最上義光歴史館

最上義光歴史館
ログイン
メモ メール Q&A 暦 リンク 地図 ウィキ 特集 プラン
■ 指揮棒と家系の話
 家系図の話というのは、個人的には正直、お経よりもつらいものがあるのですが、歴史好きの方にはたまらないらしく、最上家の家系図だけで30分以上話ができる、という方が少なからずいらっしゃいます。これが斯波家や足利家の話やその前の源氏の話まで拡がるとなると、もう何か何やらとなるわけでして。それでも歴史好きの方は滔々とお話をされるわけであります。
 当館展示品に、最上義光が使用した指揮棒というのがあります。日本刀と同じ技法で鍛錬した鉄製のもので、刀2本分の重量(1.75kg)があります。同じ重量の模造品が体験用にありますが、片手で振り回すには結構な腕力が必要です。指揮棒には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と陰刻があり、清和源氏であること、山形出羽守であること、剃髪していないが仏に仕える身であることが示されています。まず、「有髪僧」とあるのは、念仏三昧の斯波兼頼の血筋であったから、というわけではなく、戦国武将となれば殺生は常であり、仏教のもと殺生をすれば地獄にしか行きようがなく、しかしながら強い武将ほど殺生を重ねることとなるわけで、それ故に、戦の加護を祈祷し、娘や妻、親兄弟を供養し、来世の安寧を祈り、寺社を保護・建立するなどして、信心を厚くしていることを表すものです。そして、最上義光の血脈を語るには「清和源氏」まで辿るとあるわけです。
 まずは、「源氏」とは何なのか、ということから。いつものようにGoogleAIさんにきいたところ「平安時代、子供が増えすぎた天皇が、その子供たちに「源」の姓(源氏)を授けて臣下にする「臣籍降下」が一般化しました。特に清和源氏が有名で、源頼朝ら鎌倉幕府を開いた武士団として歴史に名を残しています。」とのこと。この説明には関連語として「げんじ(ファッションYouTuber): ファッション関連の動画を投稿し、自身のアパレルブランド「LIDNM(リドム)」も手がけるクリエイター。」というのもありました。ここがAIさんのすごいところで、子供が増えすぎた天皇家とファッションクリエイターとが同列に語られるのです。
 ちなみに先日も、天童と山寺を結ぶ旧国道111号線を調べたところ、AIさんから「なお、インドにはNH 111(国道111号線)が存在しますが、日本の国道とは無関係です。」という丁寧な説明をいただきました。最近のことですが、AIさんに義光の妹の義姫のことをきいてみたら「生まれ1548年 山形県山形市ホテルキャッスル」と出てきました。もしかしたら、そんな名前のお店でもあったのかしらん。
 さて、「源氏」についてさらに具体的には、源氏とは814年、第52代嵯峨天皇が多くの皇子・皇女の生活費(皇室財政)を支えきれず、臣籍降下(皇族が皇籍を離脱し、臣下(一般国民)の身分になること)させて「源」の姓を与えたのが始まりとのこと。ここで、天皇が臣下や功績のある者に新たな姓や氏を下賜する(与える)ことを賜姓(しせい)といいます。また、「源」には天皇を同じくする(源流が同じ)という意味が込められています。
 源氏には、祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があり、清和源氏はそのうちの一つで、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族です。源氏の家系図もこのあたりにくると膨大な枝分かれが生じます。そして清和天皇の皇子のうち4人、孫の王のうち12人が臣籍降下して源氏を称しました。とりわけ第六皇子貞純親王の子・経基王(源経基)の子孫が著しく繁栄します。
 経基の子・源満仲は、摂津国川辺郡多田に居館を構えました。満仲の長男が酒呑童子退治で有名な源頼光で、摂津源氏と呼ばれる武士団を形成しました。弟の頼親や頼信らとともに藤原摂関家に仕えて勢力を拡大。後に頼信を祖とする河内源氏が東国の武士団を支配下に置いて台頭し、頼義、義家の三代が前九年・後三年の役などで武名を馳せます。義家の子である義親が鎌倉将軍家へ、義國が室町将軍家へとつながっていきます。
 ここまでの話を整理すると、清和天皇→貞純親王→経基王→満仲→頼信→頼義→義家→義親・義國、ここで義親→為義(諸説あり)→義朝→頼朝(鎌倉将軍家)、また義國→義康(足利氏)→義兼→義氏→泰氏→頼氏・家氏となります。ここで頼氏→家時→貞氏→尊氏(室町将軍家)、また家氏→宗家(斯波家)→宗氏→高経・家兼となり、家兼→直持(奥州大崎氏)・兼頼(出羽最上氏)となります。ということで、清和天皇から斯波兼頼までこれだけの家系をたどることになりますが、斯波家ひいては最上家は、鎌倉将軍家や足利将軍家とそれなりの縁戚関係にあることがわかります。

