最上義光歴史館
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最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
2021年9月 利用者アンケート集計結果
《2021年9月の利用者アンケート集計結果》
この集計結果は令和3年9月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。
常設展示 (9/1 〜 9/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,044名
回答者数・・・・・・・・・・・・・21人
1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・15%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・25%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・50%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・5%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・5%
2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・81%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・19%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・52%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・38%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・10%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%
(2)最上義光と最上家について??
�,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・55%
�△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
��わからなかった・・・・・・・・・・・・5%
�い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�
〜利用者の声〜
男性
無料は最高。もっと多くの資料を展示して欲しい。
山形県・西川町 男性/70代
斯波兼頼入部後、いつから最上氏を名のったかはっきりしない。説明があれば良い。義光の功績が今少しわかればよい。残念なのは3代目で改易されたこと。
山形市 女性/10代
刀が大好きなので、多く展示されていて大変楽しかったです。鬼切丸について、もっと情報があったらうれしかったです!
山形市 女性/10代
義姫などの資料も見たいと思いました。
奈良県奈良市 男性/20代
16時33分に入館させていただき、うれしかったです!ありがとうございました!
埼玉県坂戸市 女性/60代
山形に「最上義光」理由が判りました。熊本の加藤清正と同じですね!最上家はその後どうなったのかな?改易とありましたが、お家騒動ってどんな感じ?触れたくないかもしれないけれど。無料なのでありがたかったです。
鹿児島県鹿児島市 男性/10代
大変みごたえがあって楽しかったです!
千葉県・一宮町 男性/40代
県外より観光で来たため、地理が分かりにくいところがあった。伊達政宗との関係の変化など、詳しく取り上げてほしい。
千葉県船橋市 男性/40代
義光以外の最上家の資料展示ももっとあっても良いと思った。義光についての展示は、大変満足しました。
埼玉県所沢市 男性/40代
映像の解説をもっと充実させてほしい。
山形市 女性/40代
近所に住んでいて、義光公がどのような活躍をされたのかは知っていたが、身近に当時を知ることできる文書等見る事ができ、感動した。大人もクイズを通して楽しめる。子供と時間を共有でき、またぜひ伺いたいと思った。
山形市 男性/9歳
れきしをよくしれたり、最上よしあきについてよくしたのでよかった。まだ最上よしあきについて習ってないからわからない。
山形市 男性/50代
字をもう少しだけ大きくして頂けると大変助かります。
