最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 当館では現在、特別展示として火縄銃5挺(ちょう)が間近に見られる展示をしています。さて、火縄銃と言えば、「種子島」、「長篠の戦い」、「山形市鉄砲町」といったところでしょうか。んっ、「山形市鉄砲町」とは?!、と言われそうですが、そこは最上義光が関係するのでご容赦を。まずは早速、その話を。
 最上義光は城下町をつくるにあたり、町人町も含め守りを固めるため、城の南の出口に鉄砲鍛冶町を設けました。泉州堺から招いた鉄砲鍛冶や鉄砲衆を置き、町割りをしたそうです。今も「鉄砲町」という地名を残しており、最上義光の菩提寺である光禅寺がある場所でもあります。
 「鉄砲町」というのは全国各地にあるようですが、鉄砲鍛冶が集まる職人町であったり、鉄砲足軽たちが住む役人町であったりしたようです。ところが、戦国時代が過ぎ、天下泰平の世ともなると、鉄砲町はその役割を潜めてしまい、江戸時代中期の「山形市の歩き方」ともいえるガイド本「山形風流松木枕」でも鉄砲町についての記述はあるのですが、神社仏閣(六椹八幡宮、宝光院、玄妙寺など)しか記述がなく、その名の由来である鉄砲については「て」の字も出てきません。
 ここで、火縄銃について教科書的な話を。1543年(天文12年)種子島に中国船が漂着、この船に乗っていたポルトガル人により火縄式鉄砲が伝えられました。島主・種子島時尭(たねがしまときたか)は2挺を購入し,惣鍛冶・八板金兵衛清定に鉄砲の模作を命じました。銃身と銃底を塞ぐネジ切りが難問でしたが,翌年来島したポルトガル人によってこれらの技術を習得,伝来後8か月目にして国産銃が完成しました。当時は鉄砲のことを「種子島」と呼んでいました。(鹿児島県HPより)。
 この時の種子島、じゃなくって火縄銃1挺の購入金額は2,000両(1両の「金」含有量は天保小判で約6.38g、現在の金価格を1万円/gとすると、その金額はざっと1億3千万円!)。その後、火縄銃は摂津国堺(現在の堺市)の鉄砲鍛冶などの国産化で大量生産とともに低価格化も進み、秀吉の時代には、火縄銃(6匁銃)1挺は9石(1石米は2.5俵=150kgなので、現在の金額は「つや姫」(地元スーパーで約4,000円/10kg)換算で約54万円?)だったそうです。参考までに某オークションサイトでの最近半年の火縄銃の落札平均価格は約38,000円です(火縄銃関係商品も含む)。なんか教科書というより、某局の「突撃!〇ネオくん」のようになってしまいましたが。
 そして、火縄銃伝来から約30年後の1575年(天正3年)に起きた「長篠の戦い」では、織田信長は3,000挺の火縄銃を用いて勝利。それから25年後の関ヶ原の戦いに投入された火縄銃は、東軍・西軍合わせて約25,000挺。この時には世界有数の銃保有国になっていたとのことで、例えば、仙台藩は鉄砲普及率が高く、大坂の陣では半数近くの兵が銃を持っていたそうです。
 今や全国各地で火縄銃の実演イベントがあり、多くは5月連休やお盆の前後に開催されるのですが、特に今年は種子島で「鉄砲伝来480周年全国火縄銃大会」が8月19日に開催され、全国各地から15の火縄銃隊が参加したそうです。短筒や大筒,長筒など多彩な火縄銃による一斉撃ちや段撃ちなどの演武等が披露されたとのこと。ただ、これらの実演は、火縄銃保存会等に集うボランティアによるもので、銃も自前で管理費用もかかり、本物なので当然、殺傷力があり、火薬の規制や取扱いも厳しく、単なる武将の恰好だけという場合とは、生じる責任や負担は全く違うとのことです。
 さてさて、ひとまずこのへんで火縄銃ネタは尽きてしまうのですが、ここでいつものようにことわざを。鉄砲で思い浮かぶのはやはり「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」でしょうか、この館長日誌もそんな感じかと、いや、まだ数も撃ってはいないのですが。むしろ「闇夜に鉄砲」と言った感じでしょうか。目標も定めず、当てずっぽうで、やるのが無駄なことのたとえなのですが、確かにそうかと。まあ、生き様もそんな感じなので、すみません。


展示中の火縄銃5挺。手前の銃は五十匁筒!!

