最上義光歴史館

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旧鶴岡城本丸御殿障壁画「竹林図」について 

 旧鶴岡城本丸御殿の障壁画とされる九幅はいずれも鶴岡市の文化財に指定されており、昭和五十一年に刊行された『目で見る鶴岡百年 付酒田』上巻に全ての図が掲載されている。これらに加えて新たに、克念社(風間家丙申堂)の金地著色「竹林図」一面が同じく鶴岡城本丸御殿の障壁画として紹介され、平成九年十月二十六日に初めて公開された。                          


「竹林図」克念社

 「竹林図」は一見して、桃山時代の作品とわかる特色を備えているにもかかわらず、他の図と同じく鶴岡藩の御抱え絵師三村常和筆として紹介された。寸法も縦2.7メートル、横5.4メートルと巨大で、全国的にも遺例の少ない貴重な作品である。また、普通には「竹虎図」や「竹鶴図」として描かれるにもかかわらず、竹林だけで構成されている点も他に例を見ない。
 報道に際して三村常和筆とされたのは次のような文献の存在による。旧庄内藩士、黒谷時敏が明治十一年に著わした『くだくだ草』(史料叢書第7編・昭和三年)に、玄間に接続する建物に「竹の間とて殿の御在国の折は御徒一人づつ出番する所」、「此西の間を桜の間と云いて御広間なり」、「其の西の間を桐の間と云い又金鶏の間とも云う」「其の西の間を松の間と云う御番頭の詰所なり、茲には北へ折曲がりて上段の間もありけり」と部屋の名前を列挙して、「竹の間より此所まで皆金張付けに、常和と云う画工が其物を間毎に書きたるによりてかくは名づけられたる也」と記されている。
 これらの間取りや部屋の名前が正しいことは鶴岡市郷土資料館の「出羽国庄内鶴岡城住居絵図」によって確認できる。黒谷時敏は金地の図はすべて三村常和筆としているが、幕末期には確かにそう伝えられていたのだろう。三村常和(1678没)は名前からすると狩野常信(1636〜1713)から一字を戴いたようである。常信は慶安三年(1650)に父、尚信が没した後、わずか十五歳で家督を継いでいる。その翌年に常和は酒井家に抱えられ、承応二年(1653)に酒井忠当に従って庄内に下っている。
 画風からすると、本丸御殿障壁画とされているうちで、常和が描いたと見なされるのは致道博物館と木村家に分蔵されている「群鶴図」だけである。田圃に下りたった鶴といういかにも江戸狩野らしい主題と画風であり、致道博物館に襖三面分が一幅、木村家には四面分二幅が残されている。『くだくだ草』に白木書院に関して「西の壁際には鶴の群居たるを書きし金屏風立て置かる」とあるのはこの図のことらしく、諸士のお目見えにあたって外されていた襖絵を屏風と見まちがえたのかもしれない。


「群鶴図」致道博物館

 明治期の証言だけでは心許ないので、もう少し古い記録を探ってみよう。『雞肋編』巻十九に、「承応元年より御普請所覚書」という本丸御殿の建築記録がある。そこには「承応二年御城御本丸御居間、御同所御寝間、黒木白木書院、御奥御室三つ表台所、御金蔵、御城御長局、御鷹部屋夜居座敷建」、「明暦元年御城御広間建」、「明暦二年御本丸御小座敷建」などと見える。これらの建築にあわせて三村常和が抱えられ、鶴岡に下向したことがわかる。
 画題からすると風間家の「竹林図」は「御広間」の玄関に接続する「竹の間」の大床に張り付けられていた図だったと考えられる。図の横幅はほぼ三間分に相当し、図面の間数と一致する。問題は明暦元年(1655)に建てられたという「御広間」が新築だったのかということである。普通、古い障壁画を新たな建物に再利用した場合には画面が切り取られたり接続に乱れが生ずるものだが、「竹林図」にはそういった形跡はまったく見られない。建物との一体性が極めて強いのである。白木書院など城主の居住空間にあたる多数の建築物が建てられた二年後に「御広間」一棟だけが別に建てられていることを考えると、まったくの新築ではなかった可能性が考えられる。もし、そうだとするといつの建物なのだろうか。
 鶴岡藩士の志田則富が著わした、宝暦八年(1758)の序をもつ『鶴ヶ岡昔雑談』(庄内文庫・大正二年刊)には「(御入部の節)御本丸ばかりにて粗末なる萱葺、微々なる御殿ありて一向御手狭なる事なりし、(略)御花畑と申所へ急に仮御殿と号して御普請、(略)御本丸御殿御造営仰せ付けられし」とある。同書に引用される「御鷹匠山田氏雑談」によれば「高畑の御仮御殿には成覚院様御入国以来四五年も御座遊ばされ御本丸御造立卒りて御移徒」とあるので、寛永三、四年(1617・18)には本丸御殿の増築が終わっていたようだ。普通に考えれば、この時の建物ということになるが、「竹林図」にしても、もとは桐間の襖絵の一部だったと考えられる致道博物館の「桐図」や「躑躅図」にしても、画風からすると寛永期以前の作であり、この時に描かれたとは考えられない。


