最上義光歴史館

最上義光歴史館
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《2023年6月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年6月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (6/1 〜 6/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,955名
回答者数・・・・・・・・・・・・・15人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・12%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・0%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・41%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・6%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・6%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・24%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・12%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・100%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・73%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・27%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・60%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・33%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ掘�

〜利用者の声〜

東京都足立区 女性/30代
上杉家との関係が分かって面白かったです。

群馬県 女性/30代
刀の展示がとてもきれいで見ごたえがありました。駒姫のことなど知らないことが学べて面白かった。

東京都大田区 夫婦/60代
夫婦で歴史好き。旅行の度に博物館歴史館美術館などを巡り歩いております。歴史を義光さんから時代をさかのぼり、その後のことまでが佐藤さんから説明をいただき、つながりがよ〜く理解できました。すばらしい説明、優しいお人柄に触れさせていただき、良き思い出となります。感謝いたします。

北海道 男性/30代
江戸以降の最上家の展示もあったら良いかと(最上騒動)思いました。

東京都世田谷区 男性/60代
刀、書状いずれもすばらしい。歴史もよくわかる展示。無料とのこと。頑張ってください。

東京都杉並区 男性/50代
丁寧に歴史館の方が説明してくださり勉強になりました。ありがとうございました。

滋賀県東近江市 男性/70代
義光の文武両刃がわかった。永遠に後世まで存続することを望みます。「ボランティアさん」の熱意ある説明が最高でした。

北海道 女性/29代
詳しく説明してくださって、山形の歴史も知れて、良い時間になりました。ありがとうございました。

岩手県盛岡市 男性/60代
山形市内の観光マップがすごく良い。義光歴史館もそれで知りました。無料の良い勉強になりました。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。


 現在、上杉博物館で開催している「上杉景勝と関ヶ原合戦」後期展示に「長谷堂合戦図屏風(複製)」が貸し出されています。合戦図屏風というと、関ケ原合戦図とか川中島合戦図とか様々ありますが、東北の合戦を描いた屏風は希少とのことです。
 そもそも屏風は「風を屏(ふさ)ぐ」という風よけのための道具です。これになぜ合戦を描くのかというと、宮島新一山形大学教授(日本絵画史)から寄稿いただいた「歴史館だより��16」によれば、「近世に入ると合戦図は、時間の経過を追って場面が展開してゆく絵巻から、戦場の地形や展開する部隊を描くのに適した大画面、すなわち、屏風へと形式が変わってゆく」とあります(以下、「 」内はこの引用)。しかも屏風は折り畳みができ、紙蝶番により連続的な描画ができることも一因でしょう。
 合戦図の目的には二つあり、「一つは家祖の軍功を図化して世間に明らかにすること」。もう一つは、「合戦の状況を可能な限り調べて記録しようとする」こと。「それが文章で表現されれば「軍記」となり、絵画化されれば「合戦図」となる」。「長谷堂合戦図屏風」を描いたと伝えられる戸部正直は、実に、奥羽地方の永禄年間から慶長年間までの軍記物語「奥羽永慶軍記」40巻を著した人でもあります。
 ただ、記録性という点では、「(合戦図の)多くは時がたってから回顧的な視点によって描かれたものばかりである。」とのことで、例えば「長谷堂合戦図屏風」も、戸部正直が生まれたのは、最上義光の没後であり、「援軍として参陣した伊達勢はまったく無視されている。登場する武士の数は少なく」、「地形も無視されている」そうです。記録の精度とは別のところに意味があるようです。
 一方、実際の様子を残そうとした人もいて、徳川家康は関ヶ原の戦いに土佐派の絵師を同行させており、出来上がった関ヶ原合戦図屏風は、八曲二双の四隻三十二扇の大屏風だったそうです。通常の屏風は六曲一双、長谷堂合戦図もこの規格ですが、これを比較すると、テレビで言えば120インチと45インチぐらいの違いになります。
 また、絵巻などの日本の絵画は、文字と同じ方向、つまり右から左に向けて鑑賞しますが、これが時間軸にもなります。そして屏風にも時間軸を入れることができます。まず、扇(パネル)ごとに時節を変えていく方法。屏風の扇の順番は、向かって右から第一扇、第二扇と数えますが、この順に時間も流れていきます。花鳥画などは、春夏秋冬の順や12ヶ月順で描かれます。あとは金雲を使う方法。典型的なのが洛中洛外屏風で、金雲をさしこむことにより、時期が異なる祭りや風俗を描き、空間的にも建物などの位置を自在に伸縮させています。実は金雲は、場面転換のお約束ともなるものです。
 屏風の鑑賞にあっては、まずは俯瞰で全体像を目にするわけですが、先ほどの日本画鑑賞の方法に基づき、端から近付いて順に鑑賞すると、屏風の折り目の陰から不意に新たな図像が現れます。絵巻でも不意に新たな図像が現れることでは同じなのですが、屏風の場合は山折り谷折りにより図像が立体的に見えることがあります。大画面で、しかも立体的、これこそが屏風図特有のもので、実物を見に行かなければ体験できないことなのです。
 最後に屏風に係ることわざを一つ。「人と屏風は直には立たず」。これは、屏風は折らなければ立たないように、人も道理に縛られず、適当に妥協しないと、世間を渡って行けないということの意です。なんか夏目漱石の小説「草枕」の書き出しを思い出します。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」。屏風画もそんな悟りから出来るものなのかしらん。

