ラーメン」を打つとか、「やまがた出羽百そば」を打つことができそうです。
これを例えば最上三十三観音エリアについて言うならば、最上エリアにはそば店もラーメン店もそれぞれ33店以上は確実にあり、もしかしたら、逆打ちで違う店を巡れるくらいあるかもしれません。店がなくても、山菜そばやゲソ天そば、鳥中華や冷たいラーメンなど、バリエーションを変えればいけるかと。山形県では2泊3日で巡るモデルコースを掲げていますが、「そば打ち」、「ラーメン打ち」となると普通の人は1日5、6食が限度で、つまり一週間程度が必要かと。しかもこればかり食べる日々続くという、これもひとつの難行苦行ではあります。
そう言えば「水曜どうでしょう」というTV番組(山形では今でもそのクラッシック版が毎週放送されています)ではかつて、四国八十八か所を巡っていましたが、大泉洋さん、どうでしょう、最上三十三観音。今年の春先、クルーズ船「飛鳥�供廚鯊澆契擇辰藤嫁顳各�の旅をしていたようですが、山形新幹線「つばさ」貸し切りで最上三十三観音巡りというのは。あるいは最上三十三麺巡りはどうでしょう。一日平均10食以上となれば、きっとすばらしい画が撮れると思います。
◎ 最上三条十三観音のお話
最上三十三観音には順番がついているのですが、別にこの順で回る必要はないそうです。その第一番の札所は天童市にある「若松寺」。開山して1300年、「西の出雲・東の若松」と称されている縁結びのパワースポットです。一方、死後の婚礼の様子を描くムカサリ絵馬も数多く奉納されています。ムカサリという言葉は、山形の方言で婚礼を意味するもので、山形県の村山地方に集中しているそうです。この若松寺がムカサリ絵馬の風習の中心的役割を果たしているとのことですが、若松寺への参道には「四輪駆動車以外通行できません」との看板があり、冬期間は前輪駆動車での来訪はご遠慮いただいているような場所にあります。
最上三十三観音札所は、第1番「若松」(天台宗 鈴立山 若松寺)、第2番「山寺」(天台宗 宝珠山 千手院) 、第3番「千手堂」(天台宗 守国山 吉祥院)と続くのですが、それは山形城主最上家四代目満家の子・頼宗の美しい一人娘・光姫が、自身をめぐる争いで命を絶たれた武将を憂いて出家し、老人に姿を変えた観音様の導きにより三十三の霊場を巡った、という伝説に由来すると伝えられています。以下、最上三十三観音札所別当会のHPからの抄録です。
「そのはじまりは室町時代までさかのぼる。かつては、今の村山地域と最上地域を合わせた広いエリアを「最上」と呼んでいた。南は上山市から北は秋田県境に近い鮭川村まで、最上川沿いに点在する観音堂の佇まいは、私たちの暮らしを見守ってくれる。
輝くように美しい光の姫という名をもつ光姫は、七歳の春、母を失い、乳母・信夫の手に育てられた。信夫は仏門の出で、姉は成沢村安養寺の尼僧で、安養比丘尼と呼ばれていた。
光姫の天性の美形は、地方の大名たちの噂にのぼり結婚を望む者も多かったが、父の頼宗は、京都五条に住む右衛門佐頼氏を姫の婿養子とした。この時、頼氏は21歳で器量人、姫は18の秋、まさに好一対の夫婦雛であった、と当時の記録は伝えている。
その一方、姫への慕情を断ち切れず、悶々とする者もあった。殊に、最上鮭川の領主・横川大膳国景は、姫との婚礼を切望し、再三にわたって頼宗に申し込んだが拒否されていた。姫の結婚後も忘れることができず、秘かにその略奪の機会を狙っていた。
結婚翌年の春、頼氏夫妻が平清水の大日如来に参詣する日に、大膳の一味は茶店の者や大黒舞などに変装して紛れ込み、姫に接近しようとした。しかし、護衛の侍たちにより守られ、頼氏は負傷する。その後、頼氏の傷の養生に、夫婦が高湯に湯治に出た時である。大膳は高湯からの帰途を襲ったが、かえって逆襲されその一味はすべて逮捕されてしまう。大膳をはじめ一味の主な者三名は、馬見ヶ崎の河原で処刑となった。
姫の心には、その出来事が大きな影となってのしかかってきた。古文書によれば、「城中に大膳の亡霊が現れ、姫を悩ました」とある。姫は出家を決心した。相談を受けた乳母の信夫はこれをとどめようとするもかなわず、姉の安養比丘尼のもとに行くこととし、二人は男に変装すると城をぬけ出した。比丘尼も何とか止めようとしたが同意せざるを得ず、三人で旅の支度をした。
数多い観音霊場のどこからまわりはじめたのか、行方のあてもなく歩いているうち、三人は野宿を覚悟した。ふと山際に燈火がかすかに見え、それをたよりに行くと、八十余りになる翁と姥が住む小屋だった。老人は、昔は旅の見世物師で、あちらこちらの祭礼に出かけていたため、霊場のことなら知らぬところはないといい、一番から三十三番までの道筋を詳しく書いてくれた。
小屋でのもてなしで空腹も満たされ、三人は夢路に入ったが、朝、目を覚ましてみれば小屋はなく草の中であった。不思議なことに、霊地のことを記した書き物だけが残っていた。これこそ観音さまのお示しであると、三人は西方を礼拝し、巡礼に旅立つ。その巡礼は、ほぼ2ヵ月にわたったが、姫は妊娠していた。身を寄せた農家で、姫は無事、玉のような男児を産みおとした。これが「若松君」であり、観音霊場一番の名をとったものである。」
