最上義光歴史館

最上義光歴史館
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【東根源右衛門景佐・親宜/ひがしねげんうえもんかげより・ちかよし】
〜徳島に伝わった最上の血筋〜
   
 徳島と言えば蜂須賀家25万余石の城下。「阿波おどり」「十郎兵衛と巡礼お鶴」の人形芝居、鳴門海峡に逆巻く「うずしお」。観光資源には事欠かない。
 さて、市の南郊に丈六寺がある。室町時代の重要文化財建造物が立ち並び、質実な中世禅林の面影が今に残る。鬱蒼たる木立ちに囲まれた寺域の一角に、徳島藩の重臣だった里見家の広大な墓地がある。数ある墓標のなかでも特に目につくのが、白い標柱の立つ2基の五輪塔墓である。標柱の銘は、右が「里見家九代 東根源右衛門親宜之墓」、左がその妻「山形城主 最上出羽守義光娘」。
 夫は寛文3年11月11日死去。妻は同4年8月6日死去。最上家ゆかりの夫妻が、ここに眠っているのである。
  *  *  *  
 東根家は山形最上家の一門で、東根を本拠とした。
 元和8年(1622)、最上家改易により、幕命によって東根源右衛門親宜は、徳島藩預かりとなる。当初は客分として優遇されたが、藩主蜂須賀家政(蓬庵)の請いを受けて家臣の列に加わり、以後中老格となって藩主に仕え江戸時代を経過する。本姓の里見氏に改めたのは明治初年である。
 各種系図でみると、東根氏は天童里見氏の系統とされる。
 初代は頼高。徳島に伝わる里見氏『歴代系図』でも頼高を天童頼直の子とし、「居城東根/元祖/里見薩摩守/養源寺殿華屋椿公大居士」と添え書きがある。
 東根七代目の頼景が、酒田城攻めのおりに一番乗りをしたが、敵弾に斃れる。即日、弟景佐が義光から跡目相続を許されたうえ軍奉行を命じられ、酒田城攻略に大功があった。これを賞されて、来国光の刀と金短冊の笠印を賜ったという。
 義光は57万石となった慶長7年(1602)に、東根家に対して6千石・3千石と2回にわたって知行を加増した。宛行状には「里見薩摩殿」とある。同11年と推定される義光の手紙では「東根薩摩どのへ」とあることから、このころは「里見」のほかに「東根」も名字として使われたらしい。
 景佐ら東根一門は、連歌を愛好した。義光が山形に招請した古典研究家にして歌人であった一華堂乗阿が、光明寺においてしばしば連歌を指導したとする古記録があるが、東根一族もまたそういう場に臨席したのであろう。
 慶長12年と推定される、7月27日付の景佐あて里村昌琢書状によると、東根家では2年前に連歌一巻の添削をしてもらった。さらに、この年にも新たに二巻を届けて指導を請うた。このとき土産として贈った「紅花二十斤」に、昌琢は「分に過ぎたお志」と感謝した。紅花は、当時最上の名産になっていたのである。
 この書状には「玄仍が亡くなったとお聞きでしょう。どんなに驚かれたことか推察いたしております。是非なき次第」と書かれており、連歌の宗匠、里村玄仍の死去は慶長12年7月4日であることから、同書状の年代が確定される。
 次に、年不記、壬(閏)十月一日の書状がある。10月が閏月となったのは、景佐の在世中では慶長17年(1612)だけであるから、この年であろう。景佐から家臣高橋雅楽助にあてた書状で、連歌の規則を昌琢に問い合わせたことが記されている。
