最上義光歴史館

最上義光歴史館
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今日で2月如月は終わり!明日から3月弥生!春の気配がしています。
本日の山形は朝方とても寒かったのですが、日中は雲一つない快晴でした。


北側の屋根や日陰にはまだ雪が残っておりますが
東大手門の周辺もほとんど雪がなくなりました。


冬期間の恒例、今年もお堀の水位が下がり、
いつもは水面下にあって見られない部分が出現しております。
土塁部分は下部の石積みが見られますので、
周辺散策の際には注目されてみてください。

■ 節句の話
 節句とは、季節の変わり目などに祝い事などの行事を行なう日をいいます。古く中国から伝来したもので、年中行事を行う節目として大切に扱われてきました。江戸時代に幕府が特に重要な節句を「五節句」として制定しました。「五節句」は奈良時代頃に中国から伝えられた「陰陽五行説」に由来しています。陰陽では「1・3・5・7・9」のような奇数が陽であり、月と日に同じ奇数で重なればさらに吉で、また、五行とは「木・火・土・金・水」で、それを割り当てると5つだけなので、11月まではないのです。ちなみに五節句の名称と五行の割り当てはつぎのとおりで、
 1月7日…人日の節句(七草の節句) …木  
 3月3日…上巳の節句(桃の節句) …火   
 5月5日…端午の節句(菖蒲の節句) …土  
 7月7日…七夕の節句(笹の節句) …金   
 9月9日…重陽の節句(菊の節句・栗の節句) …水 
 ちなみに「七夕」は「しちせき」と読みます。また、それぞれに行事食というものがあります。1月7日は七草かゆ、3月3日ははまぐりやちらしずし、5月5日はちまきや柏餅ということで、ここまではおなじみですが、7月7日はというと、実はそうめん、とのことです。そして9月9日は栗ご飯・食用菊・秋茄子とまさに旬の食ばかり。食用菊というと、山形では黄色のものより薄紫色の「もって菊」が好まれますが、大きな観賞用の菊、コンテストなどに出品されるあの大輪の菊花ですが、かつて祖父が趣味で数十鉢と育てていて、それを食べたところ、甘みがあって大変美味しく、やはり手入れと栄養が行き渡っているからでしょうか。
 さて、1月1日は特別ということ、節句は1月7日となっているのですが、それなら1月ではなくて11月11日をあててもよかったのではと勝手に思ったわけですが、するとこの日の行事食は、あの某社の某菓子となってしまうのかと。ちなみ日本記念日協会によると、11月11日は10月10日と並び「最も記念日の多い日」とのこと。例えば11月11日は、その字面から「チンアナゴの日」など。ここでAIさんが、日本記念日協会に登録されていない「くつしたの日(ペアーズデイ)」というのを紹介してくれました。「11」がペアで並ぶ形からとのことで、なんとなく「チンアナゴの日」と理由が似ているようです。日本靴下協会が1993年に制定したもので、大切な人に靴下を贈り合う日とのことですが、やはり私は、一度ももらったことはありません。

■ 雛飾りと五月飾りの話
 雛飾りと五月飾りの由来については、AIさんによる説明がもっとも手っ取り早いので、そこからさらにつまみ食いでも。
 まずは「雛祭飾り」ですが、平安時代、上流階級の女子の間で「ひいな遊び」という、紙で作った人形と家財道具に似せて作ったおもちゃを使った「ままごと遊び」が盛んに行われていたようです。当時の随筆や物語にもそのような場面が登場します。室町時代ころになると3月3日に祭りの日が定まってきたようです。
 江戸時代になると、宮中行事として雛祭りが取り入れられ、幕府の大奥でも取り入れられました。このころ庶民にも雛祭りが広まり、女の子の初節句を人形を飾ってお祝いするようになりました。江戸時代初期は内裏雛一対だったものが、江戸中期には段飾りも登場し、三人官女をはじめとした雛人形や雛道具の数が増えていきました。明治以降になると雛祭りは農村部まで広くいきわたることとなり現在にいたります。
 雛人形も時代とともに変化してきました。古代から、日本人は人形を作り、その人形に祈りを込めていました。平安時代になると、3月の上巳の節句に形代(かたしろ)や人形(ひとがた)を作り、それで身体をなでたり、息を吹きかけ、身の穢れや災いを移し、川や海に流し捨てることをしていました。形代は、身代わり信仰の一つで、人の身代わりとして身のけがれや災いを人形に移し、川や海に流し、子どもの無事成長を祈るものでした。これが現在も行われる「流し雛」の由来であり、雛人形の起源の一つです。
 この形代や人形とは別に、平安時代に天児(あまがつ)と這子(ほうこ)と呼ばれる人形が登場します。後に天児の姿は立雛の男雛(お内裏様)へ、這子の姿は立雛の女雛(お雛様)へと変化し、雛人形の起源の一つとなりました。一方、立雛は形代(かたしろ)から変化したもので、座り雛とは基本的に流れが異なるとのことです。
 3月3日のひな祭りが、女の子のための節句として定着すると、5月5日の端午の節句は、男の子のための節句として定着していきました。
 江戸時代に「菖蒲(しょうぶ)」と武を重んじる「尚武(しょうぶ)」との発音が同じであることから、「端午の節句」は、「尚武」の節句として、武家の間で盛んに祝われるようになりました。ちなみに端午の「端」は「はじめ」という意味で、「端午」は5月最初の午(うま)の日のことを指します。午(ご)の発音が五に通じること等から、奈良時代以降に5月5日が端午の節句として定着していったそうです。
 端午の節句に鎧や兜を飾ることは、武家社会から生まれた風習と言われています。身の安全を願って神社にお参りするときに、鎧や兜を奉納するしきたりに由来しています。武者人形は、江戸時代前期(17世紀)に誕生しました。端午の節句に、男の子の健やかな成長と災厄除けを願い、より親しみやすい形(人型)として作られたものです。
 武家社会にあった鎧や兜を飾る風習が、江戸時代前期には、庶民の間にも普及し、家の前や庭に、槍、幟(のぼり)と共に大型の人形を飾っていました。このような「外飾り」は、神が降臨する際の目印である「依り代」(よりしろ)の役割を担っていたと考えられています。当初江戸時代中期には、家の縁側や店先など、行き来する人々から見える場所に飾られ(見せ飾り)、男子の誕生を知らせるとともに、家の威厳を示す役割も持ちました。江戸時代後期に、人形が小型化し、室内に飾る形式(内飾り)が主流となったそうです。
 勇ましく立派に成長してほしいという願いとともに、現代では鎧や兜が“身体を守る”ものという意味から交通事故や病気から大切な子どもを守ってくれるようにという願いも込めて飾ります。
 ちなみに名古屋刀剣博物館によるオススメ武者人形5選としては、「牛若丸&武蔵坊弁慶」、「那須与一」、「金太郎(坂田金時)」、「鍾馗」」、「神功皇后&武内宿禰」とのこと。同博物館のHPには、それぞれの詳しい説明があります。山形的には熊対策ということで「金太郎」押しとかでしょうか。

