最上義光歴史館
ログイン
メモ
メール
Q&A
暦
リンク
地図
ウィキ
特集
プラン
カテゴリー
ALL
歴史館からのお知らせ
最上家と最上義光について
収蔵品の紹介
調査/研究報告
HOME
刊行案内
施設のご利用案内
歴史館周辺の見どころ
アクセスマップ
歴史館カレンダー
やまがた歴史年表
義光からの挑戦状
なんでも歴史相談室
歴史年表
歴史用語集
歴史リンク集
歴史マップ
歴史館だより
片桐繁雄執筆資料集
●
トップページ
■
お知らせ
■
最上氏と最上義光
├
最上氏と義光について
├
最上家をめぐる人々
├
小野末三論文集
├
最上家臣余録
├
郷土の歴史
└
最上義光略年譜
■
歴史館について
├
沿革と概要
├
収蔵資料について
├
書籍のご紹介
└
利用者アンケート集
■
Material in English
├
Guide to our Exhibits
└
Saijoki -
The Mogami Chronicles -
■
ご利用案内
├
アクセスマップ/所在地
├
開館時間/休館日/入館料
└
見学の裏ワザ
最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
最上家をめぐる人々#7 【伊達政宗/だてまさむね】
【伊達政宗/だてまさむね】 〜義光の妹義姫の子・独眼竜〜
小説になり、ドラマになった仙台藩祖、独眼龍・伊達政宗。
ここで取り上げるまでもない超有名人だが、最上家との深いかかわりから見て、やはり抜かせない人物だ。
最上義光の妹、義姫の子、つまり伯父甥の関係になるわけだが、二人の交流となるとあまり知られていないようだ。しかし、さすがに血のつながった伯父と甥、こまやかな心の交流のあったことが、『奥羽永慶軍記』に書かれている。
十五歳の政宗が義光に和歌をおくった。
恋しさは秋ぞまされる千歳山の阿古耶の松に木隠れの月
これに対する義光の返し。
恋しくば訪ね来よかし千歳山阿古耶の松に木隠るる月
政宗は永禄10年(1567)8月3日、米沢で生まれた。伊達氏16代輝宗の嫡子である。湯殿権現の申し子であるとの伝説をまとった生誕で、幼名を梵天丸といった。幼いときに疱瘡を病んで片方の目が悪かったことは、よく知られている。
18歳で、家督をつぎ、伊達家17代の当主となる。
翌年、政宗は大内定綱を攻め、その属城小手森城を攻めて勝利を収めたとき、さっそく義光に戦果を報告した。
「敵兵はもちろん女子供まで千百余人を撫で斬りにした。このぶんなら関東まで攻め入って領分を広げることもたやすいこと」と、いかにも誇らしげだ。
「撫で斬り」とは、無差別の皆殺し。当時の世相の中で、全国的には必ずしもめずらしいことではないが、奥羽地方では今までになかった乱暴さだ。もっとも、このときは義光からも援軍が出ていたので、そのお礼を兼ねての戦勝報告だったらしい。
同じ年の10月には、父・輝宗が畠山義継に拉致されて連行されたとき、これを追跡し、敵将もろとも父をも銃撃して死なせてしまった。これまた乱暴なやりかただ。
曾祖父稙宗のころ(1500年代初期)から始まった領土拡大政策を受け継いで、政宗は南進して大内・石川・白川や会津の芦名などの諸大名を攻め立て、北に侵攻しては葛西や大崎を併呑しようとした。周辺の諸大名はこれを警戒して同盟してこれに対抗する。
南の方では、常陸の佐竹義宣が中心になった。北の方では最上義光が中心となった。いわば、危険な伊達から連帯して身を護ろうとしたわけである。
わが甥ながら、義光としては止むを得なかったに相違ない。
境を接する戦国大名同士、最上と伊達が競り合うのも仕方ないことだった。
義光の妻の実家大崎家に政宗の矛先が向けられたときには、義光は伊達との境界に布陣してこれを牽制する。あわや全面対決かと思われたところに義姫が割り込んで、和平にこぎつけたこともあった。
徳川家康は心配して、義光と政宗に「親類同士、仲良くしてくれ」と手紙をよこしている。
天正17年に、有名な摺上原の合戦に打ち勝って会津の芦名氏を放逐した政宗は、奥羽南部の覇者となるが、翌年豊臣秀吉による小田原征伐に参戦して以後は、豊臣政権に従属することとなり、領土拡張戦はストップせざるをえなくなった。小田原参戦に先立って、政宗が弟小次郎を斬ったが、伊達家の内部には、なんらかの複雑な事情があって、そうせざるをえなかったのだろう。ただし、母義姫が政宗を毒殺しようとした云々の話は作り話であったことが、仙台市博物館長・佐藤憲一氏の研究から明らかになっている。
その後、奥州北部で九戸政実が乱を起こしたときには、蒲生氏郷とともに乱の鎮圧におもむいたが、政宗はあまり熱が入らなかった。氏郷は、政宗の動きに不信の念をあらわにする。
秀吉もまた政宗を警戒する。その結果、現福島県中央部、宮城県南部から本領だった米沢地方までも取り上げられ、岩出山に移転させられてしまう。
もはや勝手な動きができない情勢であることを知って、政宗は、中央政権の実力者と密接な関わりを持とうと努める。その一方、「奥羽の覇者・伊達政宗」を積極的にアッピールするようになる。派手なことの好きな秀吉は、だんだん政宗をひいきするようになる。
彼が朝鮮侵攻のために京都を出発するときには、軍兵の装束があまりにも奇抜で、見物の都びとたちが驚きの声をあげて見送ったそうである。朝鮮に渡ってからの働きも、上方大名衆からまけまいと懸命だった。その一方、悪戦苦闘のさなかに母親からねんごろな手紙と黄金三枚をおくられたときには、感激の涙あふれんばかりの返事を書いた。(「義姫」の項参照)
帰国した政宗は、秀吉がもよおした吉野山の観桜会に参加を許されたが、これは28歳の青年大名政宗としては、異例破格の待遇だった。31歳で、右近衛少将。秀吉亡きあと、徳川家康の息子にわが娘五郎八姫を縁約。
慶長5年(1600)、関が原合戦の東北版とも言われる「慶長出羽合戦」で、上杉軍が最上領内に侵攻してきた時、最上義康が援軍を求めて政宗のもとに走る。政宗は援軍派遣を了承する。伊達政景のひきいる援軍が山形に来たのは、9月22日。不安にかられていた義光と最上の人々にとって、これは非常な喜びだった。
上杉軍が山形周辺から撤退した10月下旬、義光はみずから政宗の所におもむいて、したしく援軍派遣への礼を述べた。よほどありがたかったのだろう。
徳川家康は、この戦いの前に、政宗を味方につけるために有名な「百万石のお墨付」を出していたが、これは反古(ほご)にされた。政宗はその後何回かの加増で2万石を増されただけだったが、それでも62万石となり、義光は長年望んでいた庄内地方に秋田南部の由利郡をも与えられて、57万石の大名となった。伯父と甥、親戚同士の両家が、めでたく大大名として東北に相並ぶこととなったのである。
