最上義光歴史館

最上義光歴史館
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徐々に通常どおりに戻り始めた歴史館です。

夕暮れが迫る公園池です。
んっ?なにやら岩の上に見慣れぬカタマリが・・・


なんと珍しいお客様が!
ゆるりとくつろいでらっしゃいます!


久々の日記ネタに、
勇んでカメラ片手に近付いたところ・・・

あっ!
一気に警戒モードに・・・


・・・くつろぎのお時間をお邪魔してすみませんでした。
以後気をつけます・・・

◆◇◆京都から連歌師グループが来た◆◇◆

 一六〇〇年代出羽山形の芸文活動が相当に活気を帯びていたことは、最上義光や側近家臣たちの京都での作品を見れば想像できるが、山形における活動の実相が見えないのが物足りなかった。たまたま頁をめくっていた「連歌総目録」頁七四五に、次の記載が見つかって、江戸最初期の山形で、かなり高いレベルの連歌の座が催されていたことが分かった。
 総目録の記事はまったくの断片だが、京都文人たちが、山形の吉祥院を会場として連歌の座を催したという、今までに知られなかった記事が出て来たのである。以下「総目録」記載事項の要点を「柿衛文庫本」によって見てみよう。

【開催日時】 
慶長十九年(一六一四)七月六日

【種 別】
百韻 

【場 所】 
最上吉祥院

【発 句】 
今夜先こころや逢瀬天の川
 
【発句作者】 
昌琢

【脇句作者】 
善雅

【作者句数】 
昌琢一三、善雅 八、糸 十、仙厳 十、昌硯 九、慶純 九、元通 八、玄陳 七、了具 九、英知 八、玄的 八、時佐 一
※昌琢の発句以下二十八句のみが残存。

【所 在】 
国会図書館 連歌合集 第五五冊
柿衛文庫 二一九八
大阪天満宮 六九/二六

 記事の要点は以上である。この年は、一月十八日に最上義光が亡くなった。この連歌で発句を詠じた里村昌琢とは慶長四年秋までに京都において三十回の同座が知られており、そのグループとは非常に親密だったようだ。さらに、昌琢は最上の一族東根薩摩らとは書簡によって連歌稽古の交流をつづけていた。その謝礼として、東根からは「紅花」が贈られたこともある。彼らとしては、みちのく最上は遠いけれども心情的には近いものがあったのだろう。
 こういう事情から思うに、里村派の連歌師たちが、年の内に山形を弔問した可能性もあるだろう。昌琢は紹巴亡き後の京都連歌界の実力者で、後には江戸幕府連歌所の宗匠として里村南家の初代となった。寛永十三年(一六三六)没。
 会場となった吉祥院は最上三十三観音札所の第三番。最上歴代が尊崇した出羽最上の古寺。義光が老母のために御詠歌の額を寄進し、参道に石橋を架けたりもした。京都文人たちの連歌会にふさわしい会席だったのだろう。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��26/研究余滴18」より

◆◇◆義光周辺の芸文活動◆◇◆
                  
 京都における義光らの活動は周知のことだが、それならお膝下山形ではどうだったか。
 さかのぼると一四〇〇年前後、最上二代直家の頃には室町幕府の将軍足利義満の直臣、武人にして連歌の達者朝山朝綱(梵燈庵)が出羽に滞在したといわれるから、山形にも連歌をたしなむ人々がいたと見てよいだろう。ただ、残念なことに確かな史料は今のところ見出せない。
 隣接地会津出身の猪苗代兼載(〜一五一〇)が著した連歌作法書『若草記』は義光の愛読書だったし、彼自身の著述『連歌新式注』もあるほどだから、家臣のなかに連歌愛好者が少なからずいただろうと想像される。洛中外で催される連歌会に義光に随伴出座した最上家(関係者)をあげてみると次のようになる。



 *を付した人物は姓名字未詳。義光の座にのみ参加。それ以外はなし。弥阿は翌年五月、近江配流中の里村紹巴を訪問し、紹巴自筆の発句懐紙を入手している。
 もちろんこれ以外にもいたはずで、山形光明寺に一花堂乗阿が住職となっていた時期には、「義光公御一門方、毎度連歌之御会これあり」(光明寺由来記)といった有様だった。
 「山形歌壇」とでも言えそうな盛況だったのだろう。
 特に熱心だったのが、東根城主、里見薩摩のグループで、東根で催した連歌作品を京都の宗匠に届けて、通信指導まで受けていた。慶長十二年七月二十七日里見薩摩あて里村昌琢書状からは、その状況がおおかた読み取れる。一昨年は百韻一巻を見たとか、謝礼に紅花が贈られたとか、里村玄仍が急逝したとかの記事もある。惜しむらくは、東根衆の連歌作品が見つからないことだ。
 庄内では、わずかな文書の断簡から、志村光惟の二句を見つけることができた。

