最上義光歴史館

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【五 二つの襲撃事件】
 
 増田と越中と異なる出身地を持つ土肥半左衛門の内、修理大夫義康と清水大蔵義親への襲撃事件に関わったのは、いずれの半左衛門なのか。大方の軍記類は「庄内大山の住人戸井半左衛門」としているが、これは明らかに越中出身の半左衛門であろう。軍記類の云う義親に味方して命を落とした半左衛門について、「是は先年丸岡にて罪なき修理大夫殿を鉄砲にて討奉りたる罰にても侍らんか」としているのは、二つの事件は共に一人の半左衛門の仕業だということになる。ここに、二人の最上の旧臣が庄内藩に提出した[覚書]がある。

[万年久左衛門覚書]
一、於添川之地高名仕候、藤田丹波可被存事、
一、最上之谷地と申所二籠城之時、はづを合せ申候、丹波可存候事、
[五十嵐甚五左衛門覚書]
一、最上修理正切腹之砌、てき一人うち申候、原美濃申候、

 この[覚書]を見るように、二人は共に義康襲撃事件に関わっていたことが分かる。その証人として藤田丹波と原美濃を挙げているが、丹波の旧主は越中土肥の半左衛門の父政繁で、弓庄以来の旧臣である。また原美濃(頼秀、八左衛門)は、下次右衛門の養子の長門の伯母婿として、次右衛門と行動を共にしてきた人物である。そして谷地での戦いの後、最上の臣となり、改易の日を迎えるまで、庄内川南の代官として足跡を残している。
 この[覚書]で解るように、この事件に越中土肥と深い関わりのある者達がいたことからも、こゝに登場するのは越中土肥の半左衛門であろう。
 義康が義光の勘気に触れ山形を退散、高野山への道程を下次右衛門の勢力圏内にとった一行を、これを攻めた最高責任者は下次右衛門ではなかったのか。そして、その実行者として手を下したのが、半左衛門を主とする下一党の面々であった。
 現今、この事件を取り上げ、興味深く描いている出版物が多く見られる。その内の一本を取り上げ、関連箇所を引用してみよう。
 
…この事件には義光は命を出してはおらず、里見民部や原・土肥による陰謀に下次右衛門も加わっていた。事件が発覚し義光が激怒した事を知ると、次右衛門は我が身に疑惑が降りかかることを恐れ、半左衛門を葬ろうとした。それを知った半左衛門は逃亡したが、南部盛岡城下で追手により討取られた。また原八左衛門も山形城で捕らえられ打ち首となった。

 このように、半左衛門の他国への逃亡説などと、全く予想だにしなかった展開にまで発展している。原美濃にしても、先に少しは触れてはいるが、元和五年(1619)加茂村の「年貢皆済状」にも連署しており、また三年後の最上家改易後の九月、庄内の「万役(雑税)書上」にも署名している。
 次の義親襲撃事件に際して、義親方に荷担し共に最期を遂げたというのは、いずれの半左衛門なのか。軍記類の多くは、家親の追及が迫った義親を清水へ逃し、最期は義親と共に殺されたとしている。そして、世間はこれが義康を攻め殺した罰であるとして、この二つの大事件は同一の土肥半左衛門の仕業と見ていることだ。
 要するに多くの軍記類に登場する土肥半左衛門とは、それは同一の人間であり、越中土肥の半左衛門であると云っているのだ。そこからは、同じ時期の最上家中に複数の半左衛門がいたことは、全く見えてこない。ただ、明確に判断できるのは、慶長八年(1603)の義康襲撃事件に関わったのは、越中土肥の半左衛門だということだ。
■執筆:小野未三

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【四 最上家への道程】

 慶長五年(1600)九月、天下の形勢が定まり、長谷堂にて最上勢と対時していた上杉勢は、急遽、米沢へと撤退を開始する。しかし、未だ谷地にて交戦中の下次右衛門の一党が、最上側の説得を受け兵を収めたのは、しばらく後のことである。
そして、今度は下次右衛門は最上の將として、庄内に残存する上杉勢を攻めるために出陣していくことになる。この天下の趨勢が決まりつゝある時、半左衛門が越後を離れ、下氏の内に入ったのは何時の頃であったのか。[家記]は半左衛門の溝口秀勝の下での活躍振りを伝え、次いで下次右衛門を頼り越後を去っていった様子を伝えている。
 
