最上義光歴史館

最上義光歴史館
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以前お伝えした「木村☆社長が…こんどは恐れ多くも正子公也先生と夢のコラボ(?)を実現させました!?」がついに完成しました。



正子先生プロデュースのクリアファイルに、木村☆社長が企画制作した最上義光甲冑ペーパークラフトが入っています!!

開封実演中♪

あれ!!納品時のどや顔が…もしかして…!?

↓↓↓



社長!!不器用か(-_-;)!?


なんと正子先生もさっそくブログで紹介してくださってます!!モガルー!!


正子先生のデザインのこだわりを社長からこっそりうかがいました!!

▼こだわり#1
裏面の指揮棒の配置が、透けて見えるペーパークラフトのデザインと重ならないように絶妙に配されています!!
 
▼こだわり#2
ペーパークラフトを出してクリアファイルとして使うとき、表面の日輪と裏面の日輪が効果的に重なるように配置されています!!

さすが正子先生!!!

いつか正子先生が描く文化人最上義光もみてみたいですネ(ボソ)!!



購入ご希望の方は受付にて1部1,000円で販売しています!!
尚々、通販ご希望の方は歴史館までご連絡ください。

tel 023−625−7101
fax 023−625−7102

正子公也先生のオフィシャルサイトはこちら>>アトリエ 正子房

ペーパークラフトに興味がある方はこちらをご覧ください >>こちら

最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 

【八 羽州を離れた「さむらい」達を想う】

 佐竹内記を棟梁とする佐竹氏の一系を追う作業も、これ以上、進展することは難しいと思う。しかし、少しは納得できる読み物として、受け入れて貰える可能性があれば幸いである。
 最上氏旧臣の佐竹内記と、その流れを引く者達の、異郷の地で再出発を余儀なくされた原因を、ここで追及するのは本意ではない。佐竹氏一系のその後を追い求め、それが最上の「さむらい」の一つの生き方だとして、人々の語りの中に織り込まれていけば、広く最上義光を頂点とする最上氏研究の一助になるのではないか。それが主たる目的なのである。元和八年(1622)八月、最上氏解体により各地に散った旧臣達の、それぞれ歩んで行った道程は平坦なものではなかったろう。
 この内記から始まる佐竹氏一系の、その調査の基となった『親類書』と『佐竹家譜 元小泉』が無ければ、最上の一つの「さむらい」の系譜を、捕らえることは難しかったであろう。特に『佐竹家譜 元小泉』は、後裔の一人である佐竹繁保さんの提供によるものであり、ここに改めて謝意を表する次第である。

終り

主な参考文献
『巌有院殿御実紀巻五十五』
『垂憲録・垂憲録拾遺』
『予陽叢書』(「松山叢談」)
『愛媛県史・近世上』
『三重県史・資料編近世』(「松平家家譜」)
『ふるさと阿波107号』
『佐竹家譜 元小泉』
『芝山町史・資料集4』
『松尾町の歴史』
『掛川市史・中巻』
『上田藩の人物と文化』
『岩槻市史・近世史料編3』
『長野県史・近世史料編1』
『信濃24巻11・12号』(「上田藩の家臣団編成」)
『岩槻市史料・9巻』
『上田藩松平家物語』
『阿部家文書』
『阿部家史料集』
『国史学会・101号』(「忍藩阿部氏家臣団の形成」)
『研究資料集10号』
『山形市史資料51号』
『中津藩史』
『大分県史・近世編2』
『中津藩史料叢書』
『中津藩』
『駒沢大学史学論集・11号』(「柴橋文書」)
『成田市研究・7号』(「佐倉藩掘田氏家臣団の形成と解体」)
『成田市史・近世編史料集1』
『譜代藩政の展開と明治維新』
『佐倉市史・1』
『佐倉市誌資料・2』
『千葉県史料・近世編』(「佐倉藩紀氏雑録」)

■執筆:小野末三
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■名称 「鐵[kurogane]の美2011」 〜郷土の刀工たち〜 

■会期 4月12日(火)〜7月10日(日)

