最上義光歴史館

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【二 増田出身の土肥氏(増田土肥)】

 室町・戦国の世を経て、秋田仙北の増田周辺の勢力の一つに、増田城(土肥館)に入っていたのは土肥氏であった。秀吉の「奥羽仕置」の後に、半左衛門の父の次郎道近は最上義光の配下となり、増田地方はその支配下となる。先の天正十年(1582)八月の由利諸衆と小野寺氏との大沢合戦に於いて、小野寺氏の配下に増田播磨守とあるのは、土肥道近が初めて確認された姿であろうか。同十四年(1586)に義光が八口(印内)を攻めた時、道近は小野寺勢として加わっている。
 この土肥氏が義光に従属したのは何時の頃であったろうか。奥州仕置による出羽領主達の勢力圏の変化に伴い、それに反発して、増田地方にも検地反対の一揆が起こる。この一連の騒動の中で、「文禄四年七月二十六日の義光との合戦に於いて、家臣の山田貞久は土肥道近を背負い城中から逃れた」([増田東海林旧記])や、また「東海林隼人をはじめ討死し、土肥氏は城を明け渡した」([五郎兵衛書伝覚])などと伝えられており、道近はその頃から主筋の小野寺氏から離れ、義光に従属していったのではなかろうか。
 慶長五年(1600)の関ケ原の役以後は、小野寺義道が石田三成方に組していたとして、最上勢に攻められた時、その合戦の案内役として、「先年最上ニ降シケル土肥二郎道近(道近カ)、山北旧功ノ者ナレハ伝へ聞、義光ノ前二出テ披露ス……案内ニハ土肥二郎道成・嫡子半左衛門……」([奥羽永慶軍記])と伝えている。ここに小野寺氏の記録の内から、土肥氏の動静の一端を拾ってみる。小野寺氏とは姻戚関係にあったことが分かる。
   
 [西馬内小野寺氏系図]

八之丞  
小野寺佐渡守式部ト号ス、父肥前守同道ニテ庄内へ走り、光安寺と云寺ニ故アリテ逗留シ、其姉婿土肥氏(半左衛門)ヲ因リテ最上義光ニ属ス、後讒言ノ為ニ半左衛門君命ヲ蒙り切腹、拠ナク八之丞おやつヲ伴ヒ、戸沢右京カ元ニ走り、寛文三年死去、

おやつ  
父半左衛門切腹ノ後、叔父八之丞ト共ニ最上戸沢右京方ニ退去、おやつ子ナシ、源八兵衛ヲ養子トシテ戸沢二仕フ、
    
 [戸沢家中分限帳・土肥家系図]

女(おやつ) 
最上家没落後、尼ニ成テ酒田ニ居住シ、後新庄へ来リ長松院へ御奉公仕、老年迄相勤、土肥ノ家断絶ノ義ヲ甚悲ミ、土肥ノ名字相立申度由願ニヨリ、北条六兵衛四男源八兵衛ニ土肥ノ名字名乗可申由被仰付、

源八兵衛 
香雲寺様御代、土肥ノ名字ヲ名乗可申出被仰付、新知四五十石(四百五十石カ)被成下、御広間番相勤享保八年八十一歳ニテ卒、
 
 慶長六年(1601)正月、小野寺義道は徳川家康により改易処分を受け、一族は離散の憂き目を見る。義道の庶兄の西馬内茂道は庄内へ去り、子の八之丞は姉婿の土肥半左衛門を頼り義光に仕える。だが半左衛門亡き後は、その一女(おやつ)を連れ戸沢氏に身を寄せ、その系譜は後に秋田の佐竹氏に仕える。そして戸沢家中に残されたおやつに養子を迎え、増田「土肥」の家名を残した。
 [語伝仙北小野寺氏之次第]には、「義光公上意にて半左衛門殿切腹被成候時分、八之丞知行被召上候而、おやつ殿御同道にて最上戸沢右京殿御頼し……」の記述もあり、これらを集約した『増田郷土史』などは、「……慶長八年に義光は義康を殺した。直接手掛けたのは半左衛門であったが、幾ばくもなくして半左衛門は、関ケ原の役に大坂方と密諜したことが露見、一族ことごとく成敗された」と、軍記類などからの記事をも取り上げ、半左衛門の生涯を語っている。しかし、これらが果たして増田土肥の、真の姿を語っているのだろうか。
■執筆:小野未三