〇 ここで屏風豆知識
 屏風の数え方ですが、パネルを扇、つながっている扇の数を曲、つながったものの数を隻(せき)といい、隻が二つで双といいます。つまり、八曲二双の四隻三十二扇というのは、二双=四隻なので、八曲×四隻、つまり八枚仕立ての屏風が四つで三十二扇からなっているということをあらわしています。双になっているものについては、向かって右側の屏風を右隻、左側の屏風を左隻(かつては左右逆)といいます。六曲一双というのが定番ですが、二曲一双でも結構なパノラマ感が得られます。

〇 ここで鑑賞豆知識
 日本画、とりわけ障壁、屏風、掛軸などの室内装飾的なものは、手前で畳に座って観るのが基本です。というのも、その作品が想定している視座になるからです。また、照明も重要です。作品が置かれる環境を再現するという点から、家屋に入り込む自然光というのが理想となります。特に金箔屏風などは、薄暗い屋内の中で金箔が輝くことでその効果が発揮されると言います。鑑賞位置も照明も展示側の課題となるわけですが、先進的な博物館や企画展示では、それに対する取り組みがなされています。例えば、観賞用に茶室を拵えたり、明かりが朝昼晩と移りゆくよう再現したところもあります。

〇 ここで雑ネタ
 右から左に向けて読むということは、マンガも同じです。マンガを横文字に翻訳するときは、左から読めるように、版を反転させたり左右のページを入れ替えたりしています。最近では、漫画の電子書籍化にともない、スマホで縦にスクロールして読めるようにコマ割りまで直したりしています。韓国では、最初からこのスマホ縦スクロール向けだけの作品を作る作家もいるそうです。まあ、四コマ漫画なら、最初から縦スクロールですが。


写真 長谷堂合戦図屏風(複製)


 最上義光歴史館における最重要展示物のひとつが、最上義光が所用した兜です。正しくは「三十八間総覆輪筋兜」。義光が長谷堂合戦で着用し、鉄砲玉を被弾したという兜です。兜といえば最近は、オータニ選手が被るものとなっていますが、私の世代で兜といえば、兜甲児でしょうか。

 さて、この兜は米沢市上杉博物館の展覧会 「上杉景勝と関ヶ原合戦」前期展示(4月22日〜5月21日)に、軍旗(伝直江軍部隊旗)とともに貸し出されていたのですが、先日、前期展示期間の終了早々に戻ってきました。この期間、上杉博物館では1万人を超える来館者があったとのことで、この兜もそれだけ多くの方にご覧いただいたことになります。かつて最上と上杉とは敵対関係ではありましたが、400年経った今、兜を貸し借りする仲になったということで、まずはありがたいことです。
 ところで、この兜の鍬形台には、「竹に雀」の図柄の家紋が据えられています。家紋に興味のある方は、アレ?と思われたかもしれません。最上家の家紋は「丸に二つ引き(丸二両筋)」ではなかったか、「竹に雀」というのは上杉家そして仙台藩の家紋ではなかったかと。当館の学芸員にきいたところ、この時代、いくつもの家紋を持つのはよくあるとのことです。縁戚を結んだ際などに、引き出物のように家紋のやり取りがなされたそうです。ちなみに伊達家には八つの家紋があるそうで、最上家においても、主な家紋として「丸に二つ引き」、「丸竹に雀」、「五七桐」、「十六葉八重菊」を持つそうです。
 まずは、「丸に二つ引き」。室町幕府を開いた足利氏の家紋であり、将軍家の象徴ともなっています。その形は、丸の中に二本線というシンプルなものですが、紋の丸の中に引かれる線は竜をあらわし、二匹の竜が天に昇る様子とのことです。
 山形城を築いた斯波兼頼は、足利家の一門であり、続く最上家ではこの家紋を代々使用しました。また、義光は、足利家から「義」の字をもらっており、このことからも大切にした家紋だそうです。一方、「五七桐」や「菊紋」は天皇の紋であり、後醍醐天皇から足利尊氏が授けられた紋が由来と思われます。
 そして「竹に雀」。この家紋の元来の出所は、藤原氏北家から分かれた公家の勧修寺家と言われ、上杉家の始祖はその流れとのこと。一方、伊達家の家紋は、伊達政宗の大叔父の伊達実元が、越後の上杉定実の養子になる時にこの家紋を受けたものです。しかし今では、この「竹に雀」紋は商標登録されており、類似デザインであっても使用許可が必要とのことです。
 もっとも、最上家、上杉家、伊達家、それぞれの「竹に雀」紋のデザインはだいぶ異なります。二羽の雀が竹笹で丸く縁どられているのは共通していますが、最上家家紋は竹の内側の三か所から三枚ずつ葉がでるもの、上杉の家紋は笹が図案化されたもの、伊達家の家紋は竹の外側に笹が国連紋章のように取り巻いています。それぞれ別名で、最上笹、上杉笹、仙台笹とも言われています。
 家紋の中の二羽の向かい合う雀のくちばしは、阿と吽の形となっています。ところが、その元となっている勧修寺家の家紋の雀は三羽で、左右一羽ずつ、もう一羽は上から見た姿になっています。そのくちばしは隠れているのですが多分、阿吽、ア・ウ・ンの中間ではないかということで、素直にとれば「ウ」の形でしょうか。ウッ、と言えばマンボですが、いやいや、そんなはずは。もう一度、かの家紋をよく見ると、そのくちばしは阿も吽なく、雀はただ、上下左右に軽やかに舞っているだけでした。