→ 裏館長日誌






 前回に引き続き「大坂夏の陣」を描いた「最上屛風」に関わるお話です。
 この屏風絵には様々な幟(のぼり)旗が描かれています。どの旗がどの武将のものかは同定に至っていないのですが、とにかく様々な旗が描かれています。ところで、なぜ戦いに旗が用いられるのでしょうか。
 まずは敵味方がわかるようにするためで、古くは「源平合戦」の際、源氏が「白」、平家が「赤」の旗を掲げて、敵味方を区別しました。ただ、敵味方を区別するだけなら旗でなく武具や衣服に家紋をつけたり、場合によっては合言葉を用いることもあるのですが、ここは自分たちの活躍や存在を示すため、そしてそれはその後の褒賞にもかかわるため、幟旗(のぼりばた)などで目立つことも必要でした。
 一方、全体の戦況を確認する手立てとしても旗は重要で、その所在や配置を確かめ、軍功の有無を確認する役割を担う「軍目付」とか「軍監」という職がいました。ちなみに旗が倒れていくというのは、戦況悪化を意味するわけで、「旗色が悪い」と言い方はここからきています。
 この敵味方の識別は、現代戦においても重要技術のひとつです。いわゆる西側諸国や日本、韓国の軍の艦船や航空機航には、共通の敵味方識別装置が搭載されており、また、戦場における車両や重装備の歩兵部隊などにも様々な技術が投入されているといいます。ただし、認識できるのは味方の信号のみで、それ以外は、敵かどうかはわからない、というか敵と見做すしかなく、誤射や偽装などは時代が進むほど課題になっているそうです。
 ところで、「大坂夏の陣」に関わる逸話ですが、伊達政宗の軍は、味方の前線にいた神保軍を撃って討死させています。その数約300名。政宗はまわりの武将から非難され、神保家からも訴えられました。しかし政宗は、「前線の味方が後退し始めたときは、敵と一緒に討たなければ共崩れになる。このような時、伊達の兵法に敵味方の区別はない」と弁明し、幕府は不問としたそうですが、実際は、行く手を塞ぐ形となる部隊が、前進の邪魔になるので撃った、という説があります。
 「背中を撃たれる」というのは、このように意図的である場合も、単に誤射である場合もあるわけですが、撃たれた方はたまったものでありません(ですが英語ではこれを「フレンドリーファイア」Friendly Fireといいます)。この「背中を撃たれる」ということは何も戦場ばかりで起きる事ではなく、職場でもありがちなことです。いくつかのビジネス本にも、背後から撃たれることも警戒すべきとの教えがあります。
 他にも戦に関係することわざがいくつかあります。「バカな大将、敵より怖い」とか、「一将功成りて万骨枯る」とか、これも職場でよくあることで、こういうときにはとにかく「三十六計逃げるに如かず」でしょうか。そうそう、某元事務次官が唱えた「面従腹背」という手もありますが、やはり強いのは「馬耳東風」かしらん。


「大坂夏の陣」(最上屏風)

