最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 前回、前々回と他館の展覧会の紹介が続いてしまいましたが、ここで当館の企画展示の紹介も。10月2日から来年1月5日の期間、「最上義光と連歌 〜文化人たちの集い〜」と題して連歌資料を展示しています。最上義光は連歌を得意としており、義光および連歌会で一座した文化人たちも紹介しています。
 とは言え、連歌を読み下し、その背景までを理解するのは、なかなか大変でありまして、当館学芸員も、どう展示解説したらいいのか苦労していました。先日、「歴史探偵」という番組で最上義光をとりあげていただき、そこで、ある連歌にある「変わらじとのみ 契りつる仲」という句が紹介されていました。この句に続けて義光が詠んでいるですが、現在その原書を展示しています。それを見ると「可ハらしと乃ミち起り津る中」と書きつけてありまして、変体仮名などが暗号のように並び意味を読み取るだけでもなかなか難儀です。そこから、この元歌はもしかして、源氏物語の松風あたりのあの句かしらん、などと推測していくわけです。資料研究の醍醐味ではありますが、これを一巻につき100句、まさしく100本ノックという感じで、それなりの気力と体力が求められます。


何路連歌百韻「変わらじと〜」部分


連歌巻、連歌写本、連歌新式 等を展示

 ということで今回は、本来ならば連歌をネタに引っ張りたいところではありますが、まずは読書の秋ということで、江戸時代の本のご紹介でも。とりあげるのは「可笑記」、「土芥寇讎記」、「松平大和守日記」の3冊で、いずれも江戸時代の史料としてはよく知られた本ではあります。正直、私自身としては斜め読み程度での紹介で、しかも内容的には最上義光とあまり関係ないのですが、多少、山形と関係のある本であります。
 まずは、「可笑記」。ちょっと変わった表題ですが、その由来は序文に「浮世という川の波に漂うひょうたんの、浮きに浮いた心にまかせ、よしあしの分別なしに、難波入江の藻塩草をかき集めたような冊子」、「読者の笑い、手を拍つことは必至。ゆえに名づけて『可笑記』と呼ぶ次第」とあります。自分の著作を卑下するとともに、時の権力者への批判の言説をくらまそうとしたのでは、とのことです。
 著者は如儡子(にょらいし)とありますが、本名は斎藤清三郎親盛といい、父の盛広は最上義光に仕え、親盛自身は義光の子・家親の近習衆となります。親盛という名は、元服のとき家親から一字を与えられたものでしたが、最上家の国替により、父子とも浪人となってしまいました。その生活は安定せず、本作では、「浪人払い」という新たな法度に対し批判的に書かれるなどしており、浪人の苦労が偲ばれるものともなっています。
 この「可笑記」は全5巻280段からなり、「徒然草」の近世版ともいわれ評価されています。武士のみならず一般市民にまで多くの人に読まれ、その後、多くの追随作品を生み、井原西鶴も本書に倣い「新可笑記」というものを発刊しています。この活字本は、「仮名草子集成」第十四巻(1993年東京堂出版)に所収されています。また、140段程度を選抜し「可笑記」の解説も付いている本も1979年に教育社から出版されており、中古で千円程度で入手できます。
 続いて「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」ですが、この書名は「孟子」卷之八にある「君の昆を視ること土芥の如ければ、則ち臣の君を視ること寇糧の如し(殿が家来をゴミのように扱えば、家来は殿を親の仇(かたき)のようにみる)」からとられています。ただその内容は、元禄3(1690)年頃の諸大名242人について書かれた紳士録のようなもので、単なるプロフィールにとどまらず、文武の素養、近親・世間の評判、性癖、領土の産品まで記されています。全国諸藩を同時期に調査し、その町中の噂すら採取されていることから、複数の著者によるものらしいですが、それが時の幕府や徳川綱吉の命によるものなのかは定かではなく、前書きも奥付も全くない史料のため、目的などいまだ不明の史料とのことです。
 「土芥寇讎記」の記載項目は、その出生、官歴、家族縁者、家臣、居城、領土、特産物、行状(才知、文学、武道・武芸、人遣い、仕置、性傾向、智愚、逸話、世評)などです。内容的にはなんとなく「ミシュランガイド」と「地球の歩き方」を足したような感じでしょうか。この活字本も出ていて、新人物往来社刊で定価6,500円です。古書店ではこの定価以上の値で販売されているようです。
 山形城主としてこの「土芥寇讎記」に載っているのは松平直矩(なおのり、1642〜95)で、徳川家康の男子直系の曾孫です。父の直基(なおもと、1604〜48)も山形城主(1644〜48)になったことがあるのですが、直基からそのまま直矩に引き継がれたものではなく、直矩は直基の長男ではありますが、山形城主(1686〜92)となるまでに、別の城主が3代も交代しています。直矩は父の代から7度もの転封があり「引越し大名」とまで言われるほどですが、その親子がそれぞれ山形に着任しているわけで、そこは脈絡もなく次々と城主が変わる山形城たる由縁というか、面目躍如というべきか、よくわかりませんが。
 また、直矩は17歳から54歳で亡くなるまで、とにかく日記をマメにつけていた人で、その「松平和守日記」は、江戸の武家文化を知る上では、知る人ぞ知る貴重な史料とされます。特に能や狂言などの観劇記録は、近世演劇の第一級資料とのこと。日記のうち越後長岡にいる時分の日記が活字化されていて、上中下の3冊組で各巻定価5千円ですが、中古で3冊1万円でこれを入手しました。
 日記の内容ですが、日々の来訪者や贈答品、観劇、参勤交代の経由地などが事細かに記録されていますが、その良し悪しなどの評価は一切なく、また、領地や藩政、治世などの内容についてもありません。当館学芸員によると、政(まつりごと)について記録しなかったということは、賢い人であったな、とのことです。参勤交代で江戸にいる期間が長く、転居も多い人だったため、このようなものになっているのかもしれません。人の往来や物の行き来、舞台演目などがたんたんと書いてあるだけなのですが、見れば見る程、じわっと面白みがわいてくる本で、その沼に入っていきます。
 さあ皆様も、古書の沼に立ち寄ってみませんか。