…其後、下対馬(次右衛門)を頼ミて庄内へ行給ふ、是も土肥殿母方の叔父に小杉原勘斎と云あり、早く対馬に従ひ居れり、此人万ツ相談をなし半左衛門殿を招故也、其時土肥半左衛門殿并普代の家人、皆最上出羽守穀を頼行て主人とす、半左衛門殿ハ対馬居城大山の城三丸ニ居住、出羽守殿より唯今の知行五千石計のあてかひなりし也、土肥殿普代の家来相残る者供、栃屋半右衛門・上坂式部・有沢太左衛門・藤田丹波、扨ハ采女など跡先に皆羽州へ行奉公相勤るなり、其内采女にハ、越後・出羽の境目小国の城を預らる、([家記])
 
 越後での徳川方の掘・村上・溝口などの勢力により、上杉勢と一揆の平定を見たのは、八月の上旬のことである。とすれば、半左衛門が溝口秀勝の許を離れたのは、これ以降のことであろう。しかし、半左衛門が旧縁の下氏を頼るにしても、反上杉の立場の溝口氏に属していた半左衛門が、直ちに上杉方の下氏の許に走るとは思われず、谷地攻防戦が終り、下次右衛門が最上に降り、その将として翌年四月に始まる酒田攻めに参加する頃、半左衛門は下次右衛門の許に入ったのではなかろうか。
 下氏については、上杉時代の[文禄三年定納員数目録]によると、「大山衆 千四百五拾八石」とあり、庄内三郡の代官として活躍していた。[家記]によれば、「半左衛門殿姉婿下対馬守事、本ハ越後の住人也、土肥御牢人にて御入候節、婿となし給ふ也」とあり、半左衛門が下氏との嫁が生まれたのは、土肥一党が弓庄を去り、越後の上杉氏の許に入ってからの事であろう。
 上杉時代の半左衛門に関しては、上杉対最上の庄内争奪の戦いが始まる、天正十六年(1588)の十五里ケ原合戦の前後から、下氏や半左衛門とも関わりを持つ原八左衛門などと共に活躍している。この合戦が上杉方の勝利に終ると、下次右衛門は尾浦(大山)の代官として勢を振るう。半左衛門は与力組頭として丸岡在番となり、引き続き次右衛門に付随することになる。そして、慶長三年(1598)の上杉景勝の会津転封の際には、何故か景勝の許を離れて行くのである。
 慶長六年(1601)四月、最上勢による上杉残存勢力の酒田攻めが始まると、先陣の下次右衛門の手勢の中に半左衛門の姿があった。[奥羽永慶軍記]には、「山北ヨリ来リシ土肥半左衛門一陣ニ進、我ヲ手本ニセヨトイフママニ……」とあるが、これを増田土肥の半左衛門とするのは無理だろう。併せて、酒田城下での戦い振りを拾ってみよう。
 …其節出羽守殿ハ在江戸にて追合有之時、半左衛門殿一番に進ミ、上坂式部・下長門守・藤田丹波四人先渡にて鑓を合、大勢つつき敵餘多討取、次の日押入、二の丸まて焼払候二付、扱二成、城ヲ明渡し申候、その時、修理殿(義康)より四人に感状給候由、此咄藤田丹波覚書に有、([家記])
 この[覚書]などに見るように、下次右衛門の一党となり旧主上杉の勢力と相争う、半左衛門を始めとする越後・越中出身の者達が多くいたのである。
■執筆:小野未三

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平成23年度企画展『よみがえる山形城』
職人たちの技の記憶
〜本丸一文字門発掘調査の成果より〜 

 この企画展は最上義光歴史館を会場に、平成8年から始められた本丸一文字門発掘調査により出土した門及び周辺堀跡・土塁跡等の遺物群について集成し公開するものです。主たる調査目的が石垣・大手橋などの城の建造物の確認であるため、『職人たちの技の記憶』と題して、土木事業や建築などに携わった人々の『技(わざ)』に焦点をあてた展示となっています。
山形市教育委員会


■会場/最上義光歴史館 (山形市大手町1-53)
■会期/2011年10月12日(水) -2012年1月9日(月)
■開館時間/9:00-16:30
■入館料/無料
■休館日/毎週月曜日、年末年始(12日29日-1月3日)
※1月9日(月)は開館
■主催/財団法人山形市文化振興事業団(最上義光歴史館指定管理者)
■共催/山形市、山形市教育委員会
■展示内容

