最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (5)】


 その後の庄内は、各々の城主がその支配地域を独立的に管理する状況ではなく、各城の家老レベルで連携を取り合い、その統治を進めていった形跡が見られる。例えば、志村氏の家老進藤但馬と大山城主下対馬守の家老原美濃守が連署し、年貢の覚書を狩川城主北舘大学へ通達している書状(注16)や、亀ヶ崎より欠落した輩を召捕った事を賞する内容の原美濃書状・進藤但馬書状(注17、18、19)がある。「忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候」(注18)「濃州様より貴様へ被仰遣候ヘハ、」(注19)と、一つの懸案に関して連絡を取り合っていたようだ。だが、光安を始めとした大身の城主層が、行政を家老格に全面的に任せていたかというとそうでもないようだ。義光に命じられ、光安が飛島および沿岸諸村の雑税を徴収しているし(注20)、また藤島城主新関因幡が酒田商人永田勘十郎に米の売却を依頼したような内容の書状も見られる(注21)。これら家老格の家臣等と志村との関わりは次項にて若干の考察を試みたい。

 このように、庄内の城主達は、互いに連携を取り合い庄内の支配を行っていった。光安は、懸案によっては庄内の領主達に留まらず由利の本城氏とも連絡をとって対処しているようである。慶長十四(1609)年六月に発生した笹子山落事件(注22)においては、事件の発生を本城氏から通報された進藤但馬が、それを「即伊豆ニ申きかせ」ており、また山形へ問い合わせた結果、類似事件があった事、また事件への指示を本城(赤尾津)満茂に返答している(注23)。また事態が進展した八月には、光安が満茂に対し佐竹からの連絡があったこと、それを「殿様へそれかしより書状さし上」と山形へ伝達したことを報じている(注24)。笹子山落事件は庄内・由利・秋田を巻き込む大事件へと発展したのであり、佐竹・本城・山形の間に立ち、情報の即時伝達を仲立ちした光安の動静は、重要度の高いものであったと位置付ける事ができる。

 前述したように、この笹子山落事件から二年後の慶長十六年、光安は没しているようである。その後の亀ヶ崎城主には嫡子志村九郎兵衛光惟が就いたが、慶長十九(1614)年一栗兵部の手にかかって家老進藤但馬共々殺されており、志村の血は途絶えてしまったようで、その後亀ヶ崎は蔵入地となったようだ(注25)。

 以上、義光の腹心として早期から付き従った志村光安の動向を検討した。史料的限界もあり、制約が多い中での考証であった為、詳細な動向が見えなかったのは残念である。しかし、軍記物史料の記述や動向を示す数少ない書状史料にある程度の傾向は見えており、この考証を踏まえた上で次項の考察を進めたい。
<続>

(注16) 「狩川八幡神社文書」慶長十七年十一月二十七日付進藤但馬他連署書状
   (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注17) 「鶏肋編 所収文書」四月二十二日付原美濃頼秀書状(『同上』)
(注18) 「鶏肋編 所収文書」四月二十六日付原美濃頼秀書状(『同上』)
(注19) 「鶏肋編 所収文書」四月二十六日付進藤但馬書状(『同上』)
(注20) 「永田文書」慶長八年十二月十三日付志村伊豆守光安請取状(『同上』)など
(注21) 「同上」十一月五日付新関因幡守久正書状(『同上』)
(注22) 「笹子山落事件」に関しては、長谷川誠一「慶長・元和期における出羽国の社会状況」
   (『「東北」の成立と展開―近世・近現代の地域形成と社会―』岩田書院 2002)に詳しい。
(注23) 「秋田藩家蔵文書」六月二十五日付進藤但馬書状
   (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注24) 「同上」八月六日付志村伊豆守光安書状(『同上』)
(注25) 「伊達家文書」最上氏収封諸覚書(『同上』)


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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 