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《平成23年度7月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成23年7月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


         常設展示 (7/1〜7/31)

      開館日数・・・・・・・・・・・27日間
      入館者数・・・・・・・・・ 1,908人
      回答者数・・・・・・・・・・・176人

 1.歴史館をどこで知りましたか
 
 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・11%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・4%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・14%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・1%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・1%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・5%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・14%
 (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・15%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・30%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・92%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・7%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1%

 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・41%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・50%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・9%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・0%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・34%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・62%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・1%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

◎刀が素敵でかっこ良かった。刀を見る事ができて良かった、持ってみたいと思った。

◎興味のある企画展示の時、告知があれば是非また来たいと思う。

◎あまり時間がなかったので、今度時間がある時にゆっくり見たい。

◎大変貴重な品々を無料で見学できて驚いた。

◎家臣についての資料があるのならば、見てみたい。

◎解説がとても、わかりやすかった。

◎改易後の最上氏を知りたい。

◎コンパクトにまとめて展示されており、最上義光と最上家の事が良くわかった。

◎楽しい説明が良かった。

◎映像機の音量を、もう少し大きくしてほしい。

◎歴史を感じさせる展示で、とても興味深かった。

◎ボランティアガイドの方に説明してもらい良かった。

◎時間が少なかったので、次回はゆっくり見学したいと思う。

◎「天地人」で兼続はよく知っていたが、義光の事はあまり知らなかったので、勉強になった。

◎ボランティアガイドの方の説明が順序良く、周りの状況も合わせて理解でき、なお一層興味を持つことが出来た。

◎音声ガイドがとても良かった。

◎解説の文字が小さい。プレートが遠くて読めないのもあった。

◎最上義光公が好きなので、来たかいがあった。面白かった。城址公園がもう少し整備されるとよいと思う。

◎最上家に伝わる品が、もう少しあればいいと思う。

◎受付の方が親切で良かった。

◎企画展示がとても良かった。

◎義光関係の資料の実物が、もう少し増えると、もっと良いと思う。

◎とても楽しかった。県外にもっとPRしてほしい。

◎案内の方の説明が分かりやすかった。今まで何も知らなかったので、今後勉強したいと思う。

◎伊達政宗の叔父であること、風流な人だったという事などを初めて知る事ができた。もう少し詳しいと、もっと楽しめると思う。

◎無料で気軽に見る事ができるが良い。

◎義光について、もっと世間に広まるように頑張ってほしい。

◎キャラクターが可愛いので、もっとグッズを増やしてほしい。

◎義光公の手紙など大変興味深かった。指揮棒鉛筆がほしかった。

◎初めて来たが、色々な資料があり楽しかった。キャラクターグッズを作ってほしい。

◎無料なのに、大変良いものを見る事ができた。義光の面白いエピソードなどを展示しても楽しいと思う。非常に人間味ある、魅力的な人物なので、もっと注目されても良いと思う。

◎300円位の入館料を取ったら良いと思う。こんなに展示しているのに大変だと思う。

◎歴史が大事にされる風土に感謝したい。

◎螺鈿の細工の短刀と軍旗が、とてもきれいで見応えがあった。歴史的価値がある
物を見る事ができて感動した。

◎よくわかった。

◎今後もたくさんの資料が見つかって、展示されるのとよい。


最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【一 軍記類の中の土肥半左衛門】

 軍記類に登場する半左衛門の記述を見ると、戦いの場での働きぶりは別として、その最期は悪者の印象の濃い話しで締め括られている。最大の見せ場となるのは最上家に大きな禍根を残した二大事件、即ち慶長八年(1603)の最上義光の長子の修理大夫義康、同十九年(1614)三男の清水大蔵義親への襲撃事件に、深く関与している姿であろう。
 しかし、この二つの事件に関わったのは、いずれの出身の半左衛門なのか。この事件は共に最上家の継嗣問題に関わる権力争いであり、次男の家親の路線確立を目指すものであった。その中で一人は義康暗殺の実行犯、もう一人は義親支持派として行動している。
 ここで、いくつかの軍記類から、半左衛門に関わる部分を要約してみよう。