■ 仏壇の処分の話
 さて、人形の処分はなにかと苦慮しますが、それと似たようなものとして仏壇の処分というのがあります。仏壇となるとさすがに博物館に寄贈とはいきません。しかも仏壇は、昨今の住宅事情で、縮小・廃止の傾向にあります。数年前、かつての上司が自宅を建て替えたとのことで、そこに伺ったのですが、代々大地主の農家で、建て替え後の家屋にも仏間があり、そこにはやはり代々受け継がれている幅一間(1.8m)はあろうかという金仏壇がありまして、長押には代々の写真がずらりと飾られていました。とにかく代々引き継いでいくということ、これはこれで大変なことではありますが、やはり住宅の新築・改築を前にすると、なにかと扱いに困るのが仏壇です。今どき仏壇のための和室を設けるなどいうのはなかなか贅沢な話でして、解決策としては洋室にあう仏壇に買い替えるという方法もあります。その場合は椅子式となりますが、高齢者にとっても和室より椅子の方が好ましいこともあり、まあ理にかなった選択とも言えます。実は最近、親類の仏壇を調達するにあたり、仏壇屋さんを一緒に見てまわったのですが、コンパクトで本当に素敵なデザインの仏壇が多く、用もないのにこちらまで欲しくなってしまうものがいくつもありました。また、それに合う椅子なども販売していました。
 そこで、でてくるのがこれまでの仏壇の処分でして、壊して分別して過程ごみとするのがもっとも安上がりではありますが、特に山形では金仏壇が一般的で地元の伝統工芸品ともなっていますが、この金仏壇の分別はなかなかに手間がかかります。解体せずにそのまま、粗大ごみとして出す方法もありますが、なんとなく気が引けます。業者さんに依頼する方法もあります。ただ、「ただの家具」とは違うので、専門業者さんに頼む必要がある場合かと。
 また、処分にあっては仏壇を供養することが望ましく、本来であればお坊さんを呼んでお経をあげてもらうところですが、お坊さんを呼べない場合は、自分で供養する方法があります。仏壇の前で手を合わせ、お線香やロウソクを灯して、お清めの塩をふり感謝すれば、心が少し軽くなるという、ネット記事がありました。なによりも誠実さが重要とのこと。業者さんによっては供養サービス付きで処分してくれるところもあるそうです。また、廃棄するのではなく、サイズダウンで作り替えをしてくれる仏壇屋さんが山形にもあります。山形には単なる販売だけでなく、作って売る店も街中に何件もあって、仏壇以外の工芸品などの修繕なども手掛けていたりします。
 また、仏壇に付随する仏具、おりんや燭台などは雑貨として処分できるものの、問題となるのが仏像と位牌でして、こればかりはお寺に相談するのがよいと。相談できるお寺がない場合、位牌であれば郵送で依頼できるサービスもあるようです。一方、仏像であれば、廃棄物としての処分の他、知人・団体等への譲渡、買取業者への売却などの方法がありますが、いずれも供養するのが望ましいとのこと。
 海外では中古の仏壇が、アクセサリーやフィギュアの飾り棚として利用されていて、仏像もインテリアとして人気のようです。山形の伝統工芸品のひとつという金仏壇ですが、インバウンド向けにいけるかも。金仏壇にみゃくみゃく様を飾るなんていうのは、なかなかな組み合わせと思うのですが。

■ AI利用の話
 節句も雛飾りも仏壇の処分の話も、今回は、底なしのコピペ記事ばかりで失礼いたします。しかもAIに頼ると、とにかく要領よくまとめた記事がほんの2、3秒ででてきます。こうなるともはやAI依存症レベルかもしれません。もちろんその根拠やら著作権やらの心配あるのですが、基本的に出典も示されるので、それも確認できればひとまず安心かと。特に若年層ではカウンセリングとか人生相談などにも利用されているらしいですが、さすがにまだ自分はそこまでの利用はしてはいません、
 でも例えば、AIさんにこんな人生相談をしてみたいとは思います。「孔子の言葉に、吾十有五にして学に志し(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)、五十にして天命を知る(知命)、六十にして耳順い(耳順)、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず(従心)とあるが、60歳を超えても惑わされるとか、60歳を超えても天命を知ることができないとか、そんな場合はどうすればいいのか」と。これに対しAIさんからは「それは人間ができていないからだ」と、スパっと切り捨てられるような気もします。
 AIさんにはいろいろな種類があり、親切なAIさんだったら「できた人間になる方法」についてもアドバイスしてくれるわけで。例えばそれは「もっと論語を深く読めみましょう」とか。こうなるとだんだん禅問答のようになってしまうわけで。あるいは別のAIさんなら、「みんなちがって、みんないい」とか、「人間だもの」とか、どこかで聞き覚えのある優しい言葉をかけてくれるかもしれません。実際、AIさんに相談し続けると、このようなループとなるか、相談内容の肯定になるらしいです。例えば「60歳となっても、惑わされていても、天命を知らなくてもいい」と言う具合に肯定してくるらしいです。こうしたことを警戒しつつも、孔子さんは60歳になったら、それに反発せず素直に聞くことができ、真意を自然に理解できる、と言っておられるわけです。