【あとがき】
 
 本稿は、世に余り語り継がれて来なかった、最上義俊の短き生涯に視点を当て、僅かながらもその実像に迫るべくまとめ上げたものである。その生涯の最大の山場となった改易事件については、最上家自体が真実を語るに足る記録類の持ち合わせも無く、現今の多くの著作は、藩主の無能振りを柱に単なる政争として片付けている感がある。
 その中でも、[最上氏の改易について](改稿、『慶長・元和期のお家騒動』福田千鶴)や、山形県下では[山野辺義忠公と最上家の改易](『山辺郷・2号』後藤禮三)などに見るように、この時期のお家騒動の特質を、武家諸法度の立場から武士道の世界にまで踏み込んだ、素晴らしい解釈を披露している。
 現在、義俊に対する評価は全く芳しくない。元和五年(1619)の福島正則改易事件に際して、「秀忠公再び源五郎を召して、今後正則家人等野心を挟む処を、汝が才覚にて和議を繕ひ互いに異事無く、彼屋敷を受取る事神妙の至りなり、父祖に劣るまじき若者と褒させられ、長光の御脇差を賜ふ(『中興武家盛衰記』)」という記事から、『山形の歴史』は「彼は大器ではなかったが、小才に長けた人物であったことを伝えている」と表現している。これらが、世間の義俊を評価する一つの指針となっているのかも知れぬ。しかし、この記述のいずこに小才に長けた義俊の姿があるだろうか。このような見方が積み重なり、世間に誤った義俊観を広めた要因となったことは、否定できないだろう。
 大沼浮島稲荷神社の石灯籠の銘文から、藩を牛耳る一族・重臣達の狭間に身を閉ざされ、如何ともしょうがない立場に置かれた、義俊の苦悩に満ちた真の姿を見ることができる。これが何故に江戸の町中で、酒食に溺れ不行跡な行為に走らねばならなかったのか。しかし、このような常軌を逸した行動を取り上げ、これから義俊の人格の全てを否定するのは酷であろう。その責任の大半は、義俊を支え藩の運営に当たらねばならない、一族を中心とする重臣達が負うべきであろう。
 元和四年(1619)五月、幕政に関与するはどの異色の僧の大僧正天海は、立石寺一山の衰退に心を痛め七ケ条の「立石寺法度」を定めている。その法度状には天海と並び「最上源五郎」の著名が見られる。この年は、他にも慈恩寺本堂の再建、酒田の亀ヶ崎八幡神社の造立などにも名を止めているが、この義俊の天海との連署を別の視点から見ると、これは少年藩主義俊の存在を、公の場に改めて世間に周知せしめたともいえる。
 しかし、四年後の元和八年(1622)四月、天海は義俊に立石寺の再興を重ねて委嘱する書状を送った(『東北の一山組織の研究』・『山寺名勝志』)。それは四年前の「立石寺法度」の送致にも拘らず、依然として一山の衰退は改められず、天海は重ねてその再興を求めたものであった。
 しかし、この時期は江戸にて最上騒動の審議の最中であった。そこには天海自身の姿も有ったというから(『続々本邦史記』)、幕府と最上家との間の異常な雰囲気は、熟知し
ていた筈である。それがこのような時期にも拘らず、何故に立石寺の再興を促すような行動をとったのだろうか。
 先述した[細川家史料]を改めて見ると、七月廿八日に最上の公事(訴訟)も終り、国替で決着がついたようだと言っている。ということは、この公事が江戸表にて正式に審議の場に乗せられたのは、年が明けてからであろう。その審議半ばの四月の時点に於いて、天海がこのような措置を採ったことは、未だ審議もさほど進展も見せず、白紙に近い状態であったからではないだろうか。天海自身も、最上家が数ケ月後には羽州を失うとは、思いもよらなかったであろう。
 国替で義俊を守り最上家の存続を望んだ「上意」であった。しかし、その意に反し服さなかった一部の重臣達の行動が、結局は「上意」に背く違反行為として、改易処分の決定を見るのである。言うなれば、この重臣達には当初から義俊を排斥し続け、もり立てる意思は全く持ち合わせは無かった。義俊の若き藩主の器量の欠如を補う責務は、当然のこと周りの重臣達にある。しかし、彼等はそれを放棄してしまった。そして羽州の地を失ってしまった。
 もうこの辺で、義俊の真実の姿を見極めながら、羽州の大藩三代藩主として新しい義俊像を伝えて行くことが、研究者としての責務であろう。これが義光・家親に対する従来の史観をも併せて見直す機会ともなれば幸いである。    
 おわり

■執筆:小野末三
  
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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【八 義俊の最期、そして家族たち】

