最上義光歴史館

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最上家信奉納の神馬図 

 天童城本丸趾に建つ愛宕神社には「慶長八年(1603)菊月」の棟札があったとされるが、今は所在が確かめられない。その後、寛文年間に暴風のため社殿が破壊し、現在の建物は延宝六年(1678)に再興されたと伝える。
 当社に山形最上家の最後の城主、家信が奉納した紙本金地着色の神馬図一幅が伝わり、天童市の文化財となっている。


紙本金地著色「神馬図」 天童市・愛宕神社
写真提供:天童市美術館

縦188・0センチ、横212・0センチとたいへん巨大である。構図が似ていることが指摘されている若松寺(天童市)の郷目貞繁筆の絵馬よりも大きく、最上家の当主の奉納品としていかにもふさわしい。図には「奉納/馬形/一疋/為諸願/成就/(欠失)/九月二十四日 家信」という墨書があるが、肝心の年号部分が欠損している。裏面には「慶(カ)□□四年酉九月□四日/□□源五郎家信自筆/愛宕社奉納」と記された後世の貼紙があるが、当然のことながら絵馬から掛軸に改装した後のものである。慶長十四年が酉年にあたるが、家信はわずか四歳でしかなく自筆という文言と矛盾する。箱に「御宝物最上出羽守少将義光公御真筆」と書かれた板が打ち付けられているので、義光存命中の年号にしようとする意図的なものが感じられる。