■ 「連歌新式」の話
 連歌にはその約束事を定めた「連歌式目」というのがありますが、最上義光はさらに独自の連歌解説書として「連歌新式」というものを遺しています。様々な語句の説明もあり、中には雪に関わる語句もいくつかあります。「月の雪」、「花の雪」、「波の雪」など、その季節は順に「秋」、「春」、「冬」と異なりますが、具体的にみてみましょう。
 「月の雪」とは、GoogleAIさんによると「月影(月の光)が地面に降り積もった雪のように白く見える様子を指す。季語としては秋。」とのことです。「連歌新式」には、「月の雪 夏の詞入りてハ 不可為降物 秋の詞入りてもふり物にもなし 付合にも雪を月にとりなすハ夏秋の詞入りて付る也 是習也 夏秋ハ雪ふらぬ故也 只月と雪とハかりハ冬なり」と記されています。要約すると「月の雪とは、夏や秋の言葉があれば降る雪ではない。付合(つけあい:前句に対して、続く句(付句)を合わせる技法)でも、雪を月影とするためには夏や秋の言葉が入る。これが普通。夏や秋に雪は降らないので。単に月と雪だけなら冬である。」とのことです。
 次に「花の雪」とは、「白く咲く花、また、散る花を雪に見立てていう語」(小学館デジタル大辞泉)とあり、季語としては春です。これが「連歌新式」には「花の雪 似物也 雪に面也」とだけあります。「雪に顔を打たれるに似た(ほど降りしきる)もの」とでも解釈すればいいのでしょうか。
 そして「波の雪」ですが、Google AIさんによると「冬の海岸で砕け散る荒波の白い泡が、雪のように舞ったり積もったりしている様子を指す」とのこと。「連歌新式」には「波の雪 冬也 波に雪のふりかゝりたるを云也 両方ニ嫌也」とあるのですが、「両方ニ嫌也」とは一体なんのことなのか。単に「どっちも不快だ」とか「どっちも避けたい」とか言っているだけなのか、それとも別の意味なのか、謎です。
 当館発行の資料集「最上義光注 里村紹把加筆 連歌新式」には、他にも「花の雲」とか「心の月」など、500項目近くの語句や説明が記されています。定価1,000円で販売中です。残部僅少につきお求めはお早めに。

■ ウインタースポーツの話 その1
 さてさて、「山形市の冬の三大フォトスポット」と言いますと、恐らく蔵王、山寺、郷土資料館(旧済生館)あたりでしょうか。もちろんそれ以外でも絵になる場所は多いのですが、観光を兼ねての場所となるとこのあたりかと。ここで意外に知られていないのが、山寺の全景が撮れる場所で、それはズバリ「山寺芭蕉記念館」です。特に冬はお客さんも少ないとのことで穴場ではあります。
 また、たまに聞かれるのが、雪国出身者なのでウインタースポーツは得意かということですが、雪遊びはしてもスポーツとなるとまた別でして。
 かつて通っていた小学校は、山形城三の丸の内側にあるのですが、校庭の裏手に築山がありスキー遊びができました。山形城址・霞城公園でもスキーをしたり、といってもほとんど歩いてばかりのスキーでして。一方、スキー用具一式、つまり板や靴を、小学生の体力で持ち運びするというのが地獄で。自宅に持ち帰るときなど、道の途中で捨て置きしたい衝動にかられ、また、スキーを履いて帰ればいくらか楽かもと、途中でスキーを履いて帰った記憶もあります。雪中の学校で運動らしきものと言えば、雪合戦とか雪上サッカーとか。雪深い学校などではクロスカントリースキーをやっているようですが、体力に自信のない子にとっては、多分これもつらいだけかと。とにかく小学校でのスキーというと、つらいことの方が多い感じではあります。
 山形城跡・霞城公園は、50年程前は大手門などもなく石垣の一部が残っている程度で、体育館や博物館の他、野球場やプールもありましたが、あとはただただ空き地のような場所でした。城の土塁も未整備な所が多く、雪が積もれば橇などで滑り降りたりするのですが、当時はスノーボートとかプラスチックのミニスキーなどがまだ目新しく、橇がわりのビニール袋や竹スキーという小学校近くの駄菓子屋などで売っている竹を割って先を曲げただけのもので遊んだりしました。どちらもスノーボートなんかよりも持ち運びが手軽でよかったのです。
 そんなわけでウインタースポーツよりも身近なのは、雪だるま作りとかかまくら作りとかの、どちらかというと観光寄りの経験の方が多いわけで、それが、アイスバーのある2階建ての雪旅籠とか200基の雪灯篭と1,000個の雪洞が並ぶ祭とか、ラーメンの出前が届くかまくらとか、そっち方向に活かされるのではあります。

■ ウインタースポーツの話 その2
 山形のウインタースポーツの環境となるとお寒い状況でして、やはりウインタースポーツだけに。いやいや冗談でなく、実際そうでして。蔵王スキー場はレジャースキーの場としてはいいのですが、競技スキー施設としてはノーマルヒルのジャンプ台があるくらいで、スノーボードはほぼ全てで滑走可能ではありますが、ハーフパイプなどの専用コースなどはありません。クロスカントリーのコースは隣接するスキー場にはありますが、基本的にレジャースキーだけです。
 なので蔵王は「競技スキー」系は少ないのですが、一方で「基礎スキー」系の方は多いようです。スキーに馴染みのない方は「基礎スキー」と言っても、ピンとこないかもしれませんが、日本独自のもので五輪競技にはなく、タイムは関係なくスキーの「うまさ」のようなものを競うものです。級別の検定制度(バッジテスト)があり、そのトップクラスでは、通称「デモ選」といわれる大会があります。スキー学校の講師は検定で一定レベル以上を条件としているようです。
 以前の職場では、スキー指導員の有資格者が結構いまして、特に建設関係の部署では、ほぼ各課に1名以上はいるような状況で、そこに在籍していた時にいろいろ教えていただきました。お座敷スキーというものもあり、いわゆる畳の上の水泳のようなものですが、泊りがけのスキーの時などで飲みながら教えてもらうことも。検定をめざす若い職員も多く、シーズン前には新モデルの話とか、シーズン中は昨日のゲレンデコンデションの話とかをあいさつがわりとしているような状況でした。ただ、今の若い人は、スキーよりスノーボードでしょうし、情報交換はSNS利用ということで、スキーの話などはなくなっているようですが。
 一方、競技スキーとなるとなにかと負担がかさむようです。練習場の確保や移動などにそれなりの資金が必要で、高校にもスキー部はあったのですが、活動の場が校外なので何をしているのか全くわからず、まして大学のスキー部というのはきっと活動資金の確保がまず大事で、オフシーズンは授業もそこそこにアルバイト、オンシーズンは授業も出ずにゲレンデ住み込みで練習、そして合宿やら遠征やら。機材もできるだけ最新のもの、という具合ではないかと。社会人でも、資金はなんとかなっても、冬は仕事を休まなければならず、家業がスキー場近くで民宿を経営しているとか冬場の作業がない農家だとか、それなりの環境でないと難しいわけです。今回のオリンピックで金メダルをとった木村葵来さんも、岡山の自宅から練習場の京都まで片道3時間、父が送迎してくれたそうで、インタビューでは、板を履ける環境につれていってくれることに感謝の言葉を述べていました。別の選手は、練習環境を求め、家族とともにノルウェーに移住したとか。本人の覚悟とともに家族の覚悟も必要です。
 とにかく、スキーというのはそれなりに余裕のある人のスポーツだなぁと思ったのが、軽井沢のスキー場に行ったときのことです。ちょっとでも雪が降りだすと、たちまちゲレンデから人がいなくなり、レストハウスでのコーヒーブレイクとなります。多少の吹雪でも元を取るぞとガツガツ滑っていた私にとって、それは衝撃的なことでして、ただ一人、リフトに乗るような感じで、貸し切り状態で滑れました。