�.瓦職人たちの技
(1)道具瓦類の展示 
出土した鯱瓦や鬼瓦などを紹介します。
(2)瓦職人の記憶
文字瓦の展示や絵画瓦にみる職人の遊びなどを紹介します。
(3)瓦づくりの記憶
城内で瓦を焼いた記録にもとづく関連道具類や不良瓦を展示します。

�.大手橋をつくった大工たちの技(わざ)
(1)のこされた記憶
乾燥処置された「堀内出土木製部材類」や年号が記された「紀年銘木製部材」を紹介します。
(2)職人の道具類
出土した遺物群から、職人たちが用いた金属製品(ノミ・カナヅチ等)や木製品(ヘラ類・板材等)などの道具類を紹介します。
(3)建築を支えた金具(クギ・カスガイ等)
出土したクギ・カスガイ等の建築を支えた金具を展示します。 

�.橋の建設にまつわる道具類
(1)橋の建設にこめた祈り
埋納古銭などの本丸一文字門の橋の建設にこめた地鎮のための神への祈りや出土した煙管・小柄等を紹介します。
(2)人が通ればものも落ちる!?
落し物!?廃棄!?…漆器椀・陶磁器など橋周辺より出土した遺物の数々を紹介します。


《平成23年度9月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成23年9月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


        常設展示 (9/1〜9/30)

     開館日数・・・・・・・・・・・26日間
     入館者数・・・・・・・・・ 2,472人
     回答者数・・・・・・・・・・・171人

  1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・18%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・4%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・12%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・1%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・1%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・3%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・13%
  (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・・17%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・27%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

  2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・94%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3%

  3.ご覧になられた感想
  
  (1)内容はいかがでしたか

    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・39%
    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・47%
    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・14%
    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・1%

  (2)最上義光と最上家について

    �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・39%
    �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・57%
    ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・1%
    �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


 〜利用者の声〜

◎展示品の数が多くなくちょうど良い。

◎おもしろい。他の武将との対決などの解説がほしい。

◎入場無料が良い。内容も充実していて良いと思う。

◎案内の方がすごく分かりやすかった。長谷堂城のジオラマ、鳥瞰図も大変良かった。有料でも良いので、資料を本にして公開してほしい。

◎合戦関係だけでなく、内政や市民との関係の事項なども付加してほしい。

◎無料にてゆっくり見学できて良かった。山形は無料の施設が多いので良い。

◎ガイドの方が大変親切に楽しく歴史について説明してくれたので良かった。また来たいと思う。

◎鎧、兜等の展示品がもう少し多ければ良いと思う。

◎余り時間がない中で見学したので、また来たい。

◎本物を見る事が出来た。伊達、上杉との関係、ていねい過ぎない説明、ありがとうございました。

◎有料にしても良いと思う。

◎長谷堂合戦の図が分かりやすくて良かった。

◎一日で山形市内観光のため、ゆっくり見られなかった。

◎無料に関わらず説明頂き、大変興味深く拝見できた。

◎天地人で長谷堂の戦いが演じられていたが、一層様子が分かった。

◎非常に見やすい展示だった。もっと多くの人に義光公の人となりを知ってもらえればと願います。

◎解説文をもっと大きくしてほしい。

◎自分の旧姓と繋がりのある名前なので大変興味を持って見学できた。

◎ガイドさんの話しが良かった。次回は誰かを誘って来たい。

◎とてもきれいで、ボランティアガイドの方も親切だったが、通路途中せまい所で解説していたので通れなかった。無料開放はもったいないと思う。

◎説明員の方がとても詳しく説明してくれたので、よく理解できた。

◎入館料をとっても良いと思う。

◎駅から歩いて来たが、看板がなく、地図を見ながら来た。看板があれば、もっとわかりやすいと思う。

◎グッズ等を増やしてほしい。

◎日本史にあまり関心がないので頭にスッと入ってこなかった。東北の歴史について前もって調べてから見学に来たら面白みが増すと思うので、機会があればまた来
たいと思う。

