最上義光歴史館

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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【四 近江領分五千石の地】
    
 元和八壬戌八月二十一日、祖父義光が営々として築き上げた、山形藩五十七万石没収の憂き目を見た義俊ではあったが、辛うじて大名としての体面を保持得た、近江・三河の五千石宛の領地とは、どのような性格を有していたのであろうか。諸史に見る義俊の新領地についての大要を述べてみる。

(イ)[寛政重修諸家譜] 
 あらたに近江国蒲生・愛知・甲賀をよび三河国のうちにをいて、壱万石の地を義俊母子にたまひ、
(ロ)[最上家譜] 
 当分の内為扶持料、江州・三州ニテ一万石被下之、
(ハ)[譜牒余録後編]
 為御扶持方、江州・三州にて壱万石、源五郎に被下置候、
(ニ)[玉滴隠見]
 先当(当座)ノ御扶持方トシテ、高一万石下シ置レ候ノ処ニ、
(ホ)[東武実録]
 近江・参河二州ニ於テ、僅ニ采地一万石ヲ賜り、
(へ)[廃絶録] 
 於近江五千石源五郎へ被下、於三州五千石母儀へ被下、合一万石、
(ト)[伊達秘鑑] 
 源五郎ニハ近江国ニテ三千石、堪忍分トシテ下サル、江戸浅草ノ下屋敷ニ逼塞仰付ラル、

 この諸史の内容から察すると、東西に二分された所領の支配が、直接最上家の手によるものではなく、表高一万石[注1]の内容が扶持方・堪忍分という、「宛行扶持」に等しいものとしているようだ。実際に三河の内の一ケ村が、幕府代官の管轄下に在ったと思われる記録(後述するが)があることから、他の地域にも同じことがいえるのではなかろうか。ということは、大名家とは申せ自主性を失い、幕府の監視下に置かれていたことを意味するものであろう。推測すれば、この状態は寛永五年(1628)九月、義俊が晴れて赦されるまでは続いたのではなかろうか。
 そして翌六年、義俊が本役一万石で勤めた江戸城普請手伝いが、幕府から改めて一万石の大名として、認知された証しではなかったろうか。義俊が明らかに一万石の大名として、公の場に名を止めたのは、この普請手伝いの場のみで、他に例を見ることができない。
 そして、寛永八年(1631)義俊の死により、大名の地位を失った最上家は、そのまま近江領五千石のみを有する一旗本として生れ変わっていく。先ずは過去に於いて、この近江領五千石が、最上家とどのような経緯があり、義俊に引き継がれていったかを見てみたい。
 豊臣秀吉の天正の頃から、徳川家康の慶長の初めの頃にかけて、両者が諸大名達の上洛に際し、その滞在費用として、京近辺に「在京賄料」としての知行地を与えていた。義光に例をとれば、「その年(文禄元年)の正月、秀吉は征韓の帥を出し国内の領主にも出兵参加を命令したので、義光は正月二日山形を発し、京都で秀吉に面会した際、秣場として近江大森の地五千石を給与された[注2]」として、義光の近江での賄料の確保を伝えている。
 しかし、これが果たして事実であったのか。これを示す根本史料には未だ接することができない現状では、なかなか事実として肯定するのは難しい。
 この説の根源となったのは、おそらく『最上四十八館の研究』(丸山茂・昭和19年)の次のような記事であろう。

 近江・三河両国に各々五千石を賜ったのであるが、そのうち三河国の分五千石は遂に不払いに終わってしまった。豊臣秀吉肥前名護屋に陣、征韓の帥を統帥した時、義光も出陣したが、この時秀吉より秣場五千石を江州大森の地に得た。現在の滋賀県蒲生郡玉緒村で、これを契機に近江商人が山形に移住して、今日の山形商業の端緒を開いた。最上家が改易先を大森に選ばれたのも、この因縁に依るのである。
 
 そして、この先人の説が大きく膨らみを見せ、『山形市史・中巻』の「幕藩体制の確立と推移」の中の記事が、この説をさらに具体化して定着させている。

 豊臣秀吉が文禄年間に伏見城を築いた折、麾下の諸大名を城下に在住させるために、屋敷を分賜したが、その家来分までの土地が無かったから、隣国近江の各地を諸侯の秣場として宛て行い、そこに家来たちを居住させることにした。当時、義光もまた蒲生郡大森に五千石を給与されており、これが近江と山形の関係が深まる、直接の契機となったものと見られる。
 
 このように、これらの説を見る限り、義俊の近江領分五千石とは、祖父伝来の土地をそ
のまゝ引き継いだものと解される。しかし、これに関わる信ずべき史料を手にしない限り、安易に認めることはできない。ただ最上義光分限帳に、「御蔵人」の分としての出羽国内十万千二百石の外に、「右之外在之少宛之御蔵人別帳有之」として、別に小規模の蔵入地のあることを伝えている。
 東北諸大名に対しての賄料については、上杉景勝は天正十六年(1588)に、蒲生・野州・高嶋三郡のうちから一万石[注3]を、伊達政宗も蒲生郡内に五千石を与えられている[注4]
ので、義光への給与も考えられようが、これを先人の説に従い、そのまゝの形で義俊の領分とすることには、重ねて疑問を呈したい。ここに義俊以後の旗本最上氏五千石の所領十ケ村の変遷について述べてみる。