 『山形市史』は奉納年次を元和六年(1620)としている。同じく家信が奉納した山形市内の日枝神社の絵馬に「おさめたてまつる馬形三疋/元和六年十月十六日 家信」と記されているのを参考にしたのだろう。日枝神社の絵馬は猿が馬を曳く様子を描いた珍しい図で、猿が描き加えられているのは日枝神社の使いが猿だからである。また、猿は厩を守るとされている。
 厳密に言えば、奉納の年は家信の在国期間を点検したうえで結論を出すべきである。なぜ在国中に限るかと言うと、江戸から送り届けたのでは藩主が奉納した効果が薄らぐからである。以下では『山形県史』史料編の「金石文」の項に集められた、家信による造営、寄進史料をもとに在国期間を考えてみた。あわせて、小野末三氏による綿密な考察「山形藩主・最上源五郎義俊の生涯」を参照した。
 最上家信は元和三年三月に父の最上家親が死去したニカ月後に、わずか十二歳で家督を相続している。当時の習慣では大人として認められるぎりぎりの年齢であった。江戸で生まれ育った家信は相続後なるべく早く国の家臣らに顔を見せる必要があった。家信の若さに不安があったのか、幕府は元和四年九月に最上領検使として榊原左衛門をさし向けている。おそらく、それまでに家信は帰国していたはずである。
 家信は帰国するや領内安定を願って矢つぎばやに各地の神社を再興している。元和四年七月に鳥海大権現薬師堂と遊佐町の蕨岡大物忌神社を再興し、八月にはかねてから進行していた慈恩寺本堂落成法要を執り行ない、九月には酒田市の亀崎八幡神社を再興している。また、致道博物館に伝わる擬宝珠には「羽州鶴岡垂虹従山形三日町橋令造立之畢 元和四戊午年霜月吉辰」の銘文があるので、これも家信の助力によるのであろう。
 このほか『神道体系 神社編』に収録されている羽黒山本社東之坊早鐘銘には「元和三年五月廿八日」の年紀と、「国主時代源朝臣家信公」という耳慣れない文言が記載されている。五月は相続直後にあたるので、父、家親の事業を受け継いだのであろう。もう一つ、西之坊勤仕鐘銘として「元和四年林鐘(六月)吉日」という年紀とともに「国主源朝臣家信公」と記載されている。ここから元和四年の六月から十一月まで造営事業が連続していることがわかる。家信は相続後一年ほどたった六月までに帰国して検使を迎え、在国中に新しい藩主の威光を示そうと、もろもろの造営にいそしんだのであろう。
 家信は翌年の正月は山形で過ごしている。『梅津政景日記』によれば、元和五年二月に秋田藩主が参府の途中、天童にて家信より贈り物を受けているからである。三月の細川忠興書状には「東奥の衆すみやかにのぼらるの由」とあるので、やがて家信も江戸に向かったのであろう。五月には秀忠上洛につき江戸留守居役を勤め、六月には取り潰しとなった福島正則の江戸藩邸の接収にあたり、功績をあげている。
 ところが翌年の元和六年三月になって幕府は再び監視役を山形に派遣している。「家士など相論おだやかならず。家信、放逸、淫行をほしいままにして、家臣の諌めを用いず。」という理由からだった。『徳川実紀』の同年九月十二日の条には、家信が舟遊びの挙げ句に大名という身分でありながら船頭と争論した、という不名誉なことが記録されている。ただし、同年七月から九月にかけて江戸城普請に携わる家臣らを労う家信の書状(山形市史・史料編1)が存在することによって、この時には家信が山形に在国中だったことが明らかなので事実はともかく、時期については誤りとしなければならない。
 元和六年には元和四年と同じように家信の神社への寄進、造営が連続している。おそらく、家臣間の不和を静めようとする願いがこめられていたのだろう。十月には先にもふれたが日枝神社に絵馬を奉納し、十一月には鶴岡市湯田川の田川八幡神社、十二月には飽海郡八幡町の一条八幡神社を再建したことが棟札によってわかる。いつまで在国していたか不明だが、翌年の元和七年五月の銘がある伝山形城大手橋擬宝珠(酒田市佐藤家)が存在することや、大沼浮島神社の石灯籠に「羽州最上山形源五郎源家信 元和七辛酉年六月吉日」の銘があることから、元和七年六月までは在国していたようだ。
 『梅津政景日記』によれば、元和七年十月十三日に佐竹義宣は江戸城での茶会のため家信の招待を断っているので、それまでには江戸に戻っていた。佐竹義宣は翌年の元和八年三月の書状で、最上家信の町屋での傾城狂いと酒乱による不行跡を伝えており、八月になってついに所領の没収が決定した。十七歳だった家信はわずか一万石に改易され、近江に転封となった。
 一般には家信が義俊と改名したのは改易後とされるが、元和九年閏八月十三日付け慈恩寺別当宛書状に「最源五家信(花押)」とあるので、改易後もしばらく家信を名乗っていたようだ。改名の時期はまだはっきりしていないが、翌年二月に寛永と改元されているので、このあたりが改名のきっかけになったかもしれない。愛宕神社の絵馬は改名前の寄進ではあるが、改易後とは考えにくい。諸社への寄進は元和四年六月から十一月までの間と、六年十月から七年六月までの間に集中している。ただし、『神道体系』の羽黒山の部には「藤松丸木像」の銘文として「国主時代山形源朝臣家信公 干時元和八稔卯月吉日」という意味の取りにくい記載がある。これをも含めるならば、改易直前の元和八年も範囲に入れなくてはならない。
 本図は26・5センチ四方という日枝神社の絵馬とちがって規模がきわめて大きいことを考えると、初めて入国を果たした元和四年(1618)の可能性を考えてみたくなる。奉納日の直前の九月十二日に幕府の最上領検使を迎えていることもその心証を強くする。「諸願成就」の中には検視が無事終わることを願う意味もあったのかもしれない。絵馬は九月に奉納されている。上述のように家信が九月に在国していたのは元和四年と六年である。七年の可能性もまったくないわけではないが、除外してもよいだろう。
 奉納先の愛宕権現は火除けの神でもあるが軍神でもある。愛宕権現は武神らしく馬に乗る姿をしている。そこに巨大な絵馬を奉納して、入国早々に家臣らに君主としての意気込みを見せようとしたのだろう。たまたまかもしれないが、元和四年は午(うま)年にあたる。だが、日枝神社に猿を描いた絵馬を奉納した同六年が申(さる)年だったことを考えると、単なる偶然とも思われない。ここでは元和四年を奉納の年と考えておきたい。
 この絵馬からは初めて領国と家臣を目にする、年若い大名の心の昂ぶりが感じられないだろうか。図は、白地に茶色の横縞が入った小袖に緑色のたっつけ袴を穿き、紐を足首で結ぶ皮足袋に草鞋履きの若者が手綱を強く引いて、はやる馬を抑えながら駆けて行く光景である。形式的な図がほとんどの絵馬の中にあって他には見られない躍動感がある。口取りを画面中央馬体の前に配して馬よりも強く印象づけようとしており、風俗画としても見ることができる。腰に結んだ赤い帯に差した脇差は印籠刻鞘風の拵で、金色の盛上げ彩色が施されている。若者の月代を剃らずに頭部全体の髪を短く伸ばした髪型と、南蛮風俗を意識したものだろうか、首の回りに認められる鋸歯状の襟飾りが印象的である。