(A)[最上記]
    修理大夫殿生害之事
……山形の御城より直にいそがぬ旅におもむき給ふ、然に内々道にて御生害いたし候へと、戸井(土肥) 半左衛門に被仰付ける間、御通り候道筋に鉄砲を持、木蔭に隠相待居たるに是を間近所の若き者出合、半左衛門と一所に罷在けり……二つ玉にて御へその下を後へ打抜ける間、則真逆に落給ひ……多勢に無勢の事なれば、壱人も不残討れけり、然に彼半左衛門幾程なく、大坂へ手入したる義あらはれ、一門悉御成敗有ければ、義康公の御罸眼前に当りけるとて、請人舌を振ひけり、
(筆者注、義光は義康を廃し、家督を次男の家親に決定する。そして義康を高野山へ追放を計る。その途中、半左衛門一派に襲われ、義康は命を落とした)

(B)[羽源記]
    修理大夫殿生害并東海林三郎兵衛討死之事
……庄内大山の住人戸井半左衛門に仰付けられ……庄内丸岡という所にて左右の草原に兵を伏置きて、鉄砲認め其身は木陰に忍び居たるに……二つ玉を以て御臍の下を後へ打抜きければ、暫しもたまはず……さらば此半左衛門幾程なく、清水大蔵大輔殿逆乱の砌、大坂秀頼公へ内通の沙汰顕れ、一門郎従悉く家親公より誅罸せられけり、

(C)[奥羽軍談]
    清水落城之事
……大蔵大夫心閑に自害ありければ……半左衛門は大長刀を以渡合しが、運の究にや庭の柳に腰を打当倒れける所を、寄手の者鑓を入突てければ、落重る首を取ける手負の者は有けれ共、名ある侍一人も死せずして、「各おめおめ討れしは、戸井が日比の嗜よりは口惜事」とぞ申ける、
(筆者注、清水義親は家親の追及が迫っていることを、「庄内丸岡の戸井半左衛門方よりこれ有て、密かに清水の城へ忍び落玉ふを」と、半左衛門などの手引きにより、山形城より清水へ落ちていったが、最後は追手を受け命を落とした)
 
(D)[奥羽永慶軍記]
    義光病死 里見之徒党死罪事
……中にも土肥が討手として、奥村常陸介・小国日向守に山形の旗本三十六騎を差添たり、其頃半左衛門は古郷に在けるを、小国・奥村八百余人短兵急に攻懸たり、半左衛門尉か最期の体こそよかりけり、具足取て肩に掛上、帯よりなから我大坂一味にはあらねとも、かかる虚説に滅ん事、只是主君義安の御罰ならんと、大長刀を取て上下十四・五切て出けるか、土肥は鉄砲に胸板を打ぬかれ、其侭倒れて死す、(筆者注、この半左衛門の最期の様子は、後述する[土肥家記]に近似している。元和二年の出来事である)

 以上、これら軍記類に見られるように、義康暗殺の実行犯として描かれ、その最期は大坂豊臣方に組みしたとされる清水義親に組み込まれ、世間から誹謗を受ける程に不様な最期を遂げたことになっている。しかし、いずれの軍記類の内容からも、同姓同名の二人の半左衛門が絡んでいたとは云っていない。
 この半左衛門は、少なくとも慶長五年(1600)前後から同十九年(1614)の間、最上家に仕えた一人の半左衛門ということになる。しかし、実はそれが越中、増田のいずれの出身の半左衛門であったのか、それは越中土肥の由緒を伝える[土肥家記](延宝九年成立)から、一人の半左衛門の身元とその最期の様子が明確になってきた。軍記類からは、義康を襲った半左衛門と、義親と最期を共にした半左衛門の出自を立証するのは無理だろう。
■執筆:小野未三

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【はじめに】

 元和八年(1622)夏の頃、山形藩主・最上源五郎義俊は家内騒動の責任を問われ、早々と羽州の地を去っていった。こゝに祖父の義光が築き上げた大藩は消滅、新たに近江・三河に一万石を給される。この大国を失う大騒動による大家臣団の消滅は、共に蓄積されてきた膨大な藩政資料や、個々の家伝等の四散を招く結果ともなり、それが、後世に於ける最上家研究に、多大なる支障をもたらしてきてしまった。その結果、どうしても他藩資料や物語・軍記などを活用しての調査に、頼らざるを得ない有様である。
 最上義光の家臣に土肥半左衛門という人物がいた。多くは軍記などに登場し、各種の分限帳に「千石・弐千石」などの記録がある。この半左衛門とは、越中出身(以後、「越中土肥」)と、秋田仙北の増田出身(以後、「増田土肥」)のいずれを指すのか。
 物語・軍記(以後、「軍記類」)などの語り口を見ると、その出自については殆ど語ってはおらず、その終末についても、慶長十九年(1614)の清水義親襲撃事件の際に、義親と共に殺されたとか、また他国へ逃亡し捕らえられ殺されたとか、様々な形で伝えられて来ている。後世の研究者にしても、敢えて半左衛門複数説を取り上げる程の、魅力ある人物ではなかったのか。これら軍記類の記事を越える評論には、管見の限り拝見するには至っていない。
■執筆:小野未三

