最上義光歴史館

最上義光歴史館
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《2021年6月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和3年6月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (6/1 〜 6/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・959名
回答者数・・・・・・・・・・・・・40人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・3%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・3%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・15%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・3%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・5%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・40%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・23%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・10%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・70%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・23%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・8%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・55%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・5%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・50%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・45%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・3%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ魁�

〜利用者の声〜

東京都 男性/20代
謀将としての面を知りたかった。色々と見れたことは満足。有能な部下も知れてよかった。記念品とか買いたかった(キーホルダーとか)。

山形市 女性/8歳
こまひめのことを、もう少し知りたいです。クイズが楽しかったです。

男性/30代
ただ情報をならべるのではなく、興味をもたせる仕掛けがあってよかったです。

宮城県仙台市 女性
無料とはありがたいです。本丸を復元されたら、さらに展示を増やしてもいいですね。東北の武将、特に政宗とのエピソードを増やしていただくと、東北人は皆うれしいと思います。

山形市 男性/30代
特にないです。

山形市 男性/10代
学校の社会科見学で最上義光歴史館を知りました。

山形市 男性/8歳
楽しかった。

山形県・河北町 男性/50代
大変参考になりました。記念にグッズ類を多く販売していただけるとよいと思います。最上義光の像のレプリカ等。"

大阪府摂津市 男性/40代
大変勉強になりました。義光最高!

山梨県上野原市 男性/50代
関ヶ原の際の長谷堂の戦いに興味があったので色々資料があり面白かったです。

山形市 男性/50代
最上義光と最上家について、もう少し深く掘り下げてほしい。山形大学との連携を深めてほしい。収蔵品等、もの足りなさを感じる。共同で研究し、歴史館の維持やガイドボランティアなど学生から募り、より充実した展示を期待したい。

東京都台東区 男性/40代
山形の誇る偉大な人物であることが、とても良くわかりました。

宮城県仙台市 男性/50代
資料映像があれば、より有難いと思います。

埼玉県桶川市 男性/30代
ケース内展示の説明書きが遠く、字が読めない方もいると思います。

宮城県仙台市 女性/30代
子供達に詳しく教えて下さり、ありがとうございました。

宮城県仙台市 男性/10代
最上義光、義光との関連人物のグッズを売ってほしい。

山形県・中山町 女性/20代
また来年も刀の展示があると嬉しいです。山形の刀の展示の中で、一番刀を見やすく展示していただいているので毎年きています。

宮城県加美町 男性/50代
加美町(旧中新田町)との縁を初めて知り、大変よかったです。

新潟県新潟市 男性/30代
最上義光を大河ドラマにしたい。

神奈川県川崎市 男性/10代
ボランティアの方に詳しく解説していただいて、よく分かりました。よかったです。

山形県寒河江市 女性/30 代
このような展示を気軽に見られることは、とても貴重なことだと感じました。館内もきれいで、スタッフの方も親切でした。"

東京都葛飾区 男性/30 代
グッズを売ってたら良かったです。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。




■「おくの細道」出羽三山の話
 以下、「おくの細道」の月山の鍛冶小屋の記述部分です。山形県には旧暦5月17日(新暦7月3日)に尾花沢に入り、6月27日(新暦8月12日)に温海を出ます。なので、文頭の「八日」は6月8日(新暦7月24日)のことです。また文中に「彼竜泉に剣を淬(にら)ぐとかや。干将・莫耶の昔をしたふ。」とありますがこれは、「かの中国の龍泉では(その霊水で)剣を鍛えた。(刀工夫婦の)干将・莫耶の苦労をしのぶ」というものです。
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 八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。
 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して剣を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に剣を淬とかや。干将・莫耶の昔をしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。
 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。
 行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。

涼しさや ほの三か月の 羽黒山
雲の峰 いくつ崩れて 月の山
語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな
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 芭蕉は出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山) の三山を巡礼した後、その順に句を書き留めています。それら句の芭蕉の真筆の短冊は山形美術館に所蔵されていますが、山寺芭蕉記念館ではその複製を展示しています。
 羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)とされ、出羽三山への参拝は、江戸時代に現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」として広がりました。
 この三山を合祀する出羽三山神社の御朱印は、見開き2頁にいただく迫力あるもので、神社まで2,446段の石段を上るだけのありがたみがあります。とは言うものの、実は神社まで直接、路線バスで行けます。逆に神社からスタートして石段を下ることもできますが、体力的には楽でも、膝にきます。