 関ヶ原合戦以後、義光の連歌作品は見られないが、それにもかかわらず、景佐らは独自に京都と連絡を取って、昌琢の指導を受けていたことになろう。
 義光が没し、後継者家親が急死し、15歳の藩主源五郎家信のもとで、最上領内が混乱していた元和6年(1620)8月7日、景佐は嫡子親宜あてに遺書をしたためた。
 「自分が相果ててしまったならば、源五郎様に相続の御礼に参上せよ・・」に始まり、「源五郎様へのご奉公を大事に」というように、主家を思い、我が家の永続を願う心情が流露している遺書である。同時に、若い最上の当主家信をめぐる重臣たちの不協和ぶりをも、しっかりと見つめ、「山野辺右衛門、小国日向(自分の妻の実家)、楯岡甲斐守光直の三人には、自分の形見を分け与えよ。何ごともこの三人と相談すれば、悪いことはあるまじく……」と教え、その末尾には驚くべき予言を書き残した。
 「最上の国も、三年とはもつまい。せめて国替えにでもなったら(以下、意味不詳)」というのである。
 明日をも知れぬ病老の身で、最上家の将来に大きな不安をいだいていたのだ。景佐はこの年12月24日に病没した。
 この時点で、源右衛門親宜は義光の娘を妻にしていた。最上宗家を支えるべき重要な立場に位置づけられていたのである。
 親宜は、慶長20年(1615)5月27日に、主君家親の一字をもらって元服したが、このとき15歳だとすると、生まれは慶長6年(1601)となる。
 妻となった女性は、義光の最後の妻、清水夫人のなした娘であろう。名は記録に見えないが、淡路に住んでおられる里見家親族の家では「禧久姫」と伝える。同腹と思われるきょうだいには、義光の五男上山光広(1599生)、六男大山光隆(1602生)があり、「禧久姫」もまたこの兄弟に近い生まれであろう。
 元和8年(1622)8月、景佐が懸念していた最上改易が現実となる。源右衛門親宜22歳のこととなるだろう。
 親宜は、12月22日、幕命によって預け先とされた徳島に到着する。以後、藩主蜂須賀家政(号蓬庵)はなにかと彼を優遇した。藩主から源右衛門にあてた手紙は『東根市史編集資料第8号』に収録されているが、その数は28通にのぼる。それらは、「四季折々の挨拶から何かと心配りを示す、温かい内容のものばかり」と、最上家研究家、小野末三氏は述べておられる(『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜』)。
 親宜は4年後の寛永3年(1626)に、1,000石の高祿を給されて藩の重役待遇となる。亡くなったのは前記寛文3年だが、慶長六年生まれとすれば、享年は63歳ということになる。翌寛文4年8月6日に亡くなった妻「禧久姫」も似た年齢だったろうと思う。
 思えば、長姉松尾姫は1606年出羽にて没、次姉駒姫はそれより前1595年に京都で悲劇的な死を迎えた。三姉竹姫は改易後、夫氏家親定とともに長州萩に移り住み、1626年43歳で亡くなった。そして、末娘「禧久姫」は、南国徳島で夫とともに40年の歳月を過ごし、奥羽の名門最上家の娘として、生涯を全うしたのだった。
 四姉妹のうち、最も幸福な一生だったと言えるかもしれない。
■■片桐繁雄著


