最上義光歴史館
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見学の裏ワザ
最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
「『時は今 天が下しる 五月哉』について雑感」 名子喜久雄
「時は今 天が下しる 五月哉」について雑感
連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。
さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)
賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉 光秀
2 水上まさる庭の池水 行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて 紹巴
島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。
信長を討つ決意を秘めたとする解釈は、人々に疑われることもなかった。(あくまで俗説であるが、それを察知した紹巴は「せきとめて」と、中止させようとの意を含ませた句を詠じたとされることもある)江戸期の人々も浄瑠璃や歌舞伎の中などで、そのような解釈を常識として来た。四世鶴屋南北の「時今也桔梗旗挙(ときはいまなりききょうのはたあげ)」一八四八年作は外題でこの発句を活している。これ以前に近松半二等の「三日太平記(みっかたいへいき)」一七六七年作の中で光秀の口にするせりふにこの句が採り上げられている。その場面は、以下の通りである。
尾田春永(「小田」とも、以下役名)は天下平定を目指し、各方面へ武将を遣し、当人は中国の真柴久吉を助けようと、本能寺に宿泊していた。そこに勘気を蒙って遠ざけられていた武智光秀が、あえて目通りを願い出る。
光秀は、春永に武人の鑑となってほしいとして、劉備玄徳を例に挙げ直諌する。怒った春永の命で、森蘭丸が、鉄扇で光秀を打ち、要で額を割る。(眉間割り)
屈辱に耐えていた光秀は「最早これまで」と、謀反を決意しこの発句を呟く。時ならぬ陣太鼓等が打ち鳴らされ人々は狼唄する。小柄を抜いた光秀は「忠孝」と書かれた額を、それで打ち落し、春永に張本が自分であることを告げる。
近世までの人々は、この発句の重要性・意図を、例えば以上のように理解していた。すなわち、謀反の意を読みとっていた。
近代に至り、この理解に疑義が、桑田忠親氏を中心として、さしはさまれる。論点は二つある。その一は、本文の問題である。底本等は「連歌集」島津氏校注の解題にあるので参照してほしいが、この懐紙の原本はなく、写本の中で「天が下
しる
」を「天が下
なる
」とするものもある。後者ならば「世の中すべて五月雨の今にふさわしい光景」との従来の作法通りの自然詠となる。先述した紹巴に関する物語の中には、後に秀吉の追求を怖れた紹巴が書き改めたとするものまである。
その二は、仮に、光秀が決意を秘めたこの発句を詠じた時に、一座の者などの中に( 連衆は光秀を含め九名、五名は連歌師。光秀の縁者は行澄(ゆきずみ)・光慶(みつよし)の二名)、光秀の意図を察して、信長方に通報するような者がいなかったであろうか、光秀は安心して心情を吐露出来たかという点である。
言われてみればその可能性もあって、通説を否定する考えの柱となっている。
以上のことは、光秀という謎に満ちた人物の魅力もあってか、多くの研究書・文芸書に採り上げられている。興味のある方は、サイト等で、詳細を調べてほしい。
今年でNHK大河ドラマは六十作目。この稿を記している時点で様々の困難に直面しているようである。筆者としては、第三作目「太閤記」の佐藤慶が良かったように、個人的には思っている。
■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより��27」より
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2020年12月 利用者アンケート集計結果
《2020年12月の利用者アンケート集計結果》
アンケートの回答なし
※新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、入館者情報カードへの記入を優先して依頼しているため。
常設展示 (12/1 〜 12/27)
開館日数・・・・・・・・・・・・・24日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・868人
