最上義光歴史館
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最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
館長裏日誌 令和6年12月12日付け
〇 国宝茶碗の話
楽茶碗には一般的に黒楽と赤楽がありますが、白楽というのもあります。白楽は楽家代々の茶碗にもあるのですが、白楽で最も有名なのが、「楽焼白片身変茶碗」、銘「不二山」という本阿弥光悦作の国宝です。現在、国宝指定の茶碗は8点しかなく、うち和物は2点のみ。そのもう1点は銘「卯花墻(うのはながき)」という作者不詳の志野茶碗です。
三井記念美術館が所蔵する「卯花墻」は案外目にする機会が多く、フルーツパフェなどを食べたついでに観れたりするのですが、諏訪湖畔にあるサンリツ服部美術館所蔵の「不二山」は門外不出で、国宝ゆえ展示期間も限られるため(これは「卯花墻」も同じですが)、機会を合わせるのが大変です。ただ、美術館へのアクセスは容易であり、平日であれば結構空いていて、じっくり鑑賞することができます。
この茶碗のすごいところは、茶碗本体のみならず、共箱の「蓋」と茶碗を包む「裂(きれ)」も国宝(附指定)であることです。美術館で展示される場合はこれらも一緒に展示されます。蓋には光悦自筆の「不二山大虚庵」の銘と印があり、裂(紫羽二重地松竹瀧人物金糸刺繡)には、光悦の娘が嫁ぐ際に本茶碗を振袖に包んで持参した、との逸話があります。この茶碗は二重にも三重にも箱に収められており、かつてサンリツ服部美術館で「箱は語る」と題し茶道具の箱を中心とした展覧会を開催した折、それらの箱も見ることができました。
この「不二山」は、白楽とは言え下半分は黒く、意図してこうしたのか、全てを白くするつもりがこうなってしまったのか、議論が分かれるところではありますが、とにかく和物の国宝はこれを含め2点のみです。刀剣の国宝指定は122件もあるのに、とは思いますが、なぜ少ないのかは、やはり謎のようです。
〇 練上手の話
さて、楽焼とは対照的な日本特有の技法に「練上」というのがあります。海外では「Neriage」と表記します。色の違う粘土、これは元から違う色の粘土だったり顔料を混ぜ込んだ粘土だったりしますが、それを複数組み合わせて模様とするもので、色違いの粘土の薄板をミルフィーユのように重ねて切ったものや、金太郎飴のように絵柄が出るように丸めたものを切って並べ板状にしたものなど、それらの断面模様を活かし、作品を作ります。粘土を組み合わせる際には隙間をつくらないようにするとか、切り出した板の模様が崩れないように成型するとか、特有の技術が求められます。また、色違いの粘土を混ぜてマーブル状の柄にすることもあり、轆轤成型などでよくみかけます。これも粘土が混ざりすぎて柄が消えないような技術力を要します。
「練上(ねりあげ)」のほかに「練込(ねりこみ)」と言うことがありますが、某「やきもの事典」によると同じとのことです。「揉込(もみこみ)」とも言うそうです。
練上は、ただ切って形を揃えるだけの銘々皿であれば大量生産できるのですが、マグカップなどはつなぎ目が崩れないように貼り合わせるのが難しく、大きめの花瓶などは型を作ってその上に貼り付けるように成型する型作りの技法を用いたりします。面が凸凹にならないようにすることが肝心で、板が薄ければ薄いほど高度な細工となります。
山形ゆかりの練上手の作家に、東北芸術工科大学の学長ともなられた會田雄亮さんがいます。かつて「違いがわかる男」として某インスタントコーヒーのCMに出ていた人です。公共施設の大モニュメントや陶壁から日常使いできる花器やカップまで製作されていましたが、市販されていたコーヒーカップセットなどは、薄造りの細工でしたが値段的には手頃で、山形市内では容易に購入できました。なので、いつでも買えるかもと思っていたところ、今となっては入手困難であり、もとより作家物のコーヒーカップなどを買うこともない自分は、やはり違いがわかる男ではなく、すみません。
〇 守破離の話
15代楽吉左エ門の作品図録に本人の「守破離の彼方へ」と題した文章があります。ここには、千利休の教えを和歌の形式にまとめた「利休道歌」の最後にある、「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」という句を引き合いに、つぎのように綴っています。
「私は世に言う『伝統』にも『現代』にも与するつもりはない。それらの決めつけを強い意志で拒否したい。『守』はまさに私自身を形作っている膨大な過去からの時間と認識の総体、歴史の集積ともいえる。それを認めながら同時にそれに抗している自分がいる。規定され、規定する自分とそれに抗している自分がいる。規定され、規定する私とそれを超えようと逸脱する私。永遠に繰り返される葛藤と自己矛盾。」15代の作品は、まさにそれを体現している感じです。
そして、「長次郎が400年前、ただ黒々とした一椀の楽茶碗をもってすべてを裁断、深々と沼淵に我々を落とし込んだ、あの研ぎ澄ませた刃の一撃のように、あの静かな、あまりにも静かな世界の底に激しく負わせたもの。言語を超えてゆくこと。『本』はそのことを意味する。」とあります。
蛇足ながら「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」という句を説明しますと、規矩(きく)とは規範のことで、その伝統の型をまずは徹底的に「守」り、それを自ら「破」り、型や師から「離」れて自分の型を確立しても、「本」つまり本質的なことを忘れるなという意味です。
これについて15代は、「守りたくもあり同時に離れたくもあるのが、人の心の常」「『保守』と『革新』はあらゆる諸相において常に生じている。『守・破』の二項から立ち上がる『離』はそれを超越しようとする境地である」が、しかし「『離』は揺れ動く私自身の意思、だんじて超越の境地ではない」と語っています。「私は時に右にまた左に、振り子のように大きく振れながら波形を描き歩いている。それが命というものの状態である」前後どちらに進んでいるか知りようもない、とも。
