最上義光歴史館

最上義光歴史館
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新年になって早や2週間が経とうとしています。
今年は特に光陰矢の如しです…

特設展示/第三部
「最上家ゆかりの古文書」
〜山形市指定有形文化財指定記念〜
は1月9日(月)をもちまして終幕いたしました。
会期中は沢山のご来館大変ありがとうございました。

1月10日(火)、11日(水)の2日間で展示替えを行いました。




特設展示/第四部「出土した陶磁器」
1月12日(木)に開幕いたしました。
県内4地域の遺跡から出土した陶磁器類を展示しております。
皆様のご来館をお待ちしております。



■名称
特設展示/第四部
「出土した陶磁器」

■会期
令和5年1月12日(木)〜令和5年4月2日(日)

■内 容
(公財)山形県埋蔵文化財センターにより近年発掘調査が行われた
県内4地域の中近世の遺跡から出土した陶磁器類を紹介します。

■展示資料出土遺跡
亀ヶ崎城跡(酒田市)
鶴ヶ岡城跡(鶴岡市)
上野遺跡(最上郡鮭川村)
谷地城跡(西村山郡河北町)
堤屋敷遺跡(米沢市)
米沢城跡(米沢市)


■ 「午」の話
 丙午(ひのえうま)にまつわる話は、いろいろ聞き及んでいられることとは思いますか、「ひのえ」に「うま」が重なることで、「情熱的」で「行動力あり」といった意味合いとなり、戦国武将にとっては、この上ない干支ではないかと思われます。ところでここで素朴な疑問をいくつか。
 まず、十干十二支というのは60年で一回りとなっていますが、組み合わせを計算すると10×12=120通りとなるのではないかと。確かに、総当たりの組み合わせは120通りなのですが、十干の「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」と十二支の「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」を順に組み合わせていくと、あら不思議、61年目には元の「甲子」に戻り、そこから同じものが繰り返しとなります。逆に登場しない組み合わせも60通りあります。丁寧に組み合わせれば確認できるのですが、理屈としては10と12との公倍数が60のためということ。久々に目にしました「公倍数」。
 もうひとつの疑問が「午」という字でして、「馬」と何が違うのか。「馬」はそのままの象形文字だということは見てのとおりですが、「午」とはもちをつく時に使う「きね」の象形とのことです。両人が交互に餅をつくことから、陰陽の交差する十二支の第七位の「うま」にあてられたとのことです。時刻で言えば「正午」であり、それより前が「午前」、それより後が「午後」です。のちに「午」が十二支を表す文字として定着したことから、十二支の「午」と「きね」を表す「午」の区別を明確にするため、「杵」という文字が作られたとのこと。ところがネット上では、「午」というのは「牛」に似ているため、という思い付きのような説明があったりして、要注意です。
 さらにもうひとつ、「午」の部首は何かという問題です。ちなみに「牛」の部首は「牛」、「馬」の部首は「馬」ですので、「午」の部首はやはり「午」となりそうですが、正解は「十」。ところがネット上では「午」が部首とする説明もあり、要注意その2です。他に「十」を部首に持つ字としては廿、升、千、卅、卒、卓、南、博、半、卍など。廿(にじゅう)も千(せん)も十(じゅう)の仲間ということになるようです。また「午」は方位としては「南」を表しますが、この部首が同じというのは偶然でしょう。
 ついでに、これも有名なのですが、「卍」の画数と書き順というのもよくわからないわけで。画数は6画なのですが、書き順はというと、特に2と3画目が難問かもしれません、ヒントは「十」の書き順かでしょうか。書初めなどでもめったに書かない字ですし、左右反転したりすると国によっては罰せられますし、マジ卍(←すでに死語らしいです)。