■ ウインタースポーツの話 その3
 あとスケートの話でも。山形のスケート環境はかなり乏しく、山形市近隣には市営の屋外リンクが1つあるのみで、フィギュアとかホッケーとかカーリングをやりたい場合は仙台に行くしかなくなります。
 よってスケート人口は限られていて、学校の部活も現在はスピードスケートのみです。その屋外リンクも施設状態は恵まれたものではなく、それでも、オリンピック出場選手を何名も輩出させた山形中央高校のスケート部監督であった椿先生は比類なき名伯楽であります。私事ですが、かつて山形のスケート連盟に関係していたことがあり、椿先生がまだ現役選手であった頃から存じていたのですが、こんなスケート不毛の地に、わざわざ東京から山形に転居し、あれだけの成果をよくぞと、ただただ頭が下がるばかりです。
 自分が小学校のときは、まだ屋外リンクはなく、山形市内には屋内リンクが2箇所ありました。別にスケート教室などに通うわけでもなく、日曜になると朝から晩までだらだらとリンクの上で遊んでいて、昼にカレーとかうどんとか食べて帰るのを楽しみにする程度でしたが、何かの拍子に基礎スケートの指導員やらスピードスケート審判員やらの資格をとり、競技経験もないままスケート連盟に関係していったのですが、やはり競技スケートの世界はなにかと大変です。
 子供相手にスケートを教えていたことがありましたが、競技スケートは正直、そう簡単に勧められるものではありません。特にフィギュアの場合、かかる費用やかかる時間が半端ないのです。特に山形の場合、練習できるリンクまでの送迎だけでも一苦労となります。中には、子どものスケートに付き合う時間を確保するために、転職して自営業をはじめたという事例も目の当たりにしました。全国大会とかに出場したい、などと思えば、まずは練習リンクの確保とその往来という問題からはじまり、通常のリンクでは一般営業時間外となります。音楽に合わせての練習となると、やはり貸し切りとなり、その利用料金も大変でして、仙台にある専用リンクは24時間利用できますが、貸し切りで1時間あたり約2万円です。
 とある雑誌に出ていた記事なのですが、トップ選手の場合、だいたい年間500万円くらい必要だとか。記憶がちょっとあいまいなのですが、コーチに200万円、1曲の振付に100万円、リンク代が100万円、遠征費や機材が100万円といった具合とのこと。トップクラスとなれば、ある程度の強化補助金があるとは思いますが、自己負担はやはりこれくらいになるかと。アメリカなどでは複数のリンクが近接している場所があり、そこにはコーチも何人かいて、わざわざ渡米するのもこのためで、逆にフィギュアの出場国が少ないのも、まずは設備環境の問題があるためです。
 ただ趣味程度であっても、特に最初のうちは教わるほうが間違いありません。これはスキーも同じでして、まずは靴の履き方と最低15分程度のストレッチ。次に床面で歩いてみてから氷上へ。ここで歩くことに慣れたら転び方とストップのしかたを練習します。ここまでなんとも滑るという動作に入れていませんが、まあ、スキーも同じです。そして上達への第一歩はマイシューズを入手することです。スケート靴は、本格的な競技用でなければ意外に安く、ママチャリぐらいの値段で買えます。 
 あとは、ひとつひとつ技術的なことを習得することになるのですが、スケートは理屈で覚えることが少なくなく、理論武装ができたら、あとはひたすら滑ることで、ちょっと人に教えられるくらいにはなります。逆に、左右とか内外とかいう言葉がわからない幼児などに対しては、どうしようもないわけで。
 さてここで自分の話ですが、体重が増えすぎて人に教えるどころではなく、スケートは体の重量バランスがよくないためターンなどでの体軸が定まらず、また、スキーも体の荷重に大腿部が耐えられず、何回かターンをするとエッジが流れてしまうということで、いずれも怪我のもとなので、まずは体重を落とさなければ。
 先日、冬物のスーツがきつくなっていて、多少くたびれてもいたため、量販店にでも買いに行くかと思ったのですが、珍しいことに家人が「今後、スーツなんか買うこともないから、ひとつぐらいちゃんとしたのを買ったら。いつも体型に合ってないし。」と言ってきたので、久しぶりにイージーオーダーで新調することに。採寸すると店員さんに「お客様、多少立派になられていて、割増料金になります。」と言われてしまいました。やはり不経済な体型になっていたようで、こればかりは立派になってもいいことなどありません。