「守・破・離」は、そのままでは一方向への進化となってしまいますが、15代はいわゆる「正・反・合」のアウフヘーベン的な捉え方をしており、それは単なる昇華でもないようで、15代は、「守」は時軸の流れであり、「破」は時の裁断ともいえる。「離」は規定や認識という言語を超えようとすることであり、超えていくことが「本」である、とも言っています。なんか私では手に余る次元の話となってしまいましたが、東京芸術大学彫刻科卒業直後、イタリア・ローマに2年間留学しており、若い時から常に思索し、何かと闘ってきたのであろうことは想像できます。
ネットで調べたところ、この7月にロンドンで個展を開催していました。音楽とのコラボレーションということで、「Homage to Alban Berg and Toru Takemitsu(アルバン・ベルグと武満徹を讃えて)」というタイトルがついています。彼らの音楽に影響を受け制作したもので、ベルグはBlack Rock、武満はWhite Rock、と呼ばれる茶碗で表現したそうです。特に武満を表現した白地にカラフルな色彩をまとった作品は、まるでミロの版画を思わせるような茶碗で、人気沸騰間違いなしかと。個人的にも買えるものなら買いたいところです。
さてここで、ベルグや武満徹について、その蘊蓄やら個人的な思い出やらも語りたいところではありますが、そんな紙面もなく、第一こんな話題に誰もつきあってくれそうにもないので、ここは「Homage to Raku Kichizaemon XV Jikinyu (15代楽吉左エ門直入讃)」ということでとどめましょう。
〇 利休道歌(利休百首)のお話
せっかく「利休道歌」がでてきたので、ここで簡単にその内容でも。これは千利休の教えとして、茶道の精神、点前作法の心得などを、初心者にもわかりやすく憶えやすいよう歌にして百首にまとめたもので「利休百首」とも言われます。全てが必ずしも利休の作とは限らず、一般的には、裏千家11代玄々斎がまとめた「利休居士教諭百首詠」に、利休の作と推測されるものの2首が加わったものとのこと。茶道をされる方は、必ず目にしたものではないかと思いますが、その中からいくつか。
まずは、心構えに関する歌から。
▽ その道に入らんと思ふ心こそ 我身ながらの師匠なりけれ
(それをやろうという自分の気持ちこそが自分の師匠である)
▽ 上手にはすきと器用と功積むと 此の三つそろふ人ぞ能(よ)く知る
(上達するには、好きで、器用で、コツコツと努力する、この3つが大事)
▽ 点前には強みばかりを思ふなよ 強きは弱く軽く重かれ
(点前では、力を入れ過ぎず、強いものは弱く、軽いものは重く扱って)
▽ 習ひをばちりあくたぞと思へかし 書物は反古(ほご)腰張にせよ
(教えてもらったことはゴミだと思い 稽古帳は修繕などへのリサイクルに)
▽ 稽古とは一より習ひ十を知り 十よりかへるもとのその一
(稽古とは、全てを知って、そこからまた最初に立ち返りましょう)
▽ 名物の茶碗出でたる茶の湯には 少し心得かはるとぞ知れ
(名物の茶碗が使われた茶会は ちょっと特別な作法が必要)
▽ 余所などへ花をおくらば その花は開きすぎしはやらぬものなり
(自宅などに咲く花を贈るときは 咲ききっているものをやってはいけません)
手前作法の技術としては、
▽ 何にても置付けかへる手離れは 恋しき人に別るゝと知れ
(なんでも物を置く時は 恋しき人との別れ際のように名残惜しそうにしましょう)
▽ 茶入また茶筅のかねをよくも知れ 跡に残せる道具目当に
(お点前中の道具の位置は 動いていない他の道具を目印にしましょう)
▽ 茶入れより茶掬(すく)ふには 心得て初中後(しょちゅうご)すくへそれが秘事なり(茶入から茶を掬う時は 序・破・急を意識するのがコツ)
▽ 茶を振るは手先をふると思ふなよ 臂(ひじ)よりふれよそれが秘事なり
(茶筅は手先で振ろうとせず 肘から振るのがコツ)
▽ 右の手を扱ふ時はわが心 左の方にありと知るべし
(右の手を動かしている時は、左手を意識しましょう)
次に、道具の扱いとしては、
▽ 筒茶碗深き底よりひき上り 重ねて内へ手をやらぬもの
(筒茶碗を拭く時は、拭いた部分を手で触れないよう、まず底を拭き 後で口縁を拭きましょう)
▽ 水と湯と茶巾茶筅に箸楊枝 柄杓と心あたらしきよし
(客を迎える前に 消耗品は新しく、心も新しくしましょう)
寸法については、こんなことを歌に。
▽ 茶巾をば 長み布幅一尺に 横は五寸のかね尺としれ
(茶巾の寸法は 長さ約30cm 幅約15cm の曲尺と知っておきましょう)
▽ 掛物の釘打つならば 大輪(おおわ)より九分下げて打て釘も九分なり
(軸竹釘を打つ場所は 天井の回り縁より約27mm下に 出る釘の長さも約27mmで)
▽ 花入の折釘打つは 地敷居より三尺三寸五分余もあり
(床の壁に打つ無双釘(中釘)は 地敷居より約1mくらいの高さに打ちましょう)
▽ 掛物をかけて置くには 壁付を三四分すかしおくことゝきく
(壁や掛物を傷めないように 掛物は壁から1cmほど離すように掛けましょう)
その他、茶入れには7句、炭の扱いには9句もあてています。
▽ 炭置くはたとひ習ひに背くとも 湯のよくたぎる炭は炭なり
(炭手前で悪いとされる炭の置き方でも よく湯が湧く置き方こそがよい置き方)
▽ 炭置くも習ひばかりにかかはりて 湯のたぎらざる炭は消え炭
(習ったことばかりに固執して 湯が沸かないのは本末転倒で炭が無いのと同じこと)
また、道具より気持ちが大事とも言っています。
▽ 品じなの釜によりての名は多し 釜の総名鑵子(かんす)とぞ言ふ
(いろんな名のある釜ですが つまるところただの鑵子=釜です)
▽ 茶はさびて心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合(ありあひ)にせよ
(質素でも気持ちをこめたもてなしを 道具はいつも有り合わせのもので)
