最上義光歴史館

最上義光歴史館
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《2021年12月の利用者アンケート集計結果》

休館のためアンケートの実施なし

※施設の老朽化に伴う設備不具合の原因調査を行うため10月16日から令和4年1月17日まで臨時休館

〇 クリスマスカードの話
 今年の暮れはクリスマス大寒波で、山形市内にもそこそこの雪が降り、当館前の公園には、雪の重みで折れた桜の小枝などが地面のあちこちに転がっていました。文字通りホワイトクリスマスだったわけですが、戦国時代を取り入れたクリスマスカードを作るとしたら、どんなメッセージがいいかという話になり、当館学芸員からでてきたのが「厭離穢土欣求浄土」という文言です。
 国際情勢からすれば、まさしくこのとおりではありまして、ネット上でも第三次世界大戦はすでに始まっているという記事が、Fという経済誌(毎年の世界長者番付の記事で有名な某誌)にでていました。その寄稿者のBryce Hoffmanさんは、
 「今起きている一連の紛争は、一見するとそれぞれ別個の紛争に見えるかもしれないが、単一の包括的な世界規模の紛争の構成要素と認めるべき性質をいくつか共有している。具体的には、大国が直接または代理勢力を通じて関与していること、政治的・経済的・イデオロギー的な目的が複雑に絡み合っていること、ひとつの紛争が他の紛争に芋づる式に影響を及ぼし、不安定化の連鎖を引き起こしていることなどである。
 こうした相互に関連した危機は、第一次・第二次世界大戦の初期とよく似ており、局地的な紛争と世界規模の紛争の境界を侵食して、支配と生存をかけたより広範な闘争へと国家や同盟国を引きずり込んでいく。これこそ、個々の戦い以上に世界大戦を定義づけるものだ。」と、指摘していて、
 「紛争の性質と規模がますますグローバル化しているとはいえ、この第三次世界大戦は、前世紀の2つの世界大戦とは大きく異なるものになるだろう。かつてカール・フォン・クラウゼヴィッツが『戦争論』に記したように「どの時代にも、その時代特有の戦争、特有の制約条件、特有の奇妙な先入観がある」のである。」と言っています。
 この特有のものとは今日の場合、皆様お気付きのとおり、情報戦のことかと思います。前線では塹壕を掘って火器でドンパチという状況は変わらないものの、衛星回線(そう、あのマスクさんが関わる衛星)やドローン映像・操作などの情報通信が戦を決する状況となっています。北の国の兵士がいくら体を鍛え痛みに耐えられるとしても、その時代特有の戦争に応じたものでなければ、かつての某国の、史上最大の戦艦が戦闘機に沈められ、竹鎗三百萬本で大型爆撃機に立ち向かおうとしたようなものです。そして、「特有の奇妙な先入観」をつくるのはきっとSNSなどではないかと。ただ、F誌は経済誌だけあって、第三次世界大戦なので経営者は心せよ、という論説にはなっています。
 なんかあらぬ方向に話がとんでしまいましたが、その、クリスマスカードのメッセージをどうするのかという話でして、そもそもは「世界人類が平和でありますように」という文言から、戦国時代ならばそれは「厭離穢土欣求浄土」ではないか、という話になったものです。それにしても、キリスト教の行事に仏教の教えを持ち込むという、平和と言っちゃ平和な話ではあります。