■ 鬼を斬った刀の話
 この家系図と時を同じくするのが、鬼を斬ったと伝わる「鬼切」(重要文化財・指定名称「太刀 銘安綱(鬼切)」)と「鬼丸国綱」(御物)という刀です。以前に書いた話と重複しますが、再整理ということで再掲します。いやはや還暦も過ぎると、以前話したことを忘れて繰り返してしまうこともままあり、認知症の兆候なのでしょうか。もっとも家人からは、あんたは何度言ってもわからないとも言われますが、これは認知症とはまた別でして、すみません。
 さて、まずは「鬼切」ですが、源満仲は筑前国から刀鍛冶を呼び寄せ2振の太刀を作らせました。1振は死体の試し斬りで髭まで斬ったことから「髭切」と名付けられ、もう1振は同じく試し斬りで両膝を斬り落としたことから「膝丸」と名付けられます。それぞれ「鬼切」とか[薄緑]とか、その他にも色々な名を持ちます。この2振は、源満仲の子・源頼光に伝えられ、そのあとも勝利をもたらす宝刀として代々の源氏に受け継がれました。現在、京都国立博物館では特別展「北野天神」が開催され、この「鬼切丸・ 髭切」(北野天満宮所蔵)と「薄緑・膝丸」(大覚寺所蔵)が展示されています(6月14日まで)。
 この「髭切」が「鬼切」とも言われるのは、源頼光の時代に、京の都で人が消える事件が起き、それは鬼の仕業と噂されていました。ある晩、源頼光が配下の渡辺綱に一条大宮へ行く用事を頼み、渡辺綱に「髭切」を持たせます。用事を済ませた帰り、渡辺綱は一条戻り橋の真ん中で、ひとりの美しい女性に「家まで送って欲しい」と声をかけられました。家まで送る途中、女性は恐ろしい鬼へと姿を変え、渡辺綱を掴み上空へと連れ去りました。北野天満宮の上空に差し掛かったときに、渡辺綱は髭切で鬼の腕を斬り落し、北野天満宮へ落下、逃げることができた、という話に由来します。
 一方の「鬼丸国綱」は、鎌倉時代の刀工・粟田口国綱作の太刀で、天下五剣の一つとされます。北条時政が夢に現れた小鬼を退治したという逸話から名付けられました。北条時頼が毎夜、夢の中に現れる小鬼にうなされていました。ある夜、夢の中に老翁が現れ、「自分は粟田口国綱の太刀の化身である。ところが汚れた人の手に握られたために錆びてしまい鞘から抜け出せない。」と言って消え去りました。時頼はこの太刀を手入れして、抜き身のまま寝床の側に立てかけておいたところ、太刀が倒れかかり、火鉢の台に施された鬼の形をした細工を斬りました。それ以来、時頼の夢に小鬼は現れなくなり、この太刀を「鬼丸」と命名しました。
 さて、新田義貞は、北条高時を滅ぼして鎌倉幕府を終焉させた際に、北条家の宝刀であった「鬼丸国綱」とともに、源氏の重宝である「鬼切」も入手したと伝えられています。しかし、藤島の戦いで斯波高経に討たれた際、これらの刀が義貞から高経の手に渡りました。これらの刀を高経が入手したことを知った足利尊氏は、これを所望します。太平記には、「将軍使者を以つて、『これは末の源氏なんど持つべき物に非ず、急ぎこれを渡され候へ。当家の重宝として嫡流相伝すべし』と度々仰せられけるを、高経堅く惜をしみて、『この二振りの太刀をば長崎の道場に預あづけ置きて候ひしを、かの道場炎上の時焼けて候ふ』とて、同じ寸の太刀を二振り取り替へて、焼き損じてぞ出だされける。」とあります。
 つまりこの2刀は源氏嫡流の自分が持つべきとする足利尊氏に対し、斯波高経は太刀は焼けてしまったと嘘をつき、別の焼けた刀を差し出したのです。しかし、この嘘が発覚、尊氏は激怒し、それまで尊氏の信頼が厚かった高経は、後に越前・若狭の守護を解任されるなど、幕府内での立場が悪化しました。「鬼丸国綱」のみが足利尊氏に渡され、将軍家から信長、秀吉、家康へと伝来しました。
 一方、「鬼切」は大崎斯波家に伝わります。正平11年(1356年)に斯波兼頼が山形に入部した際帯同し、その後は最上家にて代々家宝として所蔵されました。元和8年(1622)に最上家は国替えとなり、近江大森藩五千石となりましたが、その際も「鬼切」は秘蔵されました。しかし、明治期になると最上家が衰退し「鬼切」が同家の手を離れた際、当時の滋賀県令の呼びかけにより、官幣中社北野神社へ奉納されました。一説には、最上家の宝刀と知らずに入手した持ち主が、夜な夜な現れる「最上に帰ろう」と叫ぶ刀の夢に恐れをなし、崇敬する北野天満宮への奉納を決めたともいいます。
 参考までに、鬼を斬った有名な刀としては「童子切安綱」もあります。平安時代の伯耆国(現在の鳥取県)の刀工、安綱が鍛えた太刀です。天下五剣の筆頭の名刀とされ、国宝として東京国立博物館が所蔵しています。「童子切」という銘は、源頼光が大江山に棲む鬼「酒呑童子」に「神変鬼毒酒」を飲ませ、眠っている間に手足を縛り、この刀で首をはねたという伝説に由来します。「童子切安綱」は足利将軍家、豊臣秀吉、徳川家康・秀忠へと受け継がれました。特に室町幕府第13代将軍・足利義輝が愛用し、永禄の変で佩刀していたと伝わります。義輝は剣術に秀でた「剣豪将軍」として知られており、先述のとおり最上義光がその名に「義」を一字拝領した人物でもあります。
 
