最上義光歴史館

最上義光歴史館
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■ 「天童原の馬揃え」の話
 「天童原の馬揃え」の話のようなことは現在でもよくあることで、特に皇族が行啓する催しなどでは、施設などの改修がなされたりします。一番わかりやすい例が国民スポーツ大会、かつて国体といわれていたものですが、山形で開催された時は、体育施設には特別な応接室が設けられ、幹線道路も新しくなり花まで植えられるといった具合でして、あわせて立ち寄る建物もトイレまで新しくなるという具合です。皇族も用を足すわけでして。とにかく国の補助金などが得やすくなるとのことでした。
 山寺芭蕉記念館にも立ち寄られるということで、控室ともなる会議室は立派なものとなり、例えば壁紙などは布製のもので仕上げられました。その会議室には現在も来館時の写真が飾ってあります。そう言えば、山寺には明治41年9月18日、当時東宮(皇太子)であった大正天皇が、山寺に行啓(参詣)された時に御休憩なされた「行啓記念殿」という建物があります。この建物は腕利きの大工さん156人で、わずか26日間で建てたそうです。そのときの自ら植えられた松やその後建立された記念碑とともに当時のまま保存されています。特別な時期に内部が一般公開されることもあります。皇族の行啓はかくも効果絶大です。
 実は当館でも皇族の来県を機に国体の年に、普段ならまず借りられない北野天満宮所蔵の名刀「鬼切」を貸していただき展示できました。こうして、おこぼれにもあずかれることがあるのです。
 ところでこの「天童原」とはどこか、という話ですが、これを郷土史研究家の矢野光夫さんが、史料の他、地図や市史なども調べ現地調査まで行った研究成果が当館のホームぺージに「奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか」というタイトルで掲載しています。
 その調査過程は具体的で面白く、古地図、土地の歴史、市史、現地調査など、調べるにつけていくつかの候補地が浮上してはまた消えるのですが、結論として「最上郡天童の野」は現天童市糠塚から東方、天童市立第二中学校及び山形県立天童高等学校周辺、地籍名は大字久野本、老野森などを、「天童原」と考えるのが妥当と思われる。と推察するに至っています。歴史ロマンとはこういうことなのか、その一端をみることができます。

■ 頼みごとにも馬という話
 最上義光がかなりの謀略家であると印象付けることになったのが、白鳥十郎長久を討った話で、ここでは織田信長公に馬を贈る話がでてきます。1584年6月のことですが、義光公が重病と偽って白鳥十郎を山形城中に呼び寄せ、床の下に隠していた小太刀で切り倒した話で、「最上記」の「城取十郎討捕給事(白鳥十郎を討ち取り給うこと)」にはつぎのようにあります(一部略)。
 出羽の国、谷地というところに白鳥十郎という大名があった。十郎は義光公を退治して自分が出羽の支配者になろうとし、まず中央権力者の力を頼りにしようと思った。そこで織田信長公へ大鷹一羽と御馬一頭を差し上げ、「私は、出羽の国最上の主でございます」と、偽りを申し上げたところが、信長公も遠国のことで少しも存知なかったため、十郎の言葉を信用していねいな御返状を下された。
 義光公はこのことを聞き、使者に最上家の系図とともに、白羽の大鷹一羽、御馬一頭、槍十挺を揃えて進上した。信長公は使者の説明を聞き、最上家代々の系図をご覧になって、すぐに「最上出羽守殿」として御返状を出された。
義光公は、最上家の地位を奪おうとした白取十郎を何としても討ち取らねばならぬと考え家臣と相談、使者により十郎に申し入れた。「近隣の問題が起きないように、十郎殿のご息女を義光の嫡男義康にめあわせてはいかがか」。これに対し十郎も「了解いたした。義光公と和睦いたしましよう」と返事に及んだが、用心深くして山形の城にくることはなかった。
 そこで義光公はまた家臣と相談して、使者に伝えさせた。「近頃わが身の病が、もってのほか重くなった。なんとか十郎殿に対面し、国の政治をお頼みしたい。また、跡継ぎが幼少の間は、家の系図もお預けしておきたい。」
 十郎は、これこそ願うところの幸いと喜び、時日を移さずに山形へ来ると、義光公病臥の次の間には御一門衆が詰めていた。医師・陰陽師が大勢出入りし、まことに容態が重大であると見えた。
 十郎は義光公の枕元近く寄り、「これほどに重いご病状とは存じず遅参し申し訳ございませぬ。」と申された。義光公は起き直り、「最後の対面、まことにもって喜ばしいこと。」と言って代々の系図を出した。十郎はそれ受け取って三たび頭上におしいただき、「こうなれば出羽の主は我なり」と口には出さねど、その顔色にありありと見えた。
 すると義光公は居直るように見せかけて、床の下に置かれた太刀を取り、抜き打ちに斬り付けた。この不意打にさすがの白取十郎も、二つに断ち切られて倒れた。十郎の供者は御馳走のため広間に置かれていたが、奥で打つ合図の太鼓で、討手を命じられていた若侍たちが三方から取り卷き、一人も残らず討ち取ってしまった。
絵にかいたような騙し討ちではありますが、しかしながら、最小限の死傷者をもって成敗したという評価にもなっています。
 ところで贈り物の話に戻りますが、ここにもあるように献上品としては馬や鷹ですが、下賜品となると刀剣や茶器、着物などになるようです。どちらにも使える贈り物はやはり金銀です。ちなみに天皇からのものは恩賜ともいいますが、近年まではタバコでしたが、現在は菊花紋章入りボンボニエール(菓子容器)に入れた金平糖です。やはり下賜(菓子)だけに、いや、失礼しました。

