最上義光歴史館

最上義光歴史館
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※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、精英堂印刷が設計製作したものです。




最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」ペーパークラフト(最上義光歴史館Ver.)のダウンロード>>こちら

歴史館Ver.を据えると…
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【里村紹巴/さとむらじょうは】 〜義光の連歌の師〜
   
 義光が桃山時代を代表する連歌作者だったことは国文学者の間で広く知られているが、彼が師と仰いだのは里村紹巴(1524〜1602)だった。義光より22歳年上である。紹巴のことは、歴史辞典類や文学史の書籍類に詳細に記されているので、ここでは特に最上家との関係を書いてみる。
 文祿2年(1593)2月、義光は秀吉の朝鮮出兵に従い九州名護屋の陣営にあった。たまたま京都では紹巴の一門が、春の連歌会を催そうとして、発句を最上義光からもらうこととなった。これに応じて、義光の発句と、これに和した宿老氏家守棟の脇句(連歌の第二句)が届いた。守棟も名護屋陣にあったのだろう。

  梅咲きて匂ひ外なる四方もなし 義光
  幾重霞のかこふ垣内      守棟

 春がおとずれて梅が咲き、清らかな匂いがあたり一面に満ち満ちている。ここは幾重にも霞に包まれた、のどかな屋敷の内である、というような趣である。これに、第三句として、紹巴がつづけた。

  春深きかげの山畑道見えで

 深みゆく春、かなたの山畑をめぐる細道もいつしか霞の中に消え失せている、というのである。以下つぎつぎと詠じつづけて百韻連歌(五七五 ― 七七 ― 五七五…と百句で完了)とした。2月12日の日付があり、現存する義光連歌としては最初のものである。
 名護屋・京都を使者となって往復したのは、江口五兵衛光清だったらしく、彼はそのまま連歌会に参加して五句が選び入れられた。この連歌の写本は、国立国会図書館、内閣文庫、天理大学図書館に所蔵されている。
 紹巴は、この発句がよほど気に入ったと見えて、夏になって義光が帰京した折を見はからって、改めてみずからが脇句をつくって連衆に示し、百韻に仕立てた。珍しいことをしたものだ。このときには家臣、江口光清、堀(筑紫)喜吽の名もある。この2人は義光が連歌会に参加するときよく随伴した。教養豊かで風雅を解する人物だった。
 紹巴と義光とは、早くから親密だったようだが、いつから交流が始まったかといえば、義光が京都に長期間滞在するようになった天正18年(1590)秋よりあと、特に侍従に任じられた天正19年正月以後だろう。だから、わずか2〜3年の間に、義光と紹巴は親しくなったわけだ。
 紹巴は本姓松井氏。奈良に生まれ、連歌の道にこころざして京都に出た。「これより苦しみ努めて、そのわざ妙にいたり、王侯士庶みな師と仰ぐ……その名天下にあまねし」(続近世畸人伝)という状況になったという。
 彼にかかわる有名な話として、明智光秀が本能寺に織田信長を襲う数日前(天正10年5月末)に、愛宕社で催した連歌会で、

  時は今あめが下しる五月かな     

という光秀の発句に、天下(あめがした)を奪おうという意思が秘められていたことを知りながら、さりげなく第三句を作ったという話がある。あとで秀吉からこの点をただされたそうだが、しかし、それでもって信を失うことはなかった。大坂、伏見、聚楽第に伺候し、さらに吉野の桜狩り、高野山での連歌会と、秀吉の側に侍することが少なくなかった。連歌師は、古典文学の研究者であり、連歌・短歌の実作者でもあったから、紹巴のみならず、里村家の人々はいずれも、京都を中心とする文学芸術の世界で幅広く活動していた。芸術文化に深く関心を寄せていた義光は、光彩に満ちた京都文芸界に、積極的に飛び込んだのであろう。素地は山形にいるとき相当程度は出来ていたのだろうが、妻子同伴で在京期間が長くなったことから、自然に京都文人との交流も密になったと思われる。
 さて、紹巴が義光と同座した連歌会は20回に及ぶ。
 紹巴は、豊臣秀次による謡曲注釈の事業ではリーダー格となり、聚楽第にしじゅう出入りしていた。義光もときどき伺候していたと見え、聚楽御殿で催したと考えられる連歌もある。紹巴が発句、義光が脇句を詠じた。

