最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 《平成21年11月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成21年11月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



         常設展示 (11/1〜11/30)

        開館日数・・・・・・・・・・・30間
        入館者数・・・・・・・・・5,761人
        回答者数・・・・・・・・・・・24人


 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・・0%

 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・・・4%

 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・・0%

 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・・0%

 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・・17%

 (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・・13%

 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・・25%
  
  (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29%


 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・・67%

 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29%

 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%


 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・46%

   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・・42%

   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・・0%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・・42%

   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・・50%

   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・・0%

   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


 〜利用者の声〜

 ◎音声ガイドがあるのは良かったが、1本が長すぎると思う。

 ◎とても親切で感激した。

 ◎館内が狭いので広くしてほしい。

 ◎お土産を増やしてほしい。


 正子公也(まさごきみや)先生から最上義光像をいただきましたぁ。

 \(●⌒▽⌒●)/にャリーン

 先生は有名な絵巻作家です。

 いただいた作品は先生が手掛けた最上義光像を

 先生がプリントアウトしてくださったものです。

 もちろん先生の署名入りです。

 歴史館スタッフに見せていたら・・・

      (@ ̄▽ ̄@) 館長も大絶賛!!
 思わず、作品と一緒に パチリ⌒★ /■\_・)

 

 右手には義光愛用の鉄の指揮棒を持ち、

 左手には三十八間総覆輪筋兜を携え、

 火焔を背負ったお不動さまのような勇ましい姿です。

 迫力があるし、すごくキレイですよねぇ。

 思わず、見入ってしまったナッツでした。


 正子先生ありがとうございました。m(._.)m


 いただいた作品は、さっそく受付に飾りました。ヽ( ̄▽ ̄)ノ♪

 みなさん、歴史館に遊びに来た際は、お見逃しなく〜♪♪

            (* ̄ー ̄)ノ彡★゜・。・゜☆・。・。★


  正子先生の作品が見たい方はこちら
     ↓↓↓
アトリエ 正子房

      《平成21年10月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成21年10月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



          常設展示 (10/1〜10/31)

         開館日数・・・・・・・・・・31間
         入館者数・・・・・・・・・6,542人
         回答者数・・・・・・・・・・・23人

   1.歴史館をどこで知りましたか

   (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%

   (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・4%

   (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・13%

   (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・8%

   (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%

   (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・13%

   (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・33%

   (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・・8%

   (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・・8%
  
    (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%


   2.歴史館の入館は何回目ですか

   (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・83%

   (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

   (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%


   3.ご覧になられた感想

   (1)内容はいかがでしたか

     �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・70%

     �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・30%

     ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

     �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

   (2)最上義光と最上家について

     �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・61%

     �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・39%

     ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0%

     �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


 〜利用者の声〜

 ◎歴史の勉強が面白くなった。

 ◎無料は嬉しいが、維持費が心配。

 ◎入館料無料ということで、大変嬉しかった。

 ◎展示解説がやさしくて良かった。

 ◎細かいところまで説明してもらえて良かった。

 ◎最上義光について説明してもらえて勉強になった。

 ◎最上義光の騎馬像のレプリカを置いてもらい、近くで写真が撮れるようにしてほしい。
 
 ◎展示物を増やしてほしい。

 ◎クイズがあるので、子供が楽しく見学できたのでよかった。


慶長出羽合戦の褒賞としての名刀正宗
  
 現在、「正宗」在銘の大黒と号する短刀がある。これが最上義光が長谷堂合戦を主とする上杉勢との戦いの武功によって徳川家康から下賜されたものであると見なされる。
 それは『最上氏関係資料』に目を通していく過程で、この短刀に同定されると思われる記事が目に付く。先ずは『最上家譜』には、慶長六年(1601)四月に、前年の上杉との合戦の武功忠義による恩賞として、義光が家康から「正宗の御刀」を拝領している。また、「寛政重修諸家譜」の『最上氏系図』や『最上家伝覚書』にも同様の記事があり、その時下賜された品が「正宗の御脇差」であったと記している。
 このように、記録によって刀と脇差との表記上の相違が見られるが、義光が名刀正宗を拝領していることは確かである。しかし、刀と脇差二口の拝領は考えられないから、「刀」を誤記と見なし、「脇差」つまり今に言う短刀であったと解して差し支えないだろう。
 本刀は『埋忠押形』なる刀剣資料に、最上家所蔵として記載されているものである。この資料は、慶長(1596〜)から慶安(〜1652)にかけて、京都の金工家埋忠家(明寿・寿斎・明甫)が扱った刀剣金具類にまつわる刀身の押形、つまり現物の実写図である。