↑今年のクリスマス前後の歴史館界隈(←流行語のようですが)の写真です。



〇 某GTPの話
 某館の学芸員が愛読する「〇―」の1月号は、さすが新年号だけあって昨今のネタ総ざらいといった感じで、私も実は思わず買ってしまったのですが、そこに「アンパンマンはイエスキリストだった」という記事がありました。あ〜、ついにこんなことまで、と思いつつ読み進めると、意外にも辻褄が合っていて、納得させられるものがありました。
 聖書では、イエスが食卓でパンを取り,それを裂き,これは私の体であると言って弟子たちに分け与える話があります(マタイ26)。アンパンマンも「さあ僕の顔をお食べ」と言って自分の体の一部であるパンを分け与えることから、そのような記事となったようです。この話、実はこの雑誌が唐突にぶちあげた話でもなく、作者のやなせたかしさんはクリスチャンであり、特に全国のミッション系学校の礼拝では、アンパンマンのモデルはイエス・キリストである、という説話がなされているようです。
 これから、それでは三位一体、つまり父や聖霊は、どのキャラクターになるのだという話になり、父は「ジャムおじさん」が、聖霊は「めいけんチーズ」があてはまるのでは、ということになりました。ちなみにアンパンマンワールドでは、ジャムおじさんもめいけんチーズも「妖精」となっています。無理を承知であてはめれば、バタコさんはマグダラのマリアか。一方、ネット情報では、めいけんチーズはバイキンマンの手先である、という説もありました。それでは、裏切者のユダはどうなのだと、「アンパンマン 裏切者」で検索したところ、カバオくんという説が出てきました。あっ、そうなのかと。いやいや、こんな論陣を張ったところで、世の中の役に立つわけでもないのですが。
 ちなみに某GTPを利用し、「アンパンマンはイエスキリストだった」というイラストを求めたところ、「宗教的な人物の描写には宗教的な感受性が伴います。このテーマを元にしたイラストを生成することは、慎重に考慮するべきです。」という、神の声のような答えが返ってきました。
 さらに話題は、「ドラえもんは弥勒菩薩である」という説にまで発展しました。弥勒菩薩は、釈迦仏が入滅した後、約56億7千万年後に地上に現れれる「未来仏」です。一方、ドラえもんの誕生日は2112年9月3日ということで、まあまあの未来からの使者です。どちらも衆生を救うことで一致しているわけで、調べてみるとネットにこの説が既にあがっており、そこでまたもや某GTPに「ドラえもんは弥勒菩薩である」というイラストを求めたところ、「画像の生成に問題があったようです。もう一度試すか、説明を調整してください。」と、しかも英語で返ってきました。やはり罰当たりなリクエストだったようです。
 いずれも無料で試した結果なので、某GTPによる画像生成はできないのですが、画像生成をリクエストするのには月額3千円 が必要で、さらに何でも答えてくれる(?)pro仕様は月額3万円とのことですが、当館においては当然そんな予算もなく、無料お試しで画像生成を求めた場合は、文書でそのイメージを返してくれます。
 それで、「最上義光と義姫のイラスト」というのをリクエストしたところ、文書のみですがかなり丁寧な描写が返ってきました。ただ、ちょっと見過ごすことができない記述がありました。まず、義光を「よしみつ」と、その読みをわざわざ表示していました。これはまあ、アルアルではありますが、もう一つ、何の情報から得られたのか不明なのが、「義姫は義光の妻」であるとの説明。義姫は義光の妹で伊達政宗の母なのですが、恐らくは義光と同じ義の字からの連想で、義光姫=義姫とでもなったのでしょうか。AIの限界と言うべきか、当方の知名度の問題と言うべきか、まあ、そんな状況ではあります。
 AIが仕事を奪う、ということがしきりに言われていますが、一方ではAIをチェックするのはやはり人が行うべきで、それには高度な知識経験が求められる、という説もあります。別に「義光はよしあきと読む」とか「義姫は最上義光の妹」とかは、高度でもなんでもないのですが、それでも誰でも知っていることでもないため、あえなくスルーしてしまうレベルなのかもしれません。義光を「よしみつ」と読むのはごく常識的ではありますが、最上義光とした場合は「よしあき」と読む、AIにそれができるようになるまでは、今のこの仕事はまだ安泰かもしれない、ということではあります。
 そしてまた、「世界人類が平和でありますように」から「厭離穢土欣求浄土」を発想するということも、AIにはなかなか難儀なことかと。こうしたところに人が入りこむ隙間はまだまだあるようです。

〇 ファクトチェックの話
 このSNS隆盛の社会で、なによりもまず求められるのがファクトチェック(事実確認)です。例えば「アンパンマンはイエス・キリストだった」という話は、本当にやなせたかしさんがこれを意識してキャラクターを設定したかもしれず、また、少なからぬミッションスクールで語られる話となれば、ファクトチェックが求められるところですが、先ほどの「カバオくんはユダ」という話は、さすがにファクトチェック以前のことでしょう。一方、これが「イエス・キリストはアンパンマンだった」という話になってしまうと、もうこれはAIの言うとおり、慎重に考慮すべき問題として扱わなければなくなるかもしれません。
 ファクトチェックのためのAIというのも恐らくあるとは思いますが、ディープラーニングに用いた資料が同類であれば、そのチェックにも限界がありそうで、そこで重要になるのは人の多様性であったりします。まあ、平たく言えば、金子みすゞさんの「みんなちがってみんないい」というか、相田みつをさんの「他人のものさし 自分のものさし それぞれ寸法がちがうんだな」というか、そういうものが大事になるようでして。
 そこで思い出したのが、映画「ブレードランナー」に出てくるレプリカント(アンドロイド)を見分けるシーンです。いろいろな質問をして感情反応があるかどうかで見分ける、フォークト=カンプフ検査というのだそうですが、その質問には動物に関係するものが多いと、原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」にあります。
 例えば、それが食べられるかどうかを質問するわけで、牡蠣の生食はいいとして、ホヤやナマコはどうかとか、ウサギやハトは食べてもイヌやヘビはどうかとか。イナゴは食べても鈴虫は食べないとか。ご承知のとおり、特に食文化というのは多様でして、理屈では食べられても、感情的には人それぞれで、このあたりがAIの課題になろうかと。つまり文化的な背景とか常識とかをどうするかという、ここに人が介在する必要性がでてくるわけです。
 もうひとつ、なりすましとかディープフェイクとかの問題があります。それらについては、既に多くのメディアなどで問題が指摘されていて、なにもここで素人の私が云々する必要もないのですが、最近こんなことがありました。
 当館の企画展「シン・市民の宝モノ2025」にむけ出品を受け付けている最中の話ですが、陶磁器製の最上義光像があるとして持ち込んだ方がいて、荷ほどきをすると、正に「山形県史談」にある最上義光の図とそっくりの像が現れ、おおっ、どこでこんなものを作っているのだ、と皆で眺めていたのですが、当館学芸員が、「あ〜これ、加藤清正だ」と指摘。その理由は、「虎の敷物に乗っている」とのことで、多分、武者人形のようなものではないのか、ということで落ち着きました。なんか、武将ものは、髭を付けるとみんな同じ感じになるようで、ただ、虎の毛皮ならば加藤清正の持物という、宗教画のような判別ができるわけです。別にこれはなりすましとかディープフェイクとかではないのですが、ファクトチェックの一例のようなものかと。