両家ともに、地域の産業振興や文化発展のためにさまざまな施策を行なう。
だが、残念ながら最上家は、わずか20年にして、内部分裂を理由に改易の憂き目にあう。義光の後を継いだ家親が36歳で急逝した後、山形藩主となった12歳の家信(義俊)は、家臣団をおさえきれなかったのである。
それに対して、政宗は一族家臣をしっかりと掌握した。一家、一族を中核とした家格制などで序列を明確にして混乱や分裂を未然にふせいだ。本拠地仙台には新たな城郭を築き、城下町の建設を進めた。のみならず、視野を世界に向けて、慶長18年(1613)には支倉常長をローマに派遣している。時代を先取りした斬新な企てであった。
最上改易(元和8・1622年)のとき、政宗は特別に編成した部隊を派遣して、山形にいた母お東の方・義姫を仙台に迎え入れた。時に政宗56歳、母は75歳だった。
政宗は60歳のとき、従三位中納言に叙任。将軍、秀忠や家光に対しても遠慮なくものを言えるという点では、彼が一番だったとも言われる。剛毅さにおいてすぐれた人物であったが、古典文芸の素養や和歌・漢詩、書にもすぐれた才能をもっていた。
「馬上少年過ぎ
世平らかにして白髪多し
残躯天の許すところ
楽しまずんば是いかん」
「馬上で戦場をかけまわった若い時代、
今や世は泰平、わが身は白髪、
老いた身体は天命のまま、
楽しまずして、何としようぞ。」
晩年、生涯を振り返って詠じた漢詩である。
寛永13年5月24日没。70歳だった。
■■片桐繁雄著
最上義光歴史館
:[
メモ
/
最上家と最上義光について
]
最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」
最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」
兜の変遷
日本の甲冑は、鉄・皮革・漆・組紐・金工などさまざまな工芸技術を使って製作されており、世界の甲冑のなかでも彩りが豊かで独特の美しさがある。甲は「よろい」、冑は「かぶと」であるが、平安時代からすでに甲を「かぶと」、冑を「よろい」と読む例が文献にみられるので解釈には注意が必要である。一般的には鎧、兜を用いることが多い。頭にかぶる兜は、頭部を護る半球状の鉢(はち)と、鉢の下縁に付けて頸部から顔の左右を保護するシコロからなる。平安時代から江戸時代にかけて、星兜(ほしかぶと)、筋兜(すじかぶと)、当世兜(とうせいかぶと)などが用いられた。
兜の鉢は、通常数枚から数十枚の緩く反らせた台形の板を鋲で留め、鉢の裾には帯状の腰巻の板を廻らせて形作られている。鋲の頭を円錐形にしたものを星と呼び、表面に星が並んだ星鉢の兜が星兜である。星兜は平安時代から室町時代を中心に用いられた。南北朝の頃から室町時代にかけては、星に代わって頭の平らな鋲を使い、表面の板の端をわずかに折った筋が目立つ筋兜が普及した。張り合わせた台形の板の枚数から何枚張(まいばり)といい、表面の筋の間の数から何間(けん)の星兜、筋兜と称している。初期の星兜には、頂辺(てへん)に髻(もとどり)を出すための径5�ほどの孔があったが、髻を結わずに兜をかぶるようになった鎌倉時代後期から頂辺の孔は小さくなっている。時代の降下とともに鉢の平面は、前後径、左右径がほぼ同寸の円鉢(まるばち)から、左右径よりも前後径がやや長い楕円形の頭形鉢(づなりばち)と変化し、間数が増加する傾向が認められる。
桃山時代から江戸時代になると、簡素な鉢に毛を貼ったり、各種の立物(たてもの)を立てたり、山岳・動物・魚介・器物などさまざまな形を紙などで張懸(はりかけ)とした兜が多く製作された。このような兜は、それまでの伝統的な星兜や筋兜に対して、当時の新形式の兜として当世兜と称された。当世兜には、奇抜な形のものも多く現在では変り兜とも称されている。江戸時代後期になると、星兜や筋兜を手本とした復古的な兜が作られるようになり、現在の五月人形の兜にその面影を伝えている。
筋兜の概要
〈法量〉
鉢高 13.2cm
鉢前後径 22.0cm、左右径 20.3cm(腰巻の板上端で)、
シコロ丈 14.3cm(後中央で)
最上家に義光所用として伝った兜は三十八間の筋兜である。鉢は室町時代後期に多く製作された総覆輪(そうふくりん)の筋鉢であるが、シコロは当初からのものではなく、のちに新たに作られた当世風のシコロが取付けられている点が大きな特色である。平成元年に、損傷していたシコロの威糸(おどしいと)や鉢裏の受張(うけばり)などが東京国立博物館内の甲冑修理室の小澤正實氏によって修理されて現状となった。
■三十八間総覆輪筋兜(シコロをはずした状態)
鉄製黒漆塗の鉢の表面は三十八間であるが、修理の際に鉢裏は四十二枚張であることが確認されている。鉢の平面は楕円形で、頂辺の孔が中心よりやや後にあり、鉢の前側はなだらかに傾斜し、後側は切立った形である。頂辺には銅地鍍金魚子地枝菊文高肉彫(どうじときんななこじえだぎくもんたかにくぼり)の円座(えんざ)に、透菊座(すかしぎくざ)、菊花形の立廻(たてまわし)、小刻座(こきざみざ)、玉縁(たまぶち)を加えた飾金物を据えている。玉縁の孔の径は2.1cm。
■頂辺の金物
鉢表面の各筋に銅地鍍金の覆輪をかけ、裾廻りの各間に猪目形(いのめがた)透かしの八双形(はっそうがた)の斎垣(いがき)を付けた総覆輪の筋鉢といわれる形式である。鉢の正面には花先形(はなさきがた)の装飾である鎬垂(しのだれ)を三条、後に二条付けるが、正面射向側(着用者の左側)の一条は欠損している。欠損した鎬垂近くに打ち込み疵があり、覆輪も中央で曲がり、周囲の漆もひび割れが生じている。眉庇(まびさし)は鉄地黒漆塗、覆輪懸で、後述の鍬形台を打っている。
鉢裏の受張は、紺麻に紺糸を百重刺(ももえざし)として、花小文韋の小縁(こべり)を付ける。紫の平絹の兜の緒は傷みが甚だしかったため修理の際に韋紐でまとめられ、現在は熏韋(ふすべがわ)の緒が付けられている。兜の緒の鐶は、鉢の左・右・後の三所付とするが、左右は鉄地銅着せ、後は銅の鐶である。
シコロは、鉄製黒漆塗一文字頭板札五段下り(てつせいくろうるしぬりいちもんじかしらいたざねごだんさがり)、黒糸素懸威(くろいとすがけおどし)、十一通(とおり)。一段目を銅地鍍金の笠鋲(かさびょう)四点で腰巻の板に付ける。一段目の両端は、外側に反らせて吹返(ふきかえし)とし、吹返には星梅鉢形の六つの孔をあけている。