■ 家系図をつくるはなし
 ところで、新たに個人の家系図を作成しようとすると、江戸時代よりも前に遡るのは公家や武家でもないかぎり、なかなか困難です。まずは戸籍を頼りにするわけですが、遡れるのは戸籍制度ができる明治まで。それ以前となると、菩提寺にあたることとなります。寺院では、「過去帳」という檀家の死亡記録や墓石に刻まれた戒名や没年を手がかりに先祖を特定できます。また、武士であれば「分限帳」によることもできます。
 江戸幕府はキリシタンを禁じる目的で寺請制度を設け、1630〜40年代から導入し1670年頃に全国的に確立しました。全ての人を特定の寺院(檀那寺)の檀家とし、「寺請証文」という証明書を寺院から受け取ることを義務付けました。寺院は「宗門人別改帳」を作成し、これが戸籍のような役割を果たしました。また、この檀家制度の定着により、寺院の経済基盤が安定しました。さらに幕府は本末制度を設け、宗派ごとに本山を定めその下に末寺を組織し、本山を通じて各宗派を効率的に統制しました。これらの制度は明治4年(1871)に廃止され、同年、「戸籍法」が定められますが、実施されたのが明治5年で、その干支が壬申だったので「壬申戸籍」ともいわれています。
 この戸籍の編成単位は「戸」で、本籍は住所地とされ住民票の役割もありました。「皇族、華族、士族、平民」といった身分事項があり、一般庶民は「農工商雑」といった業種も記載され、中には「穢多、非人」といった差別にかかわる記載もあったことから、昭和43年以降は各地方法務局に厳重保管され閲覧や謄本の交付が禁止されています。
 明治31年(1898)の戸籍法改正で「家」が基本単位とされました。家族の続柄が記載されるのもこの戸籍ですが、家長制度によるため、多数の家族がひとつの戸籍にまとまっている場合があります。昭和22年に戸籍法が改正され、身分事項や家長制度などがなくなり、現行の戸籍制度となりますが、戦争などの影響で実際に戸籍の改製が行われたのは昭和32年頃とのことです。
 平成6年(1994年)の戸籍法改正によりコンピューター化が法的に可能となり、現在はほとんどの自治体で移行し、2024年から本籍地以外の役場でも戸籍証明書が取れるようになりました。ここで問題となったのが、いわゆる外字問題で、手書きの戸籍にはコード化されていない字があって、全国統一が困難であったわけです。以前に勤めていた部署でも、システム上、氏名を電子データでもたなければならず、外字については職員自らドットでデザインしていました。異字体や俗字などいろいろあり、特に変態仮名などはデザインセンスの良し悪しもでてしまうのですが、それに独自のコードを付与してシステムに登録するわけで、自治体毎にこのような外字が作られていたわけです。それを細かな差異について整理し、できるだけ標準的なコード文字に対応させて解決しています。
 また、戸籍の保存期間は150年で、死亡、婚姻、転籍などで閉鎖された「除籍簿」や「改製原戸籍」などが対象ですが、保存期間を過ぎると廃棄される可能性があります。なお、東京大空襲(1945年3月)により、東京都内の多くの区役所で戸籍簿・除籍簿が焼失しました。これで家系をたどれない事もままあります。
 以前勤めていた不動産関係の部署では、相続未登記などの調査のため家系図をつくることが何度かあったのですが、戦後の戸籍はまだいいとして、旧戸籍法つまり家長制度時代の戸籍となると、ちょっとした経験が必要になります。いくつかの家族がひとつの戸籍に入っていて、出たり入ったり、亡くなった人と同じ名前があったりと、戸籍の中で整理が必要な場合があります。また、戸籍を請求するとしても、同じ役所内とは言え正式な申請が必要であり、場合によっては4、5代前に遡ることもあり、改製原戸籍とか戸籍の附票とかをやみくもに請求すると重複したりして、当然そうなると、戸籍担当者から苦情を言われたりします。
 相続登記などで、司法書士さんに遺産分割協議書とともに家系図の作成を頼んだりしますが、これがなかなかなお値段で数十万円単位となりますが、家系図だけならそれを専門とする行政書士さんなどがいらっしゃいます。お値段は、どの年代まで遡るのか、いくつの家系を調べるかによって変わってくるそうですが、明治時代以降で、本籍も同じ役場であれば、数万円程度で作成してくれるところもあるようです。戸籍の記録以前のものは、寺院の「過去帳」などから調べることになるのですが、これも個人情報なので、勝手にみせてもらうことはできず、寺に頼んで関係する部分のみを写し書きしてもらいます。これもタダというのでは何なので、お布施を添えるのが普通です。

