最上義光歴史館

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重要文化財 太刀 銘 安綱 (号鬼切)  京都・北野天満宮蔵

最上家伝来の宝刀「鬼切丸」の謎
 
『太平記』に見る「鬼切」―その行方と最上家への経路
 
 源氏重代の宝刀の一つ鬼切。その由緒については『太平記』の記すところであり、これが最上家伝来の「鬼切丸」に該当するものとされている。
 同書によると、越前藤島城で自害した新田義貞(1301-38)。彼の首級と佩いていた鬼切・鬼丸の太刀二振りを、斯波尾張守高経(1305-67)へ献じたのは、越中住人氏家伊賀守重国であった。重国は当時、斯波兼頼(1316-79)の幕下として、越前戦線に参戦していたという(『山形市史』上巻)。
 こうして得た鬼切は、斯波高経の手元に留め置かれたようだ。一方の鬼丸は、足利将軍家へ渡ったと推測される。前者がその後、どのような道筋を経て最上家の祖の兼頼に渡ったのか。この点については謎であるが、ここでは大まかに二つの経路を考えてみたい。
 一つは伯父の高経から直接兼頼への道筋であり、もう一つは高経から父伊予守家兼(1308-56)をとおして、兼頼へという道筋が想定される。いずれにしても、これら二つの経路に、前に触れた氏家重国の働きが関与していたと見たいのである。そのことをとおして、兼頼に渡る蓋然性はあるだろう。
 他には次のような理由も想定される。斯波高経のもとにあった鬼切は、斯波家兼が奥州管領(探題)として下向するに当たり、餞として高経から家兼に譲られた。先ずはそう仮定する。そして延文元年(1356)、家兼の死の直後、鬼切は嫡男の直持(大崎殿)には渡らずに、出羽大将として山形に赴く、次男の兼頼に与えられたのではあるまいか。
 以上が、最上家への鬼切丸伝来のはじまりである。この移動経路についての確証は何も無いが、新田義貞が自害時に佩いていた鬼切と号する太刀は、いつの頃からか最上家重代の家宝として大切に守り伝えられてきた。この太刀は、江戸時代の若干の記録とともに現在に至っている。

「鬼切丸」と名物「童子切」「鬼丸」について


「安」の字が「国」の字に改竄された鬼切の銘  写真:茎(なかご)の部分
 
 この鬼切丸の作者は、『太平記』の記載のとおり、作風上からも明らかに伯耆国(鳥取県)安綱と見なされる。彼は平安時代後期、すなわち後三年の役(1083-87)終了後あたりに鍛刀した刀工と推定されている。
しかし、この太刀の銘をよく見ると「國綱」になっている。実は安綱の安の字が、意図的に国の字に改竄されているのだ。これは鬼切が何らかの理由により、安綱銘では不都合が最上家に生じたことを物語っている。では、いったいなぜ、そのようなことがなされたのであろうか。また、その時期はいつであろうか。これまた大きな謎である。
 ズバリ結論的に言うと、その原因は源氏重代の宝刀鬼切・鬼丸の説話と、これから述べる童子切安綱(現国宝)や鬼丸国綱(現御物)の出現と、無関係ではないと思われる。すなわち、重代の名刀や名物の持つ重みと、それに該当する刀工を意識し過ぎた結果の所産であると見てほぼ間違いないであろう。
 さらに付言すると、鬼切を江戸時代に至って鬼切丸と呼ぶようになったことさえも、単に自然発生的に元来の称号に接尾語として道具の愛称の「丸」を付したのではなく、鬼切と鬼丸の呼称を半ば意図的に組み合わせ、銘の改竄と関連させたと考えることは穿ち過ぎであろうか。
 さてここで、鬼切の他に伯耆安綱の手による童子切という太刀の存在について触れることにする。これは筆者が経眼した数振りの安綱中では群を抜く名刀であり、日本刀の王者としての貫禄が十分である。
 伝説によると、この太刀は源頼光が、大江山の酒顛童子を斬ったときに佩いていたもの。童子切の号はそのことによるという。斯界の通説では、この太刀は室町時代以来、鬼丸国綱とともに天下五剣の内に数えられ、足利将軍家に伝来し名高かったとなっている。だが、二振りとも管見の限り、桃山時代(1585-1600)を遡る史料を見ない。
 一方現存する鬼丸についてはどうか。この太刀は、実は北条時頼(1227〜63)が、京の粟田口国綱を鎌倉に呼び寄せ、作刀させたものである。国綱の二字銘がしっかりと切ってある。ちなみに、国綱は建長(1249〜55)頃の刀工と伝えられている。