  写し絵の紅葉はちらぬ宮居かな  紹巴 
  牆(かき)ほの四方や風寒き音  義光 

 「御殿の襖や壁面に描かれた紅葉は、冬近くなっても散らずに宮居を飾っている。めでたいことよ」というのが発句。「御殿をめぐる高い土塀の外は、寒い風の音がしている」というのが脇句である。関白の住まいであるから「宮居」といってもおかしくない。これは文祿3年10月25日(太陽暦12月6日)開催の連歌である。
 文祿4年(1595)秀次は謀反の言い掛かりをつけられ、高野山に追いやられて自決させられる。家臣も、親しかった公家や大名も罪人とされた。義光は閉門、15歳の娘駒姫は処刑された。伊達政宗も譴責を受けた。
 紹巴も秀次の謀反謀議に加わったとされ、財産没収のうえ近江に追放された。およそ2年ほどは三井寺門前で侘び住まいを余儀なくされたが、こういう事態のなかでも、義光は恩師紹巴と音信を絶やさなかった。
 翌年の7月、義光は連歌に関する質問をまとめて紹巴に届け、教えを請うた。近江まで出向いて直接伝授を受けたこともあったようだ。紹巴のほうも、年末には義光の息子で十五歳の家親が文学好きだと聞いて、藤原定家の『詠歌大概』を自筆で書き写しプレゼントしている。紹巴と義光は、互いに深い信頼で結ばれていたのである。
 紹巴と義光の関係や業績については、連歌史研究の最高権威木藤才蔵博士の『連歌史論考』などに詳しい。
 紹巴が流謫を解かれて帰京したのは慶長2年(1597)の夏ごろであろう。8月7日の夕刻から、京都文人のトップクラスが集まり、紹巴を主賓とする連歌会が開かれた。場所は残念ながらわかっていない。
 呼びかけは興山寺の応其(おうご)。豊臣秀吉が尊敬した傑僧で、世に木食上人として知られている。同席者は細川幽斎、徳善院僧正前田玄以、准三后聖護院道澄、大納言日野輝資、新三位参議飛鳥井雅庸、山城守山中長俊、近衛家に仕えた文人北小路友益、これに紹巴の身内である昌叱、玄仍、景敏(後改名、昌琢)の3人が加わった。義光がこの華々しい席に招待されたのである。
 全巻すぐれた句の連続で、数多い桃山時代連歌のなかでも秀作であろう。義光の句は七句選び入れられたが、他に比していささかの遜色もない。それどころか内容の深さ情趣の豊かさは、他をしのぐ感さえある。時に紹巴74歳、義光は52歳であった。実作品は、『最上義光連歌集 第三集』をご覧いただくとして、ここでは略させていただく。義光と紹巴が一座した最後は、慶長5年(1600)の初夏である。日付はないが、おそらく5月上旬だろうと思われる。発句は紹巴。

  秋に散ることわりは憂き若葉かな

「明るい若葉も、秋には散るのが定め、それがもの悲しい」の意。義光は9句が選び入れられた。このときは、江口光清も堀喜吽も同席していない。
 実はこの一箇月ほど後の6月には、義光は家康の意を受けて、会津上杉討伐に向けて山形に帰らねばならないときであった。そしてこの連歌が、現在確かめられる義光連歌の最終作品ということになる。
 上杉の大軍を迎え撃ったいわゆる慶長出羽合戦(長谷堂合戦)で、光清も喜吽も戦死した。ともに連歌を楽しんだ側近2人の死に、義光はどんな感懐を抱いただろう。
 紹巴は、慶長7年(1602)4月12日に没した。慶長元年の文書に「七十三歳」と自記しているところから、年齢は79歳ということになる。
 57万石の大封を得た義光は、その後も上洛の機会は少なくなかったが、師を失い、気心知れた家臣両人を失っては、連歌を楽しむ心境には、もはやなれなかったのかもしれない。関ヶ原合戦以後、義光の連歌を見出すことはできない。
■■片桐繁雄著



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木村☆社長が予告どおり「大ふへん者」の甲冑をペーパークラフトにしました!!!