■ 菩提寺の話
 我が家の寺の本堂には、年忌法要にあたる人の名が貼り出されるのですが、数年前、苗字からしてなんとなくご先祖らしき人の名前の札が貼られていて、それには99年目つまり百回忌とありまして、おおっ、寺の過去帳というのはここまでたどるのかと、多少驚いたことがあります。
 年忌法要の区切りつまり「弔い上げ」は、三十三回忌でするのが一般的で、あるいは五十回忌で行ったりするそうです。百回忌の案内というのはつまり、それまでに「弔い上げ」をしていないということで。どうやら私が「弔い上げ」をしなければならない立場のようではありましたが、よくわからなかったので、なんとなくやり過ごしてしまいました。百回忌の後は50年ごとの年忌法要となるそうですが、申し訳ないのですが、その頃にはこちらも墓に入っていることかと。
 その寺は、創建が応永20年(1413)、山形城の城主で最上家3代・満直により開かれたのが始まりとされるのですが、自分の家系をたどるとしても実は、山形市にきたのが曽祖母の時代で、それから寺に墓を設けたので、つまり、この寺の歴史は古くても、自分の先祖はそこまでしかたどれません。
 ちなみに戦国武将らが寺社の整備に熱心であったのは、信仰心だけではなく、いざというときの軍事拠点とするためという例も少なくありません。例えば斯波兼頼によって延文元年(1356年)に開基された山辺町の「安国寺」も、南朝勢力を押えることを目的に寺院城郭として整備し、北朝の重要な軍事拠点としました。そもそもは足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈り、戦乱で没した人々の霊を慰めるため、全国66か国に建立した「一国一寺」のひとつです。その山門は県指定文化財で、左右には阿吽の仁王像が安置され仁王門とも呼ばれています。ただ小高い場所にあり、墓地も裏山の斜面沿いにあって、山城的な地形にあります。
 実はこの寺がかみさんの実家の菩提寺でして、義理の母が亡くなるまで行ったことがなかったのですが、その本家とか分家とか、とにかく同じ姓の墓がこれでもかと並んでいます。お盆には山門から本堂にかけて仏花、焼きそば、かき氷などの屋台が並ぶという盛況ぶりで、なんかこういうところでも、かみさんに負けている感じがします。
 ところで、山形界隈の博物館関係者の間でも話題となっているのが、東京国立博物館で開催中の特別展「百万石!加賀前田家」でして、武具や茶道具はもちろんのこと、ルノワールの絵やバッハの自筆譜も展示されているとのことで、展覧会のタイトルで百万石にビックリマーク!がつくだけのことはあります。それに合わせてこの展覧会の主催者に名を連ねているNHK様におかれましては、加賀前田家を特集する歴史番組が立て続けに放送されていまして、その中で前田家ゆかりの「忍者寺」こと妙立寺が紹介されていました。加賀百万石の三代藩主・前田利常が江戸幕府からの不意の攻撃に備え、金沢城の出城・軍事拠点として1643年に建立したもので、隠し階段や隠し部屋などの「からくり」が多数あります。
 そう言えば大河ドラマに「利家とまつ」というのがあったなと、改めてネットをみてみると2002年放送ということでしたが、若い頃の唐沢寿明さんと松嶋菜々子さんが並ぶ写真がなんともキラキラしていまして。その他の出演者も超豪華な方々ばかりで、5シーズン分ぐらいできそうな顔ぶれです。目を凝らすと前田慶次役が及川光博さんで、前田慶次というのは長谷堂城の戦いで上杉軍の直江兼続に従軍し、その撤退時に殿(しんがり)を務めてもいるのですが、最上義光がドラマ化されても、前田慶次訳はこのままいけるかもと。そして酒井法子さんの名もあり、のりピー、と思わず言ってしまうのですが。おっと、それ以上は・・・、あれは周りが悪すぎです。それにしても漢字の「法子」も、カタカナの「ピー」もこのワープロソフトは一発変換でした。どれだけの情報量をもつ単語辞書なのかと。ちなみに「やまぴー」を変換したら、「山P」ではなく「山ピー」でした。

■ 有名な家系の話
 世界一有名な家系といえば、マタイによる福音書の第一章でしょうか、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という書き出しで始まります。
 「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、」とあり、以降この調子でイエス・キリストまでたどっていきます。聖書で、最初にまず面喰う部分ではあります。
 さて、ここで「ウリヤの妻によってソロモンを」とありますが、これはダビデは家臣ウリヤの妻バト・シェバとの不義の関係ということで、しかも夫ウリヤを死に追いやっています。マタイの福音書では「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」とあり、かなり過激ですが、はたしてダビデはどうだったのでしょう。
 以下、Wikiさんによると、この2人の間の最初の子は神の怒りに触れて死に、次に生まれたのがソロモンです。彼は父の死後、腹違いの兄など他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となります。また、エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を降嫁されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築いたとされます。エチオピアのシバの女王もソロモンの知恵と王都エルサレムの繁栄を見て驚いたとのこと。通商を振興して経済を発展させ、エルサレムに神殿や宮殿を建設し、いわゆる「ソロモンの栄華」を現出させましたが、国民は重税に苦しみ、死後、国土は分裂しました。彼の野心的な事業は重税と賦役を民衆に課したとも。なお、一説には大天使ミカエルから授かった指輪で悪魔を使役し、獣や鳥、魚の言葉を理解できた、とか、ユダヤ教の秘儀カバラが記された「ラジエルの書」を託され、多くの悪魔を使役したとされます。
 さて、マタイによる福音書にはまた、ソロモンを引き合いにした有名な一節があります。第6章28節「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」これはさしずめ、現代ならば「スティーブ・ジョブズを見よ」ということでしょうか。ただ、野の花と比べるには、タートルネックは三宅一生ですし、なによりも、よく働いていたわけで。
 さて、筒井康隆による実験的な短編小説に、「バブリング創世記」というのがあります。聖書の「創世記」を模した形式で、「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み……」と言った具合に続く小説です。ジャズにおける「バブリング(bubbling)」とは、主にボーカル(歌)やスキャットにおいて、バブやビバップの要素を取り入れた、リズミカルで軽快な擬音的な歌唱法とのことです。
ちなみに、この「バブリング創世記」を山下洋輔さんのグループが演奏しています。山下洋輔(ピアノ、オルガン他)坂田明(アルト・サックス、声)、小山彰太(ドラム)、ラリー寿永(パーカッション)他というメンバーでして、Youtubeで聴けます。かなり以前、自分も「バブリング創世記」を音読したことがあります。パロディ的なフレーズも混じっていて面白くもあり、途中なんとなくノッてもくるのですが、そのうち口が回らなくなり、最後はやはり疲れました。
 また、童謡に「アブラハムの子」というのがあります。「アブラハムには7人の子、一人はのっぽで〽」というあの曲ですが、アメリカの童謡「Father Abraham」(作詞作曲は不明)が元なのですが、なぜ子が7人で、のっぽとは誰なのか、これも不明なのだそうです。日本語の歌詞が付けられて流行し、幼稚園のお遊戯等では振付とともに歌われています。
 とある宴席でこれを踊ったことがありまして、同じフレーズを繰り返すなかで、右手、左手と順に振付が加わっていきますが、右足や左足ぐらいから酒がききはじめ、最後の「回って、おしまい」というところでは、結構、酔いも回っているという、なかなかに危険な童謡ではあります。


