最上義光歴史館

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「よしあきフェスタ2026
in街なか賑わいフェスティバル2026」への参加


山形市の秋恒例イベントとなっている「街なか賑わいフェスティバル」が、今年も10月10日(土)秋晴れのもと開催され、義光会も「よしあきフェスタ2026」コーナーを設けて参加しました。

「街なか賑わいフェスティバル」とは、平成23年(2011)から開催されているもので、毎年10月の第二土曜日に、山形市中心市街地の商店街や店舗と街なか賑わい推進委員会が、連携して開催する秋の恒例イベントで、山形市の中心街地である、本町から七日町までの歩行者天国を中心に、マルシェや飲食ブース出店、音楽祭などが開催され、一日中楽しめるイベントとなっています。(主催:街なか賑わい推進委員会)
◆ 会場  本町〜七日町通り  
�ー憩�町エリア(七日町商店街振興組合様)  
��一番街エリア(七日町一番街商店街振興組合様)  
��シネマ通り(協同組合旭銀座のれん会様)
�に楪�エリア ここでは最上義光歴史館(義光会)が「義光公コーナー :よしあきフェスタ」ブースを開設。
�ナ御憧曄 嵎御憧曚瞭�」
��山形まるごと館 紅の蔵「村木沢フェア」


★「よしあきフェスタ」とそのルーツについて
「よしあきフェスタ」は,最上義光歴史館(義光会)が全面的に協力して参加している、「街なか賑わいフェスィテバル」のイベントの一つです。街なかに設けられたスタンプ設置場所4ケ所を巡るラリーで、完走者にはオリジナル義光公グッズ(タオル&ステッカー)がプレゼントされます。
今年のラリー完走者は450名で、毎年参加しているというリピーターの方も多く見られたようです。
合わせて、義光公に扮した武将が出迎えて、子供さんの甲冑着用体験と一緒に写真撮影ができるコーナーも設けました。こちらも家族で来場され子供さんが、甲冑を着て誇らしげに記念撮影出来た事で喜ばれました。
「よしあきフェスタ」のルーツは、平成25年(2013)10月13日、山形市の礎を築いた戦国武将最上義光公の没後400年祭のメーンイベントとして、鎧兜を身にまとった、武将や武者に扮した市民らが、山形市の目抜き通りを練り歩く、最上義光 武将隊パレード「よしあきフェスタ」と「街なか賑わいフェスティバル」と同時開催される形で大々的に行われました。
その翌年以降、多くの方々、そして子供たちに、義光公に親しんでもらえる継続的な取り組みを残すべく、街なか賑わいフェスティバルの一つのコーナーブースとして引き継がれました。これが「よしあきフェスタ」のルーツです。今では、街なか賑わいフェスティバルにとっても、北は文翔館、南は紅の蔵という長いイベントエリアを歩いて楽しめるスタンプラリーとして、欠かせない存在になっています。
更に歴史を遡れば、大正2年(1913)に義光公没後300年祭「義光祭」が開催され、翌年からその事業の一環として仮装行列が行われ、山形の夏祭りと言ったら義光祭だったそうです。戦時中一時中止していたが昭和22年に復活し、昭和37年まで続きました。
その後、昭和38年(1963)に「蔵王夏まつり」のイベントの1つとして「花笠音頭パレード」が始りましたが、昭和40年(1965)から「山形花笠まつり」と名称を変え単独開催されることになりました。
現在は、「山形花笠まつり」と「街なか賑わいフェスィテバル」は、それぞれが独立し、夏と秋の街なかの賑わいを創出するイベントとして開催されております。
★「よしあきフェスタ」に於ける「義光会」の活動
 「義光会」では義光公没後400年祭の、メーンイベント最上義光 武将隊パレードに武将に扮した会員ほか、幟や太鼓を持った会員が参加し、パレードを盛り上げました。
その後、「街なか賑わいフェスィテバル」がメーンイベントとなったものの、「よしあきフェスタ」、は一つのコーナーブースとして引き継がれて開催されています。
義光会の「よしあきフェスタ」への参加は、「最上義光公」並びに「最上義光歴史館」の知名度アップ、ひいては歴史館への入館者増に繋げたいとの思いからです。
第一回開催以降、毎年参加しており「義光会」活動の伝統行事の一つとして引き継がれているものです。
今年も多くの会員が参加・活躍し、街なか賑わいの一役を担ったと思っております。