回答者数・・・・・・・・・・・・・0人
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館長裏日記 令和6年1月4日付け
〇 初市のはなし
初市は十日町〜本町〜七日町〜旅籠町の国道112号線沿で開催されますが、山形市を知る方には、十日町と七日町とに挟まれている「本町」は市日町とは関係ないのかと思われる方もいると思います。実は本町という町名は戦後昭和のものであり、それまでは「横町」という地名でした。
横町は、最上義光の山形城拡張時に十日町とともに移転した町で、特に市は立たない町でしたが、「仙臺越後庄内より生魚干魚塩魚」を売買する魚屋で繁盛した町で、「海はなけれども8月より5月迄は海辺のごとし」と「山形風流松木枕」にあります。
また、紅花の最盛期である1700年代前半は、この十日町から七日町にかけて紅花市が立ち、紅花の摘花の時期は「1月の儲けが1年中の暮らし」となったとそうで、「京都より紅花仲買下りて、仲買商人乃有様狂人の如く、何れ餘国になき珍敷商の模様なり」と「山形風流松木枕」にあります。
一方その頃の山形城は、享保4年(1719年)の堀田氏時代の城下絵図によると、郊外の武家屋敷地はほとんど姿を消し、三の丸内は空き屋敷が目立つようになりました。明和元年(1764年)からの4年間は幕府領となり、二ノ丸・三の丸の武家屋敷地は大半が取り払われ、城下住民に請け負わせて田畑を開かせたとあります。その明和年間の地図と思われる「羽州最上御城内乃図」も今回の企画展で展示していま す。
山形城の絵図からもその変遷が見て取れるのですが、この流れはもしかして「民間活用、小さな政府」ということなのかしらん。
〇 堺石(さかいいし)のはなし
かつて土地関係の仕事を担当していたことがあったのですが、この十日町とは別の場所の堺石で、ちょっと戸惑ったことがありました。土地の現地調査に行くとまず、その土地の境界を確認するのですが、ある畑地で、境界を地権者の方に確認すると、そこの石が境界だと先代から聞いている、と言われたのですが、見るとそれは大きめの漬物石程度で、その気になればいくらでも動かせそうなものでした。それもさることながら問題は、この石のどこの部分が境界になるのか、中心なのか縁なのか、とりようによっては30センチぐらいはズレてしまいます。
また、田んぼの境界も、土地改良をした場所でも、いつのまにか畦畔が移動していることも珍しくなく、まずは1メートルくらいの深さで境界付近を掘ります。すると野球のバットを一回り大きくしたような木杭があらわれてきます。松の木であれば50年くらいは腐らずにあります。それを掘り起こして新たな杭を設置したりするのですが、当然、数センチ単位ズレます。まあ、登記面積としては宅地および10平方メートル以下の土地以外は、小数点以下を切り捨てることになっているのですが。
宅地の場合は、やはりシビアな場合があります。よくあるのが、道路との境界がわからない、ブロック塀の内、外、真ん中のどこが境界かわからない、といったもの。意外とトラブルになるのが、本家から土地を分けてもらった分家同士が隣接していて、その境界があいまいな場合、仲がいいとその場で決まるのですが、そうでないこともままあります。これが山林となると、立木が堺になっていることがあり、相続をうけた山林などでは、その木がどれかわからない、ということもあります。
絵図の場合、まずは位置関係がわかれば、距離的な精度は適当でもいいのですが、年貢がからむとなるとそうはいきません。戦国大名の時代になると、独自の領地高権(「切り取り次第」というアレです)をもつこととなり検地がなされました。織田信長が行った検地では、奉行人であった木下藤吉郎も実務を担当しており、その後、太閤検地、つまり秀吉による検地がなされます。
当初は,家臣に自分の所領の明細を書き上げさせる指出(さしだし)検地が多かったのですが、1594年に基準や方法がほぼ確定し、慶長〜元和(1596年−1624年)に全国規模の検地が実施されました。
検地には間竿(けんざお)や間縄(けんなわ)が用いられました。間縄とは1間ごとに印を付けた縄ですが、今も使われる言葉に「縄伸び」とか「縄縮み」というのがあります。
「縄伸び」というのは、検地の際、年貢の負担を軽減するため、実際よりも長めに目盛りをつけた縄で、面積を小さめに測量したことに由来します。一方、縄縮みは、田畑などの小作地の場合、地主が多少地租を多く納めても、小作料をそれ以上に納めさせたい場合などに面積を実際より大きくしたものです。今でも、固定資産税のことを考えれば縄延びしたほうがよく、土地を売ることを考えれば縄縮みした方がいいのでしょうが、近年は課税も売買も地籍調査を含め実測でなされることが多いです。