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《平成23年度6月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成23年6月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


         常設展示 (6/1〜6/30)

       開館日数・・・・・・・・・・・26日間
       入館者数・・・・・・・・・ 1,727人
       回答者数・・・・・・・・・・・191人

 1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・2%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・12%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・1%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・3%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・5%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・25%
  (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・11%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・25%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・85%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・12%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3%

 3.ご覧になられた感想

  (1)内容はいかがでしたか

    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・39%
    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・53%
    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%
    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

    �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・37%
    �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・60%
    ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・1%
    �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

◎解説文は、暗くて見えにくい箇所があるので、照明が当たる所に設置してほしい。

◎義光を主題にした小説が少ないと思う。

◎案内の方がいて分かりやすかった。

◎特別展等の広報は、もっと大々的に行った方が、一般に周知されると思う。

◎解説の文字が小さく見づらい。

◎駒姫の悲劇に涙した。

◎最上家について、もう少し詳しい情報が知りたかった。

◎無料で見学できるのは、素晴らしいと思う。

◎もっと楽しいクイズがあると良いと思う。

◎ボランティアガイドの方がいるのは、素晴らしいと思う。

◎模擬刀や甲冑などを、実際に触ったりできたら、楽しいと思う。

◎単眼鏡の貸出しや、音声ガイドなどの工夫がしっかりしていて素晴らしい。

◎仙台在住なので、伊達政宗の叔父には興味があった。仙台人が伊達家を慕うように山形の方にとっての最上家は、英雄なのだと思った。

◎上杉家の直江兼続との関係(戦い含)をもっと知りたい。

◎丁寧な説明してもらった事で歴史に興味を持ち、もっと知りたいと思った。

◎ガイドの方が親切に解説してくれたので、よくわかった。

◎最上家ゆかりの人から、もっと展示品を借りたらよいと思う。

◎陳列にもう少し余裕があれば見やすいと思う。

◎全部ゆっくり見る事ができなかったので、次回ゆっくりと来て見たいと思う。

◎改易後の最上家の人々がどうなったのか気になった。

◎ガラス奥パネルの文字が小さくて見えなかった。

◎文献や資料がきちんとまとめてあり、とても勉強になった。入館料無料にも驚いた。良い時間を過ごす事ができた。

◎有料にして展示品の充実、メンテナンスに使えばよいと思う。

◎説明文は分かりやすかった。海外の方がどのくらい来ているか分からないが、英語説明文がもう少しあっても良いと思う。

◎大変すばらしい歴史館だった。歴史について少し好きになった。

◎上杉側の歴史は知っていたが、最上はあまり知らなかったので、とても興味深かった。

◎このような歴史館は全国多数行ったが、入館料無料は初めてだった。維持費は少なからずかかるだろうから、いくらか入館料をとっても良いと思う。または、佐賀
城の資料館のように来館者が入館料を自由に決めるようにしても良いと思う。