■ 長男暗殺事件の話
 白鳥十郎討捕事件とともに、最上義光が冷徹・非情で残忍とされたエピソードに、長男を暗殺したという話があります。また、伊達政宗の母つまり義光の妹である義姫が政宗を毒殺しようとしたという話もあり、兄も妹もそれぞれの長男暗殺を謀った「戦国一のワル」と称されることがあります。ただ、最近の研究ではいずれも否定的な論証がなされています。
 まずは最上家の話から。「最上記」にある「修理太夫殿生害之事」という話です。ここで「修理太夫」というのは義光の嫡男で長男の義康です。
 義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、さまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。
 「大殿(=義光)もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」、そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。一方、義光の近臣からは、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。
 ある日、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をした。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。それ以後、親子の仲はひどく不和になってしまった。一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解をと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。
 江戸に上った義光は、この状態について家康に相談した。家康は、「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。
「仰せの趣、恐れ入ります。帰国次第切腹いたさせます」と申し上げたところ、
「そうしたなら、子供のうちでは、誰に家督を譲られる存念かな」と尋ねられた。
 義光は謹んで「誰と申すまでもございませぬ。次男ですから、駿河守に家督を仰せ付けますなら、有り難く存じ奉ります」と申し上げた。家康公も、駿河守は十三歳のときからお側に召し置かれ、たいそう贔屓にしておられたので、お喜びなされ、「なるほど、駿河守は穏やかで才もある者。その方から家督を譲られでも差し支えない器量である。まことに義光は武勇のみならず、子供の目利きさえしっかりしておる」と甚だ機嫌がよかった。
 ここで駿河守とは義光の次男、家親(いえちか)のことで、1582年(天正10年)生、1594年(文禄3年)から徳川家康の近侍として仕え13歳で元服する。1595年(文禄4年)からは家康の3男・秀忠の家臣として仕えた。初めは父より一字を与えられて義親と名乗っていたが、家康の名から一字をもらい受けて家親と改名、後に駿河守家親となった。
 さて、義光公は翌年春に帰国、修理大夫殿へ使いをだし、「このたび、父子の仲が絶えたことが上聞に達し、家康公からお言葉があった。『一門不和なるは、他方より侮られるものである。たとえ義康によからざるところありとて、老体ゆえに耐え忍び、仲直り申すよう』と直々の上意であった。黙止することできず、お請け申し上げてきたところだ。であるから、直接会って語り合い、日頃胸にたまっていた不満を解消したいと思う。急ぎ登城されよ」と仰せられた。
 修理大夫はもちろん異存なく、すぐさま御使者と連れ立って父君のおられる御殿へ出かけた。ところが対面もされず、「まず高野山へ入るように」との指示があった。出家して先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに、まことに物哀れなる様子で山形を立ち去る。
 1603年(慶長8年)8月16日、義康一行が月山を越え庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門の一味だった。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。家来たちも必死に戦ったが全員討ち死にした。
 ここで悩ましいのは義光が、家康には「帰国次第切腹いたさせます。」と応えつつ、義康には「老体ゆえに耐え忍び、仲直り申すよう」と家康から言われたとしていて、これを謀略とみるか、高野山に逃がすことが真意だったのか、やはり謎ではあります。
 この事件については、当館ホームページ「最上家をめぐる人々♯11」(片桐繁雄著)では次のような推察があります。
 義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。