◎文書の現代訳が書いてあるともっとわかりやすい。また、有名な時代背景が書いてあると、もっとわかりやすいと思う。

◎大変良かった。説明書きは大変参考になったが、字が小さいので大きくしてほしい。

◎館内が綺麗で、落ち着いてゆっくり見学できた。

◎子供にもわかりやすいので良いと思う。

◎無料で見られるのはありがたい。伊達政宗と並べて(比べて)資料を作っても良
いと思う。

◎クイズが面白かった。

◎上杉との合戦の様子などが分かった。これからも大切に保存してほしい。山形城
が再建されるのが楽しみ。

◎コンパクトにまとめられ、分かりやすかった。自動音声無料がうれしかった。

◎湯呑やミニのぼりのグッズがほしい。

◎大変立派な資料館で良かった。

◎最近多くの歴史館で、テレビを使ってその人物の一生を10分程度で見せてくれる所が多くなっている。次回は何年先になっているか分かりませんが、楽しみにしている。

◎貴重な資料を見せてもらい良かった。

◎以前、日本刀がたくさん飾ってあったので、また展示してほしい。

◎とても勉強になった。

◎展示が少しずつ変わっている。変化があって良い。絵や映像でも過去のドラマで
の登場人物や、最上家の紹介があっても良い。今度、音声ガイドを聞いてみたい。

◎今回、他の歴史館ではあまり見られない女性の道具に関する展示、かなり面白かった。

◎最上義光の事をあまり知らなかったので、大変勉強になった。今まであまり良い印象でなかったが、見学してみて改めたいと思った。

◎義光公の兜を見せてもらえ良かった。今からお城に行きたいと思う。

◎ずっと行きたいと思っていたので、来ることができて良かった。兜に書状、指揮棒など多くの物を見る事ができ良かった。

◎武具、鎧がもう少しあると良い。


最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【三 越中出身の土肥氏(越中土肥)】

 遠く源平の昔、鎌倉に幕府を開いた源頼朝に仕えていた、土肥実平の後裔だという。幕府の内部抗争に破れた土肥氏ではあったが、その一つの流れが新川郡(富山県)弓庄に移住、天正の頃には弓城を中心に、一族の割拠するところとなる。
 その頃の越中全体は、未だ織田信長の勢力圏下にあった。その死後は豊臣秀吉や上杉景勝などとの抗争の内に破れた弓庄の土肥美作守政繁は、長子の半左衛門をはじめ譜代の家臣百余人を引き連れ、越後へと退いて行った。政繁は上杉氏の扶助を受け、また一族や旧家臣達の多くは上杉の家に仕えるが、慶長五年(1600)の関ケ原の役を境に、土肥の旧臣達の多くは上杉の扶持を離れ、藤田丹波・有沢采女・栃屋半右衛門などは、最上家への仕官の道を選んでいる。
 元和二年(1616)四月、山形藩主の最上家親が発した手勢の襲撃を受け、ここに越中土肥は消滅した。この時、旧主を共に上杉氏とした下一族や、越中以来共に歩んできた越中土肥の旧臣達は、一斉に最上家を退去する。そしてその内の有沢采女は、加賀の前田家に仕え系譜を伝えた。孫の永貞(また俊貞) の代の延宝九年(1681)、絶え果てた旧主を回顧し[土肥家記](以後、[家記]とする)を書き上げた。これが越中土肥の全容を知る上に於いて、中心的な材料となっている。
 話しは天正の頃に遡る。土肥一党が弓城の退去から上杉家に吸収され、それが慶長三年(1598)の主の会津への所替、さらに二年後の関ケ原の役の敗戦により、土肥の旧臣達は上杉家を去って行く。
 
…土肥半左衛門殿景勝乃扶助を以て年月を被送候処ニ、慶長三年景勝会津へ所替の節、越後をハ掘左衛門督殿拝領有て、過分の立身にて入部の間、是を頼んで越後ニ残る侍共多し、半左衛門も其内也、([家記])
 
 越中・越後での群雄割拠の中で、その生き場を上杉家に求めた土肥一党ではあったが、それが会津への転封による越後からの撤退は、越後を捨て難い者達にすれば、上杉家からの離脱もやむを得なかったであろう。そして、新領主の掘監物に仕える者達や、半左衛門のように、越中の前田利長に仕官の口を得ようとした者も居た。しかし、半左衛門の場合は思わぬ弊害が立ち塞がり、事は順調には運ばなかったようだ。

…其節半左衛門殿越中に来り、前田肥前守殿へ一万石の約束にて既に礼相済迄に成て、讒者有て土肥ハ越中弓庄の旧守にて、普代の被官多候へハ、乱逆の次而ニハ彼者必一揆を起さんと、百姓とも従ひ安かるへき旨申により、事不調と云々、([家記])
 
