最上義光歴史館

最上義光歴史館
ログイン
メモ メール Q&A 暦 リンク 地図 ウィキ 特集 プラン
直江兼続の最上侵攻
                             
 慶長5年(1600)9月、直江兼続は米沢から最上領に侵攻し、畑谷城攻略を経て山形城西方の長谷堂城を囲んだ。上杉勢は庄内からも侵攻した。長谷堂合戦は膠着状態となるが、関ヶ原の戦果が伝わるや、兼続率いる上杉勢は一部を除いて撤退した。
 同年六月、徳川家康は上洛要請を拒んで会津で領国経営に専念していた上杉景勝に向けて出兵した。このとき会津領国に対する包囲網が構築された。このような中で上杉氏は旧領越後の春日山に入った堀秀治に向けて越後一揆を扇動した。また、白石城を奪取して上杉領となった旧領を窺う伊達政宗を伊達・信夫方面に迎撃した。一方佐竹氏とは明確に手を結び、相馬氏や岩城氏らとも目立った戦闘はなかった。相馬には使者が送られている。後述のように越後北部(下越)の溝口・村上両氏とも交渉で戦闘の回避が意図されていたが、両氏は越後一揆の鎮圧に動いた。そして、最上義光を山形に攻めたのである。
 さて、誉田慶恩氏は兼続の最上侵攻の理由として�〆脳綮瓩�伊達氏に比べ戦力的に弱小で攻めやすいこと、��家康の命によって北奥羽の諸士を率いて上杉領へ攻め込もうとしていたこと、��上杉領における会津と庄内を結合して上杉氏の軍備の弱点を補おうとしたことなどを挙げ、特に��を強調した(『奥羽の驍将―最上義光―』人物往来社、一九六七年)。
傾聴すべき見解であるが、会津と庄内の一体化は庄内と連続する越後の下越地方から実現することもできたと思われる。そこは旧領である。残存した旧勢力とともに上杉家臣団による軍勢が動員されれば、軍事作戦は最上攻めよりも優位に展開できたのではなかろうか。また、同じく飛び地の状態であった佐渡との一体性も確保できる。
ところが兼続は、越後一揆は秀治に向け、下越の村上・溝口両氏を攻撃しないように指示している(八月四日付兼続書状。『新潟県史 史料編五 中世三』所収三二二九号文書。以下、同書からの引用は文書番号のみ記す)。現実とは異なり交渉で戦闘を回避したと認識していた(三二二八号)。つまり兼続には下越掌握による庄内の連結という構想はなかった。領国の一体化を目指すにしても、最上領を攻める固有の理由があったのではあるまいか。
前掲八月四日付書状(三二二九号)で兼続は義光と政宗を討つのは容易いが、家康の出方を見極めるまで動けないと記している。既に戦いに及んでいた政宗とともに、いまだ軍事行動を起こしていない義光が挙げられている。兼続は義光と政宗を東北における敵対勢力として当初から認識していた。そして、義光や政宗に対する攻撃は家康の動向に規定されていた。また、九月三日付の兼続書状(『山形縣史』一)では、景勝の関東出兵に休戦した伊達氏の同陣の可能性を探っているが、政宗との戦闘回避によって初めて景勝の家康との軍事対決が可能になるのであった。そして、ここでも義光の動向は政宗と一体的に捉えられている。
九月には義光・政宗の動向が家康への攻撃を規制しており、義光・政宗の動向が家康の背後への上杉氏の攻撃を防いだとする指摘を裏付けるが、基本的な兼続の視線は関東と東北の問題に向けられている。家康の駿府入りで関東への気遣いがなくなったという認識が上杉家中にある(『山形縣史』一所収九月一八日付上泉泰重書状写)が、上杉氏の活動が関東までを対象としていたことが分かる。会津は関東・東北支配の要地であった。兼続の行動はこの全国支配の方針に基づく、すぐれて政治的なものと考えられる。
家康との衝突が回避されつつある八月、反転攻勢として義光攻撃の準備が進められる一方で義光・政宗と外交交渉がもたれたとみられる。政宗のように休戦が成立すると、前述のように一転家康攻撃への動員が模索された。上杉氏の課題は東北の家康派の解体であったと考えられる。攻撃準備は圧力とみられるが、九月三日付書状にしめされたように交渉破綻を機に侵攻が実行された。それはあくまで家康派の解体・抑え込みが目的であったと考える。最上氏を滅ぼす必要はなく、一定の打撃を与えられれば十分だった。しかし、それは成功しなかったのだが。 