「桐図」致道博物館


「躑躅図」致道博物館

 実は、入国当時には貧弱な建物しかなかったとする志田則富の記事には誇張がある。元和八年(1622)に酒井家が最上家より酒田の亀ヶ崎城を受け取った時には豊富な障壁画があったことが記録に残されている。『大泉紀年』の元和八年九月十日の条に所載される「亀崎本丸土蔵帳」によって、書院の「桃之間・墨絵之間・金之間・鷹之間・すすきの間・はきの間」の腰障子および、上広間の「絵かき障子拾貳枚」を引き継いだことがわかる。
 さらに、岡田悟・飯淵康一・永井康雄氏による「藩政期における酒田の亀ヶ崎城とその本丸について」(日本建築学会計画系論文集605号・2006年7月)によれば、この時の亀ヶ崎城本丸御殿は七室からなる書院、七十八帖からなる広間、四十帖の上広間、さらに奥を中心に浴室や台所などからなっていたことが明らかにされている。亀ヶ崎城は慶長六年に最上家家臣の志村光安が城主となり、同十四年に同人が没したあと光惟が継いだものの、十九年に鶴岡にて一栗兵部に暗殺されたため、以後は最上家の直轄地となったものである。
 一方、鶴岡城は当初から最上家の直轄地であり、連歌師乗阿による慶長八年(1603)の『最上下向道記』には「(六月)羽州庄内今あらため鶴岡といふにいたれは御城の普請の奉行衆とて」とあって、最上義光の命によって普請が進められていた。義光は晩年には庄内地域の開発経営に力を注いでおり、慶長九年(1604)閏八月二日の北館大学宛最上義光書状には「鶴岡へもおりおりまかりいて」とある。この時までには御殿は完成していたようで、城代として新関因幡守久正が置かれていた。鶴岡城の引き渡しの際には兵具類の記録しかないが、数は亀ヶ崎城を上回っている。慶長十七年五月九日付北館大学宛書状には「つるおか諸道具風すかし候はんために此もの共相下し候」とある。御殿についても亀ヶ崎城の規模を下回ることはなかったであろう。
 「竹林図」を最上義光が慶長九年に建てた鶴岡城御殿の障壁画としても年代に問題はない。慶長十五年に完成した仙台城本丸御殿障壁画の一部である二曲一隻の「竹図」(仙台市博物館)と比較するとより柔軟な趣があり、いっそう古風である。また同じく慶長十五年頃に創建された熊本城本丸御殿が近年再建されたが、その根拠となった「御城内御絵図」(1769)の大広間の間取りと画題は鶴岡城の「御広間」とよく似ている。式台の間につづいて「鶴の間」があるところが違うが、奥へ「梅の間、桜の間、桐の間、若松の間」と並んでいるのは、梅が竹に入れ替っているだけでまったく同じである。
 ただし、厄介な問題がもう一つある。「竹林図」には二重に金雲が描かれているのに対して、「桐図」や「躑躅図」は総金地で雲が描かれていない。この二つは別の絵師の手になるもので、制作年代についても若干の差を考えなくてはならない。両者の来歴については異なるルートを考える必要がある。
 そこで再び『鶴ヶ岡昔雑談』にもどると、「小寺信正聞書の内に云う」として「京極家の御家取壊の時御書院の張出御取寄せ成らせ候て荘内へ御差下仰せ付けられ、今の御城金張付絵の間は皆彼京極家の張付を御取寄御張らせ遊され候由」という記事が見出される。小寺信正によれば、金張付け絵は宮津京極家の絶家に際して江戸屋敷を拝領した時に庄内に取寄せたというのである。しかしながら、『徳川実紀』の寛文六年(1666)五月七日には「京極丹後守が自邸は松平遠江守忠倶に、麻布別墅は松平対馬守忠豊にあづけらる」とあってその信憑性が疑われる。