 このように、越中の前田利長に高禄で取立てられる筈だったが、何かと横槍が入り、直前に沙汰止みになったようだ。若しこれが実現しておれば、半左衛門の半生も別な方向へと向かっていたであろう。
 
…又、越後に帰り、掘殿の与力分柴田(新発田)の城主溝口伯耆守聊親ミ有て、是を頼ミ、柴田に一両年を送らる、其後、右下対馬を頼ミて庄内へ行給ふ、是も土肥殿母方の叔父に、小杉原勘斎と云あり、早く対馬に従ひ居れり、此人万ツ相談をなし、半左衛門を招故也、其時土肥殿并普代の家人、皆最上出羽守殿を頼行て主人とす、([家記])

 上杉景勝が会津へと去った後の越後の内情は、慶長四年(1599)八月頃から始まる「上杉遺民一揆」 の渦中にあり、関ケ原の前哨戦として、徳川対上杉の対立が浮き彫りになってきた頃である。その最中に半左衛門が徳川方に組していた溝口秀勝の下に、一両年いたということは、最上対上杉の出羽合戦に於ける谷地攻防戦で、上杉勢の下氏に従い活躍していたという軍記類の記述は、成り立たないであろう。

…半左衛門殿御手柄の事、柴田に在住之節慶長五年関ヶ原御陣之時、越後六郡一揆起り、柴田之辺丸田の右京、赤田の斎藤、五十公の黒川等大将として所々に楯籠る、溝口伯州退治有之処、半左衛門も同道有之、有時追合に百姓の首七ツ討取られしかとも、([家記])
 
 慶長五年(1600)九月、美濃の関ヶ原に於いて徳川方の勝利に終わる。この頃、越後では蒲原・魚沼・古志などで起きた一揆は、俗に「上杉遺民一揆」と呼ばれ、越後全域に広がりを見せていた。その発端は何であったか。それは上杉景勝の会津転封の後に、越後に入った村上頼勝・掘監物・溝口秀勝などの勢力に対して、旧主上杉を慕う農民や神職等を中心とする勢力とが、一揆という形で抗争の場と化していた。
 その溝口勢の中に半左衛門の姿があった。[寒光院様(三代宣直)御在世之時公義江御書附]によれば、三千余人の一揆が押し寄せ、秀勝はこれを防ぎ二百人を討取ったので、一揆は算を乱し逃げうせた。そしてこの一揆は他の一揆と合流、三条城を取り巻いた。秀勝は半左衛門等を遣わし、一揆に内応する百姓がでるのを防ぐため、人質を閉じこめた。しかし、その帰路に七日町の渡しで一揆に遭遇、半左衛門等は難を逃れ新発田へ注進したという。この話しは諸史にも取り上げられている。
    
[掘氏由来]

…村上周防守は城を守て居るゆへ、家臣諸兵次右衛門、久保与左衛門、土肥半左衛門三人を遣す処、七日町の川船渡し也、其船頭人質を取って渡す処、川中にて船頭棹をもって久保与左衛門を打落し溺れ殺す、諸兵次右衛門、土肥半左衛門両人は遁帰る、

[北越太平記]

…溝口伯耆守は老将功者なりければ、若我領分にも一揆起こる事もありと思い、気呂次郎右衛門、窪田与左衛門、戸井半左衛門を遣し、領内の百姓共の人質を取りつつ、新発田の城へ入させける、三人の者共七日町の宿を過て、川を渡ける処に、渡守三人寄合、窪田与左衛門を切殺しければ、毛呂、戸井二人は川を泳越し、命計り助りて、此旨を伯耆守に告たりければ、云々

 このように、関ヶ原での戦いの直前には、半左衛門は越後に於ける徳川方の一員として、活躍していたことが分かる。それは、軍記類などの谷地攻防戦に登場する、下次右衛門の配下にあって活躍したという記述には無理がある。
 元和八年(1622)の最上家改易の後に、庄内藩酒井家に再仕官を求め、[覚書]を提出した多くの者達がいる。その中の越中出身の黒田茂左衛門の覚書から、その当時、半左衛門と共に溝口秀勝に属していたことが分かる。

[黒田茂左衛門覚書]