埼玉県大宮市 男性/70代
よくは知っていなかったが、展示を見て義光公のことが大分分かった。
※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。
最上義光歴史館
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メモ
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歴史館からのお知らせ
]
「河北町谷地城跡の発掘調査」 天本昌希
河北町谷地城跡の発掘調査
【はじめに】
現在の河北町谷地地区に所在した谷地城は、白鳥十郎長久の居城である。白鳥氏は現在の村山市西部に本拠をもつ国人で、その出自については謎が多い。長久の頃、天正二年(1574)の「最上の乱」における伊達氏と最上氏の和解を仲介、中央政界には織田信長に名馬を送るなど、巧みな外交術で頭角を表す。これに危機感を覚えた最上義光は、天正十二(1584)年に谷地城へ侵攻、白鳥氏は滅亡となる。
このときのエピソードとして、義光は病気と称して山形城に長久を呼び出し、彼を謀殺。そのまま3,000の兵を率いて谷地城を落としたと、軍記物では語られる。この逸話が後世の様々な物語で語られる義光の狡猜で残忍な人物としてのイメージのもととなり、長久の返り血を浴びたとされる「血染めの桜」伝説につながっている。しかし、実際にこのような謀殺劇があったことを示す史料は軍記物以外、残されていない。ドラマチックな物語を抜きに当時の状況としていえることは、白鳥長久が外交を駆使して義光の地位を脅かすまでの存在となり、討たれたという結果である。
ちなみに大石田町次年子には、白鳥長久の墓と伝えられる塚があり、過去に発掘調査がなされている。結果、大腿骨に大きな傷をもつ40代男性の人骨が出土している。しかし、それが長久本人かどうかまでは定かではない。
この長久が築いたとされる谷地城は、文献上、築城の時期が明らかではなく、最上侵攻の前年1583年以前とされるのみ。最上領有後は、斎藤伊予守が4,000石で城主となり、最上方の支城のひとつとして機能した。慶長五年(1600)の上杉方との出羽合戦の際、一度は上杉方に奪われ、それを再び最上方が奪還するという拠点争奪戦の舞台として登場する。その際の様子を伝える記述として、「七日の間、城けんごにもち候へ共」や「二の丸迄敵押込み申し候所押返し」など、激しい籠城戦となったことが窺える。最後は元和八年(1622)の最上家の改易と共に廃城となっている。在りし日の谷地城の姿を伝える絵図はなく、廃城から67年が経過した元禄二年(1689)の「谷地本郷絵図」に現在の三社宮付近が「古城跡」と記されるのみである。
史料が限られる状況において、発掘調査成果は重要な情報源となる。遺跡としての谷地城跡は、『山形県中世城館遺跡調査報告書』第2集に掲載され、現在の河北町谷地地区の市街地全域に渡る広大な遺跡として知られている。この遺跡範囲内に立地する河北町役場を建て替えることとなったため、建設予定地の発掘調査が令和元年五月から八月までの期間で実施された。これは谷地城跡では初めての大規模な発掘調査であり、その成果は既に発掘調査報告書として山形県埋蔵文化財センターから刊行されている。ここではその成果についてまとめる。
【特徴的な建築方法の発見】
発見された主なものは、500基を越える柱穴と溝跡である。柱穴はいくつかがセットになって建物を構成し、溝跡は建物群を区画するためのものと考えられる。当時の建物は、掘った穴に柱を埋めて建てる掘立柱建物が主流である。柱材は建替えの際に抜き取られたり、腐ってなくなってしまったりする。そのため、遺跡には柱穴だけが残されるのが常である。今回発見された柱穴で特徴的なのは、多くの柱穴の底面に沈下防止のため、枝や廃材などが敷かれていたことである(図1)。谷地城の立地は寒河江川扇状地の末端部にあたる。湧水も多い軟弱地盤のため、このような方法をとったのではないかと考えている。同じ目的で、柱穴の底に板や、石を敷くという事例はあっても、切りっぱなしの枝や廃材を敷く事例は、全国をみてもほかに探すことが難しい。より低コストの建築方法であったと思われる。しかし、類例は思いのほか近く、山形城三の丸跡の第十四次調査において発見された(図2)。
第14次調査の柱穴
図1 谷地城跡の柱穴
図2 山形城三の丸跡
この調査地点は広大な山形城三の丸でも西端に位置し、馬見ヶ崎川扇状地の端部にあたる。立地環境としては今回の谷地城調査区と類似している。谷地を占領した義光は、当地の鋳物師たちを山形城下に呼び寄せたとされるが、同時に大工たちも連れて行き、山形城内の整備にこの方法を持ち込んだと解釈できるかもしれない。山形城三の丸では現在のところ確認できているのはこの一基のみのため、付近での調査事例の増加に期待したい。