5月8日〜10日に薬師祭植木市が開催されます。およそ400年前、最上義光が大火で失われた緑を取り戻そうと住民に呼びかけたのがはじまりとされています。日本三大植木市の一つで、今年は300店以上の露店が、東西方向は遊学館から五中の間、南北方向には六日町角から千歳公園の間に軒を連ねる見込みで、ようやくコロナ前の賑わいに戻りそうです。
さて、植木市とはいうものの、薬師祭ともいうようにまずは薬師堂をめざし進みます。人をかき分け参道に並び、薬師堂の手前で線香の煙を身にまとい、賽銭をあげ鰐口を鳴らし、手を打ちそうになるところをお寺だったと手を合わせ、おみくじを引いて運を試し、境内脇の広場に向かうと、子供ならお化け屋敷でワーワーキャーキャーと、大人なら休憩所に陣取りおでんでちょいと一杯というのがひとつのルーティンというか理想形でしょう。この段階で既に「植木市」というのが頭から飛んでしまっているのですが、ここから、どんどん焼きやら缶ビールやらを片手に、おもむろに植木を眺めに行くわけです(もしや迷惑行為?)。
 以前に比べ、植木はだいぶ少なくなっている感じですが、それでも数十万円もするカエデやツヅジなどは、立派なものほど初日に売約済みとなるようです。また多く見かけるのは、今の時期に開花するサツキやボタンなどです。
山形市の木となっているナナカマドは、庭のシンボルツリーにも生垣にもなるのですが、時期的な理由からか植木市ではあまりみかけません。ちなみにナナカマドの名前の由来は、あの朝ドラの「牧野日本植物図鑑」に「材ハ燃エ難ク、竈ニ七度入ルルモ尚燃残ルト言フヨリ此和名ヲ得タリト伝フ。」とあり、つまり7度かまどに入れても燃え残るからだそうです。
 草花も多種多様なものが並ぶのですが、特に目にするのは母の日(今年は5月14日)にむけたカーネーション。山形市内にはカーネーションを大規模に栽培している農園があり、この時期に合わせて開花させられるかが腕の見せどころ、なんだそうです。
カーネーションは色別に花言葉があり、また本数別にも花言葉を持っているそうで、1本なら「わたしの運命の人はあなたです」、50本なら「永遠」、そして108本だと「私と結婚してください」とのことですが、108というと煩悩の数と一緒で、いや、結婚と煩悩との関係はよくわからないのですが、数は一致しています。
まあ、そんなこんなを思い浮かべつつ、最上義光のことも思い起こしていただければ幸いです。


薬師祭初日の薬師堂


色とりどりのカーネーションが並んでいます。


お化け屋敷でワーワーキャーキャー




《2023年4月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年4月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (4/1 〜 4/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・25日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,839名
回答者数・・・・・・・・・・・・・14人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・0%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・0%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・7%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・36%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・14%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・29%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・14%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・86%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・14%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・79%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・21%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・71%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・29%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

青森県青森市 女性/60代
お庭にさまざまな木があり楽しめました。木に名札があると助かります。

宮城県名取市 男性/60代
今の山形の基礎を築いた方ですね。当時の人々の様子が浮かんでくるようです。ジオラマがあるともっと分かりやすいでしょう。

山形市 女性/60代
史料がとても詳しくわかりやすいので大変参考になりました。東北の名将軍として伊達政宗と同様、もっと全国に知れ渡ってほしいものです。

栃木県佐野市 男性/10代
ありがとうございました。クイズ楽しかったです。

神奈川県海老名市 女性/40代
(コメントなし)

東京都 女性/70代
(コメントなし)

(不明)
ていねいな解説ありがとうございました。

宮城県仙台市 女性/40代
照明が少し暗いので明るめに。文字が小さい。

高知県 夫婦/60代
ボランティアさん、ありがとうございました。ボランティアさんに説明していただいて、大変よくわかりました。はじめての山形ですが、親しみを持つことができました。すばらしい歴史のある土地ですね。

山形県尾花沢市 男性/20代
指揮棒と同じ重量のレプリカにはたまげました。

山形県長井市 男性/10代
楽しかったです。

山形市 女性/10代
案内してくれたお姉さんがとても優しくて楽しんで見ることができました。

宮城県仙台市 男性/30代
とても立派な歴史館でしかも無料で見ることができ大満足でした。以前、片桐先生が校長先生だったこともあり、勝手に親近感のある博物館となりました。また、来てみたいです。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。


 最上義光歴史館の活動の一翼を担っていただいているのが、無償ボランティアで活動している「最上義光歴史館サポータークラブ義光会」の皆様です。先日、その義光会の総会がありました。現在登録いただいている方は43人。主な活動として展示ガイドを毎日2〜5名が交代で行っており、個人・団体を問わず小学生からインバウンドの来館者まで対応いただいています。その他、小学校の学習事業や観桜会などのイベントへの協力のほか、さまざまな研修活動も行っています。

 ある日、その会員の方から、時々、三の丸の堀跡の一部をウォーキングするイベントを行っているとのお話を伺いました。ちなみに三の丸の堀跡は一周約6.5kmあります。私自身、霞城公園の土手、すなわち二ノ丸の土手の上は、幾度か周回していますが、三の丸の堀跡の周回となると一度もありません。

 最上義光歴史館には、かつての城跡と現在の市街地とを重ねて表示している地図が展示されています(有料ですがパンフレットもあります)。それを見ると、三の丸の形跡をとどめている場所がいくつもあることがわかります。

 三の丸の遺構というと、まずは十日町の歌懸稲荷神社境内にある「三の丸土塁跡」があげられます。実は三の丸の土塁が現存しているのはここだけです。三の丸には11の門がありましたが、例えば済生館敷地の東側は「七日町口」で、確かに敷地に道路がどん突きになっていて、ここが門であったことが理解できます。「十日町口」「稲荷口」「下條口」などは現在も交差点として残り、その他の出入口もほとんどが道路になっており、三の丸の内外を通り抜けています。また、山形テルサ近くの「双葉公園」や七小北側の「みつばち公園」は三の丸の堀跡で、公園敷地形状が細長いのはこのためです。何気に三の丸の形状を活かしながら都市整備がなされていることがわかります。

