最上義光歴史館

最上義光歴史館
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日が落ちるのが日々早くなっていくような気がします。
その前の9月21日は8年ぶりに満月と重なった中秋の名月、
好天が続いたこともあり連日見事な月が昇っておりましたね。


「武士好みのデザイン」〜吉祥の表現と動物・植物の意匠〜
柏倉惣右衛門コレクションより、今回は秋らしい意匠をご紹介いたします。


小柄 月見狸
スタッフ一押しの一点、秋草を背景に腹鼓を打つ狸の姿。
銀象嵌の月の下でご満悦な顔です。



鐔 葡萄透し


縁 葡萄図
葡萄は豊穣や子孫繁栄を象徴する吉祥文様として用いられました。
また「武道」に通じることから武家に好まれた意匠です。

〇 高札について推理の話
 この高札については何分にも当時、懸賞金をかけても見つからなかったぐらいなので、真相はわからないのですが、勝手に推察すればいくつかの説が考えられます。
 まずは義光と政宗は家康と親交があったことから、反家康勢力の仕業という線があげられます。この高札が徳川邸前に掲げられたということからすれば、まずは、家康を挑発することを狙ったものではという推測ができるかと。ということで、
・推理その1 この謀反の黒幕は家康だということを世間に広めたかった説
・推理その2 義光や政宗のために家康が何らか動くのではという陽動作戦説
・推理その3 家康と義光・政宗との仲をこじらせようとする説
 いずれもこれは、反家康派すなわち石田三成近辺が怪しいということになります。次に誰が得するかという点からすれば、
・推理その4 義光と政宗を失脚させたいという説
 義光と政宗が失脚すれば、地政学的にありがたいのは上杉であり、また、秀吉の思惑もあるので、誰が得なのか素直に考えれば上杉説となるのですが、上杉としてはわざわざ高札などを立てず秀吉と話をすればいいわけで、可能性としてはまずないかと。
・推理その5 世間がドン引きした秀次切腹と三条河原の処刑への言い訳として、秀吉側がとにかく誰かに罪をなすり付けようとした説。
 それにしては「義光・政宗が国を二分して治めようとした」という話を持ち出すのは無理がありすぎで、また、秀吉は「此両家をば世上にてにくむと見得たり」とは言ったものの、この高札事件でかえって疑惑がとけ、義光・政宗の幽閉も解除されました。
 この謎解きについて当館学芸員にもきいてみると、次の説がでてきました。
・推理その6 もしかしたら「愉快犯」かもという説
 京からすれば奥州などは人が住むことすら想像できない道の奥。そんな所の武将が関白秀次とつながり、秀吉に拘禁され取調べられているらしい。いっそ、国を二分して治めようとしていたとして、家康の屋敷前とかに高札を建てれば面白いんじゃない、としたものではないかと。しかしながら義光・政宗ペアというのは、京の都でそれほど耳目を集める人物であったのかというと、「はて?」としか言いようがなく、確かに「伊達者」は話題になっていたとは思いますが。
 そこで、サスペンスミステリー好きのもう一人の学芸員にきいてみたところ、
・推理その7 家康が全てを読み切って高札を立てた説
というのがでてきました。つまり、このくらいバカバカしい内容の高札を立てれば、秀吉もこれはバカバカしいとして、義光・政宗を釈放してくれるはずと読み切って、自邸前にこれを立てたと。おおっ〜、なんという結末。しかもこれは、振り上げた拳の行き場に困っていた秀吉も、話を収めることとなった家康も、当然、救われた義光や政宗も三方良しという結論となるわけですが、さすがです。