  「最上領村高」
 一 高五百六拾四石五斗三升  上大森村(東近江市)
 一 同八百四拾四石六斗七升  下大森村(  同  )
 一 同九百七拾四石壱斗八升  尻無村 (  同  )
 一 同弐百九拾壱石七斗七升  稲垂村 (近江八幡市)
 一 同五百七拾壱石九升    石原村 (  同  )
 一 同弐百七拾八石六斗五升  小御門村(  同  )
 一 同百四石壱斗壱升     野口村 (  同  )
 一 同千九石六斗五升     愛知郡 池之庄村(東近江市)
 一 同百六拾壱石弐斗九升   甲賀郡 市之瀬村(甲賀市)
 一 同百九拾九石二斗五升   同    上野村( 同 )
        五千石
             (注、( )内は現地域を示した)
 
 この「最上領村高[注5]」は、旗本最上氏家臣の鳥越氏の記録によるもので、この交代寄合御礼衆としての最上領五千石が、義俊代の近江領分五千石をそのまゝ引き継いだものなのか、この十ケ村の変遷の大要を述べてみる。
  
(イ)上大森村
 蒲生郡のうち、[寛永高帳](以下、高帳)では彦根藩領294石余、旗本寄合最上氏領564石。
(ロ)下大森村
 蒲生郡のうち、高帳では江戸期を通じて旗本寄合出羽最上氏領844石余、元和八年最上義俊が近江・三河に於いて一万石を与えられたが、寛永九年義智のとき五千石を幕府に返上、以後大森に陣屋を構えた。
(ハ)尻無村
 蒲生郡のうち、江戸期を通じて旗本寄合出羽最上氏領974石余。
(ニ)稲垂村
 蒲生郡のうち、元和八年旗本最上義俊の所領となり、以後、江戸期を通じて旗本最上氏領、高帳では291石余。
(ホ)石原村
 蒲生郡のうち、天正十二年より中村式部少輔領、豊臣秀次領、長束正家領、幕府領を経て寛永八年十二月まで、旗本最上義智五千石の支配、高帳では511石余。
(へ)小御門村
 蒲生郡のうち、天正十二年より中村式部少輔領、豊臣秀次領、長束正家領、慶長五年幕府領、同十年掘田正信領、寛永十年再び幕府領、寛永十九年以降旗本最上氏領五千石のうちとなる、高帳278石余。
(卜)野口村
 天正十二年より中村式部少輔、次いで豊臣秀次領、文禄四年より長束正家領、慶長五年より幕府領、寛永八年十二月より現八日市市大森に陣屋を置いた、最上義智領五千石となる、高帳104石余。
(チ)池庄村
 愛知郡のうち、旗本最上氏領、高帳1,009石余。
(リ)市之瀬村
 甲賀郡のうち、慶長五年旗本最上氏領となり、幕末に至る、高帳161石余
(ヌ)新宮村
 甲賀郡のうち、上野村と一村の扱いをしている、高帳は403石で幕府領、大森藩領、美濃部氏領。

 以上、十ケ村の領主の変遷についての概略は、『角川日本地名大事典』より関係箇所のみを拾い、できるだけ形を変えずに述べてみたものである。これらから判断すると、十ケ村すべて最上家に関わってはいるが、近江にて義光秣場五千石が在ったとしても、この十ケ村五千石をそのまゝ当てはめることは難しい。しかし、この十ケ村五千石が、義俊の近江領分五千石であり、旗本最上氏へと受け継がれていったものと考えよう。
(リ)の市之瀬村について、『土山町史』(昭36年刊)に次ぎのような記事がある。
  
 家康は豊臣氏の旧例にならって、京都に近い近江国を遠国大名の在京用途地として与えたために、他国の大名で近江国内に領地を有した者が多く、その数は二十数藩に及んでいる。関ケ原合戦の際、水口で破れた長束正家は領地を徳川方に没収され、直轄地に編入された。松下孫十郎が代官として瀬音・大野・黒川を除いた全土山を管治した。瀬音の残り(旧市ノ瀬村)は、同じく麾下の士最上源五郎の管治するところとなった。源五郎は名を義光といい、兼頼より十七世の孫に当たる。初め家康に仕え戦功あり、その功により出羽国数郡を領したが、近江国では蒲生・愛知・甲賀の三郡に五千石を有した。

 これを読むと、この記事の執筆者が、義光と義俊に共通する源五郎の名から、果たして二人を厳密に区別しての記述なのか、混同してのものなのか判らないが、慶長五年の関ケ原戦以後に与えられたとすれば、義光の在京賄料としての性格が強く感ぜられる。
 『近江蒲生郡志』(大正11年刊)は、「(大森陣屋最上氏)は近江国蒲生・愛知・甲賀三郡及び三河国に於いて壱万石の地を与えられる。時に元和八年八月なり。之れ最上家と本郡関係の創始なり」と、蒲生三郡と最上家との接点について述べている。
■執筆:小野末三

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[注]
1、[寛永元年大名禄高] (内閣文庫所蔵)
 奥書きに、明治十四年八月十五日華族徳川昭武蔵書ヲ写ス、とあり、当時の大名家を地域別に、東国、東山、北国、四国中国、九州衆に区分して記載している。最上源五郎は次のように見えている。