最上家家紋 「丸に二つ引き」、「丸竹に雀」


勧修寺笹  上杉笹  仙台笹 (いずれもwikipediaより引用)


三十八間総覆輪筋兜とその鍬形台部分の拡大
織田信長より拝領したと伝えられる最上義光愛用の兜です。


「最上笹」ピンバッチ400円(左)、缶バッチ200円(右)で好評販売中


「最上笹」ピンバッチには、豊富なカラーバリエーションもあります。



《2023年5月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年5月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (5/1 〜 5/31)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・2,141名
回答者数・・・・・・・・・・・・・19人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・16%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・0%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・16%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・5%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・37%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・5%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・16%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・74%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・16%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・11%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・74%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・21%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・5%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・68%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・26%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ機�

〜利用者の声〜

栃木県小山市 男性/60代
残念だったのは、上杉まつりに貸し出し中の展示物があったこと。ボランティアさんが丁寧に説明してくれました。

大阪府摂津市 女性/30代
刀のこと、山形のことが色々わかってよかったです。

神奈川県宮前市 女性/10代
高校生用の謎解き問題もあるとうれしいです。楽しかったです。ありがとうございました。

神奈川県川崎市 女性/10代
最上義光のことを知れてよかった。また来ます。ありがとうございました。

山口県山口市 女性/40代
無料なのはとてもありがたいです。とてもきれいに展示してありよかったです。

青森県青森市 男性/40代
米沢博物館に出品していた兜や屏風などを拝閲できなかったのが残念でした。次回また訪れて直に拝閲してみたい。

山形市 女性/20代
刀について知れてよかった

山形市 男性/80代
義光の字にフリガナがあり大変よかったです。(現代人はヨシミツと読む人が多い)

宮城県多賀城市 男性/70代
最上家がその後、どうなったかが判明しました。

新潟県燕市 男性/50代
最上義光について質問をしていろいろ知識がついた。一度見学後に説明を受けてよかった。ガイドのサービスは良いと思う。

山形市 女性/70代
刀を説明してもらいよかったと思う。

大阪府大阪市 女性/40代
無料でこれだけみられて良かったです。スタッフの方が駒姫について話してくださりより深く知ることができました。お寺に行ってみます。ありがとうございました。

山形市 男性/70代
マンツーマンの説明を受け、ますます興味を持ちました。去年山形に移住して、歴史館に早く行ってみたいと思っていましたが、今日来館し大変良かったです。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。


■ 呪術概説
 まずはじめに、呪術についていつものごとくGoogle AIさんにもきいてみると、「呪術とは、超自然的な力を用いて特定の願いや効果を引き出そうとする儀式や技術の総称です。歴史的・文化的に多種多様な方法が存在しますが、いかなる形であっても他者を傷つける行為や呪詛は法的なトラブルに発展する可能性があるため推奨されません。」とのことです。そうなんです。「孫末代まで呪ってやる」などと言おうものなら、孫末代からまで訴えられてしまうのです。「人を呪わば穴二つ」というものではありますが、「呪術という言葉には他者を害する目的のものだけでなく、本来は「祈り」や「願掛け」によって自身の運気を引き寄せたり、心願を成就させたりするためのポジティブな古来の秘儀も多く含まれています。」とのことです。つまり、「丑の刻参り」などの「呪詛」だけではなく、「おまじない」とか「ラッキーカラー」なども呪術の一種との説明がなされています。
 また、密教や陰陽道における秘術については、「日本の歴史においては、真言宗などの密教における祈祷(息災法や調伏法)や、陰陽道に基づく「式神」の使役、または社寺での「写経」や「読経」によって神仏の加護を得る方法などが体系化されてきました。これらは専門的な修行や知識を必要とする秘儀とされています。」とのことです。
 