■ 五輪冬季大会の話
 第25回オリンピック冬季競技大会がミラノ・コルティナで開催されています。ミラノのドゥオーモ前あたりからも生中継したりしていますが、やはりあの大聖堂は圧巻でして、以前、ミラノであれを前にしたとき、キリストを信じろ、と言われたらやはり信じるちゃうなぁ、と思うほどでした。
 あと、ナントカ2世ガレリア(説明が雑ですみません)の牛のモザイク画の上で、かかとをくるくる回すと「幸福になれる」とか「再びミラノに来れる」とか言われていますが、「幸福になれる」かどうかは気持ちの問題ですが、「再びミラノに来れる」は多分、本当です。自分も再訪してました。そもそも日本からのイタリア直行便というのは、かつてはミラノ空港発着が一般的でした。今はローマ便(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港?!)が主要路線となっていますが、そんな事情で日本からの場合は、ミラノを再訪することは多いかと。じゃ、他の国の人はどうなのかというと、それはわからないのですが。
 さて、イタリアでは、20年前にトリノ五輪というのが開催されていまして、そこで記憶に残るのはプッチーニ作曲の歌劇「トゥーランドット」のアリア「誰も寝てはならぬ」でしょうか。
 当時、早朝から開会式の生中継を見ていましたが、なんとなく気持ちばかりが先走ったような開会式で、特にフェラーリがエンジン音全開でタイヤを空転させる演出には、正直、違和感がありました。実はトリノはフィアットの創業地であり、当時フェラーリの親会社がフィアットという関係にあったようです。それはさておき、最終聖火ランナーに続いてルチアーノ・パヴァロッティさんが生涯最後の公の舞台として登場し、「誰も寝てはならぬ」を歌い始めたのですが、その途中で朝のニュースの時間となり中断、その続きは観ることができず、再放送もなく、この怒りをどうぶつけていいのやら、と思った記憶があります。
 当時、「トゥーランドット」はクラッシックファン以外にはなじみがなく、舞台も大がかりで上演が限られていましたが、この「誰も寝てはならぬ」だけは、テノールのアリア集によく入っていました。かく言う私も、専用劇場で観たオペラというのは同じプッチーニ作曲の「蝶々夫人」だけでして、浅利慶太さん演出の舞台をわざわざミラノのスカラ座で観るという、貴重と言えば貴重な体験でありますが。
 トゥーランドットについての知識も、「誰も寝てはならぬ」のあとに、トゥーランドットに仕える大臣たちピン、ポン、パンによる歌がある、ぐらいしかなかったわけで。ちなみにあのTV番組「ピンポンパン」はここからとられているそうです。さらに追加情報ですが、「トゥーランドット」の初演は1926年4月25日、アルトゥーロ・トスカニーニの指揮でミラノ・スカラ座にてですが、なんと今年(2026年)は初演100周年です。
 さて、パヴァロッティさんの熱唱は、途中で中継が打ち切られてしまったものの、その後、荒川静香さんがこの曲とイナバウアーとの組み合わせで金メダルをとったことは、皆様ご承知のとおりです。まさかイナバウアーで金メダルをとるとは。曲がピタリとはまったことも大きいのですが、開会式にパヴァロッティさんが歌った曲ということもあったかと。
 今回の開会式でもこの「誰も寝てはならぬ」を、アンドレア・ボチェッリさんが歌っていました。しかも朝のニュースが始まる時間の前にはちゃんと歌い終え、まずはひと安心というところでした。このボチェッリさんはパヴァロッティさんが見出した人でして、彼の有名な曲に「君と旅立とう」(Con Te Partiro)というのがあります。後にこれは「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」という英語の曲にしてサラ・ブライトマンさんと共演、大ヒットしました。ちなみに今回、坂本花織さんの団体ショートで使った曲が「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」でして、やはり狙っていたのでしょうか。3回転アクセルなしでもメダルがとれるという、マジックのような曲で。もっともジャンプの回転数だけを争うよりはいい傾向とは思います。
 そして、鍵山優真さんのフリーで使われたのも「誰も寝てはならぬ」でしたが、この個人決勝がまたマジックのような展開でした。また、おっ、と思ったのがショートの曲でして。ピアノアレンジだったので、最初はよくわからなかったのですが、途中、あっ、スティーヴィー・ワンダーの「I Wish」だと。歌入りの楽曲が10年くらい前から使用可能になったのですが、あえてインストで、しかもジャズ風。あの角野隼斗さんによるものとのことで、けっこう攻めていますね。
 では、この「I Wish」の歌詞の内容はどんなものかと、手元にあったアルバム「Key of life」(なんとLP2枚+EP1枚組!!)の、今ではありえない立派な歌詞カードをみてみると、一言で言えば、「あの日に帰りたい」的な内容で、日本語タイトルの「回想」のとおりというか、演技内容には無関係のようです。「I Wish」はちょうど50年前の曲でして、ファンクなノリで当時、大ヒットしています。今回のようなファンクジャズ系でのアレンジも今後、流行るかも。ちなみに同じアルバムに「If Its Magic」という曲があるのですが、これはなんかスケートにおける「誰も寝てはならぬ」のアンサーソングのような感じです。どうでしょう。すばらしい曲です、一度ご試聴を。
 また今回、気になったのは、金メダルのミハイル・シャイドロフさんのショート「砂の惑星デューン」でして、演出を含めデューン界隈(?)では大変な話題になっているようですが、アンビエント系というのもまた新しいかと。ただ、どちらにしても演技構成は難しい感じがします。あと「火の鳥」もありましたね。ゆくゆくは「春の祭典」でも。
 さて、20年前の開会式ではクラッシックの名曲などが次々と流れていたのですが、開会式を中継していたアナウンサーは知ってか知らずか、曲の題名すら語らず、オヤオヤとは思っていたのですが、トゥーランドットのこのアリアについても説明がありませんでした。恐らくスポーツ中心で準備していたためとは思いますが、開会式だけは開催国の文化に明るいスタッフで対応すべきではと思っていたところ、今回はヤマザキマリさんがゲスト。さすがとの評判だったのですが、原稿そのままのような控えめな解説もあり、アレアレと思っていたら最後に「今回はしゃべりすぎないよう我慢しました。」と語っていて、ああ、どうりでと納得しました。この我慢していた分はSNSで補っているようです。いっそのこと、こういうものの生中継は、音声サブチャンネルでも用意して、増田明美さんレベルの情報量をもつ人に語ってもらってはと。例えば、「誰も寝てはならぬ」と歌ったボチェッリさんの睡眠時間はどのくらいとか。いや、失礼しました。