▽ 釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具を持つは愚な
(釜一つで茶の湯はできるのに、いろんな道具をもつのは愚ですよ)
▽ 数多くある道具を押しかくし 無きがまねする人も愚な
(いろんな道具を待っていることを隠して 活用しないのも愚かですよ)
▽ 茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて のむばかりなる事と知るべし
(茶の湯とは、ただ湯をわかして茶をたてて、飲むだけのことと知りましょう)
とは言え、茶会となれば、茶碗ひとつ、掛軸、着物、庭木の一本一本までにツッコミが入るわけで、立ち寄りがたい際限なき世界ではあります。
最上義光歴史館
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「山形市へ新たに寄付された最上義光文書をめぐって」 松尾剛次
山形市へ新たに寄付された最上義光文書をめぐって
令和二(2020)年12月14日、秋田市在住の�盒興�夫氏から山形市に「天正九(1581)年九月一二日附最上義光知行宛行状」が寄付された。そこで、その文書の紹介と若干の考察を行う。
本文書は、すでに『山形市史史料編一最上氏関係史料』(山形市、1973)257頁、『山形県史資料篇十五上、古代中世史料1』(山形県、1977)502頁に翻刻、紹介されており、非常によく知られた文書である。大きさは縱31.5センチ、横47センチで、紙は、いわゆる豎紙で使用されている。
先述のように、本文書は周知の文書であるが、原文書の所在がわからなくなっていたので、今回所有者から寄贈にいたったのは喜ばしい限りである。秋田市在住というように、本文書を伝えた�盒恐箸蓮�江戸時代に佐竹氏家臣であったが、最上家改易以前は、おそらく最上家家臣であったと考えられている。「最上義光分限帳」には千石の「高橋但馬」など10人の「高橋」がおり、その内の一人が本文書の受給者の可能性がある。
ところで、本文書は最上義光の印判(判子)研究においてとりわけ注目されてきた。というのも、図のような、いわゆる「七得」の印判(小黒印ともいう)使用における、年付けがわかる最も古い文書だからである。七得は、七徳のことと考えられる。すなわち、「春秋左伝」宣公一二年(紀元前597年)によれば、武の七つの徳を意味するという。その七徳とは、暴を禁じ、兵を治め、大を保ち、功を定め、民を安じ、衆を和せしめ、財を豊にすることである<『日本国語大辞典6』(小学館、2001)>。義光は、そうした武の七徳を理想にし、その思いを印判に込めたのであろう。
義光は、A〜D型の四種類の印判を使用した。用途が限定された伝馬印のD型を別にすれば、当初は、鼎型のA型を、次にC型の七得の印を、その次にB型の使用が始まったと考えている。それらの印判の中で、もっとも使用頻度が高く、死の直前まで使用されたのが七得(C型)の印であった。印判の使用は、義光の支配領域の拡張と、家臣団の拡大を表している。本文書を翻刻すれば、上記(写真)の様なものである。
A型
B1型
B2型
C型
D型
内容は、この度の山内での戦いにおいて、走り回っての奉公を行ったので、敵として成敗した安藤九郎兵衛の領地を�盒怯�鶴に末代にいたるまで支配することを認める、というくらいであろう。すなわち、恩賞として、土地を給付したもので、古文書学で知行宛行状と呼ばれるものである。
ここで注目されるのは、山内がどこかであるが、はっきりしない。『山形県の地名』によれば、「山内 古口(ふるくち)から下流、清川(きよかわ)(現東田川郡立川町)までの最上川は(約16キロ)、出羽山地を先行、谷を形成しながら横断する。この区間は山内と称され庄内と内陸を結ぶ要路ではあったが、川の両岸は切立った崖となり川に沿って通行することは困難で、古くから舟による通行が盛んであった。現在は最上峡の名で知られる」山内かも知れない。また、安藤九郎兵衛が如何なる人物かも不明であり、今後の研究の進展を待って筆を置こう。 松尾剛次
■執筆:松尾剛次(山形大学名誉教授)「歴史館だより��28」より
最上義光歴史館
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2021年11月 利用者アンケート集計結果
《2021年11月の利用者アンケート集計結果》
休館のためアンケートの実施なし
※施設の老朽化に伴う設備不具合の原因調査を行うため10月16日から令和4年1月17日まで臨時休館
最上義光歴史館
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館長裏日誌 令和5年11月27日付け
◎ 毒殺事件の話
義姫の関わる事件で最も有名なのは「政宗毒殺事件」です。
その概要についてはまず、NHKオンデマンドにある「独眼竜政宗」の第22話「弟を斬る」の回のあらすじでも。
「政宗は小田原への参陣に遅れを取り、秀吉から逆心の疑いをかけられる覚悟で出陣を決めて、伊達家の後継に伊達成実を指名します。出陣前夜、政宗が出陣のあいさつにお東を訪ねると、伊達の家督を小次郎に継がせたいお東は、祝いの膳に毒を盛ります。政宗は一命を取り留めると、禍根を断つため、泣く泣く小次郎を斬ります。お東は兄・義光のもとへ逃れますが、悲しみのあまり既に正気を失っていました。」
ここで「お東」とは義姫のことで、「祝いの膳」とは、義姫が天正18(1590)年4月5日に催した政宗の小田原参陣の陣立ちの祝いです。毒殺を謀った理由は、一説によると、この前年、秀吉の私闘禁止令にもかかわらず政宗が会津に侵攻し、秀吉の怒りを買ってしまったが、政宗を殺して小次郎を当主にすれば許される、と義光が義姫をそそのかしたため、というものです。また、毒を盛ったのは義姫なのに、小次郎を政宗が斬ったのは、母を殺すわけにはいかないので弟を殺すことにしたとのことです。
しかし近年、佐藤憲一 (元仙台市博物館館長) さんが、この事件は、政宗と義姫とが共謀した狂言であり、小次郎は殺されておらず、大悲願寺(東京都あきる野市)に逃れたのではないかと、つぎのように推測しています。