「山形県史談」最上義光像 
来年もよろしくお願いします。







〇 国宝茶碗の話
 楽茶碗には一般的に黒楽と赤楽がありますが、白楽というのもあります。白楽は楽家代々の茶碗にもあるのですが、白楽で最も有名なのが、「楽焼白片身変茶碗」、銘「不二山」という本阿弥光悦作の国宝です。現在、国宝指定の茶碗は8点しかなく、うち和物は2点のみ。そのもう1点は銘「卯花墻(うのはながき)」という作者不詳の志野茶碗です。
 三井記念美術館が所蔵する「卯花墻」は案外目にする機会が多く、フルーツパフェなどを食べたついでに観れたりするのですが、諏訪湖畔にあるサンリツ服部美術館所蔵の「不二山」は門外不出で、国宝ゆえ展示期間も限られるため(これは「卯花墻」も同じですが)、機会を合わせるのが大変です。ただ、美術館へのアクセスは容易であり、平日であれば結構空いていて、じっくり鑑賞することができます。
 この茶碗のすごいところは、茶碗本体のみならず、共箱の「蓋」と茶碗を包む「裂(きれ)」も国宝(附指定)であることです。美術館で展示される場合はこれらも一緒に展示されます。蓋には光悦自筆の「不二山大虚庵」の銘と印があり、裂(紫羽二重地松竹瀧人物金糸刺繡)には、光悦の娘が嫁ぐ際に本茶碗を振袖に包んで持参した、との逸話があります。この茶碗は二重にも三重にも箱に収められており、かつてサンリツ服部美術館で「箱は語る」と題し茶道具の箱を中心とした展覧会を開催した折、それらの箱も見ることができました。
 この「不二山」は、白楽とは言え下半分は黒く、意図してこうしたのか、全てを白くするつもりがこうなってしまったのか、議論が分かれるところではありますが、とにかく和物の国宝はこれを含め2点のみです。刀剣の国宝指定は122件もあるのに、とは思いますが、なぜ少ないのかは、やはり謎のようです。

〇 練上手の話
 さて、楽焼とは対照的な日本特有の技法に「練上」というのがあります。海外では「Neriage」と表記します。色の違う粘土、これは元から違う色の粘土だったり顔料を混ぜ込んだ粘土だったりしますが、それを複数組み合わせて模様とするもので、色違いの粘土の薄板をミルフィーユのように重ねて切ったものや、金太郎飴のように絵柄が出るように丸めたものを切って並べ板状にしたものなど、それらの断面模様を活かし、作品を作ります。粘土を組み合わせる際には隙間をつくらないようにするとか、切り出した板の模様が崩れないように成型するとか、特有の技術が求められます。また、色違いの粘土を混ぜてマーブル状の柄にすることもあり、轆轤成型などでよくみかけます。これも粘土が混ざりすぎて柄が消えないような技術力を要します。
 「練上(ねりあげ)」のほかに「練込(ねりこみ)」と言うことがありますが、某「やきもの事典」によると同じとのことです。「揉込(もみこみ)」とも言うそうです。
 練上は、ただ切って形を揃えるだけの銘々皿であれば大量生産できるのですが、マグカップなどはつなぎ目が崩れないように貼り合わせるのが難しく、大きめの花瓶などは型を作ってその上に貼り付けるように成型する型作りの技法を用いたりします。面が凸凹にならないようにすることが肝心で、板が薄ければ薄いほど高度な細工となります。
 山形ゆかりの練上手の作家に、東北芸術工科大学の学長ともなられた會田雄亮さんがいます。かつて「違いがわかる男」として某インスタントコーヒーのCMに出ていた人です。公共施設の大モニュメントや陶壁から日常使いできる花器やカップまで製作されていましたが、市販されていたコーヒーカップセットなどは、薄造りの細工でしたが値段的には手頃で、山形市内では容易に購入できました。なので、いつでも買えるかもと思っていたところ、今となっては入手困難であり、もとより作家物のコーヒーカップなどを買うこともない自分は、やはり違いがわかる男ではなく、すみません。

