最上義光歴史館

最上義光歴史館
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  《平成22年度8月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成22年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



       企画展示 (8/1〜8/31)

     開館日数 ・・・・・・・・・・27日間
     入館者数・・・・・・・・・3,313人
     回答者数 ・・・・・・・・・・624人


 1.歴史館をどこで知りましたか
 
  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・24%

  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・3%
 
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・・9%

  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・1%

  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・1%

  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・5%

  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・19%

  (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・12%

  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・16%
  
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%


 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1) はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・86%

  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9%

  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%


 3.ご覧になられた感想

  (1)内容はいかがでしたか

    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・38%

    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・52%

    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・10%

    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

    �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・35%

    �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・60%

    ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・1%

    �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

 ◎もう少し子供が見ても分かるようにしてほしい。

 ◎子供クイズのヒントを分かるように大きくしてほしい。
 
 ◎案内の方が丁寧の教えてくれて良かった。地元ながら初めて知った事もあり勉強になった。

 ◎最上義光の鎧がなくて少し残念だった。宮城県から来たので、伊達家とのつながりの展示があった方が良いと思った。

 ◎作者やそれぞれの見方、角度で歴史が違ってくるということを痛感した。「天地人」の放映を見ても、何度もそういう点に気がついた事を思いだした。

 ◎最上家の山形における功績、また上杉との関係を詳しく説明いただき感謝しているが、解説が難し過ぎて分からない事もあった。

 ◎コンパクトにまとまっていて大変わかりやすい。

 ◎外国人なので、いろいろと学ぶ事ができ良かった。

 ◎書状には、読み下し文を付けてほしい。

 ◎館内も落ち着きがあり、ゆっくり見学できた。

 ◎ガイドの方に案内してもらい、それぞれの資料の事がよく分かった。

 ◎フロアごとに、どのような物が展示されているか分かるようにしてもらえる
と、更に良くなると思う。

 ◎展示室すべてを撮影可能にしてもらいたい。来館の記念になるだけでなく、内容を理解するのに役立つと思う。

 ◎時代小説に出てくる最上義光を紹介してもらえると、最上氏を深く理解できると思った。

 ◎市の駐車場の割引(無料)利用券があった方が良い。

 ◎展示内容をホームページ等でも、もっとPRしたほうが良いと思う。山形に来た人皆に見てほしいと思った。

 ◎連歌に興味をもった。駒姫に涙した。

 ◎貴重な書物の現代語訳があると見やすいと思う。

 ◎子供の学習の為にも良い所だと思った。