◎仙台から来たので義姫(保春院)の説明がなかったのが残念だった。

◎初めて来館したが、案内の方がいなかったら深く知る事が出来なかったと思う。無料でいろいろ見る事ができてうれしかった。

◎映像設備の場所が入り口付近の為、話し声がすると聞きづらい。

◎人物、生き方に魅力があるのにマイナーで悪者と思われがちなのが残念。何とかイメージアップ、知名度アップになるように頑張ってほしい。

◎初めて来館してみて、山形・最上家について、もう一度勉強してみようと思った。

◎勉強になった。母の実家が山寺なので興味深く見学できた。

◎保科正之が会津藩主になる前に山形藩主だった事は知らなかった。保科正之の足跡がわかるものがあったら、ぜひ歴史館で展示してほしい。

◎建物の外観に惹かれた。近くに住んでいたら、度々来館すると思った。

◎他にも歴史関連の場所、ゆかりの地にも立ち寄って、深く歴史を知る旅をしてみようと思った。

◎ボランティアの方の説明がとても分かりやすく参考になった。また機会を作りぜひ来たいと思う。



旧鶴岡城本丸御殿障壁画「竹林図」について 

 旧鶴岡城本丸御殿の障壁画とされる九幅はいずれも鶴岡市の文化財に指定されており、昭和五十一年に刊行された『目で見る鶴岡百年 付酒田』上巻に全ての図が掲載されている。これらに加えて新たに、克念社(風間家丙申堂)の金地著色「竹林図」一面が同じく鶴岡城本丸御殿の障壁画として紹介され、平成九年十月二十六日に初めて公開された。                          


「竹林図」克念社

 「竹林図」は一見して、桃山時代の作品とわかる特色を備えているにもかかわらず、他の図と同じく鶴岡藩の御抱え絵師三村常和筆として紹介された。寸法も縦2.7メートル、横5.4メートルと巨大で、全国的にも遺例の少ない貴重な作品である。また、普通には「竹虎図」や「竹鶴図」として描かれるにもかかわらず、竹林だけで構成されている点も他に例を見ない。
 報道に際して三村常和筆とされたのは次のような文献の存在による。旧庄内藩士、黒谷時敏が明治十一年に著わした『くだくだ草』(史料叢書第7編・昭和三年)に、玄間に接続する建物に「竹の間とて殿の御在国の折は御徒一人づつ出番する所」、「此西の間を桜の間と云いて御広間なり」、「其の西の間を桐の間と云い又金鶏の間とも云う」「其の西の間を松の間と云う御番頭の詰所なり、茲には北へ折曲がりて上段の間もありけり」と部屋の名前を列挙して、「竹の間より此所まで皆金張付けに、常和と云う画工が其物を間毎に書きたるによりてかくは名づけられたる也」と記されている。
 これらの間取りや部屋の名前が正しいことは鶴岡市郷土資料館の「出羽国庄内鶴岡城住居絵図」によって確認できる。黒谷時敏は金地の図はすべて三村常和筆としているが、幕末期には確かにそう伝えられていたのだろう。三村常和(1678没)は名前からすると狩野常信(1636〜1713)から一字を戴いたようである。常信は慶安三年(1650)に父、尚信が没した後、わずか十五歳で家督を継いでいる。その翌年に常和は酒井家に抱えられ、承応二年(1653)に酒井忠当に従って庄内に下っている。
 画風からすると、本丸御殿障壁画とされているうちで、常和が描いたと見なされるのは致道博物館と木村家に分蔵されている「群鶴図」だけである。田圃に下りたった鶴といういかにも江戸狩野らしい主題と画風であり、致道博物館に襖三面分が一幅、木村家には四面分二幅が残されている。『くだくだ草』に白木書院に関して「西の壁際には鶴の群居たるを書きし金屏風立て置かる」とあるのはこの図のことらしく、諸士のお目見えにあたって外されていた襖絵を屏風と見まちがえたのかもしれない。


「群鶴図」致道博物館

 明治期の証言だけでは心許ないので、もう少し古い記録を探ってみよう。『雞肋編』巻十九に、「承応元年より御普請所覚書」という本丸御殿の建築記録がある。そこには「承応二年御城御本丸御居間、御同所御寝間、黒木白木書院、御奥御室三つ表台所、御金蔵、御城御長局、御鷹部屋夜居座敷建」、「明暦元年御城御広間建」、「明暦二年御本丸御小座敷建」などと見える。これらの建築にあわせて三村常和が抱えられ、鶴岡に下向したことがわかる。
 画題からすると風間家の「竹林図」は「御広間」の玄関に接続する「竹の間」の大床に張り付けられていた図だったと考えられる。図の横幅はほぼ三間分に相当し、図面の間数と一致する。問題は明暦元年(1655)に建てられたという「御広間」が新築だったのかということである。普通、古い障壁画を新たな建物に再利用した場合には画面が切り取られたり接続に乱れが生ずるものだが、「竹林図」にはそういった形跡はまったく見られない。建物との一体性が極めて強いのである。白木書院など城主の居住空間にあたる多数の建築物が建てられた二年後に「御広間」一棟だけが別に建てられていることを考えると、まったくの新築ではなかった可能性が考えられる。もし、そうだとするといつの建物なのだろうか。
 鶴岡藩士の志田則富が著わした、宝暦八年(1758)の序をもつ『鶴ヶ岡昔雑談』(庄内文庫・大正二年刊)には「(御入部の節)御本丸ばかりにて粗末なる萱葺、微々なる御殿ありて一向御手狭なる事なりし、(略)御花畑と申所へ急に仮御殿と号して御普請、(略)御本丸御殿御造営仰せ付けられし」とある。同書に引用される「御鷹匠山田氏雑談」によれば「高畑の御仮御殿には成覚院様御入国以来四五年も御座遊ばされ御本丸御造立卒りて御移徒」とあるので、寛永三、四年(1617・18)には本丸御殿の増築が終わっていたようだ。普通に考えれば、この時の建物ということになるが、「竹林図」にしても、もとは桐間の襖絵の一部だったと考えられる致道博物館の「桐図」や「躑躅図」にしても、画風からすると寛永期以前の作であり、この時に描かれたとは考えられない。


