最上義光歴史館

最上義光歴史館
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前田慶次郎所用「南蛮笠形兜」宮坂考古館所蔵のペーパークラフトのフルスケールです。
実際にかぶることができます!!
テーブルなどに飾ることができる縮小版もあります!!
厚紙にプリントアウトして完成させよう!!

※画像は縮小版です!!






★ほかの武将兜ペーパークラフトは>>こちら

※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。


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武田信玄公所用「伝諏訪法性兜」 下諏訪町立諏訪湖博物館所蔵のペーパークラフトの縮小版です。
テーブルなどに飾ることができます!!
実際にかぶることができるフルスケールもあります!!
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※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。


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武田信玄公所用「伝諏訪法性兜」 下諏訪町立諏訪湖博物館所蔵のペーパークラフトのフルスケールです。
実際にかぶることができます!!
テーブルなどに飾ることができる縮小版もあります!!
厚紙にプリントアウトして完成させよう!!

※画像は縮小版です!!








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※このペーパークラフトは米沢市の木村吉孝氏が企画し、川島印刷、精英堂印刷が設計製作したものです。


【義光の妻たち�◆‥憩孤弯�/てんどうふじん】
   
 山形の北隣の領主天童氏、里見家は、舞鶴山に城を構える有力な豪族だった。室町時代中期には山形と並ぶ大名とさえ見られていた。義光がこの家から側室を迎えたのは、当時としては当然の政略結婚であった。
 天正5年(1577)、義光が最上川下流方面へ進出しようとしたとき、天童氏を中心とした「最上八楯」の豪族グループは、同盟を結んでこれに抵抗した。さすがの最上軍もこれを攻め崩すことができず、一旦は和睦をしたらしい。和睦を維持するために、天童からこの女性が入ったのであろう。
 和泉守天童頼貞の娘であり、頼久(頼澄とも)の姉だという。父頼貞は、山形と和睦成立中の天正7年に没し、そのあとをまだ若かった頼久がつぐ。
 夫人は、天正10年に義光の三男光氏(後清水氏を嗣ぎ、義親と改めた)を生み、その年の10月12日には亡くなってしまう(大蔵村清水興源院の記録)。産後の肥立ちでも悪かったのだろうか。おそらくは、20歳代の若さだったにちがいあるまい。
 最上と天童を結びつけていた彼女がいなくなると、両者の関係はふたたび悪化する。政略結婚であろうとも、この女性は両家の仲をやわらげる大きな働きをしていたのである。
 そのころは、野辺沢氏の離反で、天童氏を盟主とする「最上八楯」同盟も崩れており、天正12年10月の最上勢攻撃のまえに、天童方はもろくも敗れ去る。頼久は山を越えた奥州の国分能登守(母の実家)を頼って逃亡する。
 義光はしかし、これを追撃しなかった。逃げ去るのを黙認した。
 無駄な戦いは避けるべしという義光の信念からか、それとも亡き天童夫人への思いやりからであろうか。おそらくその両方だったかと思われる。
 義光は、城跡の山頂に勝軍地蔵をまつる愛宕神社を再建した。これは、もともとは天童氏が尊崇した神社である。「最上氏も天童氏も、ともにこの地の主として生きてきた。敵対したとはいっても、憎しみはない」という義光の考えによるものと語られている。
 慶長14年(1609)6月24日、清水城主となっていた光氏は、愛宕神社に石灯篭を寄進した。この年、年令は28歳ごろと推定される。
 「光氏祈念成就之所」として、「矢口左衛門尉・角川小源太・角河治部少輔」の名も彫られている。名字から見て、彼らは現最上郡、新庄市を中心とする地域の有力な国人層と思われ、側近として光氏を支えていたのであろう。
 ところで、光氏の「祈念」とは、何だったろうか。生母の実家である天童氏が逃亡し去り、長兄・義康は父の不興をかって廃嫡のうえ、不幸な最期をとげた。関連して一部家臣が国外に退去する。父は、一族・重臣を領内の要所に配置し、領国支配の体制を固めつつあった。どこか不安な雰囲気をはらむ情況のなかではあったが、自分は清水という最上川中流の重要拠点の城主に抜擢され、2万7千3百石という大領地を与えられた。青年光氏にとって「祈念成就」すなわち「願いがかなった」とは、このことであろうか。
 彼は、城地清水の興源院を母の菩提寺として、位牌を安置した。
 安定した地位を得たとき、光氏が母のふるさと天童の鎮守愛宕神社に、感謝の意をこめて寄進したのが、この石灯篭かもしれない。そう考えると、この神社に寄進した理由が理解できるような気がする。
■■片桐繁雄著


 8月20日より、

 山形市の某酒造から最上義光のお酒が発売されましたぁ。

 
         (= ̄+▽ ̄=)キラ〜ン★

 かな〜り、嬉しい。

 作って下さった酒造さん、ありがとうございます♪♪

 v(^_^v)♪ありがと♪(v^_^)v

 発売された日本酒は、

 「美山錦」を原料にした純米吟醸で、

 切れ味の鋭い、スッキリとしたお酒です。

 

