最上義光歴史館

最上義光歴史館
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霞城公園(かじょうこうえん)は、山形市の市街地の中心に突然に現れる一辺500mもある広大な緑地公園です。いまから約650年前に斯波兼頼(しばかねより)が築城し、約400年前に最上義光(もがみよしあき)が改修した山形城の二の丸の濠(ほり)と石垣などの遺構を中心とした範囲を公園としたものです。人工衛星からの画像でも、その輪郭がはっきりとわかる山形市のシンボル的な構造物です。春には山形市でも屈指の桜の名所として大勢の人々で賑わいます。現在、国の史跡として本丸の発掘調査が進められ、2006年の春には本丸一文字門の橋(写真)が複原されました。


最上義光(11代)、家親(12代)の菩提寺。
義光の五輪塔墓をはじめ、殉死者4名の墓、家親・義俊(13代)の墓碑が立っている。庭園は、江戸初期の遠州流庭園として、市指定の名勝。

山形市の桜の名所として知られる山形城跡(霞城公園)の二の丸東大手門をくぐると、二本足で立つ勇ましい騎馬像が目に飛び込んできます。

武将の騎馬像としては全国でも屈指の美しさを誇る最上義光の騎馬像です。櫓門を背景にしたその勇姿は、往時の武勇を偲ばせます。

長谷堂合戦は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦です。

山形県のほぼ全域で、東軍の最上軍と西軍の上杉景勝の重臣直江兼続の軍が戦いました。
長谷堂は山形城から目と鼻の先、山形市の西方に位置します。

屏風は右隻が9月15日の様子、左隻が10月1日前後の様子です。

最上軍、直江軍とも有名な武将は名前が表記されています。
大将の最上義光も直江兼続もしっかり描かれています。
作者はこれまで戸部正直といわれてきましたが、近年その伝承について見直されています。詳細は>>こちら


▲右隻:長谷堂の攻防。右手には、長谷堂城主志村伊豆守の出陣姿が描かれています。左手には、軍配を持つ直江山城守ほか上杉軍の精鋭が描かれています。右上の建物が長谷堂城です。(※クリックすると拡大します)


▲左隻:退却する上杉軍と追撃する最上軍が描かれています。中央には、有名な鉄の指揮棒をふるって猛追する大将最上義光、左手には、鉄砲隊に守られた寄せ手の大将直江山城守が描かれています。(※クリックすると拡大します)

【参考】
解説シート〜長谷堂合戦図屏風
解説シート〜武将詳細図


軍旗(伝直江軍部隊旗)

桃山時代(16世紀)
作者/不明・材質/絹
縦156.0cm×横222.0cm
最上公義氏寄贈

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の地方戦・出羽合戦(通称:長谷堂合戦)の上山口の戦いで、東軍の最上軍が西軍の上杉軍の直江兼続の家来本村親盛の部隊に勝利したときに、戦利品として持ち帰ったものと伝えます。
この旗は「かりがねの旗」と呼ばれ、絹の白地に墨で飛翔する一羽の雁を描いた斬新なもので、モダンなデザインです。
旗の素材に絹を用いる例は、上杉家だけでなく最上家や伊達家にも現存しています。
『山形市史 中巻』に、『米沢五十騎組旗明細帳』に「かりがねの旗、行衛不明」とあるのがこの旗だと記されていますが、はっきりしません。

最上家に伝わる義光愛用の兜です。
織田信長より拝領したと伝えられています。

慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦(通称:長谷堂合戦/関ヶ原合戦の地方戦)に出陣したときに、敵将直江兼続の鉄砲隊から狙撃され、命中、しかし、この兜のおかげで命が助かりました。
兜は篠垂(しのだれ)一条(いちじょう)が失われ、激戦を物語る弾痕がいまも生々しく残されています。

鍬形と利剣は平成20年3月に復元されました。

※「三十八間金覆輪筋兜」は平成20年11月の山形市指定有形文化財の指定の際に「三十八間総覆輪筋兜」に名称変更になりました。