最上義光歴史館

最上義光歴史館
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■一遍伝説の話
 一遍上人の有名な言葉に「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え」というものがあります。弘安5年(1282年)3月、一遍と時衆の一行は鎌倉に入ろうとしたのですが武士団に制止され、「鎌倉の外ならおとがめはない」と言われ、やってきたのが片瀬の地蔵堂です。武士、庶民、高僧らが続々と片瀬に集まり、多くの人々が歌い踊ったとき、周囲に紫の雲がたなびき、天から花が舞い落ちてきました。一人が不思議に思い一遍上人に尋ねたところ、「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍知らず」と応えます。花も紫雲も自分が何かしたものではないと。続けて「花がいろ月がひかりとながむれば こころはものをおもわざりけり」と詠んだそうです。ただただ、目の前の事象を受け止めればよいと。
 地蔵堂には4カ月も滞在し、踊り念仏をしています。この時一遍は44歳。「南無阿弥陀佛」と踊りまくったのです。一遍は平安時代の高僧「空也上人」に倣い、人々が集まる場所に簡易の舞台を設け、同行者とともに輪になって歌い踊りました。踊念仏に参加すれば極楽往生できると説いたため、周囲の人々が大挙して熱狂的に踊り、舞台の床板が抜けたという記録もあるといいます。
 弘安7年(1284)に京都に入ります。「紙本著色遊行上人絵」巻第三には、四条大橋を渡り念仏札を配り、市場京極の釈迦堂に入り説法をする場面が描かれています。一遍の行くところでは必ず「御賦算」、つまりお札くばりをしました。お札には「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷り込まれ、一枚ずつ手ずから配ったそうです。60万人にお札を配ることを願ったものですが、25万1千余人配られました。
 京都では「勢至菩薩」の生まれ変わりと噂され、藤原基長は夢に一遍が現れたことを喜び手紙を送ります。しかし一遍は、「それで仏を信じる心が生まれれば良いことだ」と言っただけでした。踊りは熱いのに、応対はクールです。
 正応2年(1289)8月に兵庫観音堂で遊行を終えます。死を覚悟した一遍は、「我が化導は一期ばかり(私が指導を行うのは私が生きている間だけ)」と言い、持っていた少しの経を書写山圓教寺の僧に送った以外は焼き捨て、亡くなりました。最後に「我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」と言い残したそうです。終活の手本のようでもあります。

■狩野派について
 狩野派とは、室町から江戸にかけて続いた流派です。血縁関係でつながった絵師の集団で、幕府の仕事を担ってきました。足利将軍家の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その嫡男・狩野元信、元信の孫・狩野永徳、さらにその孫の狩野探幽らが有名です。特に桃山から江戸初期の時代に建築ブームが始まると、集団による分業制によって障壁画など大きな作品を手掛けました。襖障子や屏風など大きく貴重なものも多く、博物館スタッフの間では、狩野派ものの展示となると「ここに狩野は、可能かのぅ」といった駄洒落が飛び交うらしいです。
 狩野永徳は、織田信長、豊臣秀吉といった権力者の画用を務め、安土城や大坂城の障壁画を多く描きましたが、これらは建物とともに消滅しています。現存するものとしては、国宝「唐獅子図屏風」(宮内庁) 、国宝「檜図屏風」(東京国立博物館)、国宝「洛中洛外図屏風」(上杉博物館)などがあります。信長や秀吉の生前には、他の戦国武将が狩野永徳やその後継者・長男の光信に製作を依頼することができなかったため、最上義光は永徳の弟である狩野宗秀に「紙本著色遊行上人絵」の模写を依頼したと思われます。
 狩野宗秀の現存する作品は少なく、国宝もありませんが、教科書やテレビでおなじみのあの「織田信長像」(重要文化財、長興寺)があります。また、「柳図屏風」(相国寺)という六曲一隻の屏風があります。これが兄・永徳の堂々とした四曲一双の「檜図屏風」とあまりにも対照的で、柳の枝は風に流される一方、その幹は風上に向かっていくような、まるでディズニーアニメにでてきそうな感じの、そして琳派をも思わせるようなシンプルな絵柄です。織田信長像もそうですが、宗秀の絵図はなんか動かしてみたくなる、そんな作風です。
 