だが、『雞肋編』巻百四十二には「小嶋氏筆記」として「寛文七年末六月十五日(養正公御代也)大手先御屋敷差上られ、大名小路京極丹後守様上り屋敷御拝領、但是ハ御装束屋敷」とあって、この時拝領したのは自邸ではなく登城にあたって装束を改めた装束屋敷だったことがわかる。京極家の屋敷を拝領したのは事実となったが、寛永十八年(1641)および、明暦三年(1657)という二度の大火を経た後の大名の江戸屋敷に、桃山時代の障壁画が残されていたとはとても考えにくい。寛永大火では九十七町が焼け、百二十三の大名屋敷が焼失したため大名火消しが設置されるきっかけとなった。明暦の大火はいわゆる「振袖火事」のことで、過去最大規模の火災だったことで知られている。
 京極家の江戸屋敷から引き取ったことが怪しいとなると、同じ頃の寛文元年(1661)に亀ヶ崎城の本丸に新たに広間を建造しているので、その際に旧御殿の障壁画が鶴岡城に運ばれたということも考えたくなる。だが、小寺信正は享保年中(18世紀初め)に『荘内物語』を著わした人物であり、京極家の屋敷を拝領した年代に近く信憑性は決して低くない。少なくとも他家の取り潰しにあたって金碧画を入手した、という内容に関してはまだ検討の余地がある。
 『大泉紀年』に、寛永十年末に断絶した島根・松江藩主、堀尾山城守忠晴の御屋敷を拝領したことが寛永十一年(1634)にみえる。六月二十六日付け村井兵左衛門あて書状に「堀尾山城守殿御屋敷御拝領御移被遊候由目出度」とある。堀尾家の屋敷拝領は慶長六年(1601)の大火以後、寛永十八年の大火以前のことで、「桐図」や「躑躅図」の年代とも矛盾はない。ちなみに断絶した堀尾家のあとに松江藩主となったのは小浜藩の京極忠高であった。忠高と絶家となった宮津藩の京極忠国の父、高広は従兄弟の関係にあたる。その忠高も寛永十四年(1637)に末期養子として甥、高和を立てたが認められず丸亀
に改易となっている。どうやら小寺信正は京極高国の断絶と京極忠高の改易とを混同した節がある。                 
 「竹林図」と「桐図」および「躑躅図」との画風の違いを説明しようとすると、「竹林図」については最上義光時代のものとし、「桐図」と「躑躅図」は断絶した堀尾家の江戸屋敷から引き取ったというように、別ルートによる伝来を想定しなくてはうまく説明できない。「竹林図」は今のところ最上時代の障壁画の可能性がある唯一の遺品と思われる。
 時代が大きく変化するときには文化財や美術品が失われる。明治になって破壊された文化財は廃仏毀釈と廃城令によるものがとりわけ甚大である。明治六年の「廃城令」によって全国で百四十四の廃城(鶴岡・新庄・上山・米沢を含む)が決まり、黒崎研堂の『庄内日誌』の明治九年四月には「お城の取り壊し作業書くに忍びず」と記されている。山形城は存続とされたにもかかわらず、廃城になった城と同じ時期に払い下げられて破却されてしまった。酒井家臣の松宮長乳の日記『老いの友』には「(明治五年四月頃)御城内御道具御城外へ夫々御片付」とある。多くの襖絵の中でなぜ「竹林図」が残されたのだろうか。
 『雞肋編』巻三十八の「年始御規式帳 二」によれば、一月三日に大庄屋および鶴岡・酒田の町人年寄・御用聞町人らのお目見えの儀がなされるのが恒例だった。この日には桐の間と桜の間の間仕切りが取り払われ、桐の間の拭い縁に並んだ庄屋や町人らが松の間上段に出御した殿様に披露された。御殿に上がったときに真っ先に目に入る玄関に最も近い床の間の巨大な竹林図は、きっと彼らの目を驚かせたに違いない。その時の強い印象がこの図を在りし日の姿のままで残させたのだと思う。