この物語の前後にもなかなか因縁深いドラマがあるのですが、詳しくはこちらのHPをご覧ください。なお、最上三十三観音限定ご朱印帳もあります。
それにしても、光姫も駒姫も最上家の美人はなぜか、その美貌があだになる話ばかりです。
◎ 花笠音頭の謎
天童市報平成24年8月号の「市長の部屋」で、「花笠音頭」と「若松寺」について、つぎのように執筆されています。
花笠踊りの「花笠音頭」では、2番の歌詞に「花の山形 紅葉(もみじ)の天童 雪をチョイチョイ ながむる尾花沢 ハァ ヤッショマカショ」と、4番の歌詞に「めでためでたの 若松様よ 枝もチョイチョイ 栄えて葉も茂る ハァ ヤッショマカショ」とあり、「紅葉の天童」と「めでためでたの若松様」が山形県民謡である「花笠音頭」の中に謳われ、皆さまから広く親しまれて歌われていることを大変喜ばしく思っております。若松様とは、縁結びに御利益がある寺として有名な天童最古の名刹「鈴立山(れいりゅうざん)若松寺(じゃくしょうじ)」
さて、ここでちょっと面倒なことがあります。山形県花笠協議会の花笠音頭では「花の山形紅葉の天童」の歌詞は8番目にきています。一方「めでためでたの若松様」の歌詞は、第1回目の花笠音頭パレード(山形花笠まつり)に向けて新しい歌詞を一般公募したもので、県内外から100を超える歌詞が集まり、その中から13歌詞を選定し、従来からあった2歌詞を加えた15歌詞で構成したことによるものです。もともと花笠音頭の歌詞はその地域により違いがあり、一説によると150以上もの歌詞があるらしいです。
これが一般的な民謡集やカラオケでは、1番目の歌詞となっているのは「めでためでたの若松様」で、花笠まつり当日に生歌を披露する大塚文雄さんの場合も、1番目がこれで、2番目が「「花の山形 紅葉の天童」です。三橋美智也さんの場合も1番目がこれですが、2番目以降は全く違います。都はるみさんの場合は1番目が「そろたそろたよ 傘踊りそろた」と花笠協議会の歌詞に従い、4番目に「花の山形 紅葉の天童」がきます。
とにかくいろいろで、それはそれでいいのですが、ここで謎なのが、天童市長が述べられた、2番「花の山形 紅葉の天童」、4番「めでためでたの 若松様」というのは、一体どこのバージョンなのかということです。いや、それを知ってどうしようというものではないのですが。
なお、「ヤッショ、マカショ」という囃子ことばは、築堤工事の土突(どんつき)の際の調子をあわせる掛け声から出たといわれています。しかしながら一説によると、ヘブライ語で「ハァ ヤッショ、マカショ」は、「見よ、神の救いを!神の隠れ家である新天地を」という意味であり、日本を発見した時の喜びの声ということですが、もうええでしょう(byピエール瀧)。
最上義光歴史館
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2021年9月 利用者アンケート集計結果
《2021年9月の利用者アンケート集計結果》
この集計結果は令和3年9月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。
常設展示 (9/1 〜 9/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,044名
回答者数・・・・・・・・・・・・・21人
1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・15%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・25%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・50%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・5%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・5%
2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・81%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・19%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・52%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・38%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・10%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%
(2)最上義光と最上家について??
