最上義光歴史館

最上義光歴史館
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太刀 銘 (表)八幡宮奉納源家親/(裏)出羽国酒田住兼高作

作者/兼高 
桃山時代
刃長/101.2��
反り/3.9��
重さ/1365 g

兼高は約400年前の天正から慶長頃の刀鍛冶です。
銘に酒田住とあるとおり、現在の山形県酒田市に居住して鍛刀していました。
美濃関系統の刀工で、初めは上杉家の後援を受け、慶長5年以降も酒田に居住して最上家の厚遇を得て鍛刀しています。
この刀は、義光の二男12代家親が元和2年(1616)に山形市の六椹八幡宮に奉納した刀です。



【伊達政宗の母 義姫】

 伊達政宗の母義姫は、山形城主最上義守の娘として天文17年(1548)山形城に生まれた。最上義光の二歳年少の妹である。後に米沢城主伊達輝宗と結婚し、政宗をはじめ二男二女を生んだ。元和9年(1623)7月16日、仙台で没している。享年76。法名は保春院。墓は仙台市青葉区北山の覚範寺にある。

【勝気で行動的な性格】
 義姫は、ずいぶん気丈な人だったらしい。男勝りで、頭がよく、政治にも積極的にかかわる行動的な女性だった。こんな話がある。天正16年(1588)伊達氏が最上・大崎の両氏と対立し、一触即発の状態になったときのこと。当時、政宗は郡山(福島県)で常陸の佐竹氏、会津の芦名氏らと対陣中であり、現場に駆けつけることができなかった。これをみた義姫は、みずから最上、伊達両軍の間に輿で乗り込み、献身的なはたらきで両者を斡旋し、ついに和睦させている。
 また、慶長5年(1600)長谷堂合戦のときには、山形城に迫り来る上杉勢を防ぐため兄の義光が政宗に援軍を乞うと、義姫も手紙をおくり、窮状を知らせて一時も早い救援を要請している。このとき義姫が政宗の叔父留守政景に宛てた手紙が残っている。上杉・最上両軍の配備と各地の戦闘、落城間近の緊迫した状況などを的確に知らせる内容で、とても女性のものとは思えない。政宗は上杉軍の篭もる白石城(宮城県)を攻略中であったが、要請を受けてすぐに政景を総大将とする援軍を派遣。これより力を盛り返した最上勢は上杉勢を撃退することができた。義姫の決断力、行動力がこの二例によってもうかがわれる。

【政宗毒殺未遂事件】
 伊達政宗と母義姫。この母子については我々がもっとも知りたいと思うことは、例の毒殺未遂事件の真相だろう。わが子の膳に毒を盛るなどということが本当にあったのか。
 事件が起きたのは天正18年(1590)4月。伊達政宗が関白豊臣秀吉に謁見するため小田原(神奈川県)へ参陣する直前に起きた。場所は会津黒川城(後の会津若松城)。
 事件の経緯は伊達家の正史『貞山公治家記録』(元禄16年=1703年)に詳しい。4月5日、母の陣立ちの祝いの席に招かれた政宗は、母の用意したお膳に箸をつけたところ、たちまち腹痛を起こす。急ぎ館にもどり投薬を受け、危うく一命をとりとめた。母が自分を毒殺しようとしたことにショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟の小次郎に伊達家を継がせるために自分を殺そうとしたこと、その背後に母の実家最上家の陰謀があることを感じとり、同月7日みずから弟の屋敷に赴き小次郎を手討ちにする。不憫だが、母を殺すわけにはいかない、というのが理由であった。義姫はその晩、山形の最上氏のもとに逃げ帰った。以上が『貞山公治家記録』の記す事件の概要である。
 このような義姫首謀説に対し、この事件は政宗が伊達家内部の弟擁立派を一掃するために仕組んだ一人芝居ではなかったか、とする説がある。作家の海音寺潮五郎はこの説をとる(『武将列伝』)。いったい真相はどうなのだろう。
 私は、『貞山公治家記録』が記す義姫出奔の時期について、かねてから疑問をいだいてきた。『貞山公治家記録』は義姫出奔の日を、政宗が弟小次郎を手討ちにした4月7日としているが、はたしてそうだろうか。その後の二人の関係を追っていくと、どうも信じられない。例えば、この事件のあと、二人はたびたび手紙でやりとりをしている。伊達家文書のなかには、母に宛てた手紙が数多く残っているが、いずれも親子の濃や豊かな情愛を感じさせる内容で、事件のわだかまりをうかがわせるものはひとつもない。特に、事件から3年後、秀吉の命で朝鮮に出兵した政宗が、朝鮮での戦況を詳しく知らせた手紙には、母から送られた小遣い対する率直なよろこびと感謝の気持が溢れており、「ぜひ無事に日本にもどって、もう一度おあいしたい」と繰り返している。このような手紙が山形に逃げ帰った義姫との間でとりかわされるとは考えにくいことである。