■湯殿山の話
 この芭蕉の詠んだ出羽三山の句に続き、弟子の曾良も並べてられています。
「湯殿山 銭ふむ道の 泪かな」〜湯殿山の山道には、賽銭がいっぱい落ちていて、それを踏んで参拝することに涙が流れるほど感銘を受けた〜というもので、湯殿山では、地に落ちたものは拾うことを法で禁じていることによるものです。
 また、中腹にある湯殿山神社は「語るなかれ」「聞くなかれ」といわれ、今も本宮は撮影禁止です。「おくの細道」にも「惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。」とあります。しかしながら、今やもうネット上には、御神体の写真までアップされています。
 湯殿山という名のとおり、お湯があふれ出る山が御神体で、参拝場内はそのあふれるお湯の「源泉かけ流し」状態で、夏はお湯が熱いくらいのところを、御神体まで裸足で歩きです。参拝場の出口には立派な足湯施設があるのですが、温泉マニアの方には、手前の大鳥居近くにある湯殿山参籠所の「御神湯」というものが知られています。6畳ほどの部屋に青森ヒバの浴槽があり、正面の壁に神棚があります。天照大神の妹神と言われる丹生都日女神(にぶつひめのかみ) が祀られ、神棚に手を合わせ一礼してから入湯します。
 余談ですが、お湯の神様と言えば、月山の登拝道に「今神(いまがみ)温泉」という湯治場があります。1000年以上前から難病で苦しむ人々が湯治のため長期間滞在した温泉ですが、現在は休業中です。山形県戸沢村の山奥の秘湯で、生活道から4キロほど山道を進んだ場所にあり、6月から9月末までの営業に合わせて仮設の橋を架け、かつては片道3時間近くかけて歩いてきたそうです。それでも効能、いや効験あらたかで、訪れる人の後が断たなかったようです。
 浴場には祭壇が備えられており、混浴で各自が白装束をまとい、念仏を唱え祝詞をあげながら入浴します。浴室の壁面にはびっしりと祈願の書付が懸垂してあり、ビジュアルだけでも圧倒されます。ぬる湯で、1回の入浴は3時間ほど、最初は1日5時間ほど入浴。3度の食事や休憩をはさみながら入浴し、だんだんと8〜10時間も湯につかり、合わせて150時間ほどになるまで滞在するとのことで、日帰り入浴はおろか1週間でもお断りしたそうです。飲泉の効果もあり、特に胃腸病や皮膚病、リウマチなどに効くとされました。このまま「伝説の湯」とならないことを祈るばかりです。

■アブラゼミの話
 「蝉の声論争」、つまり、アブラゼミとする歌人斎藤茂吉とニイニイゼミとするドイツ文学者小宮豊隆との論争については、芭蕉が訪れた時期はアブラゼミでは早い、という理由でニイニイゼミに軍配があげられたようです。しかしながら学芸員Aさんは、この時期ヒグラシの声も聞こえた年があるとして、アブラゼミの可能性はあると指摘しています。一般的に蝉の鳴き始める順は、ニイニイゼミ→アブラゼミ→ミンミンゼミ→ヒグラシ→クマゼミ→ツクツクボウシ→エゾゼミらしいです。
 蝉の声論争にあえて参戦するなら、「岩にしみ入る」のは個人的に、ビジュアル的には透明な羽をもつミンミンゼミ、サウンド的にはカナカナゼミことヒグラシであればいいなとは思っています。しかしながら、山形の皮膚感覚ではアブラゼミで、とにかく身近な蝉はアブラゼミで、茂吉の感性は地元ならではとも思います。
 ところで、ミンミンとかツクツクボウシとか、他の蝉は音声(羽音)なのに、なぜこれは「アブラ」なのか。もしかしてそれを食べたら、なんか油ぽかったからなのでしょうか。なんとあの「クック・パッ〇」でも蝉料理が紹介されてはいるのですが、これがまたすごい料理バリエーションとなっています。
 実はその鳴き声が、油を熱した時の「ジリジリ」という音に似ていることでアブラゼミと名づけられたとのこと。ならば「ジリジリゼミ」でもよかったのではと。でもジリジリゼミでないのはきっと、この蝉が鳴く時期の油を熱したような暑さと、このアブラゼミが重なってしまったのでしょう。ちなみに山形の夏は意外に暑く、暑すぎると蝉は鳴き止み、木から落ちることもあります。
もっとも、山寺はそれなりに涼しくもあり、よろしければこの夏、蝉の声を聴きに出かけられてみてはいかがでしょうか。山形駅から山寺駅まで、電車で20分程度です。山寺芭蕉記念館の「妖怪」展もあわせていかがでしょうか。もしかしたら、学芸員Aさんとも遭遇できるかもしれません。

