最上義光歴史館

最上義光歴史館
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【光姫/ひかりひめ】 〜最上三十三観音巡礼のはじまり〜
   
 「お金万貫、米万石、それに美人の女房をお与えください。」
 こんなぜいたくな願いを観音様からかなえてもらった男の話が『日本霊異記』という古い本にある。
 33に姿を変えて人々の願いをかなえてくれるという信仰から、いわゆる「三十三観音」はスタートしたらしいが、最上札所の起こりについては、確実なことはわかっていない。
 応永(1400年前後)のころ、山形の殿様最上頼宗に“光姫”という美しい姫君がいた。姫は自分のために二人の男が争って命を失ったのを悲しみ、乳母とともに尼となり、観音巡礼の旅に出た……これが「最上三十三観音」の始まりだという伝説がある。だが、これは史実ではないようだ。
 江戸時代に「お札打ち」が盛んになってから、時代をさかのぼらせ、最上家の架空のお姫さま“光姫”が創作されたものらしい。
 最上時代をなつかしむ山形の人々の心が、こうした伝説を生み出したのであろう。
 札所の範囲は、南は上山から北は最上郡まで、天正末期(1590年ころ)から慶長初期(1600年ころ)の最上氏の領地とほぼ一致しており、33箇所がセットになったのは、およそその時代と考えていいのではあるまいか。
 全国各地に成立した「三十三観音」のなかでも、最上札所は、鎌倉時代に近畿地方に成立した「西国」には及ばないものの、比較的早い時代にできたものとされており、「坂東」「秩父」と並んで、昔から多くの巡礼がおとずれたところだ。
 慶長8年、最上義光は千手堂の観音さまに、年老いた母のために御詠歌の額を奉納した。
 「花を見ていまや手折らん千手堂 庭の千草もさかりなるらん」
 これにはなぜか「第一番」と書かれているが、順番はまたあとで変わったりしたこともあったのだろう。
 現在は第1番は天童市の若松。ここからはじまって、打ちとめは33番の鮭川村庭月、
これに番外として最上町の向町観音を加えて34箇所。
 山ふところや丘のうえ、あるいは川のほとりや集落の木立のなかに、遠いむかしから人々の信仰を集めて、観音さまのお堂はひっそりと建っている。
 中には山形地方を代表する古い建造物として、重要文化財に指定されているのもある。巡礼が貼りつけた無数のお札は、信仰の広さ篤さを物語る。お堂の中には、ご本尊の観音像がまつられ、板壁には絵馬や俳諧の額などがかかげられているのを見ることもできる。
 ちなみに、山形市内だけでも、山寺・千手堂・円応寺・唐松・平清水・岩波・六椹・松尾山長谷堂と、九箇所の札所があって、春や秋の良い季節になると、昔に変わらず「お札打ちさん」が訪れている。
 “光姫”は、千歳山の“あこや姫”とともに、山形のひとびとが作り上げた美しいロマンのヒロインといってよいだろう。
■■片桐繁雄著