 ◎詳しく説明してもらい、最上家や山形城などについてよく分かった。機会があれば、また立ち寄りたいと思う。

 ◎無料にしては立派な展示ばかりで、得した気分になった。

 ◎最上騒動の話しも入れてほしい。

 ◎伊達政宗の手紙などは貴重な物であり、興味深かった。詳細な訳をつけてほしい。

 ◎ボランティアの方の説明がとても良かった。

 ◎義光と伊達家の関わりや、他の大名との立場などを説明されると、もう少し義光像を感じられると思う。

 ◎無料で立派な施設を見る事ができ感心した。若い方や県外の方が多く訪れるよう宣伝したいと思う。

 ◎とてもきれいで見やすく、案内の方も丁寧に説明してくれて、とても良いと思った。駒姫の悲劇が、とても可哀そうに感じた。

 ◎最近の発見が展示されていたし、地図も見られて良かった。解説の人の説明も分かりやすかったが、欲を言えば、もっと義光公を広く世に知らせてほしい。

 ◎ボランティアさんが丁寧に話して下さって、楽しく見る事ができて良かった。

 ◎展示物がもう少しあれば良かった。

 ◎子供のクイズラリーで楽しめたので良かった。

 ◎少し入館料を取っても良いと思う。

 ◎衣装の展示もしてほしい。

 ◎ボランティアさんから詳しく説明してもらい良かった。「独眼竜政宗」の原田芳雄さんの名演技を懐かしく思った。義光公が大河ドラマに登場してほしい。

 ◎とても親切で分かりやすかった。中学生の娘が興味をもってくれて良かった。

 ◎ボランティアの方がとても丁寧に説明してくれて、よく理解できた。これからも頑張ってほしい。

 ◎最上義光にスポットを当てた大河ドラマを見てみたい。

 ◎他の人の声が館内に響き、じっくり見るには少しうるさく感じられた。

 ◎入場無料にしては、大変充実した内容だった。展示の構成がしっかりしているので分かりやすかった。

 ◎いろいろと説明してもらい大変嬉しかった。ますます歴史の面白さを知ることができて良かった。

 ◎ドラマ等では割と適役になりがちな最上義光が、山形にとってはとても大きな存在である事がよくわかった。

 ◎ボランティアの方の説明がとてもためになり、他の武将との関わりや歴史的流れから、最上義光や最上家の事を知ることができてとても良かった。最上義光の功績や武将としての人となりが、もっと世に知られればいいと思った。

 ◎ボランティアの方の説明が分かりやすく、山形の歴史や最上家の事について理解を深める事ができた。最上義光公が素晴らしい人物であったことを友人にも伝え、また来館したいと思う。

 ◎説明をもっと見やすくしてほしい。展示品の説明文をケースの外に出したり、説明の所だけ明るくするなど考えてほしい。パンフレットに展示物の説明を増やしてほしい。

 ◎初めて来たが、無料で見学できて大変嬉しかった。子供のクイズも親子で楽しく解くことができて良かった。

 ◎連歌関係をもっと詳しく展示してほしい。

 ◎最上義光以降の歴史(江戸時代)を展示してほしい。

 ◎案内の方が詳しく説明してくれたので、とてもよく分かった。伊達家との関係も分かり、勉強になった。

 ◎最上義光は、直江兼続や伊達政宗と比べるとマイナーな武将ですが、もっとメジャーになるように頑張ってほしい。

 ◎仙台・米沢と回って来たので、最上と伊達・上杉との関係が分かって良かった。

 ◎最上家が改易になった理由を明らかにしてほしい。

 ◎前に比べて子供にも分かりやすく、説明してくれる人もいて良かった。

 ◎家紋の図の説明書が小さくて見づらかった。

 ◎景品がもらえるクイズや、記念スタンプがあり、初めて来た人でも楽しめると思う。

 ◎もう少し明るくした方がいいと思う。静かな音楽を流した方がいいと思う。

 ◎時代順が分かりにくいし、山形の歴史が分からない。

 ◎駐車場が分かりにくい。

 ◎照明が暗いのは仕方ないが、字がよく読めない。スポットを当てるとかの改善策を考えてほしい。

 ◎館内の説明はとても分かりやすかった。接してくれた方の感じがとても良かった。順路がもう少し分かりやすいと良かったと思う。駐車場の確保に手間取った。

 ◎道路から離れていて分かりにくい。もう少し分かりやすい工夫が必要だと思う。

 ◎義光と同盟関係にあった伊達政宗の特集をしてほしい。

 ◎いつも同じではつまらないので、特別展を企画してほしい。

 ◎義光以降の最上家の歴史が知りたかった。

 ◎いつも山形に来ていたのに、初めて寄せてもらいとても良かった。ボランティアの方の活動には驚いた。

 ◎ボランティアの方に説明してもらい、義光公の教養・人柄が解り、本を読んでみようという気になった。

 ◎故郷の英雄に対する熱い思いが伝わってきた。山形城の本丸も復元できるように頑張ってほしい。

 ◎ボランティアさんからの説明で最上家の歴史を知ることができ、テレビ等で脚色されている人物像を鵜呑みにしてはいけない事を知った。

 ◎昨年出てきたという山形城下絵図がとても面白かった。また見に来たい。

 ◎説明しているガイドの方の声が大きくて、気になって見た気がしなかった。

 ◎ボランティアの話しは詳しく中身のあるもので、分かりやすく感心した。

 ◎留学生ですが、貴重な資料や館蔵品を無料で拝見できて良かった。

 ◎駐車場・駐輪場の案内がほしい。

 ◎歴史館の方に丁寧に解説してもらい理解が深まった。資料を一つ一つ拝見する際の大きな手助けとなり、山形についてより興味を持った。

 ◎歴史館に来たことが無く、今日初めて来館し感激した。山形市の教育の一つとして、子供の頃から来館してもよいと思った。書状や屏風画等が本当に素晴らしく、子供を連れてまた来館したいと思う。

