最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(12)】


 天正十年も秋に入る頃から、最上家の庄内へ対する干渉が活発化する。九月には庄内国人来次氏秀が同国人砂越次郎へ書状を送り、鮭延秀綱が連絡を寄越した事を伝えており、秀綱による調略の手が庄内へと伸びている事をうかがわせる(注32)。さらに十一月には、前述した通り、義光が安東愛季に対して、白岩八郎四郎が大宝寺に通じた為これを討伐したこと、来春中には清水・鮭延両氏を率いて庄内へ攻め込むので、時を同じくして攻め入って欲しいという内容の書状を送っている(注31)。氏家は同日付同内容の副状(注33)を送っており、十一月時点では義光と行動を共にして、庄内問題に対応していたのであろうか。安東氏と庄内を掌握する武藤氏は由利地方の主導権を巡って抗争中であり、利害関係の一致する最上と安東は同盟関係にあったといえる。庄内進出は当時の最上家にとって最重要懸案であり、同盟者である安東氏と連絡を密にする事は至極当然とも言える事であった。

 翌天正十一(1583)年三月に、武藤義氏は庄内国人前森蔵人(東禅寺筑前)に攻められ敗死する。この前森蔵人の謀反は、武藤義氏の圧政と義光の策動が要因となったものだという(注34,35)。義氏の後継には丸岡兵庫義興が迎えられたが、それで庄内の争乱が収まったわけではなかった。天正十二(1584)年には義興・東禅寺らが上杉氏に接近し、臣従する意思を伝えている(注36)。対して、義光は天正十四(1586)年一月に、東禅寺筑前へ氏家守棟が庄内に出馬する予定であるという内容の書状を送っている。

  史料�察\儀郤憩�付最上義光書状(注37)
   急度□啓之候、(中略)我々為代官氏尾[欠所]之条、(中略)
   夫迄之儀、餘日有間布候得共、先以人数少々可相下之由、
   氏尾へ申付候間、少勢之事者、近々可致下着候、定具成儀者、
   従氏尾所可被及□候歟、其内之儀、追々後軍可相下之条、
   可心安候、(後略)
   正月七日  義光(鼎形黒印)
     東禅寺筑前守殿へ

 「先以人数少々可相下之由、氏尾へ申付候間」とあるように、ここでも、守棟は義光の命を受けて庄内へ軍勢を送る差配を行っている事を読み取ることが可能で、「代官」と合わせて考えれば、庄内方面経略の大部分を守棟が担当していたと考えてよいだろう。『奥羽永慶軍記』によれば同年五月に仙北小野寺氏との間に抗争が起こり、その陣立ての中に「氏江尾張守」の名がみえているが、武藤義興が家臣に対し藤島城防備の勲功を賞している(注38)し、同年冬には伊達政宗の仲介により最上・大宝寺の間に和議が結ばれていることが確認される(注39)ことから、最上家と武藤氏との間に実際に戦闘が発生している可能性は高い。史料の信頼性を考慮すれば、氏家は仙北ではなく庄内へと出陣したとみるのが妥当であろうか。
〈続〉

(注32) 『山形県史 古代中世史料1』
    筆濃余里所収文書 菊月二十一日付来次氏秀書状写
(注33) 『山形県史 古代中世史料1』
    湊文書 十一月廿五日付氏家守棟書状
(注34) 『来迎寺年代記』
(注35) 『山形県史 古代中世史料1』
    別集奥羽文書纂所収文書 卯月一日付最上義光書状
(注36) 『山形県史 古代中世史料1』
    上杉家文書 卯月廿八日付武藤義興書状
(注37) 『山形県史 古代中世史料1』
    大塚甚内氏所蔵文書 正月七日付最上義光書状
(注38) 『山形県史 古代中世史料1』
    高坂文書 天正十四年五月二日付武藤義興書状
(注39) 『山形県史 古代中世史料1』
    雑纂諸家文書所収文書 十二月二日付伊達政宗書状