( → 館長裏日誌に続く)
 前回、上杉博物館の催しをご紹介しましたが、同じ9月10日から、仙台市博物館では特別展「親鸞と東北の念仏」が開催されています(11月4日まで期間中展示替えあり)。「2023年に浄土真宗の開祖・親鸞(1173〜1262)の生誕から850年を迎え、また、2024年は親鸞が主著『教行信証』を著してから、ちょうど800年となります。〜この展覧会は、浄土真宗各派の本山や東北各県の寺院などに伝わった文化財を通じ、東北における浄土真宗の展開について紹介するものです。」とのことです。
 国内の仏教宗派においては、浄土真宗がもっとも多いのですが、最上家の菩提寺は初代、2代を除き曹洞宗であり、また、伊達政宗の菩提寺の瑞巌寺は臨済宗で、両方とも禅宗ではあります。ただ、最上義光は、その菩提寺こそ曹洞宗の光禅寺ですが、父義守との相克のあった時期に、家督相続という本懐を遂げたあかつきには「他宗住居」を認めないとする願文を献じたのが山寺の立石寺(天台宗)で、その後も納経堂を修造したりしています。
 さらに義光の親族の菩提寺は、義光とは違う宗派であることが多く、暗殺された長男の家親は、義光によって常念寺(浄土宗)で菩提を弔らわれ、義光の妹の義姫は、伊達政宗が母(義姫のち保春院)の供養のために建立した保春院(臨済宗)を菩提寺としています。そして、秀次事件に連座した義光の二女の駒姫と、それを悲しみ後を追った義光の妻の大崎夫人の菩提寺は浄土真宗の専称寺です。専称寺は、文明15(1483)年に蓮如上人の高弟である願正が、現在の天童市高擶(たかだま)に草庵を建てたことに始まり、大崎夫人が浄土真宗に帰依していたことから、駒姫を供養するため義光が、高擶にあったこの寺を山形に移しました。慶長3(1598)年に現在地に移転し、13ヶ寺の塔頭を持つ寺町となりました。
 義光自身は信仰心に厚く、その愛用した指揮棒には「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光(清和源氏で山形出羽守である義光は、剃髪していないが仏に仕える身である)」と彫られています。さまざまな宗派に分け隔てなく関わるのもいいのですが、宗派が違うとちょっと面倒なこともあります。まあ、焼香するときに1回拝むのか、2回拝むのかぐらいは見逃してもらうとして、浄土真宗と他の宗派との決定的な違いの一つは、「般若心経」を唱えるかどうかです。浄土真宗が他力本願を教えとしているのに対し、「般若心経」は自力で仏に近づくものとするからです。一方、浄土宗は、他力本願を考えた親鸞以前からの宗派のため「般若心経」はありです。
 つまり、駒姫の菩提寺である専称寺では「ギャーティー、ギャーティー」などとは唱えず、「南無阿弥陀仏」と唱えることとなります。それが、秀次事件で親族等と共に処刑された駒姫の菩提を弔う京都の瑞泉寺は浄土宗なので、「般若心経」でも「南無阿弥陀仏」でもいけるということです。
 浄土仏教は、「阿弥陀仏(阿弥陀如来)」の本願により、観仏や念仏によって極楽浄土に往生することを説く宗旨です。阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主で、この如来を念ずる人を極楽浄土に往生させてくれるそうです。また、「南無阿弥陀仏」の六文字は六字名号とも言われます。
 では、この「南無阿弥陀」の意味ですが、「南無」はサンスクリット語の「ナモ」に由来し「感謝」の意味で、ヒンドゥー語の挨拶「ナマステ」も語源は同じなのだそうです。「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターバ」(無限の光明:無量光如来)や「アミターユス」(無限の命:無量寿如来)からきた言葉です。いずれにしても音写の宛字です。阿弥陀如来というのはアミターバとアミターユスという2つの仏が合わさって生まれた如来であるという説と無量如来(アミタ)という仏がいたという説があるそうです。
 とは言え、「あみだ」というと私のような俗人はつい、「あみだくじ」とか「アミダばばぁ」(知っとるケ)とかを思い浮かべてしまうのですが、これをなぜ「あみだくじ」と言うかというと、もともとはあのハシゴ状のものではなく、真ん中から外に向かって放射線状に線を書いたもので、それが阿弥陀如来の後光に似ていたことから「あみだくじ」と言われるようになったそうです。
 そこで思うのですが、パリオリンピックの柔道競技男女混合団体戦の代表戦の決定方法がデジタルルーレットだったことに、なんとなく疑念を抱いた人も少なくなかったようで、ここはあみだくじで決めればよかったのではと思うわけです。そうすれば、あみだくじをしている最中に、日本応援席からはあの唄が歌い出され、きっと相手チームはひるんだのではないかと。もっとも欧米では「あみだくじ」にはなじみがないそうで、ネットでフランス語に翻訳しても「Amidakuji」としかでてきませんでした。フランス語で発音すると、ちょっと早口で鼻母音、つまり鼻から音を抜く感じで「アンミンダァクジッ」とか言うのかしらん。