 そして、「戦国時代の呪詛や呪術」についてAIさんは、つぎのように紹介してくれました。

1 敵を滅ぼす「調伏(ちょうぶく)」
 名を籠める:室町幕府の管領・細川政元は、政敵の氏名や罪状を書いた経文を大声で唱えて呪詛し、相手を恐れさせたことで知られています。これに対抗するため、呪詛を受けた武将が名前を変えるケースもありました。
 護摩祈祷:高野山や比叡山などの寺社に依頼し、護摩木を焚いて大掛かりな調伏を行いました。
2 占いや験担ぎ:軍配占いや辻占
 重要な合戦の前には、陰陽師や山伏、忍者などが占いや神おろしを行い、吉凶や進軍の日時を決定しました。
3 城や陣地の「結界・まじない」
 転用石: 石垣や建物の基礎に、五輪塔や仏像を逆さにして埋め込むことで、敵の呪い(呪詛)をはね返す結界として利用しました。
縄張りの風水: 城の設計(縄張)に風水や陰陽道を採り入れ、鬼門(北東)や裏鬼門(南西)を厳重に警戒しました。
4 自身を守る信仰:神仏の化身となる
 毘沙門天や摩利支天など特定の軍神を深く信仰し、自らが神仏の化身となって戦うことで、邪悪なものを祓おうとしました。

 また、「戦国時代の具体的な呪術」としては

〇 調伏(ちょうぶく)と呪術合戦
 敵の将兵を呪い殺すために、密教の最高級の秘法である「五壇の法」などが熾烈に行われました。室町幕府の管領・細川勝元が西軍を倒すために行ったほか、毛利元就が尼子氏との戦いで呪術合戦を展開した記録が残っています。
〇 九字護身法と忍術
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の印を結び唱える九字は、密教の宇宙観がベースになっています。忍び(忍者)たちは、精神を統一し、敵の恐怖心を煽る心理的戦略(妖術の演出)として活用しました。
〇 軍配者と祈祷師
 ほとんどの大名には、戦の吉凶を占う「軍配者」や祈りを捧げる「祈祷師」が付き従い、合戦のタイミングから城の建築方針に至るまで超自然的な力を借りて決定していました。
 以上、AIによるまとめであります。

■ 調伏と調略の話
 戦国時代は武力だけでなく、神仏の力を借りた目に見えない「呪術合戦」が勝敗を左右すると信じられていました。勝利祈願の「加持祈祷」だけでなく、敵を呪い殺す「調伏(ちょうぶく)」や「妖術」などが実戦で深く信じられていたとも言います。
 まず、戦国時代の「調伏」とは、敵の悪意や怨敵を仏教や陰陽道の力で打ち砕く呪術のことです。武将たちは、寺社に祈祷を依頼したり、陣中で自ら呪術を行ったりしていました。護摩木を焚きあげたり、敵陣に向かって「調伏の矢(魔除けの矢)」を射込んだりしました。また、調伏という行為は、単に敵を呪い殺すだけでなく、自軍の士気を高め、心理的な優位性を保つための戦略的なものでもありました。
 また、式神を使って敵の呪詛を防ぐ「身固め」や、悪霊を退けるための歩行法(禹歩や反閇)が戦国武将たちの間で重要視されました。当時の軍師(軍配者)は陰陽五行を取り入れ、出陣の吉凶や方角、天候を占う際に式神の概念を活用しました。彼らは陣中で「式占(しきせん)」を行い、敵の動きを封じる呪法を唱えたとされています。
 一方、「調伏」と似た言葉に「調略」という言葉があります。戦国時代の「調略」とは、武力衝突を避けて敵を内側から崩す謀略のことです。情報工作や金銭、領土の約束で敵将を寝返らせること(内応)で、最小限の犠牲で城や領地を乗っ取るための極めて実戦的な戦略でした。戦国大名たちは無用な消耗を避けるため、正面から城を攻める前に必ずこの調略を駆使しました。その主な手法としては、敵の家臣を金品などで寝返りを促す内応工作、「あの武将が裏切るらしい」などの流言飛語、兵糧攻めなど敵を孤立させる戦法などです。
 なお、軍師については小和田哲男(静岡大学名誉教授)が著した記事(「歴史街道」2014年1月号)に、つぎのような説明がありました。
「実は作戦の立案は軍師の役割の1つにすぎません。むしろ、作戦参謀を務めた軍師は戦国時代中頃に登場し始めた人たちで、それまでの軍師というのは、占いや祈祷といった呪術的な仕事で武将に仕える存在でした。
 例えば、出陣に際して吉凶を占い、日時や方角などをアドバイスしたり、何か縁起の悪いことが起これば、御祓いをしたりといった具合で、「戦術」ではなく「占術」が元々の軍師の仕事です。これを担ったのは主に陰陽道に通じた僧などで、吉凶を占う際に軍配を用いたので彼らは「軍配者」と呼ばれました。
 そもそも軍師とは、江戸時代に軍記物などで描かれて生まれたもので、戦国時代には軍師という役職はありません。しかしあえてその定義をするならば、専門知識や智略をもって軍事や政略などを担い、主君に仕えたスタッフといえるでしょう。広い意味では参謀役の智将もこれに該当します。
 さらに戦国時代の中頃から、軍配者以外に作戦立案を担う参謀型の軍師が登場します。まだ将兵の数が数百や数千の範囲であれば軍配者のマインドコントロールが有効で、士気が戦いの勝敗を大きく左右しましたが、各地で有力な戦国大名が生まれ、大きな規模の戦いが行なわれるようになると、兵力の数とその運用がものを言うようになります。そのため、占術を行なう軍配者型の軍師よりも、陣立や戦術を練るような、一般的によく知られている参謀型の軍師が求められ、主流になっていきました。」
 戦国時代の軍師の大きな仕事の一つに、敵方との交渉がありました。戦いになれば犠牲が出ますし、出費も大きく、できれば、戦わずに丸く収めたいと考えるのは戦国大名にとって当然のことです。そこで、外交に長けた軍師が活躍することになりました。

