最上義光歴史館

最上義光歴史館
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《平成28年度6月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成28年6月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

          常設展示  (6/1 〜 6/30)

      開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
      入館者数・・・・・・・・・・・・・・2,004人
      回答者数・・・・・・・・・・・・・・118人

  1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・11%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・4%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・17%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・3%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・5%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・24%
  (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・ 8%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・19%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・9%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・85%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・8%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・7%

 3.ご覧になられた感想
 
  (1)内容はいかがでしたか
  
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・54%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・35%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・11%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・47%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・53%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑ�0%

 〜利用者の声〜
◎直江軍の軍旗の絵が現代に通じる様なデザインで興味深かった。

◎ボランティアの方に丁寧にお話し頂き、大変楽しく回れました。どうもありがとうございました。

◎解説文がわかりやすくてよかった。

◎担当の方にご案内いただき、最上家の歴史などをよく理解できました。ありがとうございました。

◎解説がくふうされていて分かりやすかった。有料でも良いと思う。

◎何となく入口が暗いかんじ

◎丁寧な解説ありがとうございました。また機会があればゆっくり来たいです。

◎展示、案内説明ともに充実。今後の発展を願っております。ありがとうございました。

◎展示されている資料が義光の生涯にわたる業績を端的に示している。義光の業績もさることながら幼少からの生育歴を展示する資料があればと思います。

◎とても詳しくご説明していただきました。最上氏が山形の町を作ったおかげで、現在まで続いているのだなということがよく分かりました。

◎義光没後の最上家について情報が少ないと思います。

◎時間に余裕があって、立ち寄ってみましたが、係の方も親切で館内の雰囲気も良い感じです。

◎屏風の内容をくわしく説明してあり分かりやすかった。「さがす」のもじっくりと見るのに大変役立つと思った。他の所のは興味が沸かないとよくスーと目を通しておわる形なので・・・

◎大変判りやすい説明であった。立寄ったことで分かりやすい説明に大変満足しました。

◎わざわざ立寄ったかいがありました。ありがとうございました。案内ガイドの話もよく判りました。

◎仲々説明が良かった。

◎案内をいただいたのでわかりやすかったです。入館無料にびっくりです。ありがとうございました。

◎特にありませんが、スマートフォンアプリ等を利用して音声ガイドをすることもできます。

◎展示品が充実している。

◎1.特にございません。2.私事ですが先日、上田城の真田丸展(?)に行きました。カッチュウなどあり(大河ドラマ)良かった。3.大河ドラマ最上義光がありますようにNHKに言ってきました。4.じっくり、今度見にきます。ありがとうございました。

◎案内して下さった方(女性)が色々と解説して下さり、良く理解出来ました。ありがとうございました。

◎手紙・文書等の現代文に直したものを置いてほしい。

◎本物かレプリカか分からなかった。

◎Thank you to those at the Mogami Yosiaki Historical Museum!! Your generosity as well as kindness will never be forgotten!! Thank you for a wonderful and very educational experience. I hope to again!

◎書状の内容は要約をひらがなで書いて欲しい。妹の名は“女”ではなく表示して欲しい。�…甲�堂城の戦いのビデオは現場に行けない者にとって大変ありがたかった。�∋碍岨圓鬚匹里茲Δ砲世譴鳩弉茲靴萄遒辰突茲燭�をビデオにしたら市民にもっと親しまれるとともに彼の都市建設手法を後世に伝えてもらいたい。

長時間に渡り、ご説明いただき、ありがとうございました。大変勉強になりました。

◎解説がすばらしかった。あらためて皆様から知ってもらいたいと感じました。

◎当時の着物や陶器など、もっと見てみたい。

◎刀の道具がとても良かったです。勉強してからまたきたいと思います。

◎入場料はもらった方がいいです。

◎展示物の脇に音声が出ると尚良い。少し薄暗い関係から音声で補う。

◎毎回来る度新しい知識が得られます。伊達や上杉以外の東北諸大名(津軽や南部等)との関わり等も知る事が出来たらと思ってました

◎ガイドさんの説明、大変おもしろかったです。山形への興味がまた増えまし
た。また、山形へ来たいです。

◎最上義光のことが、とても良く分かって、勉強になりました。

◎無料でこの内容は良いと思います。

◎ボランティアの方のお話が聞けてすごく楽しかったです。時間の都合で急がせてしまって申し訳なかったですが、またいつかゆっくり見に来たいです。 ありがとうございました。