この兜は、慶長五年(1600)九月から十月の長谷堂城の合戦で、義光が着用し鉄砲玉を受けて筋金が窪んだ兜として最上家に伝わったものである。義光の曾孫にあたる最上義智が貞享元年(1648)最上義智に老中に提出した『最上家伝覚書』(内閣文庫本、国立公文書館蔵)に、
一、景勝と合戦之刻、自信長賜候桶革胴之甲冑を帯シ、出羽守
相働候刻、鉄炮玉甲の真中に中り、筋金相窪ミ申候、
とある兜に該当すると考えられており、これは織田信長より贈られた桶革胴の甲冑であったことをうかがわせている。
鍬形(くわがた)の復元
兜の鉢に立てる装飾を立物といい、鉢の前に付ける前立(まえたて)、頂辺に立てる頭立(づたて)、脇に立てる脇立(わきたて)、後に立てる後立(うしろたて)の類がある。平安時代以来、武士に最も好まれた前立が鍬形である。初期の形状が、農耕用の鍬の刃先に類似することから鍬形と称され、角にあたる鍬形と角元となる鍬形台からなる。平安時代は必ずしも兜につけられたものではなかったが、南北朝の頃から盛んにつけられるようになり、室町時代になると鍬形台の中央に利剣(りけん)を立てて左右の鍬形と併せて三鍬形(みつくわがた)としたものが流行した。
この筋兜の正面の鍬形台も、枝菊文高肉透彫の中央上部に三鈷柄(さんこづか)を加えた三鍬形の形式である。このような鍬形台は、通常八重菊などの鋲三点で眉庇に固定するが、この鍬形台は、左右は八重菊鋲のままで、中央が魚子地丸に竹雀紋高肉彫の鋲(径2.7cm)に替えられている。室町時代の鍬形台につく三鈷柄は、全体の上半分のみの形が多いが、この兜の三鈷柄は下半分も加えた全体の形状をあらわしている。
今回鍬形および利剣が、小澤氏によって復元されて威容を添えることとなった。復元にあたっては紺糸肩取威総覆輪筋兜(長崎・松浦史料博物館)、色々糸威総覆輪筋兜(鹿児島・鹿児島神宮/写真)など室町時代の兜の鍬形が参考とされた。
■色々糸威三十間総覆輪筋兜
(重要文化財・色々糸威胴丸のうち、鹿児島・鹿児島神宮)
最上家伝来の筋兜は、室町時代後期の総覆輪の筋鉢が用いられている。この時代の兜は、札(さね)仕立てで扁平に広がった笠ジコロ(かさじころ)をつけるのが通例である。しかしこの筋兜は、シコロを板札仕立てとし、鉢内部の受張を百重刺とした点をはじめ、眉庇を韋包みとせずに黒漆塗とした点、鍬形台中央の鋲を竹雀紋の金具とした点など桃山から江戸時代と考えられる仕立て直しが認められる。これらの変更が義光の手になるものか定かではないが、丸の内に竹雀紋は、丸に二引両筋とともに最上家の家紋であり、鉄黒漆塗のシコロの形状は、下端も一文字として伊達政宗が好んだ具足の兜に類似している。政宗の母義姫は義光の妹であり、当時の好みや背景をうかがう上でも興味深い兜である。
■執筆:池田 宏(文化庁美術学芸課 主任文化財調査官)
「歴史館だより��15」より
最上義光歴史館
:[
メモ
/
最上家と最上義光について
]
最上家をめぐる人々#6 【駒姫/こまひめ】
【駒姫/こまひめ】 〜悲劇の美少女〜
【1】
文祿4年(1595)8月2日、立秋を過ぎて一ヶ月もたつのに、京都は厳しい残暑が続いていた。
この日の午後、京都鴨川の三条河原で、罪なき女性と幼い子ども30余名が斬殺されるという、史上類稀な凄惨きわまる処刑が行われた。殺されたのは、前関白豊臣秀次の妻妾とその子供たち。義光の次女駒姫が悲劇の死を遂げたのは、このときである。
処刑を命じたのは、豊臣秀吉であった。
秀吉は、長らく子どもに恵まれなかった。側室淀殿(織田信長の妹お市の方の娘)にできた鶴松がおさなくて亡くなると、彼はわが子の誕生をあきらめ、姉の子である三好秀次を養子にし、後継者とした。秀吉は、朝鮮征伐の指揮をとるため関白を辞し、天正19年(1591)12月にその職を秀次にゆずった。天皇の代行者となった秀次は、豪壮華麗な聚楽第を与えられ、ここで暮らしつつ政務にかかわることとなる。
ところが、朝鮮出兵さなかの文祿2年8月に、淀殿がまたも男の子を生み、これが健やかに成長しはじめると、秀次に対する秀吉の態度には大きな変化が生じてくる。秀次を後継者にすえたことを悔やみ、これを廃しようとするのである。
秀次の行動にも、問題があった。上皇崩御の後、喪に服すべき期間に狩猟に興じたり、罪人を手ずから試し斬りするなど、関白としてあるまじき振舞をなし、世の顰蹙を買うことがしばしばだったという。秀次はその非をとがめられ、加うるに太閤に対する謀反の疑いまでかけられて、官職剥奪、高野山追放、ついには切腹を命じられて自決する。側近家臣ら10人も追い腹を切る。これが、文祿4年(1595)7月15日であった。
豊臣政権の最上層部に起こったこの事件は、大名諸侯にとって大きな衝撃だった。動揺する大名たちに対して、秀吉は7月20日、愛児秀頼(お拾い様)への忠誠を誓わせる。 「お拾い様へ対したてまつり、いささかも表裏なく、御為になるよう覚悟して御奉公申し上げます」を第一条とする五か条である。
その誓約書には29名の諸侯とともに「羽柴出羽侍従」の肩書きで、義光も花押血判をなした。その文書は今、岡山市の『木下家文書』に収められている。
【2】
秀次を切腹させて首を取っても、秀吉の気持ちはおさまらなかった。続いて、秀次の寵愛を受けていた女性と彼の血をひく子ども全員の殺害を命じた。その中に駒姫(聚楽第では「おいまの方」と呼ばれた)が入っていた。
義光は八方手を尽くして助命嘆願をしたというが、秀吉は「父親の身分地位によって刑罰を左右するなら、天下の政道は成り立たぬ」と言って許さなかったという。後述のように、淀殿を通して嘆願したところ太閤も無視できず、「尼にして寺に入れよ」と命ばかりは許したというが、これは創作の域を出ないだろう。
実際のところ、義光や伊達政宗も秀次と親しく、聚楽御殿にしばしば出入りしていたという理由でもって、閉門謹慎を命じられていたのだから、娘の助命嘆願などできない立場だったかもしれない。
妻妾たちの中には、秀次の切腹を知ってすぐさま髪をおろして尼になった者もいたが、これらをも秀吉は許さなかった。罪なくして斬首の刑に処されると知ったとき、彼女等の悲嘆はいかばかりだったか。泣いても嘆いても、助かる術はなかったのだ。
8月1日、女性たちはそれぞれに親しい人たちに手紙を書き、形見の品を分けととのえ、沐浴をして身を潔め、死出の旅支度をする。
駒姫も形見を残したことは確かだろう。山形市門伝の皆龍寺には、駒姫着用と伝えられる高雅な衣裳の切れが、大切に保存されている。
同2日、死装束の白衣に身をつつんだ女性たちは、市中引き回しの牛車に乗せられた。たまたま上京中で、その様を目撃した岡崎(愛知県)上宮寺の住職、円光院尊祐の自筆記録(駒沢大学、粟野俊之氏のご教示)によると、引き回しは次のようであった。