〇 鷹狩りの話
 「鷹狩りと言えば家康」というくらい、家康と鷹狩りは切っても切れない関係で、幼少期の人質時代には鷹狩りを心の癒しとし、生涯1000回以上鷹狩りをしたそうです。駿河城本丸跡にある家康像にも、その左腕には鷹が止まっています。
 家康の鷹狩り有名なエピソードとして、政宗の鷹場と家康の鷹場は隣接していましたが、誤ってそれぞれの猟場に入ってしまい、それぞれ互いの姿を見つけたものの、その場は気付かなかったふりをして戻り、後日それを互いに詫びたという話があります。
 また、「文禄・慶長の役」いわゆる朝鮮出兵のときに義光は、肥前名護屋城に家康とともにいて、その戦況を語る手紙で、「ふしぎに出羽も我等も此度の命をみつけ候。やがて国へくだり、たかをつかい候はん事、ゆめかうつつかとよろこび候」と家康から言われたと書いています。 
 武士たちにとって鷹狩りは、スポーツであると同時に社会的なステータスであり儀礼的な側面もあります。鷹狩りとゴルフとは似ているというのも、例えば政界や経済界の方同士がゴルフをやるのはそういうことでもあり、もちろん健全なレジャーや健康増進としてやられる方も多いとは思います。実際、「徳川実紀」には家康の言葉として「鷹狩は遊娯の為のみにあらず。(中略)筋骨労動し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、をのずから病など起ることなし」と記されています。また、多くの人を使うため合戦の指揮に役立つことや、山野を駆け巡るため領内の視察になることも鷹狩の利点としてあげているそうです。織田信長は鷹狩あたっては、用意周到な準備をもって家臣にあたらせ、もって戦の練習ともしたとか、関東へ転封された後の家康は、民情視察のための鷹狩を繰り返し行ったそうです。
 さらに鷹狩りは一種のステータスであり特権的なものでもあり、鷹の飼育や狩場の管理などが必要でもあったのですが、足軽出身であった秀吉には鷹狩りを楽しむ余裕などなかったと思われます。よって秀吉には鷹狩に対しある種のコンプレックスもあったのではないかと。秀吉が鷹狩りに興味を持ちはじめたのは、天正15年(1587年)の九州平定後と言われます。鷹の産地として有名な日向国を島津氏は擁しており、島津氏は秀吉を、家格が武士ですらないことを理由に、関白としての権限を認めないと言っていたのですが、秀吉は九州平定により屈服させ、その島津氏を鷹巣奉行に任じています。その数年後、「大�睫遏�(高野とは鷹狩りのこと)という大規模な鷹狩りを開催します。大人になってから始めた趣味は恐ろしいとはしばしば耳にしますが、特に金と権力を持ってから始めた趣味というのはそんな感じがします。
 また秀吉は、秀次に対して天正19年(1591年)12月20日に「五ヶ条の訓戒状」というものを出しています。前4条は天下人としての一般的な心得を述べたものですが、最後の条では「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」とあるそうです。秀吉はわが身を振り返りこう訓戒したのだとは思われますが、鷹狩りの他に茶の湯と女狂いですか。まあ、金と権力がなければ心配のしようもないことではありますが。

〇 現在の鷹狩の話
 鷹狩は幕末まで頻繁に行われることとなりますが、明治維新後は次第に衰えていきました。宮内庁には現在も「鷹師」「鷹匠」が存在しますが、戦後,宮内庁が公式な鷹狩を行わなくなって久しく、千葉県と埼玉県にある鴨場の管理や鴨猟を行なう鴨場の管理などを行っているそうです。なお、毎年1月2〜3日に浜離宮恩賜庭園にて「諏訪流放鷹術保存会」による「新春放鷹術実演」がなされています。
 江戸時代には沢山の鷹狩りの流派がありましたが、今も残っているのは「諏訪流」と「吉田流」の二つ。「諏訪流」宗家の初代小林家次は戦国時代に織田信長が諏訪から招き入れた鷹匠といわれ、信長の死後は徳川家康に召し抱えられました。現在、その第18代宗家大塚紀子さんがこの浜離宮恩賜庭園の新春放鷹術などを担っています。現在日本で鷹匠を名乗っている人は50人ほどで、実は「鷹匠」を名乗るのに必要な資格がなく、個人が鷹を飼えば誰でも名乗ることができるそうです。
 その第18代宗家のインタビュー記事によると、「人鷹(じんよう)一体」ということが大事とのことで、「人馬一体」というのは良く耳にしますが、やはりそういうことなんですね。そうそう、猿回しにも人猿一体芸というのがあるらしく、また、猿と客とが一体となる感動芸もあるといいます。ちょっと違うかもしれませんが。
 なお、現代の鷹狩りについては「天皇の鷹匠 花見薫著 2002年」とか「放鷹新装版 宮内省式部職編纂 2010年」とか「鷹書の研究 三保忠夫著 2016年」とか、とにかく宮内庁が中心となりますがいろいろな書籍があるようで、私としては実はどれも手にしたことはないのですが、興味のある方はいかがかと。
 また、公家や武家の鷹狩りとは全く異なる、狩猟のための鷹狩りについては、実は山形の天童市に最後の鷹匠という方が住んでいて、これは使う鷹も狙う獲物や場所も時期も違うもので、詳しくは「ほぼ日刊イトイ新聞」の「幡野広志、東北の鷹匠に会いに行く」(2019/2/1〜2/5)に記事がでていましたのでご覧願えればと思います。このインタビューの中で、鷹狩りはカラスの追い払いもできるとはありましたが、知らない土地だと、迷ったり怪我したりするリスクがあるため難しいらしく、実は山形市でも過去に数回実施したことがあるのですが、続けられませんでした。