【斯波兼頼/しばかねより】 〜山形を政治の中心とした〜

 出羽国最上郡、山形の地にはじめて城を築き、ここを政治の拠点として出羽を治めた人物が、斯波兼頼である。
 北朝年号延文元年(1356・南朝正平11年)8月6日に山形に入部したとされる。
 時はまさに、全国的な南北朝動乱のさなか、兼頼は出羽国の探題(地方政治を監督する役職)に任ぜられ、今の宮城県北部の大崎地方から、はるばると奥羽山脈を越えてきたのであろう。
 その年は、今の宮町慈光寺境内にあたる「西根小但馬」の屋敷で年を越し、翌年山形城を築いて、ここを政治の拠点としたという。当時の常として、城は四方百数十メートル程度の小規模な館といってよいようなものだったと推定される。
 夏は高温となって農作に恵まれ、冬は比較的に雪が少なく、地震や風水害も少ない。この地に城を築いたことが、都市・山形発展のきっかけとなったわけである。
 兼頼は、敵対する近隣の豪族と戦い、あるいは連携し、室町幕府足利将軍の一門として、
地域の平和と安定をめざして政策を遂行しようとしたのだろうが、どうやら出羽国全体(現在の山形・秋田両県)を支配するには至らなかった。
 山寺立石寺の復興をはじめ、山形周辺の寺社を修復したり新たに建立したり、また寺社領を寄進するなど、神仏を大切にして、民衆の教化をはかったらしい。
 応安6年(1373・文中2)の秋、兼頼は東山に狩にでかけた。今の二口街道沿い、高瀬地区あたりの山野であろうか。
 一日狩をたのしんでの帰り道、彼は漆山の念仏堂で、他阿上人元愚和尚が説法をしているのをたまたま聴聞し、その教えに深い感銘を受けたという。
 「国々両方、合戦絶えず、飢渇なり」と山形市岩波の石行寺の写経の奥書に書き記されたとおり、戦乱・疫病・飢饉がしきりに起こった世相を見つめ、戦いに明け暮れた自分の半生をかえりみて、心に期するところがあったのだろう。兼頼は、元愚和尚に帰依して戒を授けられ、仏門に入って法名を「其阿」と名乗った。58歳だった。
 それ以後、彼は嫡男直家に跡をゆずり、城内に庵を結んで、ここでしずかな信仰生活を送ったという。この庵が、現在七日町にある時宗の名刹「光明寺」のはじまりとされる。
 康暦元年(1379・天授5)6月8日寂。正和5年(1316)1月15日生れとされるから、没年は64歳であった。
 兼頼を初代として、子孫は地名をとって「最上氏」を称することとなる。清和源氏、足利流、最上斯波氏。武家の名門である。
 第11代最上義光は、光明寺に1,760石の田畑・山林を寄進したが、これは400箇寺に及ぶ全国時宗寺院のなかで、最大の寺領である。義光がどれほど兼頼を尊崇したかが、
ここに表れているといってよいだろう。
 兼頼が山形に城を築いたことが、現在の山形市のスタートであり、その意味では兼頼こそが都市山形の生みの親と言ってよいだろう。
 ちなみに、霞城公園内の一角、桜の木立に囲まれて、彼のレリーフが建っている。また、
香澄町の通称「公園通り」には、その銅像が立ち、道行く人々にやさしい眼差しを投げ掛けている。
■■片桐繁雄著

最上氏研究前進のために(二)

 最上量の城館に関する基本的な文献とされてきたものに、丸山茂著『最上四十八舘の研究』(1944年、〈『最上四十八舘の研究』歴史図書社、1978年5月復刊〉)がある。内容についてはのちに述べるが、この書は丸山茂氏が財団法人斎藤報恩会へ提出した研究成果報告書である。
 丸山氏は、同財団から学術研究費の援助を受けて「山形県下に於ける古城址」の研究を行い、第一部「最上四十八舘の研究」、第二部「城塞址を中心とする置賜庄内両地方の政治史」、第三部「山形県下城塞の築城学的考察と其の城下町の構成」の三部作として結実する予定であったが、第二部・第三部は知られない。太平洋戦争の激化と敗戦、戦後の混乱のためであろうか。ともあれ、三部作の構成を見ると、第二部が置賜・庄内を対象とすることから、第一部の「最上四十八舘の研究」(歴史図書社の復刊本は「舘」を「館」に替えている)は、村山・最上の城館址を対象とすることがよみとれる。

 さて、『最上四十八舘の研究』は七章からなり、その構成は最上氏の歴史に沿っている。つまり、延文元年(1356)斯波兼頼の山形入部、南北朝時代から室町期の最上一族の分封、天正9年(1581)の最上郡制圧、天正12年の天童・寒河江・谷地攻略、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦、元和8年(1622)の最上氏改易という流れに沿ったものである。
 取り上げられている城館は、具体的な記述のないものも含めて、七十七である。その記述は村山・最上の城館で占められ、庄内の城館の記述は若干あるのみで、由利郡では本庄館が唯一取り上げられている。城と舘の区別は明確ではない。城がつくものは、山形城・寒河江城・左沢城・谷地城・白鳥城・小国城・延沢城であるが、第七章第三節「最上四十八舘の整備」では、山形城以外はすべて館とされている。戦後においても、かつて城館が存在した山を「シロヤマ」ではなく「タテヤマ」と呼ぶのが一般的であり、江戸時代以来、地元でも「シロ」ではなく「タテ」と称してきたことを反映していると思われる。
 その記述方法は、古文書・系図・縁起・過去帳などによる城主の考察と古絵図・地形図・鳥瞰図・現地調査による城館の考察からなる。研究の時代的な背景から、実測図や発掘の成果というような手法は取り入れられていない。その内容は、城館を基軸とした最上氏の歴史と最上家臣団の研究といえ、現在でも基本的文献として取り上げられるべき優れた研究といえよう。