 その他にもいろいろ痕跡があり、そうしたものを辿りながらの三の丸探訪が楽しめます。いよい黄金週間がはじまりますが、三の丸堀跡ウォーキングはどうでしょうか。ラーメン店、そば屋、甘味処なども所々にありますし。

 ちなみに当館には、三の丸跡の発掘調査に携わった職員がおり、「堀跡からは屋根瓦とか実にいろいろと出てくる。みつばち公園あたりは2mも掘れば、土師器・須恵器の類も出てくるかも。」とのこと。もちろん、公園管理者の許可が得られればですが。

----------------------------------------------------------
※ここで、三の丸豆知識
三の丸の堀と土塁が建造されたのは16世紀の最末期。その大きさは東西十四町五十間二尺(約1617m)、南北十四町十五間(約1553m)にわたります。
三の丸には、七日町大手口・横町口・十日町口・八日町吹張口・飯塚口・小田口・下条口・肴町口・小橋口・鯨口の11の出入り口がありました。なお、山形保健センター敷地内に「横町口」付近の石垣の一部が残されています。また、城西町には外堀沿いの小道が残されています(舗装されてはいますが)。
----------------------------------------------------------


歌懸稲荷神社側から見る三の丸土塁跡


双葉公園というとこの遊具で有名ですが、


三の丸の形跡もしっかり残っています。


長く伸びる「みつばち公園」 


城西町にある「外堀沿いの小道」


三十八間総覆輪筋兜


被弾した鉄砲玉の疵


通常、兜を展示しているケース


破調の美となる(!?)黒織部沓茶碗


銃弾が貫通したようにも見えますが・・・

当館の最重要展示品である「三十八間総覆輪筋兜」は現在、米沢市上杉博物館の特別展「上杉景勝と関ケ原合戦」(前期4月22日〜5月21日)に出展されています。この兜には直江兼続との合戦で被弾した鉄砲玉の疵が残っており、非常に貴重なものです。
その間、兜を展示していたケースには、三の丸跡の双葉町遺跡から発掘された「黒織部沓茶碗」を展示しています。茶碗の一部が破損しており、これもなんと鉄砲玉の被弾により破損したもの、ではなく割れた状態で出土したものです。
これが無傷であったなら、美術館に収蔵されてもいいくらい、織部らしい沓形の茶碗です。窓ぬき部分に市松模様が絵付されていますが、黒織部であるため、より斬新な印象になっています。
織部焼というと通常は、緑色の銅釉をかけた青織部を思い浮かべますが、黒織部は鉄釉を急冷させて黒く発色させます。急冷とは焼成後すぐ水につけることで、この手法を引出黒(ひきだしぐろ)といいますが、作りが悪いと割れたり破れたりします。形が複雑な沓茶碗ではなおさらです。

----------------------------------------------------------
※ここで、黒茶碗(!?)の豆知識
織部焼には黒織部の他に織部黒というのもあります。その違いは、窓絵といわれる文様があるものが黒織部、黒釉が器の全体を包んで文様のないものが織部黒といわれます。瀬戸黒も手法的には同じです。
ちなみに楽焼における黒楽も鉄釉を用いますが、これは釉薬をかけて陰干しすることを10回程度繰り返した後、焼成、急冷することで、あの漆黒のふっくらとした肌合となります。
----------------------------------------------------------
※もうひとつ、古田重然(織部)の豆知識
古田重然(1543〜1615)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康それぞれに仕えた武士で、40歳ころまでは茶の湯への関心はなかったらしいのですが、千利休の弟子となり、利休亡き後は「天下一」と称された武将茶人です。最上義光(1546〜1614)とはまさしく同時代の人です。
織部(織部好み)は、慶長年間(1596〜1615)に爆発的な流行をみせ、利休の静謐さと対照的な動的な「破調の美」の道具組を行いました。この「破調の美」の表現法に、器をわざと壊して継ぎ合わせ、そこに生じる美を楽しむという方法があるといいます。もしかしたら当館の黒織部茶碗も、この方法で新しい美をもたらすことができるかと。
----------------------------------------------------------