〇 チャチャの話
 皆様ご存じのとおり、秀頼を生んだ淀殿の本名は「茶々」です。なぜに茶々と名付けられたのかはよく知らないのですが、当時としては珍しくない名のようです。
 さて、「チェリー・ピンク・チャチャ」と言う曲があります。実はペレスプラード楽団の名曲「セレソローサ」(Cerezo Rosa:ピンクの桜)の別名です。冒頭のあの引っ張るだけ引っ張るトランペットパートは、この楽器をされる方なら一度はやってみたいのでは。この曲には同じペレスプラード楽団のバージョン違いがいくつかあり、掛け声が入るものと入らないものがあります。特にライブ録音と思われる盤の掛け声はとてもよく、自分もこれに合せて「ウ〜ッ!」と声を出してしまうのですが、そのタイミングが意外に難しく、なかなかうまく合わせられません。
 「セレソローサ」は1955年、全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録しましたが、その頃の日本ではとある「チャチャチャ」がヒットしていました。1955年に発表された「チャチャチャは素晴らしい」(Miragros Del Cha Cha Cha)という曲です。オリジナルはキューバのエンリケ・ホリン自作自演の曲なのですが、その年(昭和35年)11月には江利チエミさんが、同年12月には雪村いづみさんが、この日本語版を続けざまにリリースしたのです。どちらも日本語歌詞にスペイン語歌詞が挟まるもので、スペイン語どおりの訳もあるにはあるのですが、創作部分も結構ありまして、それがもうなんというか。「おまわりさんも踊り出す」という歌詞は原語どおりなのですが、江利チエミ版は「今にも死にそうなよぼよぼのおばあさんも、中風のおじいさんも、しまいにはチャチャチャ」と続き、それが「おーっとあぶない、そらこけた」となりまして、これが後発の雪村いづみ版ともなると「娘は甘茶で、チャッチャッチャ、年寄りゃ渋茶で、チャッチャッチャ」と、まさしくチャチャが茶々となり、「お寺じゃ坊さん、木魚を叩いて なんまいだ〜でチャッチャッチャ お釈迦様、踊り出す」となります。そこに若干こぶしのきいたスペイン語がはさまるわけで、ラテン音楽の好き嫌いにかかわらず、是非、皆様に一度は聴いていただきたい。当時、洋楽を日本語で歌うカヴァーはごく普通ではあったのですが、ここまでも意訳すらも超えてしまうと、ウーム、まあ、日本語の歌詞なんて、当時は問題にならなかったのかもしれませんが。
 ところでチャチャとは、キューバのトリプルマンボから発展したチャチャダンスというのが由来とのことで、それをもとにキューバ生まれでメキシコで名をあげたペレスプラードが、1950年代にアメリカに持ち込みチャチャチャとなったそうです。
 そのキューバで最も知られた歌に「グァンタナメラ」(Guantanamera)というのがあります。1929年の曲ですが、一度聴いたら忘れられない、馴染みやすい曲です。いろんな時代にいろんな方が演奏していて、手元にもさまざまな演奏家が演奏したこの曲を18曲収めたCDがあります。
 ネットでこの曲を検索すると、コロナ禍の中、小野リサさんが各楽器のパートとネット中継で結び、この曲を演奏している画像がありました。特にミュージシャンにとっては大変な時期ではありましたが、今は小野リサさんは、週一ぐらいのペースでライブ演奏を行っているようで、今年でデビュー35周年(!)、ボサノヴァ誕生65周年ということで、慶賀の至りではあります。
 そういえば、30年以上前に、東京のとあるライブハウスで小野リサさんの演奏を聴いたことがありまして、当時すでに大人気で、たまたま行った当日、最前列席にキャンセルがあり、間近で観ることができたのですが、失礼ながら彼女についてはボサノヴァを歌う人程度の認識しかなく、てっきりスタンダード曲を歌うものとばかり思っていたのですが、見事にオリジナル曲ばかりで、実はそれまで彼女のアルバムを聴いたことがなく、ノルにノレずに帰ってきたことがあります。すみませんでした。


白露を過ぎて朝夕はだいぶ涼しくなりましたね。
日中はまだ暑い日もありますが、夏の日差しとは違ってきたように感じます。


Kスタッフの力作ペーパークラフト第3作の伊達政宗が完成!
伯父甥揃い踏みでお待ちしております。


第4作の片倉小十郎も完成!こちらは伊達家の双璧でお出迎えです。


「武士好みのデザイン」〜吉祥の表現と動物・植物の意匠〜
柏倉惣右衛門コレクションより、今回はねずみ尽くしでお送りします。
鼠の意匠は吉祥のデザインと干支、動物のテーマに展示されています。
なぜ吉祥のデザインに展示されているのかは会場の解説をご確認ください!