 「最上四十八舘」という名称について、丸山氏自身は次のように述べられている。

『此の時代(最上家覇権時代)が即ち所謂最上四十八舘の防衛陣を構へた黄金時代であって、最上家隆昌の最高峰点であった。最上家末期の攻防陣営の数を俗に四十八館と謂われているが、巷間に伝わる何れの記録を見ても、其の城塞のは決して四十八に止ってゐない。筆者が調査した範囲内に於いて五三、五四、六五、七五、七六といふ数字である事から観て、四十八という数字は、必ずしも城塞の直感数ではなく、単なる抽象数であったらしく、其の数の起りは、いろは四十八といふ古事の語呂に因んで、量多数の意を含ませたか、若しくは兼頼入部当時の封土、最上郡四十八郷の数字に倣ったかの何れかであろう。』 

 と述べられており、「四十八」という数字については、単なる抽象数として疑問を呈されている(同書23頁)。ただ、「最上四十八舘」という呼び方は既に存在していたようであるが、いつから誰が、このような呼び方をするようになったかは未詳である。最上家覇権時代とは、関ヶ原合戦ののち最上義光が慶長6年庄内、慶長七年由利郡を加増されて以後、元和八年の改易までの時期にあたり、この時期の最上家の城館が「最上四十八舘」ということになる。しかし、この書には、庄内の城館については若干の記述にとどまり、由利郡は本庄館のみであり、最上領の城館の研究としては、不十分の感を免れない。
 問題は、この「四十八」という数字が、丸山氏の意図とは別に、その後一人歩きしたことにある。誉田慶恩著、日本の武将60『奥羽の驍将−最上義光−』(人物往来社、1967年6月)には「最上領では大身豪族層の城下町集中が未熟で、領内各地に城塞を残し、俗に最上四十八舘と称された」と記述されている(同書211頁)。大身豪族層の山形城下集中が未熟であったかは疑問であるが、ここでは丸山氏が最上家覇権時代と呼んだ時期の城館を「最上四十八舘」と称するとしている。

 ところが、『山形市史』上巻、原始・古代・中世編(山形市、1973年3月)の「第四章 中世の村山盆地」「第二節 室町時代と村山地方」の「3 館・在家の構造と郷村制」に「最上四十八舘」の項があり、「最上領では、領内各地に城塞があり俗に『最上四十八』と称された四十八城とは、どれとどれなのか明確ではなく、はたして本当に四十八あったか疑わしい。最上四十八楯とは、浄土信仰の弥陀四十八願にちなんだ名数だったかもしれない」とされ、四十八という数字にこだわりを見せ、はたして四十八あったか疑わしい、とまで述べている。筆者は誉田慶恩氏である。
 しかし、この四十八という数字にこだわることは無意味である。つまり、最上領国の城館数は四十八ではない、ということである。中世には郷数や信仰に関わる数字として、八・十二・三十三・四十八・六十六・八十八などの数字がよく使われている。「最上三十三観音」「四国霊場八十八ヶ所」や誉田氏が言われる「弥陀四十八願」などである。信仰に関わるものは別として、八は末広がりの縁起がいい数字であり、四十八は「いろは四十八」の数字であるが十二の四倍にあたり、六十六は「日本六十六カ国」の数字で、三十三はその半分である。四十八という数字から身近なものをあげれば、相撲の決まり手「四十八手」があるが、実際の決まり手はこれより遥かに多いのであり、実体を示すものではない。
 つまり、「最上四十八舘」という呼称は、基本的に最上領の城館が多いということを示すが、実際に城館を数えて四十あったとしても五十あったとしても、基準となる数字である四十八に代表させるということなのであり、最上領に四十八の城館があったという意味ではない。郷数も同様であり、ある地域の郷数が三十三郷とか四十八郷といわれるのも正確な数字ではなく、その程度の郷数であるという意味である。江戸時代の村を基準に郷数を数えても、三十三とか四十八にならないのは当然なことである。