�,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・55%
�△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
��わからなかった・・・・・・・・・・・・5%
�い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�
〜利用者の声〜
男性
無料は最高。もっと多くの資料を展示して欲しい。
山形県・西川町 男性/70代
斯波兼頼入部後、いつから最上氏を名のったかはっきりしない。説明があれば良い。義光の功績が今少しわかればよい。残念なのは3代目で改易されたこと。
山形市 女性/10代
刀が大好きなので、多く展示されていて大変楽しかったです。鬼切丸について、もっと情報があったらうれしかったです!
山形市 女性/10代
義姫などの資料も見たいと思いました。
奈良県奈良市 男性/20代
16時33分に入館させていただき、うれしかったです!ありがとうございました!
埼玉県坂戸市 女性/60代
山形に「最上義光」理由が判りました。熊本の加藤清正と同じですね!最上家はその後どうなったのかな?改易とありましたが、お家騒動ってどんな感じ?触れたくないかもしれないけれど。無料なのでありがたかったです。
鹿児島県鹿児島市 男性/10代
大変みごたえがあって楽しかったです!
千葉県・一宮町 男性/40代
県外より観光で来たため、地理が分かりにくいところがあった。伊達政宗との関係の変化など、詳しく取り上げてほしい。
千葉県船橋市 男性/40代
義光以外の最上家の資料展示ももっとあっても良いと思った。義光についての展示は、大変満足しました。
埼玉県所沢市 男性/40代
映像の解説をもっと充実させてほしい。
山形市 女性/40代
近所に住んでいて、義光公がどのような活躍をされたのかは知っていたが、身近に当時を知ることできる文書等見る事ができ、感動した。大人もクイズを通して楽しめる。子供と時間を共有でき、またぜひ伺いたいと思った。
山形市 男性/9歳
れきしをよくしれたり、最上よしあきについてよくしたのでよかった。まだ最上よしあきについて習ってないからわからない。
山形市 男性/50代
字をもう少しだけ大きくして頂けると大変助かります。
埼玉県大宮市 男性/70代
よくは知っていなかったが、展示を見て義光公のことが大分分かった。
※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。
最上義光歴史館
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「河北町谷地城跡の発掘調査」 天本昌希
河北町谷地城跡の発掘調査
【はじめに】
現在の河北町谷地地区に所在した谷地城は、白鳥十郎長久の居城である。白鳥氏は現在の村山市西部に本拠をもつ国人で、その出自については謎が多い。長久の頃、天正二年(1574)の「最上の乱」における伊達氏と最上氏の和解を仲介、中央政界には織田信長に名馬を送るなど、巧みな外交術で頭角を表す。これに危機感を覚えた最上義光は、天正十二(1584)年に谷地城へ侵攻、白鳥氏は滅亡となる。
このときのエピソードとして、義光は病気と称して山形城に長久を呼び出し、彼を謀殺。そのまま3,000の兵を率いて谷地城を落としたと、軍記物では語られる。この逸話が後世の様々な物語で語られる義光の狡猜で残忍な人物としてのイメージのもととなり、長久の返り血を浴びたとされる「血染めの桜」伝説につながっている。しかし、実際にこのような謀殺劇があったことを示す史料は軍記物以外、残されていない。ドラマチックな物語を抜きに当時の状況としていえることは、白鳥長久が外交を駆使して義光の地位を脅かすまでの存在となり、討たれたという結果である。
ちなみに大石田町次年子には、白鳥長久の墓と伝えられる塚があり、過去に発掘調査がなされている。結果、大腿骨に大きな傷をもつ40代男性の人骨が出土している。しかし、それが長久本人かどうかまでは定かではない。