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 当館では現在、特別展示として「武士の晴れ姿〜甲冑と戦の様相〜」(11月26日まで)を開催しています。今回は展示スペースの都合上、甲冑の背後に合戦図屏風3点「源平合戦〜那須与一」、「長谷堂合戦図」、「大坂夏の陣」を展示しています。あわせて伝直江軍部隊旗「かりがね(雁金)の旗」を展示しています。
 「那須与一」は大和絵風のオーソドックスな描き方の二曲一隻の屏風、「長谷堂合戦図」は六曲一双の当館の重要展示品、「大坂夏の陣」は枕屏風(二曲屏風)を模写し額装したものです(原本は明治27年に焼失)。
 ここで、枕屏風について簡単な説明を。屏風というのは「風を屏(ふせ)ぐ」という語源のとおり風よけで、枕屏風は枕元に立てていましたが、後に部屋の隅に置くなどの装飾に使われました。長屋などでは日中、畳んだ寝具を隠すのに用いられました。
 この「大坂夏の陣」を描いた屏風絵は「最上屏風」とも言われ、もとは最上家から大坂夏の陣に派遣された武久庄兵衛昌勝が主君への土産として描かせたもので、この大きさはお土産だからと推察されています。(歴史館だより��19、宮島新一)。
 「夏の陣」だけに、描かれている兵は、裸に胴巻き、褌に臑当だけ、といったいかにも夏の装いです。あの杉田玄白(「解体新書」で有名な医師、「解体新書」は山形市郷土館にも所蔵・展示されています)が、この屏風について「その絵を見るに、武具せし人少なく、多くは素肌者なり」と語っていた人がいた、と記録を残しているそうです。
 ここに展示しているものは、江戸後期に模写したもので、戦場の迫力ある場面というより、どことなく漫画のような明るい画風なのですが、そこに描かれている内容はかなりグロいものです。絵の右上には、大坂城に攻め入る武将隊が描かれていますが、そこには馬標(うまじるし)のように鎗に生首を刺したものがあり、絵の中央には、生首の髪を掴み手にぶら下げて意気揚々と戻る2人の男、いわゆる乱妨取り(らんぼうどり)の様子が、なぜか楽し気に描かれています。その左下の城壁に近い場所には、首のない半裸の屍体が3体ほど転がっています。また、城門付近には城を出ようとする稚児や女御たちの様子も描かれています。枕元に置くにはなんとも悪夢にうなされそうな内容です。
 乱妨取りは、戦国時代から安土桃山時代にかけて、戦いの後で兵士が人や物を掠奪することをいい、これを略して乱取り(らんどり・乱取・乱捕)とも言います。下級兵による食糧の現地調達から、家財、金品、人さらいまで公然となされたといいます。ついには戦場付近の村を襲い農作物を根こそぎ奪い、また、女・子供をさらい売り払ったり奴隷にしたとも。
 「大坂夏の陣図」屏風としては、大坂城に収蔵されているものが最も有名ですが、そこには約5000人もの人が描かれており、逃げまどう避難民から荷物を奪う兵士や、若い女性を数人の兵士が連れて行く場面も見られます。これは屏風絵の中でも大坂夏の陣だけにみられるものといい、このような乱妨取りがよほど目に余ったのかもしれません。
 そして戦いが終わると、武功の証として持ち帰られた首の検証(首実検)が行われます。「大将首」、「諸将首」、「雑兵首」に査定されました。町民や農民の首を狩る行為もみられ、これは、敵兵士の首に見立てて手柄にしようとした「作首(つくりくび)」のためで、少なからずあったといいます。生首を持っていくというのは、こういうことでもあります。(次回に続く)


特別展示「武士の晴れ姿〜甲冑と戦の様相〜」


「大坂夏の陣」(最上屏風)

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《2023年8月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年8月2日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (8/2 〜 8/31)
開館日数・・・・・・・・・・・・・28日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・2,449名
回答者数・・・・・・・・・・・・・19人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・11%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・16%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・5%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・16%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・26%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・0%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・11%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・16%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・68%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・11%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・21%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・68%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・26%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・5%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・84%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・16%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

山形市 男性/50代
山形の成り立ちがわかった。最後にVTRを見て理解が進んだ。

神奈川県横浜市 男性 10代
歴史好きにはたまらなかった。ありがとうございました。

神奈川県横浜市 女性 40代
最上義光歴史館については「愛の武将隊」のHPで知りました。

山形市 女性
最上胴と呼ばれる甲冑の作り方があったとは知りませんでした。雨漏りの被害大丈夫ですか?心配です。

宮城県仙台市 男性/70代
合戦屏風が面白かった。

千葉県船橋市 男性/60代
最上義光という武将は知らなかった。山形のすばらしさを認識しました。また来たいと思います。

山形市 女性/50代
また来ます。

山形市 男性/30代
展示があてよかった。昔の人物がいてよいと思った。

茨城県水戸市 男性/70代
案内ガイドがよく理解できました。

山形市 女性/40代
もっとHPを更新してほしい。次回の展示とかわかりづらい。予定でもいいので知りたい。

神奈川県鎌倉市 女性/40 代
最上氏が何をしていたか分かって大変良かった。最上義光が大事にされていることを感じた。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。