          東 山
  一 壱万石   三河近郷二而    最上源五郎


2、『山形の歴史』 (川崎浩良)

3、[上杉家文書] (『大日本古文書』)
 「為在京賄料、於江州蒲生野州高嶋三郡内、壱万石事、被宛行之訖、全可有領知之状如件」との、秀吉からの景勝宛ての判物がある。

4、新見吉治[近江における仙台領雑考] (『徳川林政史研究所研究紀要』昭42年度)
 『徳川家康文書の研究・下巻之1』 (中村孝也)
 慶長六年、片倉景綱に与えられた「知行宛行状」から、この五千石はもと秀吉より与えられた地であるが、「未だ果さ」れなかったので、改めて家康から与えられたものだという。また「中目文書」によれば、秀吉から天正十七年に下賜されたともいっている。
 また、天正十八年七月の秀吉による奥州仕置により、岩城・戸沢・南部の諸氏に与えた領地朱印状の文言の中にも「在京之賄」云々とでている。

5、『近江蒲生郡志』 (蒲生郡役所・大正11年)


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【鮭延秀綱 (3)】


 鮭延が、永禄の中頃から大宝寺武藤氏の強い影響力の元にいた事は前述した。その経歴から考えても、武藤氏及び庄内の国人と鮭延氏の間には、ある程度強い結びつきがあったようだ。義光が庄内へと勢力を伸張させようと目論んだ天正十(1582)年から天正十一(1583)年にかけた一連の軍事行動の準備段階として、鮭延は、庄内の有力国人衆へ対して調略を仕掛けている。下に挙げた書状は、鮭延が来次氏等に対して最上方に翻意するように勧めていた事が窺える書状である。

   自鮭延殿御音信被申上候間、御使今朝其表へ相送申候つる、
   定而参着可申哉、野拙処江も書状ヲ差越被申候、為可入御覧差挙
   申候、何共不聞得文書ニて候、以分別可致返章事難弁候間、
   當座之挨拶迄ニ而令返酬候、如何様近日中以参上、
   心事可申述候間、令省略候、恐々謹言、
     菊月廿一日     来次
                氏秀(花押影)
        砂越次郎殿
            御宿所 (注16)

 結果として、情勢は最上方優位に展開した。

   如翰計之、未令啓書候處ニ、急度之御到來祝着之至候、
   随而((這カ))定般鮭延へ、從庄中致亂入候条、
   彼口爲引立之勧騎之支度候キ、然處ニ白岩八郎四郎、
   大寳寺方へ以縁約之首尾、甚別心候条、爲退治向彼地令發向、
   先々属本意之形候、至春中者、清水・鮭延以相談、庄中可押詰候
   雖無申迄候、於時者、爲引汲三庄境目へ可被責入事肝要候、
   毎事砂宗入道方へ及細書候条、不能腐書面候、恐々謹言、
     霜月廿五日     源義光(花押)
         謹上 下國殿 (注17)

 上の書状は義光が武藤氏を挟撃する為に下国(秋田)愛季と申し合わせた文書であるが、砂越氏が最上方についたと解釈できる記述が見られる。恐らく来次氏と共に寝返ったのであろう。どうやら、鮭延は調略を成功させたようだ。

 また、義光は、天正末〜慶長初期に平鹿・雄勝郡を領する小野寺氏へ対して幾度か軍勢を催しているが、そこでも鮭延秀綱は外交手腕を発揮したようだ。根本となる書状史料には欠けるが、

  湯沢落城の事 (注18)
   (前略) 鮭登思ひけるは、「関口も我に中違うて有けれども、
   何とぞして彼を語らひ味方となさば、山北を攻るに心安かるべし。」
   と、密に飛檄を以て是を語らふ。折ふし春道も小野寺に野心を
   挟めば何の異論もなく、一味をぞしたりける。夫より春道が
   計らひとして、西馬内肥前守茂道・山田民部少輔高道・
   柳田治兵衛尉・松岡越前守・深堀左馬の五人心替りして最上に組す。

 そもそも、鮭延氏(佐々木氏)は前述した通り小野寺氏の被官であった時期が長く、最上地域の他の領主に比べ小野寺氏と仙北国人衆への外交的繋がりは比べ物にならないほど強いものであった。義光は仙北の国人衆に対して揺さぶりをかけ、小野寺氏との関係において大方主導権を握っているが、鮭延も何らかの形でその調略戦に関与していたと考えるのが自然であろう。

 ともあれ、鮭延氏は最上義光の圧迫に屈してその家臣となったが、そこには、鮭延秀綱が果たすであろう役割に対する大きな期待感が最上義光の中に存在していたのである。事実、最上家参入直後における鮭延の立場は既に比較的高いものであった。前述の最上義光書状においても「清水・鮭延以相談、庄中可押詰候、」とあるように、最上地域における義光与党の重鎮的立場にいた清水氏と併記される扱いをうけている。まさにこれは、最上地域において清水氏に匹敵する勢力、あるいは立場を最上義光が認めていた証左となろう。また、天正十五年三月十三日発給とみられる瀧沢主膳正維助書状(注19)においても、秀綱は義光の腹心であり最上家中の中核にほど近い位置にいたと推測される志村伊豆守とほぼ同格に扱われている。最上家中において、秀綱は志村伊豆守と同等に扱われる立場を既に天正十五年の時点で築いていた事が見て取れるのだ。