 ◎案内のレベルが高く、非常に感謝している。益々の充実を期待したい。

 ◎休息スペースに自動販売機などがあればいいと思う。

 ◎解説の文字が小さく、読みにくい。

 ◎地域の小学生にたくさん教えてほしい。

 ◎人々の生活ぶりと最上家の政策についてもう少し説明がほしかった。

 ◎最上義光は、良いエピソードや性格の持ち主だと思う。そこを生かし山形県の観光にもっとつなげるべきだと思う。


◆◇◆義光文書と古語辞典◆◇◆

 日本語のある語がいつ発生したかという問題は、日本人の生活や思考・感情に関連する重大なことがらである。
 たとえば、今の日本でしょっちゅう使われる「がんばる」という単語などは、そう古い言葉ではないようだし、初めはそれほど頻繁には使われなかったらしい。ということは、古き日本人はそれほど「がんばる」必要がなかったからかもしれない。
 語彙や語法のできるだけ早期の用例を見つけ出すことは日本人の生活と心の変遷を明らかにすることにつながり、国語学者(辞書編纂者)にとっては大きな関心事なのだ。

       *

 何年か前にびっくりしたことがある。
 最上義光の手紙の中に「けりゃう」なる語を見つけ、手元にあった「岩波古語辞典」を引いてみたら、なんと当の義光の手紙そのものが用例として引かれていたのだ。

けりゃう【仮令】一[副]
 �,燭箸┐弌瞥冦磧瓠嵒�姿花伝」ほか)
 �△燭箸ぁ�かりに。よしんば。(用例=「正法眼蔵随聞記」ほか)
 ��かりそめにも。かりにも。「どなたにも理はひとみち々々有る事に候。 
  − 双方をくらべ理の少なきを非分なりと申すばかりに候」
 (伊達家文書一、最上義光書状)

 国語学者の博捜ぶりに舌を巻いたのだったが、義光の文章がこういうところで役立っていると知ったのは楽しかった。
 さて、義光の遺著『連歌新式注』山形市所蔵本の解読作業をしているうち、気になる言い回しを見つけた。

 一 はつせ寺とか鐘とかすれハ山類也 たゝ泊瀬とはかりハ非山類(下略)
   [写本34丁ウラ=第230条]

 現代語では「AとかBとか」という言い方は並列の表現として多用されるが、古典では管見にない。小学館「日本国語大辞典」[2004/第2版]で見ると、用例は寛永十五年(1638)刊の「蒙求抄」から「霊とか�劼箸�せよとあるほどに」が引かれている。他の大規模辞典でも同書から採っているところを見ると、現段階ではこれが最古の用例なのだろう。
 だとすれば、文禄四年(1595)の義光の『連歌新式注』は、これをさかのぼること40余年。今後の辞典では用例の初出となるかもしれない。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��17/研究余滴10」より

最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【二 佐倉藩掘田氏に仕えた佐竹氏】

 慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、徳川氏の覇権確立による豊臣大名の排除により、多くの譜代大名を創設している。三代将軍家光の寛永初期の頃、新しく幕政の担当者として、新参譜代大名による幕政が行われるようになる。その新たな担当者の一員として、堀田加賀守正盛が登場してくる。寛永三年(1626)御小姓組番頭から、野州佐野一万石の大名となった正盛は、同十二年(1635)老中に列すると武蔵川越三万五千石へ、そして三年後には十万石にて信州松本へと移る。しかし、僅かにして同十九年(1642)六月に下総佐倉へと移り、前期佐倉藩の創設となる。
 この正盛の大名家創設の寛永初期の頃から、家臣団の増強と編成が始まったのであろうから、佐竹氏の仕官の時期は、少なくとも松本藩時代の頃であろう。佐竹氏の記録の初見となるものは、[掘田加賀守正盛分限帳](実は子の正信の代、明暦から万治三年までの間という)である。この万治三年(1660) とは、慶安四年(1651)将軍家光の死に殉じた正盛の後を継いだ正信が、この年に無断帰国などの理由で改易され、前期佐倉藩掘田氏の終焉となる年である。分限帳には六名の佐竹氏の記載がある。