鐔 甲子正月図
注連縄の奥の大黒天に三方を供えてかしこまる裃姿の鼠。
鼠の前には扇子、線彫りの室内表現、左上には線彫りの雲と象嵌の太陽と
絵のような構成です。


縁・頭 甲子図(大黒鼠)より頭のみ
大黒天が掲げる「寿」の掛け軸と鼠。鼠の表現がリアルです。


目貫 鉗鎚鼠図
スタッフお気に入りのうちのひとつです。
「鉗」は金ばさみ、「鎚」は金づちの意で、どちらも鍛治の道具です。


縁 七福神図
鼠はおりませんが、大黒天つながりでこちらの1点。
持ち物それぞれで七福神が表されています。


《2021年8月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和3年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (8/1 〜 8/31)
開館日数・・・・・・・・・・・・・27日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,069名
回答者数・・・・・・・・・・・・・24人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・4%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・26%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・26%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・9%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・22%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・87%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・13%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・70%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・30%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・70%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・30%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

山形県寒河江市 女性/50代
展示物はたくさんあって良かったが、画像での説明があると分かりやすい。無料で気軽に見学できるのは良かった。

山形県村山市 男性/9歳
兜とか刀がかっこよかったから。肖ぞう画もきれいにのこっていたから。

岩手県花巻市 男性/60代
武士の先祖は全て源姓にたどり付くと言われている。斯波氏は実は岩手県にもその流れがあります。
結局、九戸政実に滅ぼされますが、源氏の流れはいつまでも続くものです。最上氏もその流れですね。

京都 女性/30代
刀装具のコレクションが大変興味深く、面白かったです。ありがとうございました。

栃木県小山市 男性/10代
がんばって下さい。

宮城県仙台市 男性/30代
ネットで検索して済まさずに、実際に足を運び資料を見ていくことで理解は深まり、郷土への思いを少しは抱くことができる。
最上家の始はシバ、義光の妹の息子が伊達政宗、義光(アキ)は足利義明と紛らわしい為改名。駒姫が短命「美人薄命」等、大変勉強になりました。"

山形県・中山町 女性/40代
子供のクイズが楽しかった。最上義光のことがよくわかった。

山形県酒田市 男性/50代
説明をして頂きとても勉強になりました。またよらせて頂きたいと思います。

山形市 女性/60代
開館中に床そうじはないと思います。音が耳ざわりで、集中して説明文が読めなかった(ガラス部分のふきそうじはOKと思いますが)

埼玉県さいたま市 男性/50代
改易に関する展示があればよいと思いました。

茨城県美浦村 男性/40代
無料と聞き驚きました。ありがとうございます。また、時間が出来たら、ゆっくり拝観したいです。

山形県米沢市 女性/30代
刀装具展よかったです。図録でもう一度みたいと思いました。

山形県・山辺町 男性/69代
駒姫といっしょに亡くなった「おこちゃ様」の事を記したパネル1枚でもあると駒姫も喜ぶのでは

青森県奥入瀬町 女性/60代
説明文の字が、もう少し大きい方が読みやすい。ガラスに反射して更に読みにくいので。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。