車は7台。1台目には三人の女性とその子ども3人。1歳から3歳の幼児であった。
駒姫は2台目の車に乗せられた。「最上殿御子 おいま様 十五」と記されている。同車したのは、秀次の正室、菊亭右大臣晴季の娘32歳。それに、武藤長門守の娘19歳、小浜殿の娘29歳、駒姫をふくめて4人であった。
以下7台目まで、女性31名は名前と年齢が記され、幼児3名は年齢のみがメモされている。合計34人、「一条より京の町々をひきまわし、三条の河原にて御成敗なされ候」と、尊祐は書き記した。
小瀬甫庵『太閤記』によると、まもなく命を断たれる運命をも知らずに、牛車の上で母にあまえかかる幼い子どもの姿に、見る人はみな泣いたという。
市中引き回しの後、女性たちは三条河原の刑場に追い入れられる。そこに築かれた塚の上には、秀次の首が据えられていた。
【3】
殺戮は正午ごろから開始された。最初は子どもたちだった。
「五十ばかりの髭男が、愛らしい若君をまるで犬の子でもぶらさげるようにあつかって、刺し殺した」「抱きしめる母の膝から奪い取って、胸元を二刀刺して投げ捨てた」と『太閤記』には描かれているが、泰平を謳歌したように思われる桃山時代の京都で、このように残酷な処刑が行われたのである。
おさな子が終わると、処刑は女性たちへと移る。その様を秀次一族の菩提寺、京都三条瑞泉寺の縁起では、以下のように語っている。
最初に処刑されたのは、秀次の正室・一の台、31歳(32、34歳とも)、菊亭右大臣晴季の娘。絶世の美女と謳われた女性である。
第2番目はお妻の前、16歳、三位中将藤原隆憲の娘。
第3番目はお亀の前、32歳、中納言持明院基孝の養女。
処刑は名簿に従って進められ、駒姫は第11番だったという。
「第十一番に、お伊万(いま)の前、出羽最上家の息女十五歳。東国一の美人との評判高く、さまざまに仰せて漸く七月初めに上京、長旅の疲れで未だ秀次に見参もせぬうちにこの難にあったので、淀君らもこれを伝え聞いて太閤に助命を願い出た。太閤もこれを黙止するわけにいかず、『鎌倉で尼にせよ』と急使を出し、早馬で三条河原へ馳せつけさせたが、いま一町というところで間に合わず、ついに蕾のままに散った」
「つぼめる花のごとき姫君で……未だ幼かったけれども、最期の際もさすがにおとなしやかであった」と、これは『出羽太平記』の記事。
駒姫は、静かに所定の場に座し、西方阿弥陀浄土に向かって手を合わせ、斬首執行の男が立って刀を振りかざしたときには、心持ち頸を前にさし延べたと書いたものもある。
瑞泉寺には、駒姫辞世の和歌懐紙が伝えられている。
罪なき身も世の曇りにさへられて、ともに冥土に趣(赴)かば、
五常の罪も滅びなんと思ひて 伊満(いま)十五歳
罪を切る弥陀の剣にかかる身の
なにか五つのさわりあるべき
「罪なき私の身も、世間のよこしまな動きに邪魔されて、みんなと共に冥土に行ったならば、五つの徳目にそむいた罪も滅びるだろうと思って、罪を切る阿弥陀様の剣にかかるわが身、どうして成仏できない五つの障害などあるでしょうか。きっと、極楽浄土に行かれることでしょう」
30余名の処刑は申の刻(午後4時ごろ)まで続き、殺された人の血で流れる水も色を変えたという。亡骸はみな一つ穴に投げ込まれた。築かれた塚の上には「悪逆塚」と彫りつけた石が載せられた。
見物に来た人たちは、
「あわれなるかな、悲しいかな。かくも痛ましいと知っていたなら、見物には来なかったものを」と後悔する声も多かったと『太閤記』は語る。
その夜、京都は10日ぶりに雨になった。太陽暦では9月5日、そろそろ秋の気配がただよう季節になっていた。
【4】
人々はこの事件を厳しく批判した。夜のうちに辻々に貼り紙がなされ、「今日の狼藉は、無法極まる。行く末めでたき政道にあらず。ああ、因果のほど御用心候え」と書かれていたという(『太閤記』)。
この前後、義光は閉門蟄居中で、邸から出ることができなかった。せめて娘の最期だけでも知りたいと、家臣を現場に差し向ける。行ったのは上級家臣浦山筑後だとも、そうでなく、もっと身分の低い家来だったともいう。
義光は、朝から仏間に引きこもって祈りを捧げ、ひたすら耐え続けていた。駒姫の最期の様子が報らされたとき、義光は面をあげることもなく、「過去の業にこそ」と、ただ一言を発しただけだったという(『奥羽永慶軍記』ほか)。その意は「前世になしたことが、今、自分と娘に、こうした報いとなったのだろう」というのである。罪なきわが娘のあまりにも残酷な運命は、前世の宿業と考える以外に解釈のしようがなかったのだ。
その後数日、義光は湯も水も喉を通らないほどの悲しみようだった。
不幸は、続けざまに義光を襲う。
駒姫死後の27日(ふたなのか)めにあたる8月16日、妻が急死する。駒姫の母親であろう。亡くなった事情はよくわからないが、独り黄泉路に旅立った娘のそばに行こうと、みずから命を絶ったのではないかと、多くの研究家は想定している。「山形殿内室、奥州大崎家の娘」と『最上家代々過去帳』に記された女性である。
20歳前後に義光のもとに嫁ぎ、幾人かの子女をもうけ、会津へも京へも行って夫を支え、苦楽を共にした妻である。その急死を義光がどれほど嘆いたかは想像に余りある。
しかし、義光は一国の主として、ただ耐え忍ぶ以外にすべはなかっただろう。
文祿4年8月は、義光の生涯で最も苦しい秋であった。
【5】
秀次の切腹、三条河原の処刑、すべて秀次の謀反が原因と、秀吉側……石田三成、増田長盛、前田玄以らを中核とする政府……は説明したが、事実は秀頼を立てるために、秀次に謀反人の濡れ衣を着せて亡きものにしたというのが歴史家おおかたの見方だ。
京都の事変は、8月10日過ぎには山形に急報されたに違いあるまい。姫様は囚われ、やがてご生害、殿は閉門蟄居、なじみ深い方々が死罪あるいは流罪。わが最上家にも、いかなる難儀が出来するか計り知れぬ……最上家存亡にかかわる一大事である。
おそらく山形にいた一族重臣が協議した結果であろう、8月13日に嫡男義康が大沼明神(西村山郡朝日町にある。浮島で有名)に祈願状をささげた。
「敬白 立願状之事 このたび父親義光の身命が無事でありましたなら、社殿を建立し、村に住む人々を皆山伏(神社に奉仕する者)にし、また、境内の松はいっさい伐らないようにいたします」
願主は「源義康」となっている。神仏に願を立てるときは、本姓(最上氏は「清和源氏」)を使うのが通例だった。この祈願状には、後で書き加えたらしい次男「寒河江家親」の署名もある。父親の無事と最上家の安泰を願う、必死の祈りだった。祈願状は、ほかの社寺にも捧げられたと思われるが、現在はこの一通が残っているだけらしい。