■ことわざ・名言の話
 学芸員Aさんは、「月山刀」でも「キヨシロー」でも、どうも「食わず嫌い」というか、「馬を水辺につれていけても、水を飲ませることはできない」という感じというか。結構なペースで居酒屋などに出没するのに、日本酒は「山形政宗」という天童の酒しか飲まず、鶏肉以外の獣肉は食べないという、どこの宗教にもないようなルールで身を律しています。まあ、お互い還暦を過ぎているため無理強いはしないのですが、たまには「清濁併せ呑む」ようなことも期待したいわけで。
 さて、「好きこそものの上手なれ」と言うことわざがあります。いまや山寺芭蕉記念館の看板企画となっている妖怪展などは、まさしくこれで成し遂げられたのですが、歴史でも文学でも刀剣でも妖怪でも、好きな人にはかないません。好きなことには熱心になり、自然に工夫し勉強するようになるので、上達も非常に早くなるわけで、これがさらに論語では、「子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者」(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)とあります。「好き」の上には「楽しい」がくるんですね。やはり大谷さんとか藤井さんとか、そんな感じがします。確か、昨年の夏の高校野球大会で優勝した某高校野球部の合言葉も「Enjoy Baseball」でした。


■一遍伝説の話
 一遍上人の有名な言葉に「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え」というものがあります。弘安5年(1282年)3月、一遍と時衆の一行は鎌倉に入ろうとしたのですが武士団に制止され、「鎌倉の外ならおとがめはない」と言われ、やってきたのが片瀬の地蔵堂です。武士、庶民、高僧らが続々と片瀬に集まり、多くの人々が歌い踊ったとき、周囲に紫の雲がたなびき、天から花が舞い落ちてきました。一人が不思議に思い一遍上人に尋ねたところ、「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍知らず」と応えます。花も紫雲も自分が何かしたものではないと。続けて「花がいろ月がひかりとながむれば こころはものをおもわざりけり」と詠んだそうです。ただただ、目の前の事象を受け止めればよいと。
 地蔵堂には4カ月も滞在し、踊り念仏をしています。この時一遍は44歳。「南無阿弥陀佛」と踊りまくったのです。一遍は平安時代の高僧「空也上人」に倣い、人々が集まる場所に簡易の舞台を設け、同行者とともに輪になって歌い踊りました。踊念仏に参加すれば極楽往生できると説いたため、周囲の人々が大挙して熱狂的に踊り、舞台の床板が抜けたという記録もあるといいます。
 弘安7年(1284)に京都に入ります。「紙本著色遊行上人絵」巻第三には、四条大橋を渡り念仏札を配り、市場京極の釈迦堂に入り説法をする場面が描かれています。一遍の行くところでは必ず「御賦算」、つまりお札くばりをしました。お札には「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷り込まれ、一枚ずつ手ずから配ったそうです。60万人にお札を配ることを願ったものですが、25万1千余人配られました。
 京都では「勢至菩薩」の生まれ変わりと噂され、藤原基長は夢に一遍が現れたことを喜び手紙を送ります。しかし一遍は、「それで仏を信じる心が生まれれば良いことだ」と言っただけでした。踊りは熱いのに、応対はクールです。
 正応2年(1289)8月に兵庫観音堂で遊行を終えます。死を覚悟した一遍は、「我が化導は一期ばかり(私が指導を行うのは私が生きている間だけ)」と言い、持っていた少しの経を書写山圓教寺の僧に送った以外は焼き捨て、亡くなりました。最後に「我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」と言い残したそうです。終活の手本のようでもあります。

