最上義光歴史館
ログイン
メモ
メール
Q&A
暦
リンク
地図
ウィキ
特集
プラン
カテゴリー
ALL
歴史館からのお知らせ
最上家と最上義光について
収蔵品の紹介
調査/研究報告
HOME
刊行案内
施設のご利用案内
歴史館周辺の見どころ
アクセスマップ
歴史館カレンダー
やまがた歴史年表
義光からの挑戦状
なんでも歴史相談室
歴史年表
歴史用語集
歴史リンク集
歴史マップ
歴史館だより
片桐繁雄執筆資料集
●
トップページ
■
お知らせ
■
最上氏と最上義光
├
最上氏と義光について
├
最上家をめぐる人々
├
小野末三論文集
├
最上家臣余録
├
郷土の歴史
└
最上義光略年譜
■
歴史館について
├
沿革と概要
├
収蔵資料について
├
書籍のご紹介
└
利用者アンケート集
■
Material in English
├
Guide to our Exhibits
└
Saijoki -
The Mogami Chronicles -
■
ご利用案内
├
アクセスマップ/所在地
├
開館時間/休館日/入館料
└
見学の裏ワザ
最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
【おびどめ日記】 ��35 平成出羽合戦 その二
★
⌒★その二★⌒
★
10月6日
(旧暦9月8日)
直江兼続を総大将とする上杉軍が最上領に進軍開始。
(ヾ(・(((ヾ((・(ヾ(・
_
・)ゞ)・))ゞ)))・)ゞ)
上杉の大軍が、置賜や庄内からも続々と山形に押し寄せてきます。
*
上杉軍
*
作戦1・・最上領内にある出城を攻め落としながら、山形城を落とす。
(まわりから、じわじわと・・)
作戦2・・全軍で、山形城に攻め込む。
(一気に勢いで
!
)
直江兼続は、作戦1に決定
!
*
最上軍
*
作戦1・・出城の多くを放棄して、山形城、長谷堂城、上山城を拠点として、迎え撃つ。
(村や田畑が荒らされるのを避けたいし、放棄すれば最小限の被害で・・・)
作戦2・・それぞれの城で迎え撃ち、徹底的に戦う。
(返り討ちに
!
)
最上義光は、作戦1に決定
!
★
⌒
★
⌒
★
⌒
★
⌒
★
ついに、上杉軍が動きだして・・・
最上軍の作戦って、義光クンの性格が出てますよねぇ。
ナッツなら・・・
迷わず逃げます。
C= C= C= C=
┌( ・
_
・)┘
→→→
だって・・
└|∵|┐
怖
いし・・
まだ、((((゜゜
;
)死にたくないし・・
現代に生まれて、本当に、良かったです。
\(
▽
 ̄\)〜〜〜〜〜
♪
最上義光歴史館
:[
メモ
/
歴史館からのお知らせ
]
最上家をめぐる人々♯11 【最上義康/もがみよしやす】
【最上義康/もがみよしやす】 〜悲運の嫡男〜
「義光のご子息、修理大夫殿が使者となって、山形から日駆けでこちらまで来られた。何の御用かまだ聞いていないが、たぶん加勢を依頼する使者かと思われる。(相談をしたいので)明日朝早くおいでいただきたい。お待ちしている」
慶長5年(1600)9月15日、夜中の10時ごろに、伊達政宗はこのような内容の手紙を叔父の留守(伊達)政景に発した。
最上領は、このとき直江兼続ひきいる上杉軍の猛攻撃を受けていた。
荒砥から萩野中山を経て、白鷹山の北方をとおる山道(現、狐越街道筋)沿いに侵攻した上杉軍は、9月13日に最前線の畑谷城(山辺町)を攻め落とし、ただちに山形盆地に駆け下って、14日には山形城南西の要害、長谷堂城攻撃にとりかかった。
同じ頃には、最上領内の多くの砦は、つぎつぎに落城、あるいは守備を放棄して明け逃げという状態だった。
長谷堂城が落ちれば、山形は裸同然となる。山形の民衆はおびえていた。