義姫は、政宗が秀吉のもとを訪れても、怒りがおさまらない秀吉に処刑されるだろう、と考えた。政宗が処刑されると、伊達家の所領はすべて没収されてしまう。こうした事態を防ぐため、政宗に代えて小次郎を当主に擁立し、兄の最上義光を通じて秀吉に許しを請おうとした。
事件当時、政宗は24歳、小次郎は10〜12歳。小田原参陣の時、政宗に実子はいなかった。すると、政宗に万一のことがあれば、伊達家の血統を継ぐ者は小次郎だけであり、それを殺すとは考えにくい。だが、小次郎を当主に推す勢力もあるらしく、伊達家の一本化を図るためには、小田原参陣前に、政宗は弟を排除する必要があった。政宗が小田原の秀吉に会いに行くとき一番心配だったのは、自分の留守中に小次郎を擁立した内乱が起きかねないことである。そこで、義姫と話し合い、小次郎を殺したことにして、寺に逃したのではないか。
以上、詳しくは当館HPの「歴史館だより��30」などを参照いただきたいのですが、この事件の後、小次郎はもとより、山形に戻った義姫も表舞台からしばらくいなくなります。さてこれが「タイムスリッパ− タイガー&ドラゴン」においては、物語の伏線となります。つまりこの二人が姿を消している間というのは、現代にタイムスリップしている、という設定ができるかと。
◎ タイムスリッパ−の世を忍ぶ仮の姿の話
さて、現代に現れた江戸時代の人が、どんなふうに生計をたてていくべきか。「タイムスリッパ−侍」では、時代劇撮影所での斬られ役の侍という、もうそれだけで物語が動く絶妙な設定となっています。
では、この義姫と小次郎の場合はどうするか。まず小次郎は小学生ということで、時代劇の子役とか謎の転校生とか。義姫については、その気性からすればスナックの雇われママとか、背丈からすればモデル業とか、あるいは古美術商として、伊達家ゆかりの刀剣・甲冑・書状などを売りさばく、というのもいいかもしれません。
続いて、伊達政宗ですが、オシャレということからすればブティック経営、んっ、これではまるで「タイガー&ドラゴン」そのままか。あとはホストとかでしょうか。
そして、義光ですが、得意技を活かすとなると、連歌や古典文学の講師、カルチャーセンターとかでしょうか。あとは、武道、乗馬、鷹狩、うーむ、これだけではなかなか食っていけそうにありません。他に得意技となると、実は手元に戦国武将��1図鑑(ワン・パブリッシング社刊)という今年出たばかりの本がありまして、ありがたいことに最上義光の項も設けられていますが、そこには「怪力すぎる大名��1」とありました。この本には、各武将等の能力がレーダーチャートで示されていて統率力、教養、策略、領地、先見性、野望、武勇の各項目とともに、その武将特有の能力指標が設けてあり、義光の場合、これが「腕力」であり、その数値がMAXで示されていました。ちなみに伊達政宗は「オシャレ」がMAX、上杉謙信は「休日」が最低、つまり遠征ばかりしている、という評価となっています。
ではその怪力を活かす仕事とは。まずはガテン系の仕事とか、あっ、ありました、みちのくプロレスとか。キャラも指揮棒を振り回すとかでそのままいけそうですし、いや、失礼しました。でも、先月放映のNHKの某番組では、某有名プロレスラーが義光を演じていましたし。
さてさて、女主人の古物商ギャラリーに、ホストの息子とコスプレレスラーの兄が集い、そこに謎の転校生が出入りする、不思議な舞台設定のできあがりです。どうでしょう、クドカンさん。
◎ タイムスリップの話
タイムスリップのパターンは、この「タイムスリッパ−侍」や「テルマエロマエ」のように、過去の人が現代に現れるもの、「ドラえもん」や「ターミネーター」のように未来の人(?)が現代にくるもの、「戦国自衛隊」のように現代の人が過去にいくもの、「猿の惑星」のように現手代の人が未来に行くもの(しかも設定はだいたいデストピア)、そして「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「タイム・マシン」のようにタイムマシンで移動するもの、あとは小松左京著「地には平和を」などに出てくるタイムパトロールとかでしょうか。小松左京と言えば高校生の時、「果てしなき流れの果てに」という10億年の時空を舞台にした小説を読んだのですが、話がわからないのに妙に感動したことを覚えています。どうも時空間を突き詰めていくと、最後は神の領域にいくようです。
さて、タイムスリップの方法としては、タイムマシンの他、雷などの自然現象によるものだったり、あの犬の半妖が行き来する井戸などの過去や未来とつながるタイムトンネルだったり、あとは「時震」という超常現象だったりします。また、光速を超えて情報だけが送られる情報タイムトラベルというのもあります。
では、タイムトラベルの物語はというと、過去を変えて現況を変える、または、未来の情報を過去に持ち帰る、というものと、単に時代の違いにあたふたする、というものなどになりますが、「タイムスリッパ− タイガー&ドラゴン」であれば、義光や政宗が自分に起きることを知り、悔やまれることをやり直しする、というのが素直に考えられる展開ではないでしょうか。すると、義光であればやはり秀次事件に巻き込まれて処刑された二女の駒姫のことや、高野山に逃がすつもりなのに暗殺された長男の義康のことではないかと。政宗については、様々あるかとは思いますが、天然痘で右目を失ってしまったこととか、父輝宗を敵将もろとも射殺しなければならなかったこととか、百万石のお墨付きが反故にされてしまったこととか、まあ、いろいろと取り戻せるものなら取り戻したいことがあったことかと。別の展開としては、それぞれの特技を活かして現代社会で大活躍というのもあろうとは思いますが。戦国サロン「義姫」とか。いや、失礼いたしました。
◎ タイムパラドックスの話