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(11)】


 それでは、この文書に見える「敵」というのは誰の事であろうか。当時庄内に勢を張っていた武藤氏は、最上家に対して敵対的な立場を取っていたが、天正十年には由利地方侵攻を企図していた(注29)と同時に、村山郡へ軍事行動を行う動きを見せた(注30)。義光は、その対応として「庄中へ鮭延典膳さし越」そうとしたのであろうが、前年に最上家へ服したばかりの地域であったから、諸国人達、あるいは地侍連中が一枚岩であったかというとそうではないだろう。依然として武藤氏は強大な勢力を誇り、加えて三月の時点で氏家が山形へと帰陣してしまっていたとすれば、最上家の影響力が薄れ、国人領主らは自力救済の論理を盾に武藤氏に与する可能性も十分に考えられた。かかる情勢の中で、武藤氏は漫然と軍事行動を実行しようとしたとは考えにくく、恐らく周辺の中小勢力に揺さぶりをかけ、煽動しようとした可能性が高い。事実、大江一族の白岩八郎四郎が武藤氏に内通して反乱を起こし、鎮圧された様子が義光から安東愛季へ対して同年十一月に連絡されている(注31)。この白岩八郎四郎と同様な反乱が、小規模ながらも真室地方でも発生したのではなかろうか。義光はこれを重く見て、「敵」いわゆる煽動に乗った中小勢力の反乱を鎮圧し、また武藤氏の来襲に備えさせる為、その指揮を取らせることを目的として氏家を差し向けたと考えられようか。

 以上をまとめると、氏家は天正九年、最上地方に義光の名代として赴いたとはいえ、鮭延氏ら国人衆に対する影響力はさほど強いものではなく、国人衆やその陪臣達に対する加増・減封等強大な権限を付与されているわけではなかった。安堵された国人達の領地も、国人領主達の自主申告で刈高を把握するのが精一杯といった所ではなかったろうか。さらに天正十年においての真室下向は、「代官の為」と書状にはあるが、実際に鮭延氏や清水氏の領国統治を代行した訳ではなく、単に最上地方の軍事指揮権掌握を限定目的とした派遣であったことが想定されるのである。
〈続〉

(注29) 『山形県史 古代中世史料1』
    田川八幡神社文書 四月三日付武藤義氏書状
(注30) 『山形県史 古代中世史料1』
    秋田藩家蔵文書 七月十二日付武藤義氏書状
(注31) 『山形県史 古代中世史料1』
    湊文書 霜月廿五日付最上義光書状


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【氏家守棟(10)】


 前述したように、天正九年の五月には、鮭延氏が最上氏に対して抵抗しており、それに対して氏家守棟が村山郡へ派遣されたのは確実である。史料�犬鮑瞳任靴茲Α�

 史料�検‥契偽綰�五月二日付 最上義光書状(注19)
  鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、
  其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
  今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、
  依之態計我々着候着物並袴指越候、一儀迄候、
  將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、返々無用候、
  彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、万々期後音之時候間、
  早々、恐々謹言、
      天正九
        五月二日   義光(鼎形黒影印)
       庭月殿

 と、庭月氏が最上家に味方した事を謝すると共に着物・袴を贈っている。「細々氏尾所へ被罷越可然候、万々期後音之時候間、」とあることから、氏家は庭月氏をはじめとした最上方の国人衆と談合しつつ進攻しており、軍事指揮権においても国人衆より上位の存在であると推察できる。鮭延氏の他に、周辺には清水氏・日野氏らの国人達が割拠していたが、清水氏は元来最上家との繋がりが強く、既に清水勢は最上氏の指揮下にあったと見ていいだろう。新庄の日野氏は、天正二(1574)年の最上家相続抗争の段階では反義光方の旗色を鮮明にしており、武藤氏の強い影響下にあった時期もあるが(注26)庭月氏とほぼ同時期に最上家に臣従したと推察される。あるいは、日野氏懐柔に当たったのも氏家であったろうか。直接的にその事実を示す史料は見当たらないが、その可能性も少なからずあるように思われる。
 
 清水氏・日野氏・庭月氏ら周辺在地領主が最上家の傘下に降った事により、鮭延氏は孤立した。五月中には、最上家に降伏している事が確認される(注27)。その後、氏家は当地に留まり戦後処理を担当したと考えられるが、翌天正十年三月に発給された武藤氏侵攻に対応して庭月氏へ宛てた最上義光書状を参照してみると、