■ 馬の格言の話
 「馬」に係わる表現などは結構ありまして、まずは「馬が合う」という言い回しがありますが、相手と性格や考え方が合うことで、元々は、馬と乗り手の息がぴったり合う様子からきています。これが発展すると「人馬一体」となるのでしょうか。でも最近では、「馬が合わない」という言葉のほうをよく聞く感じですが。
 そんな場合「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」という格言はいかがでしょう。AIさんによる解説では、「表面的な情報や先入観にとらわれず、自らの体験を通じて真実を見極めることの重要性を説いています。本来の用途として、結婚相手を紹介する際などに「結婚してみないと分からないでしょう」と、縁談を勧める文脈で使われました。注意点としては、結婚式などおめでたい席では良いですが、「とにかくやってみよう」と安易に使うと、結果が良くなかった場合に「だから言ったのに」と皮肉に聞こえることもあるので、使う場面には注意が必要です。」とのことです。これを皮肉にも使えるとは知りませんでした。
 とにかく馬が関係する格言というのは、自分だけの想いや都合では成り立たないということに使われるようです。自分の都合どころか、その幸不幸すら予測できないとすることわざに「人間万事塞翁が馬」というのがあります。皆様ご存じかとは思いますが、その故事を忘れてしまっている方もいらっしゃるかと思いますので、ここでもAIさんによる説明を。
 「中国の国境の砦に住む老人の馬が逃げたが、老人は気にせず、「良い馬を連れて帰ってくるかもしれない」と言う。数ヶ月後、逃げた馬が胡(異民族)の馬を連れて帰ってきたが、老人は「災いになるかもしれない」と言う。その息子がその馬から落ちて足を骨折したが、老人は「幸運かもしれない」と言う。その後、戦争が起こり多くの若者が戦死したが、息子は足が悪いおかげで戦場に行かずに済んだ」という話です。「目の前の出来事に囚われず、長い視点で物事を捉え、冷静に対応することの重要性を示唆しています。この言葉は、人生の浮き沈みを乗り越えるための、普遍的な知恵として、今も多くの人に大切にされています。」とのことです。山形の人でこれを「人間万事塞翁が左馬」と言っいた人がいましたが、なんかポジティブなのか、真意は謎のままであります。
 さらに馬がらみの中国の格言に「先ず隗より始めよ」というのがあります。この故事も一度はきいたことがあるとは思いますが、ちょっと思い出してみましょう。
郭隗は王に対し、ある昔話をします。「千金で、千里走る名馬を買ってきてくれと国王が家臣たちに買いに行かせたところ、ある家臣が名馬が見つけました。しかし、その馬は既に死んおり、家臣はその馬の首を500金で買って帰りました。すると君主は、生きている名馬を買ってこいと言ったのに、死んだ馬を大金はたいて買ってくるとはと激怒しました。するとその家臣は「名馬の死体ですら大金で買ったのですから、生きている名馬ならどれほどの高値か。その話が広まれば探しに行かなくても名馬があちらから来ますよ」と。そうするとしばらくしないうちに名馬が3頭ももたらされたということです。それに続く話が「今、王必ず士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや」というものです。
 さらに中国の故事に「無事之名馬」というのがあります。歳をとってくると、健康上の理由などからこの「無事」の有難さがわかってきます。一方、公務員を長くやっていると多かれ少なかれこうした構えになってくるのですが、逆に「太く短く」という公務員はちょっと魅力的かもしれませんが、なんかヤバい感じもします。
 中国故事で個人的に好きな格言は「ひょうたんから駒」でして、もともとは駒でなくロバなのですが、SF的というかカプセル怪獣のような話で、通常は思いがけないいい話のたとえとして使われる格言です。
 その他、有名な格言には「馬子にも衣装」とか「生き馬の目を抜く」とか、映画「ゴッドファーザー」に「ベッドに馬の首」というのもあったなぁと、余計な話ですが。
 個人的には「ほいど(乞食)が馬を買う」というのが座右の銘となっています。身分不相応なものを手に入れてもてあます例えですが、私の場合、身分不相応というより不要不急のものを買ってしまうことへの自戒の言葉としています。それでもいつの間にか不要不急のもので溢れてしまっているのですが。さらに期せずして私の座右の銘というか日常習慣となってしまっているのが「馬耳東風」とか「馬の耳に念仏」とかでして。家人からは「無駄遣いなどせず、もっと貯金しろ」とか、医者からは「食事に気を付け、適度な運動を」とか言われ続け、わかっちゃいるのですが全く実行できていないということで「馬耳東風」状態になっています。

■ 「桂馬」の話
 将棋の駒に「桂馬」がありますが、考えてみるとなかなか特殊な動きをする駒で、真っ直ぐに進まないし、目の前の駒を飛び越えます。馬の特性というのはそういうものなのかと。チェスの「ナイト」も同じ動きでこちらは後にも動かせますが、実は将棋もチェスも古代インド(6世紀頃)で生まれたボードゲーム「チャトランガ」が起源とのことで、偶然の一致ではないようです。
 では「桂馬」の「桂」とは何かというと、シナモンに似た香料の肉桂(にっけい)の木の皮のことです。ちなみに「香車」の「香」は、白檀などの高級香木のことで、平安時代に貴重品だった香料に由来しているとのこと。将棋の駒には王(玉)、金、銀とともに貴重品を表す言葉がつけられていますが、チェスの駒は主に階級を表す言葉であるのとは対照的です。
 さて、蘭奢待(らんじゃたい)と称される貴重な香木があります。正倉院が保管する香木(正式名称「黄熟香」)で、足利義政や織田信長などが天皇の許しを得てその一部を切り取り、権威の象徴としたほど貴重な品です。蘭奢待の香りの元は樹脂なのですが、2024年度に宮内庁正倉院事務所でその成分分析がなされ、香りが再現されました。その様子は昨年、テレビの特集番組でも紹介され、上野の森美術館でその香りがする匂い袋が販売されました。それを入手した当館関係者Uさんが当館に持参してきました。職員皆で嗅がせていただいたのですが、それはシトラス系でもフローラル系でもなく、白檀のような甘い香りに肉桂のようなスパイシィな香りが混ざるような、つまりは桂馬と香車とを足したような香りでした。
 ここでふと思ったのですが、将棋の駒に「蘭奢待」という駒があれば面白いのではないと。あるいは桂馬や香車が金に成るかわりに「蘭奢待」になるのはどうかと。「蘭奢待」という以上、その動きは、足利義政や織田信長すらも意のままにならないぐらいであるわけで、例えば、単に金に成るだけでなく、好きな所に跳べる、つまり「ワープ」ができる、まあ、金の持ち駒のような、まあ、勝手な思い付きですが。
 桂馬に関することわざや格言には、その特徴的な動きから面白いものがあり、「桂馬の高跳び歩の餌食」(調子に乗って高く跳びすぎると、低い歩兵に取られてしまう)とか、「桂馬は控えて打て」(桂馬は他の駒と異なり、手詰まりになりやすいため、すぐに攻めずに手持ちにしておけ)というものがありました。駒が後退できればまた、違う格言になっていたかも。将棋については全くもって素人なのですが、初心者にとってこの「桂馬」や「香車」はどう使っていいのかわからないとも言われ、それでも持ち駒にあれば相手をかく乱するのに有効で、特に終盤で大駒(角・飛車)などと組み合わせれば手強いものとなるそうです。