「会津(上杉)勢、モハヤ上山・長谷堂ヲ攻メ破リ、山形ニ乱入トイフモアレバ、イヤトヨ、明明日押寄スルナド」
うわさし合い、てんでに財産を持ち運んで山奥へと逃げ隠れた。
これは『奥羽永慶軍記』の記述である。
まさにその9月15日、義康が使者となって援軍要請のために、山を越えて北目城(現仙台市太白区)に駐留していた伊達政宗のもとへ走ったのであった。
一族の最重要人物である嫡男が使者になったのである。最上一統にとって危急存亡の重大局面、ここは家臣では駄目だという義光の判断が働いていたのであろう。
政宗は、最上への援軍派遣を了承した。
馬上 百八十七騎。 鉄砲 四百五十四丁。 弓 二百三十八張。 鎗 二百六十六丁。派遣人数合計 千百四十五。 (史料により差異あり)
かなり本格的な援軍と言ってよいだろう。総司令官は、叔父の留守政景(伊達上野介)。伊達家でも南方の福島境方面に上杉の脅威を感じていたはずだが、しかし、最上への応援軍派遣を決定したのだった。
政宗にとって義光は伯父、使者となって来た義康は従弟。当時山形には母・義姫がいた。司令官となった政景は、義姫の夫・輝宗の弟であった。
政宗からの返書は、16日付け。
「万々修理殿(義康)からお聞きした。そのうち千二百ばかり援軍を差し向けるので、ご安心あれ。近年は仲たがいして情けないことも少しはあったが、そんなことはこの際打ち捨てて、この身にかえても味方します」
義康は、この書状をもらって、すぐさま山形に帰ったはず。その報せは、義光をはじめ最上全軍を歓喜させたに違いあるまい。
だが、援軍の山形到着は遅れて、ようやく22日に笹谷峠を越えた。上杉主力軍の布陣は山形盆地の西側山麓であった。本陣は菅沢山、現沢泉寺付近とされるが、大森山の清源寺と推定される記事も米沢方の文書には見られる。
長谷堂城を中心とする攻防戦は、9月末まで続く。
9月晦日夜10時ごろに、関ケ原で徳川家康軍勝利の報せが届くと、政宗はすぐさま写しを義光へ届ける手配をする。
同じ報せは、直江にも別方向から届いたと見え、翌日の10月1日(太陽暦11月5日)には、撤退する上杉勢を最上・伊達連合軍が追撃する。長谷堂から柏倉・門伝・村木沢(いずれも山形市西部)にかけては、激烈な戦闘が展開され、殿軍(しんがり)をつとめた上杉鉄砲隊の巧妙な射撃に、追う最上軍も苦戦を強いられた。
大将義光が、この戦いでは鉄砲隊の標的にされ、兜の真っ向に銃弾が命中した。
側近の堀(筑紫)喜吽は、義光の馬前で戦死した。上級家臣、志村藤右衛門も戦死した。このとき、山を隔てて父の苦戦を見た義康は、部下一千とともに馬から下りて駆け付け、横合いから敵を追い散らし父の危急を救ったという。
慶長出羽合戦は、長谷堂合戦の後にも、翌年の酒田城攻撃がある。
完全な終局は、慶長6年4月である。終始一貫徳川家康の盟友として戦った義光は、57万石の大大名となる。
勝者家康は、慶長8年2月、京都において征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を創始する。
徳川の時代が始まったのである。
義光、58歳。山形にいる長男義康は29歳、江戸にあって家康、秀忠のおぼえめでたい次男家親は22歳であった。
4月に京都にいた義光が、領国山形に帰ったのは、おそらくは夏のうちであろう。広大な最上領は、これから新たな発展を遂げるべき時となっていた。
この時点での大問題は、後継者をだれにするかということだった。
熟慮を重ねた結果が、家親となった。長男義康は、言わば廃嫡である。この経緯について『義光記』『永慶軍記』『羽源記』などの一致するところはこうである。