ここでタイムトラベルの矛盾についてのお話でも。情報タイムトラベルでは、未来の情報に基づいて現在を変えれると本来の未来も消滅するという「いかさま師のタイムパラドックス」が生じ、タイムトラベルで過去を変えれば「親殺しのパラドックス」つまり、時間を遡って自分が生まれる前の親を殺してしまったら、自分も生まれてこないという矛盾が生じます。
ただ、これらの矛盾の解決方法として量子力学的な説明も用いられます。まず、情報タイムトラベルの可能性については、「量子もつれ」つまり、二つ以上の粒子で、一方の粒子の状態を測定することで、即座に他方の粒子の状態が決定され、距離に関係なく瞬時に情報が伝わるという特性を用いればできるかもしれません。
物理的なタイムトラベルについては、「多世界解釈」で説明されます。これは宇宙の波動関数を実在のものとみなし、観測による波束の収縮が生じない、つまり観測によりひとつの状態に定まるものではなく、重なり合っている多世界が干渉性を失うことで異なる世界に分岐していくという考え方で凌げるというものです。ただ「多世界解釈」では分岐していくだけで、平行世界への移動や干渉ができないということで、話はそこで終わってしまうのですが。
一方、タイムトラベルを否定するものとしては、未来から過去へ物質や情報を持ち込むとその時点で宇宙全体の物理量が変る、つまり質量保存の法則が破綻してしまい爆発する、という大どんでん返しのような説もあります。
ところで、時間が進めば進むほどエントロピー(ここでは配列や状態の混沌度を表す量のこと)は増大するという法則がありますが、「マクスウェルの悪魔」という分子を見分ける悪魔がいるとすればエントロピーは減少させられる、という思考実験があります。実は最近、量子コンピューターによる、あるシミュレーションでこの「マクスウェルの悪魔」的な現象が確認されたそうです。一度拡散したものが、収束するという、これはすなわち時間を巻き戻すような現象で、「覆水盆に返らず」ということわざがありますが、それが盆に返る事態となるのですが、宇宙時間のレベルでは、こうしたことが起きる可能性があると言います。ただし、実際に起きるとしたら100億年以上先とのことでした。いわゆる、杞の国に天が落ち、地が崩れると心配する「杞憂」以上の話ではあります。
〇 落語の話
せっかく「タイガー&ドラゴン」を持ち出したのに、肝心なことを忘れていました。このドラマの大きなモチーフとなっているのが落語です。
この落語の起源には諸説あるそうですが、戦国時代、武将の側近に持して相手をする「御伽衆(おとぎしゅう)」が話す「夜話」という説があります。御伽衆は軍師として軍政の相談、また文武の指南、雑談などにも応じていました。経験豊富な浪人や若殿の遊び相手となる若者などが起用されたとのこと。
特に話術の巧みな御伽衆は、夜襲に備えるために夜通し起きている兵士らの眠気を覚ますため様々な話をし、中でも「オチ」をつけた笑い話が落語の起源とのこと。落とし噺というのが落語の語源であることは、皆さまご存知のとおりです。
最上義光の家臣にも「堀喜吽(ほりきうん)」という御伽衆がいました。上方で兵法を修業し、文化芸能の達人でもあり、京都で開かれた連歌の席には、主君義光と共に16回同席しました。現在、当館で展示中の連歌巻にも、堀喜吽が詠んだ句があります(「賦何舩連歌(1596年)」、「賦何墻連歌(1598年)」)。詳しくは当館HPの「最上家をめぐる人々♯34」などを参照願います。
この御伽衆、連歌師とともに、ドラマ的にはなかなかおいしい役柄になりそうです。また、連歌を催す「連歌会(れんがえ)」は、大名、貴族、僧侶、豪商などが集う場であり、今どきのドラマであれば喫茶店やスナックのような使い勝手のいい場として、さまざまな登場人物を行き来させることができます。
さてさて、そんな下世話な話はさておき、落語の話に戻りましょう。
「タイガー&ドラゴン」は毎回、古典落語をマクラ(?)に話が展開していくのですが、まず最初のスペシャルドラマでかけられるのは「三枚起請」。廓噺ではありますが、人情噺とも滑稽噺ともなるもので、まずこの落語からというのはさすがという他ありません。続いて、連続ドラマ化された第1話が「芝浜」、最終話が「子は鎹(かすがい)」という人情噺の大ネタをもってきて、間には「明烏」や「品川心中」といった廓噺や、「厩火事(お前が指でも怪我したら明日から遊んで酒が呑めねえ)」や「猫の皿(時々猫が3両で売れます)」といったサゲが効いた話など、まあ、そのラインナップ加減はすばらしいの一言です。
そこで、余計な事とは重々承知の上ですが、もしこのタイムスリッパ−版がつくられるとしたら、どんな落語が並ぶでしょうか。
まずは「あたま山」でも。頭の上でさくらんぼの種から枝が伸び、花見がはじまり、池で釣りをするというお話(これだけでは全くわからないかもしれませんが)ですが、これを戦場に置き換えるというのはどうでしょう。また骨董屋の話としては「火炎太鼓」。いわずと知れた有名落語です。ちょっと似たような話で「井戸の茶碗」もどうでしょう。どちらも五代目古今亭志ん生の名演があります。
あとは「二階ぞめき」とか「湯屋番」などの妄想ネタは、いろんな場面が仮想的に描けそうです。「反魂香」とかは過去の人との交信に。「悋気の火の玉」という噺もなかなか面白い設定です。妻と妾が次々亡くなり、火の玉になってぶつかり合うというものですが、武将とかに変えると何か応用がきくかもしれません。ちなみにこれは五代目三遊亭圓楽がとてもいい。
似た演題に「悋気の独楽(こま)」というのもあります。今夜は本宅か別宅かを独楽で決めるという話ですが、昭和15年9月20日、警視庁は内容が卑俗的で低級であるとして、これを「二階ぞめき」や「高尾(=反魂香)」などとともに53演目を上演禁止(禁演落語)としました。逆に言えば、それだけ落語を当局は観ていたということなのですが。
最上義光歴史館
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メモ
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館長裏日誌 令和6年11月10日付け
