最上義光歴史館

最上義光歴史館
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《2023年10月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年10月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (10/1 〜 10/31)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・3,183名
回答者数・・・・・・・・・・・・・23人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・4%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・4%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・30%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・4%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・4%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・35%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・4%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・4%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・9%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・91%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・4%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・74%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・22%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・4%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・74%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・26%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

神奈川県横浜市 男性/40代
全国展開してほしい。

山形県新庄市 女性/40代
ガラスケースの奥に説明文があるので読みづらい。奥にあるわりには字が小さい。ガラスケースの角に甲冑があり、ちょうど角が甲冑にかかっていて残念だった。

広島県呉市 男性/70代
ガイド説明がよかった。

神奈川県大和市 男性/60代
貴重な資料の展示video解説により最上家のことがよく理解できました。

東京葛飾区 女性/50代
コンパクトに流れもあってわかりやすく見れた。あと、外の最上公の像の句を読んでもう一回みようと思ったのですが、きっかけをありがとうございました解説の方々の情熱すばらしいです。他の方への解説を耳にしながら見れてより充実しました。

東京葛飾区 男性/50代
非常に丁寧7に説明いただきありがとうございました。

埼玉県所沢市 男性/40代
説明員の方に詳しい話を聞けてよかった。

東京都板橋区 男性/60代
無料でここまでの博物館は他にはないのでは。がんばってください。

千葉県千葉市 女性/60代
今回は不勉強で初めて知ることが多かった。また来てみたいです。北の関ケ原の戦いがあったことを初めて知りました。少し勉強してまた山形に来たいと思います。今回は時間がなかったのでじっくり見れませんでしたが、説明をていねいに一人のためにしていただきありがとうございました。

岡山県岡山市 男性/60代
大変ていねいに説明いただき感謝しております。山形の歴史、成り立ちがよくわかりました。西日本に住んでいると当地はなじみ薄いので、非常に勉強になりました。

東京都稲城市 男性/50代
ボランティアさんに丁寧にご説明いただき、ありがとうございました。

神奈川県大磯市 女性/30代
館のスタッフの方の声が大きくて、落ち着いて見られず、残念だった。もう少し声のボリュームを落としてほしいです。

埼玉県草加市 男性/50代
この内容で無料とはとてもありがたいです。歴史好きにとって、これからもがんばっていただきたいたいと思います。

東京都町田市 女性/20代
サポーターの方がとてもていねいに教えてくださった。無知なままこちらに伺いましたが、多くを学ぶことができ、また更に情報を頭に入れてから伺いたいです。

宮城県松島町 男性/70代
とても分かりやすい説明でした。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。

「賦何墻連歌」冒頭部分

 連歌会においては、ただ目の前の情景を和歌で表現するだけではなく、古典を踏まえた場面選びや本歌取りがあり、一方、他人の句を受けて繋ぐことから、前句にある由来や意味を理解し、式目を踏まえながらも新たな展開への刺激となる句を付ければなりません。歌会に人が集い詠み合うという「座の文芸」ならではの気のきかせ方が求められます。古今和歌集には紀貫之が「猛き武人(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり」と記していますが、時代が進んで、踏まえるべき古典や式目も多くなり、気付きの有無や歌の出来不出来が面子にもかかわるため、「心をも慰むる」どころか、かなりハードなものではなかったかと思われます。連歌会は夜を徹して行われることもあり、「賦何墻連歌」なんか、脇句の段階で「明(け)やすき山」、山の空が白み始めている、とか詠んでいるわけで、あ、違うか。とにかく、連歌会の挙句の果てには、身も心もボロボロになったのでは、と思ってしまいます。
 さて連歌には、「月」と「花」の句を詠み入れることとなっていますが、月と花は「中秋の名月」と「桜」を意味するのが慣例です。これでいくと、「おる花のあとや月見る夏木立」では、花は春、月は秋、でも季語は夏木立で、春、夏、秋をいっぺんに詠み込んだ、という句になります。ただ、「おる花」は回想であり、「月」はどの季節でもいいということにもなっているので、とりあえず季語がごっちゃになっているわけでもありません。
 さらに「花」については、挙句のひとつ前の句で取り上げることが通常なのだそうです。が、「賦何墻連歌」では、「別れた男は、今日は誰と」という句になっています。一方、テーマとなっている「墻」はどこにいってしまったのか、全ての句をざっと見渡しても見出せません。もう、主題も進行も関係ないフリージャズ状態です。
 ところで「賦何墻連歌」の挙句はつぎのようなものです。
(挙句) あたなる人に ちきるはかなさ  玄仲
漢字を当てはめると「徒(あだ)なる人に 契るはかなさ」、つまり「あてのない人と約束するむなしさ」とでも訳すのでしょうか。これを素直に遊女を詠んだ句とするのは易しいのですが、そうです、遊女を義光と置き換えれば、「徒なる人」とは秀吉ということに。あるいは、玄仲は里村紹巴の次男なのですが、遊女は紹巴とも置き換えられるのでは。以上、私の解釈にすぎませんが、どうでしょう、天国の名子先生。
 なおこの句は、「会はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち」という徒然草137段にある文言に出典を求めることができます。この137段と言えば、あの有名な「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」で始まる段で、ああ、ここで発句と同じく挙句にも、「花」と「月」とをぶっこんだのかと。こうなるともう、あらかじめ発句の段階で用意されていたとしか思えません。やはり連歌恐るべし。蛇足ですが、「徒なる」という言葉は、「徒然なる」という言葉とも関係します。
 さて、ここらでいつものことわざを、とは思ったのですが、今回は連歌に由来する慣用句を3つほど。
 まずは「花を持たせる」。花と月は定座 (句を詠む位置)が決められていました。しかし、連歌会で最年少もしくは特別な主客がいる場合には、歌を詠む順番を変えてでも、その人に「花」の定座の位置を譲る心配りをしていました。これが「花を持たせる」の由来です。次に「月並み」という言葉ですが、月を詠み込むときに、月の言葉が入る例えば「正月」や「神無月」などの言葉を用いても、それはただの「月並の月」(つきなみのつき)とされ、月の句とはならないことからきています。そして「挙句のはて」という言葉は、御存じのとおり、いろいろやっても好ましい結果にならないことで、私の日常においては「月並み」とともに身に染みる言葉ではあります。