【谷地城の姿について】
これらの柱穴を区画する溝は、調査区の軸に沿って縦横に発見されており、大小の規模がみられる。いくつがセットになって区画をなしていたと考えられ、その区画は一部が重なっていることから、古い区画を埋めて、新しいものをつくったと考えられる。
では、この古い区画は、いつごろのものか。時期判断の材料となる陶磁器の出土が少ないため難しいが、溝の底面から出土した漆器などを炭素年代測定にかけたところ、十五世紀前半から半ばという結果が出ている。遺跡全体でみれば、これと同時期にあたる古瀬戸後期の陶磁器片を一定数得ていることからも、この測定結果は裏付けられる。よって、古い区画は十五世紀半ば頃から機能し、新しい区画の建設に伴い埋め戻されたと考える。現在の谷地地区の開発は、白鳥長久か、あるいはその前代の頃にはじまったとされ、十ハ世紀中頃からというのが従来の説である。これに対して今回の調査成果は、それよりも百年近く前には既に、区画された屋敷地があったことを示すものとなっている。
現在の谷地地区は、南北に走る県道25号などを中心に20度ほど東に傾いた軸で市街地が形成されている。今回の調査で発見された区画溝をみると、後述する新しい時期のものも含めても、その方向は現在のものと同じ軸の傾きでつくられている。これは十五世紀の中頃に谷地の開発がはじまってから現在に至るまで、土地利用が変わり、区画の変化はあったとしても、基幹的な町割りは変わっていないことを示すものである。
次に新しい区画をみると、大きいもので、幅4m、深さは1m弱あり、調査区内を東西方向にまっすぐ80m以上展開し、東側は更に調査区外へ延長し、西側は調査区の端で直角に折れて調査区外へのびている。この溝の底面からは十六世紀中頃の陶磁器片が、溝の埋まりきった上面からは十七世紀初頭のものが得られており、この区画溝の構築時期と廃絶時期を示しているものと考えられる。この年代観は、文献上、推定されてきた谷地城の存続期間と合致するものである。ではこの溝は谷地城に関連するものなのだろうか。
谷地城の姿をめぐっては、戦前からの研究があり、本丸に対して二の丸堀が部分的にめぐるものや、山形城のように全体を三重に囲むものなどが提示されている。今回の調査区は、どちらの復元案でも、本丸西側の二の丸堀にあたる。そのため調査前は南北方向にめぐる堀跡の発見が予想されていた。
しかし、今回の調査で得られたものは、堀とするには規模の小さい溝跡である。考古学上、溝跡と堀跡の違いについて、明確な定義がなされているわけではないが、一般的に防御施設である堀というには、前述の規模でその機能を担えるのかという疑問が湧く。山形城と比較するには、築城の時期も城主の地位も異なるが、筆者が担当した山形城三の丸跡第十次調査において発見された三の丸の堀跡は、幅12m以上、現地表からの深さは5mを越えている。また、これが本丸を守る防御施設であるならば、東側の本丸を守るため、南北方向になければ防御の用をなさないだろう。しかし、発見されたのは本丸に向かって一直線に80m以上のびるものである。よって、ここで発見された溝跡は、谷地城の主たる防御施設としての堀跡とは考えられない。しかし、これらは廃城の時期に埋め戻されているため、谷地城本体に付随して補助的な防御機能を担っていたものとも考えられる。よって、現在のところは城内、あるいは城外に隣接して築かれた家臣団の屋敷地を区画するものと推測しておきたい。
谷地城の二の丸については、冒頭でふれた出羽合戦における争奪戦の記録からも、その存在は認められる。しかし、今回の調査成果によって、これまで推測されてきた谷地城の二の丸の姿とは異なるものを想定しなければならないだろう。
【まとめ】
このように発掘調査は、机上の調査では得られなかった結果を導くことがある。文書には残されていない客観的な情報を得ることができるのは、発掘調査の醍醐味といえよう。しかし、それはすべてを明らかにしてくれるわけではない。文献調査がもたらす情報に比べれば、発掘調査が伝えることはあまりにも限定的である。
発掘調査と文献調査は、両者どちらかを選ぶというものではなく、お互いの弱点を補完しあうことができる関係にある。両者の成果を統合することで、より立体的な歴史像が復元されることを期待したい。
■執筆:天本昌希(山形県埋蔵文化財センター主任調査研究員)「歴史館だより��28」より
最上義光歴史館