佐竹伝兵衛(二百石)  辰之助(二百石)  市兵衛(百石)  友右衛門(二十人扶持)  万左衛門(四十俵三人)  辰之助母(女儀 五十俵)

 また、市兵衛には「松平伊賀守殿へ」、万左衛門には「久世大和守殿へ」と、掘田氏改易後の仕官先を示す加筆が為されている。これは、全てではないが、一部の藩士の間にも見られる。この分限帳の成立の頃は、内記は既に死亡、子の初代・伝兵衛が継いでいたものと思われる。
 元和八年(1622)八月、小大名に転落した最上義俊に近侍し、藩の再生に勤めてきた内記が、最上氏を離れ堀田氏に仕官した時期はいつ頃であったか。それは堀田氏が川越から松本へと転封を重ね、寛永十九年(1642)に佐倉藩成立を見る頃、掘田氏家臣団の大幅な増強が為された時期であった。
 多くの浪人達が仕官の口を求め、集まって来たのであろう。内記が最上氏を去った時期は、早くとも寛永の十二年(1635)以後のことであろう。そして、内記の名を掘田氏の内から初めて見出だすのは、松本へ転封が決まった二ケ月後の五月、藩主正盛が江戸より松本へ遣わした諸役人から、[松本諸役人誓紙之前書]という誓書を提出させている。その中に、寅五月十五日付の内記を含む五人の連署があり、内記の掘田氏に仕官していたことが分かる。
 このように、内記の仕官の時期は、掘田氏の川越藩時代の頃で、最上氏を去ってから間もない頃であったろうが、早々に役に就く程の評価を受けた人物であったのだろう。もう一点、内記に関わる貫重な記録が有った。それは寛永十七年正月付の[覚書]の一つに、次のような記録が有った。

右之奉行役者相除、左近煩指合有之節者、御城中御番以下見廻可申旨被仰出候事、

 この覚書きは何を語っているのだろうか。内記が何か体調でも崩し、奉行役でも免除されたのではないか。このように二点の記録から、僅かながら内記の堀田氏家中での存在を、確認することができる。『親類書』の佐竹伝右衛門が、父の伝兵衛の死期を「十年以前」と記していることから、祖父内記の死期はそれ以前の、寛永の終り頃ではなかろうか。もう正信の分限帳には、内記の後を継いだ伝兵衛の名が有った。
 また、卯正月廿日付の[江戸役人之覚]に、奏者番として伝兵衛の名がある。日く
  
右者弐人宛ニ而一日一夜替り、夜者壱人ニ而御番可相勤旨被仰出候事、

 また[物頭之覚]には、日く

一、御持弓拾張      佐竹伝兵衛
   此足軽拾壱人小頭共ニ

 この二つの役に就いた伝兵衛とは、内記の子の初代・伝兵衛なのか、孫の二代・伝兵衛(伝右衛門の兄)なのかはっきりしない。この当時の卯正月に該当する年は、寛永十六年(1639)と慶安四年(1651)である。
 以上、掘田氏家臣となった佐竹内記と、その一族の姿を垣間見ることができた。しかし、辰之助、市兵衛、友右衛門、万左衛門、また辰之助母などが、内記とどのような繋がりを有していたのか、掘田氏内部の調べからは、満足な結果は得られなかった。
■執筆:小野末三