《2023年1月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年1月4日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (1/4 〜 1/31)
開館日数・・・・・・・・・・・・・23日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・819名
回答者数・・・・・・・・・・・・・10人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・0%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・20%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・10%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・20%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・50%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・0%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・40%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・50%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・88%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・13%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・75%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・25%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

山形市 女性/50代
今回初めて説明していただきながら拝見しました。楽しく回らせていただきました。前回より刀の展示が少ないのがちょっと残念でしたが、鬼切の説明が聞けて良かったです。また来ます。

秋田県横手市
私は歴史にあまり詳しくありませんでしたが、解説をしてもらい、ヒントがあったりクイズに答えたり、子供も面白いと思うことがたくさんあってとても充実して過ごせました。子供ももっと調べてみたいそうです。ありがとうございました。

東京都江東区 女性/40代
説明員の方がていねいに説明してくださり、よく理解できました。説明いただくことで、そこの歴史について印象・記憶に残るのでとてもよかったです。

山形市 男性/10代
早く御城印を作ってください。

東京都港区 男性/40代
ガイドさんの案内が、とても良かったです。

東京都世田谷区 女性/30代
解説パネルが充実していて、とても分かりやすかったです!最上家だけでなく、周りの伊達や上杉との関係も合せて展示されていて、当時(義光公)の勢力争いイメージが具体的に感じられて良かったです。にゅ、入場料をとってほしいです!!せっかく鬼切丸と最上家のエピソードがあるのでもっと刀剣アピールしても良いと思いました。かりがね軍旗と義光公の兜の実物を見られて、とても嬉しかったです。

神奈川県川崎市 女性/30代
パネルが大変わかりやすく、また、地図や現物などの状態がよく、展示の構成も見やすかった。義光公にあまりなじみのない地域に住んでいるので、初めましてでしたが、義光公の通史だけでなく、周辺地域との関わり、横のつながりを知られて東北史の解像度が上がりました。どうか入場料を取ってください!こんなに充実して面白い展示をされているので、もう少し入館者も運営を支えられるようにしてほしいです。また、「こんな展示があるよ!」というのをSNSでも流してもらえると・・・!もっとたくさんの人に見てもらえると・・・!

山形県 女性/50代
ガイドさんありがとうございました。大変よくわかりやすかったです。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。


■ 「天童原の馬揃え」の話
 「天童原の馬揃え」の話のようなことは現在でもよくあることで、特に皇族が行啓する催しなどでは、施設などの改修がなされたりします。一番わかりやすい例が国民スポーツ大会、かつて国体といわれていたものですが、山形で開催された時は、体育施設には特別な応接室が設けられ、幹線道路も新しくなり花まで植えられるといった具合でして、あわせて立ち寄る建物もトイレまで新しくなるという具合です。皇族も用を足すわけでして。とにかく国の補助金などが得やすくなるとのことでした。
 山寺芭蕉記念館にも立ち寄られるということで、控室ともなる会議室は立派なものとなり、例えば壁紙などは布製のもので仕上げられました。その会議室には現在も来館時の写真が飾ってあります。そう言えば、山寺には明治41年9月18日、当時東宮(皇太子)であった大正天皇が、山寺に行啓(参詣)された時に御休憩なされた「行啓記念殿」という建物があります。この建物は腕利きの大工さん156人で、わずか26日間で建てたそうです。そのときの自ら植えられた松やその後建立された記念碑とともに当時のまま保存されています。特別な時期に内部が一般公開されることもあります。皇族の行啓はかくも効果絶大です。
 実は当館でも皇族の来県を機に国体の年に、普段ならまず借りられない北野天満宮所蔵の名刀「鬼切」を貸していただき展示できました。こうして、おこぼれにもあずかれることがあるのです。
 ところでこの「天童原」とはどこか、という話ですが、これを郷土史研究家の矢野光夫さんが、史料の他、地図や市史なども調べ現地調査まで行った研究成果が当館のホームぺージに「奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか」というタイトルで掲載しています。
 その調査過程は具体的で面白く、古地図、土地の歴史、市史、現地調査など、調べるにつけていくつかの候補地が浮上してはまた消えるのですが、結論として「最上郡天童の野」は現天童市糠塚から東方、天童市立第二中学校及び山形県立天童高等学校周辺、地籍名は大字久野本、老野森などを、「天童原」と考えるのが妥当と思われる。と推察するに至っています。歴史ロマンとはこういうことなのか、その一端をみることができます。

■ 頼みごとにも馬という話
 最上義光がかなりの謀略家であると印象付けることになったのが、白鳥十郎長久を討った話で、ここでは織田信長公に馬を贈る話がでてきます。1584年6月のことですが、義光公が重病と偽って白鳥十郎を山形城中に呼び寄せ、床の下に隠していた小太刀で切り倒した話で、「最上記」の「城取十郎討捕給事(白鳥十郎を討ち取り給うこと)」にはつぎのようにあります(一部略)。
 出羽の国、谷地というところに白鳥十郎という大名があった。十郎は義光公を退治して自分が出羽の支配者になろうとし、まず中央権力者の力を頼りにしようと思った。そこで織田信長公へ大鷹一羽と御馬一頭を差し上げ、「私は、出羽の国最上の主でございます」と、偽りを申し上げたところが、信長公も遠国のことで少しも存知なかったため、十郎の言葉を信用していねいな御返状を下された。
 義光公はこのことを聞き、使者に最上家の系図とともに、白羽の大鷹一羽、御馬一頭、槍十挺を揃えて進上した。信長公は使者の説明を聞き、最上家代々の系図をご覧になって、すぐに「最上出羽守殿」として御返状を出された。
義光公は、最上家の地位を奪おうとした白取十郎を何としても討ち取らねばならぬと考え家臣と相談、使者により十郎に申し入れた。「近隣の問題が起きないように、十郎殿のご息女を義光の嫡男義康にめあわせてはいかがか」。これに対し十郎も「了解いたした。義光公と和睦いたしましよう」と返事に及んだが、用心深くして山形の城にくることはなかった。
 そこで義光公はまた家臣と相談して、使者に伝えさせた。「近頃わが身の病が、もってのほか重くなった。なんとか十郎殿に対面し、国の政治をお頼みしたい。また、跡継ぎが幼少の間は、家の系図もお預けしておきたい。」
 十郎は、これこそ願うところの幸いと喜び、時日を移さずに山形へ来ると、義光公病臥の次の間には御一門衆が詰めていた。医師・陰陽師が大勢出入りし、まことに容態が重大であると見えた。
 十郎は義光公の枕元近く寄り、「これほどに重いご病状とは存じず遅参し申し訳ございませぬ。」と申された。義光公は起き直り、「最後の対面、まことにもって喜ばしいこと。」と言って代々の系図を出した。十郎はそれ受け取って三たび頭上におしいただき、「こうなれば出羽の主は我なり」と口には出さねど、その顔色にありありと見えた。
 すると義光公は居直るように見せかけて、床の下に置かれた太刀を取り、抜き打ちに斬り付けた。この不意打にさすがの白取十郎も、二つに断ち切られて倒れた。十郎の供者は御馳走のため広間に置かれていたが、奥で打つ合図の太鼓で、討手を命じられていた若侍たちが三方から取り卷き、一人も残らず討ち取ってしまった。
絵にかいたような騙し討ちではありますが、しかしながら、最小限の死傷者をもって成敗したという評価にもなっています。
 ところで贈り物の話に戻りますが、ここにもあるように献上品としては馬や鷹ですが、下賜品となると刀剣や茶器、着物などになるようです。どちらにも使える贈り物はやはり金銀です。ちなみに天皇からのものは恩賜ともいいますが、近年まではタバコでしたが、現在は菊花紋章入りボンボニエール(菓子容器)に入れた金平糖です。やはり下賜(菓子)だけに、いや、失礼しました。