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�18」より
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (6)】


4 鮭延秀綱の官途について

    
 ここでは鮭延秀綱が名乗った官途名について考察を展開する。鮭延秀綱は文書史料や軍記物史料において「鮭延典膳」もしくは「鮭延越前守」と名乗っているが、この二つの官途名が時期的にどのように使い分けられているかという事が本項の本題となる。なお、検討に使用した文書史料は「鮭延」+「官途名」の記載がある書状数通、軍記物史料は『最上記』『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』『鮭延越前守功績録』などである。


4−1 文書の発給年代と官途名

 鮭延秀綱に関して、取り上げた史料には発給年代が明記されていない物も多い。以下では、文書の内容考察と先行研究によりその発給年代を検討してみたい。
以下「典膳」と名乗っている文書をいくつか挙げる。

  書状��(注41)
   庄中へ鮭延典膳さし越候処ニ、手まへ無人数のよし申候間、
   其方之事者彼仁ニさし添、(後略)

 文書の内容は「庄中へ鮭延典膳を遣わしたが手勢が不足しているようなので、援軍に行ってもらう。何事もよくよく相談して取り計らうように」ということである。天正九年に鮭延が最上氏の影響下に置かれた後、庄内の武藤氏との抗争中に発給された書状で、発給時期は恐らく天正十年頃であろう(注42)。

  書状��(注43)
   急度啓之候、仍從伊達大崎へ出張、近日之様に申來候、(中略)
   典膳・安食七兵衛付丹与三なとへ、兼而能々相談候而、
   少も油断有間敷候、(後略)

 この書状は、最上義光が受給者の庭月和泉守に対して、「鮭延秀綱や丹与左衛門と協力して真室地方の守りを固めよ」と申し送っている内容の書状である。「伊達大崎へ出張〜」とあることから、天正十六年一月に大崎家と伊達家の間に起こった大崎合戦に最上家が介入した時期に発給された書状であることが見て取れる。

  書状��(注44)
   急度及注進候、仍其元于今御在堪之儀、万々御気遣奉察候、
  (中略)恐々謹言、
            鮭延典膳
      二月八日     愛綱(花押)
          色部殿
           御旅所

  書状��(注45)
   急度脚力到來本望候、如御帋面候、未申通心疎之至候、(中略)
   於巨細者鮭典へ及細報候条、不能具候、恐々謹言、(後略)

 �鵝��瑤蓮�天正十八年から天正十九年にかけて執行された秀吉の東北検地において、検地奉行上杉景勝の代理であったその家臣色部長真と、案内役である最上家の責任者鮭延・氏家の間でやり取りされた書状である。

 続いて「越前守」と名乗っている文書の発給時期を検討する。

  書状��(注46)
   尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、
  (中略)
   大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、(中略)
             鮭延備前守
                 直(花押影)
       本豊州様
           御報人々御中

  書状��(注47)
   谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、
   條々承候、(中略)
             鮭越前守
       本城豊州様    愛(花押影)
           御報

 既出の��・��の書状であるが、内容が関連している事・発給者と受給者がほぼ同一な事・日付が近い事から、同時期に発給された書状であると推測される。本文頭に「大坂落人之事、」とあり、慶長十九年から二十年にかけて発生した大坂の役直後に発給された文書と見るのが妥当であろうか。��の「備前守」は「越前守」の誤記もしくは誤読であろう。

  書状��(注48)
   已上、如來札春陽之御慶、珎重候、(中略)
              鮭越前守
       正月三日      愛(花押)
         小野寺刑部殿
             御報

 「小野寺刑部」からの贈り物に対しての礼状である。この宛人の「小野寺刑部」という人物であるが、仙北横手の小野寺氏とは異なる系譜の小野寺氏であるようだ。佐竹氏秋田藩に伝わる小野寺氏系図によれば、小野寺刑部は永禄三年に上野厩橋に生まれ、北条→武田→真田→上杉と主君を替えている。慶長五年には上杉家の家臣という立場にあり、慶長出羽合戦後に最上家に仕えたことが確認できる(注49)。文書の記載内容から発給年代を精密に特定することは難しいが、天正期〜慶長初期にかけて鮭延との交流があったとは考えづらい。やはり慶長五年ないし六年以降、小野寺刑部が最上家に仕官した後にやり取りされたものであると考えた方が自然であろう。
<続>


(注41) 「楓軒文書纂所収文書」三月二十二日付最上義光書状(『山形県史史料編1』)
(注42) 『山形市史史料編1 最上氏関係史料』
(注43) 「楓軒文書纂所収文書」二月十六日付最上義光書状(『山形県史史料編1』)
(注44) 「色部文書」二月八日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注45) 「同上」二月晦日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注46) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『同上』)
(注47) 「同上」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』)
(注48) 「本間美術館所蔵文書」正月三日付鮭延愛綱書状(『同上』
(注49)小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998)


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当館所蔵の長谷堂合戦図屏風(複製)を平成19年12月8日から平成20年1月14日まで長野県立歴史館で開催されている秋季企画展「武田・上杉信濃武士(後期)」に出品いたしました。