(→館長裏日誌)


 前回の続きです。何分にも連歌は全くの素人ゆえ、前置きばかりが長くなってしまいました。さてさて今回は、chatGPTではちょいと難しいであろう連歌の解釈の話でも。
 最上義光の連歌の師は、里村紹巴(さとむら じょうは)という京都の高名な連歌師です。義光は式目について、聞き知ったこと、疑問に思ったこと、さらに連歌用語や歌言葉などを解説し、それを師の紹巴にみせ指導を乞いながら、文祿5年(1596、改元慶長1)に「連歌新式」(最上義光注、紹巴加筆)を著しました。時に義光51歳、紹巴73歳です。当時、義光は豊臣秀次事件に連座して、近江に流謫されていた身でした。また、紹巴も豊臣秀次事件に連座して、近江国園城寺(三井寺)の門前に蟄居中でした。秀吉から罪人として退けられた両名ですが、この時期、近江の地にて音信を通じていました。(片桐繁雄「歴史館だより��13」) 義光は他に「毎座不審の儀ども八百ヶ条」というのも記しているそうで、実はこちらの方が興味深いのですが。
 それではようやく、最上義光が読んだ句の紹介を。慶長3年(1598年)4月19日に「賦何墻連歌(ふすなにがきれんが)」と題し百韻を里村紹巴などとともに興行したものから。ところでこの「賦何〇連歌」というのは、賦物(ふしもの、テーマ)のことで、「〇」の部分にはお題が入ります。つまり、この歌会のテーマは「墻」、いわゆる土塀です。
(発句) おる花のあとや月見る夏木立     義光
(脇句) 御簾のみとりに明(け)やすき山   紹巴
 最上義光が発句ということで、この会の主賓ということです。里村紹巴が脇句ということで、この会の亭主、つまり主催者ということです。
 問題はこの句の解釈なのですが、字面だけであれば、発句は「春の桜を手折って風流を尽し、今、夏木立の中に座り、遅く出た月を眺めている」となり、脇句は、「御簾ごしにこの光景を味わっていると、はやくも時は移り東の山の空が白み始めている」となります。
 発句でいきなり「花」と「月」が読み込まれていて、なかなかに大胆です。もっとも、「月は出るにまかせよ、花は咲くにまかせよ」という式目もあるにはあるのですが。この句で視点は、「折る花」→「月」→「木立」とダイナミックに移っていますが、テーマである「墻」が浮かんできません。続く脇句は、「外を眺めていると、時が過ぎていきますね」というもので、どうしたものかと。
 名子喜久雄山形大学名誉教授によれば、この句はその場で目にした光景であるとしつつも、この連歌会のひと月前の3月14日に、豊臣秀吉による「醍醐の花見」が挙行されており、「おる花」とはこの行事を踏まえている可能性があるとのこと。また、この3年前には秀次事件に連座し、義光は駒姫を失い、紹巴は近江国三井寺門前に追放さており、権力の怖しさを改めて意識せざるを得ない状況にあった。そしてこの「月見る夏木立」という情景描写は「源氏物語」のある場面の面影を詠み込んだものだと。(名子喜久雄「歴史館だより��28、29」)。ああ、そこまで読み込むものなのかと。
 そして、もうひとつ、「賦何墻連歌」の終盤のやりとりを。
 96 波も音そひかへる釣舟        喜吽  
 97 暮れはつる入江のむらは鐘なりて   景敏
 98 やどりさだめぬ袖ぞものうき     義光
 99 わかれつつまた誰をかはとひぬらん  紹由
 96の「釣舟」の人々は、なりわいのためではあるが日々殺生を行うので、業の深いものとされていました。96に立脚して97では、罪業を滅消させる「鐘の音」を響かせます。夕景の中での釈教・無常の世界が展開されています。ここまでは叙景を詠んだ句ですが、97の無常を軸として98では恋の情趣も加味されています。紹由は、98の義光の情趣をとらえ、99で遊女が「別れた男は、今日、一体どのような女のもとを尋ねるか」と嘆く姿を詠んでいます。このようにして、無常の叙景から恋の嘆きに、連歌は展開しています。
 つまり、釣舟の句が無情を想起させ、義光の句により遊女の嘆きになっていきます。ここで義光は、かなりの癖球を放り込んできている感じですが、実は「和漢朗詠集 遊女」の「白波のよするなぎさに世をすぐす 海人(あま)の子なれば宿もさだめず」という句から採っている、とのことです。(名子喜久雄「歴史館だより��24」) この句も古典から立脚していると。連歌恐るべし。