○ 最上義光の手紙の話
朝鮮出兵の理由について諸説あるのは、つまりはそれを裏付ける決定的な文書がないためです。文書には主に「日誌」、「書簡」、「公文書」、「史誌・伝記」、他に「証文」や「帳簿」など、あとは「物語」や「詩歌」などがありますが、歴史研究においてまず注目されるのは日誌や書簡です。日付や作者が明確であり、書けないことは当然あるにせよ、フィクションばかりということは稀でしょう。また、日誌や書簡は人間関係も読み取ることができます。一方、史誌は公式で作成されることもありますが、戦記物となると誇張や省略、筆者の主観や伝聞も入るため、歴史研究上は二次資料扱いとなることが多く、他の資料との読み合わせが必要です。
さて、朝鮮出兵にあたっては、その出兵拠点として現在の佐賀県唐津市・玄海町に「名護屋城」という城を築きました。大坂城に次ぐという規模で、周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、そこには全国から20万人以上が集ったそうです。諸国大名の兵の割当は、四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定められました。また、常陸以西、四国、九州、日本海の海沿い諸国大名は、10万石に付き大船2艘を準備するように命じられました。人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員を含むと、名護屋での滞在が10万人、朝鮮への出征が16万〜20万人となったそうです。
主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、東日本の大名は肥前名護屋に駐屯。最上義光は名護屋城の在陣衆として500人、他に徳川家15,000人、上杉景勝5,000人が駐屯。伊達政宗は1,500人のところを自主的に3,000人とし朝鮮に出陣しました。九州へむかう途中、京都を出発した伊達軍のいでたちは、見物していた町の人々を驚かす派手で奇抜なものでした。足軽までもが黒塗りに金で星を描いた具足をつけ、刀の鞘は銀や朱、頭には金のとがり笠。馬上の侍たちはさらに豪華な鎧を身につけ、馬にも豹や虎の毛皮で作った馬鎧を着せていたそうです。この頃には「伊達者」と言われるようになっていたといいます。
戦地や領地外に在留すれば、当然、領地との書簡のやり取りがなされます。朝鮮出兵時の書簡については、義光も政宗も残されているものがあり、それはまた博物館における主要展示品のひとつともなっています。朝鮮出兵に際し、義光は楽観的であり(書状には「御心易かる可く候」とあります)、政宗は意気軒高ですらあったのですが、戦況が厳しくなるにつれ、義光は嫌気がさし、政宗は疲労が伺えるものとなってきます。
まず、義光の手紙から。文禄二(1593)年五月十八日、最上義光が家臣伊良子信濃に宛てた書状があり、その写しが仙台市立博物館(伊達家文書)にあるのですが、その複製を当館で展示しています。その主な内容はつぎのようなものです。
蒲生氏郷に対し義光が、朝鮮出兵について尋ねたところ、「我等が渡海することはないだろう。朝鮮では豊臣軍がーヵ所に集まっていて、飯米もない。」との返事であった。文禄の役はすでに泥沼化しており、劣勢は濃厚。このような状況のもと義光は、「いのちのうちニ、いま一ともかミのつちをふミ申度候、ミつを一はいのミたく候(命あるうちに今一度、最上の土を踏みたい。水を一杯飲みたい)」とまで記したが、義光は朝鮮へ渡海せずにすんだ。しかし、家康が朝鮮への渡海を命ぜられたと聞き、義光は家康に使者を送った。すると家康から「ふしきニ出羽も我等も此度の命をミつけ候。やかてやかて国へくだり、たかをつかい候ハん事、ゆめかうつつかとよろこひ候(不思議に義光も家康も命が助かった。やがて国へ下り、鷹狩りができることは、夢かうつつか)」と返事がきて、義光も「あわれあわれ、さやうに候へかし」と記したものです。
この手紙からわかるように、「朝鮮出兵」は実は地方大名のグループ化のきっかけともなったようです。ところが次第に、加藤清正ら前線で戦ったグループ(武断派)と、石田三成ら後方で軍政を支えていたグループ(文治派)との軋轢が鮮明となり、豊臣家はその分裂を止められないまま「関ヶ原の戦い」に突入します。
○ 伊達政宗の手紙の話
続いて、伊達政宗の手紙のお話を。政宗は筆まめで知られ、1000通以上もの自筆の手紙が現存しています。仙台市博物館の元館長であった佐藤憲一氏が著した「伊達政宗の手紙」という本があり、1995年に新潮選書として刊行され大変話題になり、今もその復刊が望まれています。政宗の手紙に関わるエピソードのネタ本的存在となっています。
まず、朝鮮出兵は、ぎくしゃくしていた義光と政宗との溝をなくすものでもあったことがわかる手紙があります。天正二十(1592)年六月頃に、政宗が義姫の侍女小少将に宛てた書状で、実質的には義姫に宛てた手紙です。政宗は伯父である義光を「御あにさま」と呼び、「御あにさまにはさいさいあい申候、むかしあいのわるきときのさたをたかいニかたりあい申、いろさまの事を申、いらい申候」と記し、政宗は名護屋で義光と度々会い、昔相性が悪かった時の評判を互いに語り合い、色々様々な事を言い、わだかまりを払った、と書いています。
また、政宗の朝鮮滞在中の手紙としてよく引用されるものに、母・義姫との「国際便」というのがあります。文禄二(1593)年七月二十四日付けの書簡で、日本から朝鮮に届けられた母からの手紙に対する政宗の返書です。朝鮮と日本、海を隔てて手紙をくれたお礼を述べ、朝鮮での出来事などを詳しく知らせています。加えて母からは、手紙に添えて金三両が届けられました。長い手紙ですが、手紙にはまずこう書かれています。
「筑紫までの便りでさえ着くかどうか心許ないというのに、高麗・唐と音にも聞こえた遠隔の地へお便りをくだされたお志、感謝申し上げます。天道も恐ろしく思われる程です。これ以前、こちらからも折にふれお手紙を差し上げましたが、遠路のことゆえ、三つに一つも届くのか心配です。」
