最上義光歴史館

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山形城の御城印の販売について

山形城の御城印を10月1日から最上義光歴史館の受付にて販売しています。

販売時間は開館日の午前9時から午後4時30分までです。

【通常版】1枚 300円
【特別版】販売終了 ※令和7年9月30日をもって販売・AR掲載を終了

この機会にぜひお立ち寄りください。

※なお、郵送による販売(通信販売)は行っておりません。ご了承ください。

≪御城印についてのお問い合わせ先≫  
山形市公園緑地課 023−641−1212(内線530) 


詳しくはこちら → 御城印のページにリンク (山形市役所)
《2023年9月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年9月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (9/1 〜 9/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,980名
回答者数・・・・・・・・・・・・・11人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・9%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・0%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・9%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・9%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・9%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・18%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・9%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・36%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・91%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・9%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・82%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・18%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・82%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・18%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

宮城県角田市 男性/20代
あまり歴史には詳しくはありませんでしたが、最上家と伊達の関係、最上家の結末等とても勉強になりました。ボランティアさんありがとうございました。

東京都小金井 男性/50代
改易されて残念。5千石とは。庄内地区のこと初めて知りました。無料でよい。

東京都板橋区 女性/60代
説明を丁寧にしていただき、理解しやすく楽しかったです。山形愛を感じました。また、山形に来たいです。ありがとうございました。

東京都大田区 女性/70代
霞城公園を見学した後だったので、わかりやすかった。案内の方の説明をきくことができとても良かったです。

宮城県柴田町 男性/70代
ガイドの方も分かりやすく説明いただき、大満足の時を過ごしました。有難うございます。

山形県新庄市 女性/10代
様々な話をきけて大変興味深かったです。ありがとうございました。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。
 当館では現在、特別展示として火縄銃5挺(ちょう)が間近に見られる展示をしています。さて、火縄銃と言えば、「種子島」、「長篠の戦い」、「山形市鉄砲町」といったところでしょうか。んっ、「山形市鉄砲町」とは?!、と言われそうですが、そこは最上義光が関係するのでご容赦を。まずは早速、その話を。
 最上義光は城下町をつくるにあたり、町人町も含め守りを固めるため、城の南の出口に鉄砲鍛冶町を設けました。泉州堺から招いた鉄砲鍛冶や鉄砲衆を置き、町割りをしたそうです。今も「鉄砲町」という地名を残しており、最上義光の菩提寺である光禅寺がある場所でもあります。
 「鉄砲町」というのは全国各地にあるようですが、鉄砲鍛冶が集まる職人町であったり、鉄砲足軽たちが住む役人町であったりしたようです。ところが、戦国時代が過ぎ、天下泰平の世ともなると、鉄砲町はその役割を潜めてしまい、江戸時代中期の「山形市の歩き方」ともいえるガイド本「山形風流松木枕」でも鉄砲町についての記述はあるのですが、神社仏閣(六椹八幡宮、宝光院、玄妙寺など)しか記述がなく、その名の由来である鉄砲については「て」の字も出てきません。
 ここで、火縄銃について教科書的な話を。1543年(天文12年)種子島に中国船が漂着、この船に乗っていたポルトガル人により火縄式鉄砲が伝えられました。島主・種子島時尭(たねがしまときたか)は2挺を購入し,惣鍛冶・八板金兵衛清定に鉄砲の模作を命じました。銃身と銃底を塞ぐネジ切りが難問でしたが,翌年来島したポルトガル人によってこれらの技術を習得,伝来後8か月目にして国産銃が完成しました。当時は鉄砲のことを「種子島」と呼んでいました。(鹿児島県HPより)。
 この時の種子島、じゃなくって火縄銃1挺の購入金額は2,000両(1両の「金」含有量は天保小判で約6.38g、現在の金価格を1万円/gとすると、その金額はざっと1億3千万円!)。その後、火縄銃は摂津国堺(現在の堺市)の鉄砲鍛冶などの国産化で大量生産とともに低価格化も進み、秀吉の時代には、火縄銃(6匁銃)1挺は9石(1石米は2.5俵=150kgなので、現在の金額は「つや姫」(地元スーパーで約4,000円/10kg)換算で約54万円?)だったそうです。参考までに某オークションサイトでの最近半年の火縄銃の落札平均価格は約38,000円です(火縄銃関係商品も含む)。なんか教科書というより、某局の「突撃!〇ネオくん」のようになってしまいましたが。
 そして、火縄銃伝来から約30年後の1575年(天正3年)に起きた「長篠の戦い」では、織田信長は3,000挺の火縄銃を用いて勝利。それから25年後の関ヶ原の戦いに投入された火縄銃は、東軍・西軍合わせて約25,000挺。この時には世界有数の銃保有国になっていたとのことで、例えば、仙台藩は鉄砲普及率が高く、大坂の陣では半数近くの兵が銃を持っていたそうです。
 今や全国各地で火縄銃の実演イベントがあり、多くは5月連休やお盆の前後に開催されるのですが、特に今年は種子島で「鉄砲伝来480周年全国火縄銃大会」が8月19日に開催され、全国各地から15の火縄銃隊が参加したそうです。短筒や大筒,長筒など多彩な火縄銃による一斉撃ちや段撃ちなどの演武等が披露されたとのこと。ただ、これらの実演は、火縄銃保存会等に集うボランティアによるもので、銃も自前で管理費用もかかり、本物なので当然、殺傷力があり、火薬の規制や取扱いも厳しく、単なる武将の恰好だけという場合とは、生じる責任や負担は全く違うとのことです。
 さてさて、ひとまずこのへんで火縄銃ネタは尽きてしまうのですが、ここでいつものようにことわざを。鉄砲で思い浮かぶのはやはり「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」でしょうか、この館長日誌もそんな感じかと、いや、まだ数も撃ってはいないのですが。むしろ「闇夜に鉄砲」と言った感じでしょうか。目標も定めず、当てずっぽうで、やるのが無駄なことのたとえなのですが、確かにそうかと。まあ、生き様もそんな感じなので、すみません。


