最上義光歴史館

最上義光歴史館
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特別展示「最上公義氏寄贈資料」

2月5日から開催

昨年夏に最上家第47代当主最上公義氏から山形市に寄贈になった資料を特別公開しています。寄贈された資料は、最上宗家に代々伝わる貴重な資料です。
有名な義光の鉄製指揮棒や軍旗(直江軍部隊旗)をはじめ、最上家が出羽から近江に国替えになってからの記録をみることができます。
残念ながら義光所用の「三十八間金覆輪筋兜」は、現在三鍬形復元のため展示されませんが、23件139点の寄贈資料を一堂に公開しています。



【展示資料一覧】

1 鉄製指揮棒  
2 鉄扇
3 鏃
4 軍旗
5 口宣案 最上義智叙任(3通)
6 家伝覚書
7 覚書
8 最上中興事略
9 羽州最上軍記 地之巻
10 最上家御先祖書写
11 茶切手(藩札)(11枚)
12 最上家慶長年間分限帳
13 辞令 領土安堵
14 辞令 家禄下賜
15 和歌短冊 最上義溥・義昶・義連・芳子(4枚)
16 最上家系譜
17 辞令 最上義光・義連贈位(2通)
18 贈位辞令書箱
19 最上家義光・義連公贈位報告祭並ニ関聨附属書類
20 最上由緒考 巻之上
21 最上由緒考 巻之中
22 最上家系譜
23 和歌短冊(101枚)


《平成20年1月分の入館者アンケート集計結果》
 
この集計結果は平成20年1月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


常設展示 (1/1〜1/31)
開館日数・・・・・・・・・・24日間
入館者数・・・・・・・・・・434人
回答者数・・・・・・・・・・・45%

1.歴史館をどこで知りましたか

(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・22%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・9%
(3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・0%
(4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・2%
(5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・14%
(6)以前から知っていた・・・・・・・・・・・29%
(7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・24%

2.歴史館の入館は何回目ですか

(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・89%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
(3)3回以上・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
(4)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・1%

3.ご覧になられた感想

(1)内容はいかがでしたか

�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・26%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・59%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・15%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について

�,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・35%
�△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・59%
��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・1%
�い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

(3)入館料について

�々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
��適当である・・・・・・・・・・・・・・・・81%
�0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�%

4.歴史館の事業で興味があるものは

(1)展覧会・・・・・・・・・・・・・・・・・・29%
(2)史跡めぐり・・・・・・・・・・・・・・・・45%
(3)歴史講座・・・・・・・・・・・・・・・・・26%
(4)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