■狩野派について
 狩野派とは、室町から江戸にかけて続いた流派です。血縁関係でつながった絵師の集団で、幕府の仕事を担ってきました。足利将軍家の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その嫡男・狩野元信、元信の孫・狩野永徳、さらにその孫の狩野探幽らが有名です。特に桃山から江戸初期の時代に建築ブームが始まると、集団による分業制によって障壁画など大きな作品を手掛けました。襖障子や屏風など大きく貴重なものも多く、博物館スタッフの間では、狩野派ものの展示となると「ここに狩野は、可能かのぅ」といった駄洒落が飛び交うらしいです。
 狩野永徳は、織田信長、豊臣秀吉といった権力者の画用を務め、安土城や大坂城の障壁画を多く描きましたが、これらは建物とともに消滅しています。現存するものとしては、国宝「唐獅子図屏風」(宮内庁) 、国宝「檜図屏風」(東京国立博物館)、国宝「洛中洛外図屏風」(上杉博物館)などがあります。信長や秀吉の生前には、他の戦国武将が狩野永徳やその後継者・長男の光信に製作を依頼することができなかったため、最上義光は永徳の弟である狩野宗秀に「紙本著色遊行上人絵」の模写を依頼したと思われます。
 狩野宗秀の現存する作品は少なく、国宝もありませんが、教科書やテレビでおなじみのあの「織田信長像」(重要文化財、長興寺)があります。また、「柳図屏風」(相国寺)という六曲一隻の屏風があります。これが兄・永徳の堂々とした四曲一双の「檜図屏風」とあまりにも対照的で、柳の枝は風に流される一方、その幹は風上に向かっていくような、まるでディズニーアニメにでてきそうな感じの、そして琳派をも思わせるようなシンプルな絵柄です。織田信長像もそうですが、宗秀の絵図はなんか動かしてみたくなる、そんな作風です。
 
■源五郎の話
 源五郎とは、最上義光の孫で第三代山形藩主である「最上家信」こと「最上源五郎義俊」のことです。
 元和3年(1617)3月6日、初代山形藩主の最上義光の跡を継いだ最上家親が急逝(享年35歳)しました。義光没後わずか3年、このとき源五郎は12歳でした。その2日後の3月8日、山形城下が大火に見舞われました。光明寺の記録には「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」とあります。重なる凶事に最上領内は不安に覆われ、12歳の源五郎でよいかどうか、幕府内部でも検討されましたが、家督相続は源五郎がすることを5月3日に承認しました。源五郎が、父が家康からもらい引き継いだ「家」字による「家信」を名乗るようになったのはこの頃です。
 家信は程なく江戸に出て、江戸城和田倉門付近の最上邸に滞在したようです。広島藩主福島正則の改易において、福島邸を接収するなど成果をあげる一方、元和6年9月12日の「徳川実記」には、「十二日、最上源五郎義俊(=家信)は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」とあります。
 このような主君ということで家臣は離反しはじめます。重臣たちは相互に不信感をつのらせ仲間割れします。家来の多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主とし最上家を継がせようとしました。
 ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しませんでした。のみならず、彼は家親の死について「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出ました。家親が鷹狩りの帰途の宴席でにわかに病を発し絶命したことについて、「山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」と。しかし、幕府が取り調べをしたところ、松根の言い分には根拠がないことが判明。
 義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年(1622)8月18日、ついに断を下しました。「最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。」
 こうして義光が築き上げた藩体制は崩壊しました。これほど大きな大名が改易処分となった例はほかになく、全国諸大名にとって衝撃的な事件でした。しかも最上家は、徳川家康、秀忠の二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずです。
 この年、家信は17歳。江戸の最上邸は返還させられ、元和9年8月以後「家信」の名も返し、「源五郎義俊」が呼び名となります。その栄枯盛衰について詳しくは、当館ホームページ「源五郎」で検索を。


■カリヨンの選曲の話
 当地にあるカリヨンは昭和62年 (1987年)に設置されたもので、演奏はコンピュータ制御(今となってはレトロな語句ですが)によるものです。
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 鳴動時間 ��10時 ��12時 ��13時 ��15時 ��18時
〈春季〉3月1日〜5月31日
�.蹈競爛鵐粘崛婉�(シューベルト)、�⊇佞�来た(岡野貞一)、��春(ビバルディ)、
�ぅ團▲離愁淵紳�11番(モーツアルト)、�チ畚嬋�(中田章)
〈夏季〉6月1日〜8月31日
�〔遒个�(シューベルト)、��茶摘み(文部省唱歌)、�2討詫茲�(小山作之助)、
�じ魘繕並�6番(ベートーベン)、�ド誉蘢�(弘田龍太郎)
〈秋季〉9月1日〜11月30日
�,佞襪気�(岡野貞一)、��展覧会の絵(ムソグルスキー)、
��小さい秋見つけた(中田喜直)、�のい僚�(貝沼実)、�ネ湿討云�焼け(草川信)
〈冬季〉12月1日〜2月末日
�.哀蝓璽鵝Ε好蝓璽屮�(イギリス民謡)、��楽興の時(シューベルト)、
��主よ人の望みの喜びよ(バッハ)、�せ匱蕷�(シューベルト)、�ヅ澆寮浦�(ヘイズ)
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 「展覧会の絵」からは第5曲「卵の殻をつけたひよこの踊り」とか、「四季」からは夏の第3楽章とか、ちょっとしたひねりがあってもよさそうなものですが、カリヨンでこれをやられると、やはり忙しいというかうるさくってたまらないわけで、節度というかその辺もあっての選曲なのでしょう。