しばらくの間、最上義光歴史館では見学できません。ご理解のほどお願い申しあげます。

新出史料の山形城下絵図について
  
 山形城は延文2年(1357)斯波兼頼によって築城が始められたといわれている。今年で650年の節目を迎えている。その後最上義光による大規模な拡張と整備がなされたようで、それらの城下を描いたいくつかの城絵図が残されている。現存する山形城下絵図の中で最も古いといわれているものは、最上家が改易された際幕府の上使に差し出したとされる、山形県立図書館所蔵の「最上家在城諸家中町割図(以下本稿では便宜的に「元和城絵図」(注1)とする)」で、元和8年(1622)頃の山形城下を描いたものとされている。
 ここに、素朴なタッチで彩色のない一枚の山形城絵図の写本がある。従前発表されている城絵図とは明らかに相違し、随所にあらたな様相が認められる。縦101cm、横88cmセンチほどの小ぶりなもので、三の丸の範囲のみで従来の絵図にみられるような三の丸外の城下は書き込まれていない。また、題名、書写年代の記入はなく、欄外に「御本丸四方間合 四百六拾五間、二ノ丸四方間合 九百五拾五間、総堀四方間合 三千三百廿七間」「此外町家ト有之内ニ無足給人并組屋敷等アリ」と脚注がある。(旧山形藩秋元家藩士の子孫A氏に伝わる絵図であることから、以下本稿では「秋元本山形城絵図」と仮称する)。
 この一枚の城絵図から、最上義光が描いたであろう山形城下を読んでみたい。

郭内 
 既存の城絵図は、三の丸の出入り門は11口(十一口)を数え、吉の文字になぞらえ吉字の門といわれてきた。しかし、ここに紹介する絵図は10口の門であり、いわゆる「横町口」が記入されていない。また、出入り口には従前の絵図にみられる呼称は一切付されておらず、大手口には「関根口」、十日町口には「野山道」、吹張口には「成沢口」、飯塚口には「畑谷口」と書き込まれており、郭外への出口というよりも山形城下外への出口と言った表現である。鍄口ほかの出入り門に呼称は付されていない。
 「横町口」は郭外に形成される銀町、桶町等の職人町への至近位置にあり、義光による大改造により必要とされ、後世に創設された出入り口で、11口の吉字の門として喧伝されたのは、山形の城下町が完成された時代のものではなかろうか。
 本丸の総延長は850m、二の丸は1,740m、三の丸は6,060mである。「元和城絵図」と比較するに、本丸は変わりがないが、二の丸は2,300mで560m、三の丸は6,500mで440mほど広くなっている。山形城の堀は「元和城絵図」にみられるような改修が行われたとみるべきであろう。

二の丸 
 二の丸の内には、中館・サンセイ(「元和城絵図」では「西仙」とある)・御横目衆のほか、重臣の屋敷が配置されている。元和城絵図では布施野大学・和田九郎右衛門・神保四郎左衛門・里見蔵之進の屋敷のみで重臣の屋敷はない。一方紹介する城絵図には、山辺右衛門大夫・上山兵部大夫・氏家左近・鮭延越前守・里見内蔵丞・中山玄蕃といった重臣をはじめ、布施大学・日野数馬・神保隠岐・和田九左衛門・飯田大和守・鈴木太兵衛・齋藤伊豫・宮村主膳など14の屋敷がある。本丸の城主を守るように、重臣が配置されており、「元和城絵図」とは違った本丸防備策があらわれている。また北側には他絵図ではみられない「鷹部屋」とある一画がある。
 
三の丸
 この城絵図の特徴的なものの一つに、二の丸堀の外側には間隔を入れず、びっしりと家臣の屋敷が配置されていることである。「元和城絵図」では二の丸堀外周に緑地帯らしき空間が四面に配置されている。現市街地でいうなら美術館や山形駅あたりが該当するであろう。家臣と町人が一体となったこの光景が義光の描いた山形の城づくりの原形であり、肥前名護屋への出兵以後、義光の城作りの考え方が大きく変わった証左ではなかろうか。城絵図に表れた家臣団の屋敷数は392軒であり、郭外にも家臣の屋敷はあったかと思われるが三の丸の外側は書かれていない。
 三の丸内に書かれている町名の数は少なく、「元和城絵図」にみられるような町軒数などの書き込みはない。上町、下条は現在の地名と所在が一致するが、肴町が現義光歴史館の南面に、市日町として七日町が現豊烈神社前大通りに、横町が香澄町スズラン街の大通り(香澄町横町南)に書き込まれている。この南北に長い大通りは町場を形成していたようで、両側には「町家」が軒を並べている。また、三の丸の構築は南から北へ進められたと思われ、南側には町家が数多くみられるが、北側には立畠町、内畠町といった町名がみられ、以前は畠地だったのであろうか。北側には侍町の町名がみえる。また勝因寺の東に「職人アリ」と書かれた区画があり、三の丸内は武士・町人・職人・寺院が同居し、城下町として機能していたとみられなくもない。
 