( → 裏館長日誌に続く)
「常設展/企画展示3「最上義光と連歌 〜文化人たちの集い〜」」の画像
■名 称
令和六年度 常設展/企画展示3
「最上義光と連歌 〜文化人たちの集い〜」
 
■会 期
令和6年10月2日(水) 〜 令和7年1月5日(日)  

■内 容
収蔵資料から最上義光が連衆(参加者)として一座(同席)した連歌資料や義光と連歌に係わる資料を展示公開し、義光と連歌会で一座した文化人たちを紹介しながら、併せて最上家の文化度の高さなどを紹介します。

■展示資料
1.「連歌新式」写本 最上義光注/里村紹巴加筆 木藤才蔵氏寄贈
2.「賦何舩連歌」慶長元年(一五九六)十二月二十五日興行
3.「何路連歌百韻」慶長ニ年(一五九七)八月七日興行
4.「賦何墻連歌」慶長三年(一五九八)卯月十九日興行 山形県指定有形文化財
5.「賦春(青)何連謌」慶長五年(一六〇〇)正月興行 山形市・光明寺蔵 山形市指定有形文化財 
6.「里村昌叱書状」宗澗宛(篠屋宗礀か) 伊藤芳夫コレクション
7.「三部抄」里村紹巴筆(里村玄仍筆) 伊藤芳夫コレクション 山形県指定有形文化財

■入館無料
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