■ホロヴィッツの話
 ベートーヴェンのピアノソナタは32番までありますが、そのピアノソナタ全集のCDがいつの間にか手元にも何セットか溜まっていて、全てを丁寧に聴いているわけでもないのですが、仲道さんの他、ゼルキンさんとかポリーニさん、グルダさん、ブレンデルさん、最近はイゴール・レヴィットさんという人のものを入手しました。今は安価で入手できる全集も多く、中古品などは3千円程度で買えるものもあります。
 この全曲演奏ということについては、かつてあのホロヴィッツさんが来日したときに、インタビューで次のように答えていました。(以下、「音楽の友 1986年8月号」〜ひとりの作曲家のピアノソナタ全集をレコーディングしない理由〜を引用)
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〇インタビュアー:さまざまなピアニストが、たとえばベートーヴェンのピアノソナタ全集とか、モーツァルトのピアノソナタ全集といったかたちでレコーディングしますが、ホロヴィッツさんには、そのような、いわゆる「全集」がありません。これといったお考えがあってのことでしょうか?
●ホロヴィッツ:そのような「全集」を録音することに対しては、とても反対です。というのは、いかに素晴らしい作曲家が作曲したとはいえ、なかにはそれほどよくない作品もあるからです。わたしは、やはり、いい作品だけを弾きたいと思います。わたしの家内の父(ホロヴィッツ夫人は、往年の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニのお嬢さんである)の名文句ですが、いくら天才といったって、24 時間、ずっと天才でいられるというわけではない、という言葉があります。ベートーヴェンを例にとっておはなしすれば、初期のソナタは気にいっています。しかし、晩年の、耳が聞こえなくなってからのベートーヴェンのソナタは、それほど気にいっていません。それに、こういうこともいえます。ベートー ヴェンは、32 曲のソナタを作曲するのに、ほぼ 30 年もかけました。ベートーヴェンが 30 年もかけて作曲したものを、ピアニストが、わずか 2 週間ほどで録音してしまうというのは、もともと無理だと思いますね(笑)。
〇インタビュアー:おっしゃることはとてもよくわかるのですが、ききての側から申しますと、いろいろな作品をホロヴィッツさんの演奏できいてみたい、という気持があります。
●ホロヴィッツ: それにしても、ベートーヴェンのソナタの 32 曲すべて、というのは無理ですね。ただ、モーツァルトのソナタは、どれも好きですから、「全集」の録音も考えられなくはありませんが、そんなことは 必要ないとも思います。ある、モーツァルトをとても得意にしている、したがってモーツァルトのソナタの「全集」を録音しているピアニストの演奏を、ある時、コンサートで聴きました。素晴らしい演奏だったので、後で、その人の「全集」のレコードを聴いてみました。そうしたら、なかには、これはと思うような演奏もありました。だからといって、そのピアニストがいいとか悪いとかいうことではなくて、やはり全部をひとりでこなすことに無理があったんです。
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 ということで、それはそのとおりとも思いますが、リスナーとしては、曲の良し悪しや演奏のアタリハズレを云々するという楽しみ方もあるので。また、後期のソナタ、特に30番から32番というのは人気があり、先日亡くなったポリーニさんの2012年来日時の最終日プログラムがこの3曲でした。この来日ではなんと第21番から32番までを日替わりで4回にわけ演奏しました。しかしながら、全曲録音には39年の歳月を費やしています。
 仲道郁代さんの場合、ソナタ全集のCDがベートーヴェン生誕250年記念特別企画として出されています。また、2027年が仲道さんの演奏活動40周年とベートーヴェンの没後200年とが重なる年ということで、2018年から全20回シリーズでリサイタルに挑んでいるそうです。なんかポリーニさんより戦略的です。
個人的にはグールドさんが弾いた第30番がとても好きです。ショパンのピアノソナタのような感じで、曲自体もショパンのソナタ第2番「葬送」の最終楽章よりはずっとショパンぽいです。それにしてもその楽章はなんともつかみどころがなく、ショパン自身は「行進曲のあと左手が右手とユニゾンでおしゃべりをするのだ。」と書き残しているそうですが、サティやケージがやりそうなことをすでにショパンがやってた感じです。