〇 守破離の話
 15代楽吉左エ門の作品図録に本人の「守破離の彼方へ」と題した文章があります。ここには、千利休の教えを和歌の形式にまとめた「利休道歌」の最後にある、「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」という句を引き合いに、つぎのように綴っています。
 「私は世に言う『伝統』にも『現代』にも与するつもりはない。それらの決めつけを強い意志で拒否したい。『守』はまさに私自身を形作っている膨大な過去からの時間と認識の総体、歴史の集積ともいえる。それを認めながら同時にそれに抗している自分がいる。規定され、規定する自分とそれに抗している自分がいる。規定され、規定する私とそれを超えようと逸脱する私。永遠に繰り返される葛藤と自己矛盾。」15代の作品は、まさにそれを体現している感じです。
 そして、「長次郎が400年前、ただ黒々とした一椀の楽茶碗をもってすべてを裁断、深々と沼淵に我々を落とし込んだ、あの研ぎ澄ませた刃の一撃のように、あの静かな、あまりにも静かな世界の底に激しく負わせたもの。言語を超えてゆくこと。『本』はそのことを意味する。」とあります。
 蛇足ながら「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」という句を説明しますと、規矩(きく)とは規範のことで、その伝統の型をまずは徹底的に「守」り、それを自ら「破」り、型や師から「離」れて自分の型を確立しても、「本」つまり本質的なことを忘れるなという意味です。
 これについて15代は、「守りたくもあり同時に離れたくもあるのが、人の心の常」「『保守』と『革新』はあらゆる諸相において常に生じている。『守・破』の二項から立ち上がる『離』はそれを超越しようとする境地である」が、しかし「『離』は揺れ動く私自身の意思、だんじて超越の境地ではない」と語っています。「私は時に右にまた左に、振り子のように大きく振れながら波形を描き歩いている。それが命というものの状態である」前後どちらに進んでいるか知りようもない、とも。
 「守・破・離」は、そのままでは一方向への進化となってしまいますが、15代はいわゆる「正・反・合」のアウフヘーベン的な捉え方をしており、それは単なる昇華でもないようで、15代は、「守」は時軸の流れであり、「破」は時の裁断ともいえる。「離」は規定や認識という言語を超えようとすることであり、超えていくことが「本」である、とも言っています。なんか私では手に余る次元の話となってしまいましたが、東京芸術大学彫刻科卒業直後、イタリア・ローマに2年間留学しており、若い時から常に思索し、何かと闘ってきたのであろうことは想像できます。
 ネットで調べたところ、この7月にロンドンで個展を開催していました。音楽とのコラボレーションということで、「Homage to Alban Berg and Toru Takemitsu(アルバン・ベルグと武満徹を讃えて)」というタイトルがついています。彼らの音楽に影響を受け制作したもので、ベルグはBlack Rock、武満はWhite Rock、と呼ばれる茶碗で表現したそうです。特に武満を表現した白地にカラフルな色彩をまとった作品は、まるでミロの版画を思わせるような茶碗で、人気沸騰間違いなしかと。個人的にも買えるものなら買いたいところです。
 さてここで、ベルグや武満徹について、その蘊蓄やら個人的な思い出やらも語りたいところではありますが、そんな紙面もなく、第一こんな話題に誰もつきあってくれそうにもないので、ここは「Homage to Raku Kichizaemon XV Jikinyu (15代楽吉左エ門直入讃)」ということでとどめましょう。