■ 荼枳尼天(だきにてん)の話
 先に、武田信玄や上杉謙信が信仰していた「飯綱権現」を紹介しましたが、彼らを始め多くの戦国武将が信仰していた神仏に「荼枳尼天」がいます。あらゆる願いを即座に叶える強力な神通力を持つとされ、戦国時代は「怨敵退散」や「戦勝祈願」の軍神として深く信仰されました。元々は人間の死期を予知し、死者の心臓を食べる恐ろしいインドの夜叉ダーキニーでした。それが大日如来(大黒天)に調伏されて仏教の守護神となり、願いを叶えてくれる善神へと変化しました。
 日本では狐を操る神として「お稲荷さん」と習合し、城の守護神として城内に稲荷社を建立し、また、天守閣の最上階にはお稲荷さんが祀られていたりします。「荼枳尼天」の真言はいくつかありますが、お稲荷さん(稲荷大神)の真言である「オン キリカク ソワカ」も唱えられるようです。お供え物としては、白狐に乗っていることから、油揚げのほか、柑橘類を好むとされています。
 さて、この荼枳尼天で有名なのが愛知県にある「豊川稲荷」で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、多くの戦国武将からも深く崇敬されてきました。稲荷とはいうものの実は曹洞宗の寺院で、正式名称は「妙厳寺」。本尊は千手観音菩薩で、鎮守として祀られているのが「豊川吒枳尼眞天」。稲穂を背負い白い狐に跨っている姿から「豊川稲荷」として親しまれています。なお、豊川稲荷には鳥居があり狐が祀られているのですが、やはり「寺院」とのことです。

■ 「桶狭間の戦い」の話
 「豊川稲荷」の荼枳尼天を深く信仰し、同寺を保護し、山門を寄進した戦国武将に、今川義元がいます。今川義元は「桶狭間の戦い」(1560年)で織田信長に討たれるのですが、信長も豊川稲荷の鎮守である「豊川吒枳尼眞天」に戦勝祈願や武運長久を求めて深く帰依してしました。ただし信長は「桶狭間の戦い」の直前に「熱田神宮」に参拝し戦勝を祈願しました。その際、神社の社殿から二羽の白鷺が飛び立ち織田軍を勝利へ導いたという伝説があり、境内にはその記念碑が残されています。熱田神宮の主祭神は熱田大神で、草薙神剣を御霊代とする天照大神ですが、「桶狭間の戦い」は実に、豊川稲荷と熱田神宮の戦いというより、二股をかけた織田信長の勝ちということのようです。
 さて、織田信長は自身を「第六天魔王」とも名乗っています。第六天魔王とは、仏教において、欲望の世界である「欲界」の最上部(他化自在天)に君臨する魔王のことで、悟りを開こうとする者を妨げるとされています。なぜにこのような魔王を名乗ったかというと、比叡山延暦寺の焼き討ちなどを非難してきた武田信玄が信長に、天台宗のトップである「天台座主沙門信玄」と署名した書状を送ってきたことに対し、信長は怒り、自分を「仏敵・魔王」になぞらえる形で「第六天魔王信長」と署名して返書を送ったことからとのことです。
 織田信長は、戦国時代の陰陽道や軍配者(易者)を軍略や権力基盤の強化に巧みに活用していました。合戦の時期や方位の吉凶を占う陰陽師的な役割を持つ軍配者を側近として抱えており、代表的な人物として「伊束法師(意足法師)」が知られています。
 しかしながらGoogleAIさんによると織田信長は、戦国時代の「呪術」や「占い」といった非合理な慣習を徹底的に排除した超・合理主義者として知られており、それでも彼は自らを「神」として演出する政治的パフォーマンスに長け、合理性と呪術を巧妙に使い分けた人物、とのことです。