7月15日秀次切腹。20日に秀頼への忠誠を誓わされて血判を捺し、ついで閉門蟄居、10日ほど後には娘を殺され、悲嘆と不安の真っ只中の8月16日に、今度は妻が死ぬ。しかも、次にどんな無理難題を吹きかけられるか知れないのである。
理不尽とは、こういうことを指すのだろう。
だが、幸いにして最上・伊達両家にかけられた謀反加担の疑いは程なく晴れ、閉門蟄居は解除される。こうしたこともまた、山形に報らされたはずである。一門家臣たちも、ほっと一息ついただろうと思われる。
後日、秀吉は義光に使者をつかわして、こう伝えた。
「娘を死罪に行ったことを、きっと不快に思うだろうが、秀次が反逆を企てた以上は、やむをえないことと思うべきである。こうなったからには、汝の罪科も許してやろう」
義光はこれに対して、「有難き御上意」と答えただけだったという(『永慶軍記』)。秀吉と石田グループに対する不信と怒りは、極限に達していたに相違あるまい。
それだけに、従来から親しかった実力者、徳川家康への傾倒は、いっそう強まっていっただろうと思われる。
五年後、天下を二分した関ヶ原の戦いのとき、義光が家康を支える盟友として誠実に行動し、強大な上杉軍の攻撃を真正面から受け止めたのも、自然なことであろう。
【6】
京都人にとって、出羽山形は遥かな異郷だった。遠い片田舎の山形から出てきて、人臣最高位の関白・豊臣秀次の邸に迎え入れられたのも束の間、悲劇的な生涯を閉じた駒姫のことは、当時大きな話題になったと思われる。傍証として、二つの事例をあげよう。
�(祕叩愨盛浹�』の記事
駒姫らが処刑された翌年(慶長元年/1596)9月、国交回復のために明国の使者が伏見城に秀吉を訪問したとき、歓迎の宴が盛大に催された。宴の後の茶の席で、点前に出たのは施薬院全宗(やくいん・ぜんそう)だった。これを見ていた富田一白は、小さな声で「茶をもてなすにしても、小督の御方か、おいまの御方のお点前なら、ひときわ興趣があっただろうに」と、かたわらの人に語ったという。全宗も一白も、秀吉側近のすぐれた教養人である。
「小督」は、『平家物語』で「宮中一の美人、琴の上手」、「峯の嵐か松風か/たづぬる人の琴の音か」と歌われた「琴の音」の主である。あるいは、徳川秀忠に嫁して、千姫(豊臣秀頼の妻)や後水尾天皇の后・和子[まさこ]を産んだ女性「お江よの方」(「小督」とも呼ばれた)かもしれない。どちらにしても、気品、容貌、立ち居振る舞い、すべてにおいて最高の品格と優雅さをもった女性だった。
「おいま」は駒姫である。彼女が「小督」と並べられたのは、駒姫がいかに美しく雅やかな女性として評判になっていたかを物語るといえるだろう。
��仮名草子『恨の介』の挿話(富沢学園理事、菊地俊彦氏のご教示による)。
『恨の介』は、作者不詳の読み物で、幕府旗本武士と宮中女房の恋愛と情死をテーマとしたものであるが、その一部に三条河原の処刑場面が出てくる。
30余人の女性たちが刑場に下ろされ、みな秀次の死骸を見て涙にむせんでいるとき、「中でも出羽の国の住人、最上殿の御娘、おこぼの上臈と申す方は、御年十六歳にておわしますが、涙をとどめて」こう語った。
「この涙は、関白様から賜りました嬉しいお言葉や熱いお情けが、今更のように思い出されて、とまらない涙なのでございます。わたしたちを見守っておられる皆様も、けっして自分の死を嘆き悲しむ涙だとは、お思いなさらないでくださいませ」
こう言ってから、一首の和歌を秀次の亡骸に手向ける。
「南無阿弥陀 蓮(はちす)の露とこぼるれば 願ひの岸に到る嬉しき」
これを見た女性たちは、われもわれもと和歌を作って手向けたので、秀次の死骸も動くばかりに見えた。やがて「おこぼ」は、衣の下から守り刀を取り出し、切っ先をくわえ「南無阿弥陀仏」の一声を最後に、うつ伏して死ぬ。残った女性たちも次々と自害する。
このようなエピソードである。「おこぼ」とは、創作上の仮の名であろう。
『恨の介』は、慶長末年(1615)以前の成立とされ、だとすれば、義光在世のころに、駒姫ははやくも物語の人となっていたわけである。最上家の姫君のうわさが、京都町衆の間に広まっていた故に、創作文学の中にまで取り込まれたと考えてよい。
【7】
『奥羽永慶軍記』では、駒姫と伊達政宗との小さな関わりが語られている。
天正9年(1581)の秋、最上家に女の子が生まれた。たまたまその日、少年政宗と伯父義光が千歳山阿古屋の松を題材に和歌の贈答をした。
「恋しさは秋ぞまされる千とせ山の あこやの松に木隠(こがく)れの月 政宗」
「恋しくば尋ね来よかし千年山 あこやの松に木隠るる月 義光」
義光の妻は、娘誕生の日に政宗から寄越された和歌にちなんで「千年」と名づけたいと言ったが、義光は、安倍貞任の娘「千年」は父母を滅ぼしたのだから悪い名だと言ってこれを採らず、出羽の名山「御駒山」にちなんで「お駒」と名づけたという。
義光は、祝いの連歌会を催そうとした。ところが、山形には連歌のできる者がいなかった。町人でもだれでもよい、歌の道は身分の上下を問わないと、町奉行に捜させたが連衆(連歌参加者)となる者が見出せず、連歌は沙汰止みとなった。
駒姫が亡くなったとき、「誕生ノ祝儀連歌ノ止ムモ不吉ナリ」と政宗は語ったという。可憐な従妹の悲しくはかない運命を、政宗も心を痛めて受け止めたのであった。
一方、この悲劇を父・義光の責めに帰そうとする見方もある。伊達一門の伊達成実は、次のように書いた(『成実記』より意訳)。
「義光は、秀次公が最上在陣のみぎり、息女を差し上げた。大名に似合わざるやりかたと、世間で取り沙汰していたところ、今度のこの始末だ。天下の嘲弄、尋常ならず」
確かに結果的には悲惨な結末になったわけだが、当時の状況を考えれば、豊臣政権の後継者たる青年関白から娘を所望されたとき、果たして断り通すことができるかどうか。実際その場に立ったら、それは不可能というしかあるまい。
「天下の嘲弄、尋常ならず」は「ざま見ろ」というに近い、悪意の言葉である。これほど悪し様に書けたのは、『成実記』が義光亡きあと、最上家改易の後に書かれたものだからであろうか。
【8】
三条河原の事件は、刑死者の人数・年齢・辞世の和歌など、異説が少なくない。
駒姫の年齢についても、15、16、19などの説(数え年)がある。しかし、史料として重視される尊祐メモと瑞泉寺縁起は、ともに15歳となっている。また『永慶軍記』では、伊達政宗15歳の年(天正9/1581)に駒姫が生まれたとされているから、刑死した1595年には15歳だったことになる。やはり、15歳が正しいのだろう。
駒姫の辞世にも別伝がある(他女性の作も文献によって違うものがある)。