※我々が館内の案内を無料で行っています。  
  是非ご来館いただき、お声を掛けてください!


会員番号0804

新・最上義光連歌の世界��

1 花かつみかつみえ初(そむ)る芦辺かな  紹巴
2 茂りそひたるきしの青柳  顕与
3 五月雨(さみだれ)の跡は汀(みぎは)のあらはれて  昌叱
4 田づらにつづく里のかよひ路  生
5 放飼 (はなちかふ)駒もくるれば立かへり  義光
   文禄三年四月二十八日賦何人百韻

 今回取り上げるのは、伝本のひとつに「文禄三年卯月廿八日会津興行」と記された連歌である。文禄三(一五九四)年四月、義光と紹巴は会津にいたのだろうか。――否。
 考証の過程を簡単に示そう。
 まず義光・紹巴の前後の状況を確認する。義光は文禄二年春に肥前名護屋城に在陣、年内に帰京、同三年七月までに山形に戻ったと推定される(伊藤清郎『最上義光』)。その帰路、会津に立ち寄った可能性がある。他方、紹巴は文禄三年二月下旬から三月上旬にかけて秀吉の吉野の花見と高野山参詣に同道、四月六日・十六日に上洛中の松平家忠と対面、五月十二日〜十六日に在京の毛利輝元の依頼で千句連歌を詠んでいる(両角倉一『連歌師紹巴』)。四月半ばから五月半ばのひと月弱で京・会津間を往復するのは、途中船を使ったとしても、七十一歳の紹巴には難しいだろう。
 さらに『紹巴発句帳』を調べると、上記の発句に「奥州浅香辺之人興行」という詞書を付す伝本が見つかった。「会津興行」とは、興行場所ではなく、興行者の出身地を示すのではないか。「会津衆興行」の「衆」が書写の過程で脱落したとも考えられる。
 つまり、紹巴も義光も京におり、紹巴は当座の景ではなく、興行者顕与の出身地に因んで歌枕安積(浅香)の沼(現福島県郡山市)の景物「花かつみ」を発句に詠んだのである。鶴崎裕雄氏が指摘するところだが、地方を度々巡回した宗祇と異なり、地方から京の紹巴を訪ねるという構図が、はっきりと見て取れる(『芸能史研究』二二〇)。
 このように連歌を文学というより史料として扱ってみると、複数人物の居所比定という価値が立ち現れる。しかしながら、興行場所の特定には細心の注意が必要だ。「最上吉祥院興行」と記された慶長十九年七月六日の連歌について、長谷勘三郎氏は昌琢ら京の連歌師が山形を訪れたかと推測したが(『歴史館だより』二六)、興行者善雅を指す可能性が高い。
 最後に作品内容にも少しふれたい。紹巴の発句は、安積の沼の花かつみ(一説に菖蒲の一種)がわずかに蘆の合間に見えはじめたと詠む。「かつみ」と「かつ見」が掛詞だ。これに顕与は沼の岸辺には青柳も生い茂っていると付け、昌叱は五月雨のあとに大きな水溜まりが現れたと応じた。日野輝資(生)は里から五月雨に潤った田んぼへと続く道を詠み、義光は放牧された馬も日が暮れると里に帰ってゆくと続けた。
 上洛の折、義光は安積の風景を目にしただろうか。思わず旅心地になる連歌である。
■執筆:生田慶穂(山形大学准教授)「歴史館だより��33」より