■ 馬肉の話
 山形でも馬肉を名物としてあつかう所があります。それは「山形新幹線」の終着駅がある新庄市と「フラワー長井線」の中央にある長井市です。特に「フラワー長井線」は路線も沿線の駅舎もなかなかに味わい深いものがあり、山形の鉄道としてはイチオシなのですが、それはまた別の機会にでも。
 新庄市が位置する最上地方は、古くから馬の産地でした。農家では農耕馬の飼育が行われ、雪の多い地域での農業や運搬に欠かせないものでした。年老いて農耕馬としての役目を終えた馬を食肉として利用したとされていますが、その起源は江戸時代、飢饉で疲弊した領民を励ますために藩主が馬肉食を奨励したことにあるそうです。すじ肉を煮込んだ「ガッキ」と呼ばれる郷土料理が名物です。かつて地元では、馬肉は馬鍋などで食されていましたが、現在はもっぱら馬刺しが有名です。しかしながら以前、新庄駅近辺で昼に馬刺しが食べられる店を探したのですが、これがほとんどなく、言わば山形駅近辺で昼に芋煮が食べられる店を探すに等しい感じではあります。
 一方、長井市を含む置賜地方は平安時代末から馬の産地として知られ、軍馬・農耕馬・荷馬が育成されていました。特に江戸時代、最上川の舟運で栄えて物資運搬に多くの荷馬が利用され、また、年貢も馬で納めていたこともあり、やがて「ハレの日」のご馳走として親しまれるようになったとのことです。
 ご当地グルメとしては「馬肉ラーメン」というのがあります。チャーシューとして馬肉が使われるのですが、その馬肉はまったくクセがなく、特に馬肉と表示されることなく馬肉がのってくる店もあるそうです。そういえば米沢市に「米沢牛ラーメン」というのを出す店があり、これは薄切りのバラ肉がのってくるのですが、たっぷりのサシが入った肉ゆえに、その牛脂とスープの油脂がミスマッチで、個人的にはおススメできない一品ではあります。
 山形市には「ゲソ天ラーメン」というのがあるのですが、ゲソ天をよほどカラっと揚げてないと、油分のせいでまずくなります。ところがスープをそばつゆにするとこれはいけます。つまりは天ぷらそばの麺をラーメンに替えるようなものなので、これはありとなるわけです。天童市の某店発祥の「鳥中華」がまさしくそばつゆにラーメンなのですが、これに「ゲソ天」が合うのもこんなわけで。