■ 首実検の話
 「桶狭間の戦い」後、信長は長福寺(名古屋市緑区)で今川義元の首実検をしました。その後、義元の首は清須の須ヶ口に晒されていましたが、それでも抵抗を続ける今川軍の鳴海城の岡部元信に対し、信長は開城を求めていました。元信は「太守様の首と引き換えに城を明け渡そう」と返し、信長はその忠義に深く感じ入り、首を棺に丁重に納めさせ、わざわざ同朋にもたせて駿府に送り届けました。また信長は、熱田に通じる街道の脇、清須城の南入口に義元の供養塔である「今川塚」を建て、千部経を読経させました(現在は清須市の正覚寺に)。その他義元に関わる塚は、豊川市の大聖寺に胴塚が、西尾市の東向寺に首塚があるそうです。また、義元が所持していた名刀「義元左文字(宗三左文字)」は信長の手に渡り、愛刀となりました。
 しかし、負けるはずのない戦いに敗れた今川義元の遺恨は強烈なものだったらしく、義元の軍で多くの戦死者が出た愛知県周辺の地域では、かつて怪異や鬼哭(亡霊が泣き叫ぶ現象)が多発したという伝承があります。これを鎮めるため明治21年、愛知県豊明市に一草庵が建てられ、怪異現象はなくなったとのことです。
 こうした首実検にまつわる怪異話は、前出の伊藤清郎先生の論文にもあるので、ここに引用します。
 「「羽陽軍記」の「首実検之事」には、長谷堂合戦後における首実験の様子が描かれている。上山を守備していた里見兄弟は、攻めてきた上杉勢の上泉主水正の首を取ったのであるが、「今朝まで主水正の首がしおれず、黒目もみえず、口を開き時々目を開き、動くように見える」ので最上義光に報告したところ、義光は「実験次第様々有り、大将の首ヲハ対面と云、盃杯指事あり、其外ヲ実験と云トモ、天眼と云ハ眼玉天ヲみる様なり、眼玉左をミルハ左眼、此ニツハ味方不吉也、眼玉地ヲ見るハ地眼、右ヲ見るハ右眼、是ハ味方吉事也、眼中二付ハ、和平之首と云、舌を出し口をあきたるヲ遺恨の首と云、煮させ見るへし」といつたので、里見兄弟は大釜で煮てみたところ、首はしおれることもなく、時々目を開き動くように見えたので、雑人たちは皆立ち騒ぎ逃げてしまった。
 そこで義光は、修験の行蔵院に命じて檀上に首を据え、七日間護摩を修法させたところ、七日目ににっこり笑い、目をふさぎしおれた。それで「柴の観音堂」の下に深く埋めたと、記されている。
 大将の首とそれ以外の首、眼の方向によって天眼・地眼・左眼・右眼・眼中、和平の首・遺恨の首等とよばれ、区別されていたことが知られる。特に遺恨の首の場合は、大釜で煮ることもなされた。それでも死者の遺恨が治まらないようなときには、修験者による柴燈護摩が焚かれたのである。首実験の作法については、笹間良彦氏の詳細な考察があるが、怨恨にたちうちできるのは、呪術しかなかったのである。怨霊に対する中世人のおびえが、近世初頭の人々にも続いていることがわかる。」
 そうなのか、どうもやばい首はひとまず大釜で煮て、それでもしおれない場合は護摩をたくのか。そうそう役に立つ知識でもなさそうですが、義光の時代には必須のことであったようです。