寺社
 最上義光は慶長5年(1600)の出羽合戦のあと大改造をなし、寺院と町人を三の丸外へ誘導したとされている。郭内での寺院立地を「元和城絵図」にみると、光明寺、行蔵院、宝幢寺、来吽坊(院)、二王堂(正楽寺)、勝因寺、新山(寺)などであるが、紹介する「秋元本山形城絵図」は、上記のほか法祥寺、龍門寺、来迎寺、誓願寺、宗福院、法花寺(浄光寺)、観音寺、六椹観音、行人(月山寺ヵ)、導場寺が三の丸内にみえる。また南東の隅には「氏家衆の寺地」なるものがある。神仏の加護を求めた発想の配置であろうが、三の丸内に神社は書き込まれておらず、神社は全て郭外に置いたということであろうか。寺院の配置をみるに、元和八年頃のものとされる「元和城絵図」とはあきらかに相違している。なかでも常念寺が勝因寺の北側に小さく書かれており、常念寺が山形に招致された当時のものと考えられる。しかし、疑問点がないでもない。慶長8年(1603)義光嫡子修理大夫義康の菩提を弔った寺にしては屋敷が小さすぎる。また三の丸内に現在まで変わらず建っている寺院として各文献に紹介されている正楽寺(子の権現)がみえない。正楽寺を他の絵図では仁王堂として紹介している。なぜ書き込まれていないのか。
 城絵図の成立年代に大きく関わるものとして、火災の記録が斯波兼頼の菩提寺光明寺につたわる「遍照山光明寺由来記」(注2)の後段にみえる。「元和三巳年三月八日山形寺社多ク焼失当山モ不残焼失」とある。「秋元本山形城絵図」には中世に造立された寺院が残っており、元和3年(1617)大火以前に成立しているものと判断される。
 
家臣
 秋元家時代に書写された「秋元本山形城絵図」は、大改造されたのちに書写された他の城絵図とは、街路や家並みの違いにより比較検証できないが、気の付いた点を述べてみたい。まず、従来発表されている城絵図の解説には、三の丸の出入り門附近には義光の重臣を配置したとあるが、このたび紹介する「秋元本山形城絵図」で重臣が配置されているのは、下条口の野邊澤九内(注3)(野邊澤宮内・延澤遠江守)のみである。義光は当初穏やかな美しい城下町を描いていたのではなかろうか。また「後室」と明記ある屋敷も存在しない。中山玄蕃(没年不詳)らが生存している時代の成立ということであろうか。
 城絵図写本から家臣団の動向をみてみたい。「写本にみる屋敷割」(注4)に記載されている「元和城絵図」から二の丸及び二の丸濠周辺の侍名を比較検証すると、144名のうち同じ名の家臣が「秋元本山形城絵図」全体に載っている数は58名にすぎない。これは、世代交代や廃絶も考えられようが、寺院及び町家を郭外に移動させた際、大規模な屋敷替えが行われたことによるものなのかもしれない。このことは「元和城絵図」と「秋元本山形城絵図」との間に、時の流れが存在したことを感じさせるものがある。

 新出の城絵図は、家臣の没年などから推敲した場合、解明を要する事柄や問題点が浮き彫りになるであろうが、山形城大改造の諸相など、未解明であった部分に光をあてるべく、所蔵者A氏の了解をえて山形城下町を再現してみたものである。
義光の構想といわれている城下の大改造は、いつの時代であったものか。そして新出の城絵図はどのような時期を表しているのであろうか。ごく僅かな事柄の検証から城絵図の成立年代を推し量ることは容易でないが、私見として、郭内には慶長年間に郭外に移転したとされる寺社が残されていることから、推定年代の幅が広いことを承知しながら、この城絵図の成立年代は、上限は出羽合戦以後の慶長10年(1605)頃から、下限は大火があったとされる元和3年(1617)以前のものと判断をしたい。
 山形市在住の伊藤哲郎氏のご厚意により「秋元本山形城絵図」と同様な構図のものが、外にも存在することを示唆する古文書をご紹介いただいた。山形市船町の旧家、今野家所蔵のもので『最上家御系図』と表題があり次のように書かれている。「往昔義光公御在城之節之図、予所持するを見るに、今之図とハ違有、むかしハ横町口無之、亦今之本町通り御城内ニ有、寺院も多く有之、其外ハ御幕下城持衆之交代屋鋪、其外大身衆之屋鋪ニ而、平侍衆ハ今之町屋鋪侍屋鋪ニ而有しと見ゆる也、城内別往還の通路ニ而、諸大名衆も其節は城内を御通り被成候と也、今之三之郭之外ニ大郭有しと也、南は松原、東小白河、出口北は長町邊ニ大門有之、大囲ひ有しと也」
 今野家が所持していたとされる絵図は未確認であるが、古文書の内容は、三の丸の出入り門は横町口が無く10口であること、寺院が数多くあり城内に町場があったことなど、「元和城絵図」とはあきらかに相違していることを、今野家の先祖は記している。今野家古文書の内容は「秋元本山形城絵図」にみられるものと同じ内容であり、ここに紹介する山形城絵図の原本がかつて存在し、写本として残されたものである事を立証しているといえよう。また、往還の街道が城内を通っていたという興味ある内容も記されている。山形城の歴史を考えるうえで貴重な資料といえよう。
 「秋元本山形城絵図」は、従前紹介されてきた山形城絵図の概念を考え直す内容が記載されているのではなかろうか。山形城の生い立ちに新たな考察が加えられれば幸いである。
 この稿をおこすにあたり、城絵図所蔵者A氏、上山市立図書館長片桐繁雄氏よりご教示をいただきました。あつく御礼を申し上げます。