■ 知識ゼロからの最上家の話
 では、知識ゼロからの最上家初代の話でも。
斯波氏は、鎌倉時代に足利家氏が陸奥国斯波郡(岩手県付近)を所領とし、宗家から分かれたことに始まります。後醍醐天皇の倒幕運動に宗家の足利尊氏が関わると、足利尾張家当主の高経やその弟の家兼らもこれに従って活躍しました。この際、「宗家」とは何なのかとか、「後醍醐天皇」や「足利尊氏」がどういう人なのか、についてはすっ飛ばします。家兼は奥州管領として陸奥国をまとめ上げ、南朝勢力を駆逐。出羽国にも子を送り込み、奥羽両国での子孫繁栄の礎(大崎氏、最上氏、黒川氏など)を築きました。
 家兼の次男、斯波兼頼は1356年に出羽国へ送り込まれ、地名である最上氏を名乗り羽州探題となります(最上氏を名乗る時期については諸説あり)。斯波兼頼は最上家の祖となり、その11代目が最上義光です。蛇足ながら、名前の義光の「義」は第13代将軍・足利義輝から偏諱(1字)を拝領したもの、家紋は足利家と同じ「丸に二引き紋」、花押は足利様という具合に、足利家とは密接に関係します。さてさて、ここまで興味関心をひっぱってくるためには、語る側の技巧と聴く側の忍耐力が必要となります。
 また、最上義光に関わる有名なエピソードである、娘の「駒姫」の悲劇を語るためには、いわゆる「秀次事件」について説明しなければなりません。つまりは豊臣秀吉の跡取り問題について言及が必要になります。1593年に豊臣秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生したわけですが、これがどういう事態になるのか。秀次は「謀反の罪」に問われ、1595年高野山へ追放。秀次は切腹しました。その後、駒姫を含む妻子ら約40名が、京都三条河原で公開処刑されました。切腹や公開処刑に至った理由には諸説あり、また、秀次が駒姫をどう見初めたかということにも諸説ありという中で、こうした話をとにかく説明することとになります。
 そして、最上義光で欠かせない話として「長谷堂城合戦」とも言われる「慶長出羽合戦」があります。上杉景勝(西軍)と最上義光(東軍)の戦いで、「北の関ヶ原」ともいわれます。これも知識ゼロからの説明となるとちょいと込み入った話になります。まずは約6時間の戦闘で決着がついた9月15日の「関ケ原の戦い」とは何なのか。そしてなぜに上杉景勝が西軍で、最上義光が東軍なのか。という説明などが必要でしょう。
 この理由としては、上杉景勝の領地である会津を徳川家康が征伐しようとしたこと、また直江兼続が家康の横暴を非難する書状(直江状)を送ったこと、直江兼続と石田三成は共に豊臣秀吉の側近であったことなどがあげられます。一方の最上義光は、豊臣秀吉に駒姫を処刑され、自身も京都伏見に幽閉され恨めしく思っていたこと、徳川家康とは朝鮮出兵(文禄の役)に際し名護屋城に集結したときにすでに親交が厚かったことなどが理由となります。つまりは直江状や名護屋城の話まで及ぶことになります。
 この時、長谷堂城は最上義光の重臣である志村光安以下1,000名(人数については諸説あり)が守備し、直江兼続が指揮を執る上杉軍1万8000人(人数については諸説あり)が攻め込みます。この圧倒的に不利な状態で最上勢は、「関ケ原の戦い」の結果もわからないまま、辛うじて持ちこたえていました。伊達政宗は、最上義光の要請をうけ援軍を送るも、山形城の手前で様子を伺うばかり。9月29日にようやく西軍大敗の情報が直江兼続のもとにもたらされ、翌9月30日には最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守が逆転しました。このあたりは日本全図をひっぱりだしての説明となるような内容であります。
 しかもここで欲張って直江兼続の撤退話などもしてしまうと、インバウンドさんなど聞かされている方は何が何だかということになってしまうわけでして。この戦いの主役はつまり直江兼続なのかと。正直、ドラマ性ということからすれば否定できませんが。しかも、相手の兜は「愛」、対する当館所蔵の最上義光の兜は、この戦で受けた銃弾の跡が残るもので、戦闘のリアルさでは負けませんが、映えからしても、やはりそれはねぇ。