〇 利休道歌(利休百首)のお話
 せっかく「利休道歌」がでてきたので、ここで簡単にその内容でも。これは千利休の教えとして、茶道の精神、点前作法の心得などを、初心者にもわかりやすく憶えやすいよう歌にして百首にまとめたもので「利休百首」とも言われます。全てが必ずしも利休の作とは限らず、一般的には、裏千家11代玄々斎がまとめた「利休居士教諭百首詠」に、利休の作と推測されるものの2首が加わったものとのこと。茶道をされる方は、必ず目にしたものではないかと思いますが、その中からいくつか。
 まずは、心構えに関する歌から。
▽ その道に入らんと思ふ心こそ 我身ながらの師匠なりけれ
(それをやろうという自分の気持ちこそが自分の師匠である)
▽ 上手にはすきと器用と功積むと 此の三つそろふ人ぞ能(よ)く知る
(上達するには、好きで、器用で、コツコツと努力する、この3つが大事)
▽ 点前には強みばかりを思ふなよ 強きは弱く軽く重かれ
(点前では、力を入れ過ぎず、強いものは弱く、軽いものは重く扱って)
▽ 習ひをばちりあくたぞと思へかし 書物は反古(ほご)腰張にせよ
(教えてもらったことはゴミだと思い 稽古帳は修繕などへのリサイクルに)
▽ 稽古とは一より習ひ十を知り 十よりかへるもとのその一
(稽古とは、全てを知って、そこからまた最初に立ち返りましょう)
▽ 名物の茶碗出でたる茶の湯には 少し心得かはるとぞ知れ
(名物の茶碗が使われた茶会は ちょっと特別な作法が必要)
▽ 余所などへ花をおくらば その花は開きすぎしはやらぬものなり
(自宅などに咲く花を贈るときは 咲ききっているものをやってはいけません)
手前作法の技術としては、
▽ 何にても置付けかへる手離れは 恋しき人に別るゝと知れ
(なんでも物を置く時は 恋しき人との別れ際のように名残惜しそうにしましょう)
▽ 茶入また茶筅のかねをよくも知れ 跡に残せる道具目当に
(お点前中の道具の位置は 動いていない他の道具を目印にしましょう)
▽ 茶入れより茶掬(すく)ふには 心得て初中後(しょちゅうご)すくへそれが秘事なり(茶入から茶を掬う時は 序・破・急を意識するのがコツ)
▽ 茶を振るは手先をふると思ふなよ 臂(ひじ)よりふれよそれが秘事なり
(茶筅は手先で振ろうとせず 肘から振るのがコツ)
▽ 右の手を扱ふ時はわが心 左の方にありと知るべし
(右の手を動かしている時は、左手を意識しましょう)
次に、道具の扱いとしては、
▽ 筒茶碗深き底よりひき上り 重ねて内へ手をやらぬもの
(筒茶碗を拭く時は、拭いた部分を手で触れないよう、まず底を拭き 後で口縁を拭きましょう)
▽ 水と湯と茶巾茶筅に箸楊枝 柄杓と心あたらしきよし
(客を迎える前に 消耗品は新しく、心も新しくしましょう)
寸法については、こんなことを歌に。
▽ 茶巾をば 長み布幅一尺に 横は五寸のかね尺としれ
(茶巾の寸法は 長さ約30cm 幅約15cm の曲尺と知っておきましょう)
▽ 掛物の釘打つならば 大輪(おおわ)より九分下げて打て釘も九分なり
(軸竹釘を打つ場所は 天井の回り縁より約27mm下に 出る釘の長さも約27mmで)
▽  花入の折釘打つは 地敷居より三尺三寸五分余もあり
(床の壁に打つ無双釘(中釘)は 地敷居より約1mくらいの高さに打ちましょう)
▽ 掛物をかけて置くには 壁付を三四分すかしおくことゝきく
(壁や掛物を傷めないように 掛物は壁から1cmほど離すように掛けましょう)
その他、茶入れには7句、炭の扱いには9句もあてています。
▽ 炭置くはたとひ習ひに背くとも 湯のよくたぎる炭は炭なり
(炭手前で悪いとされる炭の置き方でも よく湯が湧く置き方こそがよい置き方) 
▽ 炭置くも習ひばかりにかかはりて 湯のたぎらざる炭は消え炭
(習ったことばかりに固執して 湯が沸かないのは本末転倒で炭が無いのと同じこと)
また、道具より気持ちが大事とも言っています。




▽ 品じなの釜によりての名は多し 釜の総名鑵子(かんす)とぞ言ふ
(いろんな名のある釜ですが つまるところただの鑵子=釜です)
▽ 茶はさびて心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合(ありあひ)にせよ
(質素でも気持ちをこめたもてなしを 道具はいつも有り合わせのもので)
▽ 釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具を持つは愚な
(釜一つで茶の湯はできるのに、いろんな道具をもつのは愚ですよ)
▽ 数多くある道具を押しかくし 無きがまねする人も愚な
(いろんな道具を待っていることを隠して 活用しないのも愚かですよ)
▽ 茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて のむばかりなる事と知るべし
(茶の湯とは、ただ湯をわかして茶をたてて、飲むだけのことと知りましょう)
 とは言え、茶会となれば、茶碗ひとつ、掛軸、着物、庭木の一本一本までにツッコミが入るわけで、立ち寄りがたい際限なき世界ではあります。


《2021年11月の利用者アンケート集計結果》

休館のためアンケートの実施なし

※施設の老朽化に伴う設備不具合の原因調査を行うため10月16日から令和4年1月17日まで臨時休館

山形市へ新たに寄付された最上義光文書をめぐって
           


 令和二(2020)年12月14日、秋田市在住の�盒興�夫氏から山形市に「天正九(1581)年九月一二日附最上義光知行宛行状」が寄付された。そこで、その文書の紹介と若干の考察を行う。
 本文書は、すでに『山形市史史料編一最上氏関係史料』(山形市、1973)257頁、『山形県史資料篇十五上、古代中世史料1』(山形県、1977)502頁に翻刻、紹介されており、非常によく知られた文書である。大きさは縱31.5センチ、横47センチで、紙は、いわゆる豎紙で使用されている。
 先述のように、本文書は周知の文書であるが、原文書の所在がわからなくなっていたので、今回所有者から寄贈にいたったのは喜ばしい限りである。秋田市在住というように、本文書を伝えた�盒恐箸蓮�江戸時代に佐竹氏家臣であったが、最上家改易以前は、おそらく最上家家臣であったと考えられている。「最上義光分限帳」には千石の「高橋但馬」など10人の「高橋」がおり、その内の一人が本文書の受給者の可能性がある。
 ところで、本文書は最上義光の印判(判子)研究においてとりわけ注目されてきた。というのも、図のような、いわゆる「七得」の印判(小黒印ともいう)使用における、年付けがわかる最も古い文書だからである。七得は、七徳のことと考えられる。すなわち、「春秋左伝」宣公一二年(紀元前597年)によれば、武の七つの徳を意味するという。その七徳とは、暴を禁じ、兵を治め、大を保ち、功を定め、民を安じ、衆を和せしめ、財を豊にすることである<『日本国語大辞典6』(小学館、2001)>。義光は、そうした武の七徳を理想にし、その思いを印判に込めたのであろう。
 義光は、A〜D型の四種類の印判を使用した。用途が限定された伝馬印のD型を別にすれば、当初は、鼎型のA型を、次にC型の七得の印を、その次にB型の使用が始まったと考えている。それらの印判の中で、もっとも使用頻度が高く、死の直前まで使用されたのが七得(C型)の印であった。印判の使用は、義光の支配領域の拡張と、家臣団の拡大を表している。本文書を翻刻すれば、上記(写真)の様なものである。