〜利用者の声〜

◎単眼鏡の貸し出しは、他にあまりないので大変良い事だと思う。

◎義光と駒姫の関係が理解できた。

◎新しい義光のイメージ、山形のシンボルとして発展する事を望む。

◎義光のレプリカの鎧を着用するコーナーがほしい。

◎人物、最上藩の歴史について、丁寧な説明が必要だと思う。

◎観光で初めて山形に来ましたが、とても楽しい時間になった。
 
◎山形に来るまで義光の事を知らなかったので、もっとエピソードが知りたい。
 上杉軍と戦った時の戦法、伊達や家康、秀吉などの有名武将との関わりなど。
 
◎戦国大名の歴史館なので、義光が経験した戦いを解説したコーナーがほしい。
 
◎解説を1分以内にまとめてほしい。

◎NHKの大河ドラマでやってほしい。
 
◎伊達政宗との攻防をもっと知りたかった。
 
◎購買部がほしい。

◎実際に触れる事のできる展示物があったでよかった。

◎順路をもう少しわかりやすくしてほしい。

◎わかり易い説明文と展示の仕方がよかった。

◎雪で、外の景色を楽しむことが出来なかったのは残念だが、静かでゆっくり見学できた。

◎資料の多さ、質に驚いた。

◎実物の鬼切丸が見たい。

◎義光の他に家臣団の情報や城跡等の情報(交通アクセス)の資料等もあれば良いと思う。

◎直江兼続と上杉影勝の事ももう少し多く説明・展示してほしい。

◎重要な展示品が少ない。

◎改易の理由がよく分からず説明不足だと思う。

◎わかりやすく説明されていたと思う。

◎イヤホン付き音声案内は非常によかった。

◎刀などについて豆知識があり、わかりやすかった。

◎山形の刀の展覧会をしてほしい。

◎展示品の解説(こぼれ話など)が分かりやすく、楽しみながら観る事ができた。

◎上山合戦をもう少し説明してほしい。

◎刀、鎧の展示が楽しかった。

◎映写室があればいいと思う。

◎グッズがほしい。

◎歴史の勉強になった。大河ドラマに取り上げられたら良いと思う。

◎クイズがあると、真剣に見学できる。

◎古文書類の保存状態が非常に良いと思った。

◎ミュージアムショップ、グッズがあると良いと思う。

◎人物像がより深くわかるといいと思う。

◎「豆知識」や「見どころ」「こぼれ話」などワンポイントがいいと思う。


【最上義定/もがみよしさだ】 〜第九代山形城主〜

 最上義光の父10代義守は、別項で紹介しているように50年を超える最長期の山形城主だった。
 その前の9代義定は、系譜では義光の祖父にあたる。修理大夫。正室は伊達尚宗の娘、稙宗の妹であると、『寛政諸家譜』に記されている。『山形市史』では、この人物は軽く扱われた。
 永正11年(1514)2月、伊達から攻められて敗れ、長谷堂城を占領され、翌年伊達の娘を押しつけられて伊達家の言うがままとなり、そのうえ間もなく死んでしまったという具合に、全くの小物あつかいである。
 だが事実は、そんなつまらぬ人物ではなかったらしい。
 村山地方の諸国人豪族層との連携を固め、地域の安定のためにそれなりの力を発揮したらしいのである。
 『大江氏系図』によれば、次に示した略系図のように、寒河江宗広の娘は「山野辺刑部の子、直広の妻」となっている。この女性が「義定の姑」だというのだから、義定は山野辺氏から妻を入れたことになるわけだ。もちろん正室かどうかはわからない。山形の支族中野家にも、寒河江の娘が嫁いだとされており、この系図を根拠としてみると、山形・山辺・寒河江・中野は、それぞれ婚姻を通じて結ばれていたことになる。

寒河江宗広
 男(母、山野辺刑部の娘)
 女(山野辺刑部の子、直広の妻。山形義定の姑)
 女(中野の妻)

 ただし、山野辺直広の妻なった女性は隣の領主中山家の出だともされるので、どちらが正しいかは、はっきりしない。どちらにしても、1500年代初頭のころは、山形盆地内の諸豪族国人層は、必ずしも対立抗争のみをこととしていたのではなかったらしいのである。
 同系図では、寒河江宗広亡き後の永正2年(1505)のこととして、「山形義定、コノトキ二度山形ヨリ御入部」と記されている。これについては、義定による寒河江攻撃を意味すると、『寒河江市史上巻』では言う。
 義定の軍事力は、この山形盆地域では抜群に強大だったようで、一時は、寒河江氏を攻めて支配下においたとされ、永正元年(1504)慈恩寺が焼け落ちたのは、山形の攻撃によるという見方もある。数年後、永正9〜10年(1512〜3)、庄内地方において武藤・砂越の争乱が起こったときにも、義定は強い関心を示し、寒河江領内熱塩郷に出陣して、警戒に当たったという。
 だが永正11年2月、置賜の伊達稙宗軍が山形に攻め込んだときには、以外にもろかった。
 攻め込んだ理由も、合戦の経過もよくわからないが、長谷堂を主戦場とするこの戦いでは、最上連合軍は大変な負け戦だった。戦死者は千人を超えた。寒河江氏の一族、吉川兵部政周も、山野辺刑部も、最上家につながりのある楯岡、長瀞の城将も戦死したと『大江系図』は語っている。惨憺たる敗北であった。原因は義定の命令が遅れたせい、あるいは義定の到着が遅れたせいだともいう。
 これらの説明は、山形の最上義定が連合体の中核にあったことを意味すると考えてよいだろう。根拠史料の確認は取れていないが、一説では、このとき義定は最上郡方面に出馬していたために遅れたのだとも言われる。
 長谷堂城は占領され、伊達の家臣小簗川親朝がここに駐留した。
 ところが奇妙なことに、その翌年、伊達稙宗は山形に乗り込みもせず、せっかく手に入れた長谷堂城を返し、妹を与え、最上家との関係を固めようと努めている。妹を嫁がせることで、最上家を間接的に支配しようとしたのだと見る向きもあるが、そうではなく、最上には伊達の力を排除するだけの実力があったと見るほうが妥当かもしれない。
 なお、「この戦いで上山城も占領された」とか「敗れた義定は山形城を去って中野に退避した」などと書いた史書も見受けるが、これを裏付ける史料は示されていない。
 義定が最上家の主で、地域諸勢力のリーダーであったとは、『大江系図』からは推測できるわけだが、何分にもほかの史料が根本的に欠けている。義定の名を記した文書や遺品類が、系図以外には残っていないのだ。これはいったいどうしたことだろう。
 永正17年(1520)2月2日死去。一説、3月4日。年令不明。伊達から入った夫人に子がなく、跡をついだのは幼い中野義守だったと、諸書は一致しているが、山辺氏から入った夫人にも子がなかったのか、そのへんはわからない。山形市中野の雲祥院が菩提寺である。
■■片桐繁雄著