 お盆もすぎ、夏休も残すところあとわずかとなりました。先日、夏休みの工作なのでしょうか、最上義光の兜型の貯金箱を作りたいので見学したい、との電話をいただきました。正面からの画像はネット上にもあるのですが。後面や頭頂部となると実物で確認していただくしかありません。
 気の利いた博物館などでは、デジタルアーカイヴとして、こうした立体物は3Dで閲覧できるようになっています。もっともネットショッピングなどでは、こうしたことは当たり前で、素材のディテールなども確認できます。実はこのようなデータは、機材的にはi-phoneがあれば、3D画像までつくれる時代になっています。
 話を兜に戻しますが、当館では、この兜のペーパークラフトを、館内で実施しているこども向けクイズの正解者に差し上げています。この他、クイズ景品として、オリジナルデザインのクリアファイル、指揮棒形の鉛筆、義光キャラクターシールなどからも選ぶことができます。
 また、当館のホームページには各種ペーパークラフトのデータがあり、無料でダウンロードできます。例えば太刀のペーパークラフトには、ちゃんと太刀が抜き差しできる拵(こしらえ)もついています。武将フィギュアなどに合せて楽しまれる方もいらっしゃるそうです。これとは別に、当館の売場では、甲冑のペーパークラフトも販売しています。最上義光や伊達政宗その他の甲冑ペーパークラフトをクリアファイル付(1,000円)で販売しています。
 さて、ペーパークラフトを某通販サイトで見ると、本当にいろいろなものを目にすることができます。姫路城とかサグラダファミリア寺院とかモンサンミッシェルとかノイシュバンシュタイン城とか、こうした建物ばかりではなくて、例えば、仏像とかスタジオジブリものとか、実際に着用できるペーパークラフトの甲冑もありました。
 サイトを眺めていてオッと思ったのが、戦国時代の合戦をパノラマで再現したペーパークラフト。「関ケ原の戦い」やら「桶狭間の戦い」やら「本能寺の変」もあり、とにかくその合戦場を舞台に100体以上の人物をひとつひとつ貼り付けるというもので圧巻です。いまどきCG動画のシミュレーションものもありそうですが、あえてペーパークラフトでというところがすばらしい。ただ、残念ながら「長谷堂合戦」はありません。
 さて、私が小学校の頃、雑誌の付録にはよくペーパークラフトがついてきて、その大半は怪獣ものだったり変身ものだったりしていたのですが、その中に「万国博大パノラマ」というのがありました。対象は小学2年生で、たまたまそんな年齢だったので手にすることができたものです。これは5年程前に出版された「学年誌が伝えた子ども文化史40〜49年編」という本にも付録としてついています。改めて見ると、会場図の上にそれぞれのパビリオンを差し込むだけの他愛のないものなのですが、当時の自分にとってはなかなか複雑で面白いものでした。
 特徴的なパビリオンとしては、「日本館」は、桜の花を模した五つのドラムタンクを合わせたようなものでしたが、大きすぎて万博終了後の転用ができず、万博終了後すぐに取り壊されました。会場一の高さがある「ソ連館」に対し、「アメリカ館」は地面を掘って屋根を膜構造とする会場一低いパビリオンにし、当時の冷戦というかライバル関係がそのまま持ち込まれていていました。個人的に印象に残っているのは、アルプスの樹氷を模したという「光の木」がある「スイス館」、北斎の「神奈川沖浪裏」にヒントを得たという吊り下げ構造の「オーストラリア館」、愛らしい形の「ガス・パビリオン」(後で知ったのですか、画家のミロはこのパビリオンが気に入り、この中の壁画を即興で描いたとか。現在、国立国際美術館の壁画に)などです。実は大阪万博には行ってもいないのですが、この付録で覚えました。
 個人的には平成になってからようやく「太陽の塔」だけは見ることができたのですが、現在はリニューアルして内部の見学ができるようになっています。また、今月には「EXPO‘70パビリオン」別館がオープンし、初代「黄金の顔」や当時のパビリオンの模型など約300点が展示されているそうです。
一方、「大阪・関西万博」は現在、各国の独自パビリオン56の予定のうち6か国の建設業者がようやく決定したばかりとか。もはやこうなったらパビリオンは、メタバースなどの仮想空間だけで間に合うんじゃないかと。ヴァーチャルだったらどんなデザインでも可能だし、展示内容も映像とかが大半では。まあ、そうなれば最上義光のアバターでも投入して。いやその前に、その仮想空間に当館の入口を設ける方が先ではないかと。ごもっともです。

■ない物ねだり その1 「山形ハワイドリームランド」
 個人的にこのペーパークラフトがあればと思うものがあります。それは黒川紀章設計「山形ハワイドリームランド」(1967年-1971年)。山形市飯田にあった建物で、多分、還暦以上の山形市民の方には、記憶にあるかと思います。
 藁ぶき屋根の建物が何件も残る道を行くと、その建物は突如出現します。城塞のように建物が取り囲むその内側には、観覧車とプールがあり、温泉、動物園、水族館もありました。しかし、冬には全く弱い(遊べない)建物でもあったそうです。あとさき関係なく、「あったらいいな」を形にしたら、5年と持ちませんでした。実は、近くに大型遊園地ができたため経営に行き詰まり、動物の餌代にも困り、飼育していた虎などを射殺、この事件が施設の致命傷ともなったといわれます。(館長裏日誌に続く)