■執筆:阿部哲人(米沢市上杉博物館学芸員)「館だより��15」より


【伊達政宗/だてまさむね】 〜義光の妹義姫の子・独眼竜〜

 小説になり、ドラマになった仙台藩祖、独眼龍・伊達政宗。
 ここで取り上げるまでもない超有名人だが、最上家との深いかかわりから見て、やはり抜かせない人物だ。
 最上義光の妹、義姫の子、つまり伯父甥の関係になるわけだが、二人の交流となるとあまり知られていないようだ。しかし、さすがに血のつながった伯父と甥、こまやかな心の交流のあったことが、『奥羽永慶軍記』に書かれている。
 十五歳の政宗が義光に和歌をおくった。
  
  恋しさは秋ぞまされる千歳山の阿古耶の松に木隠れの月

 これに対する義光の返し。

  恋しくば訪ね来よかし千歳山阿古耶の松に木隠るる月
 
 政宗は永禄10年(1567)8月3日、米沢で生まれた。伊達氏16代輝宗の嫡子である。湯殿権現の申し子であるとの伝説をまとった生誕で、幼名を梵天丸といった。幼いときに疱瘡を病んで片方の目が悪かったことは、よく知られている。
 18歳で、家督をつぎ、伊達家17代の当主となる。
 翌年、政宗は大内定綱を攻め、その属城小手森城を攻めて勝利を収めたとき、さっそく義光に戦果を報告した。
 「敵兵はもちろん女子供まで千百余人を撫で斬りにした。このぶんなら関東まで攻め入って領分を広げることもたやすいこと」と、いかにも誇らしげだ。
 「撫で斬り」とは、無差別の皆殺し。当時の世相の中で、全国的には必ずしもめずらしいことではないが、奥羽地方では今までになかった乱暴さだ。もっとも、このときは義光からも援軍が出ていたので、そのお礼を兼ねての戦勝報告だったらしい。
 同じ年の10月には、父・輝宗が畠山義継に拉致されて連行されたとき、これを追跡し、敵将もろとも父をも銃撃して死なせてしまった。これまた乱暴なやりかただ。
 曾祖父稙宗のころ(1500年代初期)から始まった領土拡大政策を受け継いで、政宗は南進して大内・石川・白川や会津の芦名などの諸大名を攻め立て、北に侵攻しては葛西や大崎を併呑しようとした。周辺の諸大名はこれを警戒して同盟してこれに対抗する。
 南の方では、常陸の佐竹義宣が中心になった。北の方では最上義光が中心となった。いわば、危険な伊達から連帯して身を護ろうとしたわけである。
 わが甥ながら、義光としては止むを得なかったに相違ない。
 境を接する戦国大名同士、最上と伊達が競り合うのも仕方ないことだった。
 義光の妻の実家大崎家に政宗の矛先が向けられたときには、義光は伊達との境界に布陣してこれを牽制する。あわや全面対決かと思われたところに義姫が割り込んで、和平にこぎつけたこともあった。
 徳川家康は心配して、義光と政宗に「親類同士、仲良くしてくれ」と手紙をよこしている。
 天正17年に、有名な摺上原の合戦に打ち勝って会津の芦名氏を放逐した政宗は、奥羽南部の覇者となるが、翌年豊臣秀吉による小田原征伐に参戦して以後は、豊臣政権に従属することとなり、領土拡張戦はストップせざるをえなくなった。小田原参戦に先立って、政宗が弟小次郎を斬ったが、伊達家の内部には、なんらかの複雑な事情があって、そうせざるをえなかったのだろう。ただし、母義姫が政宗を毒殺しようとした云々の話は作り話であったことが、仙台市博物館長・佐藤憲一氏の研究から明らかになっている。