この長久が築いたとされる谷地城は、文献上、築城の時期が明らかではなく、最上侵攻の前年1583年以前とされるのみ。最上領有後は、斎藤伊予守が4,000石で城主となり、最上方の支城のひとつとして機能した。慶長五年(1600)の上杉方との出羽合戦の際、一度は上杉方に奪われ、それを再び最上方が奪還するという拠点争奪戦の舞台として登場する。その際の様子を伝える記述として、「七日の間、城けんごにもち候へ共」や「二の丸迄敵押込み申し候所押返し」など、激しい籠城戦となったことが窺える。最後は元和八年(1622)の最上家の改易と共に廃城となっている。在りし日の谷地城の姿を伝える絵図はなく、廃城から67年が経過した元禄二年(1689)の「谷地本郷絵図」に現在の三社宮付近が「古城跡」と記されるのみである。
史料が限られる状況において、発掘調査成果は重要な情報源となる。遺跡としての谷地城跡は、『山形県中世城館遺跡調査報告書』第2集に掲載され、現在の河北町谷地地区の市街地全域に渡る広大な遺跡として知られている。この遺跡範囲内に立地する河北町役場を建て替えることとなったため、建設予定地の発掘調査が令和元年五月から八月までの期間で実施された。これは谷地城跡では初めての大規模な発掘調査であり、その成果は既に発掘調査報告書として山形県埋蔵文化財センターから刊行されている。ここではその成果についてまとめる。
【特徴的な建築方法の発見】
発見された主なものは、500基を越える柱穴と溝跡である。柱穴はいくつかがセットになって建物を構成し、溝跡は建物群を区画するためのものと考えられる。当時の建物は、掘った穴に柱を埋めて建てる掘立柱建物が主流である。柱材は建替えの際に抜き取られたり、腐ってなくなってしまったりする。そのため、遺跡には柱穴だけが残されるのが常である。今回発見された柱穴で特徴的なのは、多くの柱穴の底面に沈下防止のため、枝や廃材などが敷かれていたことである(図1)。谷地城の立地は寒河江川扇状地の末端部にあたる。湧水も多い軟弱地盤のため、このような方法をとったのではないかと考えている。同じ目的で、柱穴の底に板や、石を敷くという事例はあっても、切りっぱなしの枝や廃材を敷く事例は、全国をみてもほかに探すことが難しい。より低コストの建築方法であったと思われる。しかし、類例は思いのほか近く、山形城三の丸跡の第十四次調査において発見された(図2)。
第14次調査の柱穴
図1 谷地城跡の柱穴
図2 山形城三の丸跡
この調査地点は広大な山形城三の丸でも西端に位置し、馬見ヶ崎川扇状地の端部にあたる。立地環境としては今回の谷地城調査区と類似している。谷地を占領した義光は、当地の鋳物師たちを山形城下に呼び寄せたとされるが、同時に大工たちも連れて行き、山形城内の整備にこの方法を持ち込んだと解釈できるかもしれない。山形城三の丸では現在のところ確認できているのはこの一基のみのため、付近での調査事例の増加に期待したい。
【谷地城の姿について】
これらの柱穴を区画する溝は、調査区の軸に沿って縦横に発見されており、大小の規模がみられる。いくつがセットになって区画をなしていたと考えられ、その区画は一部が重なっていることから、古い区画を埋めて、新しいものをつくったと考えられる。
では、この古い区画は、いつごろのものか。時期判断の材料となる陶磁器の出土が少ないため難しいが、溝の底面から出土した漆器などを炭素年代測定にかけたところ、十五世紀前半から半ばという結果が出ている。遺跡全体でみれば、これと同時期にあたる古瀬戸後期の陶磁器片を一定数得ていることからも、この測定結果は裏付けられる。よって、古い区画は十五世紀半ば頃から機能し、新しい区画の建設に伴い埋め戻されたと考える。現在の谷地地区の開発は、白鳥長久か、あるいはその前代の頃にはじまったとされ、十ハ世紀中頃からというのが従来の説である。これに対して今回の調査成果は、それよりも百年近く前には既に、区画された屋敷地があったことを示すものとなっている。