 風俗や馬の表現からすると家信の署名がなければ、この図はおそらく寛永期以降の作とみなされるだろう。だが、本図が元和四年(1618)の作であるならば、従来、寛永期とされていた風俗画、代表的な作品をあげれば国宝の「彦根屏風」などを、元和期にまでおし上げる有力な根拠となるだろう。その可能性についてはすでに『風俗画の近世』(至文堂 日本の美術)において指摘したことがあるが、本図の存在を知ってその意をいっそう強くした。
 元和期の作とはっきりとわかる絵画は少ない。元和五年の建物に描かれた旧円満院(現在は京都国立博物館)障壁画中の風俗画は、慶長二十年(1615)に描かれた名古屋城対面所の風俗図の系統を引く。従来は、十年間におよぶ元和期は慶長期の尻尾のように扱われてきた。最近、狩野博幸氏によって紹介された元和六年の東福門院入内行列を描き加えた「洛中洛外図」屏風にしても桃山時代の作品との区別が難しい。しかし、今後は元和期を寛永期を先取りした時代として二重写しにして見てゆく必要があるだろう。
 『治代普顕記』(『大日本史料』12編47)によれば、最上家信は「平生、遊女傾城にたはふれ、有時は舟をもよおして夜を明かし、有時は居屋敷へ数十人の遊君を招集めかふき躍を事とし」ていたとある。家信が改易された翌年の元和九年に、福井藩主の松平忠直が乱行を咎められて隠居を命じられ、豊後に配流されている。忠直も十三歳で家督を相続し、一国という都の遊女をつれ帰っている。家信と忠直の行跡はぴったりと重なる。松平忠直も最上家信も元和期という、大坂夏の陣の「戦後」という同じ空気を吸いながら、享楽的な日々を過ごした若き大々名であった。
 松平忠直は岩佐又兵衛という希代の風俗画家を世に押し出した。一方、最上家信は自筆の絵馬を残した。本図を日枝神社の同じ白黒斑の絵馬と比較すると、尾の表現や斑の具合から見て同筆と考えられ、職業絵師らしからぬ大胆な筆遣いで描かれているところから、伝承どおり最上家信筆とみなす可能性は十分にある。


杉板金地著色「猿曳馬図」(三面のうち) 山形市・日枝神社

そうであるならば、最上家信は自身の手で元和期の風俗を今に伝えるという、思わぬ功績を残したことになる。

■執筆:宮島新一(山形大学教授/日本絵画史)「歴史館だより�17」より


最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【一 最上氏に仕えていた頃の佐竹内記】

 元和八年(1622)最上氏没落による藩の解体は、それはあの大家臣団の消滅を意味するものである。だが武士の道を捨て難く、新たな主家を求めようと、全国に散っていった者達の数も、決して少なくは無かったのである。
 この羽州最上時代の三種の分限帳から、佐竹姓を拾ってみよう。
 
A[最上義光分限帳]
土佐(物頭・655、7石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 忠次郎(100石) 内蔵允(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(30石) 雅楽助(20石) 宮内(30石) 弥五郎(10石)
  
B[最上家中分限帳]
土佐(物頭・650石) 太夫(400石) 平内(200石) 政右衛門(物頭・520石) 兵内(200石) 源七(100石) 宮内(30石) 右次郎(100石) 喜八郎(100石) 半左衛門(40石) 雅楽助(20石)
 