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (10)】


まとめ


 志村光安に関わる慶長期以前の書状史料は皆無で、最上氏が勢力を拡大する段階での動向は周辺史料に頼らざるをえず、従って詳細な検討は困難であった。ただ、義光が最上家中の実権を掌握した初期の段階から近臣として義光に付き従っていたことは確かであろう。
 光安が通称として「九郎兵衛」を名乗っていた事について、いくつかの周辺史料にその記載が存在している。嫡子の志村光惟が「九郎兵衛」を襲名している事から考えても、恐らくそれは事実としてよいだろう。その後光安は通称を「伊豆守」に変更しているが、その画期は慶長初期頃であろうと推測される。
慶長五(1600)年、慶長出羽合戦において、光安は長谷堂城の守将として活躍した。上杉軍撤退後、最上軍は諸城奪回の動きを見せるが、当年から翌年にかけての庄内攻めにおいて光安は主導的役割を果たしていたようだ。
 その後、光安は、新関久正・下吉忠らとともに最上家へ加増された庄内へと配属された。酒田城主として転出した以降の史料は豊富であり、光安ならびに庄内諸将の動向をある程度検討する事が可能であった。
 書状史料を検討するかぎり、最上中級直臣衆出身の進藤但馬・日野備中・原美濃らが庄内において内政実務を実行していたように見受けられた。筆者は、まず前提としてこれらの者たちが事実志村らの家老職であったかどうかを再検討し、城付きの家老であることはほぼ確実であったろうとの再確認を行った。その上でこれらの者達の権限を検討したところ、原・進藤らは各々密に連絡を取りながら領内の民政を行い、警察権、徴税権を行使していることが判明した。その上で志村光安は庄内衆の取り纏め役として由利・庄内・山形の連絡を仲介する役割を負っていたようだ。しかしながら、藩政における大規模事業である治水事業は義光主導で実行された形跡が顕著で、実務に当たったのは中低級の義光直臣層だった。つまり、庄内の政治権力は上下を問わず志村・新関・進藤ら最上氏直臣層出身者に握られており、またその施政の背景には義光自身の意向が強く働いていることが想起される。ゆえに、庄内は義光直臣層による領国支配のテストケースだったのではなかろうか、という仮説を提示しえるだろう。
<了>

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最上家信奉納の神馬図 

 天童城本丸趾に建つ愛宕神社には「慶長八年(1603)菊月」の棟札があったとされるが、今は所在が確かめられない。その後、寛文年間に暴風のため社殿が破壊し、現在の建物は延宝六年(1678)に再興されたと伝える。
 当社に山形最上家の最後の城主、家信が奉納した紙本金地着色の神馬図一幅が伝わり、天童市の文化財となっている。


紙本金地著色「神馬図」 天童市・愛宕神社
写真提供:天童市美術館

縦188・0センチ、横212・0センチとたいへん巨大である。構図が似ていることが指摘されている若松寺(天童市)の郷目貞繁筆の絵馬よりも大きく、最上家の当主の奉納品としていかにもふさわしい。図には「奉納/馬形/一疋/為諸願/成就/(欠失)/九月二十四日 家信」という墨書があるが、肝心の年号部分が欠損している。裏面には「慶(カ)□□四年酉九月□四日/□□源五郎家信自筆/愛宕社奉納」と記された後世の貼紙があるが、当然のことながら絵馬から掛軸に改装した後のものである。慶長十四年が酉年にあたるが、家信はわずか四歳でしかなく自筆という文言と矛盾する。箱に「御宝物最上出羽守少将義光公御真筆」と書かれた板が打ち付けられているので、義光存命中の年号にしようとする意図的なものが感じられる。