■ない物ねだり その2 「飛び出す絵本」
 ペーパークラフトの親戚のようなものに「飛び出す絵本」というのがあります。この飛び出す絵本は昔、結構身近にあって、やはり怪獣ものとか変身ものとかが多かった気がしますが、今はこども向けだけではなく、有名なものでは「不思議の国のアリス」とかアート系までいろいろあります。意外に多いのが図鑑の類で、動物図鑑とか恐竜図鑑とか有名建築とかスターウォーズ図鑑なんかもあります。
 そこで欲しい飛び出す絵本ですが、今、考えているのは「とびだすヨシアキ」。まずは「騎馬像」、そして「兜」、「刀に指揮棒」、「長谷堂合戦図屏風」も飛び出せるかな。あとは「金箔瓦」ぐらいか。「とびだす金箔瓦」、シュールですなぁ。いっそこれはイヴ・クライン風にでも。クラインブルーを背景にとびだす金箔瓦、おおっ。すみません、余計な独り言です。


こども用クイズに全問正解した方への景品です




売場で扱っている甲冑ペーパークラフトは、豪華クリアファイル付きです




手作り感たっぷりの長谷堂合戦のジオラマやパノラマ図も展示しています。
夏休みの宿題の参考にも。

 暑い日が続いています。ということで、納涼の一助に、妖怪・怪談話などを少々。
 当館と同じく山形市文化振興事業団が指定管理者となっている山寺芭蕉記念館では企画展「妖怪探訪=もののけの不思議な世界」を開催しています。鬼、河童、天狗、白澤などの展示約50点、河鍋暁斎、葛飾北斎、与謝蕪村、菱田春草などの有名どころが描いた珍しい図画も並びます。担当学芸員本人が所蔵するお宝書画も展示しています。もちろん妖怪の企画展があるという話だけでは納涼にはならないわけですが。
 では、最上義光歴史館としては、戦国武将にまつわる怪談などを。友人の話ではありますが、昔住んでいた場所は、毎年決まった時期に金縛りにあっていて、実はそこは落武者の通り道だったとか。金縛りと落武者と言えば、「ステキな金縛り」という映画もあるくらい日常茶飯(?)な話ですが、ある統計によれば日本人の約半数が金縛りの経験があるといいます。いかがでしょう?まだまだですか。展示している甲冑が夜な夜な動き出すとか、なぜか視線を感じる兜だとか、刀からうめき声が聞こえるとか、そんな話があればですが、やはりありません。それでは、ここらでお墓の話でも。
 最上義光歴史館の前の公園敷地には、「光明寺跡」と彫られた石碑があり、石灯籠や松の木が添えられています。「光明寺」は山形城を築城した斯波兼頼の菩提寺ですが、最上国替後、岩城国から入部した鳥居忠政が、山形城の正面に最上家の菩提寺がある事を嫌い、現在の場所に移しました。その境内には斯波兼頼の墓が、本堂には等身大の木造が安置されています。
 最上義光の菩提寺である「光禅寺」は、最上義光が生前に開創したものです。もともとは現在の「長源寺」がある場所にありました。最上家国替後、鳥居忠政の菩提所の「長源寺」を岩城国から招致するため、押し出されるように現在の場所に移されたものです。光禅寺本堂の裏手には、最上家三代(義光・家親・義俊)の墓の他、義光に殉死した四名の家臣の墓が並びます
 そして最上義光の娘である駒姫の菩提寺が「専称寺」です。駒姫は豊臣秀次の側室として迎えられてすぐ秀次の謀反に連座することとなり、わずか15歳で処刑されました。義光は愛娘の最期を、幽閉されていた伏見の屋敷で聞いたそうです。義光はその供養のため、駒姫の生母である大崎夫人が浄土真宗に帰依していたことから、高擶にあった寺を現在の場所に移し、駒姫の菩提寺としました。
 駒姫の遺骸は三条河原の「畜生塚」に埋められているため、侍女達が持ち帰った遺髪を「専称寺」の塚に収め、供養石を置き密かに供養したそうです。近年、五輪供養塔が建立され、塔の裏側に置かれた小さく古い石がその供養石です。命日は旧暦8月2日ですが、9月2日を「駒姫忌」としています。
 ここで「畜生塚」の説明を。文禄4(1595)年8月2日(9月5日)、三条河原には7月 15日に自刃した豊臣秀次の首が据えられました。秀次の正室や側室、侍女、秀次の子どもたち一族39名は、牛車に乗せられて市中を引き回された後、秀次の首の前で処刑されます。まず子供たちが槍で刺し殺されました。続いて姫君、側室・侍女・乳母らが次々と引き出され斬首されました。駒姫は11番目でした。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なるという有様で、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられました。畜生のような扱いで埋められ建てられた塚は「畜生塚」と呼ばれ、塚の上に据えられた石櫃には「秀次悪逆」と彫られ見せしめにされました。
 その後、塚は鴨川の洪水で流されてしまうのですが、高瀬川開削工事の際、埋もれていた塚が発見されます。これを京都の「瑞泉寺」で弔いました。その境内には四十九柱の五輪卒塔婆があり、立札には誰がどの順に何歳で処刑されたのかが書いてあるそうです。駒姫は、側室では「お伊万(おいま)の方」と呼ばれ、その名が記されています。
 ここで気になるのが、駒姫の母である大崎夫人です。大崎夫人は、山形の地で飛脚により娘の死を知ります。娘の死のわずか14日後、後を追うように大崎夫人は世を去りました。それは二七日(ふたなのか)にあたり、自害説もありますが、確かな記録がなく、菩提寺も墓所もわかっていません。
 このように、お寺やお墓にまつわる話には、いわく因縁がつきものですが、かつて同じ職場に、実家がお寺の職員がいて、ある日、「子供の頃なんか、墓とか怖くなかったか」と聞いたところ、「逆に守られている感じで怖くなかった」と言っていました。さすが、寺を継ぐ方は違います。
 最後にもうひとつ、最上家ゆかりの寺の話を。千歳館の近くにある「法祥寺」は、最上家四代満家が父のために建てた寺です。「山形風流松木枕」という江戸中期の山形市内を紹介するガイドブックには、「禅宗瑞雲寺法祥寺、御門より寺中の様子能(よく)御覧候へ。先是は観音堂也、井白山堂後にはばけ石と申太刀痕有石塔有、此石昔毎夜酒買いに歩行すと申傳候。」とあります。法祥寺の門のお堂のところにある、「ばけ石」という刀痕がある石塔は、夜な夜な酒を買いに歩くらしいと。実は、私の父の墓もこの寺にあり、父は家の中でも外でも酒飲みばかりしていたのですが、草葉の陰でも夜な夜な酒盛りをしているのかしらん。合掌。