 その後、奥州北部で九戸政実が乱を起こしたときには、蒲生氏郷とともに乱の鎮圧におもむいたが、政宗はあまり熱が入らなかった。氏郷は、政宗の動きに不信の念をあらわにする。
秀吉もまた政宗を警戒する。その結果、現福島県中央部、宮城県南部から本領だった米沢地方までも取り上げられ、岩出山に移転させられてしまう。
 もはや勝手な動きができない情勢であることを知って、政宗は、中央政権の実力者と密接な関わりを持とうと努める。その一方、「奥羽の覇者・伊達政宗」を積極的にアッピールするようになる。派手なことの好きな秀吉は、だんだん政宗をひいきするようになる。
 彼が朝鮮侵攻のために京都を出発するときには、軍兵の装束があまりにも奇抜で、見物の都びとたちが驚きの声をあげて見送ったそうである。朝鮮に渡ってからの働きも、上方大名衆からまけまいと懸命だった。その一方、悪戦苦闘のさなかに母親からねんごろな手紙と黄金三枚をおくられたときには、感激の涙あふれんばかりの返事を書いた。(「義姫」の項参照)
 帰国した政宗は、秀吉がもよおした吉野山の観桜会に参加を許されたが、これは28歳の青年大名政宗としては、異例破格の待遇だった。31歳で、右近衛少将。秀吉亡きあと、徳川家康の息子にわが娘五郎八姫を縁約。
 慶長5年(1600)、関が原合戦の東北版とも言われる「慶長出羽合戦」で、上杉軍が最上領内に侵攻してきた時、最上義康が援軍を求めて政宗のもとに走る。政宗は援軍派遣を了承する。伊達政景のひきいる援軍が山形に来たのは、9月22日。不安にかられていた義光と最上の人々にとって、これは非常な喜びだった。
 上杉軍が山形周辺から撤退した10月下旬、義光はみずから政宗の所におもむいて、したしく援軍派遣への礼を述べた。よほどありがたかったのだろう。
 徳川家康は、この戦いの前に、政宗を味方につけるために有名な「百万石のお墨付」を出していたが、これは反古(ほご)にされた。政宗はその後何回かの加増で2万石を増されただけだったが、それでも62万石となり、義光は長年望んでいた庄内地方に秋田南部の由利郡をも与えられて、57万石の大名となった。伯父と甥、親戚同士の両家が、めでたく大大名として東北に相並ぶこととなったのである。
 両家ともに、地域の産業振興や文化発展のためにさまざまな施策を行なう。
 だが、残念ながら最上家は、わずか20年にして、内部分裂を理由に改易の憂き目にあう。義光の後を継いだ家親が36歳で急逝した後、山形藩主となった12歳の家信(義俊)は、家臣団をおさえきれなかったのである。
 それに対して、政宗は一族家臣をしっかりと掌握した。一家、一族を中核とした家格制などで序列を明確にして混乱や分裂を未然にふせいだ。本拠地仙台には新たな城郭を築き、城下町の建設を進めた。のみならず、視野を世界に向けて、慶長18年(1613)には支倉常長をローマに派遣している。時代を先取りした斬新な企てであった。
 最上改易(元和8・1622年)のとき、政宗は特別に編成した部隊を派遣して、山形にいた母お東の方・義姫を仙台に迎え入れた。時に政宗56歳、母は75歳だった。
 政宗は60歳のとき、従三位中納言に叙任。将軍、秀忠や家光に対しても遠慮なくものを言えるという点では、彼が一番だったとも言われる。剛毅さにおいてすぐれた人物であったが、古典文芸の素養や和歌・漢詩、書にもすぐれた才能をもっていた。