■源五郎の話
 源五郎とは、最上義光の孫で第三代山形藩主である「最上家信」こと「最上源五郎義俊」のことです。
 元和3年(1617)3月6日、初代山形藩主の最上義光の跡を継いだ最上家親が急逝(享年35歳)しました。義光没後わずか3年、このとき源五郎は12歳でした。その2日後の3月8日、山形城下が大火に見舞われました。光明寺の記録には「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」とあります。重なる凶事に最上領内は不安に覆われ、12歳の源五郎でよいかどうか、幕府内部でも検討されましたが、家督相続は源五郎がすることを5月3日に承認しました。源五郎が、父が家康からもらい引き継いだ「家」字による「家信」を名乗るようになったのはこの頃です。
 家信は程なく江戸に出て、江戸城和田倉門付近の最上邸に滞在したようです。広島藩主福島正則の改易において、福島邸を接収するなど成果をあげる一方、元和6年9月12日の「徳川実記」には、「十二日、最上源五郎義俊(=家信)は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」とあります。
 このような主君ということで家臣は離反しはじめます。重臣たちは相互に不信感をつのらせ仲間割れします。家来の多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主とし最上家を継がせようとしました。
 ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しませんでした。のみならず、彼は家親の死について「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出ました。家親が鷹狩りの帰途の宴席でにわかに病を発し絶命したことについて、「山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」と。しかし、幕府が取り調べをしたところ、松根の言い分には根拠がないことが判明。
 義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年(1622)8月18日、ついに断を下しました。「最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。」
 こうして義光が築き上げた藩体制は崩壊しました。これほど大きな大名が改易処分となった例はほかになく、全国諸大名にとって衝撃的な事件でした。しかも最上家は、徳川家康、秀忠の二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずです。
 この年、家信は17歳。江戸の最上邸は返還させられ、元和9年8月以後「家信」の名も返し、「源五郎義俊」が呼び名となります。その栄枯盛衰について詳しくは、当館ホームページ「源五郎」で検索を。


■カリヨンの選曲の話
 当地にあるカリヨンは昭和62年 (1987年)に設置されたもので、演奏はコンピュータ制御(今となってはレトロな語句ですが)によるものです。
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 鳴動時間 ��10時 ��12時 ��13時 ��15時 ��18時
〈春季〉3月1日〜5月31日
�.蹈競爛鵐粘崛婉�(シューベルト)、�⊇佞�来た(岡野貞一)、��春(ビバルディ)、
�ぅ團▲離愁淵紳�11番(モーツアルト)、�チ畚嬋�(中田章)
〈夏季〉6月1日〜8月31日
�〔遒个�(シューベルト)、��茶摘み(文部省唱歌)、�2討詫茲�(小山作之助)、
�じ魘繕並�6番(ベートーベン)、�ド誉蘢�(弘田龍太郎)
〈秋季〉9月1日〜11月30日
�,佞襪気�(岡野貞一)、��展覧会の絵(ムソグルスキー)、
��小さい秋見つけた(中田喜直)、�のい僚�(貝沼実)、�ネ湿討云�焼け(草川信)
〈冬季〉12月1日〜2月末日
�.哀蝓璽鵝Ε好蝓璽屮�(イギリス民謡)、��楽興の時(シューベルト)、
��主よ人の望みの喜びよ(バッハ)、�せ匱蕷�(シューベルト)、�ヅ澆寮浦�(ヘイズ)
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 「展覧会の絵」からは第5曲「卵の殻をつけたひよこの踊り」とか、「四季」からは夏の第3楽章とか、ちょっとしたひねりがあってもよさそうなものですが、カリヨンでこれをやられると、やはり忙しいというかうるさくってたまらないわけで、節度というかその辺もあっての選曲なのでしょう。