〇 ドクダミの話
 猫額のようなわが家の庭にも実は、アジサイとキョウチクトウがあり、セイヨウヤマゴボウもあちこちに生えています。図らずも、そこここに毒が仕掛けられている庭になっています。
 そんな庭で大量に生えてくるのがドクダミです。ドクダミという名には毒矯め (どくため) という意味があり,この「矯め」というのは「角を矯めて牛を殺す」の「矯」、矯正の「矯」ですが、毒庭にはちょうどいいかもしれません。ドクダミはとにかく繁殖力があり、初夏には白い花(正しくは花ではなく葉が変化したもの)もつき、グランドカバーとしてもなかなかなものです。雑草扱いとせず生えさせたままのほうがいいくらいのものだそうですが、独特の香りを気にする人も。しかし、ベトナムではハーブや野菜としても利用されるそうです。
 ドクダミの生薬名はジュウヤク (十薬) といい,利尿薬や消炎薬となります。十薬という生薬名の由来は,馬がかかる十種の病に効果があるという言い伝えによるそうです。またこれを煎じた「どくだみ茶」には、尿作用や老廃物を体外に排出する働きがあるとされ、そのデトックス作用により体内の代謝が高まり、体のすみずみまで栄養成分が届くのだそう。体のだるさやむくみ解消が期待できるのだそうです。
 自家利用のドクダミ茶ぐらいはいくらでも作れるぐらい生えてはいるのですが、何かの拍子に、アジサイの葉とかキョウチクトウとかセイヨウヤマゴボウなどが混ざる危険性もあり、慎重さに欠ける性格ゆえ遠慮しています。

〇 ジャガイモの毒の話
 「自然毒のリスクプロファイル」のリストにはジャガイモ(じゃが芋)も載っています。ジャガイモの芽には毒があるため取り除く、というのは皆様ご存じとは思いますが、小学校で実習用に校内で栽培したジャガイモを食べて中毒になった、という事件が何年かおきに報道されます。
 これはジャガイモの芽だけが原因ではなく、光に当たって皮がうすい黄緑や緑色になったイモの表面の部分にも有毒成分が含まれていることがあるからです。親芋で発芽しなかったイモにも有毒成分が含まれていることもあるそうで、これをもったいないからと食べてしまうと危ない。実際、家庭科の授業で、自分たちで炒めるなどし、皮付きのまま食べて中毒になった事例があります。
 掘り出した新鮮なイモでも、小さいものや地中の浅い所にあったイモには有毒成分が入っていることがあり、ある事例では、市販品の数倍〜 10 倍程度の有毒成分が含まれていたそうです。この有毒成分は水に溶けやすいので、蒸す料理ではなく、ゆでる、二度ゆでするなどの調理方法をとると、中毒する確率が減るそうですが、熱によって分離はされないとのこと。中毒症状としては、嘔吐、下痢、腹痛、目眩、動悸、耳鳴、意識障害,痙攣、呼吸困難となり、ひどい時は死に至るそうで、食後おおよそ30分から半日で症状が現れるそうです。
 そう言えば、かつて学校では校庭以外の敷地の片隅などに職員用の農作物を栽培していたこともありました。サツマイモや枝豆やとうもろこしなどですが、私が小学生の頃は、施設管理のための住み込みの職員がいて、またはそこに寝泊まりする当直の先生がいて、敷地を管理する傍らそういうものも作っていたようです。公民館などでも昔、敷地の片隅に枝豆などを栽培し、地元の暑気払いなどで供していたところもありました。
思い出してみると、施設の保安管理を委託することは珍しく、というか委託先がなく、住み込みも普通でした。職住近接というか、職住一体というか、昔はそこで生活もしていたのです。
 学校以外でも例えば、霞城公園(山形城)の中に、かつて児童文化を担う社会教育施設があり、私が小学生の頃、そこには同級生とその家族が住んでいて、時々そこに遊びに行っていました。中庭には噴水があり、図書室、工作室、ホールがあり、ホールではピアノや卓球台がいつでも使えるようになっていて、工作室にはアマチュア無線機があり、屋外にはバトミントンができるコートもあって、その同級生はそれが身近にあり、また上手だったわけで、当時はうらやましい限りでした。そこでご飯などをごちそうになったこともあります。今、考えると、その施設に住むとなれば、また、色々と大変なこともあったとは思いますが、今や市の施設においては、住み込みどころか当直もありません。
 私の父の職場も民間企業ではありましたが当直勤務があり、子どもの頃、休日にそこに連れていかれることがあったのですが、その宿直室はそのまま麻雀部屋と化してしまうわけで、煙草の煙や点棒などが行きかう中、漫画本などを見ながら過ごしたこともありました。残念ながらそういう社会勉強の機会は、今は少ないわけで、もっとも、そんな機会が必要かという話にもなりますが、まあ、セキュリティとかコンプライアンスとかそんな言葉もない時代の話ではあります。