 史料��(注28)
  庄中へ鮭延典膳さし越候処ニ、手まへ無人数のよし申候間、
  其方之事者彼仁ニさし添、何分ニもよき様ニ談合申被候て、
  いけんニまかせられ、本意のとりなし此節可相極候、
  吉事重而、恐々謹言、
     三月廿二日  義光(鼎形黒 印影)
       庭月和泉守殿

 文面を見る限り、氏家が当地に滞在しているならば当然無ければならない「氏尾と相談」という文言が無く、「鮭延典膳と談合し」対処せよ、と解釈できることから、天正十年三月段階では氏家は村山郡にはおらず、山形へ戻っていた可能性を指摘できよう。

 天正十年四月に発給された書状にも、

 史料�后 ̄�月十日付 最上義光書状(注21)
  今般鮭延為代官、氏家尾張守相下候、依之自御正印之來札、
  喜悦令存候、彼地之事少敵之儀候間、
  無幾程可勝手意事眼前候、爰元無心元有間敷候、
  右細事氏家尾張守委細可申越候条、不能詳候、心事期後音許候、
  恐々謹言、
  追而、早速一左右ニあつかり候、悦喜此事候、以上、
      卯月十日  義光(鼎形黒印)

「今般鮭延代官の為、氏家尾張守相下候、」とあるように「改めて」氏家を最上に向かわせていると読み取れる。
〈続〉

(注26) 『山形県史 古代中世史料1』
    歴代古案所収文書 八月十六日付武藤義氏書状写
(注27) 『山形県史 古代中世史料1』
    経眼古文書所収文書 梅月十九日付最上義光書状
(注28) 『山形県史 古代中世史料1』
    楓軒文書纂所集文書卯月十日付最上義光書状


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【氏家守棟(9)】


 天童城攻略から間を置かず、義光は谷地の白鳥氏、寒河江の寒河江氏を攻めて西根筋を領国化した。根本史料は存在しないが、白鳥氏と寒河江氏宗家は討滅されたとみえ、寒河江氏の旧領には寒河江氏庶族の寒河江外記・寒河江肥前らが登用されて配置された(注23)。谷地・溝延・左沢のほとんどは最上氏の蔵入地になったと推測される(注23)。

 さらに下って天正十五(1587)年には、義光は庄内へと進攻し、武藤義興を自刃させた。義興の養子である義勝は実父の本庄繁長を頼って落ち延びた。その後、庄内の統治は在地領主の東禅寺筑前が中心となり、最上家臣の中山玄蕃と談合して統治する状況となった。

 以上のように、最上氏が他勢力を攻略した際には、谷地、小国のように徹底的に討滅され義光の蔵入地ないし直臣の知行地となるか、既存勢力の領地を安堵し、最上氏領国に取りこむという形をとっていた。もちろんこれは最上氏のみに見えることではなく、当時としては一般的な領国化政策であったわけだが、これは同時に、最上家が在地勢力とその領地とのつながりを完全に否定しえなかった事を意味する。
 それでは、天正九・十年における最上地方はどうであったか。
 当時の鮭延氏、あるいは清水氏の領地支配体制を知りうる直接の史料はないが、慶長期に記された「鮭延越前侍分限帳」(注25)あるいは「清水大蔵大輔分限帳」(注25)をもって推察する事が可能であるように思われる。「一 知行高千石 平岡館主 柿崎能登守 … 一 同千石 庭月館主 佐々木理右衛門 … 以上一族並館持衆老臣也」とあるように、これを見る限り鮭延氏は慶長・元和段階に至ってもなお領地内に有力陪臣達の城館を有しながら領国支配を行うという体制にあった事が把握できる。清水氏も同様の傾向が見られる。慶長・元和段階においてすら極めて戦国的な支配体制を引きずっていた状況であり、最上氏領国となった天正九・十年当時の鮭延領・清水領と大して変わりの無い支配体制であったのではないだろうかと推測される。

 以上を踏まえて、村山郡における氏家守棟の動静に注目したい。天正九(1581)年には真室一帯が最上氏により領国化され、翌十年には武藤氏の侵攻にさらされたこの地域で、氏家は最上義光の「名代」としていかなる影響を及ぼしていたのだろうか。
〈続〉