■ホロヴィッツの話
 ベートーヴェンのピアノソナタは32番までありますが、そのピアノソナタ全集のCDがいつの間にか手元にも何セットか溜まっていて、全てを丁寧に聴いているわけでもないのですが、仲道さんの他、ゼルキンさんとかポリーニさん、グルダさん、ブレンデルさん、最近はイゴール・レヴィットさんという人のものを入手しました。今は安価で入手できる全集も多く、中古品などは3千円程度で買えるものもあります。
 この全曲演奏ということについては、かつてあのホロヴィッツさんが来日したときに、インタビューで次のように答えていました。(以下、「音楽の友 1986年8月号」〜ひとりの作曲家のピアノソナタ全集をレコーディングしない理由〜を引用)
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〇インタビュアー:さまざまなピアニストが、たとえばベートーヴェンのピアノソナタ全集とか、モーツァルトのピアノソナタ全集といったかたちでレコーディングしますが、ホロヴィッツさんには、そのような、いわゆる「全集」がありません。これといったお考えがあってのことでしょうか?
●ホロヴィッツ:そのような「全集」を録音することに対しては、とても反対です。というのは、いかに素晴らしい作曲家が作曲したとはいえ、なかにはそれほどよくない作品もあるからです。わたしは、やはり、いい作品だけを弾きたいと思います。わたしの家内の父(ホロヴィッツ夫人は、往年の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニのお嬢さんである)の名文句ですが、いくら天才といったって、24 時間、ずっと天才でいられるというわけではない、という言葉があります。ベートーヴェンを例にとっておはなしすれば、初期のソナタは気にいっています。しかし、晩年の、耳が聞こえなくなってからのベートーヴェンのソナタは、それほど気にいっていません。それに、こういうこともいえます。ベートー ヴェンは、32 曲のソナタを作曲するのに、ほぼ 30 年もかけました。ベートーヴェンが 30 年もかけて作曲したものを、ピアニストが、わずか 2 週間ほどで録音してしまうというのは、もともと無理だと思いますね(笑)。
〇インタビュアー:おっしゃることはとてもよくわかるのですが、ききての側から申しますと、いろいろな作品をホロヴィッツさんの演奏できいてみたい、という気持があります。
●ホロヴィッツ: それにしても、ベートーヴェンのソナタの 32 曲すべて、というのは無理ですね。ただ、モーツァルトのソナタは、どれも好きですから、「全集」の録音も考えられなくはありませんが、そんなことは 必要ないとも思います。ある、モーツァルトをとても得意にしている、したがってモーツァルトのソナタの「全集」を録音しているピアニストの演奏を、ある時、コンサートで聴きました。素晴らしい演奏だったので、後で、その人の「全集」のレコードを聴いてみました。そうしたら、なかには、これはと思うような演奏もありました。だからといって、そのピアニストがいいとか悪いとかいうことではなくて、やはり全部をひとりでこなすことに無理があったんです。
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 ということで、それはそのとおりとも思いますが、リスナーとしては、曲の良し悪しや演奏のアタリハズレを云々するという楽しみ方もあるので。また、後期のソナタ、特に30番から32番というのは人気があり、先日亡くなったポリーニさんの2012年来日時の最終日プログラムがこの3曲でした。この来日ではなんと第21番から32番までを日替わりで4回にわけ演奏しました。しかしながら、全曲録音には39年の歳月を費やしています。
 仲道郁代さんの場合、ソナタ全集のCDがベートーヴェン生誕250年記念特別企画として出されています。また、2027年が仲道さんの演奏活動40周年とベートーヴェンの没後200年とが重なる年ということで、2018年から全20回シリーズでリサイタルに挑んでいるそうです。なんかポリーニさんより戦略的です。
個人的にはグールドさんが弾いた第30番がとても好きです。ショパンのピアノソナタのような感じで、曲自体もショパンのソナタ第2番「葬送」の最終楽章よりはずっとショパンぽいです。それにしてもその楽章はなんともつかみどころがなく、ショパン自身は「行進曲のあと左手が右手とユニゾンでおしゃべりをするのだ。」と書き残しているそうですが、サティやケージがやりそうなことをすでにショパンがやってた感じです。