 前記の通り庄内の国人衆や雄勝郡の国人領主を最上方につける事に成功した折衝手腕はもちろん、『奥羽永慶軍記』等の軍記物によれば、仙北侵攻時には一手の主将として小野寺勢を打ち破る等、槍働きにおいても最上家の勢力伸長に寄与したようである。もちろんその史料的性質から多少の誇張を含む記述と見るべきであろうが、ある程度評価には値するものであろう。義光の期待に、鮭延は存分に応える働きをしたようである。
<続>


(注16) 「筆濃余里所収文書」 十月二十一日付来次氏秀書状(『山形県史 史料編1』)
(注17) 「湊文書」 十一月二十五日付最上義光書状(『山形県史 史料編1』)
(注18) 『復刻 奥羽永慶軍記』(無明舎出版 2005)
(注19) 「筆濃余里所収文書」 三月十三日付瀧澤主膳正書状(『山形県史 史料編1』)


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜

【鮭延秀綱 (2)】

 本章では、鮭延秀綱が天正九年に最上家に降ってより後、最上家内での立場をどのように変化させていったかをテーマとして論を進めていく。
 なお、論述の重きを置くポイントとしては、比較的文書史料の残存状況が良好な天正期、鮭延の働きが顕著な仙北紛争期、南出羽に最上家勢力が確立した関ヶ原の戦後〜元和期の三つの段階に分けて検討していきたい。


1、天正期の鮭延秀綱

 最上地域(現在の最上地方)は、内陸から庄内、あるいは秋田へと続く交通の結節点であり、同時に南出羽の大動脈とも言うべき最上川を押える要地であった。また同時に、北に仙北小野寺氏、西に大宝寺武藤氏、南に最上氏と強大な三勢力がこの要衝を欲して干戈を交える地勢でもあった。そこに割拠した鮭延秀綱は、一体どのような意図の元に最上家勢力内に組み込まれていったのであろうか。
 
 鮭延氏は、元々仙北の領主小野寺氏の勢力下にいた。だが、鮭延秀綱の父貞綱が鮭延郷に移った大永・天文年間には、小野寺家中の内訌の影響もあって、鮭延氏に対する小野寺氏の影響力は薄れる一方であったようだ(注8)。しかし、その後鮭延氏は独立独歩の道を歩んだわけではない。他の中小規模国人領主の例にもれず、常に強大な勢力の影響を受ける立場にあった。秀綱が家督を継ぐ以前から、庄内の武藤氏は最上地方領有の望みを持って幾度も鮭延郷をはじめ最上地方の各郡へと兵力を繰り出している。特に大規模な戦いとなったのが永禄六年と同八年の侵攻である(注9)。その結果最上地方の大部分は武藤氏の手に帰し、鮭延氏も武藤氏の強い影響下に置かれていたようである。秀綱は当時幼少期であったが、『鮭延城記』に、「茲に又永禄六年の役典膳(秀綱の父貞綱)の次子源四郎當歳なりけるを荘内勢の為めに虜となり姨と共に彼地に於て養育せられるを〜」、『鮭延越前守系図』(注10)によれば、「永禄ノ役ニ荘内ニ虜トナリ彼地ニ成長シ幼ニシテ逃レテ城ニ皈リ主トナル、」とあり、秀綱は永禄六年の戦の結果人質として庄内に連れ去られたという記述がいくつか見える。
 この二つの資料は、あくまで明治後期〜大正期にかけて鮭延瑞鳳氏によって著述された郷土研究資料で、それ以上の価値を見出す事は難しい資料である(注11)為この記述がそのまま真実であるかどうかという事を断定はできない。だが、鮭延氏遺臣の著した『鮭延越前守公功績録』ではかなり念入りに鮭延源四郎(秀綱)が庄内にいた描写がなされており、興味をそそられる内容ではある(注12)。

 最上地方が武藤氏の勢力圏となったことを座視している最上義光でもなかった。天正三年頃には、家中の抵抗勢力をある程度排除して最上家の主導権を掌握した義光だったが、さらに地歩を固めようと上山・東根・楯岡らの周辺諸地域を勢力下におさめた。さらに、天童八楯の繋がりを背景に強固な勢力を誇っていた天童氏に対しては和議を結ぶ一方、その裏で八楯に対する切り崩し工作を行い、その力を弱める事に余念がなかった。そうしてひとまず近隣の安定化を達成し、将来的に庄内地方の領有を望んでいたであろう義光にとって、次の目標が最上地域となるのは当然の事だったのである。天正八年、義光は攻略の手を小国(現在の最上町)へと伸ばした。当該史実に関する根本史料は無いに等しいが、『奥羽永慶軍記』によれば、

  天正八年ノ頃、小国領主細川三河守モ天童頼澄ノ舅也ケレハ、
  天童ニ力ヲ合セ本望ヲ達セント、計畧ヲ廻ラスヨシ聞エケルハ、
  山形ヨリ大勢ヲ差向終ニ退治ヲセラレケリ、此時蔵増安房守
  軍功ヲハゲマスニ依テ、小国ヲゾ賜ヒケリ、依テ蔵増ガ嫡子
  小国日向守光基ト名ノリケリ(注13)