 『山形市史』は奉納年次を元和六年(1620)としている。同じく家信が奉納した山形市内の日枝神社の絵馬に「おさめたてまつる馬形三疋/元和六年十月十六日 家信」と記されているのを参考にしたのだろう。日枝神社の絵馬は猿が馬を曳く様子を描いた珍しい図で、猿が描き加えられているのは日枝神社の使いが猿だからである。また、猿は厩を守るとされている。
 厳密に言えば、奉納の年は家信の在国期間を点検したうえで結論を出すべきである。なぜ在国中に限るかと言うと、江戸から送り届けたのでは藩主が奉納した効果が薄らぐからである。以下では『山形県史』史料編の「金石文」の項に集められた、家信による造営、寄進史料をもとに在国期間を考えてみた。あわせて、小野末三氏による綿密な考察「山形藩主・最上源五郎義俊の生涯」を参照した。
 最上家信は元和三年三月に父の最上家親が死去したニカ月後に、わずか十二歳で家督を相続している。当時の習慣では大人として認められるぎりぎりの年齢であった。江戸で生まれ育った家信は相続後なるべく早く国の家臣らに顔を見せる必要があった。家信の若さに不安があったのか、幕府は元和四年九月に最上領検使として榊原左衛門をさし向けている。おそらく、それまでに家信は帰国していたはずである。
 家信は帰国するや領内安定を願って矢つぎばやに各地の神社を再興している。元和四年七月に鳥海大権現薬師堂と遊佐町の蕨岡大物忌神社を再興し、八月にはかねてから進行していた慈恩寺本堂落成法要を執り行ない、九月には酒田市の亀崎八幡神社を再興している。また、致道博物館に伝わる擬宝珠には「羽州鶴岡垂虹従山形三日町橋令造立之畢 元和四戊午年霜月吉辰」の銘文があるので、これも家信の助力によるのであろう。
 このほか『神道体系 神社編』に収録されている羽黒山本社東之坊早鐘銘には「元和三年五月廿八日」の年紀と、「国主時代源朝臣家信公」という耳慣れない文言が記載されている。五月は相続直後にあたるので、父、家親の事業を受け継いだのであろう。もう一つ、西之坊勤仕鐘銘として「元和四年林鐘(六月)吉日」という年紀とともに「国主源朝臣家信公」と記載されている。ここから元和四年の六月から十一月まで造営事業が連続していることがわかる。家信は相続後一年ほどたった六月までに帰国して検使を迎え、在国中に新しい藩主の威光を示そうと、もろもろの造営にいそしんだのであろう。
 家信は翌年の正月は山形で過ごしている。『梅津政景日記』によれば、元和五年二月に秋田藩主が参府の途中、天童にて家信より贈り物を受けているからである。三月の細川忠興書状には「東奥の衆すみやかにのぼらるの由」とあるので、やがて家信も江戸に向かったのであろう。五月には秀忠上洛につき江戸留守居役を勤め、六月には取り潰しとなった福島正則の江戸藩邸の接収にあたり、功績をあげている。
 ところが翌年の元和六年三月になって幕府は再び監視役を山形に派遣している。「家士など相論おだやかならず。家信、放逸、淫行をほしいままにして、家臣の諌めを用いず。」という理由からだった。『徳川実紀』の同年九月十二日の条には、家信が舟遊びの挙げ句に大名という身分でありながら船頭と争論した、という不名誉なことが記録されている。ただし、同年七月から九月にかけて江戸城普請に携わる家臣らを労う家信の書状(山形市史・史料編1)が存在することによって、この時には家信が山形に在国中だったことが明らかなので事実はともかく、時期については誤りとしなければならない。
 元和六年には元和四年と同じように家信の神社への寄進、造営が連続している。おそらく、家臣間の不和を静めようとする願いがこめられていたのだろう。十月には先にもふれたが日枝神社に絵馬を奉納し、十一月には鶴岡市湯田川の田川八幡神社、十二月には飽海郡八幡町の一条八幡神社を再建したことが棟札によってわかる。いつまで在国していたか不明だが、翌年の元和七年五月の銘がある伝山形城大手橋擬宝珠(酒田市佐藤家)が存在することや、大沼浮島神社の石灯籠に「羽州最上山形源五郎源家信 元和七辛酉年六月吉日」の銘があることから、元和七年六月までは在国していたようだ。
 『梅津政景日記』によれば、元和七年十月十三日に佐竹義宣は江戸城での茶会のため家信の招待を断っているので、それまでには江戸に戻っていた。佐竹義宣は翌年の元和八年三月の書状で、最上家信の町屋での傾城狂いと酒乱による不行跡を伝えており、八月になってついに所領の没収が決定した。十七歳だった家信はわずか一万石に改易され、近江に転封となった。
 一般には家信が義俊と改名したのは改易後とされるが、元和九年閏八月十三日付け慈恩寺別当宛書状に「最源五家信(花押)」とあるので、改易後もしばらく家信を名乗っていたようだ。改名の時期はまだはっきりしていないが、翌年二月に寛永と改元されているので、このあたりが改名のきっかけになったかもしれない。愛宕神社の絵馬は改名前の寄進ではあるが、改易後とは考えにくい。諸社への寄進は元和四年六月から十一月までの間と、六年十月から七年六月までの間に集中している。ただし、『神道体系』の羽黒山の部には「藤松丸木像」の銘文として「国主時代山形源朝臣家信公 干時元和八稔卯月吉日」という意味の取りにくい記載がある。これをも含めるならば、改易直前の元和八年も範囲に入れなくてはならない。
 本図は26・5センチ四方という日枝神社の絵馬とちがって規模がきわめて大きいことを考えると、初めて入国を果たした元和四年(1618)の可能性を考えてみたくなる。奉納日の直前の九月十二日に幕府の最上領検使を迎えていることもその心証を強くする。「諸願成就」の中には検視が無事終わることを願う意味もあったのかもしれない。絵馬は九月に奉納されている。上述のように家信が九月に在国していたのは元和四年と六年である。七年の可能性もまったくないわけではないが、除外してもよいだろう。
 奉納先の愛宕権現は火除けの神でもあるが軍神でもある。愛宕権現は武神らしく馬に乗る姿をしている。そこに巨大な絵馬を奉納して、入国早々に家臣らに君主としての意気込みを見せようとしたのだろう。たまたまかもしれないが、元和四年は午(うま)年にあたる。だが、日枝神社に猿を描いた絵馬を奉納した同六年が申(さる)年だったことを考えると、単なる偶然とも思われない。ここでは元和四年を奉納の年と考えておきたい。
 この絵馬からは初めて領国と家臣を目にする、年若い大名の心の昂ぶりが感じられないだろうか。図は、白地に茶色の横縞が入った小袖に緑色のたっつけ袴を穿き、紐を足首で結ぶ皮足袋に草鞋履きの若者が手綱を強く引いて、はやる馬を抑えながら駆けて行く光景である。形式的な図がほとんどの絵馬の中にあって他には見られない躍動感がある。口取りを画面中央馬体の前に配して馬よりも強く印象づけようとしており、風俗画としても見ることができる。腰に結んだ赤い帯に差した脇差は印籠刻鞘風の拵で、金色の盛上げ彩色が施されている。若者の月代を剃らずに頭部全体の髪を短く伸ばした髪型と、南蛮風俗を意識したものだろうか、首の回りに認められる鋸歯状の襟飾りが印象的である。