■ 長男毒殺事件の話
 政宗毒殺未遂事件というのも有名な話ではありますが、最上義光の妹であり伊達政宗の母である義姫が政宗を食事に招き毒を盛ったという事件でして、「貞山公治家記録」によると1590年(天正18年)4月5日に起きました。
 事件の前年、伊達政宗は会津地方を平定したが、惣無事令に反して領土拡大を続けた政宗の行動は豊臣秀吉の怒りを買った。最上義光は義姫に、政宗を殺して、小次郎を当主にすれば許されるだろうと助言。しかし、その魂胆は、政宗が死んだあと、小次郎をも殺害し、自分が伊達領を横取りしようというものであった。
 義姫は小次郎を溺愛していたため、義光の言葉を鵜呑みにして政宗を食事に招き、毒を盛った。しかし政宗は腹痛を起こし嘔吐したものの、解毒剤を飲んだため、大事には至らなかった。
 小次郎に家督を継がせるための母の犯行と知った政宗はたいそう怒って、4月7日に小次郎を手討ちにした。しかし、義姫については、実の母を殺すことはできないと、同日、山形の兄、最上義光のもとに出奔させた。
 当時、伊達家の家臣は政宗派と小次郎派に分裂していた。この状況を打開するために政宗は、母に毒を盛られたと一芝居打ち、表向きは小次郎を手討ちにしたことにして、実は大悲願寺に匿ってもらった、という説が有力視されています。義姫と小次郎も伊達家を守るために、一枚かんでいたとも。大悲願寺の十五代住職秀雄が小次郎本人である可能性が高いという説が有力視されています。
 さて、豊臣秀吉の小田原攻めが本格的に開始されたのは同年の3月29日です。政宗は3月25日に黒川城に重臣を集めて評定を行い、秀吉に味方することを決めます。そして翌日には秀吉に向けて使者を出し、出陣を4月6日と定めていました。
 政宗は、留守の間に弟の小次郎が謀反を起こすことを警戒していたのですが、毒殺未遂により小次郎はなきものとなりました。4月15日に出立しますが、北条氏の領土を通れず帰還。政宗の家臣の中には秀吉に降ることに納得しないものも多かったのですが、ようやく5月9日に再出立。越後の上杉領を通過し6月5日に小田原に到着。小田原城の開城が7月5日なのでギリギリでした。当然、秀吉は立腹。切腹を命じられても仕方がない状況でしたが、政宗と義姫は遅れた理由とするため、この毒殺未遂事件を自作自演したとも考えられています。
 当館の「歴史館だより��30」で佐藤憲一さん(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)からの寄稿につぎのような説明があります。
 何故このような事件を捏造したのだろうか。これを解く手掛かりとなる資料がある。事件直後に政宗が側近の鬼庭(もにわ/後に茂庭)石見守綱元に宛てた書状である。全文は「貞山公治家記録 付録」に収録さえている。その中で弟殺害の理由を将来内乱が起こることを未然に防ぐため、と述べている。つまり弟擁立の芽を摘んで伊達家の一本化を図るためであった。
 しかし、弟を殺しては小田原で政宗に万が一のこと(豊臣秀吉の命による切腹、打首など)があった場合、伊達家の血統が途絶えかねないおそれがあった。当時政宗には実子がなく、長男の秀宗(後の宇和島藩主)が誕生するのは事件の翌年、天正十九年(1591年)のことである。血統を絶やしかねないたった一人の弟殺害は考え難い。
 ということで、一芝居をうってわが子を殺すことなく寺に逃がした、という説のとおりとすれば、義姫にせよ、その兄の最上義光にせよ、「戦国一のワル」兄妹ではなく「戦国一の役者」兄妹と称されてもいいのでは。とにかく最小限の犠牲で、内部組織の統制と対外的な面目を保つことができたわけでして。これも歴史ロマンなのかしらん。

■ お駒の話
 もうひとつ、馬つながりということで「お駒」と名付けられた最上義光の娘「駒姫」の話も。この駒姫の悲劇というのは、義光にまつわる話では最も有名ではありますが、「最上記」では駒姫のことを全く触れておらず、駒姫の死を語る初見史料は、伊達氏の重臣である伊達成実の「成実記」であるとのことが、当館のホームぺージ「駒姫の死について」(著:胡偉権/歴史家)にあります。
 通説では、1590年(天正十八年)の大崎葛西一揆に際して、豊臣秀次は駒姫の美しさを知り、山形に立ち寄り、義光に対して駒姫を強要した。義光は固辞したが、秀次の執拗な要請に負けて、可愛がる娘を渋々と差し出した、となっています。
 しかし「成実記」によれば、秀次は家康とともに九戸一揆を鎮圧するため奥羽に下向。家康は岩出山に、秀次は山形に立ち寄った。その後、秀次事件に駒姫が巻き込まれたきっかけは、「義光の娘は奥州一揆の時、秀次が最上に御在陣の時、(義光から)献上された」ことにあったと。それが18世紀初頭に成立した「奥羽永慶軍記」でようやく、秀次が駒姫の美しさに魅了され執拗に強要する、という通説での内容が見られるそうです。義光が自ら娘を献上したのか、秀次が強要したのか、ああ、これも歴史ロマンかと。
 義光と秀次との交流については、天正十九年と推定される五月三日付の書状によれば、義光は京都から尾張を経て山形に帰る際、秀次に厚意を受け、その後、山形に着いた義光は、山形の到着を報じると共に、秀吉と秀次に馬をそれぞれ献上したいと伝えています。胡偉権さんは、義光は秀次に急接近し、それを通じて秀吉との関係を緊密化する思惑は容易に読み取れる、と述べています。駒姫の死にともない最上家と豊臣政権のパイプは葬り去れたが、最愛の娘の横死を悔みながらも、新しいパイプ役を差し出すことも忘れてはならない。そこで嫡男の義康の登場が見られる。義康は慶長年間、秀頼の近習となったが、駒姫の死の直後に、豊臣政権に召し出され、人質とされた。最上家の安泰のために、義光は知恵を絞り、豊臣政権と必死に結び付こうとしていたが、その結果は悲惨だった。関ヶ原の戦いに義光は家康に絶対的な忠誠を誓った裏目には、豊臣政権への「恨みが深かった」からかもしれない、とも指摘しています。
 義康を豊臣側に、家親を徳川側にと、言わば戦国時代のセオリーどおりに御家存続を図ったわけですが、これが家臣においてデリケートな問題に。しかも後を継いだ次男家親は36歳で急逝。その後継ぎとなる家信はまだ12歳で、やはり一族重臣の間でごたごたが起きてしまいます。これは歴史ロマンではなくて、歴史の悪戯とでも言うべきことかと。
 さて、駒姫という名の由来ですが、陸奥国、大崎氏の娘は、栗駒山の麓を通って出羽国の最上義光に嫁ぎました。嫁ぐときに見た残雪を頂いた美しい山「御駒山(おこまやま)」に因んで、義光は愛娘に「お駒」という名を付けたとされます。
 「奥羽永慶軍記」には、「駒姫が生まれた日、伊達政宗と最上義光が和歌の贈答を行った。義光の妻は、政宗からの和歌に因み「千年(ちとせ)」と名付けたいと言った。しかし義光は、安倍貞任の娘「千年」は、父母を滅ぼした悪い名前だと採らず、出羽の名山「御駒山」に因んで「お駒」と名付けたという」とあるそうです。その御駒山は、「国立花山青少年自然の家」(宮城県栗原市)から登ることができます。