 寛永六年(1629)という年は、江戸城普請役を勤め上げた、晴れて公の場に復帰した記念すべき年であった。しかし、それまでの江戸での逼塞状態の生活から脱却できたとは申せ、私的な面をも含め、東西に二分された所領の実態については、明確にすることは困難なことである。ただ諸史は近江の大森に陣屋を置き、母子共に移りそこで没したなどと憶測するばかりである。しかし、義俊は一度も任地には足を踏み入れず、それぞれに陣屋を有しながらも、三河の梅坪村に見るように、その所領全域は幕府代官の関与する支配体系を採っていたのではなかろうか。
 重ねて述べるならば、義俊の公の場に姿を見せたのは、この年限りであろう。これ以後の義俊の生きざまとは、家譜に「長々相煩」と伝える如く、肉体的にも精神的にも苦痛に満ちた日々であったであろう。思うに将軍に御目見を果たし後、江戸城普請役の勤めを果たしたことが、一万石大名としての義俊を語る全てではなかろうか。
 寛永八年(1631)七月十五日、義俊は「一遍上人絵巻」を光明寺に寄進した[注1]。この絵巻は祖父の義光が文禄三年(1594)に求め、光明寺に納めたものであるが、後に故あって最上家に戻されていた。奥書きには「寛永八年七月十五日最上源五郎義俊新寄進之」とあることから、改めて寄進していたことが分かる。
     文禄三年
        七月七日   最上出羽守義光寄進之(印)
      右十巻之縁起有様子手前在之
     寛永八年
        七月十五日  最上源五郎義俊新寄進之(印)
      出羽国山形
         光明寺       筆者  狩野法眼(印)

 この絵巻の寄進の時期が、義俊死去の四ケ月前のことである。義俊の直接の死因ははっきりしないが、ただ長く伏していた状態であったのかも知れぬ。推測すれば、義俊自身も我が身に迫る死期を覚悟しながらも、切羽詰まっての仏心への帰依を願ってのことであったのかも知れぬ。ただ々々義俊の心情を思いやるばかりである。
 寛永八年辛未十一月廿二日、江戸にて没、享年二十七歳。〔最上源代々過去帖[注2]〕には「月照院殿華嶽英心大居士  寛永八辛未十一月一二十二日  源五郎義俊、家信トモ云」とある。山形市七日町の瑞雲山法祥寺墓地に、翌九年四月に建立された義俊の供養塔がある。誰の手になるものなのか、寒河江住人とあるのみである。義俊と深く関わった人物であったのか、没後僅か五ケ月後のことであり、この人物の義俊への思いの深さを知ることができる。

    損館月照院殿前羽州華嶽英心大居士
    後日為忌寒河江之住人以微力五輪造立之
      干時寛永九壬申四月吉日  縁徒施主    敬白[注3]

 また鉄砲町の光禅寺墓地には、義光の供養塔の脇に、家親と共に義俊の供養塔も並んでいる。これは享保十五年(1730)義俊の百年忌に際し、住職が建てたものだという。また江戸で死去した義俊は泰平山万隆寺に葬られた。この寺は明暦の大火以前は湯島にあったが、その後は現在の台東区の浅草寺近くに移っている。明治二十三年(1890)に至り、旧臣たちの手により個々の墓を一基にまとめ再建している[注4]。以後、幾度かの震災などに遭いながらも持ちこたえてきた。現在の寺の基域は広くはないが、幾度か手が加えられてきたようだ。現在は墓域の片隅に追いやられた位置にある。正面には「旧山形城主最上家之墓」、側面には「明治廿三年六月 石川左兵衛敬建立之  楯岡小市朗久富 妻そら」とある。また墓段石にも「中祖以後八世之墓碑、云々」と、長文の刻印が見られるが、永い歳月の間に次第に摩耗してきており、判読するのも困難である。
 次に残された家族たちについて述べてみたい。義俊の実母については、「梅室院妙董禅尼  元和三年丁巳十二月廿一日  源五郎義俊実母也」とあるように、義俊が家督を継いで間もない時期に没している。その戒名から見ても、父の家親の正室ではないようだ。過去帖などから家親を囲む女性については、この梅室院以外には確認できない。
 慶長十六年(1611)七月、数え七歳の源五郎は、盛岡藩主南部利直の女、七子と婚約したことを『南部叢書』は伝えている。
  
十六辛亥年七月四日、公主七子姫、最上源五郎義俊ニ嫁シ玉フヘキ約ヲナシ玉フ、考、義俊ハ従四位上行左近衛権少将源義光ノニ男、従四位下侍従山形駿河守家親ノ男ナリ、元和三年六月家督、時二十二歳、同八年五月改易[注5]、
 
 この七子の義俊との婚約について、南部利直は酒田の豪商加賀与助に対して、蝋燭進上に対しての礼を述べると共に、上意により源五郎との婚約を仰せつかったことを伝えている。書状の日付が七月六日とあり、これが婚約の決まった年とすれば、両家が姻戚関係に入ることをいち早く報じた私的な書状でもあったかも知れぬ。