註1 平成15年3月 最上義光歴史館より複製本が刊行されている
 2 『山形開祖斯波兼頼公―訳注改定版』光明寺奉賛会 平成17年12月5日
 3 『延沢軍記』「野辺沢城記」に、「幼名又五郎と云、のち宮内少輔康満と
云、慶長八年遠江守光昌と号す」 尾花沢市史編纂委員会 昭和60年3月30日
 4 『山形城下絵図』高橋信敬 誌趣会 昭和49年2月6日

■執筆: 市村幸夫(村山民俗学会事務局長)「歴史館だより��14」より

「羽源記」に見る天文現象について

 
◆「羽源記」に義光誕生のときの事として次のような記事がある。
 
「出生の日より山王権現の宮の上に白幡虚空より降り、照空を七日ありしとか」

 さて、これはどんな現象だったのか?考えられるのは、表現から見て天文か気象の現象であろう。
1.天文現象で特別なものと言えばまず日食月食が思いつく。日食は前年5月1日にあったが、天文15年にはなかった。また、月食は同年4月16日の記録はある。しかし、この月食は事実あったかどうか疑わしい。いずれにしても「照空を七日」には適合しないだろう。
2.「照空を七日」という表現に、最も妥当と思われるのは彗星出現であろう。彗星の尾が夜空に伸びているものは雲のように見えることから、伊達貞山公治家記録では、元和2年の彗星に「俗呼テ旗雲ト称ス」と書いている。『幡』は、意味も読みも『旗』と同じになるから、「白幡」が彗星を指すことは考えられる。しかし、天文15年の彗星出現記録は「日本天文史料」にはなく、彗星のカタログ、[彗星を追う・広瀬古川香西共著]にも無い。
3.他の現象
 古文書によく記録されている現象としては、他に月星接近・惑星現象・流星などがあるが、天文十五年前後五年間を見ても特別なものは見つからなかった。
 天文というより気象現象で思いつくのは、オーロラである。米沢藩家老莅戸善政(のぞきよしまさ)の「三重年表(さんじゅうねんぴょう)」で寛永12年7月に「二十六日夜紅氣満天」とあるのがオーロラであり、他にも、享保15年[上山三家見聞日記・上山市史]、明治7年[大町念佛講帳・河北町誌]等々多くの記録がある。しかし、これも天文15年の記録というものは「日本天文史料」他にも見つからない。しかし、記録が無くても、そういう現象がなかったとは言えない訳だから厄介である。
 結局、「白幡」は解明できないままである。

◆「羽源記」にはまた、慶長13年の事として、次のような記録もある。
「葉山、鳥海山といふ両峯より、光物毎夜星の如くに続いて月山の腰に見え、立石寺燈明堂の上迄布引いて光渡る、紫雲空中に充満せり」
 「紫雲」は別にして、これは何だろうか。「星の如く」というから、恒星惑星ではないだろう。「毎夜布引いて」見えるのは彗星・流星群というところか。現象の日時が不明なので、調べるのに困るが、慶長13年の光り物として、江戸京都では3月29日・4月23日・7月14日・10月3日の記録があり、いずれも、流星と見られる。流星群ならば、何日かに亙って同じ方角から出現することはあるのだが、群れらしきものの記録は見つからなかった。
 彗星では、同年5月21日に「客星東南に出現、月光の如し」、しかも数日にわたりて毎夜見えた、との記録はある。しかし、この客星については残念ながら他に記録がなく、多分木星だろうと言われている。また、同年4月13日の「今夜旗雲出現」との記録は、彗星ではなく雲のことらしい。慶長12年ならば、6月から9月までハレー彗星が毎夜現われ、明るいときは光度一等級だったらしく、国内記録も数多いのだが。