まだ歴史館に完成品がありませんので、完成品ができしだいアップします!!

乞うご期待!!


▼ダウンロードはこちらから >> 『米沢・戦国 武士[もののふ]の時代』
▼前田慶次郎甲冑ペーパークラフトの工程図(『米沢・戦国 武士[もののふ]の時代』) >> こちら

《平成22年度11月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成22年11月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



      企画展示 (11/1〜11/30)

    開館日数 ・・・・・・・・・・25日間
    入館者数・・・・・・・・・2,291人
    回答者数 ・・・・・・・・・・150人


 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・14%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・5%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・10%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・1%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・4%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・15%
 (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・・19%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・19%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・92%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%


 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・45%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・44%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・11%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・39%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・57%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・1%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


 〜利用者の声〜

 ◎最上家の事を分かりやすく説明してもらったので、家に帰ってからもう一度復習したいと思う。

 ◎詳しく説明を聞くことができて、大変楽しかった。

 ◎説明板の字が小さくて読めない。

 ◎あまり時間がなく、もう少しゆっくり見たかったので、また来たい。受付の方が丁寧に対応してくれたので良かった。

 ◎最上義光の人物像について、小説や大河ドラマを基に「義光の描かれ方」に焦点を当てた企画展をしてほしい。

 ◎料金がかからなかった事は大変良いと思った。

 ◎最上氏の家臣の神保氏も展示してほしい。

 ◎楽しく見学する事ができた。

 ◎充実した展示は素晴らしいと思った。最上義光公の功績を知る事ができ感動した。

 ◎もっと視覚的なものを増やした方が分かりやすい。文書が多すぎると、一般の方には難しくなると思う。

 ◎説明が分かりやすかったので、苦手な歴史ながら、頭に入っていった。

 ◎施設が最上義光という武将に特化して造られており、とても分かりやすかった。山形市民に非常に尊敬されている武将である事を感じさせられた。このような歴史館は、全国でも珍しいと思う。

 ◎説明文に他家との比較などを加えてくれるとより分かりやすくなると思う。

 ◎海外の方にも対応できるよう「英語」「中国語」「韓国語」の説明を付けた方が良いと思う。

 ◎関ヶ原戦後の説明はたくさんあり、良く分かったが、それ以前の家督を継いでからの経歴も充実させてほしい。

 ◎特別展でもよいので、本物の「鬼切丸」を見てみたい。

 ◎案内板の字がよく読めないので、字を大きくしてほしい。

 ◎ケースの中の解説文が遠くて少し見づらい。解説の方の声が聞こえてきて、一人で見ていると気になる。これだけの資料を無料で見る事ができて良かった。

 ◎義光や昔の事が詳しく分かって良かった。

 ◎素晴らしい資料を無料で提供しているのは、山形の懐の深さを感じた。

 ◎無料施設にもかかわらず、音声ガイド・パンフレット等充実しているので驚いた。とても有意義な時間を過ごす事ができた。

 ◎これだけたくさんの展示物で無料は有難い。全国の施設や歴史館を巡っているが、ほとんどの施設が入館料を取るので、無料なのは大変驚いた。


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (4)】

 ともあれ、最上氏が最上・村山両郡に勢力を進展させていく十五世紀始めの段階において、最上氏は庶子たちを積極的に郡中における交通・経済の要所へと分封し、大規模な惣領制を展開してその支配権を固めていった。最上家三代の最上満直の子満国も應永十三(1406)年に楯岡へと封じられ(注6)、天童氏や中野氏らと同様に周辺地域の支配を進めて行ったと考えられる。だが、その支配体制も、時を経るに連れて一族の宗家からの分立・台頭が激しくなる。最上氏は、斯波兼頼を始祖とする一族の宗家という権威を振りかざして領国支配を行っていたものの、例えば天童氏は同じ斯波一族として最上家と同等の格を以って大崎氏に相対しており、次第にその独立性を強めていったようだ。