       尚々毎年心付候段満足申候、以上
田名部へ船被越仰付而音信見事成小蝋燭百挺令満足候、不相替無何事之由目出度候、京都へ上下之刻ハ毎年相候へとも、近年ハ不能面談候、以上意を最上源五郎殿縁篇ニ被仰付候、定而其方なと可為満足候、弥心易存似合候用も候ハゝ、可被申越候、
  恐々謹言
              南部信濃守
      七月六日
                    (貼紙)
                    「利直(花王影)」
               加賀与助殿[注6]

 このように、義俊の南部家との婚約が早々と成立したが、婚儀が執り行われた日時については、確かな記録を見ることはできない。ただ七子については、『寛政重修諸家譜』は「母は某氏、最上源五郎義俊が室、離婚してのち家臣中野吉兵衛元慶に嫁す」とある。また最上家の記録にも「室は南部信濃守利直が女」とあり、さらに [南部氏系図]には「為嫁最上源五郎義俊之約有罪改易、依再嫁中野吉兵衛元康」とあるから、南部利直の女が義俊に嫁したことは、時期ははっきりしないが事実であろう。
 七子の再婚の相手の中野元慶(元康)とは二千石を領する重臣で、「室、利直公公女七姫君、始出羽最上城主最上源五郎義俊室、イマタ婚セスシテ最上氏閾除カル、後更ニ元康ニ下嫁ス、御化粧料五百石ヲ賜フ、寛文五年二月十一日卒ス[注7]」とあるが、改易直後のことか、また義俊没後のことなのか、その離婚の原因や時期などを特定するのは難しい。
 義俊の嫡子、義智の実母については、家譜には「母某氏、慶安四卯七ノ十二死」とあり、過去帖には「清浄院殿直信宗心大姉」とある女性である。また次男の義長の母を「松平陸奥守忠宗女」とするのは誤りである。思うに、この二人の男子の内のいずれかが南部氏の所生であれば、七子は最上家を去る必要はなかったのではないか。七子は男子を儲けることができなかったのである。
 義智の実母の断片的な記録が、[柴橋文書]に見えている。この柴橋図書正忠を祖として書き継がれた文書から、関連記事を拾ってみる。
  
最上源五郎十二歳之時、御父駿河守家親家督被仰付処、家老為其仲間申分有之、十七歳之時領知被召上為堪忍壱万石拝領、源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時壱万石被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重時又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、図書室辻氏娘妹最上源五郎御[  ]ヲス刑部御母也、
 
 羽州を失い小大名の地位に落ち込んだ義俊の、その短い期間中の私的な消息を伝えるものは殆ど見当たらない。それでも、この柴橋図書の家系が伝える資料等により、当時の最上家内部の動きを僅かながら知ることができる。これから、家禄半減による家臣団の整理につながる論争を呼び、そのため義智母の申付けにより、柴橋・佐竹の両氏が退散したことが分かってくる。この義智母こそ慶安四年(1651)に没した清浄院に間違いないだろう。
 義智の生れについては、家譜は寛永八年(1695)と記すのみで、月日ははっきりしていない。義俊が死を迎えた時は、満一歳に満たなかった幼児であったろう。当然のこと絶家となっても不思議ではなかったろう。所領半減とは申せ、旗本身分を確保できたこと
は幸いであった。
 次男の義長の生れは、義俊死去から四ケ月後の翌年三月である。過去帖には、後に別家となった義長家の記録は無く、その[畧譜]にも実母の記録は無い。またそれぞれ旗本家に嫁いだ三人の娘達についても実母の記録は無い。
 長女は御書院番大嶋義当に嫁ぐ。義当は寛永十年(1633)五百石を知行、寛文十一年(1671)没。長女の生れは、元和末から寛永初期の頃であろう。
 次女は大番役太田康重に嫁ぐ。康重は寛永十三年(1633)より仕え、後に三百石・廩米五十俵を知行する。元禄十二年(1699)没。
三女は交代寄合妻木頼次に嫁ぐ。頼次は承応二年(1653)七千石を継ぐ。万治元年 (1658)に嗣無くして没したため断絶[注8]、過去帖にある「晴光院殿室寿養大姉  元禄二己巳五月廿一日  駿河守義智姉」とは、実家に戻った三女のことかと思われる。
 寛永九年(1696)八月、義智は新たに近江領五千石を賜り寄合に列せられる。同十三年(1636)八月、初めて将軍家光に拝謁を賜る。二十五歳にして初めて近江の采地に入る。元禄八年(1695)十二月、高家となり従五位下侍従に叙任、駿河守。翌九年十一月十四日、本院御所崩御により御使として京に赴く。同十三年(1700)三月九日没、六十七歳。