なにはさておき、実測にいたる前提は境界の確認です。境界がわからないことには、長さを測ることができません。その境界沿いには縄を張ることもあり、つまり「縄張り」ですが、「俺の縄張りを荒らしやがって」と言うその筋の方を引き合いに出すまでもなく、その重要性はご理解いただけるかと思います。
この境界問題というのは、ロシアとの境界、中国との境界、韓国との境界をはじめ、繁華街や隣家レベル、場合によっては夫婦間や職場の机レベルでも抗争の原因となることがあります。たかが境界、されど境界、とでも言うべきでしょうか。まずは、世界人類が平和でありますように。
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館長裏日記 令和5年12月21日付け
〇 クリスマスの思い出
日本で初めてクリスマスが祝われた日とされるのは1552年12月10日(天文21年12月25日)で、周防国山口でイエズス会の宣教師が日本人の信者を招いて降誕祭のミサを行ったとのことです。山口市では「12月、山口市はクリスマス市になる。」と題して様々なイベントが開かれるとか。ちなみに2023年のクリスマスの飾り付けのトレンドは、バロックスタイルとのことですが、バロック時代というのはちょうど日本では戦国時代にあたるわけで、「あ〜、今年のクリスマスのトレンドは戦国時代なんだよなぁ」、と勝手に話を結び付けています。
自分が子どもの頃のクリスマスというと、ペラペラのクリスマスツリーにモールと豆電球を巻き付け、バタークリームのケーキと鶏のもも焼き、サイダーにカラメルで着色した飲み物が、下手すると3日3晩、この残り物がご飯のかわりという日が続いたりしました。まあ、高度成長時代ならではの、豊かと言えば豊かな時代の話なのかもしれませんが、神に祈るどころか、キリストが何者かもわからずクリスマスを迎えていました。
その頃、父親は父親で、ボーナスは飲み屋のツケの支払でなくなっていて、「俺は自分を育ててくれた町にお返しをしているのだ」とかなんとか都合のいいことを言っていましたが、クリスマスには、どこかの飲み屋でもらってきた銀色の三角帽子とクラッカーを手土産に、天井にぶら下げるモールをカバンに巻き付けて深夜のご帰宅という状態で、これも豊かと言えば豊かな時代の話だったかもしれません。
〇 知識をアップデートする話
クリスマスについては、12月25日はキリストの誕生日でないだの、クリスマスイブは前夜祭ではないだのと、誤った常識にダメだしをしたところですが、昭和の時代に習った歴史知識もアップデートが必要です。
ここ数年、話題になったものとしては、「いい国つくろう」鎌倉幕府は1185年、聖徳太子は「厩戸王」、国宝「伝源頼朝像」は源頼朝の肖像ではない、そしていま一番ホットなのが「仁徳天皇陵」ですが宮内庁が管理しているため謎が多いとのこと。
そして最近知ったのが「士農工商」という言葉が教科書から消えたこと。かつて、「農民は神聖な米を作っており、金にまみれた商人より身分が上だ」とか、「裕福な商人を農民がうらやむことがないようにした」とか、そんなことを教わったような記憶があるのですが、このような身分を発令した歴史的事実はそもそもないことが、近年の研究で明らかとなったそうです。近世の身分職業は単純に「士農工商」で表してはいないこと、「武士」と「それ以外」との上下関係しかなく、「士-農-工-商」のような序列はないこと、というのが理由です。「士農工商」の由来そのものが、あらゆる職業の民を表現している古代中国からの言葉とのことです。
戦国時代は、足軽などは武装した農民であった者も多く、武士と百姓との違いは曖昧でしたが、太閤検地や刀狩によって武士と百姓が分離され、固定化されていったそうです。また、町に居住する者を町民、農村に居住するものを百姓とし、百姓という言葉は農業に限らず様々な職業として使っています。なお、1842年9月の御触書に「百姓の余技として、町人の商売を始めてはならない」とあり、これは農業の衰退に繋がる事を危惧した江戸幕府の対応策とのことです。百姓・町人間の移動もなくなっていきます。
さて、教科書と歴史の話ですが、キリストも釈迦も実在したらしいですが、「キリストは、処女マリアに天使ガブリエルが降り、マリアが聖霊によってキリストを妊娠したことを告げ、またマリアがそれを受け入れて生まれた。」とか、「お釈迦様は、母親である摩耶夫人がルンビニーの花園で休んでいたときに、脇の下から生まれた。そのときに9匹の竜が天から清浄の水を注ぎ、生まれ落ちたお釈迦様はすぐに7歩歩き、右手で空を、左手で大地を指して「天上天下唯我独尊」と言った。」とかいう話もついてくるわけで、さすがに教科書では伝説との説明がなされるのでしょうが、何をどう信じたらいいものか。まあ、多少の方は「神も仏もない」という目にあっているとは思うのですが。