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メモ
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【ひねもす記08】秋分の日を過ぎて
日が落ちるのが日々早くなっていくような気がします。
その前の9月21日は8年ぶりに満月と重なった中秋の名月、
好天が続いたこともあり連日見事な月が昇っておりましたね。
「武士好みのデザイン」〜吉祥の表現と動物・植物の意匠〜
柏倉惣右衛門コレクションより、今回は秋らしい意匠をご紹介いたします。
小柄 月見狸
スタッフ一押しの一点、秋草を背景に腹鼓を打つ狸の姿。
銀象嵌の月の下でご満悦な顔です。
鐔 葡萄透し
縁 葡萄図
葡萄は豊穣や子孫繁栄を象徴する吉祥文様として用いられました。
また「武道」に通じることから武家に好まれた意匠です。
最上義光歴史館
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メモ
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館長裏日誌 令和6年9月10日付け
〇 高札について推理の話
この高札については何分にも当時、懸賞金をかけても見つからなかったぐらいなので、真相はわからないのですが、勝手に推察すればいくつかの説が考えられます。
まずは義光と政宗は家康と親交があったことから、反家康勢力の仕業という線があげられます。この高札が徳川邸前に掲げられたということからすれば、まずは、家康を挑発することを狙ったものではという推測ができるかと。ということで、
・推理その1 この謀反の黒幕は家康だということを世間に広めたかった説
・推理その2 義光や政宗のために家康が何らか動くのではという陽動作戦説
・推理その3 家康と義光・政宗との仲をこじらせようとする説
いずれもこれは、反家康派すなわち石田三成近辺が怪しいということになります。次に誰が得するかという点からすれば、
・推理その4 義光と政宗を失脚させたいという説
義光と政宗が失脚すれば、地政学的にありがたいのは上杉であり、また、秀吉の思惑もあるので、誰が得なのか素直に考えれば上杉説となるのですが、上杉としてはわざわざ高札などを立てず秀吉と話をすればいいわけで、可能性としてはまずないかと。
・推理その5 世間がドン引きした秀次切腹と三条河原の処刑への言い訳として、秀吉側がとにかく誰かに罪をなすり付けようとした説。
それにしては「義光・政宗が国を二分して治めようとした」という話を持ち出すのは無理がありすぎで、また、秀吉は「此両家をば世上にてにくむと見得たり」とは言ったものの、この高札事件でかえって疑惑がとけ、義光・政宗の幽閉も解除されました。
この謎解きについて当館学芸員にもきいてみると、次の説がでてきました。
・推理その6 もしかしたら「愉快犯」かもという説
京からすれば奥州などは人が住むことすら想像できない道の奥。そんな所の武将が関白秀次とつながり、秀吉に拘禁され取調べられているらしい。いっそ、国を二分して治めようとしていたとして、家康の屋敷前とかに高札を建てれば面白いんじゃない、としたものではないかと。しかしながら義光・政宗ペアというのは、京の都でそれほど耳目を集める人物であったのかというと、「はて?」としか言いようがなく、確かに「伊達者」は話題になっていたとは思いますが。
そこで、サスペンスミステリー好きのもう一人の学芸員にきいてみたところ、
・推理その7 家康が全てを読み切って高札を立てた説
というのがでてきました。つまり、このくらいバカバカしい内容の高札を立てれば、秀吉もこれはバカバカしいとして、義光・政宗を釈放してくれるはずと読み切って、自邸前にこれを立てたと。おおっ〜、なんという結末。しかもこれは、振り上げた拳の行き場に困っていた秀吉も、話を収めることとなった家康も、当然、救われた義光や政宗も三方良しという結論となるわけですが、さすがです。
〇 鷹狩りの話
「鷹狩りと言えば家康」というくらい、家康と鷹狩りは切っても切れない関係で、幼少期の人質時代には鷹狩りを心の癒しとし、生涯1000回以上鷹狩りをしたそうです。駿河城本丸跡にある家康像にも、その左腕には鷹が止まっています。
家康の鷹狩り有名なエピソードとして、政宗の鷹場と家康の鷹場は隣接していましたが、誤ってそれぞれの猟場に入ってしまい、それぞれ互いの姿を見つけたものの、その場は気付かなかったふりをして戻り、後日それを互いに詫びたという話があります。