 発見〜!!

  ハッ!|o゜)衝撃の新事実

 やっと見つけました。

 
 

 今年の一番咲きです♪ヾ(@°▽°@)ノ

 ここにも・・

 

 ナッツ的、開花宣言で〜す。o(^▽^楽)o

     ★⌒( *゜▽゜)/°・:*【祝】*:・°\(゜▽゜* )⌒★


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (6)】


4 鮭延秀綱の官途について

    
 ここでは鮭延秀綱が名乗った官途名について考察を展開する。鮭延秀綱は文書史料や軍記物史料において「鮭延典膳」もしくは「鮭延越前守」と名乗っているが、この二つの官途名が時期的にどのように使い分けられているかという事が本項の本題となる。なお、検討に使用した文書史料は「鮭延」+「官途名」の記載がある書状数通、軍記物史料は『最上記』『会津四家合考』『奥羽永慶軍記』『鮭延越前守功績録』などである。


4−1 文書の発給年代と官途名

 鮭延秀綱に関して、取り上げた史料には発給年代が明記されていない物も多い。以下では、文書の内容考察と先行研究によりその発給年代を検討してみたい。
以下「典膳」と名乗っている文書をいくつか挙げる。

  書状��(注41)
   庄中へ鮭延典膳さし越候処ニ、手まへ無人数のよし申候間、
   其方之事者彼仁ニさし添、(後略)

 文書の内容は「庄中へ鮭延典膳を遣わしたが手勢が不足しているようなので、援軍に行ってもらう。何事もよくよく相談して取り計らうように」ということである。天正九年に鮭延が最上氏の影響下に置かれた後、庄内の武藤氏との抗争中に発給された書状で、発給時期は恐らく天正十年頃であろう(注42)。

  書状��(注43)
   急度啓之候、仍從伊達大崎へ出張、近日之様に申來候、(中略)
   典膳・安食七兵衛付丹与三なとへ、兼而能々相談候而、
   少も油断有間敷候、(後略)

 この書状は、最上義光が受給者の庭月和泉守に対して、「鮭延秀綱や丹与左衛門と協力して真室地方の守りを固めよ」と申し送っている内容の書状である。「伊達大崎へ出張〜」とあることから、天正十六年一月に大崎家と伊達家の間に起こった大崎合戦に最上家が介入した時期に発給された書状であることが見て取れる。

  書状��(注44)
   急度及注進候、仍其元于今御在堪之儀、万々御気遣奉察候、
  (中略)恐々謹言、
            鮭延典膳
      二月八日     愛綱(花押)
          色部殿
           御旅所

  書状��(注45)
   急度脚力到來本望候、如御帋面候、未申通心疎之至候、(中略)
   於巨細者鮭典へ及細報候条、不能具候、恐々謹言、(後略)

 �鵝��瑤蓮�天正十八年から天正十九年にかけて執行された秀吉の東北検地において、検地奉行上杉景勝の代理であったその家臣色部長真と、案内役である最上家の責任者鮭延・氏家の間でやり取りされた書状である。

 続いて「越前守」と名乗っている文書の発給時期を検討する。

  書状��(注46)
   尚々、秋田(より)の書状、本書をハこなたニをかせられ候、
  (中略)
   大坂落人之事、秋田へ被仰越候ヘハ、請取不被申候由、(中略)
             鮭延備前守
                 直(花押影)
       本豊州様
           御報人々御中

  書状��(注47)
   谷地之者人質ニ付而被入御念、秋田へ両度迄御使被遣様子、
   條々承候、(中略)
             鮭越前守
       本城豊州様    愛(花押影)
           御報

 既出の��・��の書状であるが、内容が関連している事・発給者と受給者がほぼ同一な事・日付が近い事から、同時期に発給された書状であると推測される。本文頭に「大坂落人之事、」とあり、慶長十九年から二十年にかけて発生した大坂の役直後に発給された文書と見るのが妥当であろうか。��の「備前守」は「越前守」の誤記もしくは誤読であろう。

  書状��(注48)
   已上、如來札春陽之御慶、珎重候、(中略)
              鮭越前守
       正月三日      愛(花押)
         小野寺刑部殿
             御報

 「小野寺刑部」からの贈り物に対しての礼状である。この宛人の「小野寺刑部」という人物であるが、仙北横手の小野寺氏とは異なる系譜の小野寺氏であるようだ。佐竹氏秋田藩に伝わる小野寺氏系図によれば、小野寺刑部は永禄三年に上野厩橋に生まれ、北条→武田→真田→上杉と主君を替えている。慶長五年には上杉家の家臣という立場にあり、慶長出羽合戦後に最上家に仕えたことが確認できる(注49)。文書の記載内容から発給年代を精密に特定することは難しいが、天正期〜慶長初期にかけて鮭延との交流があったとは考えづらい。やはり慶長五年ないし六年以降、小野寺刑部が最上家に仕官した後にやり取りされたものであると考えた方が自然であろう。
<続>