嫡子修理大夫義康は武勇知謀ともにすぐれ、家督相続は確かだろうと思われていた。ところが、義光の側近と義康の家臣が威勢を争い、ついにさまざまな思惑が取り沙汰されるようになった。
「大殿もご老齢なのに、いつまでも隠居なさらないのは、家督は家親様にとお考えだからだろう。」
そう噂が広がれば義康も「あるいは、さもありなん」と思うようになる。
いっぽう、義光の近臣からみれば、「殿ご健康なるに、隠居を望まれるとは、いかが」ということになる。
たまたま、義康が光明寺で遊宴を催したときに、脇差が抜けて左の股を少し怪我をしたことがあった。これを聞いた義光側近は、「義康様は家督を譲ってもらえないのを恨んで、自害を図られた」と偽り告げた。
それ以後親子の仲はひどく不和になってしまった。
一門はもちろん、家老・寺社方までみな和解なさるようにと申し上げたが、ついに和解にいたらなかった。
この状態を、江戸に上った義光が家康に相談した。家康は、
「修理大夫は総領であろうとも、親の言い付けに背くは親不孝、国の乱れのもとともなろう。可愛い子供でも、国には替えられまい。帰国のうえ生害させるが良かろう。とはいっても、それは親が自分で考えるべきこと」と、示唆したという。
帰国した父から、高野山へ行き(出家して)先祖の菩提を弔えと命じられた義康は、わずか十数名の家来とともに山形を立ち去る。義康の邸の中では、多くの女房たちが声をあげて泣き叫ぶばかりだった。
義康一行が月山の峠を越えて、庄内櫛引の一里塚にさしかかったとき、松林の中から突如激しい銃激を浴びた。義康は下腹部を二つ弾に射抜かれて落馬した。伏兵であった。
義康の家来たちは、必死に戦ったが多勢に無勢、ついに全員討ち死にする。
襲ったのは、戸井(土肥)半左衛門のグループだった。
義康は、こうして非業の最期を遂げる。慶長8年8月16日であったという。
義光は、この事件の顛末をいたく悲しみ、山形の義光山常念寺を菩提寺とさだめて寺領百石を寄進、鶴岡の常念寺をも義康を弔う寺として、寺領138石を寄進した。
義康暗殺が、果たして父親の意思によるものかどうか。最上家所蔵の「分限帳」には戸井半左衛門の名に「成敗」と添え書きがあるところから見ると、主君義光の意思に反した故に「成敗」されたのかもしれない。
義康の死については、切腹と伝えるものがあり、また死に場所や年月日も異説がある。
慶長2年正月、義康が当時の連歌の大家だった里村玄仍と交わした短連歌がある。
「一夜とは霞や隔て今日の春 義康
雪残りつつしののめの空 玄仍」
広島大学の国文学研究室にも、義光と義康、親子そろって一座した百韻連歌1巻があり、ここでは義康の7句が選ばれている。そのうちの2句。
山の端や更けても霧の晴れざらん
鳴くもただ幽かなりけりきりぎりす
慶長2年初秋の作であろう。とすれば、義康23歳だった。
平成14年、義康四百年忌を期して、山形常念寺では立派な供養碑を建立して、非業の最期を遂げた若き最上家の嫡男を弔った。
■■片桐繁雄著
最上義光歴史館
:[
メモ
/
歴史館からのお知らせ
]
【おびどめ日記】 ��34 平成出羽合戦 その一
今回から、ちょとだけ出羽合戦の連載を・・・
うりゃ (((( -
_
-)乂(-
_
- )))) うりゃ
勝負
!
出羽合戦の流れを現代で感じてみてください。
それから・・・・
このネタは、かなり(
;
 ̄
-
 ̄
;
)
ド
キ
ド
キ
しながら書いておりますので、
あたたかく見守ってください。
1600年、
関ヶ原の戦い
がありました。
同じ頃、山形でも
最上軍
VS
上杉軍
の戦いがありました。
(メ-
_
-) ・・・
☆
・・・(-
_
-メ
;
)
これを、新暦に直すと・・・
な
っ
!
(
;
°
▽
°)
なんと
!
!