最上義光は慶長19年(1614)1月18日未刻(午後2時頃)に69歳で
没しました。




本日は新暦の命日ということで、お花とお酒をお供えしております。

新年になって早や2週間が経とうとしています。
今年は特に光陰矢の如しです…

特設展示/第三部
「最上家ゆかりの古文書」
〜山形市指定有形文化財指定記念〜
は1月9日(月)をもちまして終幕いたしました。
会期中は沢山のご来館大変ありがとうございました。

1月10日(火)、11日(水)の2日間で展示替えを行いました。




特設展示/第四部「出土した陶磁器」
1月12日(木)に開幕いたしました。
県内4地域の遺跡から出土した陶磁器類を展示しております。
皆様のご来館をお待ちしております。



■名称
特設展示/第四部
「出土した陶磁器」

■会期
令和5年1月12日(木)〜令和5年4月2日(日)

■内 容
(公財)山形県埋蔵文化財センターにより近年発掘調査が行われた
県内4地域の中近世の遺跡から出土した陶磁器類を紹介します。

■展示資料出土遺跡
亀ヶ崎城跡(酒田市)
鶴ヶ岡城跡(鶴岡市)
上野遺跡(最上郡鮭川村)
谷地城跡(西村山郡河北町)
堤屋敷遺跡(米沢市)
米沢城跡(米沢市)


■ 「午」の話
 丙午(ひのえうま)にまつわる話は、いろいろ聞き及んでいられることとは思いますか、「ひのえ」に「うま」が重なることで、「情熱的」で「行動力あり」といった意味合いとなり、戦国武将にとっては、この上ない干支ではないかと思われます。ところでここで素朴な疑問をいくつか。
 まず、十干十二支というのは60年で一回りとなっていますが、組み合わせを計算すると10×12=120通りとなるのではないかと。確かに、総当たりの組み合わせは120通りなのですが、十干の「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」と十二支の「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」を順に組み合わせていくと、あら不思議、61年目には元の「甲子」に戻り、そこから同じものが繰り返しとなります。逆に登場しない組み合わせも60通りあります。丁寧に組み合わせれば確認できるのですが、理屈としては10と12との公倍数が60のためということ。久々に目にしました「公倍数」。
 もうひとつの疑問が「午」という字でして、「馬」と何が違うのか。「馬」はそのままの象形文字だということは見てのとおりですが、「午」とはもちをつく時に使う「きね」の象形とのことです。両人が交互に餅をつくことから、陰陽の交差する十二支の第七位の「うま」にあてられたとのことです。時刻で言えば「正午」であり、それより前が「午前」、それより後が「午後」です。のちに「午」が十二支を表す文字として定着したことから、十二支の「午」と「きね」を表す「午」の区別を明確にするため、「杵」という文字が作られたとのこと。ところがネット上では、「午」というのは「牛」に似ているため、という思い付きのような説明があったりして、要注意です。
 さらにもうひとつ、「午」の部首は何かという問題です。ちなみに「牛」の部首は「牛」、「馬」の部首は「馬」ですので、「午」の部首はやはり「午」となりそうですが、正解は「十」。ところがネット上では「午」が部首とする説明もあり、要注意その2です。他に「十」を部首に持つ字としては廿、升、千、卅、卒、卓、南、博、半、卍など。廿(にじゅう)も千(せん)も十(じゅう)の仲間ということになるようです。また「午」は方位としては「南」を表しますが、この部首が同じというのは偶然でしょう。
 ついでに、これも有名なのですが、「卍」の画数と書き順というのもよくわからないわけで。画数は6画なのですが、書き順はというと、特に2と3画目が難問かもしれません、ヒントは「十」の書き順かでしょうか。書初めなどでもめったに書かない字ですし、左右反転したりすると国によっては罰せられますし、マジ卍(←すでに死語らしいです)。