現在の谷地地区は、南北に走る県道25号などを中心に20度ほど東に傾いた軸で市街地が形成されている。今回の調査で発見された区画溝をみると、後述する新しい時期のものも含めても、その方向は現在のものと同じ軸の傾きでつくられている。これは十五世紀の中頃に谷地の開発がはじまってから現在に至るまで、土地利用が変わり、区画の変化はあったとしても、基幹的な町割りは変わっていないことを示すものである。
次に新しい区画をみると、大きいもので、幅4m、深さは1m弱あり、調査区内を東西方向にまっすぐ80m以上展開し、東側は更に調査区外へ延長し、西側は調査区の端で直角に折れて調査区外へのびている。この溝の底面からは十六世紀中頃の陶磁器片が、溝の埋まりきった上面からは十七世紀初頭のものが得られており、この区画溝の構築時期と廃絶時期を示しているものと考えられる。この年代観は、文献上、推定されてきた谷地城の存続期間と合致するものである。ではこの溝は谷地城に関連するものなのだろうか。
谷地城の姿をめぐっては、戦前からの研究があり、本丸に対して二の丸堀が部分的にめぐるものや、山形城のように全体を三重に囲むものなどが提示されている。今回の調査区は、どちらの復元案でも、本丸西側の二の丸堀にあたる。そのため調査前は南北方向にめぐる堀跡の発見が予想されていた。
しかし、今回の調査で得られたものは、堀とするには規模の小さい溝跡である。考古学上、溝跡と堀跡の違いについて、明確な定義がなされているわけではないが、一般的に防御施設である堀というには、前述の規模でその機能を担えるのかという疑問が湧く。山形城と比較するには、築城の時期も城主の地位も異なるが、筆者が担当した山形城三の丸跡第十次調査において発見された三の丸の堀跡は、幅12m以上、現地表からの深さは5mを越えている。また、これが本丸を守る防御施設であるならば、東側の本丸を守るため、南北方向になければ防御の用をなさないだろう。しかし、発見されたのは本丸に向かって一直線に80m以上のびるものである。よって、ここで発見された溝跡は、谷地城の主たる防御施設としての堀跡とは考えられない。しかし、これらは廃城の時期に埋め戻されているため、谷地城本体に付随して補助的な防御機能を担っていたものとも考えられる。よって、現在のところは城内、あるいは城外に隣接して築かれた家臣団の屋敷地を区画するものと推測しておきたい。
谷地城の二の丸については、冒頭でふれた出羽合戦における争奪戦の記録からも、その存在は認められる。しかし、今回の調査成果によって、これまで推測されてきた谷地城の二の丸の姿とは異なるものを想定しなければならないだろう。
【まとめ】
このように発掘調査は、机上の調査では得られなかった結果を導くことがある。文書には残されていない客観的な情報を得ることができるのは、発掘調査の醍醐味といえよう。しかし、それはすべてを明らかにしてくれるわけではない。文献調査がもたらす情報に比べれば、発掘調査が伝えることはあまりにも限定的である。
発掘調査と文献調査は、両者どちらかを選ぶというものではなく、お互いの弱点を補完しあうことができる関係にある。両者の成果を統合することで、より立体的な歴史像が復元されることを期待したい。
■執筆:天本昌希(山形県埋蔵文化財センター主任調査研究員)「歴史館だより��28」より
最上義光歴史館
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【ひねもす記08】秋分の日を過ぎて
日が落ちるのが日々早くなっていくような気がします。
その前の9月21日は8年ぶりに満月と重なった中秋の名月、
好天が続いたこともあり連日見事な月が昇っておりましたね。
「武士好みのデザイン」〜吉祥の表現と動物・植物の意匠〜
柏倉惣右衛門コレクションより、今回は秋らしい意匠をご紹介いたします。
小柄 月見狸
スタッフ一押しの一点、秋草を背景に腹鼓を打つ狸の姿。
銀象嵌の月の下でご満悦な顔です。
鐔 葡萄透し
縁 葡萄図
葡萄は豊穣や子孫繁栄を象徴する吉祥文様として用いられました。
また「武道」に通じることから武家に好まれた意匠です。
最上義光歴史館
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館長裏日誌 令和6年9月10日付け