■内容
当館所蔵の刀剣資料から山形ゆかりの郷土の刀工(室町時代から現代まで)の作品12振を公開しています。
また、山形ライオンズクラブから山形市に寄贈された上林恒平氏(山形県指定無形文化財)の作刀も公開しています。

■展示刀剣
刀 銘  月山(目釘孔1)
太刀 銘  月山定吉作二月十一日
刀 銘  月山正信作
刀 銘  軍勝作
太刀 銘  出羽国酒田住兼高作/八幡宮奉納源家親
刀 銘  水心子正秀/寛政三年八月日
脇指 銘  (三日月)大慶直胤作/文化二年八月日
槍 銘  出羽国大慶直胤作之/文化九年秋八月大吉祥日
薙刀 銘  荘司美濃介藤原直胤(花押) /嘉永二年二月日(刻印)(宮)
脇指 銘  一秀/文化十二二月日 
脇指 銘  清人/元治元年二月日
刀 銘  長谷堂恒平作/平成二十一年三月吉日 山形ライオンズクラブ五十周年記念


【郷土の刀工プチ☆ブロフィール】

山形ゆかりの刀鍛冶と現在山形在住で活躍する現代の刀匠のプチ☆プロフィールです!!


■月山刀工(がっさんとうこう)
月山・定吉(さだよし)・正信(まさのぶ)・軍勝(ぐんしょう/もろかつ)
月山刀工は、鎌倉時代から室町時代にかけて霊峰月山を望む寒河江・谷地地方を本拠地として活躍した刀工集団です。月山刀工の特徴は、刀身全体に波状の模様「綾杉肌(あやすぎはだ)」がみられることです。


■兼高(かねたか)
約400年前の天正から慶長頃の刀鍛冶です。銘に酒田住とあるとおり現在の山形県酒田市に居住して鍛刀していました。義光の二男12代家親が元和2年(1616)に山形市の六椹八幡宮に奉納した現在公開中の刀が有名です。


■水心子正秀(すいしんしまさひで/1750-1825)
江戸時代の後期に活躍した山形県南陽市出身の刀鍛冶です。山形藩秋元家の抱え鍛冶で、古い時代の刀や鉄・鍛冶技術の研究をした名工にして大学者です。また、多くの門人を育てて、江戸時代になって衰退した刀鍛冶業界を再び盛んにしました。


■庄司直胤(しょうじなおたね/1779-1857)
江戸時代の後期に活躍した山形城下鍛冶町出身の刀鍛冶です。江戸で水心子正秀の弟子となって、後に山形藩秋元家の抱え鍛冶になります。師匠の正秀や山浦清麿(やまうらきよまろ)とともに「江戸三作(えどさんさく)」と評された名工です。


■池田一秀(いけだいっしゅう/1773-1841)
庄内観音寺村(現酒田市)出身の刀鍛冶です。水心子正秀の弟子となり、後に庄内藩酒井家の抱え鍛冶になりました。


■斎藤清人(さいとうきよひと/さいとうきよんど/1827-1901)
幕末に活躍した庄内温海出身の刀鍛冶です。江戸三作のひとり山浦清麿に学び、後に帰郷、幕末の名工として語られます。割腹自殺した師匠清麿の刀債(未納の刀)を完済した美談も有名です。


■上林恒平(かんばやしつねひら/1949- )
山形県藤島町出身の刀鍛冶です。人間国宝の故宮入昭平(みやいりあきひら)に学び、毎年開催される新作名刀展では高松宮賞をはじめ多数の賞を受賞。その技量が認められて弱冠36歳で無鑑査になりました。現在は山形市長谷堂で鍛刀活動を行っています。平成20年には山形県指定無形文化財の認定を受けました。山形が誇る現代の刀匠です。

     《平成22年度3月分の入館者アンケート集計結果》
 この集計結果は平成23年3月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


        企画展示 (3/1〜 3/31)

      開館日数・・・・・・・・・・・14日間
      入館者数・・・・・・・・・・・319人
      回答者数・・・・・・・・・・・・67人

 1.本日は最上義光歴史館に

   �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・6%
   �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・69%
   �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・25%

 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか
  
 (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・30%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・9%
 (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・4%
 (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・4%
 (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・13%
 (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・39%
 (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