■神童の話
 ベートーヴェンの話のついでにモーツァルトの話も少々。
 有名人には何かしらの呼称がつけられることがあります。ベートーヴェンは「楽聖」、バッハは「音楽の父」、ヘンデルは「音楽の母」。ということで、父がいて母もいるということは、タロウもいることになりますが、音楽のタロウというと、タキレンタロウかピコタロウぐらいしか思い浮かばず、かわりに「神童」というのがおりまして。そうです、モーツァルトです。ということで、彼が神童といわれる逸話をひとつ。
 ローマのシスティーナ礼拝堂の「暗闇の朝課」という特別な礼拝では、アレグリ作曲の「ミゼレーレ」という曲が用いられます。この作品は、霊性を保つ目的で採譜を禁じられ、この特別な礼拝でのみ演奏されることを許されていました。システィーナ礼拝堂以外の場所で記譜または演奏する行為は、破門によって処罰されました。
 モーツァルトは幼い時から音楽の才能があり、父はそれをもって欧州各国をまわり商売にしていました。当時14歳であった彼がローマを訪れていた際、この楽曲を水曜礼拝で初めて耳にしました。その記憶を頼りに採譜し、金曜日に再び礼拝堂へ赴き曲を聞いて修正し、完コピしたそうです。9声で構成され、4声と5声の二重合唱の曲ですが、9声部を聞き分け譜面におこすという、やはり「神童」です。
 アレグリ作曲の「ミゼレーレ」は大変美しい曲で、今は門外不出でもなく、まして、モーツァルトのような神童による採譜も必要なく、ネットでお手軽に聴くことができます。

■山寺の焼き打ちの新説の話
 ここで突然ですが、前回、鬼門特集の日誌をアップした翌日に、当館ボランティアの方から、山寺が焼き討ちに合い不滅の法灯が消滅したのは大永元年(1521)ではなく大永4年(1524)であると、最近の郷土史研修会で聴いた、という話がありました。
 世間一般には大永元年(1521)であると知られていて、先出の当館「歴史館だより��10」に寄稿いただいた伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)の論説にも、天童市成生地区地域づくり委員会の天童頼直公の資料にも「1521年 天童頼長、成生十郎伊達郡に協力した山寺立石寺を攻め一山を焼き打ちする。」とあります。しかし先の研修会では、「干戈(かんか)」すなわち戦(いくさ)の記録があるのは大永4年(1524)であり、また伊達氏に加担したことが理由ではなく、周辺の領地争いによるもので、「大永の兵乱」と称するとの説明がなされたとのことです。
 ネット情報のコピペばかりで物を書いている私としては、一次資料として何を求めればいいのかなどわかるわけもないのですが、郷土史においても、というか、郷土史こそ年々新たな発見がなされるのだなぁと、畏敬の念をもって傍観するばかりです。 


■山寺と延暦寺の話
 伊達稙宗(伊達政宗の曽祖父)が永正17年(1520)に天童を攻めてきたときに、山寺の衆徒らが伊達方に加担したことを恨んで、大永元年(1521)天童頼長・成生十郎両氏が山寺に攻撃をして灰燼に帰してしまいます。この時不滅の法燈が焼失してしまったため、天文12年(1543)立石寺の一相坊圓海は、4月に比叡山に登拝し、6月に根本中堂の燈火を分火してもらい、海上を輸送した後に立石寺に納火しました。この燈火は天正13年(1585)、信長の焼き討ちにあって焼失した比叡山根本中堂の再建時に、今度は立石寺側が登拝し逆に分燈しました。ゆえに、山形から比叡山に詣でると丁重に扱われるそうですが、もしかしたら山寺の御朱印帳がプライオリティパスのようになるかもしれません。どんなプライオリティかはよくわかりませんが。ちなみに、山寺を麓から奥の院まで巡ると、実に12か所の御朱印を頂くことができます。
 焼き討ちにより山寺は「寺中家無一十余年、其間堂社破」の状況にありましたが、天文3年(1544)の立石寺日枝神社の修造などに、最上宗家だけでなく一族の総力を挙げて再興していきます。最上義光は慶長4年(1599)に、立石寺納経堂を修造しています。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられています。このように最上家が山寺を崇敬し、保護するという関係は、最上家が国替えされるまで続きました。

■鬼門の起源の話
 鬼門の起源は、古代中国の説話や歴史上の情勢など諸説あります。紀元前5世紀頃、古代中国では度重なる東北地方からの異民族による侵略や殺戮に苦しめられたため、異民族を「鬼」と呼び、それらが来る方向を「鬼門」と称したという説や、「東海の度索山という地に、大なる桃の三千里に渡って曲がりくねる樹があり、その低い枝が東北に向かうを鬼門という。」と「山海経」という博物書にあるとする説などです。
 ただし、この鬼門に関する記述は現存する「山海経」には含まれておらず、後漢の王允「論衝」訂鬼篇の中で引用した「山海経」にのみ存在しているとのこと。この「山海経」は、古代中国の戦国時代(紀元前403年)頃から前漢時代(紀元前206年〜8年)に徐々に加筆されて完成したもので、中国を取り巻く全方位の山河大海に住む人々や生物、その風俗や生態、そしてその地に伝わる神威や妖怪などを記録した博物書です。現在、平凡社ライブラリー(解説は水木しげる)のものが手軽に入手でき、とにかく妖怪などの図版がやたら面白い本です。