(注41) 「楓軒文書纂所収文書」三月二十二日付最上義光書状(『山形県史史料編1』)
(注42) 『山形市史史料編1 最上氏関係史料』
(注43) 「楓軒文書纂所収文書」二月十六日付最上義光書状(『山形県史史料編1』)
(注44) 「色部文書」二月八日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注45) 「同上」二月晦日付鮭延愛綱書状(『同上』)
(注46) 「秋田藩家蔵文書」十一月十二日付日野備中守外連署書状(『同上』)
(注47) 「同上」十一月二十八日付東根薩摩守外連署書状(『同上』)
(注48) 「本間美術館所蔵文書」正月三日付鮭延愛綱書状(『同上』
(注49)小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998)


鮭延秀綱(7)へ→

 《平成21年度3月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成22年3月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



        企画展示 (3/1〜3/31)

      開館日数 ・・・・・・・・・・26日間
      入館者数・・・・・・・・・1,365人
      回答者数 ・・・・・・・・・・・56人

 1.本日は最上義光歴史館に・・・

   �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・14%
   �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・63%
   �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23%

 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか
  
 (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・・・28%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・・4%
(3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・・0%
(4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
 (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・20%
 (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・・40%
 (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%

   �△諒�、当館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・11%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・・3%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・・・8%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・・0%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・・8%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・・26%
 (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・・18%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

 1.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・・84%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%

 2.ご覧になられた感想
 
 (1)内容はいかがでしたか
 

 〜常設展示〜

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・49%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・・36%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・・2%
  

 〜企画展示〜

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・34%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・43%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・20%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・2%


 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・・45%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・・54%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・・2%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 
 〜利用者の声〜

 ◎最上氏関係の見るものが少なかった。

 ◎山形城のジオラマを作ってほしい。

 ◎企画展の展示物が意外と少なかった。

 ◎大森最上家について知りたかった。

 ◎ボランティアガイドの説明で、大変よく知る事ができた。

 ◎低学年の子供も参加できるクイズが良かった。

 ◎県外出身なので、山形の歴史がよくわかった。

 ◎周辺の戦国武将との関わりなども展示してほしい。

 ◎楽しかった。

 ◎最上義光の活躍がよくわかった。

 ◎最上家の改易理由をわかりやすく説明してほしい。

 ◎無料はありがたいが、有料でも良いと思う。

 ◎詳しいパンフレットを配布してほしい。

 ◎より一層、展示内容を充実させてほしい。

 ◎最上義光に関する物がもっと見てみたい。

 ◎最上軍の戦術スタイル等、戦闘スタイルを知りたかった。
 
 ◎最上家対上杉家の構図がわかった。


 4月10日(土) 晴れ

 ぽかぽか、とても気持ちのよい日です。

      Oo。( ̄。 ̄ )

 天気もよいし、室内にいるのが・・・

 本日の桜の状態は⌒★

 

 かなり膨らんで、赤くなっていますね。

 あと数日で咲きます。

 たぶん・・・[壁]ω ̄)


 霞城公園の《しだれ桜》は、

 

 こんな感じです。


 とある情報で、歴史館近辺に

 桜が満開に咲いてる部分があるとの事ですが?!

    キョロ (((゜◇゜; )(;゜◇゜))) キョロ

 ナッツには、見つける事ができませんでした。

          (─┬─ _ ─┬─)シクシク


 4月8日(木) 曇りのち晴れ

 晴れていて、暖かいと思いコートを着ずに撮影に向かったナッツ・・・

 寒ぃ・・・��(−_−;)))

 以外と風が冷たいので、早々に退散しましたが⌒★

               C= C= C= ┌( ・・)┘

 歴史館付近の桜の状態は・・・

 

 

 つぼみが膨らんで、先が開こうとしています。

 ちなみに、霞城公園の《しだれ桜》は、

 

     こんな感じでした。\(@ ̄▽ ̄@)/

 10日、11日の観桜会で満開の桜は難しいかもしれませんが・・

 17日、18日の観桜会の時は見頃になっているカモ♪

    ♪★0(^^0)*^^*(0^^)0★♪

 咲くのが楽しみですね。