C[最上源五郎御時代御家中并寺社方在町分限帳]
内記(220石) 大八(160石) 源六(43石) 平内(74石) 宮内(15石) 忠二郎(42石) 喜八郎(47石) 雅楽丞(10石) 長十郎(5石3人) 五左衛門(30石) 半右衛門(16石) 藤右衛門(5石3人)

 以上、最上氏直参の分限帳から佐竹氏を拾ってみたが、これに陪臣として仕える者達を加えたならば、更に多くの佐竹を名乗る者達が居たであろう。この分限帳の佐竹氏の内から、内記と関わりを持つ者が果たして居るのか、その接点を求めるのは困難である。ただ平内とある人物が、後の小泉平内なのだろうか。
 ここで、物頭級の土佐・政右衛門・内記の三人を見ると、A・Bには共に土佐・政右衛門が有るが内記は見えず、Cは内記のみで他の二人は無い。土佐・政右衛門の二人は、Cの最上義俊の代には、もう姿を消していたのだろうか。当時の山形城下を措いた[最上家在城諸家中町割図]には、内記・土佐と別々に屋敷があるが、政右衛門は見当たらない。また城北の郊外の一画に、「佐竹内記下屋敷」と広大な区画が有るが、内記の禄高から考えてみると、少しは奇異な感じを覚えるのだが。
 内記の最上時代の足跡を探し出すのは難しい。元和八年(1622)藩内騒動による藩の解体は、辛うじて近江・駿河の地に一万石を与えられ、何とか大名として息を継げた最上源五郎義俊(家信)であった。   
しかし、この落差の激しい身辺の変化に耐えかねてか、寛永八年(1631)「長々相煩」の中で生涯を閉じることになる。
 この失意の義俊に付随の家臣の内に、内記の姿があった。『最上家譜』や『最上家伝覚書』によると、幕閣に於いて、義俊亡き後の家名存続についての協議が為され際の、最上氏側の代表として、柴橋図書・鈴木弥左衛門と共に内記の姿がある。江戸の大手門前の広大な屋敷を明け渡し、向柳原の下屋敷に移った最上氏であった。江戸を一歩も出ない義俊を支え、藩の運営に携わっていた内記であったろう。
 しかし、義俊の死により五千石の旗本身分となる最上氏が、禄高の半減に伴う家臣団の整理などに伴い、内記も柴橋図書と共に、最上氏を去ることになる。その経緯について『柴橋家由緒書』は次のように云っている。

源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時、壱万石(五千石)被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重而又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、法名花林春松居士佐竹末孫奥平氏山形之城主美作守方有之、

 このように、知行半減の旗本身分の家中に於いては、先ずは家臣団の整理が急務であったろう。柴橋図書と共に最上氏を去った時期は、同じく柴橋氏の記録の[寛永拾一年諸御道具御改脹面人数]の十一名連署の内に、柴橋図書と共に内記の名もあるから、寛永の十二年以後のことであろう。また、この柴橋氏の記録から、内記の子の与二右衛門が、山形藩当時の奥平氏に仕えていたことも分かってくる。
■執筆:小野末三