■ 長男暗殺事件の話
 白鳥十郎討捕事件とともに、最上義光が冷徹・非情で残忍とされたエピソードに、長男を暗殺したという話があります。また、伊達政宗の母つまり義光の妹である義姫が政宗を毒殺しようとしたという話もあり、兄も妹もそれぞれの長男暗殺を謀った「戦国一のワル」と称されることがあります。ただ、最近の研究ではいずれも否定的な論証がなされています。
 まずは最上家の話から。「最上記」にある「修理太夫殿生害之事」という話です。ここで「修理太夫」というのは義光の嫡男で長男の義康です。
 義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、さまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。
 「大殿(=義光)もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」、そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。一方、義光の近臣からは、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。
 ある日、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をした。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。それ以後、親子の仲はひどく不和になってしまった。一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解をと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。
 江戸に上った義光は、この状態について家康に相談した。家康は、「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。
「仰せの趣、恐れ入ります。帰国次第切腹いたさせます」と申し上げたところ、
「そうしたなら、子供のうちでは、誰に家督を譲られる存念かな」と尋ねられた。
 義光は謹んで「誰と申すまでもございませぬ。次男ですから、駿河守に家督を仰せ付けますなら、有り難く存じ奉ります」と申し上げた。家康公も、駿河守は十三歳のときからお側に召し置かれ、たいそう贔屓にしておられたので、お喜びなされ、「なるほど、駿河守は穏やかで才もある者。その方から家督を譲られでも差し支えない器量である。まことに義光は武勇のみならず、子供の目利きさえしっかりしておる」と甚だ機嫌がよかった。
 ここで駿河守とは義光の次男、家親(いえちか)のことで、1582年(天正10年)生、1594年(文禄3年)から徳川家康の近侍として仕え13歳で元服する。1595年(文禄4年)からは家康の3男・秀忠の家臣として仕えた。初めは父より一字を与えられて義親と名乗っていたが、家康の名から一字をもらい受けて家親と改名、後に駿河守家親となった。
 さて、義光公は翌年春に帰国、修理大夫殿へ使いをだし、「このたび、父子の仲が絶えたことが上聞に達し、家康公からお言葉があった。『一門不和なるは、他方より侮られるものである。たとえ義康によからざるところありとて、老体ゆえに耐え忍び、仲直り申すよう』と直々の上意であった。黙止することできず、お請け申し上げてきたところだ。であるから、直接会って語り合い、日頃胸にたまっていた不満を解消したいと思う。急ぎ登城されよ」と仰せられた。
 修理大夫はもちろん異存なく、すぐさま御使者と連れ立って父君のおられる御殿へ出かけた。ところが対面もされず、「まず高野山へ入るように」との指示があった。出家して先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに、まことに物哀れなる様子で山形を立ち去る。
 1603年(慶長8年)8月16日、義康一行が月山を越え庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門の一味だった。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。家来たちも必死に戦ったが全員討ち死にした。
 ここで悩ましいのは義光が、家康には「帰国次第切腹いたさせます。」と応えつつ、義康には「老体ゆえに耐え忍び、仲直り申すよう」と家康から言われたとしていて、これを謀略とみるか、高野山に逃がすことが真意だったのか、やはり謎ではあります。
 この事件については、当館ホームページ「最上家をめぐる人々♯11」(片桐繁雄著)では次のような推察があります。
 義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。