また、「文禄・慶長の役」いわゆる朝鮮出兵のときに義光は、肥前名護屋城に家康とともにいて、その戦況を語る手紙で、「ふしぎに出羽も我等も此度の命をみつけ候。やがて国へくだり、たかをつかい候はん事、ゆめかうつつかとよろこび候」と家康から言われたと書いています。
武士たちにとって鷹狩りは、スポーツであると同時に社会的なステータスであり儀礼的な側面もあります。鷹狩りとゴルフとは似ているというのも、例えば政界や経済界の方同士がゴルフをやるのはそういうことでもあり、もちろん健全なレジャーや健康増進としてやられる方も多いとは思います。実際、「徳川実紀」には家康の言葉として「鷹狩は遊娯の為のみにあらず。(中略)筋骨労動し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、をのずから病など起ることなし」と記されています。また、多くの人を使うため合戦の指揮に役立つことや、山野を駆け巡るため領内の視察になることも鷹狩の利点としてあげているそうです。織田信長は鷹狩あたっては、用意周到な準備をもって家臣にあたらせ、もって戦の練習ともしたとか、関東へ転封された後の家康は、民情視察のための鷹狩を繰り返し行ったそうです。
さらに鷹狩りは一種のステータスであり特権的なものでもあり、鷹の飼育や狩場の管理などが必要でもあったのですが、足軽出身であった秀吉には鷹狩りを楽しむ余裕などなかったと思われます。よって秀吉には鷹狩に対しある種のコンプレックスもあったのではないかと。秀吉が鷹狩りに興味を持ちはじめたのは、天正15年(1587年)の九州平定後と言われます。鷹の産地として有名な日向国を島津氏は擁しており、島津氏は秀吉を、家格が武士ですらないことを理由に、関白としての権限を認めないと言っていたのですが、秀吉は九州平定により屈服させ、その島津氏を鷹巣奉行に任じています。その数年後、「大�睫遏�(高野とは鷹狩りのこと)という大規模な鷹狩りを開催します。大人になってから始めた趣味は恐ろしいとはしばしば耳にしますが、特に金と権力を持ってから始めた趣味というのはそんな感じがします。
また秀吉は、秀次に対して天正19年(1591年)12月20日に「五ヶ条の訓戒状」というものを出しています。前4条は天下人としての一般的な心得を述べたものですが、最後の条では「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」とあるそうです。秀吉はわが身を振り返りこう訓戒したのだとは思われますが、鷹狩りの他に茶の湯と女狂いですか。まあ、金と権力がなければ心配のしようもないことではありますが。
〇 現在の鷹狩の話
鷹狩は幕末まで頻繁に行われることとなりますが、明治維新後は次第に衰えていきました。宮内庁には現在も「鷹師」「鷹匠」が存在しますが、戦後,宮内庁が公式な鷹狩を行わなくなって久しく、千葉県と埼玉県にある鴨場の管理や鴨猟を行なう鴨場の管理などを行っているそうです。なお、毎年1月2〜3日に浜離宮恩賜庭園にて「諏訪流放鷹術保存会」による「新春放鷹術実演」がなされています。
江戸時代には沢山の鷹狩りの流派がありましたが、今も残っているのは「諏訪流」と「吉田流」の二つ。「諏訪流」宗家の初代小林家次は戦国時代に織田信長が諏訪から招き入れた鷹匠といわれ、信長の死後は徳川家康に召し抱えられました。現在、その第18代宗家大塚紀子さんがこの浜離宮恩賜庭園の新春放鷹術などを担っています。現在日本で鷹匠を名乗っている人は50人ほどで、実は「鷹匠」を名乗るのに必要な資格がなく、個人が鷹を飼えば誰でも名乗ることができるそうです。
その第18代宗家のインタビュー記事によると、「人鷹(じんよう)一体」ということが大事とのことで、「人馬一体」というのは良く耳にしますが、やはりそういうことなんですね。そうそう、猿回しにも人猿一体芸というのがあるらしく、また、猿と客とが一体となる感動芸もあるといいます。ちょっと違うかもしれませんが。
なお、現代の鷹狩りについては「天皇の鷹匠 花見薫著 2002年」とか「放鷹新装版 宮内省式部職編纂 2010年」とか「鷹書の研究 三保忠夫著 2016年」とか、とにかく宮内庁が中心となりますがいろいろな書籍があるようで、私としては実はどれも手にしたことはないのですが、興味のある方はいかがかと。
また、公家や武家の鷹狩りとは全く異なる、狩猟のための鷹狩りについては、実は山形の天童市に最後の鷹匠という方が住んでいて、これは使う鷹も狙う獲物や場所も時期も違うもので、詳しくは「ほぼ日刊イトイ新聞」の「幡野広志、東北の鷹匠に会いに行く」(2019/2/1〜2/5)に記事がでていましたのでご覧願えればと思います。このインタビューの中で、鷹狩りはカラスの追い払いもできるとはありましたが、知らない土地だと、迷ったり怪我したりするリスクがあるため難しいらしく、実は山形市でも過去に数回実施したことがあるのですが、続けられませんでした。