〇 農林水産省からの注意喚起のお話
 農林水産省のHPでは「知らない野草、山菜は採らない、食べない!」という注意喚起がなされています。以下、その文面です。
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 「有毒な成分を含む植物による食中毒の危険は、山菜採りや野草摘みの際だけではありません。家庭菜園で、有毒な成分を含む観賞用植物を野菜と間違って採って食べてしまったことによる食中毒も起きています。
過去の事例として、スイセンの葉をニラやネギと、球根をニンニクと間違って食べたことによる食中毒、ヒガンバナの葉をニラと間違って食べたことによる食中毒が起きています。
・「ニラ」と間違えやすい有毒植物
 スイセン、スノーフレーク(スズランスイセン)、キツネノカミソリ、ゼフィランサス(タマスダレ)など
・「ギョウジャニンニク」と間違えやすい有毒植物
 コルチカム(イヌサフラン)、スズラン、バイケイソウなど
・「ふきのとう」と間違えやすい有毒植物
 ハシリドコロ、フクジュソウ(福寿草)など
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 我が家の庭に生える植物で食べられるものは、シソとミントぐらいなので、なにかと間違えて中毒になることはないとは思いますが、特にシソは一時期、これでもかというくらいに勝手に生えてきました。しかし今年はなぜかめっきり少なく、かわりにというわけでもないのですが、プランター栽培で「空心菜」を育てています。種から育てたのですが、これが短期間でどんどん育つ。ちなみにその種は、「空心菜」の名で売られていることはあまりなく「エンサイ」などの名で売られています。某中華街で食べれば、これの油炒めが一皿千円しますが、これに換算すれば、このプランターの分だけで優に1万円分以上の量が育ちました。ただこれを、元が取れたと言うべきかは、なんとも難しいところですが。 

〇 「新庄の花あじさい」の話
 山形新幹線の終着駅がある新庄、とりもつラーメン、くじら餅、馬刺し、かど焼のまち新庄ではありますが、「あじさいせんべい」という銘菓もあります。それは南仏プロヴァンスを彷彿とさせるチュイール風のお菓子です。チュイールとはフランス語で「瓦」や「タイル」を意味し、小麦粉や砂糖、バター、アーモンドなどをオーブンで薄く焼き上げた瓦の形をしています。「あじさいせんべい」という名前からすれば、瓦煎餅をイメージさせますが、それとは全くの別物で、新庄市の花「あじさい」をモチーフに、あじさいの花のように焼き上げた「チュイール」です。
 とりわけ菓匠たかはしの元祖あじさいせんべい「新庄の花あじさい」は、甘く香ばしいパリパリのアーモンドスライスがたっぷり乗っている全国菓子博栄誉賞も受賞した菓子です。しかし、菓匠たかはしは2021年2月末に閉店。後継者を探していたのですが製法が難しく、また新型コロナの感染拡大による観光客激減も影響したとのこと。閉店時にはこれを求めるお客さんが殺到したそうです。往時は新庄みやげの定番として新庄駅にも山積みされていて、新庄駅に寄るたびに自分への土産として買っていましたが、今の駅売店には、さまざまな地元菓子店の「あじさいせんべい」が並んでいます。中には「あじさいの葉」というリーフパイもあります。
 その「新庄の花あじさい」は、山形県内の銘菓としては五本の指に入るものではなかったかと思います。では、あとの四本は何か、と言うことですが、これがなかなか難しく、山形市内ならあそこのふうき豆とか、あそこのどら焼きとか、あそこのゆべしとか。一方、50年以上続く「ゴールドシャ〇ー」や「チル〇ー」もあげておきたいし、同じく50年以上続くお菓子としては「〇ップルパイ」というのが上山市にあって、上山市と言えば、江戸時代から続くあそこのまんじゅうとか、あそこのぬれやき煎とか黒こしょう煎とか、あと、もっぱらお土産用なのですが「○○ロマン」もたまに自分で食べるとおいしい。鶴岡にも「〇〇屋」とか、酒田にも「○○米菓」とか、米沢にも「〇〇菓子店」とか、銘菓の有名どころは数々あり、まあ、これはこれで別の機会にでも。
 ちなみに当館でしばしば手土産に用いるのが、山形市内で江戸時代から続くお菓子屋さんの「五十七万石」という最中です。差し上げる相手が六十二万石でも百二十万石でも「五十七万石」を持参しています。