■ 60年前の話
 60年前の丙午の年である1966年は、「いざなぎ景気」が本格化し、ビートルズが来日公演、中国では文化大革命が始まります。ジェミニで宇宙遊泳が行われ、ミニスカートが流行します。ベトナム戦争が泥沼化し、ウォルト・ディズニーが死去。日本でロケした映画「007は二度死ぬ」が公開され、「ウルトラQ」が放送開始しました。疾走感あふれるというか、イデオロギーとファッションとカウンターカルチャーが交差したサイケデリック時代の幕開けの年ではあります。
 ただ風俗的には、サイケデリックというよりゴーゴーの時代だったような。実はサイケとゴーゴーは交わるようで交わらないものなのですが、当時の日本では、ゴーゴーガールとサイケファッションとが同居している感じで、それに、暗い所なのにサングラスをかけているアングラ的なものも根強かったような気もします。
 ところでこのゴーゴーというのはどんな発祥だったのか、気になって調べてみました。
まず、ウイスキー・ア・ゴーゴー(Whisky a Go Go)という店がカリフォルニアにありまして、元々銀行であった建物を1964年にディスコにして、バンド演奏の合間にはミニスカートをはいた女性DJが、ステージ右側に吊り下げられた檻でレコードを回したのだそうです。ここでレコーディングしたアルバム「ライブ・アット・ザ・ウィスキー」がヒットし、1966年にはミラクルズが「ゴーイング・トゥー・ア・ゴーゴー」を発表しました。
 一方、ニューヨークにはカフェ・オー・ゴー・ゴー(Cafe au Go Go)という店がありました。フォーク、ブルース、ロックなどのミュージシャンが集まるライブハウスです。「ニュー・アンディ・ウォーホル・ギャリック・シアター」の地下とのことで、あのウォーホルが自身の実験映画の多くを初公開した、その映画館の地下にあったわけです。ちなみに1964年8月と10月にここでライヴ録音した「ゲッツ・ア・ゴー・ゴー」(スタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルト)というボサノバの名盤があります。私の愛聴盤でもありまして、思い出したついでにLPを引っ張り出して聴いてみたのですが、やっぱりいいです。サックスとボーカルが前面にでてくる録音で、お客さんもなんか上品な雰囲気でして。
 いやいや、ここで何が言いたかったかというと、そもそもゴーゴーの発祥はどこかということだったのですが、ここでAIさんに尋ねてみたところ、「ゴーゴーダンスの発祥はウィスキー・ア・ゴーゴー。」であり、「ゴーゴーミュージックには、1960年代にアメリカで流行した激しいダンスミュージックと、1980年代半ばにワシントンD.C.で生まれたファンキーなブラックミュージックのジャンルの2つの意味があり、文脈によって指すものが異なるため、どちらの「ゴーゴーミュージック」を指しているか注意が必要です。」とのこと。
 まず、1960年代のゴーゴーは「ロックやソウルミュージックに合わせて踊る、動きの激しいダンス全般(ツイスト、モンキーなど)を指します。フランス語の「à gogo(好きなだけ、非常に活発な)」に由来すると言われています。」ということで納得しました。ウイスキーやカフェの「ア・ゴーゴー」って、そういうことだったのですね。
 一方、ワシントンD.C.生まれのゴーゴーは「チャック・ブラウンらが1970年代に創造したもの」というAIさんの別見解もあり、まあそれは、ゴーゴー(Go-Go)を市の公式リズム(Official Rhythm)に制定したワシントンD.C.さんに委ねるとして、とりあえずゴーゴーはファンクへとつながるようです。
 一方、サイケデリックは時代の音楽に大きく影響していまして、そもそもサイケデリックとはドラッグによる幻覚で現れるようなものですが、LSDの強い影響化のもと制作されたというビートルズのアルバム「リボルバー」がリリースされたのが1966年で、いわゆるリバプール・サウンドがサイケデリック・サウンドになっていくわけです。その翌年以降は、ドアーズ、ジェファーソン・エアプレイン、ピンク・フロイド、ジミ・ヘンドリックスと続くわけでして、特にジミ・ヘンドリックスはドラッグをやりながらギターを弾き、アルコールと睡眠薬の大量摂取で1970年に27歳で亡くなりました。やがてサイケはトランスへと。
 その、ファンクとトランスはやはり交わるようで交わらないわけで、AIさんによるとそれは主に「グルーヴvs.ドライブ」とか「アナログvs.デジタル」の違いとのことです。とは言え、山形のクラブでは、それらは同居しているようで、いや、踊れるような店には昭和の時代に行ったきりで、今世紀に行ったことはありませんが。
 とにかく、ファンクやサイケ、ましてビートルズについて、私のような素人が語ってもろくなことにはならないので。「ソウル・トレイン」とか「ウゴウゴルーガ」とかのDVDを見るくらいがせいぜいで、もっとも1966年と全くの時代が違う番組なのですが。

■ 馬印ブランドの話 その1
 バブルと円高を経験している世代で馬といえば誰しもが思い浮かべるべきブランドがあります。それはエルメスとフェラーリですが、それをお前ごときに語られたくないと言われてしまうことは重々承知の上で少々お話を。
 山形のような所でもフェラーリのオーナーという方はいまして、その代表格と言えば奥山清行さんというインダストリアルデザイナーです。イタリアのデザイン会社ピニンファリーナでチーフデザイナーに就任しフェラーリ・エンツォをデザインし、後に独立して「こまち」などの新幹線やクルーズ列車「四季島」のデザインも手掛けています。フェラーリ・エンツォは、F40、F50に続く限定生産車であったため「F60」と予想されていましたが、フェラーリの創始者エンツォの名を冠する車名となりました。
 さて、そのフェラーリのエンブレムには通称「跳ね馬」(カヴァリーノ・ランパンテ=気負い馬)が描かれており、これはイタリア陸軍航空隊の撃墜王であったフランチェスコ・バラッカ少佐の戦闘機に描かれていたマーク(第2騎兵連隊ピエモンテの部隊章に由来するバラッカ少佐の個人マーク)からとられたものです。バラッカ少佐の両親からレーシングドライバーだったエンツォ・フェラーリに贈られたのだそうです。
 ちなみに馬のマークで有名なメーカーがもう一社あります。シュトゥットガルトに本社を置く「ポルシェ」ですが、この市の紋章に小さな変更を加え、企業ロゴとして用いているそうです。つまりは、一方はイタリアの軍馬でこれは牡馬、もう一方は、ドイツの「シュトゥート・ガルテン=牝馬の園」なので牝馬、と例えるサイトがありました。ウーム、そうかと。
 ブオブオという低音を響かせて走る山形ナンバーのフェラーリやポルシェをたまに見かけたことがありますが、もちろんそのオーナー様などの知り合いがいるわけもなく。ただ実際に、一般道路でフェラーリ・エンツォを見て驚くのはその横幅(2,035mm)でして、これで山形の山道を疾走するには相当な技術がいるんだろうなぁとか、余計な心配をしたりします。