A型


B1型


B2型


C型


D型

 内容は、この度の山内での戦いにおいて、走り回っての奉公を行ったので、敵として成敗した安藤九郎兵衛の領地を�盒怯�鶴に末代にいたるまで支配することを認める、というくらいであろう。すなわち、恩賞として、土地を給付したもので、古文書学で知行宛行状と呼ばれるものである。
 ここで注目されるのは、山内がどこかであるが、はっきりしない。『山形県の地名』によれば、「山内 古口(ふるくち)から下流、清川(きよかわ)(現東田川郡立川町)までの最上川は(約16キロ)、出羽山地を先行、谷を形成しながら横断する。この区間は山内と称され庄内と内陸を結ぶ要路ではあったが、川の両岸は切立った崖となり川に沿って通行することは困難で、古くから舟による通行が盛んであった。現在は最上峡の名で知られる」山内かも知れない。また、安藤九郎兵衛が如何なる人物かも不明であり、今後の研究の進展を待って筆を置こう。 松尾剛次

■執筆:松尾剛次(山形大学名誉教授)「歴史館だより��28」より

◎ 毒殺事件の話 
 義姫の関わる事件で最も有名なのは「政宗毒殺事件」です。
その概要についてはまず、NHKオンデマンドにある「独眼竜政宗」の第22話「弟を斬る」の回のあらすじでも。
 「政宗は小田原への参陣に遅れを取り、秀吉から逆心の疑いをかけられる覚悟で出陣を決めて、伊達家の後継に伊達成実を指名します。出陣前夜、政宗が出陣のあいさつにお東を訪ねると、伊達の家督を小次郎に継がせたいお東は、祝いの膳に毒を盛ります。政宗は一命を取り留めると、禍根を断つため、泣く泣く小次郎を斬ります。お東は兄・義光のもとへ逃れますが、悲しみのあまり既に正気を失っていました。」
 ここで「お東」とは義姫のことで、「祝いの膳」とは、義姫が天正18(1590)年4月5日に催した政宗の小田原参陣の陣立ちの祝いです。毒殺を謀った理由は、一説によると、この前年、秀吉の私闘禁止令にもかかわらず政宗が会津に侵攻し、秀吉の怒りを買ってしまったが、政宗を殺して小次郎を当主にすれば許される、と義光が義姫をそそのかしたため、というものです。また、毒を盛ったのは義姫なのに、小次郎を政宗が斬ったのは、母を殺すわけにはいかないので弟を殺すことにしたとのことです。
 しかし近年、佐藤憲一 (元仙台市博物館館長) さんが、この事件は、政宗と義姫とが共謀した狂言であり、小次郎は殺されておらず、大悲願寺(東京都あきる野市)に逃れたのではないかと、つぎのように推測しています。
 義姫は、政宗が秀吉のもとを訪れても、怒りがおさまらない秀吉に処刑されるだろう、と考えた。政宗が処刑されると、伊達家の所領はすべて没収されてしまう。こうした事態を防ぐため、政宗に代えて小次郎を当主に擁立し、兄の最上義光を通じて秀吉に許しを請おうとした。
 事件当時、政宗は24歳、小次郎は10〜12歳。小田原参陣の時、政宗に実子はいなかった。すると、政宗に万一のことがあれば、伊達家の血統を継ぐ者は小次郎だけであり、それを殺すとは考えにくい。だが、小次郎を当主に推す勢力もあるらしく、伊達家の一本化を図るためには、小田原参陣前に、政宗は弟を排除する必要があった。政宗が小田原の秀吉に会いに行くとき一番心配だったのは、自分の留守中に小次郎を擁立した内乱が起きかねないことである。そこで、義姫と話し合い、小次郎を殺したことにして、寺に逃したのではないか。
 以上、詳しくは当館HPの「歴史館だより��30」などを参照いただきたいのですが、この事件の後、小次郎はもとより、山形に戻った義姫も表舞台からしばらくいなくなります。さてこれが「タイムスリッパ− タイガー&ドラゴン」においては、物語の伏線となります。つまりこの二人が姿を消している間というのは、現代にタイムスリップしている、という設定ができるかと。