 とあり、この侵攻は最上地域における拠点確保と天童氏の弱体を一挙に行う事を意図したものであったと推測される。さらにこの翌年の天正九年、義光は一連の最上地方経略計画を完遂するために鮭延郷へと侵攻した。

  鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、
  其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
  今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、依之態計我々着候着物並袴
  指越候、一儀迄候、將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、
  返々無用候、彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、
  万々期後音之時候間、早々、恐々謹言、
   五月二日   義光(鼎形黒影印)
       庭月殿 (注14)

 とあるように、義光は鮭延氏の家老格であった庭月氏を懐柔して、鮭延氏周辺の切り崩しを図っている。なお、鮭延氏攻略の責任者には氏家尾張守が充てられた。氏家尾張守といえば当時の最上家での宿老的存在であり、またこの文書中でも「氏家尾張守為代職指遣」「氏尾所へ被罷越可然候」としているように、庭月に対して「氏家は義光の代理である」事を殊更に強調している。氏家尾張守は義光の期待に十二分に応え、鮭延城を攻略し鮭延氏を臣従させる事に成功した。また同時期に、新庄の日野氏をも降して、最上地域のほとんどを最上家領国化している(注15)。
 ここで注目したいのは、「鮭延就致我侭」と義光に対して抵抗の姿勢を見せていたにも関わらず、前年に攻略された細川氏と異なり、鮭延氏は降伏後その所領を安堵されている事だ。細川氏がどのようにして攻め滅ぼされたかは前述した通り判然とはしないが、細川氏が領主の座から追われて最上派の国人領主(蔵増氏)がその後釜に据えられている事に比べると、鮭延は非常に厚遇され最上家に迎え入れられたと見て間違いないだろう。これには、義光が、地勢的理由のみならず、鮭延を傘下に取りこむ事に対して様々な価値を認めていたであろう事が理由の一つとして考えられるのだ。その利用価値の大きな部分を占めていたのは、鮭延が持っていたであろう他勢力へ対する影響力だったと推察される。
<続>

(注8) 『真室川町史』(真室川町 1997)
(注9) 『同』
(注10) 「正源寺文書」(『山形県史史料編 2』)  
(注11) 前掲 粟野氏論文(1983)
(注12) 「早川家所蔵文書」(『新庄市史史料編 上』) 
(注13) 『奥羽永慶軍記』 谷地・寒河江落城ノ事 (『新庄市史史料編 上』)
(注14) 「楓軒文書纂所集文書」 天正九年五月二日付最上義光書状写 (『山形県史 史料編1』)
(注15) 『新庄市史』(新庄市 1989)など


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 

【鮭延秀綱 (1)】

 本稿において、最初に取り上げる最上家家臣は「鮭延秀綱」である。
 鮭延秀綱は、最上家家臣の中でも比較的史料の残存状況がよい人物であると同時に、長谷堂合戦での活躍や、海音寺潮五郎『乞食大名』などの出版物で広く名前が流布している。
『最上義光分限帳』(注1)を見る限りでも「一、高壱万千五百石」と最上家内でも有数の知行地を、現在の真室川町周辺に領していた事が伺え、最上家領北方の押さえとして厚遇されていた人物であることが読み取れる人物だ。

 さて、本論を進める前に、鮭延氏に関する代表的な先行研究をいくつか紹介しておきたい。
本格的な鮭延氏研究の嚆矢としては、『増訂最上郡史』(注2)が挙げられるだろう。著者の嶺金太郎氏は大正年中に最上郷土史関係の書物をいくつか世に送り出しているようだが、その集大成ともいうべきものがこの『増訂最上郡史』である。『増訂最上郡史』は、基本的に文書史料・軍記物史料を中心的に用いた編年的な記述スタンスをとっている。鮭延氏に関しての記述を見ると、まず天正年間の周辺の小野寺・武藤そして最上との関係を描き出すことに力を注ぎ、その後最上家の動向に沿ってその改易までの最上郡、とりわけ鮭延について史料を分析・考察している。当時ではまだ未出の文書史料もあり、現在の研究段階から見れば疑問に思う点も少なくはないが、史料の収集のみならず、それを分析したという点において、それ以前に出版された郷土史関係出版物とは一線を画すものであった。
『増訂最上郡史』出版以前にも松井秀房氏『最上郡史』や鮭延瑞鳳氏『鮭延城記』等の郷土史出版物において同様な郷土史史料が扱われているが、『最上郡史』はあくまで収集・分類に終始したものであったらしく、『鮭延城記』は記述に疑問点が多いという問題を抱えている。

 昭和期の中頃になると県市町村史の出版が盛んになる。山形県内で出版された県市町村史の中でも、特に『山形県史』『山形市史』『新庄市史』『真室川町史』が鮭延についての記述に詳しい。内容的には『増訂最上郡史』の記述を押し進めた形の記述となっているが、新出の史料もあり、最上家という枠組の中で鮭延の動向を概観する状況が整った時期であるだろう。なお、『新庄市史』では「鮭延越前守侍分限帳」を用いて、鮭延氏の領国支配形態を探ろうとしている点が興味深い。