【光姫/ひかりひめ】 〜最上三十三観音巡礼のはじまり〜
   
 「お金万貫、米万石、それに美人の女房をお与えください。」
 こんなぜいたくな願いを観音様からかなえてもらった男の話が『日本霊異記』という古い本にある。
 33に姿を変えて人々の願いをかなえてくれるという信仰から、いわゆる「三十三観音」はスタートしたらしいが、最上札所の起こりについては、確実なことはわかっていない。
 応永(1400年前後)のころ、山形の殿様最上頼宗に“光姫”という美しい姫君がいた。姫は自分のために二人の男が争って命を失ったのを悲しみ、乳母とともに尼となり、観音巡礼の旅に出た……これが「最上三十三観音」の始まりだという伝説がある。だが、これは史実ではないようだ。
 江戸時代に「お札打ち」が盛んになってから、時代をさかのぼらせ、最上家の架空のお姫さま“光姫”が創作されたものらしい。
 最上時代をなつかしむ山形の人々の心が、こうした伝説を生み出したのであろう。
 札所の範囲は、南は上山から北は最上郡まで、天正末期(1590年ころ)から慶長初期(1600年ころ)の最上氏の領地とほぼ一致しており、33箇所がセットになったのは、およそその時代と考えていいのではあるまいか。
 全国各地に成立した「三十三観音」のなかでも、最上札所は、鎌倉時代に近畿地方に成立した「西国」には及ばないものの、比較的早い時代にできたものとされており、「坂東」「秩父」と並んで、昔から多くの巡礼がおとずれたところだ。
 慶長8年、最上義光は千手堂の観音さまに、年老いた母のために御詠歌の額を奉納した。
 「花を見ていまや手折らん千手堂 庭の千草もさかりなるらん」
 これにはなぜか「第一番」と書かれているが、順番はまたあとで変わったりしたこともあったのだろう。
 現在は第1番は天童市の若松。ここからはじまって、打ちとめは33番の鮭川村庭月、
これに番外として最上町の向町観音を加えて34箇所。
 山ふところや丘のうえ、あるいは川のほとりや集落の木立のなかに、遠いむかしから人々の信仰を集めて、観音さまのお堂はひっそりと建っている。
 中には山形地方を代表する古い建造物として、重要文化財に指定されているのもある。巡礼が貼りつけた無数のお札は、信仰の広さ篤さを物語る。お堂の中には、ご本尊の観音像がまつられ、板壁には絵馬や俳諧の額などがかかげられているのを見ることもできる。
 ちなみに、山形市内だけでも、山寺・千手堂・円応寺・唐松・平清水・岩波・六椹・松尾山長谷堂と、九箇所の札所があって、春や秋の良い季節になると、昔に変わらず「お札打ちさん」が訪れている。
 “光姫”は、千歳山の“あこや姫”とともに、山形のひとびとが作り上げた美しいロマンのヒロインといってよいだろう。
■■片桐繁雄著