■一般住宅の鬼門対策の話
 一般住宅の家相では「三所に三備を設けず」と言われます。三所とは「鬼門、裏鬼門、宅心(家の中心部)」のことで、三備とは「玄関、台所、トイレ」のことです。つまり「鬼門・裏鬼門・宅心には、玄関・台所・トイレを設けてはいけない」ということです。
 あるネット情報によると、「鬼門・裏鬼門の方角は時間帯によっては気温が上がり、冷房のないトイレは不快な空間になるでしょう。 裏鬼門の方角に台所があると、日が差し込んで食べ物が傷みやすくなります。 また、冷え込みが厳しい冬場にはトイレ・浴室などは他の部屋との温度差が大きく、いわゆる「ヒートショック現象」が起きやすくなります。」とのことです。
 また、別のネット情報によると、「一般的に鬼門には正方形の部屋があるのが理想と言われています。この方角に門や玄関、窓がある場合は、東北・南西の方角からは日差しや冷たい風にさらされないよう注意しましょう。特に換気をするとき以外はすぐ閉めるのがベストです。窓には遮光カーテンがあると日差しや冷風対策になるでしょう。」ともあります。
 それでは鬼門・裏鬼門に玄関・台所・トイレがある場合はどうすればよいのかと言うと、これもネット情報によると、「神社の護符を貼る。お祓いをしてもらう。盛り塩をする。トゲのある植物を置く。掃除・整理整頓も効果的と言われている。」のだそうです。

■怪力乱神を語る話
 「務民乃義、敬鬼神而遠之」は「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」と読み下します。これは弟子からの「知とは何か」との問いに孔子が答えたものです。ここで「民の義」とは何かということも難題で、民の正義と読んだり、臣民と読んだり、実はいろんな意訳がありますが、まずは「暮らしを善くする」というものではないかと。ちなみに「敬してこれを遠ざく」は「敬遠」という言葉の語源になっています。「知」を問うて、「敬遠」という故事成語が生まれるという、かなり斜め上な問答でもあります。
 また、孔子は怪力乱神を語らなかったそうですが、これを商売にしている人もまた少なくありません。博物館業界もそうです。とりあえずは民俗学的な見地から取りあげるのですが、お客さんの大半は興味本位でやってきます。
 山形県の北東(鬼門?)に位置する某県は、怪談奇談を含めた民話の宝庫で、河童だけでも商売が成り立つほどです。その県内にある某市立博物館では、昨年「呪術」をテーマとする企画展を開催し、その図録資料はたちまち売り切れ、あまりの人気に増刷までしました。また、同県の某歴史文化館の収蔵資料図録の第一号は、河童の絵巻「水虎之図」だけをまるごと収録した立派な冊子です。とにかく集客力があるのです。なんともうらやましい。
 そして何を隠そう山寺にある某博物館でも、6月14日から「妖怪」展が開催されます。そもそもは修験道開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)から辿る綱渡り的な企画展示から始まったものですが、回を重ね今や年間最大の来館者が見込める企画展となっています。
 ちなみに、怪力乱神を語ると言えば稲川淳二さんですが、今年も元気に『怪談ナイト』で全国を巡るようです。予定では秋田、岩手、仙台(8月13日、怪談の日)、福島、新潟と山形県に近接するすべての県を訪れる予定ですが、なぜか山形だけが避けられています。山形も当然「怪力乱神を語らず」という孔子のような人ばかりではなく、むしろそれを飯のタネとしている人もそれなりにいるのですが。


近日公開!!
企画展「妖怪 −“もののけ"の表現、江戸時代から現代まで−」
6月14日〜8月29日 山寺芭蕉記念館





《2021年5月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和3年5月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (5/1 〜 5/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,270名
回答者数・・・・・・・・・・・・・48人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・2%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・2%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・9%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・9%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・52%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・20%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・7%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・67%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・15%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・17%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・70%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・22%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・7%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・2%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・60%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