一、越後柴田ニおり申時、八月七日ニ成田のかつせんニ高名仕候、はうき殿御家中ニ各々被存候事、但、土肥半左衛門尉ニ有申時、
一、亀崎おしこみ四月廿四日ニ高名仕候、大山衆各々被存候、但、土肥の半左衛門尉家中ニての事、     

 このように、茂左衛門は半左衛門の弓庄以来、共に行動を共にしてきたことが分かる。
■執筆:小野未三

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《平成23年度8月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成23年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


         常設展示 (8/1〜8/31)

      開館日数・・・・・・・・・・・27日間
      入館者数・・・・・・・・・ 2,786人
      回答者数・・・・・・・・・・・234人

 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・18%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・2%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・15%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・0%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・5%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・18%
 (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・ 14%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・21%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・88%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3%

 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・48%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・12%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・36%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・59%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・2%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

 ◎音声案内により解りやすく、良かった。

 ◎観光案内所へ行くまで分からなかったので、こう少しPRした方がよいと思う。

 ◎地元の情熱を感じた。

 ◎全くの無学で来ましたが、最上氏の事、山形の事が良くわかった。

 ◎もっと皆に知ってもらいたいと思った。

 ◎無料で見学できて大変ありがたい。

 ◎案内してくださった方の説明が大変分かりやすく、山形の歴史を身近に感じる事ができた。

 ◎長谷堂合戦について、ボランティアの方に説明してもらえて良かった。また来たいと思う。

 ◎対応された職員の方々が皆親切で好感を持った。他の入館者へ案内しているガイドさんの声が大きく音声ガイドの声が聞きにくかった。

 ◎山形の歴史がよくわかった。

 ◎料金は取った方が良いと思う。

 ◎ポイントを絞り、多すぎず、少なすぎずの量で見やすかった。この適度な資料を無料で見られるのが嬉しい。今後も頑張ってほしい。

 ◎展示してある所にある解説書が、目が少し悪いので読みづらいので前に置いてほしい。

 ◎もう少し関連商品を販売してほしい。

 ◎無料でここまでの展示品を見る事ができてよかった。

 ◎かなり充実した内容に関わらず無料は素晴らしいが、200〜300円位の料金を取って、更に良くしてほしい。無料の為、遊び半分の子供や興味の無い者も入って来て、うるさくてゆっくり見学できない。ぜひ入館料を取るようにしてほしい。

 ◎ゆっくり見る事ができて良かった。もっと義光が有名になると良いと思う。

 ◎女性の展示がとても良かった。奥の兜は迫力があった。

 ◎山形という都市の成り立ちが理解できて良かった。

 ◎無料で入館でき、最上義光の人物もよくわかり、とても良かった。たくさんの人に入館してもらい、歴史を身近に感じてほしいと思った。

 ◎日本の歴史の中で、最も興味を持たれた時代に生きた武将なので、資料はとても興味深かった。

 ◎案内の方の話を聞けて、興味がわいた。また来てみたいと思う。

 ◎最上氏、上杉氏の関係が大変よく理解できた。

 ◎子供たちが楽しめるクイズがあり、子供も喜んで見学していたので良かった。

 ◎とてもためになった。もう少し宝が残っていれば良かった。

 ◎住んでいても分からない事が多く、子供に付き添って来たが、大変ためになった。

 ◎ガイドの方にとても丁寧に説明してもらい、義光像を知ることができ勉強になった。

 ◎説明がとても丁寧で、大変よくわかった。

 ◎分かりやすく、興味を引く展示内容で面白かった。基本的な情報は知っていた
が、駒姫の話しなど、新たに知る事ができて良かった。

 ◎最上氏のルーツをもう少し詳しく知りたかった。

 ◎1600年前後の最上領内を中心とした歴史の動きが良くわかった。歴史の教科書にはない、当時の生活、戦の状況を知り、面白かった。

 ◎なんとなく立ち寄ったが、面白かった。義光さんの逸話をもう少し知りたかった。

 ◎目が少々悪いので、展示物や解説がよく判読できなかった。次回はゆっくりと見たいと思った。

 ◎各展示物の案内を聞くことが出来るようだが、どのようにして聞くのか分からなかった。それ以外はとても分かりやすい展示方法と説明だった。

 ◎自分の出生が宮城県大崎なので、最上と大崎の関係に関心があった。大変わかりやすく解説してあり良かった。