 この数字に関連するものとして、古くから言われているものに「天童八楯」「由利十二頭」がある。
 「天童八楯」は「最上八楯」とも称されるが、「最上八楯」の名称は不適切であり、天童氏を盟主とする国人一揆という意味で「天童八楯」が相応しい。戦国期の「天童八楯」とされる領主には、天童氏・延沢氏・飯田氏・尾花沢氏・楯岡氏・長瀞氏・六田氏・成生氏の八氏があげられているが、これは八という数字にこだわった数え方と言わざるを得ず、このほかにも東根氏や細川氏など、あげるべき領主が存在する。例え十氏になっても、この国人一揆は「天童八楯」と称されるのである。
 「由利十二頭」は、戦国期における由利郡の領主を端的に表現したもので、由利郡には小さな領主が多く割拠した、という意味であろう。実際に由利郡の領主を数えていくと、十二を超えることは確実である。この場合も、例え十三や十四になっても「由利十二頭」と称されるのである。
 近年、全国的規模で城館跡の調査が行われ、また城館跡の発掘が進行して新たな知見が付け加えられている。最上領でも新たな城館跡が多数発見されており、「最上四十八舘」という呼び方は、現在では「過去の遺物」といえよう。

■執筆:粟野俊之(駒澤大学講師)「歴史館だより��9」より




最上氏研究前進のために(一) 

 最上氏に関する基本的な文献とされてきたものに、まず誉田慶恩著、日本の武将60『奥羽の驍将−最上義光−』(人物往来社、1967年6月)がある。内容についてはのちに述べるが、この書名は「最上義光」という名前よりも「奥羽の驍将」という題名のほうが大きく目立っている。この本の題名は編集サイドの意向によるものと思われるが、最上義光という戦国武将の名前がまだ一般的ではなかったことを示している。
 次にあげられるのが、『山形市史』通史編である。『山形市史』中巻、近世編(山形市、1971年3月)の第一章は「最上氏治世下の山形」であり、「第一節 最上義光の支配」「第二節 改易と転封」「第三節 武将の面目とその文化」から成っている。このなかでは、第一節が中心となることは明らかであり、その執筆者は一部を除き誉田慶恩氏である。
 『山形市史』上巻、原始・古代・中世編(山形市、1973年3月)では、「第四章 中世の村山盆地」の「第二節 室町時代と村山地方」のうち、「2 大名領国の展開と斯波氏」「3 館・在家の構造と郷村制」「4 戦国争乱の進展と最上氏」が該当し、これも大部分が誉田慶恩氏の執筆である。『山形市史』上巻の記述は天正18年(1590)までであるが、中巻は天文15年(1546)の最上義光の誕生から始まっているため、両者には最上義光について記述が重なる部分がある。これは、中巻が上巻よりも先に出て、義光について天正18年の小田原参陣や奥羽仕置からではなく、誕生から記述されたことに原因がある。
 ともあれ、最上氏および最上義光に関する多くの文献のなかで、最も一般的で多くの人々の目に触れる文献が、『奥羽の驍将−最上義光−』(以下『義光』と略す)と『山形市史』(以下『市史』と略す)であったことは疑いなく、いずれも誉田慶恩氏の執筆になるものであった。したがって、『義光』と『市史』は後世に大きな影響を与えたが、この記述が妥当なものであるかについては問題がある。そこで、以下これを戦国時代を中心として検証していきたい。