(注25)『新庄市史』

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【氏家守棟(8)】


 天正九(1581)年のなかごろ、鮭延秀綱の帰順によって村山郡一円は最上氏の領国となった。当時の最上地方は、清水(現在の大蔵村)に清水氏、小国(現在の向町)に細川氏、新庄に日野氏そして真室に鮭延氏が割拠し、それぞれに勢を張っていた。加えて、東に大崎氏、北に小野寺氏、西に大宝寺武藤氏という大勢力が控え、最上地方の情勢は極めて不安定だったといえるだろう。このような状況下で、鮭延氏を帰順させた後も同地に留まり「代官」として最上義光の名代を務めた氏家守棟は、同地を統治するにあたりいかなる権限を義光から付与されていたのだろうか。
 
 検討に入る前に、最上義光が抵抗勢力を攻略し、最上氏領国とする時に取った過程を簡単に把握したい。なお、ここでいう「領国化」は、義光が蔵入地として直轄統治するか、もしくは在地勢力の所領を安堵して広義の軍役を課した状態と定義する。

 義光が家中の内訌を制して、対外的な軍事活動を本格化させるのは天正五年の天童氏攻めである。天童城はすぐには落ちなかったようで、義光は天童頼貞の娘を側室として迎え、天童氏と和睦した。和睦により天童八楯との関係を一時安定化させたことから、北進戦略を選択することが可能となった義光は、天正九年頃には村山郡(現在の最上地方)の攻略に着手している。まず小国城の細川直元を攻めた最上勢はこれを破り、滅亡させたという(注22)。細川氏がいかなる人物であったかを示す史料は伝わっていないが、天童氏の姻戚だったようで、天童氏の影響力を背景に小国一帯を支配していた在地領主であろう。その後の小国城主の座は蔵増安房守に与えられ、その後蔵増氏は小国姓を名乗った。

 天正十(1582)年に至ると、天童夫人が死去したため、天童氏との和睦が自然消滅する状態となった。義光は天童氏を中心とする国人連合の切り崩しを企図して、延沢満延の嫡子又五郎に息女を嫁がせ、延沢氏を最上家勢力に取り込んでいった。連合からの延沢氏離脱を契機に、義光は天童方についた諸国人を攻略していく。東根城主の東根頼景は天童頼久の実弟であったが、家臣里見源右衛門が義光に内通し、最上勢を手引きして東根城を急襲し、頼景を襲殺した。その後東根城は里見源右衛門に与えられたが、東根氏の所領はそのまま源右衛門へ安堵されたようである(注23)。天正十二(1584)年には天童城も落城していた模様で、天童頼久は国分氏を頼って落ち延びた。その後、天童城には城将を置かず、延沢氏の預りになったという(注24)。天童氏の旧領は、最上家の蔵入地と、家臣の知行地が混在した状態になっていたと推測される。
〈続〉

(注22)『奥羽永慶軍記』(山形市史 史料編1 最上氏関係史料)
(注23)「最上義光分限帳」(同上)
(注24)『山形県史 1』


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関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【三 幕府開設の頃】

 慶長八年(1603)三月廿一日、徳川家康は将軍宣下御礼のため上洛[注1]、征夷大将軍に任ぜられる。この時の参内行列の中からは、義光の姿は見出だせないが、公家の日記などにも「神君征夷大将軍宣下之刻三月伏見へ参上」とあり、義光も家康の上洛に付随していたことが分かる。伊達政宗も正月から在府しており、江戸にいた嗣子忠宗も、伏見にて家康に御目見を果たしている。上杉景勝は米沢に在り、この二月から江戸桜田屋敷の普請が始まっている。
 この家康の将軍宣下に係る一連の行事の中で、公家・諸大名達を二条城に招き、能楽を饗したのは四月四日のことで、そこには義光の姿もあった。

四月四日庚寅、霙、八時分雨、殿中御能有之間、冷同道、早朝ニ参了、辰下刻、先朝有之、事済々事也、次大樹(家康)御出座、次相伴衆各被参了、……出羽侍従、最上…(欠字)等、下之段足付也、[注2]