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最上義光のこと♯4

【義光の戦いぶり】

 戦国時代に生まれ生きた義光は、当然戦いはしなければならなかった。しかし、その戦いぶりには、明らかな特徴が見て取れる。
一つは、人命の損害をできるだけ少なくしようという努力である。もう一つは、降伏した敵の将兵をすべて許し、家臣団に編入したことである。
 上山が伊達と最上義光の間にあって去就に迷っていたとき、義光はあえて武力に訴えなかった。上山の重臣層が内部分裂を起こして結局最上に従った後は、その地の支配を上山里見家の一族にゆだねている。
 ことは天童家(里見氏か)との対戦でも同様である。天童を中心とした村山北部の勢力は同盟して最上に反抗した。義光は軍勢を差し向けたものの、力づくで殲滅しようとはしなかった。同盟の結束を政略結婚で弱体化し、そのうえで攻撃をしかけ、盟主天童頼澄が奥州へ逃亡するのを見逃したのであった。もし義光が天童家を完全に滅すつもりなら、いともたやすい情況だったにもかかわらず、彼はそれをしなかった。
 天童氏が今なお宮城県内に名族として残っている背後にはこのような歴史事実があつたのである。
 金山、真室川の領主、佐々木典勝が、最上に抵抗を続けていたのを、無駄に殺すなという義光の方針で生き延びて、後日最上義光に帰参して一万千石余の本領を安堵された例もある。
 戦って敗れた寒河江一門や、降伏した上杉軍の将兵に対する扱いの寛大さも驚くほどだ。寒河江肥前は、二万七千石(異説あり)という高禄を与えられた。下次右衛門は、降参後は庄内攻めの先鋒とされて功績を賞され、一万二千石を与えられた。
 慶長六年(1601)に、上杉領だった酒田東禅寺城を、最上軍は大挙して攻撃した。城将川村兵蔵、志田修理亮らは死力を尽くして戦うが、及ばずして降伏する。山形にいた義光は、降伏したものが最上家に仕えるならそれもよし、会津に帰るならそれもよしとした。まことに大らかな扱いだ。両将は、この扱いに感謝しながら素直に上杉家にもどつていく。
 よく知られている白鳥十郎誘殺事件。これなどは、もし戦えば惨憺たる大戦になるところを、トップを討ち取るだけで済ました、という見方をすれば、残酷とか非道とかいうには当たるまい。多くの民衆にとつては、このほうが遥かにありがたいことだった。
 なお、そのときも白鳥家の重臣(一門のものも含むか)は許されて現地の有力者となった。現にその子孫といわれる家が存続しているのは、何よりの証拠といってよいだろう。
 ちなみに白鳥十郎をだまし討ちにしたときの血飛沫が散った桜樹が「血染めの桜」であるという、広く知られた物語は、江戸時代、明治時代を通して、山形の名所名木ないし物語としてまったく記録されたものが見当らない。明治最末期の明治四十四年『山形県名勝誌』、四十五年『山形略記』にもなく、私が見たかぎりにおいて、大正五年発行の『山形市誌』が最もはやいものだ。
 その前後から、「血染めの桜」はその他の印刷物にも取り上げられるようになったのであろう。
 更に兵営内で生活を送る兵隊たちは、上官から士気を鼓舞する趣意で繰り返しこの話を聞かせられたはずだ。「連隊にいるときよく聞かされたものだ」と語る人が、しばしばある。兵隊は、除隊して家に帰るとそれを親類知人に語って聞かせる。こういうことが終戦までの約三十五年、入営、除隊の度に継続されたために、あたかも史実であるかのように「血染めの桜」は、民間に広く深く行き渡ってしまったのだろうと、私は推定している。
■■片桐繁雄

つづく
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※「血染めの桜」は山形城二の丸(現霞城公園)にあった桜の老木。昭和32年に倒壊。明治31年から山形城二の丸には歩兵第三十二連隊が駐屯し、「血染めの桜」は連隊のシンボルとされ、その老木の前に連隊旗が安置されて、一般市民にも拝観が許されたという。

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (9)】


 庄内統治の実情を家老等の持つ権限という切り口で見てきたが、以上確認してきた事実関係から一歩押し進め、仮説とするとしたら以下のようになるであろう。
 庄内の各地は志村・新関といった譜代直臣や、新しく直臣層へと取り込んだ下対馬へと与えられた。進藤・原ら家老達は、志村光安ら各城主の配下として庄内の民政・警察権の管轄という実務を取り仕切ってはいたが、最上家内での立場は最上家から直接知行を受けた義光の直臣であった。つまり、庄内は山形から離れてはいたが、支配の中心は最上家直臣層によって行われていたのである。また、城主達も、各々連絡を取り合い、最終的な決定権を所持していたと考えられるがそれはあくまで庄内に限っての事であり、城主・家老それぞれ制限を受けた上で領国支配を行っていたように見うけられる。庄内衆の中でも最大の知行高を持ち、最上家中でも大身の部類に入る志村光安とてこれは例外ではなかった。