 風俗や馬の表現からすると家信の署名がなければ、この図はおそらく寛永期以降の作とみなされるだろう。だが、本図が元和四年(1618)の作であるならば、従来、寛永期とされていた風俗画、代表的な作品をあげれば国宝の「彦根屏風」などを、元和期にまでおし上げる有力な根拠となるだろう。その可能性についてはすでに『風俗画の近世』(至文堂 日本の美術)において指摘したことがあるが、本図の存在を知ってその意をいっそう強くした。
 元和期の作とはっきりとわかる絵画は少ない。元和五年の建物に描かれた旧円満院(現在は京都国立博物館)障壁画中の風俗画は、慶長二十年(1615)に描かれた名古屋城対面所の風俗図の系統を引く。従来は、十年間におよぶ元和期は慶長期の尻尾のように扱われてきた。最近、狩野博幸氏によって紹介された元和六年の東福門院入内行列を描き加えた「洛中洛外図」屏風にしても桃山時代の作品との区別が難しい。しかし、今後は元和期を寛永期を先取りした時代として二重写しにして見てゆく必要があるだろう。
 『治代普顕記』(『大日本史料』12編47)によれば、最上家信は「平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし」ていたとある。家信が改易された翌年の元和九年に、福井藩主の松平忠直が乱行を咎められて隠居を命じられ、豊後に配流されている。忠直も十三歳で家督を相続し、一国という都の遊女をつれ帰っている。家信と忠直の行跡はぴったりと重なる。松平忠直も最上家信も元和期という、大坂夏の陣の「戦後」という同じ空気を吸いながら、享楽的な日々を過ごした若き大々名であった。
 松平忠直は岩佐又兵衛という希代の風俗画家を世に押し出した。一方、最上家信は自筆の絵馬を残した。本図を日枝神社の同じ白黒斑の絵馬と比較すると、尾の表現や斑の具合から見て同筆と考えられ、職業絵師らしからぬ大胆な筆遣いで描かれているところから、伝承どおり最上家信筆とみなす可能性は十分にある。