 永正11年(1514)2月15日、最上義定は長谷堂において伊達稙宗の軍勢と戦い、大敗した。伊達軍は楯岡・長瀞・山辺式部・吉河兵部以下千余人を斬り、長谷堂城を抜き、小梁川親朝を駐留させた。この結果、翌永正12年最上氏と伊達氏は和睦し、最上義定に伊達稙宗の妹が嫁ぐことになる(伊達正統世次考)。誉田氏は「この戦で惣領制的性格の濃い最上武士団の脆弱性が暴露され、最上勢の足なみはまったくそろわなかった」と述べている(『義光』、『市史』上も同内容)。この稙宗による最上攻めは、伊達氏の家督継承後の最初の対外戦争とみられる。いわば、伊達氏において用意周到になされた作戦とみられ、最上側が大敗したことは事実であろうが、最上氏の体質が古く、伊達氏が新しいという見方は一面的と言わざるをえない。

 義光が16歳のとき、義守・義光父子が高湯(蔵王温泉)に湯治に行き、鹿狩りをして眠りについたところ、近辺の盗賊数十人が来襲した。義光は近習の者たちの先頭に立って防戦し、二人に深手を負わせ、一人と組み合って刺し殺した。この武勇に義守は喜び、笹刀と称した家宝の名刀を授けたという(最上義光物語)。この真偽のほどは明らかではないが、よく知られたエピソードである。義光が16歳といえば永禄4年(1561)にあたり、『最上義光物語』の作者は、義光が少年の頃から武勇に優れていたことを示したかったものであろう。しかし、誉田氏は「大名親子ともあろうものが野盗の襲撃をうけたとは、最上氏の権勢も疑わしいものである」「当時の最上氏は、まだ豪族の域を脱しない小大名で、近隣の大大名伊達氏の権勢の下に屏息し、辛うじて命脈を保っていた程度であったのであろう」と述べている。(『義光』・『市史』上)。義守の伊達氏天文の乱における戦歴やその後の義光の活躍をみれば、このような評価が当たらないことは明白である。戦国大名に組織されていない野盗の存在は、戦国時代には一般的であり、これをもって小大名と評価することは出来ない。ただし、最上氏側の警備体制に問題があったことは確かである。

 最上義光は戦国大名最上氏を飛躍的に発展させた人物であるが、義光による領国の発展過程、つまり歴史的な経緯については問題がある。誉田氏は天童落城について「根本資料がないため、不明な点が多く、落城の年月にも二説ある。『奥羽永慶軍記』『最上義光事歴』は天正5年10月とし、『愛宕社記』『諸城興廃考』『伊達世臣家譜略記』は天正12年10月としている。松尾姫が天正6年生まれと伝えられるところから、近時は天正12年説が有力となった。しかし、天正12年は、義光が白鳥氏や大江氏を滅ぼした年である。同年のうちに谷地・寒河江・天童の三面作戦を行って、一挙に成功したとは考えにくい。また天正九年には義光が最上郡に進出し、強力な庄内の武藤氏と激しく戦っている。義光の領土拡張の経過から考えると、遅くとも天正8年までに天童城は攻略され、村山郡の川東(最上川以東)地域は、完全に義光の領国化したとみるべき」としている(『市史』中、『義光』もほぼ同じ)。さらに、「義光はいつ頃一族を掃討し、村山地方に領国制を確立したかは明確でないが、遅くとも天正8年までには、川東地域をほぼ平定したと推定される」とされ(『市史』上)、推定とはいえ、天童落城を天正8年(1580)と確定している。

 しかし、その根拠は、義光が天正九年には最上郡に進出していること、天正12年もうちに谷地の白鳥氏、寒河江の大江氏とともに天童氏を滅亡させたとは考えにくいというものであり、状況証拠にもとづくものであって、確たる証拠があるわけではない。
 つまり、旧説のほうが正しいといえよう。天童落城の過程は次のようになる。天正5年義光は天童城を攻撃したが決着を見ず、和睦が成立し、その際、天童頼貞の女が義光の側室となった。これは、一般的に和睦の形態としてみられるものである。天童頼貞はこののち死去し、その跡は若年の頼久が継いだ。義光の側室天童氏は、天正10年義光の三男義親を生むが、その直後の同10年10月12日天童氏は死去した。ここに、婚姻関係を媒介とした最上・天童両者の関係は断絶した。そして、義光は次女の松尾姫(天正六年生まれと伝えられる)を延沢城主延沢満延の嫡子又五郎光満に嫁がせ、天童氏の同盟のなかでも最も有力な国人の切り崩しに成功した。このようななかで、天正12年九月義光は天童城を攻撃し、10月10日これを攻略したのである。近年、天童落城とその後の天童頼久の動向を示す史料が発見されており、現在では天童落城は天正12年で確定している。