 個々の論文に関しては、粟野俊之氏『出羽国鮭延郷について ―鮭延氏関係史料の再検討― 』上・下(注3)が秀逸である。『山形県史』における中世最上地域の具体的な記述の欠如を踏まえて、最上地域の中でも史料の残存状況がよい鮭延郷をフィールドとして中世最上地域の考察をした論文である。上編では、その考察の前段階として鮭延氏関係史料の再検討を試み、とりわけ鮭延氏の出自に関する史料検討に力が注がれている。鮭延氏の成立に関する史料からは鮭延氏が近江佐々木氏を租とする決定的な証拠は見つけられず、また大正期に鮭延瑞鳳氏の手によって書かれた鮭延氏系図を始めとする鮭延氏の出自に関する史料は矛盾点が多く、基礎史料として扱うことは難しいと断じている。その上編を踏まえて、下編では南北朝・室町期から鮭延秀綱が最上氏に降る天正期までの鮭延郷、特に鮭延氏の動向を通観して問題点を拾い、鮭延氏の出自・最上入部時期・最上氏鮭延経略戦時の隣国陸奥大崎氏との関係を考察している。
 
奥山譽男氏「鮭延佐々木氏の成立について ―小野寺義道文書から―」(注4)も鮭延氏の成立について論じたものであるが、この論文においても史料の不足というジレンマは表れており、論者自身が「鮭延佐々木氏の成立に関する根本史料の無い現在、いろんな見方が許されるだろうし」と断りをつけた上での論述という形をとっている。『最上記』『奥羽永慶軍記』『奥羽軍談』などの軍記物史料と「小野寺遠江守書状」という限られた書状史料を用い、鮭延氏が佐々木家の数多い分流のどこから出て出羽に移り住んだのか、との論を積極的に展開しており、「もともと鮭延郷は小野寺氏の馬産地であった」と結論付けている。
 
松岡進氏「最上郡域における城館跡の類型論的考察」(注5)にも鮭延に関する記述が存在する。表題の通り最上地域の中世城館を類型論的に分類し、そこから最上地域における最上家の影響を読み取ることに主眼を置いた論文である。鮭延氏に関して、考古学的見地と歴史学的見地をすり合わせた考察を行った点は斬新な切り口と思われる。
 
小野寺彦次郎氏『中世の小野寺氏 ―その伝承と歴史』(注6)の中にも鮭延氏に関する記述が多少存在する。横手に割拠した小野寺氏に対して、鮭延氏は元々従属関係にあった故にその繋がりは深い。ゆえに、横手小野寺氏の動向を論じる上で切っても切り離せない間柄であるということで鮭延氏が取り上げられている。佐々木氏が小野寺氏を頼って下向し、鮭延郷に土着した時期についての解説や、永禄〜天正初期における鮭延・武藤・最上の動向について小野寺氏に主眼を据えた視点で論を展開しており、他の論文と違った着眼点から鮭延氏を論じている点は興味深い。
 
最上家改易後、鮭延秀綱が多くの陪臣達と共に「御預」となった佐倉藩土井家(後に古河へ転封)において、如何に遇されたかを追跡したのが小野末三氏(注7)である。最上家改易に関わる先行研究を参照しながら、鮭延が五千石という厚遇で土井家に仕官した背景やその後の陪臣の処遇などを紹介している。
 また氏は、同著において、鮭延のみならず他の最上家家臣が改易後どのように身を処したかを詳細に考証している。改易後の最上家旧臣団に関わる考察を行う場合の基礎文献として、高い評価をすべきであろう。
<続>


(注1) 『山形市史』最上家関係史料編。
(注2) 嶺金太郎『増訂最上郡史』(最上郡教育会・新庄市教育委員会 1972 原刊 1929)
(注3) 『山形県地域史研究』8・9号(山形県地域史研究協議会 1983)
(注4) 『同』23号 (同 1998)
(注5) 『さあべい』16号 (さあべい同人会 1999)
(注6) 小野寺彦次郎『中世の小野寺氏 ―その伝承と歴史』 (創栄出版 1993)
(注7) 小野末三『新稿 羽州最上家旧臣達の系譜 −再仕官への道程−』(最上義光歴史館 1998)


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【谷柏相模守/やがしわさがみのかみ】 〜畑谷合戦で勇戦した武人〜    