「罪を切る弥陀のつるぎにかかる身の……」が、山形ではよく知られているが、この和歌は後代の代作とされ,仏教思想が強調されて、若い女性らしさがなくなってしまった。ところが『太閤記』では、次の和歌が掲げられている。
「うつつとも夢とも知らぬ世の中に すまでぞかへる白川の水」
「現実なのか夢なのか、それさえわからないこの世の中に、長く住むことなく、私はあの世に帰るのでしょう。澄むことなく、寄せては返る白川の水のように」
このほうが若くて世を去らねばならない女性の心情が、痛々しく表れているような気がする。「すまでぞ」は「住むことなく/澄むことなく」二重の意味をもつかけ言葉。「白川」は鴨川に東から合流する川で、刑場となった三条あたりも、当時は「白川」と呼ばれていたものらしい。辞世29首の中には「白川」を詠み込んだものが4首ある。
なお、これら辞世和歌は覚悟をきめた女性たちが前もって詠じておいたものを、1巻にまとめたものだということである。
もう一つ。『太閤記』によれば、駒姫のほかにもう1人、山形の女性が処刑されている。 第25番「おこちゃの御方、廿歳、最上衆なり」
濡れぎぬをきつつなれにしつま故に 身は白川の淡(あわ)と消えぬる
「謀反人という濡れぎぬを着せられて死んだ、私のなれ親しんだ夫(秀次)ゆえに、わが身は白川の泡となって消えてしまうのです」
これによれば、山形の女性2人が同じ時に処刑されたわけだが、「おこちゃの方」とはどんな身分・立場の女性か、手がかりがない。駒姫につき添って聚楽御殿に入った女性だろうという想像もあるが、そう考えるのがいちばん妥当かもしれない。
【9】
山形市緑町、浄土真宗の専称寺に駒姫の墓がある。境内の最も奥まった一隅に、ひっそりと立つ五輪塔がそれである。駒姫の母もこの寺で弔われているはずだが、墓は建立されていない。三周忌にあたる慶長2年(1597)、義光は妻と娘の画像を寺に寄進した。 駒姫の画像は見ることがむずかしいが、夫人画像は山形県有形文化財に指定され、さまざまな図録類に掲載されているので、それで見ることができる。
庫裏の一部には、駒姫の居室を山形城から移建したという一室がある。板襖には、400年余の歳月を経て色彩・描線は薄れているが、今も繊細な絵が見て取れる。
義光は折に触れてこの寺を参詣したといわれ、本堂の前庭には「義光公駒つなぎの桜」と名づけられた桜樹がある。春ごとに薄くれないの花を咲かせるしだれ桜である。
義光は、還暦を迎えた慶長11年に、京都で造られた梵鐘をこの寺に寄進した。
年老いてもなお深まるばかりの、深い嘆きをこめたものだろう。山門を入って左側にある古風な鐘楼と刻銘明らかな梵鐘と、いずれも県指定文化財である。
駒姫の墓は、京都三条大橋西たもとの浄土宗瑞泉寺にもある。
四条の繁華街へ下る町筋の、清楚で品のいい寺である。豪商角倉了以が、舟運の便を図るため高瀬川(森鴎外の名作でも知られる)を開削したとき、女性たちを悼んで刑場跡地に建立したものだという。了以は、連歌を通じて義光と親しかったから、駒姫のことも聞き知っていたのであろう。
墓地は、秀次の墓を正面に、一族妻子と殉死した家臣ら合わせて49名の墓碑が並んでいる。その中に、駒姫の墓もある。
「山形の方々が駒姫様をお詣りに、よくお見えになります」
早春二月に参詣したとき、紅梅が春雨に濡れている墓前で、住職はそう語っておられた。 山青く、水清く、空は高く澄みきった、うつくしい山形。この地に生を享けた可憐な駒姫が、ふるさとを遠く離れた京都で、悲運の死を遂げなければならなかったのも、歴史に翻弄される人間の、如何ともなし難い宿命だったのであろうか。
古典文学に登場する最初の山形人は、駒姫らしい。話題になることが多いので、やや詳しく書いてみた。
■■片桐繁雄著
最上義光歴史館
:[
メモ
/
最上家と最上義光について
]
最上家をめぐる人々#5 【義姫/よしひめ】
【義姫/よしひめ】 〜戦陣の間にすわりこみ……〜
山形城主、最上義守の娘として、天文17年(1548)に生まれた。義光は2歳年上の兄。年齢の近い兄妹ということで、二人は仲が良かったらしく、後年の手紙などをみると、互いに心を打ち割って音信を取り交わしていたことがわかる。
父義守が、最上家を守り発展させてきた経過をもそれなりに見聞きしたせいであろうか。
世の平和を願う心は、人一倍強かったらしい。
たぶん1565〜6年のころに、米沢伊達家の若い当主・輝宗にとついだらしい。政略結婚といえば言えるかもしれないが、東北地方南部の名門最上家が、実力派大名の伊達家と縁組をするのは、戦乱を未然にふせぐためにも重要な方策であった。もちろん伊達家としてもありがたいことだった。米沢では館の東に住まいしたために「お東の方」と呼ばれ、自分でも手紙などには「ひがし」と署名した。
永禄10年(1567)に、男児を出生。これが梵天丸で、後の仙台藩主伊達政宗である。次子は小次郎。
米沢時代の伊達家の記録には「お東の方は、日ごろ時世の乱れを見ては、国が安らかに繁栄するよう心にかけておられた」とあるように、平和を求める気持ちの強い女性だった。
ところが非情の戦国、争乱は身近に頻繁に発生する。
天正2年(1572)には、実家最上家で、父・義守と兄・義光の争いがあり、夫・輝宗は義守方に味方して上山、楢下、狸森、畑谷などに兵を出した。戦闘は小規模なものだけだったが、それでも半年ほどごたごたと続いた。九月に乱は終息。
義姫がこの時何を考え何をしたかはわからないが、身内同士が戦いにうつつを抜かす状態には、ほとほと愛想を尽かしたのではなかったか。
結婚後20年ほどのちの天正13年(1585)、38歳で夫を失う。
しかも、夫の死は、息子が当の立役者になっていたのだ。輝宗が宿敵畠山義継に、拉致連行されようとしたとき、追跡した政宗軍の鉄砲隊の乱射によって、義継ともども、夫も死ぬ。息子の命令で夫が殺されたと知った義姫が、どれほど悔やしんだか、はかりしれない。「戦いは、もう、たくさん」というのが、彼女の偽らざる心情だったろう。
ところが、彼女の心を踏み付けにするような事態が、兄・義光と息子・政宗の間に発生したのである。
天正16年(1588)、政宗が大崎領を攻めたとき、義光は妻の実家であることもあって、こちらを援護した。「敵の味方は敵」である。政宗は伯父・義光に刃を向けてきた。
最上領・伊達領の境界、中山(現上山市南部)で、両軍がにらみあい、一触即発の状態にたちいたったとき、義姫が輿に乗って割り込んできた。両軍の間に仮住居をしつらえ、そこに起居して、兄と息子とに兵を引くように迫るのである。
この期間およそ80日に及んだことが、義光が書き残した数通の手紙で確認される。で、結局、この戦いは両方が手を引くことで決着する。