■ 大河ドラマ化の話
 先日、山形県知事はNHK放送センターまで出向き最上義光の大河ドラマ化の要望書を提出しました。「最上義光を大河ドラマにする会」(代表・松尾剛次山形大学名誉教授)との連名で提出したもので、同会は昨年11月に山形市長とともにNHKに要望書を提出しています。
 また今月、NHKは2028年の大河ドラマがジョン万次郎こと中濱万次郎を主人公とした「ジョン万」に決定したと発表しました。地元では08年の大河「篤姫」にジョン万次郎(勝地涼)が登場したことを機に「ジョン万次郎を大河ドラマに」と署名運動がスタート。高知をはじめ、東京や沖縄でも展開し、計約30万件の署名を集め、そこから約18年間の誘致活動が実ったとのこと。この吉報に対し、地元のジョン万次郎資料館の土居京一館長は「ニュースで知り、ビックリしました。ウソでしょ、と信じられない気持ち。うれしくて跳び上がりました。」と興奮気味に語ったそうです。そうなんです。こうした施設の館長といえども、この手の情報は蚊帳の外なのであります。
 それにしても、この大河ドラマ化にという情熱は、どういう理由によるものなのでしょう。山形県知事は「県内外の多くの人に山形県の歴史や文化を理解してもらう絶好の機会となる。地域の盛り上がりが期待される。」と述べていて、つまりは山形県のアピールというか売り込みになるという、知事として直球の要望ではあります。ただ、山形県内には大河ドラマ化を望まれている人物が他にも複数いまして、その時代が同じなら話をひとつにまとめて、例えば「フォレスト・ガンプ/一期一会」のような作り方もあるかもしれませんが、時代も離れすぎているので、なかなかに大変かと。
 ところで下世話な話ではありますが、大河ドラマは、放送される地域に100億円以上の経済効果をもたらすと言われています。例えば日経によると「どうする家康」(2023年)318億円(浜松市独自試算)、「鎌倉殿の13人」(2022年):約307億円(神奈川県内)、「西郷どん」(2018年):258億円(鹿児島県など、1次・2次波及含む)、「真田丸」(2016年):200億円(長野県上田市など周辺地域)という具合です。
数年前、上田市内のタクシーに乗った時のことですが、運転手さんが「いや〜、番組名がついているものの儲けは、全部NHKがもっていきますからねぇ。」と言っていました。版権ビジネスの管理は徹底しているようです。もちろんゆかりの地を巡る観光などで確実に交流人口は増加します。観光消費額が農業産出額に匹敵する地域も当然あり、その経済の発展に欠かすことのできない産業にまでなっているのもまた事実で、山形県におかれましても、将来的に農業県と観光県のどちらに立脚すべきか予断を許さない感じではあります。
 ただ、大河ドラマを単なる金づるとしか見ないのでは、やはり性根が疑われるわけでして、大河ドラマ化を熱望するのには、やはり別の理由があるかと。例えばそれは「推し活」、つまり「義光推し」とか。う〜ん、そういう人もいないわけではないのでしょうが、「推し活」というのは基本的に個人的なものなので、しかしながらそれゆえ、とんでもない消費活動の可能性も見え隠れするわけで。いや、いけない、また金の話になってしまった。
 とにかく「大河ドラマ化」したいという情動は一体なんなのか。こんな疑問を当館学芸員に問うたところ「ただ、ドラマとして見てみたい、ということなのでは。」という答えがかえってきました。あぁ〜、資本主義にまみれた自分を反省することしきりなわけでして、そうそう、地元に関係する人物のドラマがみたい、自分が知っている場所のドラマが見たいという、まあ、そういうことなんですなぁ。
 ただこれにも、すぐに面倒なことがおきてくるわけで、それはキャスティングのことです。当然これは、NHK様が決めることではありまして、誰がいいなどと不用意に言ってしまうと、決まる話も決まらなくなるのですが、実際、こうしたことでボシャった話もあるとかないとか。しかしながら、やはり勝手なことを言いたくなるわけで、例えるなら、WBCの先発オーダーを俺ならこうする、といったような類のどうにもならない話ではあります。
 以下、あくまで何気ない会話の中での話ですが、曰く、豊臣兄弟として柄本兄弟はどうかとか、曰く、伊達政宗は横浜流星さんで安田顕さんにも大役をとか、曰く、松田龍平さんとか佐藤二朗さんとかが出る作品は絶対に面白いとか、曰く、ムロツヨシさんやオダギリジョーさんも是非にとか、曰く、山田孝之さんや大泉洋さんはどうでしょうとか、まわりを固める俳優さんの名はいろいろ出てくるのですが、肝心の最上義光役についてはどうも名前が上がらず、その条件としては、180cm以上の長身で色白、怪力の持ち主となります。それ以上に難しいのが、義光の妹の義姫で、この人中心でドラマを動かしてもいいというくらいキャラがたって、ハードなエピソードをもつ人物でありまして、その条件としては、長身の美人で、しかも伊達政宗の母役もつとまる人ということになります。
 さて、この義姫が嫁いだ伊達輝宗、つまり伊達政宗の父は、戦国時代では数少ない側室を持たない武将でした。その理由をAIさんに尋ねたところ、「伊達輝宗に側室がいなかった理由は、公式な記録としては明確にされていません。しかし義姫を深く愛していたため、あるいは義姫の気丈な性格や、実家である最上氏との強固な関係を維持する必要性から、あえて側室を持たなかったのではないかと推測されています。」との回答でした。
 その背景として「夫婦関係の良好さ、跡継ぎとなる伊達政宗(梵天丸)を早々に産んでいる。最上義光との抗争や対立が激しくなる中で、家庭内での義姫の立場を尊重した」ことなどもあげています。義姫が嫉妬深かったという逸話もあり、また、非常に賢く、伊達家内でも強い影響力を持っていて、彼女の存在が、輝宗が他の女性を娶ることを躊躇させた可能性はあるともいいます。ちなみに、側室を持たなかった主な戦国武将は、山内一豊、前田利長、石田三成、明智光秀などで、いずれもそれなりの理由があるようですが、伊達輝宗の場合は憶測しかないようです。
 ということで、このキャラを表現できる俳優さんはやはり難しいのですが、かなり注目される役どころではあります。

■ 下世話ながら製作費の話
 下世話な話をもう一つ。NHK大河ドラマの制作費は、1年分(全48本)で約30〜35億円規模、1話あたり約6,000万円〜8,000万円前後とのことです。しかも戦国時代ものとなると、単なる時代劇とも違い、撮影所のセットや道具がそのまま使えるとも限らず、例えば屋外のシーンでも田畑などは1年がかりで作り上げたりします。
 とりわけ金がかかるのが騎馬戦とのことで、実は昨今の戦国ドラマにおいては、騎馬戦のシーンはかなり減っているとのこと。古い話で恐縮ですが1990年に公開された角川春樹事務所の映画「天と地と」は川中島の合戦を描いたもので、上杉軍を黒一色、武田軍を赤一色に統一し、「この夏、赤と黒のエクスタシー」というキャッチコピーのもと、CMがやたら流れていたことを記憶されている方も多いかと。その合戦シーンですが、実際の川中島が狭すぎるとして、カナダ・カルガリーで大規模ロケを実施。500頭馬と3,000人のエキストラを集め、1日8,000万円、総額25億円をかけたといいます。製作費は50億円なので、実にその半分がこの合戦ロケに費やされたました。ギリギリ、バブルの時代の話です。
 今ではAIを活用しフルCG(コンピュータグラフィックス)で製作すれば、騎馬戦の様子を俯瞰でもあおりでも自在に描けるとは思いますが、実は合戦シーンのような、多数のキャラクターを一度に描写する「モブシーン」というのは、CGでは技術的・表現的に非常に困難とされています。人物の動きや質感が実際とわずかに異なると不気味に感じることを「不気味の谷現象」と言いますが、モブシーンではこの現象が数百、数千のキャラクター分だけ増幅されてしまうのです。また、これを丁寧に解決しようとすると、これはこれで相当な費用がかかってしまいます。
 さて、最上勢と上杉勢が戦う「慶長出羽合戦」でありますが、地形的に騎馬戦となるのはわずかで、歩兵戦が主になるかと。また、平場で戦う兵のほとんどは普段、農民として生活する農兵で、その装備は、陣傘を被り、簡素なつくりの胴鎧、籠手、臑当などを装着するだけです。ということで、騎馬は少なく兵の装備も簡素であるとなれば、下手にフルCGなどとするよりも、地元エキストラを大量動員して撮影したほうが、それこそリアルで安上がりなものになるかも、と当館の学芸員は語っていました。そうなんです。まだまだこの地は、AIなどではなく労働集約型なのです。