◎小学校の時の見学以来、久しぶりに来てみました。歴史が好きなので、ゆっくり見ることができて良かったです。



※本展覧会は山形大学の平成28年度博物館実習(前期)の館務実習として履修生が展示制作を行っています。


特別展「山形大学附属博物館・最上義光歴史館連携展」
〜 山形の記憶 〜


【主 催】
山形大学附属博物館、公益財団法人山形市文化振興事業団(最上義光歴史館)

【共 催】
山形市
   
【趣 旨】    
 平成26・27年度に引き続き、山形大学附属博物館が所蔵する資料を最上義光歴史館で公開する特別展です。博物館実習を履修する学生がこれまで学んできたことをもとにして、附属博物館が長年収集し保管してきた貴重な資料の新たな魅力を引き出す展示を試みます。
 本年度は、山形に積み重ねられてきた長い歴史を振り返ることとしました。山形大学附属博物館には、人類が登場する以前から、つい最近の暮らしを物語る道具まで、豊富な資料があります。それらのなかから、ぜひ皆様に知っていただきたい資料を取り上げました。
 それぞれの時代、携わった人々に共に想いを馳せる機会となれば幸いです。


【展示資料】 
1 鳥類の足跡化石/新生代第三紀鮮新世/新庄市ニッ屋
2 蔵王山の火山弾/蔵王山馬の背
3 注口土器/縄文時代中期/大蔵村白須賀遺跡
4 結髪土偶/縄文時代晩期/寒河江市石田遺跡
5 蕨手刀/古墳時代/寒河江市箕輪
6 直江状(写)
7 キリシタン札/江戸時代
8 船箪笥/江戸時代
9 三島県令道路改修記念画帖/明治18年(1885)
10 紅花染織着物/昭和60年(1985)


【会 期】
平成28年7月9日(土)〜平成28年9月11日(日)  
   
【会 場】
最上義光歴史館 (山形市大手町1-53) 第一展示室北側展示ケース

【開館時間】
9:00〜17:00(※入館受付は16:30まで)

【入館料】
無料

【その他】
(1) ギャラリートーク
展覧会の企画に参加する山形大学の学生によるギャラリートーク
○日 時  平成28年8月7日(日) 13:30〜
○会 場  展覧会会場
※聴講無料/予約不要

「義光はなぜ「虎将(こしょう)」と呼ばれてきたのか」               
 
 御存知の通り、最上義光は後世に「虎将」と呼ばれている。しかし、そのきっかけは何だっただろうか。
 江戸時代晩期の儒者・塩谷宕陰に「山形従役詩」という詩集の中に義光を偲ぶ「雑詠(二首)」がある。そこに「散歩時尋虎将蹤」(散歩して時に虎将の蹤を尋ぬ)と、義光のことを「虎将」と称するわけである。その理由は、義光の官途と関係するものである。
 義光は慶長十六年(一六一一)三月に従四位上左近衛少将に叙任された。左近衛少将とは内裏内の警衛、警固を担当する令外の官、いわゆる「六衛府」の中の左近衛府の次官である。むろん、戦国時代になると、官途の実際的意味を持たず、単なる名誉的なものに過ぎないというまでもない。
 さて、この「左近衛少将」と「虎賁郎将」との関係といえば、「虎賁郎将」は「左近衛少将」の「唐名」なのだ。「唐名」とは律令制の官職・部署の名前を、同様の職掌にあたる中国の官称にあてはめたものである。
 「虎賁郎将」はもともと「虎賁中郎将」の略称であり、その起源は少なくても中国の西周時代までさかのぼることができる。その後、前漢の元始元年(西暦一年)に官職として定着されるようになった。
 もともと、「虎賁」とは古代中国において勇士の代名詞であり、「虎賁」の語源を尋ねると、そもそも「賁」とは「奔る」、「勇む」意味で、「虎賁」とは虎が獲物を猛襲する姿を指すものである。後に戦場で敵を果敢に攻撃する兵士の姿を、虎が獲物を襲う雄姿に喩えて転用されるようになったのである。
 そして、官職としての「虎賁郎将」の由来を調べれば、周王朝の開国功臣・周公旦(しゅうこう・たん)の著書『周礼』(しゅうれい)に初めて「虎賁」の語が見られる。それによると、遥かなる夏の時代に、「虎賁氏」という官職がすでに存在しており、その職務を簡単にまとめると、以下の内容である。すなわち、