■ 長男毒殺事件の話
 政宗毒殺未遂事件というのも有名な話ではありますが、最上義光の妹であり伊達政宗の母である義姫が政宗を食事に招き毒を盛ったという事件でして、「貞山公治家記録」によると1590年(天正18年)4月5日に起きました。
 事件の前年、伊達政宗は会津地方を平定したが、惣無事令に反して領土拡大を続けた政宗の行動は豊臣秀吉の怒りを買った。最上義光は義姫に、政宗を殺して、小次郎を当主にすれば許されるだろうと助言。しかし、その魂胆は、政宗が死んだあと、小次郎をも殺害し、自分が伊達領を横取りしようというものであった。
 義姫は小次郎を溺愛していたため、義光の言葉を鵜呑みにして政宗を食事に招き、毒を盛った。しかし政宗は腹痛を起こし嘔吐したものの、解毒剤を飲んだため、大事には至らなかった。
 小次郎に家督を継がせるための母の犯行と知った政宗はたいそう怒って、4月7日に小次郎を手討ちにした。しかし、義姫については、実の母を殺すことはできないと、同日、山形の兄、最上義光のもとに出奔させた。
 当時、伊達家の家臣は政宗派と小次郎派に分裂していた。この状況を打開するために政宗は、母に毒を盛られたと一芝居打ち、表向きは小次郎を手討ちにしたことにして、実は大悲願寺に匿ってもらった、という説が有力視されています。義姫と小次郎も伊達家を守るために、一枚かんでいたとも。大悲願寺の十五代住職秀雄が小次郎本人である可能性が高いという説が有力視されています。
 さて、豊臣秀吉の小田原攻めが本格的に開始されたのは同年の3月29日です。政宗は3月25日に黒川城に重臣を集めて評定を行い、秀吉に味方することを決めます。そして翌日には秀吉に向けて使者を出し、出陣を4月6日と定めていました。
 政宗は、留守の間に弟の小次郎が謀反を起こすことを警戒していたのですが、毒殺未遂により小次郎はなきものとなりました。4月15日に出立しますが、北条氏の領土を通れず帰還。政宗の家臣の中には秀吉に降ることに納得しないものも多かったのですが、ようやく5月9日に再出立。越後の上杉領を通過し6月5日に小田原に到着。小田原城の開城が7月5日なのでギリギリでした。当然、秀吉は立腹。切腹を命じられても仕方がない状況でしたが、政宗と義姫は遅れた理由とするため、この毒殺未遂事件を自作自演したとも考えられています。
 当館の「歴史館だより��30」で佐藤憲一さん(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)からの寄稿につぎのような説明があります。
 何故このような事件を捏造したのだろうか。これを解く手掛かりとなる資料がある。事件直後に政宗が側近の鬼庭(もにわ/後に茂庭)石見守綱元に宛てた書状である。全文は「貞山公治家記録 付録」に収録さえている。その中で弟殺害の理由を将来内乱が起こることを未然に防ぐため、と述べている。つまり弟擁立の芽を摘んで伊達家の一本化を図るためであった。
 しかし、弟を殺しては小田原で政宗に万が一のこと(豊臣秀吉の命による切腹、打首など)があった場合、伊達家の血統が途絶えかねないおそれがあった。当時政宗には実子がなく、長男の秀宗(後の宇和島藩主)が誕生するのは事件の翌年、天正十九年(1591年)のことである。血統を絶やしかねないたった一人の弟殺害は考え難い。
 ということで、一芝居をうってわが子を殺すことなく寺に逃がした、という説のとおりとすれば、義姫にせよ、その兄の最上義光にせよ、「戦国一のワル」兄妹ではなく「戦国一の役者」兄妹と称されてもいいのでは。とにかく最小限の犠牲で、内部組織の統制と対外的な面目を保つことができたわけでして。これも歴史ロマンなのかしらん。

■ お駒の話
 もうひとつ、馬つながりということで「お駒」と名付けられた最上義光の娘「駒姫」の話も。この駒姫の悲劇というのは、義光にまつわる話では最も有名ではありますが、「最上記」では駒姫のことを全く触れておらず、駒姫の死を語る初見史料は、伊達氏の重臣である伊達成実の「成実記」であるとのことが、当館のホームぺージ「駒姫の死について」(著:胡偉権/歴史家)にあります。
 通説では、1590年(天正十八年)の大崎葛西一揆に際して、豊臣秀次は駒姫の美しさを知り、山形に立ち寄り、義光に対して駒姫を強要した。義光は固辞したが、秀次の執拗な要請に負けて、可愛がる娘を渋々と差し出した、となっています。
 しかし「成実記」によれば、秀次は家康とともに九戸一揆を鎮圧するため奥羽に下向。家康は岩出山に、秀次は山形に立ち寄った。その後、秀次事件に駒姫が巻き込まれたきっかけは、「義光の娘は奥州一揆の時、秀次が最上に御在陣の時、(義光から)献上された」ことにあったと。それが18世紀初頭に成立した「奥羽永慶軍記」でようやく、秀次が駒姫の美しさに魅了され執拗に強要する、という通説での内容が見られるそうです。義光が自ら娘を献上したのか、秀次が強要したのか、ああ、これも歴史ロマンかと。
 義光と秀次との交流については、天正十九年と推定される五月三日付の書状によれば、義光は京都から尾張を経て山形に帰る際、秀次に厚意を受け、その後、山形に着いた義光は、山形の到着を報じると共に、秀吉と秀次に馬をそれぞれ献上したいと伝えています。胡偉権さんは、義光は秀次に急接近し、それを通じて秀吉との関係を緊密化する思惑は容易に読み取れる、と述べています。駒姫の死にともない最上家と豊臣政権のパイプは葬り去れたが、最愛の娘の横死を悔みながらも、新しいパイプ役を差し出すことも忘れてはならない。そこで嫡男の義康の登場が見られる。義康は慶長年間、秀頼の近習となったが、駒姫の死の直後に、豊臣政権に召し出され、人質とされた。最上家の安泰のために、義光は知恵を絞り、豊臣政権と必死に結び付こうとしていたが、その結果は悲惨だった。関ヶ原の戦いに義光は家康に絶対的な忠誠を誓った裏目には、豊臣政権への「恨みが深かった」からかもしれない、とも指摘しています。
 義康を豊臣側に、家親を徳川側にと、言わば戦国時代のセオリーどおりに御家存続を図ったわけですが、これが家臣においてデリケートな問題に。しかも後を継いだ次男家親は36歳で急逝。その後継ぎとなる家信はまだ12歳で、やはり一族重臣の間でごたごたが起きてしまいます。これは歴史ロマンではなくて、歴史の悪戯とでも言うべきことかと。
 さて、駒姫という名の由来ですが、陸奥国、大崎氏の娘は、栗駒山の麓を通って出羽国の最上義光に嫁ぎました。嫁ぐときに見た残雪を頂いた美しい山「御駒山(おこまやま)」に因んで、義光は愛娘に「お駒」という名を付けたとされます。
 「奥羽永慶軍記」には、「駒姫が生まれた日、伊達政宗と最上義光が和歌の贈答を行った。義光の妻は、政宗からの和歌に因み「千年(ちとせ)」と名付けたいと言った。しかし義光は、安倍貞任の娘「千年」は、父母を滅ぼした悪い名前だと採らず、出羽の名山「御駒山」に因んで「お駒」と名付けたという」とあるそうです。その御駒山は、「国立花山青少年自然の家」(宮城県栗原市)から登ることができます。


最上義光は慶長19年(1614)1月18日未刻(午後2時頃)に69歳で
没しました。




本日は新暦の命日ということで、お花とお酒をお供えしております。