岡山県岡山市 男性/40代
最上義光グッズ(指揮棒レプリカ、三十八間兜の置物、山形城ペーパークラフト、最上義光フィギュアなど)を歴史館で購入できればよかった。

茨城県水戸市 男性/50代
少し暗くて文字が…

山形市 男性
定期的なイベントが欲しい。

山形市 男性/7歳
たいへんいい歴史はくぶつかんでした。もう一回いってみたいです。

愛知県半田市 男性/30代
歴史好きには面白い場所でした。有料化して、規模の大きい資料館になる日を楽しみにしています。

愛知県豊田市 男性/40代
ありがとうございました。

栃木県宇都宮市 男性/30代
最上義光公の兜が観られること、スタンプがたくさん用意されていること、それでいて入館料が無料であること等、とても満足です。ぜひまた来たいと思います。

千葉県四街道市 男性/40代
最上に特化している。有料でいいので資料作ってほしい。山形ありがとう。

埼玉県久喜市 女性/20代
ガラス越しだと距離があって解説が見えづらかったので、展示の文字のサイズをもう少し大きくして欲しいです。この展示内容で無料というのはとても魅力的です。有料でもまた来たいと思います。展示内容も変化するとなお良いと思います。

山形県東根市 男性/30代
子どもと一緒だったので、ゆっくり見れませんでした。改めてまた来たいです。

山形県東根市 女性/9歳
楽しかった。

宮城県仙台市 男性/40代
以前は妻と、今回は子供を連れてくることができました。無料で楽しみました。ありがとうございます。

福島県郡山市 女性
ていねいに説明をしていただき、ありがとうございました。説明があるのとないのでは、違いますね。とてもわかりやすくて、良かったです。

福島県郡山市 男性/10代
あんないの人がいて最上義光のことがよくわかりました。

山形市 男性/40代
説明員の方の説明がわかりやすく、大変有意義な時間がすごせました。また訪ねたいです。

山形市 男性/10代
CGがよかった(城)。かぶとがかっこよかった。

山形市 男性/50代
CGがよかった。

栃木県栃木市 女性/20代
入口のところのCGの動画がとても良かったです。入場口が暗くて開館しているか分かりづらかったです。

山形県小国町 女性
高校生の頃よりおもしろかった。

山形県朝日町 女性/40代
子供が体験できるようになっていてよかった。先日、長谷堂城あとにも行ってきたので、内容がよりわかって良かった。

山形県朝日町 男性/9歳
よくしてくれて、また行きたいです。

山形県朝日町 女性/10代
最上義光のことを、たくさん知られる所があって勉強になりました。頭に入れておきました。常設展も企画展もとても良く分かりやすかったです。

愛知県江南市 男性/40代
戦国武将として名前は有名ですが、何をしたと言われると、なかなか答えられない所がありましたが、いろいろ学ぶことができました。新たな発見があると、また教えていただきたいです。

山形市 男性/60代
かりがねの旗が展示されていなかったのでとても残念。直江親衛隊から奪った「かりがねの旗」は、最上軍勝利の象徴。説明文と一緒にぜひ展示してほしい。

山形県寒河江市 男性/30代
楽しかったです。

山形市 女性/20代
あっきー&こまちゃん   好き。

山形市 女性/10代
おつかれ様です。

山形県上山市 男性/20代
鎧などの展示をもっとしてほしい、または、最上家の武具をもっと展示してほしい。お願いします。

山形市 男性/20代
生徒も10分という時間でしたので、休みの日などにもっとゆっくり見てみたいと言っていました。大変勉強になりました。ありがとうございました。

福島県会津若松市 男性
歴史に興味があれば楽しめます。有料でも問題ないと思います。

宮城県仙台市 男性/50代
長谷堂の戦いは模型、ジオラマを置いて頂くと立体的な攻防戦が理解し易くなると思います。

山形県東根市 男性/20代
展示品にクイズが添えられていて、楽しみながら当時の歴史的雰囲気に耽ることができた。あまり最上義光に詳しくないので、ツアーなどがあれば、より最上義光と最上家へ理解を深められたと思う。

山形市 男性/9歳
かぶとと刀をはじめてみたから、よかった。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。