 「馬上少年過ぎ 
  世平らかにして白髪多し
  残躯天の許すところ 
  楽しまずんば是いかん」

 「馬上で戦場をかけまわった若い時代、
  今や世は泰平、わが身は白髪、
  老いた身体は天命のまま、
  楽しまずして、何としようぞ。」

 晩年、生涯を振り返って詠じた漢詩である。
 寛永13年5月24日没。70歳だった。
■■片桐繁雄著



      《平成20年7月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成20年7月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


         常設展示 (7/1〜7/31)
         開館日数・・・・・・・・・・27日間
         入館者数・・・・・・・・・・1,526人
         回答者数・・・・・・・・・・97人

 1.歴史館をどこで知りましたか
 
 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・24%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・2%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・8%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・9%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・3%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・5%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・18%
 (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・14%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・11%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・91%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか
 
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・19%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・64%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・17%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・17%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・76%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・3%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 (3)入館料について

   �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
   ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・・83%
   �0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�%

 〜利用者の声〜

 ◎館内がきれいでよかった。

 ◎もう少し分かりやすい説明があるとよかった。

 ◎駒姫の資料や物を大きく扱ってほしい。

 ◎おもしろかった。

 ◎展示文字を大きくしてほしい。

 ◎説明がわかりやすくてよかった。

 ◎東北全体像が分からないので、義光の実績が分からない。

 ◎山形城を復元したジオラマを置いてほしい。

 ◎石高57万石を現代風に分かりやすく説明してほしい。

 ◎多くの資料が大変参考になりました。

 ◎短命に終わった駒姫のストーリーのコーナーがほしい。

 ◎キャラクターグッズがほしい。

 ◎「みどころ」がわかりやすくてよい。

 ◎資料を増やしてほしい。

 ◎義光以降の最上家の歴史について、もっと知りたかった。

 ◎NHK大河ドラマになってほしい。

 ◎上杉、伊達との関係を詳しく説明してほしい。

 ◎天童氏との争いや伊達との関係も展示してほしい。

 ◎山形城主が最上から秋元になった経緯を説明してほしい。

 ◎順路を分かりやすくしてほしい。

 ◎日本全体の歴史との関わりを詳しく取り上げてほしい。

 ◎とても分かりやすいレイアウトで見やすかった。

 ◎喫茶店も明るく、入館者にサービス券を配るなど、サービスが良く気持ちよく
  やすらげる場所だった。

 ◎とても感じの良い歴史館だった。

 ◎ガイドの出し方、クイズ等もポイントが抑えてあり楽しかった。

 ◎高齢者向けの休憩所を充実させてほしい。


 
 つ、ついに (」゜口゜)」!!
 
 最上義光所用の兜が、ペーパークラフトに
 
 なりましたぁ〜( ̄▽ ̄)ノ_彡★

 

 しかも、無料でダウンロードできるなんて・・

 素敵すぎる・・ヾ(@°▽°@)ノ

 作ってくださった木村さん、ありがとうございます。m(_ _)m


 早速、歴史館でも作ってみる事に・・・

 美術工芸部隊!出動〜!!

 ∠( ̄∧ ̄) ラジャ!

 皆で製作会議を開いた結果、頑丈に作った方が良いとの事で、

 厚紙に貼って補強する事になりました。

 (これが後々最悪の事態に・・・)

 (この時は、まだ誰もその事に気がつかず・・・)


 はりきって、工作開始!

 (/ ̄ー ̄) (/ ̄ー ̄)

 
 **1時間目**

 :のり:で、厚紙に貼っていきます。

 (部屋中・・のり臭い)


 **2時間目**

 型紙にそって、切っていきます。

 !!!!!

 (かっ、かたい・・・)     (#+_+)=3ふぅ〜

 はさみで切れず、カッター班の投入⌒★

               _φ(++ ;) キリキリ


 **3時間目**

 厚紙を少しずつカッターで切り離し・・

 ��( ̄□ ̄;) あ゛っ!!

 血が・・・     σ( ̄ー ̄;;)

 指が厚紙で切れたぁ・・

      (痛い痛い痛い痛い痛い・・・)

 あれ?      (; ̄- ̄;)

 痛くない・・(笑)

 紙で切ると痛いのに、厚紙だと痛くない?

 そんな訳ないか・・・


 カッターで切り抜きしたら、手が痺れて・・

       └(・-・)┘┌(-.-)┐└(・。・)┘┌(-.-)┐

 か弱いナッツは、力仕事パス⌒★

             (∩_∩;)P 白旗〜!

 という事で続きは、うちの *ボス* に作ってもらいました。


 **4時間目**

 組み立て開始♪

 

 のりを付けて、のりしろを貼り合わせて・・・

 !!!!!!

 紙が厚すぎて・・

 くっつかない!!  (予想外です・・)

     |||||/( ̄□ ̄;)\||||||||||

 接着材を使った方がよかったような・・・

 仕方ないので、裏からセロハンテープで補強しました。

                 ♪〜( ̄ε ̄;)


 **5時間目**

 なんとか完成♪♪

 

 厚紙に貼ったのは失敗?

          (((( ̄ー ̄;)

 でも、かなり丈夫な兜になりましたぁ。

 実際にかぶる事もできま〜す。

 


   注意:兜作りに、厚すぎる紙は使わない事をお勧めします。
                      ( ̄ー ̄∂) ポリポリ


{PDF} ダウンロード _Adobe PDF

「最上義光と直江兼続からの挑戦状!!」の裏面です!!

※[ダウンロード]してプリントアウト(A4サイズ)することができます。


{PDF} ダウンロード _Adobe PDF

「最上義光と直江兼続からの挑戦状!!」の表面です!!

※[ダウンロード]してプリントアウト(A4サイズ)することができます。