 楯岡の地に入部した後の楯岡城主は、初代伊予守満国のあと、二代河内守満正、三代和泉守満次、四代豊後守満春、五代長門守満康、六代因幡守満英と変遷したようであるが(注6)、その動向に関しては、十六世紀前半段階に至るまでそれを直接的に語る史料が存在せず、その詳細な動向を探ることはきわめて困難である。信頼のおける史料の上で、その名が登場するのは『伊達正統世次考』永正十一(1514)年二月条で、「(上略)春二月十五日最上兵と羽州村山郡長谷堂に戦う、楯岡・山辺式部已下敵一千余人を斬り、長谷堂城を抜き、小梁川中務親朝を留めてこれを守る」とあり、伊達稙宗と最上義定との争いに、楯岡は最上方の一部将とし出陣していたようである。なお、この戦死した「楯岡」が上記した城主の誰を指すものであるかは判然としない。

 十六世紀も半ばを越え天正年間に入ると、最上宗家の内訌を克服した最上義光が、最上・村山地域の確固たる領国化を強行せんと北進の気配を見せ始める。義光がまず打倒しなければならなかったのは、比較的早い段階から最上家との家格的分立を強め、最上諸族の中でも頭一つ抜きんでた形で独立色が強い天童氏であった。天童氏は元亀末から天正初期にかけて発生した最上家内紛の際も反義光の急先鋒であり、最上宗家に対する対立姿勢を明確に示していた。当時天童氏は険阻な山城の天童城に居を構え、四方に支城を設けて重臣たちを配置し防御線を構築していた。さらに、天童の周辺地域の国人領主達とは同盟関係にあり、「最上八楯」として地域的党的結合を為していた。「最上八楯」は天童・延沢・飯田・尾花沢・長瀞・六田・成生そして楯岡であり、楯岡氏も天童方の一翼として、押し寄せる最上勢を幾度か撃退しているようである。

 対する最上義光は、延沢満延の嫡子又五郎に娘を嫁がせ、婚姻関係を結ぶ事によって二家の間に和議を成立させた。その衝撃はかなりのものであったようで、天童勢は瓦解への道をたどった。天童落城の時期に関しても、天正五年(1577)説と天正十二年(1584)説があるが、近年は十二年説が有力である(注7 他)。ともあれ、延沢氏が最上方へと転向した結果、中心的存在を失った最上八楯の結束は完全に崩れた。義光はその余勢を駆って北進し、最上八楯を含む国人領主達を制圧し、領国化して自らの支配権を拡大していった。もちろん楯岡氏も例にもれず、最上氏の侵攻を受けた。当時の城主は楯岡因幡守満英であったとされるが、満英がいかなる抵抗をしたかを示す史料は存在しない。東根の後詰に出向いた満英が、落城の報を聞いて絶望し自害して果てたという話が残っている(注8)ようだが、確証は無い。ただ、その後の楯岡領は豊前守満茂へと襲封された事は確かなようである(注6)。
<続>

(注6) 『村山市史 原始・古代・中世編』(村山市 1991)
(注7) 『山形県史 第一巻』(山形県 1982)
(注8) 川崎浩良『山形の歴史(前篇)』(出羽文化同交会 1948)


本城満茂(5)へ→

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (3)】

 「本城系譜」では、最上貞家の官職は修理太夫、法号は金勝寺月潭光公と表記され、没年は応永十七年としている。同様に満貞の官職は修理太夫、法号は法祥寺念叟観公、没年は応永二十年となっている。それでは、他の系図の兼頼の次代・次次代はどうなっているだろうか。前述した通り、兼頼の次代は直家、その次代は満直である。『山形市史 史料編1』に記載されている各系図における二人の法号・没年をまとめると下表のようになるが、これを見る限りでは、「本城家譜」における貞家と満貞は他の系図の直家と満直と同一人物としてとらえる事ができ、さらに没年を見る限りでは「本城氏系図」は「最上家譜」を原本として編まれているように見うけられる。



 これは、恐らく編纂作業の途中で「直」の字が「貞」と読み間違えられ、そのまま誤記されてしまったのであろう。また、楯岡氏三代目が「本城氏系図」では家泰、「本城系譜」では満定となっているが、双方とも法号が「巨岳」であることを見ても、これら二人は同一人物と想定してよいだろう。また、「最上・天童・東根氏系図」には最上豊前守光俊として義光の末弟とされているが、他の系図のどれにもそのような記述は見られず、また系図自体の信憑性に疑問が呈される史料でもあることから、これは誤った記述と見てよいだろう。
<続>

→本城満茂(4)へ