身を挺して戦いをやめさせた平和の女神、という比喩はともかく、戦国の世にありながら、戦いを憎み、和平実現のために自ら行動した女性として、大きく顕彰されてよい人物だろう。
ところが、この義姫については、悪いうわさが意図的につくられた形跡がある。次男小次郎を愛するあまり、長男政宗を毒殺しようとした。それに失敗して、実家である山形に逃げ帰った。冷酷、不届きな女性だ、云々。
だが、世に知られたこの話は、最近明らかにされた史料によって否定されている。それどころか、義光・政宗という大人物が二人とも、どういうわけか、義姫に対しては綿々と心を打ち明け、あるいは、すっかり頼りきっているような、そんな手紙さえ残っているのである。
政宗が朝鮮に渡って苦労をしているとき、ねんごろな手紙と黄金3枚を送ったことは有名な事実である。その時の義姫の手紙は残されていないが、政宗が書いた返事は、仙台にしっかりと残っている。手紙をもらった政宗の感激、喜び、異国で苦戦している様子、家来たちが死んでゆくつらさなどとともに、母親に一目あいたいという息子としての願いも、しみじみとうかがわれる手紙文の傑作だ。
義姫が、伊達の本拠地であった岩出山から山形にもどったのは、文禄3年の冬であった。
彼女が山形に帰って来た事情は、残念だがよくわからない。兄の配慮で、村木沢の悪戸や南館の館で暮らしたことは事実であろう。
慶長5年(1600)、上杉軍が最上領に侵入したとき、義光は9月15日に嫡男義康を走らせて伊達政宗に援軍を要請した。16日の返事はOKだったが、肝心の軍勢がなかなかこない。しびれを切らした義姫は、19日卯の刻(午前6時ごろ)、援軍の早い到着を求めて、みずから緊急の手紙をしたためる。かまわずに置けば山形が滅亡するかもしれない怱忙の間である。文字はなかなかの達筆。簡潔ながら文面には心情がほとばしっている。
「ここもとへ御越えのよし、御大儀、満足申し候。とてものことに一足も早く早く、御越え候べく…修理(義康)親子も待ち入り申し候、いそぎいそぎ、とくとく…」
幸いに、伊達の援軍は22日に山形に到着。月末に関が原で上杉家の加担した西軍が敗れた報せを受けて、上杉軍は撤退し、山形は助かる。男同士の表向きの折衝だけでなく、義姫の懸命な動きも、伊達側を動かしたことは確かだろう。
元和8年(1622)、最上家の没落を機に仙台にもどり、保春院にはいって、翌年76才の長寿を全うした。墓は北山覚範寺にある。
村木沢の旧家加藤家には、義姫の愛用品だったという優雅な横笛や迫力ある能面が秘蔵されており、彼女がまつった阿弥陀堂も近くにある。また南館の神明神社付近には、義姫居住時代の面影が、いまもかすかながら残っている。
■■片桐繁雄著
最上義光歴史館
:[
メモ
/
最上家と最上義光について
]
最上家をめぐる人々#4 【最上義守/もがみよしもり】
【最上義守/もがみよしもり】 〜歴代最長期の山形城主〜
最上義光という巨星の光茫に幻惑されて、その父義守の方はとかく目立ちにくいが、その生涯をながめると、さすがは名門大名最上家の主だという感じがする。
永正11年(1514)の春、突如攻め入った米沢伊達稙宗の軍勢に、最上連合軍は1000人以上の死者を出して惨敗、長谷堂城は占領下におかれる。
だが、どうしたわけか伊達側は、翌年、稙宗の妹を最上義定に嫁がせ、長谷堂城を返還して、和平が成立する。ところが、せっかく来たその夫人に子供ができないまま、義定が没してしまい、山形城はいっとき主がいない状態になったらしい。
そこに入ったのが、最上の一族である中野氏義清の次男、まだ幼かった義守である。
たぶん、すぐれた家臣の支えがあったのだろう、義守はその後50年余、歴代最も長期にわたって山形城主であり続ける。
まだ20歳前の天文3年(1534)には、山寺の日枝神社を再建するために、一族とともに協力した。同12年4月から8月にかけては、戦火に荒廃した山寺立石寺に、本山の比叡山延暦寺から法燈を移すために、義守の母が「大檀那」となるが、そのための費用や往復の警固はおそらく義守の配慮があったはずである。
20歳を過ぎてからは、義守の力量は一段と高まったらしい。
1540年前後に伊達領内に争乱が起こったときには(天文の乱)、これに介入して、いったんは置賜全域を制圧し、伊達の争いに睨みをきかせた。また、治安維持のために笹谷峠を越えて出兵もしている。堂々たる戦国大名としての動きである。
永禄6年(1563)、義守は18歳の義光をつれて京都に上り、第13代将軍足利義輝に馬や太刀を献上した。
「六月十四日 しばらくぶりに将軍足利義輝公の邸にうかがったら、ちょうど出羽国の御所(大名のうち特別な家柄のものをこう呼んだ)山形殿父子が来ておられた。父子は、将軍に馬と太刀を献上して御礼を申された。
将軍は二人をもてなす宴会を開かれ、わたしもそこに参席させてもらった。将軍から下された杯を、二人は『かたじけないことです』と言って頂戴した。わたしも深夜までご馳走になり、すっかり酔ってしまった」(『山科言継卿記』)
義守・義光親子が京都に上って将軍に面会したときのことが、たまたま一貴族の日記に記録されていたわけである。
上京した義守は自分の地位や領地を将軍から認めてもらったらしい。当時は実力で獲得した領地も、天皇をバックとした将軍の承認がなければ正当なものとは認められなかったのである。
それにしても「御所」と書かれたり、将軍からこんなに丁重にもてなされたりしたのは、やはり最上家が将軍の親類筋にあたる別格の家柄と見られていたからだろう。
たぶんこのころと思われるが、娘(義姫)を伊達家の若殿、輝宗に嫁がせた。伊達家でも最上家の娘をもらって親戚になることは、都合がよかった。永禄10年(1567)に生まれた男児が、後にその名も高い「独眼竜」政宗である。
晩年は禅に帰依して仏門に入って栄林と号する。たぶん、嫡男義光に領主権を譲り渡したころかと思われるが、まだあいまいな所もないではない。表向きの政治からはいったん身を引いたと推測されるのだが、詳細は不明である。
その後なんらかの問題が起こって、一時期義光と厳しく対立する場面もあった。しかし、この対立は譜代の重臣氏家伊予守定直の諌言によってほどなく融和し、義光が完全に領主権を掌握することとなったようだ。
天正11年(1583)のころに、義守が大病をわずらって危篤状態におちいったことがある。そのとき彼は、義光や義姫夫妻を枕元に呼び、大勢の重臣たちが居並ぶところで訓戒をあたえたという話が、『奥羽永慶軍記』にある。