◇絵葉書の話
 基本的なミュージアムグッズに絵葉書があります。そのまま壁に貼って飾るのもよし、絵葉書スタンドがミュージアムグッズとして人気があった時代もありました。旅先から投函するのもオススメです。特に海外などの遠い旅先からは、いただくほうもありがたい。私は、絵葉書を自宅あてに出すこともあり、その土地の消印が記念にも、記録にもなります。
 絵葉書の楽しみ方をもうひとつ。「絵葉書の旅」というのがあります。あの「水曜どうでしょう」の企画ですが、観光地等の絵葉書から適当に選び、現地に行って同じ構図で撮影してくるというものです。絵葉書が古かったりすると、街並みや樹木の様子が変わっていて大変だったりします。
 酒田市にある土門拳写真美術館では、かなりレトロな絵葉書セットが販売されていますが、例えば「室生寺」セットを携え現地に入り、同じアングルをさがし、土門拳になりきって撮る、といった楽しみ方ができるかと。
 もっとも当館の学芸員によると、以前、当館でも絵葉書を作成したものの、思うようには売れず、それがトラウマになって現在は発売していないとのことでした。

◇ミュージアム菓子の話
 そのミュージアムの人気度がわかるという商品があります。それは施設オリジナルの食品や菓子、例えばクッキーやらチョコレートなどで、それなりの来館者がないと置けません。当館のようにいつ完売するかわからないような施設では、期限付きの品物は扱えないのです。
 特に饅頭などは日持ち的に難しいかと思います。饅頭と言えば、国立科学博物館では以前、「毒」特別展でオリジナル「毒まんじゅう」を売っていました。福井県立恐竜博物館のオリジナル商品では、なんと羽二重餅の2色詰合が売られています。
 ユニークなものでは、長谷川町子美術館の「マチコさんドライパパイア」。これは彼女の好物を商品化したそうです。興味をひかれるのがINAXライブミュージアムの「トイレの最中」。洋便器の形をしたもなか皮に別添の餡をつめて食べるというものですが、餡を絞る時に「トグロを巻かないように」と「正しいお召し上がり方」にあります。蛇足ですが、「最中」は「もなか」と読みます。「さいちゅう」と読んでしまうと、ちょっとリアルになってしまいます。

◇世界のミュージアムグッズの話
 東京国立博物館のショップは、外国へのお土産はここで探すといいと言われていました。以前は本館の地下にあって、品揃えなども面白かったような気がします。逆に、海外のミュージアムグッズも、日本へのいいお土産となります。
 世界三大ミュージアムグッズというのを勝手に決めていいのなら、大英博物館の「ロゼッタストーン」のペーパーウェイト、メトロポリタン美術館の「ウイリアム」という青いカバのフィギュア、そして東京国立博物館の埴輪「踊る人々」グッズとかでしょうか。特に売上ベスト3ということではないのですが、強いて言うならいずれも作者不詳の収蔵品です。
 売上的にも知名度的にも多分、「モナリザ」グッズあたりがトップかとは思いますが、それではなんとなく面白くないわけで、それならいっそモナリザの絵葉書に髭を描いたデュシャンの「L.H.O.O.Q.」(エラショオキュ「彼女はお尻が熱い」)を現地(ポンピドゥーセンター)から投函してもらうほうがお土産としてはうれしいです。
 デュシャンと言えば、究極のミュージアムグッズ(?)があります。それは自身の作品のミニュチュアをトランクに収めたもので、「トランクの箱」という美術作品ではあるのですが、署名入りの20部限定豪華版と、番号なしの300部未満の普通版が作られ、そのうちのいくつかは日本の美術館にも収蔵されています。あのレディメイドの小便器「泉」やガラス製アンプルの中に空気が入れた「パリの空気50�奸廚離潺縫絅船絅△修靴董嵌狃�の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(大ガラス)のレプリカや「階段を降りる裸体No.2」などの絵画作品の写真などが詰め込まれています。
 思わず熱く語ってしまいましたが、ミュージアムグッズとしては「サモトラケのニケ像」のミニチュアとかダリの「柔らかい時計」とか「真珠の耳飾りの女」の耳飾りとか「モネの睡蓮」柄のスカーフとか北斎の「神奈川沖浪裏」とか「風神雷神図屏風」グッズとか色々あるのではありますが、まあ、収蔵品に関係なく売られていたりします。
 当館に隣接している山形美術館では現在、とてもすばらしい現代美術の企画展「高橋龍太郎コレクション」が開催されているのですが、その出品作家の方がその場で1枚なんと300円で絵を描いてくれるというイベントがあり、これなども究極のミュージアムグッズではないかと思います。