■ 馬の格言の話
 「馬」に係わる表現などは結構ありまして、まずは「馬が合う」という言い回しがありますが、相手と性格や考え方が合うことで、元々は、馬と乗り手の息がぴったり合う様子からきています。これが発展すると「人馬一体」となるのでしょうか。でも最近では、「馬が合わない」という言葉のほうをよく聞く感じですが。
 そんな場合「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」という格言はいかがでしょう。AIさんによる解説では、「表面的な情報や先入観にとらわれず、自らの体験を通じて真実を見極めることの重要性を説いています。本来の用途として、結婚相手を紹介する際などに「結婚してみないと分からないでしょう」と、縁談を勧める文脈で使われました。注意点としては、結婚式などおめでたい席では良いですが、「とにかくやってみよう」と安易に使うと、結果が良くなかった場合に「だから言ったのに」と皮肉に聞こえることもあるので、使う場面には注意が必要です。」とのことです。これを皮肉にも使えるとは知りませんでした。
 とにかく馬が関係する格言というのは、自分だけの想いや都合では成り立たないということに使われるようです。自分の都合どころか、その幸不幸すら予測できないとすることわざに「人間万事塞翁が馬」というのがあります。皆様ご存じかとは思いますが、その故事を忘れてしまっている方もいらっしゃるかと思いますので、ここでもAIさんによる説明を。
 「中国の国境の砦に住む老人の馬が逃げたが、老人は気にせず、「良い馬を連れて帰ってくるかもしれない」と言う。数ヶ月後、逃げた馬が胡(異民族)の馬を連れて帰ってきたが、老人は「災いになるかもしれない」と言う。その息子がその馬から落ちて足を骨折したが、老人は「幸運かもしれない」と言う。その後、戦争が起こり多くの若者が戦死したが、息子は足が悪いおかげで戦場に行かずに済んだ」という話です。「目の前の出来事に囚われず、長い視点で物事を捉え、冷静に対応することの重要性を示唆しています。この言葉は、人生の浮き沈みを乗り越えるための、普遍的な知恵として、今も多くの人に大切にされています。」とのことです。山形の人でこれを「人間万事塞翁が左馬」と言っいた人がいましたが、なんかポジティブなのか、真意は謎のままであります。
 さらに馬がらみの中国の格言に「先ず隗より始めよ」というのがあります。この故事も一度はきいたことがあるとは思いますが、ちょっと思い出してみましょう。
郭隗は王に対し、ある昔話をします。「千金で、千里走る名馬を買ってきてくれと国王が家臣たちに買いに行かせたところ、ある家臣が名馬が見つけました。しかし、その馬は既に死んおり、家臣はその馬の首を500金で買って帰りました。すると君主は、生きている名馬を買ってこいと言ったのに、死んだ馬を大金はたいて買ってくるとはと激怒しました。するとその家臣は「名馬の死体ですら大金で買ったのですから、生きている名馬ならどれほどの高値か。その話が広まれば探しに行かなくても名馬があちらから来ますよ」と。そうするとしばらくしないうちに名馬が3頭ももたらされたということです。それに続く話が「今、王必ず士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや」というものです。
 さらに中国の故事に「無事之名馬」というのがあります。歳をとってくると、健康上の理由などからこの「無事」の有難さがわかってきます。一方、公務員を長くやっていると多かれ少なかれこうした構えになってくるのですが、逆に「太く短く」という公務員はちょっと魅力的かもしれませんが、なんかヤバい感じもします。
 中国故事で個人的に好きな格言は「ひょうたんから駒」でして、もともとは駒でなくロバなのですが、SF的というかカプセル怪獣のような話で、通常は思いがけないいい話のたとえとして使われる格言です。
 その他、有名な格言には「馬子にも衣装」とか「生き馬の目を抜く」とか、映画「ゴッドファーザー」に「ベッドに馬の首」というのもあったなぁと、余計な話ですが。
 個人的には「ほいど(乞食)が馬を買う」というのが座右の銘となっています。身分不相応なものを手に入れてもてあます例えですが、私の場合、身分不相応というより不要不急のものを買ってしまうことへの自戒の言葉としています。それでもいつの間にか不要不急のもので溢れてしまっているのですが。さらに期せずして私の座右の銘というか日常習慣となってしまっているのが「馬耳東風」とか「馬の耳に念仏」とかでして。家人からは「無駄遣いなどせず、もっと貯金しろ」とか、医者からは「食事に気を付け、適度な運動を」とか言われ続け、わかっちゃいるのですが全く実行できていないということで「馬耳東風」状態になっています。