展示中の火縄銃5挺。手前の銃は五十匁筒!!

→ 裏館長日誌





 前回に引き続き「大坂夏の陣」を描いた「最上屛風」に関わるお話です。
 この屏風絵には様々な幟(のぼり)旗が描かれています。どの旗がどの武将のものかは同定に至っていないのですが、とにかく様々な旗が描かれています。ところで、なぜ戦いに旗が用いられるのでしょうか。
 まずは敵味方がわかるようにするためで、古くは「源平合戦」の際、源氏が「白」、平家が「赤」の旗を掲げて、敵味方を区別しました。ただ、敵味方を区別するだけなら旗でなく武具や衣服に家紋をつけたり、場合によっては合言葉を用いることもあるのですが、ここは自分たちの活躍や存在を示すため、そしてそれはその後の褒賞にもかかわるため、幟旗(のぼりばた)などで目立つことも必要でした。
 一方、全体の戦況を確認する手立てとしても旗は重要で、その所在や配置を確かめ、軍功の有無を確認する役割を担う「軍目付」とか「軍監」という職がいました。ちなみに旗が倒れていくというのは、戦況悪化を意味するわけで、「旗色が悪い」と言い方はここからきています。
 この敵味方の識別は、現代戦においても重要技術のひとつです。いわゆる西側諸国や日本、韓国の軍の艦船や航空機航には、共通の敵味方識別装置が搭載されており、また、戦場における車両や重装備の歩兵部隊などにも様々な技術が投入されているといいます。ただし、認識できるのは味方の信号のみで、それ以外は、敵かどうかはわからない、というか敵と見做すしかなく、誤射や偽装などは時代が進むほど課題になっているそうです。
 ところで、「大坂夏の陣」に関わる逸話ですが、伊達政宗の軍は、味方の前線にいた神保軍を撃って討死させています。その数約300名。政宗はまわりの武将から非難され、神保家からも訴えられました。しかし政宗は、「前線の味方が後退し始めたときは、敵と一緒に討たなければ共崩れになる。このような時、伊達の兵法に敵味方の区別はない」と弁明し、幕府は不問としたそうですが、実際は、行く手を塞ぐ形となる部隊が、前進の邪魔になるので撃った、という説があります。
 「背中を撃たれる」というのは、このように意図的である場合も、単に誤射である場合もあるわけですが、撃たれた方はたまったものでありません(ですが英語ではこれを「フレンドリーファイア」Friendly Fireといいます)。この「背中を撃たれる」ということは何も戦場ばかりで起きる事ではなく、職場でもありがちなことです。いくつかのビジネス本にも、背後から撃たれることも警戒すべきとの教えがあります。
 他にも戦に関係することわざがいくつかあります。「バカな大将、敵より怖い」とか、「一将功成りて万骨枯る」とか、これも職場でよくあることで、こういうときにはとにかく「三十六計逃げるに如かず」でしょうか。そうそう、某元事務次官が唱えた「面従腹背」という手もありますが、やはり強いのは「馬耳東風」かしらん。


「大坂夏の陣」(最上屏風)

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