■ 起請文と最上義光の話
 さて、最上義光は呪術の他、立願(りゅうがん)や起請文(きしょうもん)により神仏に誓いや祈りをたてており、その文書も残されています。ちなみに立願とは、神仏に対して、願い事の成就を祈り誓うことで、特定の目的を達成するためのものです(例:病気平癒、戦勝祈願など)。一方、起請文とは、神仏に対して自分の言葉や約束に偽りがないことを誓う文書(誓約書)で、破ると神仏の罰(ばち)を受けるそうです。前出の伊藤清郎先生の論文には、「もし約束を破ると神仏の冥罰・仏罰を毛穴毎に蒙り、業病に罹患し(特に皮膚病)、属する共同体や生活空間から排除され、周縁にある宿などに追いやられて長吏の下で物乞いなどして生活をせざるを得なくなり、遠からず死を向かえることになる。」とまであります。また、「起請文の文書様式は前書と神文からなり、前書には約束の内容が記され、神文には誓いを立てる神仏の名称が記されている。」とのことです。
 また、「立願からは、最上領国内でも有力寺院である立石寺や慈恩寺、それに出羽三山の一つ湯殿権現への強い信仰がみられる。湯殿山との関係でいえば、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際に、誓願時(山形市)の上人が徳川家康の戦勝を祈って湯殿山に48日山籠を行い、さらに八日町の町人 108人が最上軍の勝利を祈って湯殿山へ参拝している。そこで最上義光は勝利の後、八日町に三山参詣宿の特権を与えたので、その後八日町は大いに繁盛し」とあります。
 一方、義光の起請文においては「「密教的仏神」→「日本全国」→「出羽国」→「最上郡」→「殊に天満自在天神」という大系が、義光の頭の中にできていたことが理解されよう。それに触穢思想が染みこんでいる。「月山・葉山・羽黒それに両所の宮」が神文に登場しているのは、在地的・山形的である。」とのことです。
 比較対象として伊達政宗の起請文は「「梵天・帝釈・四大天王・堅牢地神」「日本国大小神祇」「熊野三所権現・春日大明神・愛宕山・八幡大菩薩・摩利支尊天」が見えても、出羽固有の神の名前は出てこない。祖父晴宗の代には、天文の乱後、米沢に拠点を移し、輝宗・政宗と三代にわたって出羽国に居住しながらも、相変わらず伊達家・政宗の帰属意識はいまだに陸奧側にあることが読みとれる。」と指摘しています。つまりは、信じる神仏にはローカル色も現われてくるというわけです。
 論文では「起請文は極めて中世的な文書様式であり、十二世紀頃に成立して十六世紀末・十七世紀初頭には歴史的終焉を向える。それ以降はあっても形骸化していくのである。」としながらも、「起請文が、形骸化の兆候を示しながらも、戦国最末期から近世初頭(豊臣期・江戸初期)においてもまだ機能をしている様相が見てとれよう。さらに最上義光の精神構造の中には、顕密大系に基づいた神々の体系が存在していることも理解されよう。」としています。

■ G2等に対抗する呪術の話
 さてさて、今回なぜに呪術の話になったかというと、G2体制となれば日本のプレゼンスは危うくなるという話から始まったわけですが。
 そこでまずは、日本古来の呪術について簡単に述べますと、仏の力を用いる「調伏」、鬼神怨霊や生霊などの「物の怪」、陰陽師が使役する「式神」、「蠱毒」を使うものなどがあります。アニメ好きの外国の方の中には、きっと日本には式神を召喚できる人がいると、半ば本気で思いこんでいる人がいるかもしれませんが、式神自体、目に見えるものでないとされており、なにがどうなっているのかはみえません。まあ、「いるかもしれないし、いないかもしれないし」という思わせぶりで威嚇するのも手かと。
 一方、中国の呪術の代表的なものとしては、護符や呪文を用いる「符呪術」、毒虫を使った「蠱毒(こどく)」などがあり、こうした呪術や、まじないによって他人に害を加えることを「巫蠱(ふこ)」というそうです。また、星の力と歩行術を組み合わせた「禹歩(うほ)」やと中国の道教における大規模な祈祷・祭祀儀礼「齋醮(さいしょう)」もあります。そのほとんどは、日本の陰陽道や修験道などにとりいれられてもいます。
 少々具体的に説明すると、「符呪術」は神仏の文字や図形を特殊な紙に朱墨で書き込んだ「符(お札)」と、言葉の力である「呪(神呪)」を組み合わせた術です。呪文の最後には通常、「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」とあり、これは「律令のごとく速やかに」という意味で、メールでいう「ASAP」とか「なる早」とかと同じようなものです。
また、「蠱毒」とは壺の中に複数の毒虫(ムカデや蛇など)を入れ、共食いさせて最後に生き残った最強の毒を抽出するもので、他者を呪い殺したり、富を奪ったりする黒魔術として恐れられました。
 「禹歩」は、北斗七星の配列に合わせて歩くと、大地の呪力を身にまとったり、邪気を払ったりする歩行術。日本では「反閇(へんばい)」という修験道や陰陽道の歩き方として受け継がれているそうです。このように中国の呪術は、いずれも日本の先輩格にあたりかなり手ごわいと思われるものですが、陰陽道の式神とかでなんとか対抗を。
 以上の呪術は、AIさんに教えてもらったものですが、これにAIさんは、どさくさに紛れて「房中術」も呪術として拾ってくれました。「男女の交合を通じて陰陽の気を調和させ、健康維持や不老長生(仙人になること)を目指す術。」とのことですが、ほっとくとこのままインド方面の話まで飛びそうなので、まあ、これも呪術なのかと。
 続いて、アメリカ先住民の呪術ですが、自然界のあらゆるものに精霊や霊力が宿るという「アニミズム」に基づいています。彼らは呪術的な儀礼を通じて、自然との調和を保ち、病の治療や豊猟・豊作を祈願してきました。なので、相手を呪うようなものではなく、シャーマンによる癒し(メディスンマン)や薬草の煙などによる浄化(スマッジング)、タバコや薬草をパイプに詰めて煙とともに祈りを天へ届ける「聖なるパイプ」などで、いずれも攻撃的なものではありません。「新自由主義」の方がよほど攻撃的か。
 そして、ロシアの場合はというと、呪術というか魔術でして、スラヴの民間伝承に根差す自然崇拝・呪術と、正教会の神秘主義が融合したものです。ロシア魔術を構成する主な要素としては、バーバ・ヤーガ(Baba Yaga)という薬草や呪術に長け善悪両面の顔を持つ魔女と、ヴェダ(Veda)という自然の力(薬草や水、四大元素)を利用した民間信仰や治療術とのことです。ただ、これらの呪術は現在でも広く庶民に信じられているとのことで、そうか魔女が相手か、しかも現役、これは難敵だなぁ。
 ところで、かの戦争の末期には、本土決戦にむけて竹鎗の訓練がなされていたそうですが、もしかして小型ドローンとかは竹鎗で突くことができるのでは。呪術合戦でダメなとき、最終手段は竹鎗かと。