『埋忠押形』所載の最上家所蔵「正宗」の短刀

 この中心(茎)図には「正宗作」と三字銘があり、その両脇に「も加見(最上)殿 壽齋 慶長十三年八月ニかなく(金具)拵共ニ仕候」という記載がある。これによって、慶長十三年(1608)八月、埋忠寿斎が最上家から預かっていた正宗の短刀に、さまざまな金具類や拵を調製したことが窺える。なお、「おもて 新藤五によく似申し候」とあり、正宗の師の国光の直刃調に似ているといい、また「うら 焼き直しと申し候」とあるが、刃文を再び焼き直したとは見られないようである。
 拝領の正宗は、家康ゆかりの品として最上家の宝物の一つとなり、七年あまりを経て金具や拵を新調したのであろう。そして少なくとも、山形最上家が健在の間は本刀が献上品となったり、移動したりした形跡は窺えない。ところが、この正宗はいつの頃からか「大黒」を冠するようになり、譜代大名の堀田家が所蔵することになった。その後、明確な年代は定かでないが、昭和に入って民間人の手に渡り現在に至っている。
 「大黒」の号の由来は分からない。正宗の短刀の中では大ぶりであることは確かである。あるいは、七福神の一つ大黒天が福徳を招来する神であるという、信仰上の意味合いの呼称であろうか。ともあれ、この手の称号は、その時々の所有者や状況等によって割と単純に呼称され、それが独走してしまうような傾向は否めない。
 正宗は鎌倉時代末期(1310〜1330)に活躍した、相模国(神奈川県)鎌倉の刀工である。室町時代から名工として注目されてきたが、信長・秀吉・家康と時代が下がるにつれ、しだいにその名声が高まっていった。家康の遺品の分配台帳である『駿府御分物刀剣元帳』には、家康の遺品として十八口もの正宗が記載されている。中でも、有力大名からの献上品も目立っており、秀吉の時代より一段と正宗が重宝されていることが分かる。
 したがって、家康から拝領の正宗は、義光の勲功に対する最大級の返礼であったと見てよいだろう。ともかく、正宗となると、「正系の宗家(一族の中心となる本家)や嫡流」という意味合いも加わって、各大名家を中心に贈答用(献上品)としてだけでなく、守り刀や家宝として珍重されてきた。また、そのような評価の高さを反映して、江戸時代から現代に至る多くの刀工たちが、正宗を目指して作刀してきたのである。
 現存する正宗のうち、正真の在銘品は極めて少ない。管見によれば本刀の他に、短刀が四口、刀が一口を数えるのみである。あとは無銘の物を鑑定家本阿弥家が正宗と極めたものである。この本阿弥家もまた、正宗の評価を高めるのに一役買っていた。江戸時代には、真偽入り乱れて多くの正宗が存在したものと思われるが、鑑識眼の向上につれて淘汰されてきたのである。

■執筆:布施幸一(財団法人日本美術刀剣保存協会会員)「歴史館だより��16」より

      《平成21年9月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成21年9月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



          常設展示 (9/1〜9/30)