■ 馬印ブランドの話 その2
 続いてエルメスの話でも。これも私が語れるようなブランドではないのですが、円高の時代は、多少頑張ればネクタイやらスカーフやらを買えたりもできたわけでして。バブル時代のパリのエルメスはどこも日本人ばかりで、とにかくパリで買うのが品揃えもあり一番安いということで。ただ、買ったものをそのまま持って地下鉄に乗ったりするのは危ないというので、店の軒先で、持参した大きなバッグに詰め替えて人を見かけましたが、店の紙袋などのパッケージもまた大切で、それらも損じないようにとさらに一苦労ありまして。特に当時の日本では、中身と同じくらい包みが大事で、ネクタイなんかも箱入りでして、お土産としてもかさばることこの上ないと言いますか。
 バブル崩壊後、それでもまだ円高だった時代に、凱旋門近くの店に立ち寄ったことがあったのですが、あまり客もいなく、こじんまりとして入りやすい感じでしたが、最近は、特に本店などは入店することすら大変とのこと。とにかく入店希望が多く、事前予約も難しく、品物によっては抽選となるといいます。そんなときの裏技として、とりあえず小物を買ってその際、店員さんに本命の品について聞くという手があるそうで、また、ギャラリー・ラファイエット(百貨店)などでは、予約なしで購入できたりもするとのこと。ただ、本店で買うことに意味があることもあるわけで、同じ物でもパリの本店と空港の免税店で買うのとでは、その品物の物語が違ってくるというか。特に物が貧弱なほど物語が必要というか、逆に圧倒的な物であれば中古でもいいわけで。このあたりは博物館の展示品にも似たようなことがありますが。
 さて、お店に入るとしかるべき場所にディスプレイしてあるのが馬具でして、軽自動車が買えるような値段の鞍とか、本当にこれを乗馬で使うのかと思うような乗馬ブーツとかが飾ってあり、なんか買えそうな金額のものを探すと、鞭が5万円程でありますが、ただ、買えたとしても使いようもなく、乗馬そのものが縁遠い者にとってはスルーせざるを得ない一角なのですが、ご承知のとおりこの馬具こそエルメスの原点であります。
 エルメスは高級馬具工房として1837年に創業。創業当初は馬車が主要交通手段でしたが、自動車の時代を予見し、馬具を入れるバッグなどを開発。これが後のバーキンやケリーバッグの原型となり、皮革製品ブランドへと進化したとのことです。
 エルメスのロゴは、御者が馬と馬車を引いているもので、馬車には乗客がいません。これには「最高の品質の馬車(製品)は提供するが、それを使うのは顧客自身である」という哲学が込められており、あえて主人が描かれていないのが特徴で「主役はあくまでユーザー(持ち主)である」というメッセージが隠されているとのこと。
 このロゴがそのまま刻印されているスカーフリングがありまして、エルメスの製品としてはかなりお手頃な値段なのですが、これを使えばエルメス以外のスカーフでも、もしかしたらエルメスに見えるかもしれないというアイテムです。スカーフリングには、さらにすごい裏技があるようです。様々なデザインの品があるのですが、これを指にはめるリングとして使うというのです。かなりの存在感で男性でも入るサイズではあると言うのですが、ただ、そこまでしてはめるものなのかと。
 実はエルメスには暗黙のルールというのがあるそうで、ブランドの価値を大切に保ち「本当にその製品を大切にしてくれる人に届けたい」として存在しているそうです。普段の購入実績や、スタッフとの信頼関係、転売しない姿勢などが重視されます。入店の際の服装や店舗スタッフへの礼儀や丁寧なコミュニケーション、ブランドへのリスペクトが求められるとのこと。
 一方、最近は「エルパト」というのもあるそうでして、これは、エルメスの製品、特にバーキンやケリーなどの入手困難なアイテムを、正規店をパトロール(巡回)して手に入れる活動のことです。これらは欲しい時にすぐ買えるものではなく、運やタイミング、そして店舗スタッフとの信頼関係構築が重要視されるため、多くのファンが何度も店舗に通い、購入のチャンスを伺っているそうです、
 やはり最後は信頼関係の構築にあるようですが、すみません、1万円以下のバッグしか持てない私のようなものが意見するような話ではありませんでした。


《2022年12月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和4年12月1日から同28日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (12/1 〜 12/28)
開館日数・・・・・・・・・・・・・24日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,136名
回答者数・・・・・・・・・・・・・8人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・14%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・43%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・0%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・14%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・0%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・29%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・86%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・14%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・57%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・29%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・14%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・100%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・0%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

石川県かほく市 男性/50代
多分また来ますので、次来た時に新しい発見があれば展示よろしくお願いします。

福島県白河市 男性/60代
大変良い資料等があり、勉強になりました。

香川県 男性/30代
無料で知ることができるのは、すごいと思います。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。