 千世や引きそへぬ子の日の野辺の松
 
 今日たつも世々にかはらぬ霞かな

 庄内以外でも、最上領内のどこかに、出羽人の作が埋もれているかも知れない。
 
 霧となり霞と消ゆる夕べかな

 これは、義光の黄泉の旅にお供をした寒河江肥前守の辞世として伝えられる一句である。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��25/研究余滴17」より


◆◇◆ちょっと立ち止まって◆◇◆
  
 地域史研究の一環として、最上義光の周辺を探ってきたつもりだが、ふと、こんなことを考えるときがある。
 研究を進めるにはより多くの史料を捜して、史料批判を経て客観冷静に考察し、わかりやすい文章にすることが大事だろう。だが、ふるさと山形の歴史となると面倒な事態がかずかず出てくる。
 一つは史料不足。山形は特にひどい。まず、中世以前の文書の不足。村山地域では例の大きな石鳥居、いったい何物か。鳥居は何もしゃべらない。最上義光についてなら「言語で表現された史料」はたくさんあるが、これらは、書き手の主観による誤謬とか意図的な虚構が入りこんでいる可能性大で、「真実」を引き出すには慎重さが求められる。
 二つめは研究する者の心情的な問題がある。たとえば山形を「ふるさと」とする人間か否かというようなことが微妙に影響するのである。この土地に生まれ、育ち、幾世代にわたって祖先が築き上げた現実の山形。この地に自分は密着して生きている。こういう感覚や観念が愛郷心となり、時に逆に作用して嫌悪の情となったりもする。
 研究作業に当たっては、研究者相互の協力や競争意識もあろうし、先輩後輩のしがらみもあるだろう。封建時代の大名家が厳然と存在し、所蔵する史料を利用させてもらうような立場になると、ことは冷静客観とばかりはいかないこともありそうだ。
 視野の広狭も問題となる。
 以前、山形近辺で掘り出された「開元通宝」を、「八世紀の渡来品」と決めつけて疑わなかった例がある。『須川温泉神』は、現在の『蔵王温泉の神』と見てよいのか、秋田側の意見も聞かねばならないだろう。重要な古文書を無視して、想像を自在に繰り広げている研究もある。かと思えば、江戸時代の好事家が、思い付きで執筆した物語類を重要史料のごとく扱っている例もある。
 だが……と、考える。これらを一概に非とするわけにもいかないのじゃないか。そもそも、人間はまちがいを犯しやすいもので、これは逃れえぬ宿命だ。だが、幸いにこれを免れる方法がないわけでもない。そしてこれが大切なのだが、自分の研究を公表し他者の目で見てもらい、不足を補ってもらうことである。それによって誤りや不備を修正することができるのだ。論文類を読む、発表を聴く。相互に意見を交流しあって、より確かな歴史を構築していきたいものだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��24/研究余滴[番外]」より

◆◇◆山形城の立地◆◇◆

 最後の山形藩主水野氏についてきた高名な学者塩谷宕陰が、「山形は江戸に似ているというより、京都に似ている」と言って、新封地に着任した主君に賀詩を献じた。たしかに、京都は中央に川、東西に山・・ということで、盆地の山形と似たところがある。
 ところで、山形が出羽国の中枢年として発展してきた背景には、十四世紀の斯波兼頼の入部、以降十七世紀初頭までの最上時代があった。十五世紀などは、史料不足の「暗黒の時代」だが、とりあえず最上氏の存在が山形を支えてきたのではあるだろう。
 それなら、山形城がなぜこの場所につくられたのか。
 高橋信敬先生の名著『最上時代山形城下絵図』では、斯波兼頼入部時代の近辺の地勢や歴史的な沿革には触れておられるが、「なにゆえに、この場が選ばれたか」についての所見は、残念ながらない。
 先頃、中川重先生、伊藤清郎先生とご一緒したとき、「風水」ということについておたずねしたことがあった。「山形城の風水(学)的立地はどうなんでしょう」という私の質問に、お二方は町づくりにおける「山あて」の事例を教えてくださったが、「風水」についてはお話しにならなかった。学術の網に掛かりそうもない(?)「風水」を取り上げるのはお避けなさるのが当然と、私は納得をもらったのだったが、その後も山形城の位置・立地は気にしていた。
 山形県の地図を広げて、眺めて、今のところ次のことは確かなようだ。