 具体的な地元史料は見つけられないが、他地方の事例から類推して言えば、室町時代(14〜16世紀)を通じて最上氏は多数の在地国人層を従属させてきたはずである。その多くは、おそらく荘園解体期から村落に居館を構え、農民を統率し、土地の名を苗字とする土豪たちだったと考えてよいだろう。
 最上氏分限帳などの文書、あるいは各地の伝承などから推察するに、志村、成沢、野辺沢、飯田、富並,牛房野などは上級家臣に組み込まれ、青柳、岩波、柏倉、渋江、下原、常明寺、成生などは、中級家臣グループとして位置づけられたかと思われる。
 谷柏氏(箭柏、弥柏、矢桐と書いた例もある)は、かなり大きな領地をもった豪族の家柄で、歴代「相模守」の称を許されたらしい。その何代目かの当主が、義光の家臣として外交・軍事で活躍したのである。
 天正2年(1574)。
 春から始まった最上家の内紛と、これに干渉して出兵した伊達輝宗軍との抗争を終結させるため、上山の南方、楢下・中山あたりで、和平交渉が始まった。9月1日から10日まで4回の会談に、最上を代表して出席した人物は、譜代の重臣氏家尾張守が二回、上山城主里見民部が一回。そして、同月10日の最終会談に臨んだのが、谷柏相模守だった。伊達側代表は、政宗の側近富塚孫兵衛であった。
 最上・伊達ともに満足できる条件を練り上げ、伊達軍を退かせようというのだから、大変な役目だった。交渉がまとまって、伊達軍は礼服着用、里見民部も手出しをしないと約束した。9月12日の午前、おりから降りだした秋雨の中を、輝宗軍は自領米沢へ帰っていった。一件落着である。
 このときの谷柏相模守の働きが、氏家尾張守の才覚や里見民部の最上家への忠節とともに民衆の記憶に残り、大きく変形されて民間の説話となったらしい。
 「上山城主満兼は、伊達輝宗の援軍を得て、最上義光と柏木山で戦って敗れた。輝宗の奥方が出てきて戦いを止めさせ、輝宗は帰ってしまった。それでも、山形に叛こうとする満兼を討とうと、最上側が画策する。氏家の策謀に従い、谷柏相模は里見民部としめしあわせて、満兼暗殺と城の乗っ取りを成功させた。その後の上山領の治安維持にも、谷柏相模は敏腕を発揮した」というのである。
 だが、『義光記』『羽陽軍記』その他に「柏木山合戦」として書き留められたこの話には信憑性がない。史実とは大きく食い違う。
 輝宗の妻(義姫。政宗の母)が仲裁したのは、天正16年(1588)である。対立したのは政宗と義光で、輝宗はすでに亡くなっていた。場所も上山の南、中山境である。上山地域はれっきとした最上領で、伊達・上山の連合などあるはずもなかった。『羽陽軍記』はこの合戦を天正7年9月としているが、これまた無根の説で、こうなると全体が作り話である可能性が大きい。
 推察するに、氏家、谷柏、里見ら3人が尽力して戦いを終結させた事実をもとに、架空の合戦譚が仕立てられたのであろう。16世紀、義守、義光の時代に、上山と山形が戦ったということ自体、確実な史料からは認められないのである。 
 次に、谷柏相模の奮戦が語られているのは、慶長5年(1600)出羽合戦のときである。以下、寛政諸家譜『最上系図』、『義光記』『奥羽永慶軍記』などの記事による。
 9月13日、畑谷城が直江兼続軍の猛攻撃にさらされていたとき、援軍として派遣されたのは、谷柏相模、飯田播磨、小国日向、富並忠兵衛、日野伊予らだった。
 ところが、援軍到着前に畑谷は落城する。山形の援兵はこれを聞いて引き返そうとしたが、谷柏と飯田はそれをさえぎり、
 「城は落ちても、残兵や領民がいる。早く行って彼らを救わねばならぬ」
と馬を進めた。手勢を率いて山道を急ぐと、敵兵に追われて、残兵や領民が必死に逃がれてくる。これを見て、飯田は谷柏に向かい、
 「この人々を、一人たりとも敵兵から捕らえられぬよう、山形へ連れ帰ってくれ。しば  らくは、自分が敵を食い止めよう」
と言って、部下とともに雲霞のごとく寄せ来る敵勢の中に躍りこむ。すでに60歳を越えた老武者である。力戦奮闘することしばし。しかしながら、多勢に無勢、ついに力尽きて討ち死にしてしまう。
 それと知った谷柏は、せめて飯田の首なりとも奪い返さねば友情の甲斐もないと、部下に落人を護送するよう命じ、我が身は取って返し、群がる敵兵を蹴散らして戦い、ついに飯田の首を取り戻した。谷柏は友の首をひたたれに包んで、涙ながらに持ち帰ったという。 多くの軍記物語がほぼ一致して語り伝える有名な話で、もちろん、脚色はあるにしても、大筋は史実に近いのではあるまいか。
 さて、この勇者、谷柏相模守については、東大史料編纂所蔵『最上義光分限帳』に、次の記載がある。