【斯波兼頼/しばかねより】 〜山形を政治の中心とした〜

 出羽国最上郡、山形の地にはじめて城を築き、ここを政治の拠点として出羽を治めた人物が、斯波兼頼である。
 北朝年号延文元年(1356・南朝正平11年)8月6日に山形に入部したとされる。
 時はまさに、全国的な南北朝動乱のさなか、兼頼は出羽国の探題(地方政治を監督する役職)に任ぜられ、今の宮城県北部の大崎地方から、はるばると奥羽山脈を越えてきたのであろう。
 その年は、今の宮町慈光寺境内にあたる「西根小但馬」の屋敷で年を越し、翌年山形城を築いて、ここを政治の拠点としたという。当時の常として、城は四方百数十メートル程度の小規模な館といってよいようなものだったと推定される。
 夏は高温となって農作に恵まれ、冬は比較的に雪が少なく、地震や風水害も少ない。この地に城を築いたことが、都市・山形発展のきっかけとなったわけである。
 兼頼は、敵対する近隣の豪族と戦い、あるいは連携し、室町幕府足利将軍の一門として、
地域の平和と安定をめざして政策を遂行しようとしたのだろうが、どうやら出羽国全体(現在の山形・秋田両県)を支配するには至らなかった。
 山寺立石寺の復興をはじめ、山形周辺の寺社を修復したり新たに建立したり、また寺社領を寄進するなど、神仏を大切にして、民衆の教化をはかったらしい。
 応安6年(1373・文中2)の秋、兼頼は東山に狩にでかけた。今の二口街道沿い、高瀬地区あたりの山野であろうか。
 一日狩をたのしんでの帰り道、彼は漆山の念仏堂で、他阿上人元愚和尚が説法をしているのをたまたま聴聞し、その教えに深い感銘を受けたという。
 「国々両方、合戦絶えず、飢渇なり」と山形市岩波の石行寺の写経の奥書に書き記されたとおり、戦乱・疫病・飢饉がしきりに起こった世相を見つめ、戦いに明け暮れた自分の半生をかえりみて、心に期するところがあったのだろう。兼頼は、元愚和尚に帰依して戒を授けられ、仏門に入って法名を「其阿」と名乗った。58歳だった。
 それ以後、彼は嫡男直家に跡をゆずり、城内に庵を結んで、ここでしずかな信仰生活を送ったという。この庵が、現在七日町にある時宗の名刹「光明寺」のはじまりとされる。
 康暦元年(1379・天授5)6月8日寂。正和5年(1316)1月15日生れとされるから、没年は64歳であった。
 兼頼を初代として、子孫は地名をとって「最上氏」を称することとなる。清和源氏、足利流、最上斯波氏。武家の名門である。
 第11代最上義光は、光明寺に1,760石の田畑・山林を寄進したが、これは400箇寺に及ぶ全国時宗寺院のなかで、最大の寺領である。義光がどれほど兼頼を尊崇したかが、
ここに表れているといってよいだろう。
 兼頼が山形に城を築いたことが、現在の山形市のスタートであり、その意味では兼頼こそが都市山形の生みの親と言ってよいだろう。
 ちなみに、霞城公園内の一角、桜の木立に囲まれて、彼のレリーフが建っている。また、
香澄町の通称「公園通り」には、その銅像が立ち、道行く人々にやさしい眼差しを投げ掛けている。
■■片桐繁雄著

「愛」の前立の兜に「金小札薄浅葱糸威二枚胴具足」(上杉神社所蔵)を着用したナオエカネツグがついに登場しました!!最上義光(モガミヨシアキ)とならんで、戦国時代の山形のもう一人の英雄です!!今後、「最上義光からの挑戦状!!」の特別版「最上義光と直江兼続からの挑戦状!!」や山形の歴史、当館の事業など、モガミヨシアキと力を合わせてわかりやすく楽しく紹介してもらう予定です!!



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