「桐図」致道博物館


「躑躅図」致道博物館

 実は、入国当時には貧弱な建物しかなかったとする志田則富の記事には誇張がある。元和八年(1622)に酒井家が最上家より酒田の亀ヶ崎城を受け取った時には豊富な障壁画があったことが記録に残されている。『大泉紀年』の元和八年九月十日の条に所載される「亀崎本丸土蔵帳」によって、書院の「桃之間・墨絵之間・金之間・鷹之間・すすきの間・はきの間」の腰障子および、上広間の「絵かき障子拾貳枚」を引き継いだことがわかる。
 さらに、岡田悟・飯淵康一・永井康雄氏による「藩政期における酒田の亀ヶ崎城とその本丸について」(日本建築学会計画系論文集605号・2006年7月)によれば、この時の亀ヶ崎城本丸御殿は七室からなる書院、七十八帖からなる広間、四十帖の上広間、さらに奥を中心に浴室や台所などからなっていたことが明らかにされている。亀ヶ崎城は慶長六年に最上家家臣の志村光安が城主となり、同十四年に同人が没したあと光惟が継いだものの、十九年に鶴岡にて一栗兵部に暗殺されたため、以後は最上家の直轄地となったものである。
 一方、鶴岡城は当初から最上家の直轄地であり、連歌師乗阿による慶長八年(1603)の『最上下向道記』には「(六月)羽州庄内今あらため鶴岡といふにいたれは御城の普請の奉行衆とて」とあって、最上義光の命によって普請が進められていた。義光は晩年には庄内地域の開発経営に力を注いでおり、慶長九年(1604)閏八月二日の北館大学宛最上義光書状には「鶴岡へもおりおりまかりいて」とある。この時までには御殿は完成していたようで、城代として新関因幡守久正が置かれていた。鶴岡城の引き渡しの際には兵具類の記録しかないが、数は亀ヶ崎城を上回っている。慶長十七年五月九日付北館大学宛書状には「つるおか諸道具風すかし候はんために此もの共相下し候」とある。御殿についても亀ヶ崎城の規模を下回ることはなかったであろう。
 「竹林図」を最上義光が慶長九年に建てた鶴岡城御殿の障壁画としても年代に問題はない。慶長十五年に完成した仙台城本丸御殿障壁画の一部である二曲一隻の「竹図」(仙台市博物館)と比較するとより柔軟な趣があり、いっそう古風である。また同じく慶長十五年頃に創建された熊本城本丸御殿が近年再建されたが、その根拠となった「御城内御絵図」(1769)の大広間の間取りと画題は鶴岡城の「御広間」とよく似ている。式台の間につづいて「鶴の間」があるところが違うが、奥へ「梅の間、桜の間、桐の間、若松の間」と並んでいるのは、梅が竹に入れ替っているだけでまったく同じである。
 ただし、厄介な問題がもう一つある。「竹林図」には二重に金雲が描かれているのに対して、「桐図」や「躑躅図」は総金地で雲が描かれていない。この二つは別の絵師の手になるもので、制作年代についても若干の差を考えなくてはならない。両者の来歴については異なるルートを考える必要がある。
 そこで再び『鶴ヶ岡昔雑談』にもどると、「小寺信正聞書の内に云う」として「京極家の御家取壊の時御書院の張出御取寄せ成らせ候て荘内へ御差下仰せ付けられ、今の御城金張付絵の間は皆彼京極家の張付を御取寄御張らせ遊され候由」という記事が見出される。小寺信正によれば、金張付け絵は宮津京極家の絶家に際して江戸屋敷を拝領した時に庄内に取寄せたというのである。しかしながら、『徳川実紀』の寛文六年(1666)五月七日には「京極丹後守が自邸は松平遠江守忠倶に、麻布別墅は松平対馬守忠豊にあづけらる」とあってその信憑性が疑われる。