■ 「桂馬」の話
 将棋の駒に「桂馬」がありますが、考えてみるとなかなか特殊な動きをする駒で、真っ直ぐに進まないし、目の前の駒を飛び越えます。馬の特性というのはそういうものなのかと。チェスの「ナイト」も同じ動きでこちらは後にも動かせますが、実は将棋もチェスも古代インド(6世紀頃)で生まれたボードゲーム「チャトランガ」が起源とのことで、偶然の一致ではないようです。
 では「桂馬」の「桂」とは何かというと、シナモンに似た香料の肉桂(にっけい)の木の皮のことです。ちなみに「香車」の「香」は、白檀などの高級香木のことで、平安時代に貴重品だった香料に由来しているとのこと。将棋の駒には王(玉)、金、銀とともに貴重品を表す言葉がつけられていますが、チェスの駒は主に階級を表す言葉であるのとは対照的です。
 さて、蘭奢待(らんじゃたい)と称される貴重な香木があります。正倉院が保管する香木(正式名称「黄熟香」)で、足利義政や織田信長などが天皇の許しを得てその一部を切り取り、権威の象徴としたほど貴重な品です。蘭奢待の香りの元は樹脂なのですが、2024年度に宮内庁正倉院事務所でその成分分析がなされ、香りが再現されました。その様子は昨年、テレビの特集番組でも紹介され、上野の森美術館でその香りがする匂い袋が販売されました。それを入手した当館関係者Uさんが当館に持参してきました。職員皆で嗅がせていただいたのですが、それはシトラス系でもフローラル系でもなく、白檀のような甘い香りに肉桂のようなスパイシィな香りが混ざるような、つまりは桂馬と香車とを足したような香りでした。
 ここでふと思ったのですが、将棋の駒に「蘭奢待」という駒があれば面白いのではないと。あるいは桂馬や香車が金に成るかわりに「蘭奢待」になるのはどうかと。「蘭奢待」という以上、その動きは、足利義政や織田信長すらも意のままにならないぐらいであるわけで、例えば、単に金に成るだけでなく、好きな所に跳べる、つまり「ワープ」ができる、まあ、金の持ち駒のような、まあ、勝手な思い付きですが。
 桂馬に関することわざや格言には、その特徴的な動きから面白いものがあり、「桂馬の高跳び歩の餌食」(調子に乗って高く跳びすぎると、低い歩兵に取られてしまう)とか、「桂馬は控えて打て」(桂馬は他の駒と異なり、手詰まりになりやすいため、すぐに攻めずに手持ちにしておけ)というものがありました。駒が後退できればまた、違う格言になっていたかも。将棋については全くもって素人なのですが、初心者にとってこの「桂馬」や「香車」はどう使っていいのかわからないとも言われ、それでも持ち駒にあれば相手をかく乱するのに有効で、特に終盤で大駒(角・飛車)などと組み合わせれば手強いものとなるそうです。

■ 馬肉の話
 山形でも馬肉を名物としてあつかう所があります。それは「山形新幹線」の終着駅がある新庄市と「フラワー長井線」の中央にある長井市です。特に「フラワー長井線」は路線も沿線の駅舎もなかなかに味わい深いものがあり、山形の鉄道としてはイチオシなのですが、それはまた別の機会にでも。
 新庄市が位置する最上地方は、古くから馬の産地でした。農家では農耕馬の飼育が行われ、雪の多い地域での農業や運搬に欠かせないものでした。年老いて農耕馬としての役目を終えた馬を食肉として利用したとされていますが、その起源は江戸時代、飢饉で疲弊した領民を励ますために藩主が馬肉食を奨励したことにあるそうです。すじ肉を煮込んだ「ガッキ」と呼ばれる郷土料理が名物です。かつて地元では、馬肉は馬鍋などで食されていましたが、現在はもっぱら馬刺しが有名です。しかしながら以前、新庄駅近辺で昼に馬刺しが食べられる店を探したのですが、これがほとんどなく、言わば山形駅近辺で昼に芋煮が食べられる店を探すに等しい感じではあります。
 一方、長井市を含む置賜地方は平安時代末から馬の産地として知られ、軍馬・農耕馬・荷馬が育成されていました。特に江戸時代、最上川の舟運で栄えて物資運搬に多くの荷馬が利用され、また、年貢も馬で納めていたこともあり、やがて「ハレの日」のご馳走として親しまれるようになったとのことです。
 ご当地グルメとしては「馬肉ラーメン」というのがあります。チャーシューとして馬肉が使われるのですが、その馬肉はまったくクセがなく、特に馬肉と表示されることなく馬肉がのってくる店もあるそうです。そういえば米沢市に「米沢牛ラーメン」というのを出す店があり、これは薄切りのバラ肉がのってくるのですが、たっぷりのサシが入った肉ゆえに、その牛脂とスープの油脂がミスマッチで、個人的にはおススメできない一品ではあります。
 山形市には「ゲソ天ラーメン」というのがあるのですが、ゲソ天をよほどカラっと揚げてないと、油分のせいでまずくなります。ところがスープをそばつゆにするとこれはいけます。つまりは天ぷらそばの麺をラーメンに替えるようなものなので、これはありとなるわけです。天童市の某店発祥の「鳥中華」がまさしくそばつゆにラーメンなのですが、これに「ゲソ天」が合うのもこんなわけで。