[吏徴別録] 
高家  元禄八年乙亥十二月十五日、交代寄合最上刑部義智拝領、
十八日、侍従改駿河守、此為一代高家[注9]、

 交代寄合とは格式は大名に准じ、「雖小身、何モ留守居仕之、大概之格式万石以上ニ准ジ、勿論老中支配也」として、常に無役とはいえず、大番頭などを勤めることもあった。
最上氏が高家に列せられたのは、義智一代限りである。また「交代寄合」から「交代御寄合表御札衆となり、この名称が使われだしたのは、元文六年(1741)の「武鑑」からであった[注10]。
 義智は女性運には恵まれなかったようだ。家譜などには「妻は松平和泉守某が養女、後妻は奥平美作守忠義昌が女、また西三条右大臣実条が女を娶る[注11]」としているが、これらの室は相次いで死別しており、最後にもう一人の女性が居たのである。
 
1、西三条(三条西)右大臣実条女
将軍家光の乳母であった春日局が、幕府の使節として京入りの際に、局の斡旋により大奥に入ったという。十七歳のとき松平和泉守乗寿の養女となり、「慶安三寅年十一月従御城直ニ駿河守方江被下置([畧譜])として、義智に嫁したことが分かる。過去帖には「渓台院殿華揚日経大姉  寛文二壬寅六月二日  西三条右大臣実条女 義智内室也」とある。
  
2、継妻 てい   奥平美作守忠昌女
家譜には「寛文四辰閏五ノ廿四死、廿三歳、号知光院槐窓寿禅尼」、また過去帖には「智光院殿槐窓寿貞大姉  寛文四甲辰五月廿四日  駿河守義智室」とある。
  
3、後妻 西三条右大臣実条二女
家譜には「寛文十戌六ノ廿九死、号梅林院花室春光大姉」、また過去帖には「梅林殿屋春香大姉  寛文十庚戌六月廿七日  渓台院義智妹」とある。(渓台院義智妹とは渓台院妹のこと)
  
4、後妻 奈津   本多内蔵助昌長女
本多昌長は、福井藩主松平越前守光通に仕え、禄高四万石の大身である。奈津は藩主の養女となり、最初に嫁いだ相手は公家の広橋貞光である。藩主の生母が広橋氏であった関係からか、この重臣の娘を養女として嫁がせたのだろう。寛文六年(1666)秋に貞光に嫁いだ奈津であったが、何故に離縁になったのかははっきりしない。貞光は元禄十二年(1696)七月に死去しており、義智の死は翌年の三月である。やはり貞光生存中に、広橋家を離れたのではなかろうか。過去帖には「松林院殿奥華良操大姉  宝永七年庚寅正月六日  駿河守義智室  本多孫太郎娘」とある。
[福井藩史料]には、「秋(寛文六年)、本多内蔵助昌長娘奈津、光通君為御養女、広橋参議藤原貞光卿嫁、後、最上刑部源義智嫁、  正月(宝永七年)十六日、最上刑部少輔源義智室卒、葬于武江浅草勝光山万隆寺、松林院殿貞花良操大柿[注12]」とある。
 
 次男の義長は、幸いにも新知三百石を賜り別家となった。幕府としても、それなりの配慮を示したのであろう。
  
寛永十酉年九月十五日二歳之時、被拝召、兄駿河守分知可仕之処、当時御頚リ高之儀ニ付、於出羽国新知三百石被下、兄駿河守分知配当被仰付、追々御立可被遊旨被仰渡、大膳生長仕御書院番、延宝五年六月十九日死四拾六歳、浅草万隆寺葬[注13]、 

 その所領地については、当初は出羽の地の内であったようだが、孫の義武が元禄十一年(1698)家督の際に、「山形ハ遠国二付御引替願置、依テ家督時御蔵米」として、速い羽州の地は不便であろうことから、これを蔵米取りに変えている。
■執筆:小野末三
  