(1)王様が親征、あるいは外出の時、王様に扈従し、その安全を守ること
(2)王様が王宮にいる時は、王宮の内外を警備すること
(3)王様が崩御した後、万が一に備えて、葬儀が終わるまで王宮への各口を警戒し、王様の棺が納められた車を御陵に着くまで守ること
(4)崩御のお知らせを各地に伝達する使者と同行すること


『周礼』の類本の目録に「虎賁氏」が見られる

 『周礼』の記事を裏付ける史料はほとんどないため、その真偽を問うことができないが、前漢の平帝は従来の王宮の宿衛部署である「期門郎」を「虎賁郎」に名を改め、その長官として「虎賁中郎将」を設けた。それをきっかけに、「虎賁中郎将」は官職として歴史に登場するようになり、唐の時代まで存在していた。
 このように、古来の「虎賁氏」と後の「虎賁郎将」の職務は王様の身柄を守ることであり、いわば王様の親衛隊、精鋭中の精鋭部隊を引率する筆頭といえよう。また、「虎賁中郎将」とも関係する「虎賁」は漢の時代以降、「羽林」(うりん)と共に、帝国の最精鋭部隊の代名詞として史書に随所に見られる。やや煩わしいかもしれないが、「虎賁中郎将」は官職の名で、「虎賁」はそれに従える兵士、あるいは「虎賁中郎将」その人を指す呼称、とお分かり頂けば幸いである。
 したがって、「虎賁中郎将」も「左近衛少将」も、王様、日本といえば天皇の警護役を担当する役職であるため、左近衛少将に叙任される義光も当然、日本版の「虎賁中郎将」となる所以である。
 また、上述したように、「虎賁」は勇猛の兵士を意味するから、その長官の「虎賁中郎将」最上義光は、あの長谷堂の戦いで最上勢を率いて、撤退中の上杉勢を追撃し、敵の侵略から領国を守るために奮戦することを偲べば、まさに雄々しく獲物を猛襲する虎ではなかろうか。
 蛇足だが、従四位左近衛少将は最上氏歴代当主の中でも最も高い官途なのである。そのためか、義光は「左近衛少将」に叙任されてから慶長十九年に没するまで、しばしば「少将出羽守」、「少将」を署名として使っていた。彼本人もよほど気に入ったようだ。

■執筆:胡 偉権(歴史家/一橋大学経済学研究科博士後期課程在籍生)「歴史館だより��23」より

《平成28年度5月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成28年5月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

          常設展示  (5/1 〜 5/31)

      開館日数・・・・・・・・・・・・・27日間
      入館者数・・・・・・・・・・・・・・3,130人
      回答者数・・・・・・・・・・・・・・147人

  1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・13%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・8%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・18%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・1%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・4%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・24%
  (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・ 9%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・17%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・92%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・2%

 3.ご覧になられた感想
 
  (1)内容はいかがでしたか
  
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・59%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・1%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・58%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・41%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑ�1%

 〜利用者の声〜
◎解説とてもわかりやすく理解を増し、さらに興味が出ました。ありがとうございました。又、来たいと思います。

◎大変すばらしい展示だと思います。外のマンガは不要だと思います。

◎ガイドさんにしっかり説明して頂き、すごくわかりやすかったです。最上家についてほとんど知らなかったが、色々と知ることができました。入館料もなく、ここまで充実した資料館は初めてで大変満足です。ガイドの方やスタッフの方々、みなさん親切で良かったです。

◎順路を分かりやすくした方がいい。最上義光の生き方を示した方がいい。

◎そのままでも、とてもおもしろかったので、よかったです。ありがとうございました。

◎無料で入館でも、鮭様の多くの展示品を見ることでき、楽しい時間を過ごすことができました。また、来たいです。ありがとうございました。また、よしあきフェスタが開催されることを願っています。

◎親切丁寧な対応ありがとうございました。アンケート渡し損ないましたので、お送り致します。又山形に行きましたらよらせて戴きます。(FAXで送付)

◎とても親切にご対応説明して頂きました。ありがとうございました。

◎すばらしい!!