◎ タイムスリッパ−の世を忍ぶ仮の姿の話
 さて、現代に現れた江戸時代の人が、どんなふうに生計をたてていくべきか。「タイムスリッパ−侍」では、時代劇撮影所での斬られ役の侍という、もうそれだけで物語が動く絶妙な設定となっています。
 では、この義姫と小次郎の場合はどうするか。まず小次郎は小学生ということで、時代劇の子役とか謎の転校生とか。義姫については、その気性からすればスナックの雇われママとか、背丈からすればモデル業とか、あるいは古美術商として、伊達家ゆかりの刀剣・甲冑・書状などを売りさばく、というのもいいかもしれません。
 続いて、伊達政宗ですが、オシャレということからすればブティック経営、んっ、これではまるで「タイガー&ドラゴン」そのままか。あとはホストとかでしょうか。
 そして、義光ですが、得意技を活かすとなると、連歌や古典文学の講師、カルチャーセンターとかでしょうか。あとは、武道、乗馬、鷹狩、うーむ、これだけではなかなか食っていけそうにありません。他に得意技となると、実は手元に戦国武将��1図鑑(ワン・パブリッシング社刊)という今年出たばかりの本がありまして、ありがたいことに最上義光の項も設けられていますが、そこには「怪力すぎる大名��1」とありました。この本には、各武将等の能力がレーダーチャートで示されていて統率力、教養、策略、領地、先見性、野望、武勇の各項目とともに、その武将特有の能力指標が設けてあり、義光の場合、これが「腕力」であり、その数値がMAXで示されていました。ちなみに伊達政宗は「オシャレ」がMAX、上杉謙信は「休日」が最低、つまり遠征ばかりしている、という評価となっています。
 ではその怪力を活かす仕事とは。まずはガテン系の仕事とか、あっ、ありました、みちのくプロレスとか。キャラも指揮棒を振り回すとかでそのままいけそうですし、いや、失礼しました。でも、先月放映のNHKの某番組では、某有名プロレスラーが義光を演じていましたし。
 さてさて、女主人の古物商ギャラリーに、ホストの息子とコスプレレスラーの兄が集い、そこに謎の転校生が出入りする、不思議な舞台設定のできあがりです。どうでしょう、クドカンさん。

◎ タイムスリップの話
 タイムスリップのパターンは、この「タイムスリッパ−侍」や「テルマエロマエ」のように、過去の人が現代に現れるもの、「ドラえもん」や「ターミネーター」のように未来の人(?)が現代にくるもの、「戦国自衛隊」のように現代の人が過去にいくもの、「猿の惑星」のように現手代の人が未来に行くもの(しかも設定はだいたいデストピア)、そして「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「タイム・マシン」のようにタイムマシンで移動するもの、あとは小松左京著「地には平和を」などに出てくるタイムパトロールとかでしょうか。小松左京と言えば高校生の時、「果てしなき流れの果てに」という10億年の時空を舞台にした小説を読んだのですが、話がわからないのに妙に感動したことを覚えています。どうも時空間を突き詰めていくと、最後は神の領域にいくようです。
 さて、タイムスリップの方法としては、タイムマシンの他、雷などの自然現象によるものだったり、あの犬の半妖が行き来する井戸などの過去や未来とつながるタイムトンネルだったり、あとは「時震」という超常現象だったりします。また、光速を超えて情報だけが送られる情報タイムトラベルというのもあります。
 では、タイムトラベルの物語はというと、過去を変えて現況を変える、または、未来の情報を過去に持ち帰る、というものと、単に時代の違いにあたふたする、というものなどになりますが、「タイムスリッパ− タイガー&ドラゴン」であれば、義光や政宗が自分に起きることを知り、悔やまれることをやり直しする、というのが素直に考えられる展開ではないでしょうか。すると、義光であればやはり秀次事件に巻き込まれて処刑された二女の駒姫のことや、高野山に逃がすつもりなのに暗殺された長男の義康のことではないかと。政宗については、様々あるかとは思いますが、天然痘で右目を失ってしまったこととか、父輝宗を敵将もろとも射殺しなければならなかったこととか、百万石のお墨付きが反故にされてしまったこととか、まあ、いろいろと取り戻せるものなら取り戻したいことがあったことかと。別の展開としては、それぞれの特技を活かして現代社会で大活躍というのもあろうとは思いますが。戦国サロン「義姫」とか。いや、失礼いたしました。