杉板金地著色「猿曳馬図」(三面のうち) 山形市・日枝神社

そうであるならば、最上家信は自身の手で元和期の風俗を今に伝えるという、思わぬ功績を残したことになる。

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�17」より


最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【一 最上氏に仕えていた頃の佐竹内記】

 元和八年(1622)最上氏没落による藩の解体は、それはあの大家臣団の消滅を意味するものである。だが武士の道を捨て難く、新たな主家を求めようと、全国に散っていった者達の数も、決して少なくは無かったのである。
 この羽州最上時代の三種の分限帳から、佐竹姓を拾ってみよう。
 
A[最上義光分限帳]
土佐(物頭・655、7石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 忠次郎(100石) 内蔵允(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(30石) 雅楽助(20石) 宮内(30石) 弥五郎(10石)
  
B[最上家中分限帳]
土佐(物頭・650石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 宮内(30石) 右次郎(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(40石) 雅楽助(20石)
 
C[最上源五郎御時代御家中并寺社方在町分限帳]
内記(220石) 大八(160石) 源六(43石) 平内(74石) 宮内(15石) 忠二郎(42石) 喜八郎(47石) 雅楽丞(10石) 長十郎(5石3人) 五左衛門(30石) 半右衛門(16石) 藤右衛門(5石3人)

 以上、最上氏直参の分限帳から佐竹氏を拾ってみたが、これに陪臣として仕える者達を加えたならば、更に多くの佐竹を名乗る者達が居たであろう。この分限帳の佐竹氏の内から、内記と関わりを持つ者が果たして居るのか、その接点を求めるのは困難である。ただ平内とある人物が、後の小泉平内なのだろうか。
 ここで、物頭級の土佐・政右衛門・内記の三人を見ると、A・Bには共に土佐・政右衛門が有るが内記は見えず、Cは内記のみで他の二人は無い。土佐・政右衛門の二人は、Cの最上義俊の代には、もう姿を消していたのだろうか。当時の山形城下を措いた[最上家在城諸家中町割図]には、内記・土佐と別々に屋敷があるが、政右衛門は見当たらない。また城北の郊外の一画に、「佐竹内記下屋敷」と広大な区画が有るが、内記の禄高から考えてみると、少しは奇異な感じを覚えるのだが。
 内記の最上時代の足跡を探し出すのは難しい。元和八年(1622)藩内騒動による藩の解体は、辛うじて近江・駿河の地に一万石を与えられ、何とか大名として息を継げた最上源五郎義俊(家信)であった。   
しかし、この落差の激しい身辺の変化に耐えかねてか、寛永八年(1631)「長々相煩」の中で生涯を閉じることになる。
 この失意の義俊に付随の家臣の内に、内記の姿があった。『最上家譜』や『最上家伝覚書』によると、幕閣に於いて、義俊亡き後の家名存続についての協議が為され際の、最上氏側の代表として、柴橋図書・鈴木弥左衛門と共に内記の姿がある。江戸の大手門前の広大な屋敷を明け渡し、向柳原の下屋敷に移った最上氏であった。江戸を一歩も出ない義俊を支え、藩の運営に携わっていた内記であったろう。
 しかし、義俊の死により五千石の旗本身分となる最上氏が、禄高の半減に伴う家臣団の整理などに伴い、内記も柴橋図書と共に、最上氏を去ることになる。その経緯について『柴橋家由緒書』は次のように云っている。

源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時、壱万石(五千石)被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重而又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、法名花林春松居士佐竹末孫奥平氏山形之城主美作守方有之、

 このように、知行半減の旗本身分の家中に於いては、先ずは家臣団の整理が急務であったろう。柴橋図書と共に最上氏を去った時期は、同じく柴橋氏の記録の[寛永拾一年諸御道具御改脹面人数]の十一名連署の内に、柴橋図書と共に内記の名もあるから、寛永の十二年以後のことであろう。また、この柴橋氏の記録から、内記の子の与二右衛門が、山形藩当時の奥平氏に仕えていたことも分かってくる。
■執筆:小野末三

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