(  ̄
▽
 ̄)/
ちょうど今月が・・・
と言うことで、【
おびどめ日記
】で出羽合戦を特集してみます。
ナッツは、(σ
‐
 ̄)歴史が苦手なので・・
歴史に詳しい方々・・
広い心
で・・・
★
その一
★
10月1日
(旧暦9月3日)
徳川家康が会津攻めを中断して、西に向かったのを知り・・
塩→∴∵へ(^^へ) (ノ ^^)ノ∴∵←塩
米沢で会議中⌒
★
( -人-)
作戦1・・・徳川家康を追いかけて戦う。
作戦2・・・家康を追いかけず、後ろの最上を攻める。
その他にも、いろいろな作戦があったんでしょうが・・
上杉景勝は、作戦2に決定しました。
最上を攻める絶好の機会だったんでしょうね。
★
⌒
★
⌒
★
⌒
★
⌒
★
もしも、作戦1で家康を追撃していたら・・・
ちょっと気になるナッツでした。(
。
 ̄
_
 ̄
。
)ノ
最上義光歴史館
:[
メモ
/
歴史館からのお知らせ
]
2008年 8月 利用者アンケート集計結果
《平成20年8月分の入館者アンケート集計結果》
この集計結果は平成20年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。
常設展示 (8/1〜8/31)
開館日数・・・・・・・・・・27日間
入館者数・・・・・・・・・・2,264人
回答者数・・・・・・・・・・136人
1.歴史館をどこで知りましたか
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・35%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・1%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・7%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・2%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・1%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・5%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・12%
(8)観光案内所 (駅など)・・・ ・・・・・・・13%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・23%
(10) その他・・ ・・・・・・・・・・・・・・・1%
2.歴史館の入館は何回目ですか
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・94%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか
�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・32%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・52%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・15%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・1%
(2)最上義光と最上家について
�,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・42%
�△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・54%
��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0%
�い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
(3)入館料について
�々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
��適当である・・・・・・・・・・・・・・・・78%
�0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�%
〜利用者の声〜
◎展示品が少ない。
◎楽しかった。
◎刀剣をもっと展示してほしい。
◎音声ガイドが聞きやすくてよかった。
◎解説ビデオがあるので、わかりやすかった。
◎もう少し詳しい資料がほしい。
◎展示物は少ないけれど、うまくまとめてあって説明がわかりやすい。
◎伊達や豊臣との関係を詳しく展示してほしい。
◎義光の人物像が身近に感じられる展示があるとよい。
◎文字が小さい部分があって、見えない。
◎解説がわかりやすかった。
◎映像の近くに家系図があるとよかった。
◎体験コーナーがあればいいと思う。
◎全国的に知られていないので、もっとPRした方がよい。
◎キャラクターが面白くてよかった。
◎小・中学生向けにクイズもあり、楽しかった。
◎合戦の内容をグラフィック化して、詳しくビデオで放映してほしい。
◎詳しく説明があり、資料も多いのでよかった。
◎手紙に現代語訳がついていたので、人柄を理解することができた。
◎音声ガイドや、単眼鏡が無料なのがよかった。