■ 60年前の話
 60年前の丙午の年である1966年は、「いざなぎ景気」が本格化し、ビートルズが来日公演、中国では文化大革命が始まります。ジェミニで宇宙遊泳が行われ、ミニスカートが流行します。ベトナム戦争が泥沼化し、ウォルト・ディズニーが死去。日本でロケした映画「007は二度死ぬ」が公開され、「ウルトラQ」が放送開始しました。疾走感あふれるというか、イデオロギーとファッションとカウンターカルチャーが交差したサイケデリック時代の幕開けの年ではあります。
 ただ風俗的には、サイケデリックというよりゴーゴーの時代だったような。実はサイケとゴーゴーは交わるようで交わらないものなのですが、当時の日本では、ゴーゴーガールとサイケファッションとが同居している感じで、それに、暗い所なのにサングラスをかけているアングラ的なものも根強かったような気もします。
 ところでこのゴーゴーというのはどんな発祥だったのか、気になって調べてみました。
まず、ウイスキー・ア・ゴーゴー(Whisky a Go Go)という店がカリフォルニアにありまして、元々銀行であった建物を1964年にディスコにして、バンド演奏の合間にはミニスカートをはいた女性DJが、ステージ右側に吊り下げられた檻でレコードを回したのだそうです。ここでレコーディングしたアルバム「ライブ・アット・ザ・ウィスキー」がヒットし、1966年にはミラクルズが「ゴーイング・トゥー・ア・ゴーゴー」を発表しました。
 一方、ニューヨークにはカフェ・オー・ゴー・ゴー(Cafe au Go Go)という店がありました。フォーク、ブルース、ロックなどのミュージシャンが集まるライブハウスです。「ニュー・アンディ・ウォーホル・ギャリック・シアター」の地下とのことで、あのウォーホルが自身の実験映画の多くを初公開した、その映画館の地下にあったわけです。ちなみに1964年8月と10月にここでライヴ録音した「ゲッツ・ア・ゴー・ゴー」(スタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルト)というボサノバの名盤があります。私の愛聴盤でもありまして、思い出したついでにLPを引っ張り出して聴いてみたのですが、やっぱりいいです。サックスとボーカルが前面にでてくる録音で、お客さんもなんか上品な雰囲気でして。
 いやいや、ここで何が言いたかったかというと、そもそもゴーゴーの発祥はどこかということだったのですが、ここでAIさんに尋ねてみたところ、「ゴーゴーダンスの発祥はウィスキー・ア・ゴーゴー。」であり、「ゴーゴーミュージックには、1960年代にアメリカで流行した激しいダンスミュージックと、1980年代半ばにワシントンD.C.で生まれたファンキーなブラックミュージックのジャンルの2つの意味があり、文脈によって指すものが異なるため、どちらの「ゴーゴーミュージック」を指しているか注意が必要です。」とのこと。
 まず、1960年代のゴーゴーは「ロックやソウルミュージックに合わせて踊る、動きの激しいダンス全般(ツイスト、モンキーなど)を指します。フランス語の「à gogo(好きなだけ、非常に活発な)」に由来すると言われています。」ということで納得しました。ウイスキーやカフェの「ア・ゴーゴー」って、そういうことだったのですね。
 一方、ワシントンD.C.生まれのゴーゴーは「チャック・ブラウンらが1970年代に創造したもの」というAIさんの別見解もあり、まあそれは、ゴーゴー(Go-Go)を市の公式リズム(Official Rhythm)に制定したワシントンD.C.さんに委ねるとして、とりあえずゴーゴーはファンクへとつながるようです。
 一方、サイケデリックは時代の音楽に大きく影響していまして、そもそもサイケデリックとはドラッグによる幻覚で現れるようなものですが、LSDの強い影響化のもと制作されたというビートルズのアルバム「リボルバー」がリリースされたのが1966年で、いわゆるリバプール・サウンドがサイケデリック・サウンドになっていくわけです。その翌年以降は、ドアーズ、ジェファーソン・エアプレイン、ピンク・フロイド、ジミ・ヘンドリックスと続くわけでして、特にジミ・ヘンドリックスはドラッグをやりながらギターを弾き、アルコールと睡眠薬の大量摂取で1970年に27歳で亡くなりました。やがてサイケはトランスへと。
 その、ファンクとトランスはやはり交わるようで交わらないわけで、AIさんによるとそれは主に「グルーヴvs.ドライブ」とか「アナログvs.デジタル」の違いとのことです。とは言え、山形のクラブでは、それらは同居しているようで、いや、踊れるような店には昭和の時代に行ったきりで、今世紀に行ったことはありませんが。
 とにかく、ファンクやサイケ、ましてビートルズについて、私のような素人が語ってもろくなことにはならないので。「ソウル・トレイン」とか「ウゴウゴルーガ」とかのDVDを見るくらいがせいぜいで、もっとも1966年と全くの時代が違う番組なのですが。

■ 馬印ブランドの話 その1
 バブルと円高を経験している世代で馬といえば誰しもが思い浮かべるべきブランドがあります。それはエルメスとフェラーリですが、それをお前ごときに語られたくないと言われてしまうことは重々承知の上で少々お話を。
 山形のような所でもフェラーリのオーナーという方はいまして、その代表格と言えば奥山清行さんというインダストリアルデザイナーです。イタリアのデザイン会社ピニンファリーナでチーフデザイナーに就任しフェラーリ・エンツォをデザインし、後に独立して「こまち」などの新幹線やクルーズ列車「四季島」のデザインも手掛けています。フェラーリ・エンツォは、F40、F50に続く限定生産車であったため「F60」と予想されていましたが、フェラーリの創始者エンツォの名を冠する車名となりました。
 さて、そのフェラーリのエンブレムには通称「跳ね馬」(カヴァリーノ・ランパンテ=気負い馬)が描かれており、これはイタリア陸軍航空隊の撃墜王であったフランチェスコ・バラッカ少佐の戦闘機に描かれていたマーク(第2騎兵連隊ピエモンテの部隊章に由来するバラッカ少佐の個人マーク)からとられたものです。バラッカ少佐の両親からレーシングドライバーだったエンツォ・フェラーリに贈られたのだそうです。
 ちなみに馬のマークで有名なメーカーがもう一社あります。シュトゥットガルトに本社を置く「ポルシェ」ですが、この市の紋章に小さな変更を加え、企業ロゴとして用いているそうです。つまりは、一方はイタリアの軍馬でこれは牡馬、もう一方は、ドイツの「シュトゥート・ガルテン=牝馬の園」なので牝馬、と例えるサイトがありました。ウーム、そうかと。
 ブオブオという低音を響かせて走る山形ナンバーのフェラーリやポルシェをたまに見かけたことがありますが、もちろんそのオーナー様などの知り合いがいるわけもなく。ただ実際に、一般道路でフェラーリ・エンツォを見て驚くのはその横幅(2,035mm)でして、これで山形の山道を疾走するには相当な技術がいるんだろうなぁとか、余計な心配をしたりします。