歴史館の年内最終開館日の本日、
朝は冷え込みましたが日中は日差しが射す暖かい1日でした。
今週は穏やかな日が多く、先週末の大雪で積もった雪はだいぶ消えました。


今年はとても多くの来館者の方々をお迎えできた1年でした。
歴史館やHPを訪問いただいた皆様方、大変ありがとうございました。

12月29日(木)〜1月3日(火)まで休館、
新年は1月4日(水)より開館いたします。
令和5年もどうぞよろしくお願いいたします。



■ 山形の立ち位置の話
 「山形県は、東京から300kmほどの距離にも関わらず、別世界のような静けさを保つ場所であり、日本の旅行者もまだ多くが訪れていない聖なる山々、静寂に包まれる寺社」云々とのことではありますが、要するに稀にみる寂れた場所ということで、まあ、それでいいんです。山形はまだまだ「奥の細道」状態ということで。
 「奥の細道」で芭蕉が「侘び・寂び」から「軽み」に達したように、山形の侘しく寂れた風情からの「軽み」を感じ取ると言いますか。まあ、意外に軽いところもありますよ、山形は。
 「2026年に行くべき世界の旅行先25選」が発表された翌日となる10月22日に、新たに就任された首相は、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻すために、信頼関係を作り、日本が何をやりたい国なのか、しっかり発信したい」と述べていましたが、これが山形ならば、世界の辺境あたりで咲き誇れれば、まずはよしと、何をやりたいかについては、まあ、なるようになる、と言いますか、いや、不易流行ということでどうでしょう。
 さて、「つるおか観光ナビ」(鶴岡ツーリズムビューロー)に載っていた「出羽三山の山伏が語る!知られざる山伏の秘密」というインタビュー記事には、「出羽三山は江戸時代、西の伊勢参り、東の奥参り」といわれるほど人気だった、とあります。
 「出羽三山が江戸のある武蔵を含む東国三十三カ国総鎮守とされたこともあったのでしょうが、月山のご祭神がツクヨミノミコトで、伊勢神宮のご祭神であるアマテラスオオミカミの弟にあたるため、太陽の神である伊勢を詣でるのなら、月の神様も詣でないと、一方しか参らいない片参りになると、当時のガイドブックに書かれたこともあり、大人気になったようです。」とあり、山形も時には日の当たることもあったということです。英語で言うなら「Every dog has its day(どんな犬にも最上の日がある)」ということかしらん。以上をまとめると「YAMAGATA=Best of the World 2026=Every dog has its day」ということで、う〜む、自虐が過ぎるでしょうか、すみません。

■ 神秘的なアウトドア体験の話
 続いて「通年で、古くからの伝統と神秘的なアウトドア体験ができる点」について。これは具体的には、出羽三山における山伏修行がその代表かと思われます。2泊3日の山伏修行体験塾(羽黒観光協会主催)や2泊3日×2回で行われる錬成修行道場(出羽三山神社主催)などの修行体験もあります。本格的に修行したい方は6泊7日で行われる「秋の峰入り」を。さらに「冬の峰」という9月24日から大晦日まで100日間に及ぶ籠り行もあるそうです。ただしこれは地元集落の山伏から二人だけ選ばれる行です。修行中の食事は精進料理となり、基本的には付近の山の幸とのこと。詳しくは羽黒観光協会のホームページを。
 また、前出の山伏の方へのインタビューで「観光客は、山伏に話かけてもいいのでしょうか。」という質問があり、これに対して「本来の修行中であればよろしくないのですが、本格的な修行を行っている時は観光客の方とお会いするような場所にはいません。また、人に説くことも修行のひとつですから、話しかけてください。ただ、口下手な人が多いですけどね。」とありました。やはり修行中の方をお見かけすることはまずないのですが、「山伏兼ガイド」という方がいて、普段は学校の先生をしているという方などは、いやいやどうして口達者でした。
 この修行体験者というのは、私の身近にも結構いまして、かつての職場の上司も修行経験者でしたし、役行者に関心を寄せている山寺芭蕉記念館のA学芸員もこの夏、修行に参加していました。
 修行できなくとも、出羽三山神社への石段を登るとき、「おしめ」をするだけでも身も引き締まり、良い参詣になるとのこと。いや、その失禁対策ではなく、参拝者が首から下げて身につける白い紙製の飾りを「お注連」(おしめ)と言っていまして、これは結界を創り、山中の魔が入らないようにした裃を簡略化したものです。石段登口の羽黒随神門の社務所あるいは合祀神社の社務所で入手できます。お注連は1本1,000円。加えて、願い事によって色を選ぶ「縁紐(えにしひも)」が1本200円です。お注連は出羽三山独特のもので、記念として持ち帰っていただいている、とのことです。