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 [注]
1、『山形市史・史料編1』
2、[注1]に同じ
3、[注1]に同じ
4、『山形の歴史』(川崎浩良)
 墓碑名について詳しく述べている。長文の刻印も永い歳月を重ねたせいか、満足に判読も難しくなっている。万隆寺本堂は立派に再建され、墓所も綺麗に整備されてはいるが、「旧山形城主最上家之墓」には、あまり人の訪れた気配もなく、一抹の侘しさを感じる。
5、[聞老遺事](『南部叢書』・『青森県史・史料編近世1』)
6、[利直公御事蹟](『山形県史・古代中世史料1』)
7、『南部藩参考諸家系図』
8、『寛政重修諸家譜』
9、[吏微別録](『古事類苑・官位部』)
10、西田真樹[交代寄合考](『宇都宮大学教育学部紀要・第一部36号』昭61年)
11、『山形市史・史料編l』
 最初の室については、割合と許しく書かれてはいるが、これを徳川家綱の侍女として、義智が押しっけられ妻としたとかと、面白く書いているものもある。
12、[国事叢記](『福井県郷土叢書』)
13、[畧譜](『内閣文庫所蔵文書』)


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (4)】


 さて、慶長五年以降の志村光安の動向はどのようなものだっただろうか。
 慶長五(1600)六月、徳川家康は諸大名に対し上杉氏攻めを命じた。奥羽諸大名は庄内・最上口に配備され義光は先手となったが、一転八月には諸大名へ対し引き上げが命ぜられた。これに対し上杉は最上領進撃を計り、庄内よりは志駄修理亮を始めとした庄内衆に陣触れがなされ、寒河江・谷地ら河西諸城を陥落させた。また米沢からは直江兼続を主将とした一軍が出陣し、九月十三日には畑谷城を攻め落として九月十五日には山形城にほど近い長谷堂城を囲んだ(注11)。この時長谷堂城の守将が志村光安であったことは諸書に全く一致する所であり、間違いはないだろう。この長谷堂合戦における志村光安の活躍は様々な書物で取り上げられており、ここで改めて紹介はしないが、ともあれ光安は寡兵よく防衛し、上杉勢の突破を許さなかった。九月末に至って、直江兼続は関ヶ原の敗報に接し、最上領よりの撤兵を開始した(注12)。最上義光はこれを追撃し、上杉方に奪われた谷地・寒河江等の諸城を奪還し、庄内尾浦城へ迫った。尾浦城は降将下吉忠を先導とし開城したが、東禅寺城に籠もる志田修理亮は頑強に抵抗し、時期も冬となった為最上勢は一旦撤兵した。しかし、降雪の間にも東禅寺城攻略の軍備は着々と進められ、下吉忠が「山形の御意」に従って藤島・余目・狩川の各城へ鑓を配備した事を安部兵庫が光安に申し送っている(注13)。『最上記』を始めとしたいくつかの軍記物史料にも、谷地で下治右衛門を降伏させた事や、東禅寺城を攻める際の活躍が詳らかに記されており、また上記の書状に見えるよう諸城へ対する鑓の配備を綿密に把握していた事を考慮すれば、光安は慶長五年から翌六(1601)年にかけて実行された庄内奪還を企図した一連の軍事行動の中で、主導的役割を果たしていたと想定してよいだろう。結果として慶長六年四月に、下吉忠の勧告により東禅寺城は開城、城将志田修理亮は米沢へと帰還した。この年の冬には最上家に対し庄内と由利郡の領有が追認され、名実ともに庄内は最上家の所有するところとなったのである。義光は下対馬守(治右衛門吉忠)を尾浦一万石、新関因幡を藤島七千石、そして志村光安を東禅寺三万石に封じて庄内の経営を行った(注14)。

 慶長七年には、光安が坂紀伊守と連署で大津助丞・須佐太郎兵衛らに知行を宛がっており、この頃には志村の知行地もほぼ確定していたと見てよいだろう。このように比較的早期に三万石という大規模な知行地が確定した背景には、天正年間から継続して行われた、上杉家による(豊臣政権の意向をうけた、と言い換えてもよいだろう)検地成果が、下対馬を始めとした上杉家降将らの影響下の元、新たに最上家領国化された庄内へと反映された事が大きな要因として挙げられるだろう。

 翌慶長八(1603)年に、酒田湊に大きな海亀がはいあがったという事件があったらしく、義光は此れを瑞兆とし東禅寺城を亀ヶ崎城、大宝寺城を鶴ヶ岡城、尾浦城を大山城と改めた。しかし、天正十九(1591)年に成立したとされる『浄福寺由緒記』に袖浦より天文年間に酒田津亀ヶ崎に移り、亀崎山と号したという記述があり、一考を要する(注15)。
<続>