◎最上義光が山形にとって、いかに貢献したかが良くわかった。時間があれば、もっと詳しく見たかった。再度来てみたい。

◎今日は時間がなかった為、後日ゆっくりお話をききたいと思います。ありがとうございました。

◎壁の解説の文字をもう少し大きくしてほしい。

◎展示物の説明文に英語を対応すべきと考える。

◎何となく理解していた事(政宗の母、駒姫のこと)が系統的に分かった。

◎案内が聞きとりにくかった。

◎各資料に分かりやすい解説があったので、本で不明な点等よく分かりました。

◎城内の発掘が進み、更に歴史が解明されることを期待します。

◎すばらしい館を無料開放は大変良いと思います。次回はゆっくりと山形城内観光をしたいと思っています

◎色々な他市町村の歴史館を訪れてますが、入館料が無料でかつ説明される方が丁寧に案内していただけるところはなかったと思います。長時間に亘りご親切にありがとうございました。 また受付の方の心のこもった挨拶にも街の方々の心のこもった対応を感じ、いい旅になりました。

◎解説して下さった方がとてもわかりやすく、合戦の様子などを教えて下さったので、楽しく見れました。うるさくしてしまい申し訳なかったです。最上義光の格好良さが伝わって来ました。その分、姫の死に対する悲しみなどもとても良く伝わり、殿としての勇猛な面と父として守りたかった面をとてもよく感じました。とても良い歴史館でした。解説員の方本当にありがとうございました。また、機会があったらうかがいたいと思います。

◎詳しくガイドの方に御案内いただき、ありがとうございました。昔々の御先祖様に感謝の気持ちも新たになりました。

◎無料なのに直筆などが置いてあり感動した。

◎政宗が大好きですので、ご縁続きでおもしろかったですヨ。義姫の兄さんという事は本で知ってましたので、又仙台にも数回足を運んでますので、興味がわいてました。

◎説明してくださった方が、ていねいでとてもわかりやすかったです。

◎知らないことばかりで興味深かった。1回では覚えられないので、またきたいです。

◎山形新聞を読んでいます。もう少し、家臣のことがふれられていたらもっと良い。

◎最上義光、大河ドラマ化期待してます。ピーアールがんばって下さい。ボランティアガイドさんの説明もあり、おもしろかったです。

◎衣装やジオラマをかざってほしい。家臣団の図表も展示してほしい。

◎義光以外の最上家についても資料があればよりよかったと思います。

◎無料でしたのでとても良かった。有料でもいいぐらいです。駐車場を無料にしてほしい。他の市町村は無料の所が多い。

◎1.義光より以前の代も解説して欲しい。2.悪評の原因なども明らかに解説して最上氏の評価の材料としたかった。

◎昔よりおもしろくなってきました。

◎無料はすごい。

◎こまかな解説があり、わかりやすい。

◎ボランティアの案内は非常に分かりやすかったです。

◎個人寄贈とは思えないほど、種類が多く、最上義光個人のものが多く、その歴史についてもくわしく解説がされていた。合戦などもくわしくのっており、最上家と諸係わりのあるものについても知ることができた。