 休日などには開館時間前から来館される方がいます。そのほとんどが「日本100名城選定記念スタンプラリー」の山形城のスタンプが目的です。当館の他、山形市郷土館や二ノ丸東大手門櫓にも同スタンプが置いてあります。
 この「日本100名城」は、財団法人日本城郭協会が2006年に定めたもので、北は北海道「根室半島チャシ跡群」から南は沖縄「首里城」まであり、全てを回るには相当な時間と費用を要します。しかしながらそれは、城にまつわる歴史に触れ、あるいは地元名物料理を堪能するなど、得るものも多い旅かとも思います。それにしてもお城好きというのは恐ろしいもので、私の知り合いにも、私からは単なる原っぱにしか見えない城跡でも、その場でしばらく想いを巡らせ、歴代の領主や領土の変遷をすらすらと物語る人がいます。
 さて、「日本100名城」よりも昔に「日本百名山」というものがあります。小説家の深田久弥が1964年に著した「日本百名山」で、北は北海道「利尻山」から南は屋久島の「宮之浦岳」まで紹介されています。これを踏破するには「日本100名城」とは比較にならないくらいの時間と資金と体力が必要で、登れる期間や天気の具合などその困難さは想像に難くありません。実はかつての職場の同僚で、全てを踏破した人がいますが、登山時にはスタンプ帳、いや、御朱印帳を持っていくそうです。
 名山ともなれば山の神が祭られていることも多く、それを拝むために山を登ることを「登拝」と言います。県内には月山や鳥海山の山頂に御朱印がいただける神社があります。その同僚は、御朱印帳を神社とお寺とに分けているのはもちろん、神社はその社格、つまり一宮ならそれだけの御朱印帳としているそうです。私も御朱印帳は持っていますが、伊勢神宮も東大寺も一緒の神仏混交タイプです。
 余談ですが、奈良・京都あたりで御朱印をいただく時には、清水寺とか平安神宮とかの御朱印帳だと、いかにも観光で得た御朱印帳かと授与所の方に一瞥もされない感じですが、山寺立石寺とか出羽三山神社とかの御朱印帳であれば、一目置かれる気がします(あくまで個人の感想ですが)。
 もうひとつ当館に関わるスタンプラリーとして、山形市観光協会の「開運 城下町山形七福神」という市内7か所に置かれた七福神を巡るものがあります。当館もそのスタンプ場所のひとつとなっており、七福神のうち布袋尊が置かれています。七福神を毎朝一巡りしている「義光会」の方がいますが、その方によると約7千歩程度で巡れるとのことで、健康増進にも最適です。実は先日、在京のTV局がその七福神のロケ撮影で当館にきました。某タレントさんが1万歩を歩き、その土地を紹介する番組だそうです。もっとも最近の研究では、1万歩だと体に負担がかかりすぎると言われていますが、55歳のヒデさんはどうなのでしょうか。

〇 ここで豆知識
 「日本百低山」というのもあります。2001年12月に山と渓谷社から刊行された「日本百低山」で紹介された、標高1500メートル以下の山々から選定された山々です。NHKでは、酒場詩人の吉田類さんが全国の低山を訪ね、帰りに山の麓の居酒屋で一杯やるという番組「にっぽん百低山」を放送しています。その番組のタイトルには「山高きが故に尊からず」という言葉が添えられています。当館も「日本百小博物館」とかになれれば。

〇 ここで最新情報
 今年の10月1日には、山形城の御城印も登場する予定です。詳しくは後日お知らせいたします。通常のものの他にスペシャルカードもあるそうです。乞御期待。


当館の入口にある各種スタンプコーナー


当館に置かれている布袋尊像