� 〇碍曽襪琉銘屬蓮∨明昌容鶚劼妨�える月山の頂上(一九八四m)と、南東一〇�劼砲修咾┐詢胸�(一三六二m)の頂を結ぶ直線上にある[直線A]。 この二つの山は、山形城から見て一番高くて目につく。

�◆〇碍曽襪琉銘屬蓮∪�(三五��)の大朝日岳の頂(一八七一m)と東(一四��)の神室岳の頂上(一三五六m)を結んだ線上にある[直線B]。この両山は、めだたぬながら、山形城の真東、真西にある最高の峰である。

�� つまり、直線AとBの交点が山形城の現場に当たるわけである。

 馬見ケ崎川扇状地の中央部分。標高一三〇m前後。水はけよく乾いた平地、地下水は豊冨。所々に泉が湧いている雑木林。積雪は山形盆地のなかで最も少ないところ。人が暮らし集落を形成するには具合がいい。このあたりの条件は、誰でも気がつきやすい。
 しかし、山形城が周辺の山岳(等)と関係づけて築かれたかとなると、私には何も言えない。もう一つ、山形の随所で遠望される雁戸山(一四八五m)は、無関係なのか。どうなのだろう。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��23/研究余滴16」より

◆◇◆細川忠利の手紙から◆◇◆

 『細川家史料』元和八年(一六二二)の巻は、当時の小倉藩主細川忠利が国許の魚住伝左衛門あてに書いた書簡の集成である。
 四月二十四日の書状では、将軍秀忠の日光社参のときの異常な厳戒に注意を向けている。
 「ことのほか御用心にて、東照宮を二重三重にとりまわし、見張り警戒を仰せつけられたそうだ。お供の数も五、六万人もいただろうということだ」
 平和なはずの社参が、ただならぬ厳戒のなかでなされたのである。
 幕府発足後まだ十年そこそこ、泰平の世といっても、けっして安泰ではなかった。
 山形も元和三年の家親没後は、重臣たちの反目がつよまり政権はばらばら、元和六年からは幕府の横目付が山形城二の丸に常駐して、監視、指導を強めていた。
 さて、本史料には何ヵ所かに「東国大名に、帰国許可が出ていない」という趣旨の記載がある。四月から毎月のようにこれがある。日光での厳戒と関係がありそうだ。
 それと並んで忠利は、最上家の行方に注目している。「最上の身上も近々果ててしまうだろうとのうわさ。見聞きするところその通りらしい」と書き、その一方「最上家は祖父義光の時から徳川家に心入れ深く、その子家親は幼少より江戸勤務で将軍に奉公したので、この度は新しい国を下さることで相済みとなった」と、一件落着と思ったこともあった。
 彼の心中、最上家親とともに初めて宮中へ参内した若き日の記憶が鮮明に残っていただろう。慶長十年(一六〇五)四月九日、初夏の晴れた日、忠利も家親も侍従に叙任された。二人とも二十歳前後の貴公子、名門大名の後継者だった。だが今、最上家は浮沈存亡の危機にある。
 忠利は心配していた。八月十日、「最前も申し上げた最上のことだが、将軍様の前で決定したとおりにいかず、家老どもが勝手を言って決着がつかぬ」
 そして八月半ば、五十七万石最上家は改易。近江大森一万石となる。
 九月二日「東国大名衆は今なお江戸に逗留中。最上の跡に誰が入るかわからない」。九月二十二日「最上の跡山形・鳥居左京父子、新庄・戸沢右京、鶴岡・酒井家次父子等。決めたのは土居、酒井…」幕政初期の実力者だ。
 最上家信は父祖の地最上にもどることはできなかっただろう。
 忠利の書状に最上重臣の動静はあるが、家信には触れられていない。
 「最上義光の弟で伊達政宗の叔父にあたる楯岡甲斐守光直を、わが細川家が預かることとなった」と、やや緊張ぎみの報らせだ。
 最上家改易、後任者決定。
 東国大名諸侯も帰国の許しが出て、自国でゆっくりできたのだろう。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��22/研究余滴15」より