最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 最上家の茶の湯

 「茶人にあらずんば戦国武将にあらず」。これは拙者架蔵書の帯にある宣伝文句だ。随分と大仰な物言いだが、当時の状況からすれば概ね首肯できる。すなわち、�狹群漆諭躾�長・秀吉・家康・秀忠による「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」「数奇屋御成(すきやおなり)」などの施策により、多くの武将が深浅あれど茶の湯に関心を持ったことは想像に難くない。事実、彼らの多くが天下一宗匠の千利休や古田織部(ふるたおりべ)の門を叩いている。
 周知の如く屈指の連歌巧者であった義光。その子家親(いえちか)は家康・秀忠の側近だった。よって、茶の湯の場合も史料僅少と言えども例外ではなかったと思料する。以下、標記について管見の限りだが愚考を述べてみたい。
 先ずは、山形城三の丸跡双葉町・城南町遺跡の出土品に注目。黒織部市松文沓形茶碗(くろおりべいちまつもんくつがたちゃわん)・白天目茶碗(しろてんもくちゃわん)・志野茶碗(しのちゃわん)などが出土している。拙者は茶道執心者としてかつてそれらの品々を興味深く実査したが、個々の作風や関連事項などについては紙面の都合上割愛する。ただ、少なくとも当時の最上家臣に茶の湯を嗜む武人がいたことが明らかになった。  
 次に家親所蔵の茶入が挙げられる。元和三年(一六一七)家親死去、同五年源五郎家信(げんごろういえのぶ)が家督相続。その時に、父家親の遺物として「唐肩衝(からかたつき)」茶入を幕府に献上している(『最上家譜』『同家伝覚書』)。これは中国からの舶載の焼物で、わが国では唐物と呼ばれ珍重された。肩衝とは茶入の形容である。
 後に「最上肩衝(もがみかたつき)」と銘された本品は、名物として下賜・献上などを繰返し流転を重ねていったと思われる。現在は存否不明。妄想だが別銘で存在か?
 ちなみに、「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」という名物茶器がある。「初花(はつはな)」「楢柴(ならしば)」「新田(にった)」と銘する茶入で、そのすべてが権力者の秀吉から家康に渡っている。もとより、名物茶器の蒐集は足利義政(あしかがよしまさ)が先行し知られているが(東山御物/ひがしやまぎょもつ)、度重なる戦乱によって散逸した茶器その他を「名物狩り」をして再蒐集し、茶之湯政道に利用したのが織田信長である。その政治手法を引き継いだのが秀吉であり、また家康であった。彼らは名物茶器を使って事あるごとに茶会を催している。このことにより、大名家をはじめ武家・公家・豪商などの名家の間に茶の湯が盛行した。茶の湯は当時のコミュニケーション・ツールの最たる文化芸道であった。
 こうした事例から類推すると、冒頭に述べたように最上家においても社交的教養の域を出ないにせよ茶の湯には無関心でいられなかったに相違ない。さらに言うと、義光の連歌における連衆が明らかになっているが、その中に茶の湯を嗜む人物が確かにいる。例えば、連歌の師里村紹巴(さとむらじょうは)は堺の豪商で信長・秀吉の茶頭(さどう)だった津田宗及(つだそうぎゅう)と親交があったし、細川幽斎(ほそかわゆうさい/玄旨 げんし)や大納言日野輝資(だいなごんひのてるすけ)、それに豊臣の五奉行前田玄以(まえだげんい)や黒田如水(くろだじょすい)などである。堺の豪商灰屋承由(はいやじょうゆう)も茶人だ。
 さて、ここにきて残念だが今回の紙面は間もなく尽きるようである。秀吉・家康と義光との茶の湯をめぐる直接史料は今のところ見当たらない。だが、演繹的に考えれば蓋然性はけっこう高いと見られる。彼ら天下人の義光に対する茶室での�爐�もてなし″がきっとあったものと推定される。これは永年茶の道を歩んできた拙者の肌感覚とでも言っておこう。