「賦何墻連歌」 終盤部分

(なんと、まだ続く →その3に続く)





 現在当館では、山形城の御城印を販売しています。通常版の他、数量限定の最上義光のイラストが描かれた特別版があり、戦国武将のイメージを前面に出したものとなっています。しかしながら最上義光は、連歌にも大変すぐれており、現在、248句が確認されています。連歌の発句数も戦国武将では、細川藤孝(細川幽斎)に次ぐ第2位とのこと。発句は連歌会(れんがえ)の主客が詠むことが多く、つまり頻繁に、主客として迎えられていたということです。当館学芸員は、この文人としての最上義光にも光を当てたいそうです。
 多くの戦国武将が理想としていたのは「文武両道」。細川幽斎は「歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ」、つまり武芸だけではお里が知れるとまで言っているそうです。また連歌は、古典に通じていなければ「本歌取り(ほんかどり)」などの歌のやりとりができません。当時、戦国武将の間では古典の教養として、「源氏物語」や「伊勢物語」などが読まれていました。最上義光は在京中に、古典学者である乗阿から「源氏物語」を学び、切り紙(免許状)を伝授されるほどでした。
 さて、連歌の成り立ちについてですが、「日本書紀」や「万葉集」にある、二人で一首の歌を即興的にかけ合う唱和に端を発する、との説があります。このようなものを単連歌といいますが、平安時代後期に盛んになり、やがて句を付け連ねてゆく鎖連歌(長連歌)となります。
 鎌倉時代には、百句を続ける形式が定着し、やがて百韻を十集めて千句にといった具合に規模が拡大します。北野天満宮にあった連歌会所では、足利義満は明徳2年(1391)に北野一万句興業をし、永享3年(1431)には足利義教も千句興業を催し、豊臣秀頼も十万句の連歌会を催したそうです。
 一方、様々な制約を加える「式目」というルールが定められるようになりました。同じような付句を繰り返す「輪廻」(いわゆるループ)などを避けるためです。式目はいろいろな所でつくられましたが、全国統一の式目としたのが「応安新式」(1372年)です。新式とは言え、戦国時代からすれば結構、古典です。式目では、例えば「月」と「花」の句は必ず入れるとか、それはどこに入れる(定座)とか、ある数以上繰り返えさない言葉とか、発句(一句目)、脇句(二句目)、第三句、挙句(最後の句)はどうあるべきだとかが記されています。例えば第四句は、特に軽い句を出すところ。発句、脇、第三と工夫が必要な句が続いた後で、また頑張ってしまうとかえって単調になる。これをさけるために古事、本説、本歌取り等は勿論、月や花のような重要な句は出さない、とのことです。このように古典と式目を基礎としながら、前の句の内容に呼応したものを考え、次の展開が広がる句を繋がなくてはなりません。
 連歌会は誰が開いてもいいのですが、会を統括する「宗匠」という連歌に熟達した人物を入れます。また、その宗匠を補佐し、連歌を記録する「執筆」をおきます。発句は主賓が詠むことが多く挨拶句とも言われ、発句の季語によって会の季節が示されます。脇句は会を催した亭主が句を付けます。第三句はその日の連歌の「行様」(全体の流れや方向性)を決定付ける重要な句でとなります。挙句は、挙句の段階で迷うと風情がなくなるため、すんなりと詠むことが良しとされ、前もって挙句を考えておくこともあったそうです。また、亭主や主客は挙句を詠みません。
 戦国武将などに対し、古典や式目を教授し、連歌を指導し、宗匠も務めたのが連歌師です。連歌師は、都や各地の有力者、公家なども回るため、多くの情報を持ち合わせていて「情報屋」の顔もありました。また、大名家と公家との間をつなぐなどの役目もあり、ゆえに政治の混乱に巻き込まれることもありました。
 と、ここまでの内容なら、私なんかよりchatGPTのほうが、もっと要領よくまとめられたかもしれませんが、次回に続きます。

(→ その2へ続く)