   �△諒�、当館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・12%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・10%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・10%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・0%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・2%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・6%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・8%
 (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・16%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・22%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・12%

 3.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・90%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%

 4.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか
  
  常設展示

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・31%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・54%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・15%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0%

  企画展

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・15%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・61%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・24%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・0%


 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・40%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・57%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

 ◎企画展がすごく良い。懐かしい物がたくさんあった。

 ◎説明が面白くわかりやすい。いい勉強になった。

 ◎指揮棒を持てる等、良いサービスだと思った。9時から開いているのも有難い。

 ◎サポーターの解説で最上家に対して非常に興味が湧いた。詳しい解説者がいると正しい知識を持ち帰る事ができて良いと思う。

 ◎いささか暗くメモを取るのが不自由だった。きわめて示唆的な著作物が数点あって、当館に来館したかいがあった。

 ◎詳細に説明してもらい良く分かった。

 ◎歴史に疎く最上家は知らなかったが、斯波家との関係が分かった。

 ◎大変見やすかった。

 ◎小規模だが、なかなか楽しめた。


最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【七 佐竹辰之助の行方を追って】

 忍藩の『親類書』を書上げた佐竹伝右衛門は、従兄弟の一人に辰之助の名を挙げている。とすれば、『親類書』の内記の五人の息子達の内に、辰之助の父親が居ても不思議ではない。それは一体、伝右衛門の父を除いた四人の内の一人なのか。
 万治三年(1660)佐倉藩改易当時の分限帳に、二百石の禄を食んでいた辰之助と、その母親の名がある。思うに、未だ若輩の辰之助に二百石を給されていたのは、既に父親を亡くし家督を継いでいたからではないか。その父親も内記の子であったのかも知れぬ。しかし、これはあくまで推測の域を出ないのであるが、考えられないこともない。
 そして、『親類書』は「堀田市郎殿家来」と、佐倉藩以後の消息を伝えた。この掘田市郎とは推なのか。当時の掘田氏の係累を調べた限りでは、「市郎」を通り名にしている人物は見当たらない。これは改易された藩主正信の「与一郎」の誤りではないか。
 正信は佐倉を去り、身柄を信濃飯田藩に移される際に、数十人の家臣が同行しているが、
辰之助もその内の一人ではなかったろうか。時の飯田藩主は、正信の実弟の脇坂安政であ
った。
 その後、脇坂氏の播磨竜野への転封により、寛文十二年(1672)に小浜藩酒井氏へ預け替えとなる。そして、正信の素行の悪さから、四名の供のみを従え、最期の地の徳島藩蜂須賀氏へと移り住んだ。『徳川実紀』に日く、「堀田上野介正信こたび松平阿波守綱道に改預らるるにより、その家士四十八人、松平隠岐守定直(松山藩)、松平越中守定書(桑名藩)、脇坂中務少輔安政(竜野藩)にあづけらる」とあり、その他の者達は三藩に分かれ預けられている。松山藩の記録『松山叢談』によれば、「掘田公家来御預一件、集書に左の通上下十五人請取」とあり、二名の家臣とその奥方と子供達、それに下女・中間なども含まれていた。また桑名藩の記録『松平家家譜』でも、五名の家臣とその家族達を含め九名としており、『徳川実紀』の「その家士四十八人」預けらるの記事は、家族をも含めた数であったと思う。ただ残念なことには、 竜野藩のみは未だ解明できておらず、辰之助の消息を未だ解明するに至っていない。
■執筆:小野末三

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さて、パーツが組みあがったら、
あとはそれを組み合わせていくだけです。

その工程については、ペーパークラフトの本サイト様に
画像が載っておりますのでそれを参考にしてみてください。

あ、紙質によっては、次第に反り返ってくる可能性が出てきます。
草摺なんかは、茹でたタコみたいになっちゃって、
ちょっとみっともなくなっちゃったりなんかして!
そういう場合は、両面テープで固定しちゃいましょう。




最後に兜を被せて…




完成!!




立体感ありますねぇ、やっぱり……( ゚∀゚)=3 ムッハー
すばらしい。

皆様も是非作ってみてくださいね!
(・ω・)ノシ