「鬼切丸」謎解きの私見

 童子切と鬼丸が名刀として広く知れ渡るのは、やはり桃山時代からであると言っていいだろう。鬼丸についてはひとまず措くとして、童子切について考えてみよう。
憶測を逞しくすればこうである。秀吉が権力に任せ名刀を蒐集していく過程で、類いまれな安綱の太刀を入手した。それに、当時有力な鑑定家であった本阿弥光徳が関与し、童子切という新たな名物を誕生させたのでなかろうか。その伝説の基になったのは、『太平記』の鬼切伝説の刀工安綱であり、それに世上に流布していた大江山酒顛童子伝説などが加味されたのではあるまいか。
最上義光の時代は、すなわち太閤秀吉の時代である。その頃には少なくとも、名刀や名物刀剣の存在が、大名の間でしだいに知れ渡っていたと思われる。正宗や粟田口吉光を初めとして、名刀=著名工という概念が定着してくると、当然のことながら、大名や武将の多くは著名工の作刀を贈答品としてあるいは家宝として意識せざるを得なくなった。
 このような状況下で、前代から選定のための一定の評価基準が成立していたことが、いくつかの史料によって知られる。それらの中には、先に挙げた正宗や吉光などとともに、国綱の名はあるが、安綱の名を見出すことができない。希少価値があり且つ優秀な作品の一つとして、国綱が選定されているのである。最上家では、先ずはこの辺りに敏感に反応したのではなかろうか。これが銘の改竄理由の一つである。
 一方、これとは別に、童子切という大名物が、桃山期から江戸初期にかけて世に知られるようになる。穿った見方をすれば、最上家において鬼切安綱では気後れを感じ、ならば国綱名に改竄しようということになった。そして、この事件とほぼ時を同じくして、敢えて鬼切丸と呼称し、鬼丸国綱に紛れるような「鬼切丸国綱」を創出したのではなかろうか。
 傍から見れば愚挙とも思える銘の改ざんの背景には、やはり童子切安綱や鬼丸国綱の存在が、影響したことは否定できないだろう。時代的には、有名刀工やその作品が広く顕在化し、また、徳川将軍家と各大名や大名間相互の贈刀が盛行する江戸時代初期頃のことと、さしあたり私見の仮説としてあげておきたい。

(執筆:布施幸一/「歴史館だよりNo13」より)