 また、これらは、最上義光自身の意向が庄内支配へ大きく影響していたことを想起させ、進藤ら中級家臣が実務を遂行している点は、他藩に見られるような中低級家臣の藩政参画のテストケースとも捉えられるのではなかろうか。このような義光のコントロールは、大学堰を始めとした新堰開削と、慶長十六(1613)年から翌十七年にかけて行われた庄内・由利検地に象徴される。

 北館大学が義光に願い出て、志村伊豆守などが反対したものの義光がゴーサインを出し始まった新堰普請は、反対した志村が担当する区画の遅れが目立つなど当初進展が捗々しくなかったらしい。そこで北館大学は再び義光に申請し、自らの裁量で工事が進められる事となった。この工事には、庄内・由利全域より人足が徴発された。その割り当ては各々二十石に一人の割合であり(注29)、この普請が最上家内での軍役の一つであること、従って義光主導の元進められたことは明確である。

 最上家が庄内・由利を拝領して十年経った後に行われた検地は、一つに幕府による軍役負担の増大、第二に新田等低年貢地の年貢増徴、第三に新田開発による地主層の地位の相対的低下による検地の実施容易化を背景に押し進められたものだった。この検地に奉行として従事したのは、志村や本城といった大身の城主層ではなく、庄内河南は日野備中、河北は進藤但馬、由利は日野・進藤両名の千石前後を知行していた最上直臣達で、さらに請取役(点検役・実質責任者)はいずれも高三百五十~五百石の最上家中堅家臣であり、これら直臣を運用し総指揮をとっていたのは最上義光自身であったのである(注34) 。
<続>

(注34) 井川一良「最上氏慶長検地の実施過程と基準」
(『日本海地域史研究 第11輯』日本海地域史研究会 1990、初出は1983)


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (8)】


 このように、庄内の統治に関する実務の多くは進藤・原らが行っていたように見うけられるのであるが、対して、志村や新関ら城主達が直接庄内の統治に関わったことを示す書状史料は少ない。慶長八(1603)年に志村光安が飛島及び沿岸諸村の雑税を徴収している(注20)が、前述したように慶長十三年段階に進むとその役割は進藤但馬が果たしている(注30)。また新関因幡に関しても、永田勘十郎に預けていた米を売却したい旨を永田へ申し送った書状が見られる程度であり、残存している書状史料は少数である。だが、直接統治に関わった史料がほとんど見られないから城主達の権限は小さいと断定するのは誤りであろう。実務の多くは家老達が実行していたといえども、抱えた案件を「次右衛門殿申上」たり、「即伊豆守に申きかせ」たりしている訳であるから、もちろん義光が介入しない限り最終的な決定権は城主達が握っていたと見てよい。また、北館大学に宛てた最上義光書状でも、

   昨日朔日ニ大志田下候、為知候ハんためニ態書状越候、態書状越候、
   明日三日ニハ清河へ可下候間、此等之段志村伊豆・下治右衛門方へ、
   無嫌夜中可申断候事候、恐々謹言
      七月二日         義光(花押)
          北館大学とのへ (注32)

 と、内容は不明であるが、義光は重要な事であるから夜間を厭わず志村・下らへ伝えよと北館大学へ申し送っている。このように、重要な案件は城主同士が通達し、決定していたであろうし、また連携も密であったと考えられる。さらに、由利の岩屋右兵衛へ米の輸送に関して言及した書状を差し送っている(注33)し、笹子山落事件の際も本城(当時は赤尾津)満茂の報告を「上様」つまり山形に差上げ、その返答を中継しているのである。由利地方との交信は志村伊豆守の役割であった。
<続>


(注32) 「本間美術館文書」七月二日付最上義光書状
(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注33) 「秋田藩家蔵文書」八月十七日付志村伊豆守光安書状
(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)