■神童の話
 ベートーヴェンの話のついでにモーツァルトの話も少々。
 有名人には何かしらの呼称がつけられることがあります。ベートーヴェンは「楽聖」、バッハは「音楽の父」、ヘンデルは「音楽の母」。ということで、父がいて母もいるということは、タロウもいることになりますが、音楽のタロウというと、タキレンタロウかピコタロウぐらいしか思い浮かばず、かわりに「神童」というのがおりまして。そうです、モーツァルトです。ということで、彼が神童といわれる逸話をひとつ。
 ローマのシスティーナ礼拝堂の「暗闇の朝課」という特別な礼拝では、アレグリ作曲の「ミゼレーレ」という曲が用いられます。この作品は、霊性を保つ目的で採譜を禁じられ、この特別な礼拝でのみ演奏されることを許されていました。システィーナ礼拝堂以外の場所で記譜または演奏する行為は、破門によって処罰されました。
 モーツァルトは幼い時から音楽の才能があり、父はそれをもって欧州各国をまわり商売にしていました。当時14歳であった彼がローマを訪れていた際、この楽曲を水曜礼拝で初めて耳にしました。その記憶を頼りに採譜し、金曜日に再び礼拝堂へ赴き曲を聞いて修正し、完コピしたそうです。9声で構成され、4声と5声の二重合唱の曲ですが、9声部を聞き分け譜面におこすという、やはり「神童」です。
 アレグリ作曲の「ミゼレーレ」は大変美しい曲で、今は門外不出でもなく、まして、モーツァルトのような神童による採譜も必要なく、ネットでお手軽に聴くことができます。

■山寺の焼き打ちの新説の話
 ここで突然ですが、前回、鬼門特集の日誌をアップした翌日に、当館ボランティアの方から、山寺が焼き討ちに合い不滅の法灯が消滅したのは大永元年(1521)ではなく大永4年(1524)であると、最近の郷土史研修会で聴いた、という話がありました。
 世間一般には大永元年(1521)であると知られていて、先出の当館「歴史館だより��10」に寄稿いただいた伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)の論説にも、天童市成生地区地域づくり委員会の天童頼直公の資料にも「1521年 天童頼長、成生十郎伊達郡に協力した山寺立石寺を攻め一山を焼き打ちする。」とあります。しかし先の研修会では、「干戈(かんか)」すなわち戦(いくさ)の記録があるのは大永4年(1524)であり、また伊達氏に加担したことが理由ではなく、周辺の領地争いによるもので、「大永の兵乱」と称するとの説明がなされたとのことです。
 ネット情報のコピペばかりで物を書いている私としては、一次資料として何を求めればいいのかなどわかるわけもないのですが、郷土史においても、というか、郷土史こそ年々新たな発見がなされるのだなぁと、畏敬の念をもって傍観するばかりです。 


■山寺と延暦寺の話
 伊達稙宗(伊達政宗の曽祖父)が永正17年(1520)に天童を攻めてきたときに、山寺の衆徒らが伊達方に加担したことを恨んで、大永元年(1521)天童頼長・成生十郎両氏が山寺に攻撃をして灰燼に帰してしまいます。この時不滅の法燈が焼失してしまったため、天文12年(1543)立石寺の一相坊圓海は、4月に比叡山に登拝し、6月に根本中堂の燈火を分火してもらい、海上を輸送した後に立石寺に納火しました。この燈火は天正13年(1585)、信長の焼き討ちにあって焼失した比叡山根本中堂の再建時に、今度は立石寺側が登拝し逆に分燈しました。ゆえに、山形から比叡山に詣でると丁重に扱われるそうですが、もしかしたら山寺の御朱印帳がプライオリティパスのようになるかもしれません。どんなプライオリティかはよくわかりませんが。ちなみに、山寺を麓から奥の院まで巡ると、実に12か所の御朱印を頂くことができます。
 焼き討ちにより山寺は「寺中家無一十余年、其間堂社破」の状況にありましたが、天文3年(1544)の立石寺日枝神社の修造などに、最上宗家だけでなく一族の総力を挙げて再興していきます。最上義光は慶長4年(1599)に、立石寺納経堂を修造しています。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられています。このように最上家が山寺を崇敬し、保護するという関係は、最上家が国替えされるまで続きました。