◎ タイムパラドックスの話
 ここでタイムトラベルの矛盾についてのお話でも。情報タイムトラベルでは、未来の情報に基づいて現在を変えれると本来の未来も消滅するという「いかさま師のタイムパラドックス」が生じ、タイムトラベルで過去を変えれば「親殺しのパラドックス」つまり、時間を遡って自分が生まれる前の親を殺してしまったら、自分も生まれてこないという矛盾が生じます。
 ただ、これらの矛盾の解決方法として量子力学的な説明も用いられます。まず、情報タイムトラベルの可能性については、「量子もつれ」つまり、二つ以上の粒子で、一方の粒子の状態を測定することで、即座に他方の粒子の状態が決定され、距離に関係なく瞬時に情報が伝わるという特性を用いればできるかもしれません。
 物理的なタイムトラベルについては、「多世界解釈」で説明されます。これは宇宙の波動関数を実在のものとみなし、観測による波束の収縮が生じない、つまり観測によりひとつの状態に定まるものではなく、重なり合っている多世界が干渉性を失うことで異なる世界に分岐していくという考え方で凌げるというものです。ただ「多世界解釈」では分岐していくだけで、平行世界への移動や干渉ができないということで、話はそこで終わってしまうのですが。
 一方、タイムトラベルを否定するものとしては、未来から過去へ物質や情報を持ち込むとその時点で宇宙全体の物理量が変る、つまり質量保存の法則が破綻してしまい爆発する、という大どんでん返しのような説もあります。
 ところで、時間が進めば進むほどエントロピー(ここでは配列や状態の混沌度を表す量のこと)は増大するという法則がありますが、「マクスウェルの悪魔」という分子を見分ける悪魔がいるとすればエントロピーは減少させられる、という思考実験があります。実は最近、量子コンピューターによる、あるシミュレーションでこの「マクスウェルの悪魔」的な現象が確認されたそうです。一度拡散したものが、収束するという、これはすなわち時間を巻き戻すような現象で、「覆水盆に返らず」ということわざがありますが、それが盆に返る事態となるのですが、宇宙時間のレベルでは、こうしたことが起きる可能性があると言います。ただし、実際に起きるとしたら100億年以上先とのことでした。いわゆる、杞の国に天が落ち、地が崩れると心配する「杞憂」以上の話ではあります。

〇 落語の話
 せっかく「タイガー&ドラゴン」を持ち出したのに、肝心なことを忘れていました。このドラマの大きなモチーフとなっているのが落語です。
 この落語の起源には諸説あるそうですが、戦国時代、武将の側近に持して相手をする「御伽衆(おとぎしゅう)」が話す「夜話」という説があります。御伽衆は軍師として軍政の相談、また文武の指南、雑談などにも応じていました。経験豊富な浪人や若殿の遊び相手となる若者などが起用されたとのこと。
 特に話術の巧みな御伽衆は、夜襲に備えるために夜通し起きている兵士らの眠気を覚ますため様々な話をし、中でも「オチ」をつけた笑い話が落語の起源とのこと。落とし噺というのが落語の語源であることは、皆さまご存知のとおりです。
 最上義光の家臣にも「堀喜吽(ほりきうん)」という御伽衆がいました。上方で兵法を修業し、文化芸能の達人でもあり、京都で開かれた連歌の席には、主君義光と共に16回同席しました。現在、当館で展示中の連歌巻にも、堀喜吽が詠んだ句があります(「賦何舩連歌(1596年)」、「賦何墻連歌(1598年)」)。詳しくは当館HPの「最上家をめぐる人々♯34」などを参照願います。
 この御伽衆、連歌師とともに、ドラマ的にはなかなかおいしい役柄になりそうです。また、連歌を催す「連歌会(れんがえ)」は、大名、貴族、僧侶、豪商などが集う場であり、今どきのドラマであれば喫茶店やスナックのような使い勝手のいい場として、さまざまな登場人物を行き来させることができます。
 さてさて、そんな下世話な話はさておき、落語の話に戻りましょう。
「タイガー&ドラゴン」は毎回、古典落語をマクラ(?)に話が展開していくのですが、まず最初のスペシャルドラマでかけられるのは「三枚起請」。廓噺ではありますが、人情噺とも滑稽噺ともなるもので、まずこの落語からというのはさすがという他ありません。続いて、連続ドラマ化された第1話が「芝浜」、最終話が「子は鎹(かすがい)」という人情噺の大ネタをもってきて、間には「明烏」や「品川心中」といった廓噺や、「厩火事(お前が指でも怪我したら明日から遊んで酒が呑めねえ)」や「猫の皿(時々猫が3両で売れます)」といったサゲが効いた話など、まあ、そのラインナップ加減はすばらしいの一言です。
 そこで、余計な事とは重々承知の上ですが、もしこのタイムスリッパ−版がつくられるとしたら、どんな落語が並ぶでしょうか。
 まずは「あたま山」でも。頭の上でさくらんぼの種から枝が伸び、花見がはじまり、池で釣りをするというお話(これだけでは全くわからないかもしれませんが)ですが、これを戦場に置き換えるというのはどうでしょう。また骨董屋の話としては「火炎太鼓」。いわずと知れた有名落語です。ちょっと似たような話で「井戸の茶碗」もどうでしょう。どちらも五代目古今亭志ん生の名演があります。
 あとは「二階ぞめき」とか「湯屋番」などの妄想ネタは、いろんな場面が仮想的に描けそうです。「反魂香」とかは過去の人との交信に。「悋気の火の玉」という噺もなかなか面白い設定です。妻と妾が次々亡くなり、火の玉になってぶつかり合うというものですが、武将とかに変えると何か応用がきくかもしれません。ちなみにこれは五代目三遊亭圓楽がとてもいい。
 似た演題に「悋気の独楽(こま)」というのもあります。今夜は本宅か別宅かを独楽で決めるという話ですが、昭和15年9月20日、警視庁は内容が卑俗的で低級であるとして、これを「二階ぞめき」や「高尾(=反魂香)」などとともに53演目を上演禁止(禁演落語)としました。逆に言えば、それだけ落語を当局は観ていたということなのですが。