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最上義光のこと♯3

【「悪人」義光を定着させたもの】
 
 義光についての評価が大きく変わったのは昭和四十年代、きっかけとなったのは『山形市史』である。この浩瀚な通史は、戦国奥羽の諸侯のなかでもリーダー格であった義光を、まことにつまらぬ人物として叙述した。
 『市史』では、中世末から近世初期における義光時代に多くのページを割き、多方面にわたる彼の業績を紹介しながらも、義光の人間像については、傲慢で残忍、冷酷、一族を根絶やしにし、謀略をこととし、権威におもねる人物というような性格づけで貫いている。
「義光の強引にして不遜な態度には義守も怒り」(中巻 近世編 P8)
「義光は武勇のみならず、謀略にも長じ…」(中巻 近世編 P18)
「ここに義光は、残忍とも言える態度で、一族等の根絶やしにかかった。」(中巻 近世編 P13)
「谷地を屠った義光は、勢いに乗じて川西地方の掃討を断行した。」(中巻 近世編 P22)
 文章記述だけでなく、「義光の追従外交」(中巻 近世編 P37)という見出しを設けて、豊臣・徳川に臣従したのは義光の権威にへつらう「追従」であるとした。だが、そもそもこの時代はどこのどんな大名にしても、豊臣や徳川に反抗できる情況ではなかったのだ。
 このような文言でもって、義光の人間性を、俗な言い方をすれば、引きずりおろしてしまったのであつた。
 昭和五十二年に山形城址に義光像を建立しようとしたとき、文化人の間からは猛烈な反対運動が起きた。
 「血で血を洗う武力闘争と、権謀術数でもって地域を制覇した最上義光のような人物の銅像を、平和都市山形の市民憩いの場に建てるとはなにごとか。」
 反対者の意見はつまるところ、こういうことだった.
 そしてそれは、ほかならぬ 『山形市史』が作り上げた義光の人間像を、鵜呑みにした考え方だった。
 『市史』が信頼すべき公的出版物として大量に発行され、全国の都道府県や大学の図書館に頒布されたのだから、戦国時代を研究する人たちや、戦国に主題をとる文筆家は、たいていこれに従うこととなる。
 「羽州の狐」「狡猾無慈悲」「冷酷残忍」式の枕詞が義光を形容する言葉となった。某女流作家などは 「私のもっとも嫌いな人物」と一刀両断するにいたる。
 本来なら客観記述を要請されるはずの歴史辞典でさえ「冷酷、最上義光」を潜めた記述になっているものがあって(戦前発行の辞典類はそうではない。)、『山形市史』の影響の根深く強いことに驚いてしまう。
 だいぶ前のNHKの大河ドラマ『独眼龍政宗』では、主人公政宗に光をあて、彼を愛すべき尊敬すべき大人物とするために、対照的な役まわりにされたのが最上義光であった。時には競争相手となり、時には敵対して小競り合いを起こしたこともある義光が、その損な役にされたのも、劇の構成上は仕方がなかったのかもしれない。
 しかし、多くの人は、このフィクションを、史実であるかのように受け取ってしまった。
 「山形の殿様最上義光とは、あんなふうに陰気で残忍な、暗い人間だったのか。そうだったのか。わかった。」
 多くの人がそう思い込んでしまったところがある。そして、その余波は今以て消すことがむずかしい。わたしの狭い経験でも、いろんな人からそういう意味のことをまともに言われた。
 このことは、やや大げさに言えば、山形人の精神にまで影響を及ぼしているような感じがするのだが、どうだろうか。
 出羽の国が成立してからまさに千四百年。その長い歴史のなかで、最大の業績を成し遂げた出羽の人、現山形県の最上川流域の発展に絶大な功績を残した山形人武将が、陰険で狡猾、卑小な人物だったとなれば、山形人としてはふるさとの歴史そのものに自信を失いかねない。
 たいせつな故郷と、山形人自らのプライドを失うことにつながっていくだろう。
 それならば、本当に最上義光はその程度の、つまらぬ人物に過ぎなかったのか。
 かれが武人としてなした仕事、ひとりの人間として残した文学作品や近親知人にあてた手紙類、領国の支配者としてなした地域発展のための業績、もたらした文化的な遺産等々をつぶさに見ていけば、今世上に行き渡っている義光像は、大きな誤解から生まれたものだと言って間違いあるまい。
■■片桐繁雄

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