「古河藩土井家における鮭延越前とその家来達について」

                     
 元和八年八月最上家改易事件後、山形藩主最上義俊の重臣達は全国の諸藩に身柄を預けられている。老中土井利勝(下総佐倉藩主)には、鮭延越前秀綱、新関因幡久正の二名が預けられた。この小論においては、最上家重臣鮭延越前が土井利勝に預けられた後に、その家臣として召し出されているが、これらの経緯について古河藩土井家史料を中心に、紙数の許す範囲で考察してみたいと思う。
 鮭延越前秀綱、新関因幡久正の両氏は元和八年八月の最上家御家騒動後、土井利勝に身柄を預けられた。この期間の出来事については、鮭延秀綱の庶子で、後に同家来に列した森川弥五兵衛の子孫が遺した森川系図によれば、秀綱は幕命により預期間中は江戸本郷宿に身を寄せており、妻、嫡男秀義に先立たれており全くの単身状態であり、身の回り世話をする者もなかったという。このため自身の身の周り世話のため、在郷の娘を雇い入れている。
 秀綱はこの在郷の娘との間に元和九年男児を設けている。しかしこの男児は嗣子とはせず、出生地に因んで『森川』姓を名乗らせ秀綱側で引き取っている。この男子は後に寛永一〇年古河城下で元服、森川弥五兵衛と称し、秀綱の家来に列している(拙著 山形最上家と古河土井家について )。 もう一方の新関因幡については全く何も伝えられていない。同氏も鮭延氏同様で、一時江戸本郷宿に居住していたのであろうか。 
 元和八年土井利勝に預けられた鮭延越前秀綱、新関因幡久正の両名の預期間はほぼ一年であって、翌九年には正式に御赦免となったが、その行き先が注目されたのであった。
 この時二代将軍秀忠に鮭延秀綱に対し、ニ男駿河大納言忠長の附家老で招聘しようとしたが、これには秀綱自身が固辞したと伝えられる。その後、鮭延秀綱と将軍秀忠、土井利勝との間で、どのような遣り取りが展開されたのかは伝えられていない。しかしその後将軍秀忠は、腹心の土井利勝に対して知行五〇〇〇石で、鮭延秀綱を召し抱えるように命じたことが、近年研究から明らかとなっている(拙論 最上家改易事件に関する一考察 野木神社秘蔵史料を中心にして 古河郷土史研究会会報三一号)。
 これは元和九年当時、老中土井利勝は下総佐倉藩主で知行六五二〇〇石であったため、この身代ではとても鮭延氏を知行五〇〇〇石で召し抱えることは事実上困難であったことは、二代将軍秀忠自身も事前に承知していた。そこで鮭延氏の知行五〇〇〇石分は召し抱えると同時に、別途これと同高を将軍が加増するということで、利勝も了承したことが分かっている(拙論 鮭延越前研究ノート(4) 古河藩土井家時代の鮭延越前について 古河郷土史研究会会報四九号)。
 なお新関因幡久正も同時に土井利勝は知行一〇〇〇石で召し抱えているが、これには将軍秀忠はこれに了承のみで特に介入していない。
 この時鮭延氏は知行五〇〇〇石で待遇は客人分で、一方の新関氏は一〇〇〇石で御組頭(家中では家老の次ぐ要職)であった(拙著 山形最上家と古河土井家について )。
 この当時の土井利勝家臣団は戦国時代の軍事形態を色濃く残しており、後世の藩経営を主体とした藩体制とは大きく異なる。城代は藩主利勝の同母弟の土井内蔵允元政で知行三〇〇〇石、筆頭家老は寺田與左衛門時岡二〇〇〇石で、この二名がまさに利勝の腹心で、利勝に対する影響力も行使できる人物でもあった。この当時の土井利勝の主要家臣数は知行一〇〇以上の者が一二〇名前後とみられている。当時はまだ戦時体制が色濃く、その家臣のほとんどが平士級で三〇〇石未満であった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会会報四四号)。 しかし残念ながらこの当時の分限帳は伝えられていない。
 利勝の家臣団・藩体制が大きく変貌するのは、寛永二年九月に知行高が一挙に倍増となる一四二〇〇〇石となってからのことで、これに伴い利勝は、自弟の土井内蔵允元政には三〇〇〇石から八〇〇〇石へと、筆頭家老寺田與左衛門時岡が二〇〇〇石から六〇〇〇石へと大幅な加増を行っている。ここに至って土井家内では、鮭延氏の五〇〇〇石を超えるものが出現して来たのである。この時新関氏の役職は組頭のままであるものの、一〇〇〇石から一八〇〇石へ、さらに二三〇〇石へと加増されている(拙著 山形最上家と古河土井家について )。
 実はこの時点で主要家臣のほぼ全員が大幅加増になったことと、家臣団の役職が藩経営に即応した複雑細分化なものとなり、藩士の階層も一斉に多極化していった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会会報四四号)。
 これらの現象を前提にして近年、鮭延越前秀綱が元和九年から没する正保三年六月まで、実に二三年の間(土井家自身知行高の変遷や藩主の交代などもあり)、秀綱自身の役職も「客臣」のままで、しかも知行「五〇〇〇石」もそのままで全く変更されなかったのは、新関因幡が加増されたことをみても、真に奇異なことと言えるであろう。
 これは土井利勝が鮭延氏を召し抱えるに当たり、当時の二代将軍秀忠が仲介し指示したこともあって、これを召し抱えた土井家一存のみでは、勝手に変更が困難であったことと解釈される(拙論 鮭延越前研究ノート(4) 古河藩土井家時代の鮭延越前について 古河郷土史研究会会報四九号)。
 鮭延秀綱の晩年は、嫡男秀義が最上家出仕時代に早世したため嗣子がおらず、さらに元和九年に男子を設けたが嗣子とはせず、元服後家来に列し「森川」姓を名乗らせている。嫡男秀義は既婚したことから男子(秀綱の内孫)がおり、この嫁と孫も秀綱とともに古河城下大堤にいたことも今日分かっている。古河城下の秀綱には、嫡男秀義の遺児が健在であったが「籠宮」姓を名乗らせ別家としている(拙論 鮭延越前研究ノート(2) 籠宮家について 古河郷土史研究会会報37号)。秀綱は自ら意思により当代で絶家としたが、古河時代周囲には出羽時代からの家来達はそのまま扈従し続けた者たちがおり、土井家へ陪臣として奉公していた。
 秀綱は正保三年六月古河城下にて八十四歳にして没。その屋敷跡には家来達の手で菩提寺『鮭延寺』が創建され、同寺も秀綱の墓碑も現存している(拙著 山形最上家と古河土井家について )。