〇 チャチャの話
皆様ご存じのとおり、秀頼を生んだ淀殿の本名は「茶々」です。なぜに茶々と名付けられたのかはよく知らないのですが、当時としては珍しくない名のようです。
さて、「チェリー・ピンク・チャチャ」と言う曲があります。実はペレスプラード楽団の名曲「セレソローサ」(Cerezo Rosa:ピンクの桜)の別名です。冒頭のあの引っ張るだけ引っ張るトランペットパートは、この楽器をされる方なら一度はやってみたいのでは。この曲には同じペレスプラード楽団のバージョン違いがいくつかあり、掛け声が入るものと入らないものがあります。特にライブ録音と思われる盤の掛け声はとてもよく、自分もこれに合せて「ウ〜ッ!」と声を出してしまうのですが、そのタイミングが意外に難しく、なかなかうまく合わせられません。
「セレソローサ」は1955年、全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録しましたが、その頃の日本ではとある「チャチャチャ」がヒットしていました。1955年に発表された「チャチャチャは素晴らしい」(Miragros Del Cha Cha Cha)という曲です。オリジナルはキューバのエンリケ・ホリン自作自演の曲なのですが、その年(昭和35年)11月には江利チエミさんが、同年12月には雪村いづみさんが、この日本語版を続けざまにリリースしたのです。どちらも日本語歌詞にスペイン語歌詞が挟まるもので、スペイン語どおりの訳もあるにはあるのですが、創作部分も結構ありまして、それがもうなんというか。「おまわりさんも踊り出す」という歌詞は原語どおりなのですが、江利チエミ版は「今にも死にそうなよぼよぼのおばあさんも、中風のおじいさんも、しまいにはチャチャチャ」と続き、それが「おーっとあぶない、そらこけた」となりまして、これが後発の雪村いづみ版ともなると「娘は甘茶で、チャッチャッチャ、年寄りゃ渋茶で、チャッチャッチャ」と、まさしくチャチャが茶々となり、「お寺じゃ坊さん、木魚を叩いて なんまいだ〜でチャッチャッチャ お釈迦様、踊り出す」となります。そこに若干こぶしのきいたスペイン語がはさまるわけで、ラテン音楽の好き嫌いにかかわらず、是非、皆様に一度は聴いていただきたい。当時、洋楽を日本語で歌うカヴァーはごく普通ではあったのですが、ここまでも意訳すらも超えてしまうと、ウーム、まあ、日本語の歌詞なんて、当時は問題にならなかったのかもしれませんが。
ところでチャチャとは、キューバのトリプルマンボから発展したチャチャダンスというのが由来とのことで、それをもとにキューバ生まれでメキシコで名をあげたペレスプラードが、1950年代にアメリカに持ち込みチャチャチャとなったそうです。
そのキューバで最も知られた歌に「グァンタナメラ」(Guantanamera)というのがあります。1929年の曲ですが、一度聴いたら忘れられない、馴染みやすい曲です。いろんな時代にいろんな方が演奏していて、手元にもさまざまな演奏家が演奏したこの曲を18曲収めたCDがあります。
ネットでこの曲を検索すると、コロナ禍の中、小野リサさんが各楽器のパートとネット中継で結び、この曲を演奏している画像がありました。特にミュージシャンにとっては大変な時期ではありましたが、今は小野リサさんは、週一ぐらいのペースでライブ演奏を行っているようで、今年でデビュー35周年(!)、ボサノヴァ誕生65周年ということで、慶賀の至りではあります。
そういえば、30年以上前に、東京のとあるライブハウスで小野リサさんの演奏を聴いたことがありまして、当時すでに大人気で、たまたま行った当日、最前列席にキャンセルがあり、間近で観ることができたのですが、失礼ながら彼女についてはボサノヴァを歌う人程度の認識しかなく、てっきりスタンダード曲を歌うものとばかり思っていたのですが、見事にオリジナル曲ばかりで、実はそれまで彼女のアルバムを聴いたことがなく、ノルにノレずに帰ってきたことがあります。すみませんでした。
最上義光歴史館
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【ひねもす記 07】季節の変わり目です
白露を過ぎて朝夕はだいぶ涼しくなりましたね。
日中はまだ暑い日もありますが、夏の日差しとは違ってきたように感じます。
Kスタッフの力作ペーパークラフト第3作の伊達政宗が完成!