だが、『雞肋編』巻百四十二には「小嶋氏筆記」として「寛文七年末六月十五日(養正公御代也)大手先御屋敷差上られ、大名小路京極丹後守様上り屋敷御拝領、但是ハ御装束屋敷」とあって、この時拝領したのは自邸ではなく登城にあたって装束を改めた装束屋敷だったことがわかる。京極家の屋敷を拝領したのは事実となったが、寛永十八年(1641)および、明暦三年(1657)という二度の大火を経た後の大名の江戸屋敷に、桃山時代の障壁画が残されていたとはとても考えにくい。寛永大火では九十七町が焼け、百二十三の大名屋敷が焼失したため大名火消しが設置されるきっかけとなった。明暦の大火はいわゆる「振袖火事」のことで、過去最大規模の火災だったことで知られている。
 京極家の江戸屋敷から引き取ったことが怪しいとなると、同じ頃の寛文元年(1661)に亀ヶ崎城の本丸に新たに広間を建造しているので、その際に旧御殿の障壁画が鶴岡城に運ばれたということも考えたくなる。だが、小寺信正は享保年中(18世紀初め)に『荘内物語』を著わした人物であり、京極家の屋敷を拝領した年代に近く信憑性は決して低くない。少なくとも他家の取り潰しにあたって金碧画を入手した、という内容に関してはまだ検討の余地がある。
 『大泉紀年』に、寛永十年末に断絶した島根・松江藩主、堀尾山城守忠晴の御屋敷を拝領したことが寛永十一年(1634)にみえる。六月二十六日付け村井兵左衛門あて書状に「堀尾山城守殿御屋敷御拝領御移被遊候由目出度」とある。堀尾家の屋敷拝領は慶長六年(1601)の大火以後、寛永十八年の大火以前のことで、「桐図」や「躑躅図」の年代とも矛盾はない。ちなみに断絶した堀尾家のあとに松江藩主となったのは小浜藩の京極忠高であった。忠高と絶家となった宮津藩の京極忠国の父、高広は従兄弟の関係にあたる。その忠高も寛永十四年(1637)に末期養子として甥、高和を立てたが認められず丸亀
に改易となっている。どうやら小寺信正は京極高国の断絶と京極忠高の改易とを混同した節がある。                 
 「竹林図」と「桐図」および「躑躅図」との画風の違いを説明しようとすると、「竹林図」については最上義光時代のものとし、「桐図」と「躑躅図」は断絶した堀尾家の江戸屋敷から引き取ったというように、別ルートによる伝来を想定しなくてはうまく説明できない。「竹林図」は今のところ最上時代の障壁画の可能性がある唯一の遺品と思われる。
 時代が大きく変化するときには文化財や美術品が失われる。明治になって破壊された文化財は廃仏毀釈と廃城令によるものがとりわけ甚大である。明治六年の「廃城令」によって全国で百四十四の廃城(鶴岡・新庄・上山・米沢を含む)が決まり、黒崎研堂の『庄内日誌』の明治九年四月には「お城の取り壊し作業書くに忍びず」と記されている。山形城は存続とされたにもかかわらず、廃城になった城と同じ時期に払い下げられて破却されてしまった。酒井家臣の松宮長乳の日記『老いの友』には「(明治五年四月頃)御城内御道具御城外へ夫々御片付」とある。多くの襖絵の中でなぜ「竹林図」が残されたのだろうか。
 『雞肋編』巻三十八の「年始御規式帳 二」によれば、一月三日に大庄屋および鶴岡・酒田の町人年寄・御用聞町人らのお目見えの儀がなされるのが恒例だった。この日には桐の間と桜の間の間仕切りが取り払われ、桐の間の拭い縁に並んだ庄屋や町人らが松の間上段に出御した殿様に披露された。御殿に上がったときに真っ先に目に入る玄関に最も近い床の間の巨大な竹林図は、きっと彼らの目を驚かせたに違いない。その時の強い印象がこの図を在りし日の姿のままで残させたのだと思う。

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�18」より