■鬼門の起源の話
 鬼門の起源は、古代中国の説話や歴史上の情勢など諸説あります。紀元前5世紀頃、古代中国では度重なる東北地方からの異民族による侵略や殺戮に苦しめられたため、異民族を「鬼」と呼び、それらが来る方向を「鬼門」と称したという説や、「東海の度索山という地に、大なる桃の三千里に渡って曲がりくねる樹があり、その低い枝が東北に向かうを鬼門という。」と「山海経」という博物書にあるとする説などです。
 ただし、この鬼門に関する記述は現存する「山海経」には含まれておらず、後漢の王允「論衝」訂鬼篇の中で引用した「山海経」にのみ存在しているとのこと。この「山海経」は、古代中国の戦国時代(紀元前403年)頃から前漢時代(紀元前206年〜8年)に徐々に加筆されて完成したもので、中国を取り巻く全方位の山河大海に住む人々や生物、その風俗や生態、そしてその地に伝わる神威や妖怪などを記録した博物書です。現在、平凡社ライブラリー(解説は水木しげる)のものが手軽に入手でき、とにかく妖怪などの図版がやたら面白い本です。

■一般住宅の鬼門対策の話
 一般住宅の家相では「三所に三備を設けず」と言われます。三所とは「鬼門、裏鬼門、宅心(家の中心部)」のことで、三備とは「玄関、台所、トイレ」のことです。つまり「鬼門・裏鬼門・宅心には、玄関・台所・トイレを設けてはいけない」ということです。
 あるネット情報によると、「鬼門・裏鬼門の方角は時間帯によっては気温が上がり、冷房のないトイレは不快な空間になるでしょう。 裏鬼門の方角に台所があると、日が差し込んで食べ物が傷みやすくなります。 また、冷え込みが厳しい冬場にはトイレ・浴室などは他の部屋との温度差が大きく、いわゆる「ヒートショック現象」が起きやすくなります。」とのことです。
 また、別のネット情報によると、「一般的に鬼門には正方形の部屋があるのが理想と言われています。この方角に門や玄関、窓がある場合は、東北・南西の方角からは日差しや冷たい風にさらされないよう注意しましょう。特に換気をするとき以外はすぐ閉めるのがベストです。窓には遮光カーテンがあると日差しや冷風対策になるでしょう。」ともあります。
 それでは鬼門・裏鬼門に玄関・台所・トイレがある場合はどうすればよいのかと言うと、これもネット情報によると、「神社の護符を貼る。お祓いをしてもらう。盛り塩をする。トゲのある植物を置く。掃除・整理整頓も効果的と言われている。」のだそうです。

■怪力乱神を語る話
 「務民乃義、敬鬼神而遠之」は「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」と読み下します。これは弟子からの「知とは何か」との問いに孔子が答えたものです。ここで「民の義」とは何かということも難題で、民の正義と読んだり、臣民と読んだり、実はいろんな意訳がありますが、まずは「暮らしを善くする」というものではないかと。ちなみに「敬してこれを遠ざく」は「敬遠」という言葉の語源になっています。「知」を問うて、「敬遠」という故事成語が生まれるという、かなり斜め上な問答でもあります。
 また、孔子は怪力乱神を語らなかったそうですが、これを商売にしている人もまた少なくありません。博物館業界もそうです。とりあえずは民俗学的な見地から取りあげるのですが、お客さんの大半は興味本位でやってきます。
 山形県の北東(鬼門?)に位置する某県は、怪談奇談を含めた民話の宝庫で、河童だけでも商売が成り立つほどです。その県内にある某市立博物館では、昨年「呪術」をテーマとする企画展を開催し、その図録資料はたちまち売り切れ、あまりの人気に増刷までしました。また、同県の某歴史文化館の収蔵資料図録の第一号は、河童の絵巻「水虎之図」だけをまるごと収録した立派な冊子です。とにかく集客力があるのです。なんともうらやましい。
 そして何を隠そう山寺にある某博物館でも、6月14日から「妖怪」展が開催されます。そもそもは修験道開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)から辿る綱渡り的な企画展示から始まったものですが、回を重ね今や年間最大の来館者が見込める企画展となっています。
 ちなみに、怪力乱神を語ると言えば稲川淳二さんですが、今年も元気に『怪談ナイト』で全国を巡るようです。予定では秋田、岩手、仙台(8月13日、怪談の日)、福島、新潟と山形県に近接するすべての県を訪れる予定ですが、なぜか山形だけが避けられています。山形も当然「怪力乱神を語らず」という孔子のような人ばかりではなく、むしろそれを飯のタネとしている人もそれなりにいるのですが。