「専称寺」駒姫の五輪供養塔と供養石(右下)


「法祥寺」刀痕のあるばけ石

●追記その1
 山寺と言えば最近、新装版が出された藤子・F・不二雄「SF短編コンプリート・ワークス9」に「山寺グラフィティ」というのが載っていました。1979年発表の作品で、著者の作品には珍しく、その背景画は写真コピーも交え、かなりリアルに書き込んであります。
 話は、山形市出身のイラストレーターの卵には、一緒に山寺に遊びに行っていた幼馴染の女の子がいたのですが、彼女はその後亡くなったにもかかわらず、目の前に現れてくる、というもので、山では死者の魂が整然と変わりなく生き続けるとされ、亡くなった人のためにさまざまな品物を奉納し供養する人が絶えない、とした土俗信仰をベースに展開していきます。
 この新装版短編集(全10巻)は、NHKでこの4月から放送されていた「藤子・F・不二雄 SF短編ドラマ」(全10話、7月で終了)に連動して出版されたのですが、今後、第2シーズンとかで、この山寺の話のドラマ化をどうでしょうか。

●追記その2
 先日、金箔瓦のことで、某番組(=ブラタモリ)に貸出したものが、番組で使われるかどうかわからない、と書きましたが、無事、使われていました。ところで山形城は左遷先と言う紹介がなされていましたが、それはそうとして、城主に関わる寺社の開創や変遷を追えば、城郭都市の構造や盛衰など、また違った体裁で見せられたかもしれません。ただ、そんなこまめに時代が追えるほどの絵地図はないようです。
 東北芸術工科大学歴史遺産学科では、何種類かの最上期の山形城絵図をデジタル化し、精緻に分析を進めています。現在も研究中ですが、地図はネットで公開されています。特に市中の寺社は、江戸時代のみならず、現在の地図と見比べるときのベンチマークにもなります。もっとも、同じ時代の絵図でも、寺社の位置や名称が違うこともままあるのですが。