■ 馬印ブランドの話 その2
 続いてエルメスの話でも。これも私が語れるようなブランドではないのですが、円高の時代は、多少頑張ればネクタイやらスカーフやらを買えたりもできたわけでして。バブル時代のパリのエルメスはどこも日本人ばかりで、とにかくパリで買うのが品揃えもあり一番安いということで。ただ、買ったものをそのまま持って地下鉄に乗ったりするのは危ないというので、店の軒先で、持参した大きなバッグに詰め替えて人を見かけましたが、店の紙袋などのパッケージもまた大切で、それらも損じないようにとさらに一苦労ありまして。特に当時の日本では、中身と同じくらい包みが大事で、ネクタイなんかも箱入りでして、お土産としてもかさばることこの上ないと言いますか。
 バブル崩壊後、それでもまだ円高だった時代に、凱旋門近くの店に立ち寄ったことがあったのですが、あまり客もいなく、こじんまりとして入りやすい感じでしたが、最近は、特に本店などは入店することすら大変とのこと。とにかく入店希望が多く、事前予約も難しく、品物によっては抽選となるといいます。そんなときの裏技として、とりあえず小物を買ってその際、店員さんに本命の品について聞くという手があるそうで、また、ギャラリー・ラファイエット(百貨店)などでは、予約なしで購入できたりもするとのこと。ただ、本店で買うことに意味があることもあるわけで、同じ物でもパリの本店と空港の免税店で買うのとでは、その品物の物語が違ってくるというか。特に物が貧弱なほど物語が必要というか、逆に圧倒的な物であれば中古でもいいわけで。このあたりは博物館の展示品にも似たようなことがありますが。
 さて、お店に入るとしかるべき場所にディスプレイしてあるのが馬具でして、軽自動車が買えるような値段の鞍とか、本当にこれを乗馬で使うのかと思うような乗馬ブーツとかが飾ってあり、なんか買えそうな金額のものを探すと、鞭が5万円程でありますが、ただ、買えたとしても使いようもなく、乗馬そのものが縁遠い者にとってはスルーせざるを得ない一角なのですが、ご承知のとおりこの馬具こそエルメスの原点であります。
 エルメスは高級馬具工房として1837年に創業。創業当初は馬車が主要交通手段でしたが、自動車の時代を予見し、馬具を入れるバッグなどを開発。これが後のバーキンやケリーバッグの原型となり、皮革製品ブランドへと進化したとのことです。
 エルメスのロゴは、御者が馬と馬車を引いているもので、馬車には乗客がいません。これには「最高の品質の馬車(製品)は提供するが、それを使うのは顧客自身である」という哲学が込められており、あえて主人が描かれていないのが特徴で「主役はあくまでユーザー(持ち主)である」というメッセージが隠されているとのこと。
 このロゴがそのまま刻印されているスカーフリングがありまして、エルメスの製品としてはかなりお手頃な値段なのですが、これを使えばエルメス以外のスカーフでも、もしかしたらエルメスに見えるかもしれないというアイテムです。スカーフリングには、さらにすごい裏技があるようです。様々なデザインの品があるのですが、これを指にはめるリングとして使うというのです。かなりの存在感で男性でも入るサイズではあると言うのですが、ただ、そこまでしてはめるものなのかと。
 実はエルメスには暗黙のルールというのがあるそうで、ブランドの価値を大切に保ち「本当にその製品を大切にしてくれる人に届けたい」として存在しているそうです。普段の購入実績や、スタッフとの信頼関係、転売しない姿勢などが重視されます。入店の際の服装や店舗スタッフへの礼儀や丁寧なコミュニケーション、ブランドへのリスペクトが求められるとのこと。
 一方、最近は「エルパト」というのもあるそうでして、これは、エルメスの製品、特にバーキンやケリーなどの入手困難なアイテムを、正規店をパトロール(巡回)して手に入れる活動のことです。これらは欲しい時にすぐ買えるものではなく、運やタイミング、そして店舗スタッフとの信頼関係構築が重要視されるため、多くのファンが何度も店舗に通い、購入のチャンスを伺っているそうです、
 やはり最後は信頼関係の構築にあるようですが、すみません、1万円以下のバッグしか持てない私のようなものが意見するような話ではありませんでした。


《2022年12月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和4年12月1日から同28日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (12/1 〜 12/28)
開館日数・・・・・・・・・・・・・24日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,136名
回答者数・・・・・・・・・・・・・8人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・14%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・43%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・0%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・14%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・0%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・29%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・86%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・14%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・57%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・29%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・14%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・100%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・0%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

石川県かほく市 男性/50代
多分また来ますので、次来た時に新しい発見があれば展示よろしくお願いします。

福島県白河市 男性/60代
大変良い資料等があり、勉強になりました。

香川県 男性/30代
無料で知ることができるのは、すごいと思います。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。