◇世界のミュージアムショップの話
 ミュージアムョップで特に有名なのは、やはりルーブル美術館の地下にある年中無休のショッピングモールでしょう。美術館グッズ以外にも各種土産物やフードコートなどもあります。また、オランダのスキポール空港にはオランダ国立美術館のショップ分館があり、あのヒエロニムス・ボスの絵にでてくる怪物のミニュチュア模型などがその空港分館に多数展示販売されています。
 台北の故宮博物院の売店も充実していて、特にあの「翠玉白菜」が様々な形で商品展開がなされているのですが(耳かきとかもあります)、もっと驚くのが同敷地内にあるレストラン「故宮晶華」。その国宝宴コース料理では「翠玉白菜」が白菜のスープ煮込みとして、「肉形石」が形そっくりの豚肉角煮そのもので提供されます。超おススメです。一方、北京の故宮博物院は、20世紀末はかなり素気ない感じでしたが、現在はネットで観る限り、高級志向のグッズばかりが並んでいます。さらにネット情報ではありますが、新規開館した大エジプト博物館のショップは、ルーブル美術館レベルとのこと。とにかくエジプトグッズというのはミュージアムグッズの一大勢力です。
 個人的に印象に残っているのは、イギリスのキューガーデンのミュージアムショップです。植物関係の書籍やガーデニンググッズが豊富にあり、様々なオリジナルグッズやらお菓子もあり、英国土産の購入にも最適です。屋外ではさまざまな植物までも販売されていて、ちょっとしたホームセンター状態となっていて、とにかくこうした施設で、ここまでものを売るんだと当時(四半世紀前ですが)驚いたことがあります。
 今はミュージアムショップのネット通販が充実しており、持って帰る心配がいらず、特に重量物である図録などは重宝します。以前は、帰国便の重量超過対策として、重量物は手荷物に移し替えたりしたのですが、それでも追加料金をとられることもありました。


勝手に個人的に決めた世界三大ミュージアムグッズです。
異論反論は、恐らく山ほどあろうとは思いますが。

◇ミャクミャクグッズの話
 切手と言えば、あの「ミャクミャク」(寄附金付)の切手が発売されていたので、いろんな意味で今のうち入手すべきかと思い、2シートほど購入いたしました。そこで思ったのですが、万が一のとき、寄附金というのはどうなるのでしょう。即座に、万にひとつもない、とは言われそうですが。
 「EXPO2025大坂関西万博」はさすがに長期間のイベントだけのことはあって公式グッズも豊富です。オフィシャルページには既に500を超えるミャクミャクグッズがあり、およそ人の考えつく限りのアイテムが並んでいます。缶入りお菓子とか傘とか、アクリルスタンドとか絵馬(!)とか、開催前に売れきれている商品もありました。
 変わり種としては、スポーツ用品メーカー製のミャクミャク型メディシンボールとかミャクミャク型ボルレッチ(ダンベル)とかもあり、その商品展開に驚くばかりです。ただし、その多くが外国製なのですが、法被(はっぴ)などはさすがに日本製です。アパレルではTシャツなどの他に、結構な種類の靴下がありました。それをみて思いついたのですが、当館でハイソックスを販売してはどうかと。臑のあたりに「最上義光」と印字したものを、「新しい戦国武将の・・・」という宣伝文句とともに出してみてはどうかと。恐らく、タダではすまない、やっぱり。



今年の梅雨入りは例年より早めとの予報が出ておりますね。
このところ湿度が高くてすっきりしない天気が続きます。


お堀から引越し検討中なのか、歴史館前の池にカモが飛来しています。
つがいらしき2羽ともう1羽が来ているようです。


先日の5月18日は里之宮湯殿山神社の例大祭でしたので参拝へ。
今年は丑歳御縁年ですので、お参りすると12年分のご利益です。

お隣の市神神社にもお参りして、家内安全商売繁盛などなど
お願いしてまいりました。