◆話は変わるが、大国富丸氏(南陽市在住)は、自分で発見した小惑星に「義光」「兼続」と命名し国際天文学連合に登録・承認された。去年(2000年)は義光と兼続が仲直りした行事もあったし、戦火を交えた二人の武将が、今では仲良く天空に輝くというのはいい話である。ただ、小惑星は大変暗い天体で、肉眼で見えないのが少々残念である。

■執筆:鈴木靜兒(山形天文同好会事務局)「館だより�癸検廚茲�
山形地方の山城の植生について


 県域は日本の植物区系上、日本海地区の中央部にあって、山地帯はブナ・ミズナラなどの落葉広葉樹を主とする冷温帯林が発達するところである。林床には裏日本型気候とくに多雪地に適応した比較的新しく分布したと考えられるマルバマンサク・タムシバ・タニウツギやオオバキスミレ・スミレサイシンなど、多くの日本海要素の植物が分布している。また多雪に圧伏し伏条性を身につけたヒメアオキ・チャボガヤ・エゾユズリハなどの常緑小低木の小群落も見られ、キバナイカリソウ・キクザキイチリンソウなどの日本海地区の植物と共存している。
 しかし内陸の中南部、特に山形市を中心とする山形地方の山地帯脚部は日本海要素の植物を伴う、クリ・コナラを主とする暖温帯系の落葉広葉樹林に覆われているが、局地的にはアベマキ・クヌギなどの暖帯落葉樹を混交する林分が見られる得意な地域である。アベマキは台湾・中国などの暖帯を自生の本拠地としている樹林であるが、その林分は市街地東方の丘陵地に、かなり広く分布しており、植栽起源と思われる大木が薬師公園や鈴川の印鑰神名宮などで見られる。また周辺の山地帯や山城の脚部にはコナラ林にクヌギの混交する残存林(木)が点在している。クヌギは本州の岩手・山形以南から沖縄、九州、中国大陸にかけて分布するが、その発生起源は中国雲南省の暖帯であるという。
 ちなみに、アベマキ・クヌギは褐色の枯葉を枝につけたまま越冬するので、他の木とは容易に識別できる。この現象は日本列島の温暖化に伴って、暖地系の樹木が寒地(山形地方が北限地)まで分布域を広げてすみついたが、その後の寒気に襲われたときに、離層を完全に形成する性質を身につけていなかったからだろうと説明されている。
 山形地方の山城は、山地帯脚部から標高200メートル前後の独立峠上にあって、山腹や頂上からの眺望は郡を抜く、天険の地に立地している。本丸(頂上)を中心に、曲輪が整然と階段状に造成されており、山腹を取り巻く自然の地形は急峻な断崖をなしている。また山麓は交通の要衝であって、深い峡谷や河川に挟まれ、人為的な空掘などが巡らされていたという。山城はまさに自然の要害を巧みに利用して構築されており、本丸には人知を尽くしても容易に踏み込めない構造である。
 現在、本丸跡などは公園や広場などに利用されており、曲輪の平坦部はスギ・クヌギ・クリ・カキなどの植栽地となっている。曲輪の法面や登攀路の周辺ではヤダケ・チャボガヤ・ケヤキなどの、山城特有の植生が残存しており、山麓の河辺にはケヤキ・オニグルミ・ミズキなどの二次林や植林されたスギ林が見られる。
 また広大な山腹はクヌギを伴うクリ・コナラの高木をはじめ、ケンポナシ・ネムノキ・ウワミズザクラ・アズキナシ・マルバマンサクなどの、萌芽力の強い落葉広葉樹林によって占められており、林床には角ハシバミ・ヤマウルシ・チャボガヤなどの低木や、それにシャガ・チゴユリ・オシダなどの草本からなる林分である。特に山城の水源地となりうる、やや湿り気の多い土地や沢筋、湧水地にはオニグルミ・ケヤキ・ミズキなどの高木林が見られ、林下にはシダ類が群生している。
 このように特筆すべき植生が見られる、山形地方の中南部、特に山形市は気候的には暖温帯(又は暖帯)に属する地域である。古くから政治・経済、教育・文化の集積地として発展しているが、さらなる枢要な役割を果たせる快適環境である。山形地方の山城は歴史的にも、また植物分布上からも市民共有の貴重な財産であって、その保全・保護には万全を期したいものである。

■執筆:吉野智雄(県文化財保護指導員・フロラ山形会長)「館だより��10」より