        開館日数・・・・・・・・・・30日間
        入館者数・・・・・・・・・6,252人
        回答者数・・・・・・・・・・・47人


  1.歴史館をどこで知りましたか

   (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・12%

   (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・6%

   (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・12%

   (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・2%

   (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%

   (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・16%

   (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・16%

   (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・10%

   (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・10%
   
    (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・14%


  2.歴史館の入館は何回目ですか

   (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・87%

   (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・11%

   (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2%


  3.ご覧になられた感想

   (1)内容はいかがでしたか

     �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・55%

     �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・40%

     ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%

     �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

   (2)最上義光と最上家について

     �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・51%

     �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・47%

     ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・2%

     �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


  〜利用者の声〜

 ◎もう少し、子供向けにやわらかい記し方もあった方がよい。

 ◎貴重な資料があるにもかかわらず、無料なのが正直驚いた。

 ◎大変勉強になった。

 ◎分かりやすい小学生用のしおりがあって、館内を回りやすくてよかった。

 ◎有料だと思っていたが無料で入りやすく、展示のクオリティも高く最高だっ
た。

 ◎最上義光の事をあまり知らなかったが、展示物は興味深い物が多く楽しめた。

 ◎入館料無料はすごいと思う。

 ◎義光の兜の復元前も見てみたかった。

 ◎政宗の母が、なぜ義光の元へ帰ってきたのか知りたかった。

 ◎英文又は、中国語の説明をつけた方が外国人にも理解しやすいと思う。

 ◎男性解説員の説明が、とてもわかりやすくて興味深かった。

 ◎刀と太刀の違いが分かってよかった。

 ◎今度は上杉の展示物も借りてきて展示してほしい。

 ◎説明してくれた方の話がとても興味深く、面白かった。皆さんの人情・情熱に心打たれた。最上義光も好きになった。応援します。


【長谷堂合戦前夜の義光書状をめぐって】

 地方史書ではしばしば、長谷堂合戦前夜、慶長5年(1600)8月18日に最上義光が直江兼続に送ったとされる書状が取り上げられる。『上杉家記』に収められている文書で、ここに全文を掲げる紙幅はないが、要旨は「上杉に敵対する意志はない。嫡子義康を人質に出す。義光みずから一万の兵を連れて上杉の味方になる」という申し入れである。
これを根拠として、歴史家は次のように義光の心情までを想像する。
「これは無条件降伏にも等しいもの……義光なりの時間稼ぎの策謀でもあったようである」(『山形県史』第二巻P48)
「(義光は)攻撃の停止を哀願した。……泣きごととはいえ、当時の義光としては、こういわざるをえない心境だったろう」(誉田慶恩著『奥羽の驍将』P163)
 だが、この文書には大きな疑問がある。
 まず、もしこれが事実なら、上杉側にとってはまたとない好都合なことであり、当然その実行を迫るはずである。武力をちらつかせて申し入れの実行を強要されたなら、義光としては応じるほかなかっただろう。だが、上杉の強要も義光の対応行動も、それを物語る史料は見えず、程無く上杉の最上進攻が始まるだけだ。
 次に、この書状が実在したのなら、当然合戦にかかわった上杉方諸将の間に知れ渡っていたはずである。だが、かれら同士の交わした消息のなかに、義光の怯惰ぶりや変節を嘲笑非難するような文面は全く見当たらず、これを話題としたものも見当たらない。
 さらに言うなら、このような文書が実際に存在したなら、関ヶ原合戦後の論功において、当然大問題となるはずである。しかし、このような事が問題とされた形跡はどこにもない。参考までに一例をあげれば、秋田実季による横手小野寺(西側)攻めの日時が、関ヶ原合戦決着の前か後かというような些細なことさえ、大問題となったのであり、仮にも奥羽諸大名の統率者として家康の信任を受けた義光が、直江にこのような書状を送ったとあれば、ことは最上義光の人間的価値にまで関わるものとして、冷厳な家康の忌避排斥するところとなっただろうことは明白だ。50余万石大大名への抜擢など、とうていありえまい。
 「上杉家文書」は中世近世史の貴重な証言の一大集積であるが、この手紙はここには見えない。後代の史料類聚の類にも採られていない。義光の卑怯さを歴然と物語る文書が真実に存在したのなら、江戸時代を通して考証家の話題となっただろうし、上杉家としても当然長く保存して然るべきものであろう。にもかかわらず、この書状現物の所在は明らかでない。江戸時代の編纂になる『上杉家記』に、全文があるのを見るだけだ。
 他方、このような書状はなかったことを、消極的ながら傍証する文献がある。長谷堂合戦を上杉側に立って書いた『越境記』なる軍記物語である。直江兼続をはじめとする上杉諸将の姓名、兵力、動静、活躍ぶりなどに力点を置いたもので、当然最上方をおとしめて書いているわけだが、この文献でも義光の哀願、申し入れのことには全く触れていない。実在したものならば、これを大きく取り上げて義光を罵倒するのに打ってつけの史料となるのに、全く取り上げていないのである。ということは、取りも直さず、その書状がなかったことを物語るものであろう。
 いつの頃か、誰かの知恵によって、慶長5年8月18日付「義光の弱音を物語る手紙」は創作されたと結論づけるしかあるまい。したがって、安易に史料として引用することは、避けなければならず、この信憑性薄弱な史料をもって歴史を語り義光を云々することは、当然のことながら当を得ないこととなるだろう。
 例はこれだけではない。「血染めの桜」然り、義光によるいわゆる「一族掃討」然り、「最上家親の死去」にまつわる荒唐無稽の巷説また然り。最上の栄光と没落の歴史事実を、我々は確実な史料批判に基づいて、構築し直さねばなるまい。

■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長)