〇 高札について推理の話
この高札については何分にも当時、懸賞金をかけても見つからなかったぐらいなので、真相はわからないのですが、勝手に推察すればいくつかの説が考えられます。
まずは義光と政宗は家康と親交があったことから、反家康勢力の仕業という線があげられます。この高札が徳川邸前に掲げられたということからすれば、まずは、家康を挑発することを狙ったものではという推測ができるかと。ということで、
・推理その1 この謀反の黒幕は家康だということを世間に広めたかった説
・推理その2 義光や政宗のために家康が何らか動くのではという陽動作戦説
・推理その3 家康と義光・政宗との仲をこじらせようとする説
いずれもこれは、反家康派すなわち石田三成近辺が怪しいということになります。次に誰が得するかという点からすれば、
・推理その4 義光と政宗を失脚させたいという説
義光と政宗が失脚すれば、地政学的にありがたいのは上杉であり、また、秀吉の思惑もあるので、誰が得なのか素直に考えれば上杉説となるのですが、上杉としてはわざわざ高札などを立てず秀吉と話をすればいいわけで、可能性としてはまずないかと。
・推理その5 世間がドン引きした秀次切腹と三条河原の処刑への言い訳として、秀吉側がとにかく誰かに罪をなすり付けようとした説。
それにしては「義光・政宗が国を二分して治めようとした」という話を持ち出すのは無理がありすぎで、また、秀吉は「此両家をば世上にてにくむと見得たり」とは言ったものの、この高札事件でかえって疑惑がとけ、義光・政宗の幽閉も解除されました。
この謎解きについて当館学芸員にもきいてみると、次の説がでてきました。
・推理その6 もしかしたら「愉快犯」かもという説
京からすれば奥州などは人が住むことすら想像できない道の奥。そんな所の武将が関白秀次とつながり、秀吉に拘禁され取調べられているらしい。いっそ、国を二分して治めようとしていたとして、家康の屋敷前とかに高札を建てれば面白いんじゃない、としたものではないかと。しかしながら義光・政宗ペアというのは、京の都でそれほど耳目を集める人物であったのかというと、「はて?」としか言いようがなく、確かに「伊達者」は話題になっていたとは思いますが。
そこで、サスペンスミステリー好きのもう一人の学芸員にきいてみたところ、
・推理その7 家康が全てを読み切って高札を立てた説
というのがでてきました。つまり、このくらいバカバカしい内容の高札を立てれば、秀吉もこれはバカバカしいとして、義光・政宗を釈放してくれるはずと読み切って、自邸前にこれを立てたと。おおっ〜、なんという結末。しかもこれは、振り上げた拳の行き場に困っていた秀吉も、話を収めることとなった家康も、当然、救われた義光や政宗も三方良しという結論となるわけですが、さすがです。
〇 鷹狩りの話
「鷹狩りと言えば家康」というくらい、家康と鷹狩りは切っても切れない関係で、幼少期の人質時代には鷹狩りを心の癒しとし、生涯1000回以上鷹狩りをしたそうです。駿河城本丸跡にある家康像にも、その左腕には鷹が止まっています。
家康の鷹狩り有名なエピソードとして、政宗の鷹場と家康の鷹場は隣接していましたが、誤ってそれぞれの猟場に入ってしまい、それぞれ互いの姿を見つけたものの、その場は気付かなかったふりをして戻り、後日それを互いに詫びたという話があります。
また、「文禄・慶長の役」いわゆる朝鮮出兵のときに義光は、肥前名護屋城に家康とともにいて、その戦況を語る手紙で、「ふしぎに出羽も我等も此度の命をみつけ候。やがて国へくだり、たかをつかい候はん事、ゆめかうつつかとよろこび候」と家康から言われたと書いています。
武士たちにとって鷹狩りは、スポーツであると同時に社会的なステータスであり儀礼的な側面もあります。鷹狩りとゴルフとは似ているというのも、例えば政界や経済界の方同士がゴルフをやるのはそういうことでもあり、もちろん健全なレジャーや健康増進としてやられる方も多いとは思います。実際、「徳川実紀」には家康の言葉として「鷹狩は遊娯の為のみにあらず。(中略)筋骨労動し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、をのずから病など起ることなし」と記されています。また、多くの人を使うため合戦の指揮に役立つことや、山野を駆け巡るため領内の視察になることも鷹狩の利点としてあげているそうです。織田信長は鷹狩あたっては、用意周到な準備をもって家臣にあたらせ、もって戦の練習ともしたとか、関東へ転封された後の家康は、民情視察のための鷹狩を繰り返し行ったそうです。