■執筆:渋谷洛雲斎「歴史館だより��30/研究余滴22」より



最上義光騎馬像の周囲もすっかり冬木立に


付近の植栽も雪吊り・雪囲いがなされました。

 今年も早いもので師走に入り、いろいろと年末年始の予定を立てている方もいるかと存じます。その昔、バブルの時代に「こどものための博物館」(チルドレンズミュージアム)建設の調査検討を担当していたとき(結局、計画断念となったのですが)、ともにその作業をしていただいた東京の先生に、お正月の過ごし方を尋ねたところ、年末年始はお客さんがくるのも煩わしいので、いつも旅館で過ごしていると聞き、そういう正月の過ごし方を初めて知りました。年末年始を海外で過ごす人も少なからずいた時代でしたが、旅館で正月を迎えると。東京のセレブ層あたりでは珍しくもない話かもしれませんが、山形のセレブ層の、いわゆる本家あたりの年末年始の過ごし方は、年末から正月をはさんで出入りする親戚縁者とダラダラ酒飲みをしているうち、いつの間にか三が日が過ぎてしまうとのことです。
 ということで、今回は温泉の話でも。戦国武将は戦(いくさ)の疲れと傷を癒すため温泉を活用し、場合によっては隠し湯なども確保していました。特にいくつもの隠し湯を持ったのが武田信玄、また、信心的に隠し湯を持ったのが上杉謙信です。戦国武将御用達の温泉地で有名なのは、豊臣秀吉の有馬温泉、徳川家康の熱海温泉、前田利家の草津温泉などがあります。
 まずは最上家のご近所の上杉家そして伊達家に関わる温泉宿のご紹介でも。
 南陽市赤湯温泉にある「上杉の御湯 御殿守(ごてんもり)」は、上杉家別荘「赤湯御殿」の伝統を守り380余年という温泉宿です。まずは到着時に「お着き酒」、夕方には地元ワインの試飲、上杉資料展示室や甲冑体験室、東に5つ西に6つの風呂、オーディオのある図書室や卓球台もあり、およそ温泉旅館に求められるものは何でもあります。別注ですが米沢牛のステーキ、しゃぶしゃぶ、すき焼きがリーズナブルな料金でいただけ、宿泊料金もあのHグループがリニューアルを手掛けた付近の老舗旅館の半額程度です。
 また、秘湯で人気の米沢市「白布高湯温泉」の西屋・中屋・東屋前の広場には、直江兼続が火縄銃を製造させたことを記す「直江城州公鉄砲鍛造遺跡の碑」が建っています。同じく米沢市の「小野川温泉」は、西暦834年に小野小町が開湯したとされ、1587年(天正15年)には、伊達政宗が23歳のとき足を骨折し、ここで湯治したというのですが、こんな記録まであるんですねぇ。
 その伊達政宗ゆかりの宿が宮城県青根温泉の「湯元不忘閣」。「青根御殿」と「御殿湯」に滞在した正宗が、この感激と喜びを忘れないように「不忘」と名付けたことが由来とされます。「不忘閣」主人の先祖は、慶長年間、伊達公から「湯別当」の高禄をもらい、代々藩主の保養所守りの役と、関守りを兼ねていたとのこと。伊達公ゆかりの遺品が三つもの蔵にあり、現在、建物の最上階を甲冑をはじめとする資料の展示室にあて、展示ガイドも行っています。
 ここは先程の「御殿守」とは対称的な温泉宿で、秘湯好きにはたまらない湯宿です。ひと風呂浴びたらラウンジへ。休憩室「喫茶去」という広間ですが、座布団が置かれたベンチが何台かあり、壁際には民具が飾られ昭和感あふれるアルミサッシの掃き出し窓が広がっています。部屋の真ん中には地酒「蔵王」の一升瓶が置いてあり、その脇には串刺しこんにゃくの味噌田楽と柿の種が置かれ、これが勝手に飲めるのですが、気が付くと3合ぐらいいってしまい、夕食を気にしなければ一升の半分もいってしまうのでは、というくらいに不思議に飲めてしまいます。
 風呂は大浴場の他に立派な蔵の中にある貸切り風呂と定員2人の階段下の小さな半露店風呂があり、料理も「政宗鍋」という雉鍋や季節によってはしし鍋や鹿鍋なとのジビエ料理が出されるなど、秘湯の醍醐味が満喫できます。この不忘閣と前述の白布温泉の宿は、以前に紹介した「日本秘湯を守る会」の会員宿です。
 さていよいよ、最上義光ゆかりの温泉やその資料・武具を展示している宿についてですが、実は当館学芸員もそういう湯宿は聞いたことがないとのこと。ただ、蔵王温泉には行っていたようで、「義光が16歳のとき、義守・義光父子が高湯(蔵王温泉)に湯治に行き、鹿狩りをして眠りについたところ、近辺の盗賊数十人が来襲した。義光は近習の者たちの先頭に立って防戦し、二人に深手を負わせ、一人と組み合って刺し殺した。この武勇に義守は喜び、笹刀と称した家宝の名刀を授けたという」(粟野俊之「歴史館だより��8」)という逸話があります。まあ、蔵王温泉の場合、開湯1900年という歴史からすれば、最上義光は新参者ということかしらん。