〇 狩野派四代の話
 狩野元信(1477?-1559)については、実は2017年にサントリー美術館六本木開館10周年記念展として大規模な展覧会が開催されており、以下、主にその図録からの受け売りなのですが、とにかくこの人のビジネスセンスというのがすごいのです。
 狩野派というのは、足利将軍家の御用絵師となった狩野正信(1434-1530)を始祖とし、親子血縁関係で代々続く絵師の集団で、幕府の仕事を受けてきた人たちです。この「家系で画業を継いでいく」ということと「幕府の仕事中心」ということが、同時代の琳派と異なる点です。
 狩野家始祖の正信は「筆様制作」という、中国の名家の絵画から図様を借用し組み合わせるなどの方法で描いていました。正信は馬遠、夏蛙、牧谿、玉潤などの中国画を模倣し、画題の前には「(中国画家名)様」とその「筆様」に拠ったことも入れていました。ただし、その原画に忠実であるがため、様式的には統一感のないものとなりました。
 二代目の狩野元信はこれを、真(馬遠、夏蛙)、行(牧谿)、草(玉潤)の「画体」として受注生産する仕組みを構築しました注文内容をカタログ化し、モチーフなどの図柄をパターン化、多くの絵師を抱え工房を構えて作成しました。作画をフォーマット化し、絵師も代替できる仕組みを整えたのです。主となるモチーフを大画様式で描き、それ以外は金箔や金雲で埋めることで、効率的な作成を狩野、いや、可能としました。
 また、正信は中国の名家の画を倣う「漢画」の人であったのに対し、元信は土佐派が主流を担っていた「やまと絵」も取り入れ、和漢両方を使いこなすようになりました。「漢画」系の明快で力強い構図や線描と「やまと絵」系の金泥や濃彩色の和漢融合がなされ、「狩野家は是れ漢にして倭を兼ねる者なり」とも評されました。しかも、元信は土佐光信の娘を妻としており、まるで戦国武将です。当然、土佐派との交流もあったそうです。
 戦国時代の武将が「切り取り勝手次第」で領土を広げ、築城していくのに伴い、障壁画や屏風画などの大画面の図画の需要も増加しました。これに狩野派は、シスマティックな態勢で臨み、四代目の永徳(1543-1590)のときに最盛期を迎えます。あの国宝「上杉本洛中洛外図屏風」のあの狩野永徳です。永徳は織田信長や豊臣秀吉に重用されましたが、47歳で亡くなります。過労死であったようです。当館学芸員はふと、「信長や秀吉の注文を断れば、首が飛ぶだろうし…」と漏らしていましたが、いずれにせよ命がけの状況ではなかったかと。
 さて、初代正信、二代元信、四代永徳ときて三代目は?という話になりますが、元信には3人の男子がいて、ただ、家督を継いだのが三男の松永(1519-1593)でして、父とともに活躍したとのことです。川柳に「売り家と唐様で書く三代目」というのがありますが、父の元信は唐様に加え倭様も取り込んでおり、すると松永も「唐様」だけでもなく、もちろん家を売ることもなく、三代目も家業を継ぎ続けた、それだけでも立派ではないかと。息子はあの狩野永徳ですし。ただ、息子の方が先に亡くなっています。
 ところで、ネットを見ていると、三代目は松永でなくその兄の宗信が三代目であり、四代松永、五代永徳としている例もありましたが、狩野家菩提寺の池上本門寺(東京)では、三代松永、四代永徳としてあり、それに従うのですが、驚くのがこのお寺のHPにある3Dでして、歴代の墓の配置がわかるよう墓苑が3DのCGで表され、また、墓のひとつひとつも3Dで観るためのQRコードが付いています。それにしても、墓の3Dマッピングって、なんという発想でしょうか。ちなみに京都にも、狩野派の菩提寺という妙覚寺があり、ちょっとややこしいです。

〇 唯一無比(オンリーワン)の話
 薄(すすき)の屏風で触れたのですが、唯一無比というかオンリーワンというか、とにかく他に類を見ないというものについての評価は、やはり悩ましいものがあります。出所も時代も不明となればなおさらです。専門家に鑑定を依頼するという方法もあるのですが、それはタダでもないわけで、鑑定費用を要求できる材料がないと、「これ、なんかいい感じなんだけど」ぐらいでは、やはり予算措置は無理です。
 実は、当館にもうひとつ、そういう物があって、それは以前、この館長日誌でも取り上げた黒織部の茶碗です。山形城跡の発掘調査で出土したもので、そういう意味では、出所も時代も特定できるのですが、箱もまして箱書きなどもなく、いつ、どこで作られ、だれが所有していたものなのか、全くわからない物なのです。
 この茶碗の見所として、シンプルモダンな市松模様柄というのを掲げているのですが、織部関係の展覧会図録やらネットの画像などをざっと見渡すと、この茶碗のような市松模様だけが描かれているものは見当たらず、通常は市松模様の白地部分になんらかの絵柄や模様が入っています。つまり、この図柄の類似例がないのです。また、織部焼は登り窯で焼くのですが、普通、登り窯は複数の作者が使う共同窯で、作者や注文主を区別するために、品物には彫りつけたり押捺したりする「窯印」(かまじるし)を付けます。必ず付けるとは限らないかもしれませんが、この茶碗には見当たらない。ついでに言えば、高台がルーズな印象で、地肌の色も微妙に違う感じ(クールグレイです)。これらの違いを全て「特別なオンリーワン」である、と評価してよいのやら、悩ましい所ではあります。形とか柄とか、なんかいい感じなんですけどねぇ。