近日公開!!
企画展「妖怪 −“もののけ"の表現、江戸時代から現代まで−」
6月14日〜8月29日 山寺芭蕉記念館





《2021年5月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和3年5月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (5/1 〜 5/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,270名
回答者数・・・・・・・・・・・・・48人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・2%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・2%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・9%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・9%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・52%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・20%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・7%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・67%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・15%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・17%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・70%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・22%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・7%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・2%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・60%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

岡山県岡山市 男性/40代
最上義光グッズ(指揮棒レプリカ、三十八間兜の置物、山形城ペーパークラフト、最上義光フィギュアなど)を歴史館で購入できればよかった。

茨城県水戸市 男性/50代
少し暗くて文字が…

山形市 男性
定期的なイベントが欲しい。

山形市 男性/7歳
たいへんいい歴史はくぶつかんでした。もう一回いってみたいです。

愛知県半田市 男性/30代
歴史好きには面白い場所でした。有料化して、規模の大きい資料館になる日を楽しみにしています。

愛知県豊田市 男性/40代
ありがとうございました。

栃木県宇都宮市 男性/30代
最上義光公の兜が観られること、スタンプがたくさん用意されていること、それでいて入館料が無料であること等、とても満足です。ぜひまた来たいと思います。

千葉県四街道市 男性/40代
最上に特化している。有料でいいので資料作ってほしい。山形ありがとう。

埼玉県久喜市 女性/20代
ガラス越しだと距離があって解説が見えづらかったので、展示の文字のサイズをもう少し大きくして欲しいです。この展示内容で無料というのはとても魅力的です。有料でもまた来たいと思います。展示内容も変化するとなお良いと思います。

山形県東根市 男性/30代
子どもと一緒だったので、ゆっくり見れませんでした。改めてまた来たいです。

山形県東根市 女性/9歳
楽しかった。

宮城県仙台市 男性/40代
以前は妻と、今回は子供を連れてくることができました。無料で楽しみました。ありがとうございます。

福島県郡山市 女性
ていねいに説明をしていただき、ありがとうございました。説明があるのとないのでは、違いますね。とてもわかりやすくて、良かったです。

福島県郡山市 男性/10代
あんないの人がいて最上義光のことがよくわかりました。

山形市 男性/40代
説明員の方の説明がわかりやすく、大変有意義な時間がすごせました。また訪ねたいです。

山形市 男性/10代
CGがよかった(城)。かぶとがかっこよかった。

山形市 男性/50代
CGがよかった。

栃木県栃木市 女性/20代
入口のところのCGの動画がとても良かったです。入場口が暗くて開館しているか分かりづらかったです。

山形県小国町 女性
高校生の頃よりおもしろかった。

山形県朝日町 女性/40代
子供が体験できるようになっていてよかった。先日、長谷堂城あとにも行ってきたので、内容がよりわかって良かった。

山形県朝日町 男性/9歳
よくしてくれて、また行きたいです。

山形県朝日町 女性/10代
最上義光のことを、たくさん知られる所があって勉強になりました。頭に入れておきました。常設展も企画展もとても良く分かりやすかったです。

愛知県江南市 男性/40代
戦国武将として名前は有名ですが、何をしたと言われると、なかなか答えられない所がありましたが、いろいろ学ぶことができました。新たな発見があると、また教えていただきたいです。

山形市 男性/60代
かりがねの旗が展示されていなかったのでとても残念。直江親衛隊から奪った「かりがねの旗」は、最上軍勝利の象徴。説明文と一緒にぜひ展示してほしい。

山形県寒河江市 男性/30代
楽しかったです。

山形市 女性/20代
あっきー&こまちゃん   好き。

山形市 女性/10代
おつかれ様です。

山形県上山市 男性/20代
鎧などの展示をもっとしてほしい、または、最上家の武具をもっと展示してほしい。お願いします。

山形市 男性/20代
生徒も10分という時間でしたので、休みの日などにもっとゆっくり見てみたいと言っていました。大変勉強になりました。ありがとうございました。

福島県会津若松市 男性
歴史に興味があれば楽しめます。有料でも問題ないと思います。

宮城県仙台市 男性/50代
長谷堂の戦いは模型、ジオラマを置いて頂くと立体的な攻防戦が理解し易くなると思います。

山形県東根市 男性/20代
展示品にクイズが添えられていて、楽しみながら当時の歴史的雰囲気に耽ることができた。あまり最上義光に詳しくないので、ツアーなどがあれば、より最上義光と最上家へ理解を深められたと思う。

山形市 男性/9歳
かぶとと刀をはじめてみたから、よかった。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。