国宝「伴大納言絵巻」の変遷について
−最上家の臣・武久庄兵衛が所持していた−

 現在、国宝に指定されている「伴大納言絵巻」(以下、「絵巻」と呼ぶ)は、我国の絵巻物を代表する傑作の一つである。内容はそこに書かれている「絵詞」を通して知ることができるが、伴大納言善男の陰謀による放火事件により、内裡とその周辺が混乱状態に陥っている様子を描いた、12世紀後半に創作された説話絵巻である。
 ここでは、これを美術的に解明するのではなく(尤も小野自身が学問的には全く無縁ではあるが)、これが何時しか最上家(義光か)の手に渡り、元和8年(1622)山形藩最上家の消滅以後に、若狭の小浜藩酒井家に再仕官した武久庄兵衛昌勝の手により最上家より、賜った「絵巻」を子孫に伝えていった事実を追っていきたい。
 まずこの「絵巻」が15世紀中頃に、「彦火々出見尊絵巻」や「吉備大臣入唐絵巻」という名品と共に、松永庄(小浜市の内)の新八幡宮に収められていたことが、後崇光院(伏見宮貞成親王)の当時の日誌に書かれている。それが何時しか三巻とも流出し、「絵巻」がはっきりと武久氏所有のものだと確認できたのは、天明・寛政年間以後のことである。
 武久庄兵衛は近江の出である。父は佐々木六角氏に仕えていた。六角氏が織田信長との抗争に破れ没落、父の討死の後に羽州の由緒ある者を頼り、やがて最上義光に五百石で仕えた。義光の間近かにつかえていたことが、数々の記録に残されている。特に家親の代の大坂の陣では、「権現様大坂御陣之節、為使者大坂エ罷登」とあり、戦後にその功として、五百石を加増されている。
 武久家に伝えられている、大坂の陣の折の庄兵衛使用の指物に、血で黒く染まった箇所があるというから、山形藩の実戦への参加を裏付ける、有力な証拠にもなろう。
 庄兵衛は時の幕閣の一員である酒井忠勝に仕え、小浜の老役として千石を給された。個人的にも忠勝の孫娘を養女に貰い受けるなどして、承応3年(1654)12月、83歳で没するまで、藩政に関与する立場にあった。
 この「絵巻」が何時の頃に若狭を離れ、最上家に入ったのかは確かなことは判っていない。ただ酒井家の関係者が著した『若むらさき』という随筆に、「絵巻物者賜於最上家焉」と、庄兵衛が最上家より賜ったことを示す、貴重な記録を書き残している。
この随筆は、文化6年(1809)に大田南畝(蜀山人)が編んだ『三十輻(みそのや)』の中に収められている。著者は酒井家で学問方の人物と思われる「津田かみはや」という人物である。藩主忠貫代の寛政10年(1798)に書かれ、次のような書きだしで始まっている。

「我国の守の従者、武久昌扶なるものゝ家に、伴の善男の応天門を焼たりし絵巻物を、年久しく秘め置しに、いかなる風の便にか、天のすめらみことのきこし召して、久我の前内大臣殿の妹君は、頼み奉りし殿の北の方にてわたらせ給ふゆかりあれば、頃は寛政の初めつかた内大臣殿して、召し出し給ふ、……」

 紙面の都合で全文は掲載できないが、天明8年(1788)の京の大火により内裏が焼失した。その際に、平安の昔の古制復活に、「絵巻」が内裡の造営の参考にと、武久氏に久しく秘め置かれた「絵巻」が召し出されたのである。津田はその時の公家と酒井家との「絵巻」を巡っての経緯を、多方面の資料を駆使して書き上げている。要は「絵巻」が武久氏の所有物であったことを、述べていることである。
 明暦2年(1656)に、将軍家綱が酒井邸に赴いた際に、書院の飾り付けの品々の中に「絵巻」が置かれていた。従来、諸書の多くは、「絵巻」は藩祖忠勝が手に入れたものというが、それを裏付ける確かな記録は確認できていない。この時の「絵巻」が果たして酒井家のものであったかは疑わしい。酒井家内で「絵巻」が確認され出したのは、天明・寛政年間に於ける武久氏の記録からである。明暦の「絵巻」は将軍に供覧するために、武久氏から一時的に借り受けたものと考えられる。
 津田は、主家や武久氏などの資料から、「絵巻」の移り変わりを、精力的に説き明かした。その「絵巻」は最上家に於いて貰ったという一言が、部外者ではなく、酒井家関係者の口から発せられたことに、大きな意味がある。
 安永3年(1774)に六代目の内蔵昌扶が書き上げの由緒書には、初代庄兵衛と「絵巻」との関わりについての記述は見当たらない。内蔵助は何故にその事実を記載しなかったのか。あくまで秘事として明らかにしたくなかったのか。しかし、結局は表に出さざるを得なかったのである。
 文化8年(1811)に七代目庄兵衛昌生は、
  
「寛政九丁巳年正月七日、於評定所被仰出者、先年差上置候所持之伴大納言絵巻物、御用相済御下ケ被遊候、右者此度禁裡御用ニ相立、殊ニ被備天覧候処、叡感不斜、」

 と書き伝えている。全文は長くなるので省略するが、寛政9年(1797)正月に、先の年に京へ差し出していた「絵巻」が内裡の完成により役目を果たし、戻されてきた事を伝えている。また、「絵巻」は天覧に浴して大変喜ばれ、褒美として小袖壱枚・銀子十枚と、久我大納言家の口上書などが添えられていたことも記されている。
 主家の関連資料の内から、藩主忠寛の「忠寛様御年譜」には、
  