(注11)「小山田文書」九月十八日付上泉泰綱條書(『山形県史 古代中世史料1』)
(注12) 『伊達治家記録』『上杉家御年譜』など
(注13) 「鶏肋編 所収文書」十二月十七日付安部兵庫助書状
(注14) 『寛政重修諸家譜』。ただし、各城主の石高に関しては諸説ある。
(注15) 『酒田市史 改訂版 上巻』(酒田市 1987)


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (3)】


 さて、志村光安は軍記物史料の中でどのように位置付けられているのだろうか。『奥羽永慶軍記』の記述に、それがよく現れている一文がある。

  『奥羽永慶軍記』最上義守逢夜討事
   最上出羽守義光ハ、清和天皇八代孫義家ノハ十一代ノ後胤、(中略) 
   誠ニ君々タレハ臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、
   元来忠有テ義アリ、謀ハ楠カ肺肝ノ中ヨリ流レ出ルカ如キモノ也、
   今一人ハ志村九郎兵衛尉、其心剛ニシテ武威ノ名顕レ、
   然モ口才人ヲクシキ、イカナル強敵ト言トモ彼ニ逢テハ即降リヌ、
   彼等ハ皆君臣ノ礼厚クシテ国治リ、栄耀家門ニ及ホシ給フ(注7)

 これを読む限りでは、光安は氏家尾張守と並び義光の腹心中の腹心として捉えられている。また、「口才人ヲクシキ」と弁舌の才がある人物とされている。特に『奥羽永慶軍記』においてはこれが強調され、光安が使者としての役割を果たす場面が多く記述されている。

  『奥羽永慶軍記』羽州天童合戦事
   …志村九郎兵衛ヲ使者トシテ密ニ延沢ニソイハセケル…(中略)
   志村元来口才名誉ノ者ナレハ…(注8)

  『同』 白鳥十郎被討事
   …志村九郎兵衛ヲ使者トシテ信長公ヘ遣シケル…(中略)
   志村九郎兵衛ヲ使者トシテ、白鳥ノ所ニソツカハシケル、
   志村急キ谷地ニ至リ、(中略)…志村元来口才名誉ノ者ナレハ…(注9)

  『羽陽軍記』義光小田原江使者之事
   …御使者として志村伊豆守を小田原江被遣、…(中略)
   秀吉公伊豆ノ守を御前江召され、(注10)

 このように、信長への貢物を届ける使者や、小田原の秀吉への使者を拝命している記述があるが、これが全て事実であるか裏付けはとれない。ただ、全く才能が無く、実績の無い分野での活躍が軍記物史料に記され、また語り草となることはなかろうから、義光が光安を使者としてよく用いていたのであろうという推測は成り立つ。ただし、慶長期に比して文禄以前に志村が発給した行政関係の文書の残存状況が少ない事を考慮すれば、行政文書を発給し、領内統治に直接的に携わるような位置にはいなかったとも考えられる。

 次に光安の槍働きであるが、史料によって多少のばらつきはあるものの、最上家の勢力が伸張する天正以降においての主要な合戦の陣立てにはほとんどその名が記されている。一々内容に触れる事はしないが、義光に近しい直臣という立場上、義光自らが参戦した合戦には光安も随行していると推測するのが妥当だ。

 最後に「九郎兵衛」から「伊豆守」への移行時期の問題を少し検討したい。「伊豆守」の名の初出は、『最上記』『羽源記』では慶長五(1600)年長谷堂合戦条である。『奥羽永慶軍記』ではそれより若干前の文禄四(1595)年有屋峠合戦条で、その画期は十六世紀最終盤に集中している。『最上記』は、成立が寛永十一(1634)年と軍記物史料の中でも最も早く、しかもその著者は最上遺臣であるという。1590年代には実際に著者が生きて最上家内にいた可能性が高く、明確な意図があってその名乗りを書き分けていると推察できる。その契機として真っ先に考えられるのは長谷堂城主就任もしくは嫡子光惟の元服であるが、それを裏付ける史料が見られないため、あくまでこれは推論の上に成り立った仮説にしかすぎない。ただ、『奥羽永慶軍記』に、下治右衛門が上杉氏より最上氏に下り、改めて尾浦城将として配置されたときに名乗りを治右衛門から対馬守に変えた、という記述があって、自らが城主層となると同時にその名乗りを変えることはよくあったようだ。光安の場合も、子飼いの直臣の城主就任にあたり、義光が志村に対し権威付けのため官途名を与えたのであろうか。ともかく、慶長四(1599)年発給の書状において、山形の寺社統制に長崎城主中山玄蕃とともに「伊豆守」が参画している記述があり、この時点で光安は「伊豆守」を名乗り、山形近郊にその所領を持って行政に携わっていた事は確かであろう。