「今自分が亡くなったなら、義光と輝宗が仲たがいして合戦をはじめるのではないか。これだけが心にかかることだ。最上と伊達がいくさをして、たとえ輝宗が勝ったとしても最上の主人になることはできまい。逆に義光が戦いに勝ったところで、奥州を手に入れることはできないだろう。おまえたちのような小さな大名が、身内同士仲たがいをしたら、他の大名がとくするだけだ。最上も伊達も関東の佐竹や越後の上杉に討たれてしまうだろう。ただし、両家が仲良くしているならば、佐竹・上杉が一つになって攻めようとも、没落することはないはずだ。最上の氏家・志村よ、伊達の片倉・遠藤よ、おまえたちもこのことをしっかり胸におさめて、けっして背いてはならぬ」
ところが、あやうく見えた義守は、医薬のかいあってかほどなく快復する。
八日町浄光寺の伝えでは、日蓮宗の旅の僧日満上人の祈祷が功を奏したとされ、これに感謝した義光が一万坪の寺地と伽藍を建立したのが同寺の始まりだとしている。
義守はその後龍門寺に隠栖し、政治からは手を引いたが、天正18年(1590)5月17日(一説27日)に70歳の長寿を終えた。戒名は後龍門寺殿羽典栄林公。山形城の北、曹洞宗龍門寺が菩提寺である。
この寺におもしろい(?)文書がある。葬送に際して火を下ろすときに唱える「炬下語(あこご)」が、義守のために用意されていたのである。元亀2年(1571)、秋彼岸の日付である。義守が亡くなる20年前のものだ。ひょっとしたらかれは生前葬を執り行ってから、龍門寺に入ったのかもしれない。
義光以前に、約50年間の山形城主として活躍した義守は、最上家繁栄の基礎固めをした傑物だったというべきだろう。
■■片桐繁雄著
最上義光歴史館
:[
メモ
/
最上家と最上義光について
]
最上家をめぐる人々#3 【最上義定/もがみよしさだ】
【最上義定/もがみよしさだ】 〜第九代山形城主〜
最上義光の父10代義守は、別項で紹介しているように50年を超える最長期の山形城主だった。
その前の9代義定は、系譜では義光の祖父にあたる。修理大夫。正室は伊達尚宗の娘、稙宗の妹であると、『寛政諸家譜』に記されている。『山形市史』では、この人物は軽く扱われた。
永正11年(1514)2月、伊達から攻められて敗れ、長谷堂城を占領され、翌年伊達の娘を押しつけられて伊達家の言うがままとなり、そのうえ間もなく死んでしまったという具合に、全くの小物あつかいである。
だが事実は、そんなつまらぬ人物ではなかったらしい。
村山地方の諸国人豪族層との連携を固め、地域の安定のためにそれなりの力を発揮したらしいのである。
『大江氏系図』によれば、次に示した略系図のように、寒河江宗広の娘は「山野辺刑部の子、直広の妻」となっている。この女性が「義定の姑」だというのだから、義定は山野辺氏から妻を入れたことになるわけだ。もちろん正室かどうかはわからない。山形の支族中野家にも、寒河江の娘が嫁いだとされており、この系図を根拠としてみると、山形・山辺・寒河江・中野は、それぞれ婚姻を通じて結ばれていたことになる。
寒河江宗広
男(母、山野辺刑部の娘)
女(山野辺刑部の子、直広の妻。
山形義定の姑
)
女(中野の妻)
ただし、山野辺直広の妻なった女性は隣の領主中山家の出だともされるので、どちらが正しいかは、はっきりしない。どちらにしても、1500年代初頭のころは、山形盆地内の諸豪族国人層は、必ずしも対立抗争のみをこととしていたのではなかったらしいのである。
同系図では、寒河江宗広亡き後の永正2年(1505)のこととして、「山形義定、コノトキ二度山形ヨリ御入部」と記されている。これについては、義定による寒河江攻撃を意味すると、『寒河江市史上巻』では言う。
義定の軍事力は、この山形盆地域では抜群に強大だったようで、一時は、寒河江氏を攻めて支配下においたとされ、永正元年(1504)慈恩寺が焼け落ちたのは、山形の攻撃によるという見方もある。数年後、永正9〜10年(1512〜3)、庄内地方において武藤・砂越の争乱が起こったときにも、義定は強い関心を示し、寒河江領内熱塩郷に出陣して、警戒に当たったという。
だが永正11年2月、置賜の伊達稙宗軍が山形に攻め込んだときには、以外にもろかった。
攻め込んだ理由も、合戦の経過もよくわからないが、長谷堂を主戦場とするこの戦いでは、最上連合軍は大変な負け戦だった。戦死者は千人を超えた。寒河江氏の一族、吉川兵部政周も、山野辺刑部も、最上家につながりのある楯岡、長瀞の城将も戦死したと『大江系図』は語っている。惨憺たる敗北であった。原因は義定の命令が遅れたせい、あるいは義定の到着が遅れたせいだともいう。
これらの説明は、山形の最上義定が連合体の中核にあったことを意味すると考えてよいだろう。根拠史料の確認は取れていないが、一説では、このとき義定は最上郡方面に出馬していたために遅れたのだとも言われる。
長谷堂城は占領され、伊達の家臣小簗川親朝がここに駐留した。
ところが奇妙なことに、その翌年、伊達稙宗は山形に乗り込みもせず、せっかく手に入れた長谷堂城を返し、妹を与え、最上家との関係を固めようと努めている。妹を嫁がせることで、最上家を間接的に支配しようとしたのだと見る向きもあるが、そうではなく、最上には伊達の力を排除するだけの実力があったと見るほうが妥当かもしれない。
なお、「この戦いで上山城も占領された」とか「敗れた義定は山形城を去って中野に退避した」などと書いた史書も見受けるが、これを裏付ける史料は示されていない。
義定が最上家の主で、地域諸勢力のリーダーであったとは、『大江系図』からは推測できるわけだが、何分にもほかの史料が根本的に欠けている。義定の名を記した文書や遺品類が、系図以外には残っていないのだ。これはいったいどうしたことだろう。
永正17年(1520)2月2日死去。一説、3月4日。年令不明。伊達から入った夫人に子がなく、跡をついだのは幼い中野義守だったと、諸書は一致しているが、山辺氏から入った夫人にも子がなかったのか、そのへんはわからない。山形市中野の雲祥院が菩提寺である。
■■片桐繁雄著
最上義光歴史館
:[
メモ
/
最上家と最上義光について
]
前のページへ
次のページへ
■
ダウンロード
├
最上義光からの挑戦状!
├
見学の手引き
├
解説シート
├
スクリーンセーバー
├
壁紙/アイコンバナー
└
ペーパークラフト
■
こどもページへGO!
■
周辺の見どころ
■
スタッフレポート
■
キーワード検索
members login
powered by
samidare
system:
community media
ケータイサイト
インフォメーション
プロフィール
Powered by
Communications noteβ