〇 奥行きがない話
 狩野派にしろ、琳派にしろ、屏風画に奥行きがないというのは、どういうことで、それはなぜなのか、ということについて少々。
 まず、奥行きがない、とされるのは単に、西洋画でいう「遠近法」や「明暗法」が用いられていないことによるものです。南蛮貿易によってそのような技法の絵画や版画が持ち込まれるまで、日本にはそのような技法がなく(特殊な遠近法らしきものはあったそうですが)、写生を求めた円山応挙(1733-1795)あたりから遠近法がとりいれられることになったそうです。また、「明暗法」とは、簡単に言うとハイライトや影を入れる手法で、漫画でいう「劇画タッチ」のような感じでしょうか。
 また、なぜ立体的に描かれないのかということについて、とあるブログに、「芸術家が自分の主観のおもむくままに描く “アート” ではなく、建築物の一部を飾る “装飾” だったのである。(中略)要するに “家具” である。彼らは、その “家具” を造形するための「職人」としての自覚をもって制作に励んだ。」とありました。
 確かに屏風は家具でありまして、もともとは風避けよけだったり、間仕切りだったりするわけですが、狩野派の絵師に屏風を頼むのに、よもや風避けだの間仕切りだのに用いる人はおらず、求める役割としてはやはり、部屋を飾り、空間を変えることであろうことは言わずもがなです。
 その際、あまり立体的でリアルだと、関心が寄りすぎたり、画中に入りすぎたりしてしまい、また、作家性が強すぎると、好みが分かれたり、そのものの存在感がありすぎたりしてしまいます。家具は家具らしく、存在をアピールすることなく、しかし、空間を変える機能をもたせつつ、また、何かの自然風景をそのまま切り取ったようなものでもなく、ということに対しての家具職人としての答えが、あのグラフィカルな図柄だったのではないかと。漫画の例で言えば、「劇画タッチの図柄では、どうもなぁ」ということで、「アニメタッチのような、平たい感じがいいかも」ということでしょうか。
 さて、フランスの作曲家エリック・サティの作品に「家具の音楽」というのがあります。そこにあっても日常生活をじゃませず、意識的に聴かれないようにと作られた室内楽曲です。これが初めて演奏されたのは、1920年のとある演劇の幕間の休憩時間でした。ところが演奏が鳴り始めると、観客は自分の席に戻って聞き入ろうとし、結局、大失敗に終わってしまったそうです。BGMそしてアンビエントミュージックの先駆的な作品ではありますが、実際にこの曲を聞いてみると、聞き流すにはいろいろ引っかかりもある曲です。
 では、屏風をアンビエント的なものと捉えてもよいかというと、それもちょっと違うかと。「アンビエント」について調べると、「作曲家や演奏者の意図を主張したり、聴くことを強制したりせず、空気のように存在し、それを耳にした人の気持ちを開放的にすることを目的にした曲」とあり、これを「作家の意図を主張したり、観ることを強制したりせず、空気のように存在し、それを目にした人の気持ちを開放的にすることを目的にした作品」と読み替えると、意味は通じるのですが、そんな目的の屏風はやはり稀かと。そもそも、狩野派やら琳派やらの屏風を論ずるのに、アンビエントを持ち出すことに無理があるのではと。以上、奥行きがない話でした。すみません。
 ところで、まったくの余談ですが、最近のゲームセンターのクレーンゲームエリアに流れているあの、ビート抜きのトランス系BGMは、なんと言うのでしょうか。メロディーらしきものが特になく、ただただ周りの騒音が消えてしまい、ゲーム機だけに意識が向いてしまう、恐ろしいBGMです。ゲーセンに最適化したサウンドスケープとでも言うべきなのか、サティもシェーファーもびっくりです。