〇 いつものことわざ
さて最後に、いつものようにことわざを。「仏ほっとけ、神構うな」という、ことわざというより駄洒落のような言い回しがあります。「ほとけほっとけ、かみかまうな」と3回くらい唱えれば何かありがたみがでてくるような。このことわざは、信心も信仰も度が過ぎないほうがいい、ということを教えています。
殉教の話とかパレスチナ問題とかを前にして、こう言うのもなんですが、サスティナブルな世の中のためには、クリスマスを祝い、除夜の鐘を鳴らし、神社に詣でる、といったぐらいの寛容さがよろしいのかと。なにを隠そう私も、山形の神社とパリの教会で結婚式を挙げており、ゆくゆくは最上家ゆかりの寺に葬られるのかと。寛容なのか、節操がないのか、まあ、根っからの「転び○○〇」であります。
とにかく宗教経験には乏しいのですが、小学校高学年の頃、日曜日にただただ家にいてもろくでもないということで、しばらくプロテスタント系教会の日曜学校に行っていたことがありました。牧師さんは本当にいい方だったのですが、当然、賛美歌などはろくに歌えず、まして三位一体とはどういうことなのか、なんかうっすらと鳩と光の図像が浮かぶのですが、これ以上はいまだに謎のままです。
ちなみに「一向一揆」とか「島原の乱」とか、宗教が原因のように扱われていますが、もとはと言えばどちらも年貢に対する不満であり、その理不尽さへの思いが宗教に集結したとも言えるわけです。どこぞの国でも、理不尽な税制が蔓延りつつありますが、このままでは一波乱に及ぶかも。歴史はくり返すそうです。
まずは、世界人類が平和でありますように。
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【紅〜くれない日記】 64 あっという間に・・・
「もう三ヶ月間あいてるよ・・・」との激励(お叱り?)の言葉をうけ、
日記の更新再開いたします!!
サボっている隙に歴史館は雪におおわれました。
雪景色の山形城をおさえるべく、いざ城へ!!
これぞ雪国の城の醍醐味です☆
堀にのびる桜の木々も風流ですね〜。
義光様も雪まみれ・・・。
殿、一冬耐え忍んでください。
そんな山形城東大手門に避難中の住人その一。
そのニ。
はじまったばかりの冬ですが、はやくも春が待ち遠しいです♪
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館長裏日記 令和5年12月10日付け
■ 温泉の良し悪しのお話
温泉の良し悪しは、まずは「源泉かけ流し」かということで。それなりの湯量があり、循環させない、加水しないのが大事とされます。自噴であればなおよし、温泉が空気に触れることなく湯舟の底からこんこんとお湯がわきでてくるのが最上(さいじょう)とのこと。蔵王温泉にもそれにあてはまる貴重なお風呂はあるのですが、熱いし強酸性なのでなかなかにきついお湯です。個人的には、かつて白濁した温泉成分の強い温泉が好きでしたが、今は弱アルカリ性の透明な湯が好きです。白布温泉「西屋」のお湯は加水ですが弱アルカリ性で、湯舟の大きさからすればすごい湯量で頭の上からじゃばじゃばと降り注いできます。
一方、温泉街については、勝手にその良し悪しの基準をもっています。まず、「豆腐屋」がある温泉街は間違ありません。豆腐屋があるということは、豆腐屋がなりたつような経済地域であり、温泉客が行き来する温泉街だということです。これが大手資本の温泉施設ばかりが立ち並ぶ場所だと、客を囲い込み過ぎて豆腐屋もありません。山形県内では、「銀山温泉」の豆腐屋では冷ややっこがテイクアウトでき川沿いの足湯で食べることができます。「小野川温泉の豆腐屋は、様々な豆腐や関係商品が並び、とりわけ豆乳ソフトクリームが人気です。
圧巻なのが城崎温泉。豆腐屋も当然あるのですが、その隣には時計屋があります。温泉街で時計屋が成り立つのです。普通は、日用食料品店とか土産物店くらいしかないものですが、温泉街としての格が違いすぎます。ちなみに、城崎にある6つの外湯がまた立派で、全てを回れる一日券もあり、ネットでリアルタイムで混み具合がわかり、一番風呂に入れば記念手形がもらえます。