伯父甥揃い踏みでお待ちしております。
第4作の片倉小十郎も完成!こちらは伊達家の双璧でお出迎えです。
「武士好みのデザイン」〜吉祥の表現と動物・植物の意匠〜
柏倉惣右衛門コレクションより、今回はねずみ尽くしでお送りします。
鼠の意匠は吉祥のデザインと干支、動物のテーマに展示されています。
なぜ吉祥のデザインに展示されているのかは会場の解説をご確認ください!
鐔 甲子正月図
注連縄の奥の大黒天に三方を供えてかしこまる裃姿の鼠。
鼠の前には扇子、線彫りの室内表現、左上には線彫りの雲と象嵌の太陽と
絵のような構成です。
縁・頭 甲子図(大黒鼠)より頭のみ
大黒天が掲げる「寿」の掛け軸と鼠。鼠の表現がリアルです。
目貫 鉗鎚鼠図
スタッフお気に入りのうちのひとつです。
「鉗」は金ばさみ、「鎚」は金づちの意で、どちらも鍛治の道具です。
縁 七福神図
鼠はおりませんが、大黒天つながりでこちらの1点。
持ち物それぞれで七福神が表されています。
最上義光歴史館
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2021年8月 利用者アンケート集計結果
《2021年8月の利用者アンケート集計結果》
この集計結果は令和3年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。
常設展示 (8/1 〜 8/31)
開館日数・・・・・・・・・・・・・27日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,069名
回答者数・・・・・・・・・・・・・24人
1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・4%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・26%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・26%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・9%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・22%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・87%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・70%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・30%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%
(2)最上義光と最上家について??
�,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・70%
�△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・30%
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〜利用者の声〜
山形県寒河江市 女性/50代
展示物はたくさんあって良かったが、画像での説明があると分かりやすい。無料で気軽に見学できるのは良かった。
山形県村山市 男性/9歳
兜とか刀がかっこよかったから。肖ぞう画もきれいにのこっていたから。
岩手県花巻市 男性/60代
武士の先祖は全て源姓にたどり付くと言われている。斯波氏は実は岩手県にもその流れがあります。
結局、九戸政実に滅ぼされますが、源氏の流れはいつまでも続くものです。最上氏もその流れですね。
京都 女性/30代
刀装具のコレクションが大変興味深く、面白かったです。ありがとうございました。
栃木県小山市 男性/10代
がんばって下さい。
宮城県仙台市 男性/30代
ネットで検索して済まさずに、実際に足を運び資料を見ていくことで理解は深まり、郷土への思いを少しは抱くことができる。
最上家の始はシバ、義光の妹の息子が伊達政宗、義光(アキ)は足利義明と紛らわしい為改名。駒姫が短命「美人薄命」等、大変勉強になりました。"
山形県・中山町 女性/40代
子供のクイズが楽しかった。最上義光のことがよくわかった。
山形県酒田市 男性/50代
説明をして頂きとても勉強になりました。またよらせて頂きたいと思います。
山形市 女性/60代
開館中に床そうじはないと思います。音が耳ざわりで、集中して説明文が読めなかった(ガラス部分のふきそうじはOKと思いますが)
埼玉県さいたま市 男性/50代
改易に関する展示があればよいと思いました。
茨城県美浦村 男性/40代
無料と聞き驚きました。ありがとうございます。また、時間が出来たら、ゆっくり拝観したいです。
山形県米沢市 女性/30代
刀装具展よかったです。図録でもう一度みたいと思いました。
山形県・山辺町 男性/69代
駒姫といっしょに亡くなった「おこちゃ様」の事を記したパネル1枚でもあると駒姫も喜ぶのでは
青森県奥入瀬町 女性/60代
説明文の字が、もう少し大きい方が読みやすい。ガラスに反射して更に読みにくいので。
※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。
最上義光歴史館
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