母が贈ってくれた金三両に応えるため、彼は母に贈る土産物を捜し回ります。しかし、「おどりたちはねあがりたづねまはり候へ共、御めづらなる物(珍しい品物)」は見つからず、いろいろ手に入れてはみたが、飛脚を使って遠路日本まで送れるような物がない。思案のあげく、朝鮮の木綿織を贈ることにしました。「日本の関東で織られる木綿織より美しいのではないかと思うのですが、比較できませんので、本当のところは判りませんが」。と書き添えています。
そして、政宗の手紙の場合、実は追伸が注目点でもあるのですが、この手紙の追伸には朝鮮の戦況も書かれています。
「此国にては、水ちがい候ゆへ、人々しにうせ申し候事、中々申すがおろかにて候。われらはふもつづき申し候や,いまにはづらひ申さず候。あはれ此ぶんにていのちつづき、一たびおがみ申したき御事までに候。此ほか申し上げず候。かしく。(この国では、水が合わないため、多くの人々が死んでいます。私は内臓が丈夫なためか、これまで病気はしていません。どうかこのまま命永らえ、もう一度母上にお会いしたいと念願するばかりです。この他、申し上げることはございません。かしく。)」
朝鮮出兵の兵站方法としては、海上輸送を予定していました。要所、要所で寄港し補給するもので、必要な物資は確保されていたものの、前線の進み方が早く、補給が追いつかなくなっていました。若き大将と統率困難な猛将で構成された前線は、制御が効かないままむやみに北上してしまい、兵糧が十分に調達できず餓死者が大量に出たのです。補給路も朝鮮水軍により阻まれ、明軍により食糧貯蔵庫が焼かれたりもしました。ストレスや寒さなどから伝染病が蔓延。飢餓や疾病による死亡が、戦闘よる死亡よりはるかに多くなってしまいました。それにしてもロジスティック(兵站)無視というのは日本の伝統なんでしょうか。食糧の現地調達を前提とした某軍のインパール作戦はさらにひどいものでしたが。
○ 戦果品の話
では、中学レベルを超えたオリジナルの問題を。
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約七万人ともいわれる捕虜として連行された朝鮮陶工により日本の陶磁器文化が花開いたため、朝鮮出兵は別名( )と言われている。朝鮮国の陶工たちによってもたらされた( )や( )によって、たくさんの焼き物が作られ、それらは伊万里港から全国そしてヨーロッパ諸国に売り出されていった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
解答と解説です。
最初の答えは「やきもの戦争」。これはサービス問題ですね。次の答えは「蹴(け)ろくろ」と「連房式登り窯」、難問というか窯場の近くにでも住んでいないとわかなり専門的な問題です。手回しのろくろが蹴りになることで効率的に作れるようになり、連房式つまりいくつも窯が連なることで大量に安定した焼成ができるようになりました。当時の朝鮮の陶芸技術は、朝鮮と明の国だけが保有していた最先端技術でした。そのため「捕虜の中でも、陶工をまず先に送るように」という命令が出され、朝鮮の数多くの陶工が捕虜として日本に連行され、西国の大名たちの領内で陶磁器を生産しました。鍋島焼で有名な鍋島藩では、技術流出を防ぐために陶工の領地外への移動を厳しく制限したといわれます。
捕虜のほとんどは農民で、日本ことに西国では、農民が陣夫役などで朝鮮に駆り出されていたため、連行された朝鮮農民は奴隷として農耕を強制されました。日本からの人買い商人が朝鮮人の首に縄をかけて引き立てていく光景も見られたそうです。朝鮮人の死者と捕虜の数は日本人とは比較にならない程多かったとのことです。
なお、伊万里焼というのは、伊万里という窯場があるのではなく、陶磁器の積出港である「伊万里津」に由来するものです。
最後に、試験にはまず出ないであろうオリジナルの問題を。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
戦国時代には戦闘地域の住人を拉致して売り飛ばす( )という行為が一般的に行われていた。また、戦闘の手柄を示すものとして、敵軍の首のかわりに( )切りや( )切りが行なわれた。秀吉は「集めたものが枡一升分になった者から住人の生け捕りを認める。」とし、秀吉から派遣された軍目付(いくさめつけ)が諸大名からそれを受け取り、「( )状」を出した。
朝鮮人に対し日本の武将たちは競ってこれを行なった。それは相手が戦闘員のみに限らず、非戦闘員の女性たちにも行われていた。切り取ったものは( )にして樽に詰め、秀吉のもとに送られた。数千から万をこえる数が、海をわたって秀吉のもとに送り届けられた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
それでは解答と解説です。
最初の答えは「人取り」です。そして切ったのは「耳」や「鼻」です。これを升いっぱいにすると人取りを公認しました。軍目付は「鼻請取状」を出し、切り取った耳鼻は「塩漬け」にして送られました。
戦国時代において、恩賞の基準となったのが討ち取った首の数です。敵の大将クラスは首で検分しましたが、足軽など身分の低いものは鼻や耳でその数を確認していました。討った敵兵の首は腰に下げましたが、それが多いときには上唇の部分を切り取り運びました。上唇にある髭の剃り跡で、成人した男であることがわかります。
戦果の首は塩漬けにされ、塩のかわりに酢や高級な武将の場合はアルコール漬けつまり酒に漬けることもあったそうです。朝鮮出兵では、軍目付が諸大名ごとに鼻の数を点検して請取状を出し、諸大名は鼻切りをした家臣に請取状を出して鼻切りを競わせました。加藤清正などは、家臣1人につき鼻3つを割り当てたそうです。
秀吉は、朝鮮出兵で集められた耳や鼻を京都の方広寺大仏の西に埋め、塚を築き、「慈悲」を天下に示そうと五山の僧侶400人を集め供養しました。高さ約7mの塚の上に五輪塔が据えられています。当初、「鼻塚」とよばれていましたが,現在は「耳塚」とよばれており、京都国立博物館の北西に耳塚公園というのがあり、その西隣にこの耳塚があります。