さらに鷹狩りは一種のステータスであり特権的なものでもあり、鷹の飼育や狩場の管理などが必要でもあったのですが、足軽出身であった秀吉には鷹狩りを楽しむ余裕などなかったと思われます。よって秀吉には鷹狩に対しある種のコンプレックスもあったのではないかと。秀吉が鷹狩りに興味を持ちはじめたのは、天正15年(1587年)の九州平定後と言われます。鷹の産地として有名な日向国を島津氏は擁しており、島津氏は秀吉を、家格が武士ですらないことを理由に、関白としての権限を認めないと言っていたのですが、秀吉は九州平定により屈服させ、その島津氏を鷹巣奉行に任じています。その数年後、「大�睫遏�(高野とは鷹狩りのこと)という大規模な鷹狩りを開催します。大人になってから始めた趣味は恐ろしいとはしばしば耳にしますが、特に金と権力を持ってから始めた趣味というのはそんな感じがします。
また秀吉は、秀次に対して天正19年(1591年)12月20日に「五ヶ条の訓戒状」というものを出しています。前4条は天下人としての一般的な心得を述べたものですが、最後の条では「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」とあるそうです。秀吉はわが身を振り返りこう訓戒したのだとは思われますが、鷹狩りの他に茶の湯と女狂いですか。まあ、金と権力がなければ心配のしようもないことではありますが。
〇 現在の鷹狩の話
鷹狩は幕末まで頻繁に行われることとなりますが、明治維新後は次第に衰えていきました。宮内庁には現在も「鷹師」「鷹匠」が存在しますが、戦後,宮内庁が公式な鷹狩を行わなくなって久しく、千葉県と埼玉県にある鴨場の管理や鴨猟を行なう鴨場の管理などを行っているそうです。なお、毎年1月2〜3日に浜離宮恩賜庭園にて「諏訪流放鷹術保存会」による「新春放鷹術実演」がなされています。
江戸時代には沢山の鷹狩りの流派がありましたが、今も残っているのは「諏訪流」と「吉田流」の二つ。「諏訪流」宗家の初代小林家次は戦国時代に織田信長が諏訪から招き入れた鷹匠といわれ、信長の死後は徳川家康に召し抱えられました。現在、その第18代宗家大塚紀子さんがこの浜離宮恩賜庭園の新春放鷹術などを担っています。現在日本で鷹匠を名乗っている人は50人ほどで、実は「鷹匠」を名乗るのに必要な資格がなく、個人が鷹を飼えば誰でも名乗ることができるそうです。
その第18代宗家のインタビュー記事によると、「人鷹(じんよう)一体」ということが大事とのことで、「人馬一体」というのは良く耳にしますが、やはりそういうことなんですね。そうそう、猿回しにも人猿一体芸というのがあるらしく、また、猿と客とが一体となる感動芸もあるといいます。ちょっと違うかもしれませんが。
なお、現代の鷹狩りについては「天皇の鷹匠 花見薫著 2002年」とか「放鷹新装版 宮内省式部職編纂 2010年」とか「鷹書の研究 三保忠夫著 2016年」とか、とにかく宮内庁が中心となりますがいろいろな書籍があるようで、私としては実はどれも手にしたことはないのですが、興味のある方はいかがかと。
また、公家や武家の鷹狩りとは全く異なる、狩猟のための鷹狩りについては、実は山形の天童市に最後の鷹匠という方が住んでいて、これは使う鷹も狙う獲物や場所も時期も違うもので、詳しくは「ほぼ日刊イトイ新聞」の「幡野広志、東北の鷹匠に会いに行く」(2019/2/1〜2/5)に記事がでていましたのでご覧願えればと思います。このインタビューの中で、鷹狩りはカラスの追い払いもできるとはありましたが、知らない土地だと、迷ったり怪我したりするリスクがあるため難しいらしく、実は山形市でも過去に数回実施したことがあるのですが、続けられませんでした。