■ 法螺貝の話
 以前、自宅を建てる時、その地鎮祭を山伏にお願いしたことがあります。建築を請け負った工務店からの紹介で、祭壇には大根などの根菜やスルメなどを捧げ、呪文を唱えながら包丁を振り回すというものでしたが、祈祷の前後に法螺貝を鳴らすのですが、何事もない住宅地の真ん中で法螺貝が鳴り響くというのは、なんともシュールではありました。
 前出の山伏インタビューでは法螺貝について「法螺貝はもともと、合図として使われていました。山伏たちは山の中でバラバラに生活していますから、集まるとき、危険が迫っているときなど、連絡手段として使っていました。それが時代を経て、お祓いであったり、魔よけに使われたりするようになっている。」とのこと。
 ちなみに「法螺貝を吹くのは難しいですか。」という問いには、「簡単には吹けませんね。管楽器を吹ける人は上達も早いですが、吹き方は全然違っています。楽器は頬を膨らせず、唇の正面からに吹きますが、法螺貝は頬を膨らませて横から吹きます。私は管楽器をやっていたので2、3か月で吹けるようになりましたが、半年、1年かかる人もいますよ。」ということでした。
 確かに、法螺貝には上手い下手があって、上手いものは「プォォォ〜、ブゥゥゥ〜」とヌケのよい響きとなるのですが、下手だと「ブブブ、ビビビ」というブーイングのようなものになります。かつて、あの忌野清志郎さんもどういうわけかことあるごとに法螺貝を吹いていた時期がありましたが、やはり難しく、出羽三山で鳴り響く音色のようにはなりませんでした。
 この法螺貝や角笛を先祖とする楽器がホルンです。現在のホルンはバルブで音程を変えますが、古典派以前、つまりベートーヴェンの時代以前はナチュナルホルンと呼ばれるバルブなしの単管でした。曲の調性によって管の長さを変え、それにはクルークと呼ばれる替え管を用います。楽譜のホルンのパートには、どの調性の管を使うか書いてあるそうです。
 また、ナチュナルホルンの音階は各調の自然倍音に限られ、つまりはド・ミ・ソだけで、その間の音程は吹き出し部分のベルに手をつっこんで調整します。しかし、その音はくぐもってしまうため、モーツァルトやハイドンはド・ミ・ソ以外の音はあまり使用しない曲を作っていたそうです。一方、ベートーヴェンはホルンに詳しく、交響曲を始めとしかなり効果的にホルンを用いています。これはまず交響曲第5番や第6番での独奏パートを思い浮かべることができると思いますが、第3番では同一楽章内の転調部分で管を替える小節があり、奏者によっては管を替えるかわりに、あらかじめ調性の違う2台のホルンを用意することもあります。
 山形交響楽団では古典時代の楽曲に積極的にナチュナルホルンを用いていたことがあり、年間通してベートーヴェンの全交響曲を演奏したときでは、実際、ステージに2台ずつホルンを用意していたこともありました。とにかくナチュナルホルンの音程は不安定で、聴く方もスリリングというか相当の緊張感をもって聴くこととなり、シーズンシートで全ての演奏を聞いたのですが、どうしてもどこかでやばい音が出てしまうのですが、それは指揮者も聴衆も納得済みでして、そのチャレンジ精神に惜しみない拍手を送るわけではあります。
 ちなみに「ホラを吹く」という言葉がありますが、元々は仏教用語で「仏の説法(教え)」を指し、法螺貝の大きな音から転じて、偉そうに立派なことを言う、またはその裏に実行が伴わない様子を表すようになりました。それが嘘をつく、大げさなことを言うといった意味で使われています。
 まあ、法螺貝にせよホラ吹きにせよ、上手く吹くには、それなりの技量が必要かと。

■ 鍋奉行の話
 出羽三山神社の五重塔改修工事に、その奉行として志村と下の2名が任じられますが、奉行とは、「上の命を奉じて物事を行うことで、特に武家時代に、上の命を受けて事務を担任した一部局の長官」とのことです。
 奉行と言うと、今の季節は「鍋奉行」というのが登場するわけですが、大抵は疎んじられるのですが、逆に誰かに担ってほしいのがすき焼きでして、最初の入りも難しければ、途中の具材投入のタイミングとか、終盤は煮詰まらないよう見張るとか、なかなか気の抜けないのがすき焼きでして、その一連の状況を仕切ってくれる人ならばありがたいわけです。
 以前は、職場などですき焼きに行く機会があり、それは立派な店ではなく、肉屋の2階にある広間などで、すき焼き以外の料理はなく、せいぜいミカン1個が出てくるくらいなのですが、肉のおかわりなどしながらもリーズナブルな料金でいただけるものではありました。しかしそのうち、食欲も満たされ酔いも回ると、うっかり煮詰まってしまうこともしばしばで。
 さて、その作り方ですが、まずは鍋に牛脂を引き、牛肉を投入するのですが、さっと火を通し、割り下をかけ、溶き卵でいただく、これがこのあたりでは一般的かと思いますが、関西風となると牛肉を先に焼いてから砂糖と醤油を直接振りかけて肉の旨味と香ばしさを引き出すということで、まずここで齟齬が生じるわけです。
 お店でいただくときに、店員さんが最初、焼いてくれることがあるのですが、一度だけこれとは全く違う焼き方のことがありました。それは牛脂をひいたあとまずネギを焼き始めるのです。ネギを時々返しながら香ばしくなってきたところで牛肉を焼き、割り下を入れる、というもので、以来この香ばしさがよくて、自宅ではこの順ですき焼きをしています。
 あとは白菜、しいたけ、春菊、しらたき、焼豆腐、その他をどの順に投入し、どう並べ、その火の通り具合はどうするか、自宅ならいざ知らす、職場とかあるいはおもてなしとかなると何かと難しく、そんなときにすき焼き奉行がいてくれたらと思う次第ではあります。すき焼きにおける忖度というかコンプライアンスはどうあるべきかとか、すき焼きというゼロサム条件下での各人のウィンウィンをいかに形成していくかとか、すき焼きの「正義」とはなにかとか、考えればきりがなく、それは度が過ぎるとまた、モラハラというか鍋ハラということにもなってしまうわけで。ただ、コロナ以降は職場で鍋を囲むようなことは少なくなり、一方では、一人用の鍋が普通になり、あらかじめ具材全てが鍋に入っているすき煮になりつつありますが、こうなるともう鍋奉行のレゾンデートルはなくなってしまうわけです。しかしながら、AIさんに「すき焼きの正義」について尋ねたところ、「グルメサイトで探すことができる」との結論で、まだまだ鍋奉行の領域というか場の力学というレベルには達していないようです。
 ところで、山形でのすき焼きと言えば、山形牛や米沢牛が一般的と思われるかもしれませんが、いくら地元でもそうそうはいただけるものではなく、実際、すき焼き店で食べれば、同じすき焼きでも米沢牛は倍の値段ぐらいになります。ただ、山形牛や米沢牛を扱っている肉屋さんには300gで1,000円ぐらい国産牛肉も並んでいて、家庭でのすき煮程度であればこれで十分かと。ただ不思議なもので、高い肉ほど量を食べることはできず、つまりは霜降り肉のように脂がたっぷりと入った肉は、沢山は食べられないのです。歳をとるとなおさらで、山形牛なら100gで1,000円も出せば結構いい肉が買え、同じ1,000円ならこちらで十分かと。最近は霜降りより赤身とかが好まれているようですが、すき焼きに限っていえば、あれは脂の旨味ではないかと。
 あ〜、思わず「すき焼き談義」となってしまいましたが、ここで最後に、五重塔改修の担当奉行となった下次右衛門と志村伊豆守光安の話のご紹介でも。以下、片桐繁雄さんが執筆された「歴史館だより」2010年の記事にある「最上家をめぐる人々♯27〈下次右衛門/しもじうえもん〉」 からの抜粋です。