 そして、誉田氏による義光の人物像については、末娘の駒姫の悲劇と長男義康の死、そして最終的な最上氏の改易という事実とともに、積極的評価はされていないと思われる。これが地元の人々に与えた影響は大きい。そして、これが全国的な広がりをみせ、一例を示せば、「秀吉の勢力が天下を支配したところ、その威を借りた義光のずるがしこいやりかたは、まさに虎の威を借る『最上のきつね』とでもいうべきであろう」などという記述もみられることになった(佐々木銀弥著、日本の歴史文庫?『戦国の武将』講談社、1975年5月)。このような評価の見直しが必要なことは言うまでもない。

■執筆:粟野俊之(駒澤大学講師)「歴史館だより?8」より



山野辺義忠とその時代

 平成12年は「慶長出羽合戦四百年」に当たり、各地で記念行事が開催されたのは記憶に新しい。それらを通して感じられるのは、近年の最上義光の人物像の再評価である。以前は何故こういう評価になるのか、不思議に思う文言が多かったのである。しかし、山形市・武田喜八郎氏は自筆書状の文体・文言からの人間性への提言があり、最上義光歴史館・片桐繁雄氏は多様な資料を駆使して解明を深め、「山形合戦」の鈴木和吉氏は実地を自分の足で歩きつつの考察等があり、真の人物像が構築されていくのは嬉しい極みである。
 平成13年の山辺町では、山野辺義忠の山野辺城入部四百年に当たり、当ふるさと資料館では「特別記念展」を開催して彼の業績と生涯を紹介した。実は、義忠の人物像については義光の場合と同じく一面的で客観性が無く、時代的背景を考慮しない内容で書かれた場合が多かったのである。しかも、それでも当地方では「神様・仏様、そして義忠公」というように、特別に高い地位を与えられてきた独特の存在でもあったのである。
 それでは、「義忠」はどういう人物で、時代をどう生きたのだろうか。彼は最上義光の四男として生まれたが、現在の大石田町深堀地区出身の女性を母とし、楯岡城主楯岡氏の庇護を受けて育ったのではないかという説がある(伊藤芳夫氏、後藤嘉一氏)。その縁であろうか、慶長五年、13歳で楯岡城代に就き、翌年、1万9千300石・山野辺城主となって入部している。山野辺家系図は義忠が最上家の證人(人質)として徳川家康の許におもむいたことを記録し、彼に「将来恐るべき怪童である」と言わせたと伝えられている。
 彼の領主としての業績のひとつに釣樋堰の改修がある。宮宿方面に西流する鵜川を畑谷の途中で分水して山形盆地に流れるこの堰は、上反田で上江堰(相模地区中心)を開き、沢江堰(若木・古館等)との二つに分け、現・山辺町南部の灌漑用水の安定を考えている。次は寺社への対応で、創設・優遇した寺等、それぞれに使い分け、その位置も分散して城下町としての万一に備え、同時にそれらに繋がる領民の精神生活の統一と安定を図っている。地理的にも周辺地域の中心に位置するので領民の生活の利便を考え商業の繁栄策をとり、後の九斉市につながっている。城下町としての縄張りは近世のことなので比較的単純であるが、道路の三叉路や喰違いの部分があちこちに散在していることにその面影が偲ばれる。それらを総合した城郭は中世においては最上氏に属する「山野辺氏」が当地方を支配し、白鷹丘陵から山形盆地に突き出た形の舌端部の小高地に主郭、その周辺に副郭がめぐらされていたのを、義忠はそれらを本丸、二の丸としつつ、さらに三の丸を計画し、西方は山岳地帯になるので四の塀を備え、全体としてまとまった城下町を形成している。
 ここで興味深いのは、義忠の行った業績をさらにスケールを大きくしてみると、義光が全て成し遂げているのである。つまり、偉大な父・最上義光の業績を模範として、領内ですばらしい治世を展開している。だからこそ、長い江戸時代の僅か約20年間の治世なのに、「名君」としてその名が語り伝えられている。最上家では義光の後の家親が頓死して義俊が継いだが、義俊を支持する派と山野辺義忠を宗家にという派に分かれてしまい、「最上百万石」と称される義光の偉業が崩れてしまった。この間の経緯については他の大名家の記録等、「第三者」の資料をもっと検討・研究し、真実に迫る必要があると思う。「武家諸法度」「武士道」等、当時の武家社会の規範を考えると、彼の行動は時代の中で生きているのが分かる。後に水戸・徳川家に客分家老として一万石で招かれ、その子孫は藩主・徳川家と婚姻関係を深め、その補佐役となっている。彼の人生は山形の地では開花不十分でも、水戸・徳川家においては考えられない程の大活躍をしているのである。