 以上、軍記物史料から見える関ヶ原以前の志村光安の姿を見てきた。整理すると、光安は義光政権成立当初から義光の腹心としてその手足となって活動し、天童氏との抗争、寒河江・谷地攻略等の主要な軍事行動に部将として参加していた。同時に弁舌の才にも恵まれ、方々へ使者として遣わされたが、文禄以前は最上家領内の内政的な経営に関わっていた形跡は見られなかった。いくつかの軍記物史料では、慶長の初期あたりを境として「九郎兵衛」から「伊豆守」へとその名乗りを変えており、あるいはその時期に長谷堂城へ移った事がその契機であったろうか。ただ、これらの史料の記述にすべてにおいて全幅の信頼を置くことはできず、この推論はあくまで「軍記物史料から見える」動向であることを重ねて記しておく。
<続>


(注7) 『奥羽永慶軍記』最上義守逢夜討事(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注8) 『同上』羽州天童合戦事(『同上』)
(注9) 『同上』白鳥十郎被討事(『同上』)
(注10) 『羽陽軍記』義光小田原江使者之事(『同上』)


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【成沢道忠/なりさわみちただ(どうちゅう)】 〜大剛の老侍大将〜
   
 蔵王成沢の三蔵院に「成沢道忠公像」が大切にまつられている。
 廻国修行に出る行者の旅姿で、高さ約30センチほどの小木像である。手足が破損しているのは残念だが、作りは丁寧でしっかりしている。
 元亀から天正の初めごろ(1570年代初頭)、上山勢が伊達の後押しで山形に攻め込んだ柏木山合戦のとき、成沢城を守ったのが道忠であっと、物語には書かれている。
 「代々の家臣である七十歳にもなる道忠を主将とし、加勢として六十を超える伊良子宗牛(家平とも)をつかわしたのは、経験ゆたかな老将で守りを固め、無駄な戦を避けようという義光公のはかりごとだ」と各種の軍記物語にある。
 天正13年(1585)ごろに、義光が庄内進出を図って余目の安保氏を攻めたときには、「最上の先陣は、大剛の侍大将成沢道忠、5千余騎を引き連れて敵のたてこもる城郭に押し寄せ」(『羽源記』)とあり、老齢ながらも剛の者として知られていた。
 もっとも、このときの戦いは敵方のしぶとい抵抗にあって、失敗に終わっている。
 以上の記事によれば、70〜80歳にしてなお矍鑠として戦陣に立ったこととなる。
 また、義光の死後つまり慶長19年(1614)以後に、道忠は行者となって故国を去り、陸奥国石田沢(塩釜市)に隠れ住んだとする言い伝えもある。
 しかし、これらの記事や伝承は、年令から考えると無理な話で、あるいは、成沢氏の親子2〜3代にわたる活躍を、道忠一人のこととして、まとめて作られた可能性もありそうだ。そもそも、柏木山合戦なるもの自体、作り話らしいのである。
 最上義光歴史館所蔵の『最上家中分限帳』には「一、五千石 成沢道仲」と出ているが、成沢城をあずかったとはなっていない。名乗り名字からいえば、成沢を本拠としていたと見られるわけだが、史料のうえでは、そこが今一つはっきりしない。また、最上家が改易されたころには、重臣としての成沢氏の存在は確認されなくなっている。言い伝えのように、やはりいつのころか山形を去ったのであろうか。
 最上源五郎時代の『分限帳』では、成沢城主は「壱万八千石 氏家左近」となっており、成沢を苗字とする者は、中級家臣のなかに「百五十石 成沢惣内」なる人物が見えるだけだ。山形に残った一族であろうか。
 これは憶測になるが、成沢家が山形を去ったのは、慶長8年(1603)の秋に勃発した政変とかかわりがあるのではあるまいか。
 義光による義康の廃嫡と悲劇的な最期は、最上家内部に大きな衝撃を与えた。義康と親しかった家臣のなかには、最上領を去って新たな土地で生きる道を求めた者もあった。成沢一門も、あるいはそうしたグループに属していたのかもしれない。
 成沢道忠の子孫は宮城県松島町に健在、信濃にも同族がおられて活躍の由である。
 「道忠公像」は、松島の成沢家から寄進されたものである。戦国山形で活躍した人物の晩年の姿をかたどった貴重な彫像を、地元では「尊像保存会」を結成して護持している。ゆかりの成沢城跡もまた、歴史公園として整備されつつある。
■■片桐繁雄著