(→館長裏日誌へ)



《2023年11月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年11月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (11/1 〜 11/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・25日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・2,699名
回答者数・・・・・・・・・・・・・25人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・4%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・8%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・32%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・4%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・36%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・8%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・8%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・72%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・16%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・12%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・80%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・20%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・64%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・28%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・4%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ粥�

〜利用者の声〜

東京都豊島区 女性/20代
祐定よかったです。鬼切丸が最上家伝来だと初めて知りました。

山形県酒田市 女性/60代
ボランティアの方の貴重な説明ありがとうございました。

山形県酒田市 男性/60代
ボランティアの方の説明でよくわかりました。

群馬県高岡市 女性/50代
小学生がたくさん見学している中だったので、さっと見学していこうとおもっていたところ、丁寧に案内していただきました。たくさん順序立てて説明していただき、最上義光についてよく理解でき、さらに興味をもつことができました。貴重な遺産をみせていただき、大変感動いたしました。展示品もきれいに飾られており、丁寧で興味をひく説明がそれぞれ示されていてわかりやすかったです。最上義光から受け継いでいった多くのものを今を生きる山形の人々が知り、他の訪れた人が知り、感謝したいものです。ありがとうございました。来てよかったです。

宮城県大崎市 男性/40代
とてもよかったです。

山形市 男性/10代
もっと最上義光のことを知られたのでよかったです。指揮棒(レプリカ)をもう一度もたせてもらったのでうれしかったです。

山形市 女性/7歳
かぶとがかっこよかった。かんじがいっぱいあってよめなかった。ファイルをもらってうれしかった。

山形市 男性/60代
義光さんは地元でも全国でも悪者とされているのが残念です。そうではないと思います。

青森県田子市 女性/50代
最上家の城主の流れから、どのような人物像とかくわしく説明してもらえて理解できた。義光さんの生い立ちやその後の城下の人たちへの思いなど、案内さんのいろんな諸説の話をきいて意識が変わった。駒姫の話がとても印象的で、今の時代であれば生きていられたのに・・・、戦国のしきたりを考えさせられた。

神奈川県川崎市 男性/30代
大河ドラマ実現、期待しています

東京都稲城市 男性/40代
ガイドさんの俊樹が豊富で大変勉強になった。他施設でもここまで歴史に詳しい方は少ないと思う。ボランティアガイドの方に説明いただいて楽しく興味深く見学できました。ありがとうございました。

山形県米沢市 女性/50代
地元を盛り上げる仲間ですががんばりましょう。おしょうしな(ありがとう)

山形県米沢市 女性/60代
学芸員の方やガイドの方々のお話が聞けてよかった。ガイドさん達のおかげで大変楽しくすごせました。ありがとうございます。

山形県米沢市 女性/70代
義光会の方々のご活躍の様子がよく分かりました。案内はその人物(義光公)を好きになること、そして楽しみながら案内することが大切ですね。今日は本当にありがとうございました。

山形県米沢市 男性/70代
コロナが終わり歴史館に来ました。何度になろうか。昭和より平成へここ大手町5番に住んでました。場所が「いいね」。なんか泣けてくる。私が住んでいた住宅は消えている。アパートになる。ここ最上義光歴史館の場所は、これから100年も残る。思い出の町を見る。

東京都 女性/40代
字が見えづらい。目がいたくなった。0.7の視力でもつらい。遠くにある案内の字はもっと大きくしてほしい。黒地に細い白字は見づらい。

山形県鶴岡市 男性/80代
駐車場はどこに

山形市 男性/70代
館内暗くて説明文見えない。もったいない。暗くて陰気くさい。ぜひ明るくして。

山形県山辺町 女性/10代
顔はめパネルがほしい

新潟県柏崎市 女性/50代
すごくよかった。こんなに充実しているとは思っていなかった。また来たい。NHKの大河ドラマで原田さんが演じたイメージそのものだった。クレバーでかっこいい。大谷吉継が一番好きだったがくつがえった。ホームページの館長のブログがとても面白い。写真があるともっとイメージがふくらむのでもっと面白くなるのにと思う。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。