二度目の朝鮮出兵中、慶長三年八月一八日に秀吉は亡くなります。その死は秘匿され、日本側はこれを機に朝鮮半島から撤兵します。朝鮮出兵は日本にとって多くの戦費と兵力を費やし,大名や民衆の負担も大きく,豊臣政権が没落する原因のひとつとなりました。また、朝鮮も農民を失ったことで田畑が荒れ飢饉となり、明も国力がそがれ清となり、どの国も損害ばかりの戦でした。
〇 虎と馬と梅の話
さて、加藤清正は「虎退治」で有名ですが、朝鮮で仕留めた虎の肉を塩漬けにして秀吉に送りました。虎の肉は補薬(ほやく:精力増強の薬)として珍重され、秀吉は健康になる薬として、見ることよりも食べることを重視していました。また、「虎の脳みそ」が長寿には一番効くとして、歳をとってからの息子・秀頼のため、秀吉が長生きするようにと送ったそうです。しかも秀吉は、武将たちに虎を狩るよう命令したため、武将たちはこぞって虎を狩り、肉や頭を送りました。しかし、あまりの量にさすがの秀吉も「しばらく虎は不要」とお達しを出したと言います。
また、加藤清正は肥後熊本の藩主ですが、熊本に馬肉の食文化が根付いたのは、この朝鮮出兵の頃と言われています。当時、朝鮮に渡った日本軍は、食糧不足に陥りました。とりわけ蔚山城(いさんじょう: ウルサンソン)など現地の築城とそこでの戦いをめぐっては、兵糧と水不足になやまされ、資材を運んで不要になった牛馬は皮をはがれて食用となりました。加藤清正は帰国後、馬刺しを好んで食べ、また、熊本では馬は古くから農耕や輸送に使われ、余剰の馬は食用にしていたことから、馬肉を食べる習慣が生まれたといわれます。
つまりは、秀吉が虎肉を食べていた時、現地では馬肉を食べていたということで、トラとウマでトラウマというか、とにかく、朝鮮出兵でもたらされたものは、陶工と耳鼻や虎肉の塩漬けそして馬食文化だったわけです。
さて、そんな朝鮮出兵において伊達政宗は、母には朝鮮木綿を送り、領地には梅ノ木を持ち帰ります。地面に伸びる幹が、まるで龍が這っているような様から臥龍梅(がりゅうばい)と呼ばれます。臥龍梅は政宗の隠居城(若林城)の庭に植えられますが、現在は宮城刑務所になっているため一般には非公開です。また、政宗の菩提寺である松島の瑞巌寺にも、持ち帰った臥龍梅が植えられています。やはり政宗は伊達です。
最上義光歴史館
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2021年10月 利用者アンケート集計結果
《2021年10月の利用者アンケート集計結果》
この集計結果は令和3年10月1日から同15日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。
常設展示 (10/1 〜 10/15)
開館日数・・・・・・・・・・・・・13日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・477名
回答者数・・・・・・・・・・・・・8人
※施設の老朽化に伴う設備不具合の原因調査のため10月16日から令和4年1月17日まで臨時休館
1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・0%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・13%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・13%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・25%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・13%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・25%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・63%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・25%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・50%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・50%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%
(2)最上義光と最上家について??
�,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・88%
�△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・13%
��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
�い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�
〜利用者の声〜
兵庫県 女性
くわしく丁寧な解説でよかった。解説文をもっと手前か、あるいは照明明るく、大きくかいてもらえるとありがたい。
愛媛県西条市 男性/50代
もう少し周りの活用。
山形県東根市 女性/40代
無料なのがすばらしいです。お池の噴水もステキです。写真NGが残念でした。
山形市 女性/50代
説明が聞けてよかった。
山形県・三川町 女性/40代
くわしく説明していただき、ありがとうございました。
※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。
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