「十月(天明八年)久我様ヨリ京都御屋敷迄、以御使者御家来武久庄兵衛所蔵之伴大納言焼応手門候絵巻物□□関白様被□□御覧度ニ付被成被供用度而被仰処、……」

 として、その年の正月の京の大火から時を経ずして、「絵巻」が京の話題となってきたことが判る。そして、寛政9年(1797)正月7日に、武久氏に戻された「絵巻」を見るために、同輩の山岸惟重が訪れた。4日後の12日付の惟重日記には、
  
「武久殿ニ而伴大納言絵巻拝見、右者拾ケ年以前造内裡御用之由ニ而、久我様ヨリ御願ニ而御提出被成、……」

 とあり、惟重もその内部事情については、承知していたのであろう。ところがこの「絵巻」にとんでもない異変が生じたのである。それは天覧に浴した名品を、藩主は黙っている筈もなく、以後、城からは出さず、たとへ勅命・台命あるとも応ぜず、永の預かりとして酒井家の所有とするという、非常な結末を迎えたのである。
  
「伴大納言絵巻物入
右武久内蔵丞方より、老衆エ預ケ被置候由、寛政九丁巳年七月朔日御宝蔵エ入置候様、御談にて小原操方より受取」([御譲道具入日記])

 とあるように、半年後の7月には強制的に取り上げられ、藩の宝庫に収められ、そのまゝ維新を迎え現在に至ったのである。武久氏にとっては、悲しき結末を迎えたということである。そして、いかなる事情か知らぬが、酒井家から離れ出光美術館に移ったのは、昭和五十年代のことである。

 参考のために、古書から武久氏所持の記事を拾ってみる。 
 [類聚目録]伴大納言絵、小浜酒井家家人武久某蔵
 [古絵目録]伴大納言絵三巻、著若狭国小浜家中武久庄兵衛蔵、
 [画図品類]伴大納言草紙、若狭小浜武久平蔵書伝、
(執筆:小野末三/「歴史館だよりNo12」より)


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最上義光歴史館に来館した小中学生はクイズに挑戦しています!!
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義光のニックネーム…虎将!?

義光の代表的なキャッチコピーをみてみると…
「奥羽の驍将」「羽州の狐」「修羅鷹」「戦国の驍将」「北天の巨星」などがあげられます。いずれも現代の地元山形の方々が義光に冠したものです。大変誇らしいものもあれば残念なものもあります。これらは義光を紹介する際にしばしば引用されています。義光の最初のイメージを決定付けるきわめて重要な文言といえるでしょう。

ちょっと昔にさかのぼってみましょう…
義光が亡くなってから約230年後…幕末の儒学者塩谷宕陰(しおのやとういん/1809-1868)は、山形藩主水野忠精(みずのただきよ/1832-1884)に従って嘉永2年(1849)からその翌年まで山形に滞在し、その間に作った漢詩を『山形従役詩』にまとめました。その中に義光を讃えた詩が発見されました。

 雑咏 
英風千古快心胸 (英風千古、心胸に快し。)
散歩時尋虎将蹤 (散歩して、時に虎将の跡を尋ぬ。)
四十八城何處是 (四十八城いづれの処か是なる。)
秋高天半玉蟾峯 (秋高き天の半ば、玉蟾の峰。)

【大意】
英雄のなごりは消えず、思うだに、胸に快い。
そぞろ歩きのおりふしに、虎将(義光)の跡を尋ねる。
(最上領)四十八城。それは今、いずこ。
高く澄む、秋の空。中天に浮かぶは、月山の美しい峰。

宕陰は義光を「虎将(こしょう)」と称し、その業績を讃えています。これは、現在わかる最も古い義光のニックネームです。「虎将」とは義光が叙任した「近衛少将」の漢名「虎賁郎将(こほんろうしょう)」から発したものと考えられています。義光が「虎将」で甥の伊達政宗が「独眼竜」。戦国の奥羽では竜虎がたがいに競い合い並び立っていたわけです。

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最上義光歴史館では小中学生向きの解説シートを配布しています。