 そして、家康が京・大坂での行事を済ませ、伏見を発し江戸へ向かったのは十月十八日である。義光の四月以降の行動については定かではないが、この年の八月に国元で起きた嫡子義康暗殺事件に、注目せねばならないだろう。義光のこの時期は国元に在ったであろう。
 『筆濃餘理』などに、義光が庄内の狩川館主の北館兵部に宛てた書状がある。
 
近日庄内へ下向間、其本之路次中宿等之儀、無油断可申付候、日限之事重而申遣候、恐々謹言
 六月十日   義光(花押)
  北館兵部少輔とのへ
  同 大学とのへ
 
 この書状は、義光の庄内下向の日時と警護の打合わせに関わるもので、これは鶴岡城普請に際しの義光の鶴岡入りとして、慶長八年(1603)頃ではとしているので、これが事実とすれば、義康暗殺事件に極めて近接した時期であったろう。翌九年八月、松前藩が幕府へ鷹献上に際し、その通行手段としての駅伝の朱印を受理している。その際に経路の諸大名に宿泊や餌などの便宜を計るべく「奉書[注3]」授けている。その大名の中に義光の名
が見えることから、義光の在府していることが分かる。
 また徳川家に近侍の次男の家親は、秀忠の嫡子竹千代(家光)の三七夜の席に招かれているのも、この八月のことであり、家親を通して徳川家との親密さの一端を伺うことができる。
 慶長十年(1695)四月、家康は将軍職を秀忠に譲る。秀忠は将軍宣下を受けるため上洛、二十六日の参内行列の武者達の中に義光の姿もあった[注4]。この年の正月末は暖気、二月三月旬共寒、中でも十二、二十三日比打つつき、三度大霜、草木為之凋、というような極めて不順な天候の中での上洛であった。その行列を覗くと四番手の位置に義光の姿があった。そして、秀忠の新将軍としての上方での諸行事を済ませ、上洛した諸大名達に暇を与え帰国を許したのは、五月十一日のことである[注5]。
 このように、東北の大名達も帰国を許される中で、義光の京を離れたのはいつ頃であったろうか。在京中の三月二十二日と翌月の二十四日に、義光は公家の舟橋秀賢の来訪を受けている。秀賢は明経家学の継承者として、当時の天皇・公家を始め多くの武家衆とも交遊を持ち、家康とは役儀のみならず頻繁に交遊を重ねていた。連歌の素養もあり、禁中、公家間での連会などにも度々顔を見せている。義光との出会いについても、その日記『慶長日件録[注6]』に詳しい記述がある。この日記から、義光が連歌や書を通し、公家との交遊関係の一端を知ることができよう。そして、京での私的な面での日々を持ちながら、帰国の途に就いたのはいつ頃であったろうか。この年の五月十二日、下対馬守と志村伊豆守を従え、金峯権現に参拝したというから、それまでには帰国したものと思われる。
 併せて、この秀忠の上洛には家親も付随している。そして、従五位下・侍従に叙任したのはこの時である。これは秀忠の将軍就任に伴うもので、池田・前田・細川・最上という、関ケ原戦で積極的な働きを見せた大名家に限り、いわば功賞のひとつであった。
■執筆:小野末三

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[注] 
1、「義演准后日記」(『大日本史料』12編之l)
三月廿一日晴、今日、将軍家康上洛、帰路見物驚目了、来廿五日、将軍宣下御礼ノ参内、
2、「言経卿記」(『大日本史料』12編之l)
3、「松前文書」(『大日本史料』12編之2)
4、『寛政重修諸家譜』
十年台徳院殿御上洛に供奉し、四月二十六日将軍宣下の拝賀として、御参内の時も扈従す、
 「慶長十年御参内行列記」(『大日本史料』12編之3)
盛大な行列の最後尾の八番・塗輿之衆の中に、伊達、秋田氏などの中に、最上侍従の名がある。
5、『当代記・巻三』
此比今度上洛之関東衆、依将軍仰、先立手思々下国、十五日、将軍家関東下向、
6、「慶長日件録」(『史料纂集』)
廿二日、伏見へ右幕下御見廻ニ行、御対面也、次右府(家康)公へ参、御対面有御振舞、次最上殿(義光)へ行……廿四日……午刻御取置ニ参内、次大樹へ参、次最上義光へ行、有晩喰、古今古本被見之、