〇 チャチャの話
皆様ご存じのとおり、秀頼を生んだ淀殿の本名は「茶々」です。なぜに茶々と名付けられたのかはよく知らないのですが、当時としては珍しくない名のようです。
さて、「チェリー・ピンク・チャチャ」と言う曲があります。実はペレスプラード楽団の名曲「セレソローサ」(Cerezo Rosa:ピンクの桜)の別名です。冒頭のあの引っ張るだけ引っ張るトランペットパートは、この楽器をされる方なら一度はやってみたいのでは。この曲には同じペレスプラード楽団のバージョン違いがいくつかあり、掛け声が入るものと入らないものがあります。特にライブ録音と思われる盤の掛け声はとてもよく、自分もこれに合せて「ウ〜ッ!」と声を出してしまうのですが、そのタイミングが意外に難しく、なかなかうまく合わせられません。
「セレソローサ」は1955年、全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録しましたが、その頃の日本ではとある「チャチャチャ」がヒットしていました。1955年に発表された「チャチャチャは素晴らしい」(Miragros Del Cha Cha Cha)という曲です。オリジナルはキューバのエンリケ・ホリン自作自演の曲なのですが、その年(昭和35年)11月には江利チエミさんが、同年12月には雪村いづみさんが、この日本語版を続けざまにリリースしたのです。どちらも日本語歌詞にスペイン語歌詞が挟まるもので、スペイン語どおりの訳もあるにはあるのですが、創作部分も結構ありまして、それがもうなんというか。「おまわりさんも踊り出す」という歌詞は原語どおりなのですが、江利チエミ版は「今にも死にそうなよぼよぼのおばあさんも、中風のおじいさんも、しまいにはチャチャチャ」と続き、それが「おーっとあぶない、そらこけた」となりまして、これが後発の雪村いづみ版ともなると「娘は甘茶で、チャッチャッチャ、年寄りゃ渋茶で、チャッチャッチャ」と、まさしくチャチャが茶々となり、「お寺じゃ坊さん、木魚を叩いて なんまいだ〜でチャッチャッチャ お釈迦様、踊り出す」となります。そこに若干こぶしのきいたスペイン語がはさまるわけで、ラテン音楽の好き嫌いにかかわらず、是非、皆様に一度は聴いていただきたい。当時、洋楽を日本語で歌うカヴァーはごく普通ではあったのですが、ここまでも意訳すらも超えてしまうと、ウーム、まあ、日本語の歌詞なんて、当時は問題にならなかったのかもしれませんが。
ところでチャチャとは、キューバのトリプルマンボから発展したチャチャダンスというのが由来とのことで、それをもとにキューバ生まれでメキシコで名をあげたペレスプラードが、1950年代にアメリカに持ち込みチャチャチャとなったそうです。
そのキューバで最も知られた歌に「グァンタナメラ」(Guantanamera)というのがあります。1929年の曲ですが、一度聴いたら忘れられない、馴染みやすい曲です。いろんな時代にいろんな方が演奏していて、手元にもさまざまな演奏家が演奏したこの曲を18曲収めたCDがあります。
ネットでこの曲を検索すると、コロナ禍の中、小野リサさんが各楽器のパートとネット中継で結び、この曲を演奏している画像がありました。特にミュージシャンにとっては大変な時期ではありましたが、今は小野リサさんは、週一ぐらいのペースでライブ演奏を行っているようで、今年でデビュー35周年(!)、ボサノヴァ誕生65周年ということで、慶賀の至りではあります。
そういえば、30年以上前に、東京のとあるライブハウスで小野リサさんの演奏を聴いたことがありまして、当時すでに大人気で、たまたま行った当日、最前列席にキャンセルがあり、間近で観ることができたのですが、失礼ながら彼女についてはボサノヴァを歌う人程度の認識しかなく、てっきりスタンダード曲を歌うものとばかり思っていたのですが、見事にオリジナル曲ばかりで、実はそれまで彼女のアルバムを聴いたことがなく、ノルにノレずに帰ってきたことがあります。すみませんでした。
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