■執筆:後藤禮三(山辺町ふるさと資料館館長)「館だより?9」より


ワシが最上義光(もがみよしあき)ダ!!

いまから自己紹介(じこしょうかい)をするゾ!

ワシは約450年前の天文15年(1546)1月に山形城で生まれた。山形城は知っているか?いまは霞城公園になっているところダ!!

ワシの父は義守(よしもり)といって、最上家の10番目の殿様ダ。ワシはその長男として生まれたのダ!!子供のころは「白寿丸(はくじゅまる)」という名前で呼ばれておった。

ワシは永禄3年(1560)という年に15才で「元服(げんぷく)」したゾ!「元服」は知っているか?大人として認めてもらうための儀式ダ!これでワシも一人のサムライとして認めてもらったのダ!それから、その時日本で一番えらいサムライだった将軍(しょうぐん)足利義輝(あしかがよしてる)から「義(ぎ)」という字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ることにしたのダ!!まあ、親しい人間からは源五郎(げんごろう)と呼ばれておったがな。

ワシが25歳になった元亀元年(1571)に、父の義守が引退(いんたい)したので、11番目の殿様になったゾ!!
11番目の殿様という意味はわかるか?ワシの先祖はいまから約650年前に山形に来て山形城を作った斯波兼頼(しばかねより)という人だが、その人から数えて11番目の最上家の殿様であり、11番目の山形城の殿様ということダ!!

殿様になってから、ワシは山形に住んでいるたくさんの人たちが、平和で幸せにくらせるように、たくさんいろいろな事をしたゾ。その事は、また別のページで教えよう!!

ワシはたくさん戦争をしたが、ムダな命はとらなかった。降参(こうさん)した人やかしこい人は自分の家来(けらい)にしたりしたゾ!「だましてあいてを殺したズルイ殿様」だって?ノー!!ノー!!そのやりかたが一番死ぬ人が少ないんだゾ!!たくさんの兵隊があつまって戦うよりも、あいてのえらい人だけやっつけた方が、死ぬ人の数が少くないし、大切な町や田畑がこわされなくてすむのダ!!そんなことも知らないのか!?ワシは人の命が一番大切なものだと思っている。

約400年前の慶長5年(1600)に、山形で大きな戦争(慶長出羽合戦/けいちょうでわかっせん)があったが、そのとき無敵(むてき)の軍隊(ぐんたい)からワシの軍隊が勝ったのダ!だれの軍隊に勝ったかわかるか?そう最強の軍隊上杉景勝(うえすぎかげかつ)の家来の直江兼続(なおえかねつぐ)の軍隊ダ。どうだ、すごかろう!!

そのあとワシは、そのすごさが認められて、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)という広い土地を管理する大大名(だいだいみょう/大名よりもすごい大名)になったのダ。

ワシも66才になった、慶長16年(1611)に従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)という位(くらい)をもらったゾ。ワシのことをみんな「虎将(こしょう)」というニックネームで呼ぶが、どうやらその位である近衛少将⇔虎賁郎将(こほんろうしょう)が関係しているらしい!!「虎将」という文字もかくれているゾ!!



残念ながらワシも人間ダ、慶長19年(1614)1月18日、69才のときに病気で死んでしまった。69才…昔はそれでも長生きしたほうだと思うゾ!!

ワシのお墓は山形市の光禅寺(こうぜんじ)というお寺にあるゾ。ぜひお参りにきてくれ!!

それではひとまずお墓にもどるとしよう…