 ( ̄-  ̄ ) ンー

 どちらかと言えば、辛口なのかなぁ

 そう言えば・・

 山形新聞の夕刊とフリーペーパーやまがたコミュニティー新聞にも

 

 

 掲載されていましたねぇ。

 これで、少しでも義光の知名度が上がればイイなぁ・・

 悲しい事に  "(ノ_・、)" グスングスン

 山形在住で義光の事を知らない人も、たまに居ますからねぇ・・

 早速ナッツも自宅用に2本注文してみました。

 飲む為でなく、ナッツ家代々のご先祖様にお供えとして・・

 ナッツは、お付き合い程度しか飲めなぃので・・・(笑)

 以前、飲みすぎて(゜_、゜;)

      ふら〜フラ〜になった事があって・・・

 それから控えるようになりましたョ。( ̄ー ̄∂) ポリポリ

 まぁ、ナッツの事は、どぅでもイイですね。  はぃ・・・

 今回、義光のお酒が出たので、米沢から直江兼続のお酒も取り寄せてみました。

   (。-_-。)/。・。・゜★・。・。☆・゜・。・マハリクマハリター

  じゃ〜ん!!

 

 遠い所、お越しくださいまして、(^人^)ありがとうございます。

 せっかくなので・・

 

 直江兼続vs最上義光

 うりゃ (((( -_-)乂(-_- )))) うりゃ

 夢の共演です。

 

 米沢市と山形市・・出羽の関ヶ原!!

 どちらも同じ山形県のお酒として、山形県のPRに繋がればイイですね。

                           \(o ̄▽ ̄o)


【義光の妻たち� ‖膾衂弯�/おおさきふじん】
   
 「矢が飛ぶのは弓の力、雲が走るのは龍の力、男がことをなすのは女の力によるのだ」日蓮上人はこんな意味のことを述べている。歴史の表面には表れなくても、女性の力の大きさは、だれも否定できないだろう。
 最上義光が偉大な業績をなしとげた陰には、彼を支えた女性がいたはずである。
 正室は、奥羽の名門大崎家の娘とする『最上家譜』その他と、近隣の豪族天童頼貞の娘とする『光明寺本系図』等があって、いまひとつはっきりしない。
 郷土史家、故川崎浩良氏は、大崎夫人を正室と見ておられる。この夫人が長男義康や駒姫など何人かの子をもうけ、また夫とともに会津に出かけて豊臣秀吉に謁したり、京都にのぼって京文化を楽しんだりしたという(『川崎浩良全集4』)。
 一方、山形大学教授で宗教史の権威、松尾剛次博士は、最上系図や山形寺町の成立過程、浄土真宗の弘通状態、さらに当時の女性の信仰・帰依などの問題を研究されて、天童氏の出とするほうが妥当であろうとしておられる(論文「山形寺町の形成」<平成十五年度・山形大学公開講座報告集所載)。
 いずれにしても、義光の長男義康が生まれたのが天正3年(1575)であるから、正室は、これ以前に嫁いだはずである。それが天正初めのこととすれば、山形は天童・中野グループと激しい抗争を繰り広げていた真っ最中となる。はたして天童家から入ったのかどうか。
最上家研究では大きな問題だが、これは今後にゆだねることとして、ここでは従来山形で語られてきたように、正室を大崎夫人として述べてみたい。
 義光の子は、義康の後に松尾姫、駒姫、家親、光氏(後、義親)とつづく。その何人かが、大崎夫人の子ということになるだろう。
 近江八日市市の最上家菩提寺、曹洞宗妙応寺の記録や『最上家代々過去帳』によると、文禄4年(1595)8月16日、「山形殿内室、奥州大崎家女」が亡くなったという。法名は「月窓妙桂大禅尼」。この日は、駒姫がはかない最期をとげてからわずか14日後である。ちょうど二七日(ふたなのか)めにあたるところから、夫人の死は、悲しみのあまり自ら命を断ったのではないかという人もあるほどだ。
 夫人を開基とする寒河江市の正覚寺には別伝がある。彼女は義康の生母であり、一時寒河江を領した義康と居をともにし、この地で亡くなったという。はたしてどちらが正しいか、これもはっきりしない。正覚寺には彼女が愛用したと伝える調度品が収蔵されている。
 また、山形市内専称寺は、駒姫の菩提寺として知られているが、この寺には慶長2年(1597)に義光が寄進した「出羽守内室像」といわれている画像が秘蔵されている。一般にはこれが大崎夫人であり、駒姫画像といっしょに寄進されたところから、駒姫を生んだ女性だとされている。品のいい尼僧姿を描いた桃山時代絵画として、県文化財に指定されている。
 名門大名最上家がどこから妻を迎えたかという、基本的なことがらさえ、いまだに確定できないのは、少なからず残念なことだ。
■■片桐繁雄著