そして「温泉神社」があるかどうか。温泉神社でパワースポット的な価値が付加されますし、温泉の神様を祀る温泉街にはそれなりの物語があります。あと、個人的な指標としている「遊技場」つまり射的・スマートボールのお店があるかどうかです。これが令和の時代にも生きている温泉街はかなり地力のある温泉街です。また、文豪が逗留して名作を残した温泉、例えば「城崎にて」などはそのままですが、名作とされている小説の舞台になった温泉地なり文人が逗留した温泉宿はやはりそれだけのことはあります。
さらに昔は、賑わった温泉街には大人の劇場というのもありました。山形市に隣接する天童温泉や上山市の葉山温泉にもあったのですが、昭和の終わり頃にはだいぶ衰退していて、踊り子さんも高齢化し、むしろ服を着てほしいくらいと言っていた人がいましたが、それが外国人に代わり、ついに劇場は廃止になる、なんか衰退産業の構図そのものです。
さて、いつものことわざシリーズを。「命の洗濯」という言い方があります。温泉はまさしくそういう場所です。アニメ「エヴァンゲリオン」では、「風呂は命の洗濯よ」というセリフあったとか。ちなみに江戸時代は、吉原あたりで「命の洗濯」をしていたそうです。
■ 冬の露天風呂のお話
年末年始の蔵王温泉は、ほぼ間違いなく雪見風呂となります。名物の大露天風呂は残念ながら冬期間休業中ですが、宿によっては露天風呂に入れます。ただこの雪の露天風呂、確かに風情はありますが、脱衣所から素足で雪を踏みしめて湯舟まで行き、そのお湯がまた熱すぎたりぬるすぎたりして、吹雪のときは目もあけていられなくなる、それは雪すら見たことのない外国の方からすれば貴重な体験かもしれませんが、雪国の人からすれば罰ゲームのようなものであります。なお、酔った勢いのまま露天風呂に行き、雪上に裸でダイブするのは、気持ちだけにしておきましょう。
■ 年末年始イベントのお話
年末年始の体験と言えば、千葉にある「夢と魔法の王国」の年越しカウントダウンに出かけたことがあります。午前2時ぐらいともなると、いくら関東とは言え海沿いの屋外は寒く、アトラクションの行列に並ぶ気力も失せて、「明日の土地」にあるハンバーガーレストランでは、寒さと疲労をしのぐカスタマーがびっしりと床に横たわり、大災害時の避難所といった様相でした。こういう場合、防寒ブランケット(シュラフなんかもいいかも)は必携です。ただ、それを背負いながらのアトラクション巡りもなかなか難儀なことかと。
■ 年末年始の思い出 その1
昭和の時代の話で恐縮ですが、自分の両親などは年末ぎりぎりまで仕事していて、父親などは自宅に職場の仲間を呼んで「年越し麻雀」なんかをやっていて、元旦は届いた年賀状をもとに年賀状を書き始め、翌日に同じ市内の実家に顔出しに行く程度だったので、年末年始を旅館で過ごすどころか、年末年始は旅館も休みだろうぐらいの認識しかありませんでした。私もせいぜい「ゆく年くる年」が終わる頃から、夜通し市内の神社をハシゴして、あちこちで引くおみくじに一喜一憂するぐらいです。(おみくじのハシゴは本当はいけないそうですが)。
この「ゆく年くる年」ですが、若い時は、除夜の鐘がただただ続くだけの地味な番組だなぁと思っていましたが、年を重ねるにつれ、全国の有名な寺社の様子を生中継で観られることのありがたさがわかるようになってきました。ちなみにこの生中継される寺社や鐘の打ち手というのは、寺社業界では「紅白」出場に匹敵するようなことらしいです。
■ 年末年始の思い出 その2
後にようやく、年末年始に旅館に行く機会がありました。きっかけは旬の蟹を食べたいというものでしたが、目的とする北陸の某所は山形から遠いため家人の都合で正月休みぐらいにしか行けず、すると、ただでさえ高級食材のところに正月料金となり、慎重の上に慎重に検討を重ねたのですが、一度ぐらい贅沢してもということで、元旦に山形を発ちました。
大宮経由で新幹線を乗り継ぎ、その日のうちに到着はしたものの、冬の日本海は案の定、みぞれ交じりの荒波で、海沿いにある旅館には波飛沫がかかり、部屋に籠り蟹だけを待つような状況でしたが、出てきた蟹は本当にすばらしいものでした。旅館内に蟹の生け簀があり、海が荒れて漁がなくても間に合う量を保管し、そこで落ち着かせて出すそうです。
部屋にはまず、蟹がまるごと運ばれ、それを持ち上げガバっと広げるとまあ、大きいのなんの。ブランド蟹を示すタグの説明もなされ、ありがたみが増したところで調理場に回され、生、焼、茹、と出てきました。これを正月料理とともに食べている間は、贅沢とはこういうことか、いつかまたもう一度、とは思いましたが、山形に帰った後しばらくは、そのコスパについて悩んでいました。グダグダですみません。
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