○鮭延越前墓所


○鮭延家の守本尊「聖観音立像」(鮭延寺所蔵)
 
 恐らく秀綱の家来十四名にとっては、主君鮭延秀綱が土井利勝のもとに召し出された元和九年から正保三年六月に主君鮭延氏が没したまでの、家来達は土井家には陪臣として奉公したが、これがある意味で最も寛いだ充実した期間でなかったか想像している。秀綱の家来一四名は主君鮭延氏死去後、土井家と予てよりの約束通り正保三年七月一五日古河藩主土井利隆(一三五〇〇〇石)に直参として召し出されている。この時十四名の家来の中では、岡野九郎左衛門が家老であったことから、土井家ではこの家格をそのまま認め彼のみ三〇〇石鑓奉行で遇し、残りの十三名は二〇〇石から一五〇石は平士級であった(拙著 山形最上家と古河土井家について、拙論 古河城下における鮭延氏の家来動向について 山形県地域史研究四〇号)。
 さて、鮭延氏は後嗣をたてなかったことから、跡は土井家に直参に召し出された家来十四名に託された。それでは古河藩土井家臣が鮭延氏の旧家来に好意的で、彼らに居心地が良かったかといえば、これは全くの別問題であると言える。
 というのは、古河藩主土井家の系譜は徳川家三河時代からを継承しており、また家中には近畿圏出身の有力家臣が多く、当時この地域が国政の中心地、先進地であり、かつ又経済的にも豊かであったことから、これに優勢感を持つ家臣が多かったように思われる。 反面関東以北は未開地で経済的にも概して豊かではなかったことで、出羽最上郡出身の旧鮭延氏出身の家来などは…土井家家中において一段格下と偏見の目で見られたのではないかと、今日想像している。さらに旧鮭延氏出身の家来達は、土井家内では新参者で特に頼るべき後ろ楯となる有力家臣もなかった。土井家家臣としてまさに真価が問われる時節が到来しつつあったのである。

■執筆:早川和見(古河郷土史研究会会員/山形県地域史研究協議会会員)「歴史館だより��23」より


昨日の雨降りからうって変わり、
今日は晴れてすがすがしいお天気の山形です。

さて!昨日は歴史館前の公園に、珍客が現れました!
なにかといいますと…、、、

こちらです!!↓↓

おぉぉ…!
カモが…、いる…、、カモ……!!




かわいいですね(^^)
仲良く池をスイスイ泳いで遊んでいました。