◎展示の順番がわかりづらい。
◎駐車場の割引券をだしてほしい。
◎実際に触れることができる物があって楽しかった。
◎展示スペースが狭い。
◎暗くする理由はわかるが、一部資料が見えづらい。
◎山形城の資料を増やしてほしい。
最上義光歴史館
:[
メモ
/
歴史館からのお知らせ
]
【おびどめ日記】 ��33 悲しい日 (ノ_・、)
1595年8月2日 豊臣秀次の家族や仕えていた女性達30数名が
京都の三条河原で打ち首にされました・・・
その中には、義光の娘の駒姫(お伊万の前)も入っていました。
資料を見ると・・
{夫の秀次に会う前に殺された}とか、
{まだ15歳だった。}
なんて聞くと・・
とても可愛そうに思えて・・
ナッツは、初めて事実を知った時、衝撃がはしりました。
新暦に直すと9月2日・・
今日が 命日 なんですよね・・
最上義光歴史館
:[
メモ
/
歴史館からのお知らせ
]
史料紹介 仮称『最上義光注連歌新式』一冊
史料紹介 仮称『最上義光注連歌新式』一冊
[はじめに]
中世日本文学の権威、木藤才蔵博士から、平成17年秋山形市に貴重な写本が寄贈された。最上義光が注を書き入れた『連歌新式』である。
博士は、岩波古典大系『神皇正統記・増鏡』『連歌論集・俳論集』を担当なさって令名高く。また新潮日本古典集成『徒然草』は、名注釈書として広く江湖に迎えられている。周知のごとく博士は、連歌史研究において先人未到の高峰に達せられ、その業績によって昭和49年に学士院賞を受賞なされた。たまたま同じ時の受賞者として、山形市名誉市民石坂公成博士がおられる。授与式の日、木藤・石両博士は一緒に天皇に御親講なされたのであった。
最上義光を高く評価しておられる博士は、平成17年秋、本写本を義光の故郷山形市に寄付してくださったのである。
[体裁]
縦27.7cm。横21.1cm。袋綴じ。表紙柿渋塗り。題簽なく、外題を欠く。内題は、第1丁表第1行目に「連歌新式」とあり、上部に[最上院蔵書]の縦型黒印を捺す。本文紙数69枚。各丁表裏とも10行。
漢字平仮名交じり、「ハ・ミ」などの少数の片仮名を交える。一行の字数は不定。朱書きき末尾に「巴」を記し、里村紹巴記入であることを示す。巻末67〜9丁に、義光の奥書及び、これに応ずる紹巴の奥書がある。(写真)
[成立年代]
義光奥書の日付「文祿五年七月朔日」と、紹巴奥書の日付「文祿五年初秋中旬」とにより、文祿5年(1596、改元慶長1)7月の成立。
当時の豊臣秀次事件に連座して近江流謫の身であった。義光の次女駒姫(おいまの方)を秀次の侍妾としていたため一時閉門謹慎を命じられていたが、この時点では宥されていた。したがって、義光は秀吉から罪人として退けられた紹巴と、懇ろに音信を通じていたことになる。時に義光51歳、紹巴73歳であった。
木藤博士は、本写本は江戸時代初期、寛永に溯る可能性ありと見ておられる。[最上院蔵書]の印は、寒河江慈恩寺の最上院に伝来したことを示す。北畠教爾氏によれば、明治の廃仏棄釈以後の流出と推定されるという。
[内容]
木藤博士著『連歌新式の研究』から引用させていただく。
「義光が在京中に諸処の会席に臨んで式目の運用に関して不審に思ったことを、その場の先達に質問したり、あるいは宗匠のさばき方その他から見当をつけたりしたことを、そのつど書き留めておいて、のちにこれを整理したもののようである。……紹巴の書き入れは僅かで、秘事大事に属することは奥書にも記されているように口伝に依っているようである」(頁152)
義光の奥書によれば、「毎座不審の儀ども八百ヶ条」を筆記したとあるが、現に見られる本写本は488ヶ条である。伝来の間に300余ヶ条が脱落したのであろう。
[本書の意義]
既確認の義光の連歌33巻は、『最上義光連歌集』全3集として刊行された。その質的面については、山形大学教授の名子喜久雄氏が考察を加えておられるが、本書によって義光の文学的教養、連歌に対する熱意などが、さらに詳細に明らかになることが期待され、義光の人物研究にとって貴重な史料である。
義光個人の問題を離れても大きな意義がある。
桃山時代の連歌界で式目がいかに受容され、機能していたか、その実態と限界。連歌が陥っていた閉塞状態の解明。そこから脱却しようとする努力など、俳諧文学発生期の様相を明らかにする上でも、本書は益するところがあるように考えられる。
また、戦国時代を切り抜けた遠国大名が文化形成に参与した事例としても、研究の好対象となるだろう。
他の写本が紹介されていない現在、本書はいわば天下の孤本である。上記のごとく大きな意義を有するものだけに、本書の公刊が期待されるところである。
■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長)「館だより�13」より
最上義光歴史館
:[
メモ
/
片桐繁雄執筆資料集
]
前のページへ
次のページへ
■
ダウンロード
├
最上義光からの挑戦状!
├
見学の手引き
├
解説シート
├
スクリーンセーバー
├
壁紙/アイコンバナー
└
ペーパークラフト
■
こどもページへGO!
■
周辺の見どころ
■
スタッフレポート
■
キーワード検索
members login
powered by
samidare
system:
community media
ケータイサイト
インフォメーション
プロフィール
Powered by
Communications noteβ