 人間を人間として大切にする……。最上義光は、その点において驚くべき思想の持ち主であった。そもそも、罪なき民衆が命を失う戦いを好まなかった。戦っても相手を殲滅するやりかたを彼はしなかった。上杉の降将、下次右衛門も義光によって見出され、力量を発揮した人物だ。そして、この人物を語るには、志村伊豆守光安との友情をも語らねばなるまい。
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原を主戦場とする「天下分け目の戦い」が起こった。義光は奥羽諸大名を率いての上杉攻撃を命じられ、準備態勢をととのえているところへ、上杉は先制攻撃をかけてきた。総大将は米沢城主直江山城守兼続である。上杉方は庄内から進出し最上方の主な出城ほとんどを占領した。このとき、谷地城を占拠したのは下次右衛門であった。下はここで兵を休めつつ、総大将兼続から山形城攻撃の命令が出るのを待っていた。ところが、兼続が山形城にかかる前に片付けようとした長谷堂城は、志村光安らの激しい抗戦で落城せず、半月近くも日が過ぎていた。
 9月末、関ヶ原で石田方敗軍の報せが着くと、兼続は撤退を開始し、最上軍の猛追撃を振りきって米沢へ帰還した。だが、谷地城で待っていた下のところへは何の連絡もしなかった。できなかったというほうが正確かもしれない。下の軍勢は、状況を知らされずに、最上領内に置き去りにされたのである。谷地城は、最上軍に幾重にも包囲された。
 下は「城を出て戦い、討ち死にするこそ武人の大義」と覚悟を決める。
 一方、義光は志村伊豆守を呼んで命じた。 
「次右衛門は、小身ながら武勇の誉れ高き者、説得して降参させよ。味方にして、庄内攻めの案内者にせよ」
 伊豆守は単身、谷地城に入って、次右衛門を説得する。
「直江殿はすでに会津へ帰国なされた。義をつらぬきこの城で戦って死すことと、妻子ある幾百の兵の命と、いずれか重き。城を開いて降伏し、義光公に仕えられよ」
 熱誠こめた勧告に心を動かし、次右衛門は義光の軍門に下った。おそらく武人同士の厳しい応酬がなされたはずだ。この経過で強い信頼が芽生えたのであろう。下軍はほどなく庄内攻めの先鋒となって尾浦城を落とし、翌年四月、酒田城の戦いにも功名をあらわす。 
 戦いが終わってから、義光は次右衛門に田川郡尾浦(大山)城1万2千石を与え、対馬守を称させた。上杉家ではわずか400石だったのが一城の主となり、80石だった一門の者たちもみな千石の領地を拝領したという。異例の加増であった。これ以後、下対馬と志村伊豆は、たずさえあって庄内発展に力を尽くすことになる。
 庄内も由利も新たな領地である。戦いに倦み疲れた民心を安定させ、生産を高めねばならぬ。製塩、漁業など山形では今までなかった新しい産業もある。港を整備して海上の通運や交易も考えねばならぬ。さまざまな課題を解決し、領国の安定と発展を図らねばならなかった。その実務者として、川北・酒田と遊佐には志村伊豆、川南の田川には下対馬が登用されたのである。
 神仏に関わる事業も義光の意を受けてなし、それらのうち最大の事業は羽黒山五重塔改修工事だったろう。義光はこの工事の奉行として、志村・下を任じた。今、鬱蒼たる杉林の中に立つ五重塔を見上げる善男善女のうち、どれほどの人が戦いで相対した2人の武人に思いを馳せるだろうか。