 谷柏
  一、高四千石 八騎  鉄砲 十五挺  
    弓 四張  槍 四十八本        谷柏相模

 4千石は、最上家臣のなかでは上位20位ほど。その領地は、成沢分に入っていた黒沢村(430石余)を除く南山形地区全域であろうと思われる。
 寛永13年(1636)、山形藩主保科家が発した「上納一紙」によれば、松原、片谷地、谷柏、津金沢の石高合計は約4千200石となり、分限帳の石高にほぼ等しい。ただし、坂紀伊守光秀が長谷堂1万3千石を領するようになると、谷柏相模は他所で四千石の土地を支配することとなる。一時は長瀞城を預かったと伝えられるが、さだかでない。
 添え書きの「八騎」とは、戦いに際して谷柏氏に割り当てられた馬上武士の数で、これは村落の富裕な農民と見てよい。実戦では物頭、つまり指揮官となる。
 これに鉄砲衆15人、弓衆4人、槍衆48人、馬上を含め計75人を出すよう定められていたわけであるが、いざ出陣となれば、これだけでは済まなかった。
 馬上一騎には、4、5人の小者がつくのが普通だったから、谷柏相模の部隊は百人を上回る人数だったと考えてよい。
 日ごろは鍬・鎌を握って暮らした農民は、いざ戦いとなれば、刀や槍・鉄砲を手にして戦列に加わらねばならなかった。谷柏氏は最上家に従属しつつ、領内に住む農民層を支配し、村落の秩序を維持していたのである。
 谷柏氏の居館が地区内のどこかにあったはずだが、まだ確定されない。斯波兼頼、最上義守、義光らが尊崇したと伝えられる古社[甲箭神社]の付近か、古墳群のある岡のあたりか。いずれ歴史地理的、考古学的調査で判明するだろう。
 ところで、国立資料館所蔵「宝幢寺文書」の最上源五郎時代『分限帳』に、「谷柏」の名は記されていない。畑谷の戦いで奮闘してからおよそ20年ばかり後の文献であるから、その間に何らかの異変があって、国人豪族谷柏家は最上を去ってしまったのかもしれぬ。
 参考として、白石城主片倉氏家臣の諸系譜から、谷柏関係の記載を捜し出し、それらをつなぎあわせてみると、表のようになる。

表は>>こちら

見るとおり、最上氏麾下の谷柏・飯田・富並らの国人豪族(氏家はたぶん別)は、相互に縁戚関係があったことがわかる。氏家家に生まれた光直に、「谷柏の名跡を相続」と書き入れがあるところを見ると、この家は廃絶させるには惜しい名門と見られていたわけである。
 それにしても、義光の信頼を受けて、大きな働きを見せた谷柏相模と、その後継者たちは、いったいどこへ消え去ったのだろうか。
■■片桐繁雄著


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 

【はじめに】

 十六世紀初期から十七世紀前半期にかけて情勢が激変する中で、地方大名が直面した問題や克服しなければならない状況がどのように変化したかを考えてゆく場合、その家臣が主家に及ぼした影響を追う考察の切り口は、一定の成果を期待できる方法論であると筆者は考えています。
 
 また近年、いわゆる「戦国ブーム」の中で、大名のみならず有名家臣の持つキャラクター性やエピソード等が注目されている事は見逃せない事実です。実例を挙げるならば、伊達家家臣の片倉景綱や上杉家家臣の前田利益は、ゲームやマンガ等様々なメディアに取り上げられて戦国ブームの牽引役となりましたし、上杉家家臣の直江兼続や武田家家臣の山本勘助は大河ドラマにもなって人気を博しました。戦国大名の有力家臣は、研究の題材としてのみではなく、観光資源として、あるいは生涯学習・歴史普及の一コンテンツとしても非常に優秀であるという位置づけができるのではないでしょうか。

 さて、最上家臣に関わる研究の現状に目を向けた時、大きな壁となって立ちはだかるのが「史料の残存状況」です。最上家は元和8年(1622)年に御家騒動を契機として57万石から1万石(後に5000石に減知)へと所領を削減された上で国替えされましたが、その際山形城に保管されていた書状・記録類の大部分は処分されてしまったと見え、現存していません。また、その際に家臣団も解散してしまったため、他家に仕えたりなどしてその後も存続した家臣に関わる史料はわずかながら残存しているものの、断絶した家の史料はほぼ散逸してしまいました。ゆえに、家臣個人を検討する場合においては、数少ない書状史料と二次・三次史料(軍記物史料など)を手がかりとして使うほかない現状にあります。

 端的に言うならば、「根本史料が決定的に不足している」のです。

 また、かかる状況が副次的に生み出した現象として、軍記物史料からのアプローチが、その人物の持つキャラクターイメージの大半を形作っている事は否めません(もちろんこれは最上家に限ったことではありませんが…)。最上家の有名家臣と言えば、「氏家守棟」「志村光安」「鮭延秀綱」などが挙げられましょうが、彼らとてそれは例外ではありません。例えば、志村光安は、

ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵
トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ…(『奥羽永慶軍記』)

 と評価されています。また、慶長出羽合戦時に、長谷堂城の守将として数倍の上杉軍を相手取って半月間守り通した功績も近年かなり広く知られる事となったため、永慶軍記に記されているような「戦上手」「弁舌豊か」であるとの評価が共通認識として固まりつつあるように思われます。
 また、鮭延秀綱は、最上義光が勢力を北進させる過程で最上氏勢力下に加わった国人領主ですが、やはり長谷堂城の合戦での活躍や、最上家が改易されるきっかけとなった内紛において山野辺義忠を支持して家中に混乱を招いた人物である事がクローズアップされがちな現状にあります。

 筆者は、それが全ての面において悪い事だとは思いません。

 しかしながら、その人物が持っていたであろうキャラクター性が、「一般的評価」の裏に埋もれてしまっている事もまた否定できない事実なのです。

 そこで、本稿では、数少ないながらも残された書状史料を中心とし、軍記物史料や家譜等諸記録を補助的に用いながら、最上家有力家臣を再評価してみたく考えています。本稿が、僅かながらでも最上家研究の進展に寄与すれば幸いです。

■■執筆:内野 広一