【新史料の発見と事件の真相】
 私の長年の疑問は、5年前(1999年当時)に発見された一通の古文書によって氷解した。それは文禄3年(1594)11月27日、政宗の師である虎哉和尚が岩出山(宮城県)から京都にいる大有和尚に宛てた手紙である。大有和尚は政宗の大叔父。この手紙のなかで、虎哉は「政宗の北堂(母堂)が今月四月夜、最上に向かって出奔しました。お聞きおよびですか」と述べている。
 この注目すべき史料の出現によって、母義姫の出奔は天正18年4月7日ではなく文禄3年11月4日であることが初めて明らかとなった。つまり『貞山公治家記録』の出奔の時期は誤りで、事件後義姫は政宗とともに黒川城から米沢を経て岩出山に移り、この年11月4日まで岩出山にいたことになる。これで事件後も二人の間で頻繁な手紙の交換が可能だったことも理解できる。ちなみに伊達家文書に残る母宛の政宗の最後の手紙は文禄3年11月25日、京都から出したもの。家臣の屋代勘解由に託されたこの手紙には、政宗が京都であつらえた母への小袖が添えられていた。しかし、この手紙も小袖も母のもとに届くことはなかったはずである。
 新しい史料によって義姫の出奔の時期が正されたいま、それ以外の事件の核心に係わる『貞山公治家記録』の記述も疑ってかかる必要があろう。義姫が毒を盛ったとするなら、事件後も政宗のもとに居つづけ、手紙のやりとりをしていることは理解に苦しむ。『貞山公治家記録』は政宗が弟を手討ちにしたその晩に山形へ出奔したとして、義姫と背後の最上氏の事件への係わりを強く印象づけているが、そこに伊達家の正史としての作為は含まれていないだろうか。しかし、いずれにせよ4年後に義姫が岩出山から実家の山形に帰ったのは事実である。義姫はなぜ出奔したのか。
 従来あまり注目されることのなかった史料だが、『貞山公治家記録』の付録のなかに、この謎をとく手掛かりとなる文書がはいっている。日付はないが、事件の直後、伊達政宗が側近(茂庭綱元か)に事件の経緯を知らせた手紙がある。このなかで政宗は、お膳に毒を盛ったのは母と思われ、その背後に弟を擁立する勢力があること、このままでは伊達家内部が二分し内乱となるおそれがあるため、やむをえず弟を手討ちにしたこと、弟には罪がないが母を殺すわけにはゆかぬので、可愛そうだが殺さざるをえなかったこと等を詳しくうちあけている。そして最後に「このようなことは自分の口からは言えないのでそなたの方で斟酌して、よいと思うことは世間へくどき広めてほしい」と意味深長なことばで締めくくっている。おそらく、こうした政宗の意向が、政宗が岩出山をはなれ京都・朝鮮へ行っている留守に徐々に噂となって家中に広まり、周囲の疑惑の目に居たたまれなくなった義姫が山形へ出奔したというのが真相ではなかろうか。
 政宗毒殺未遂事件の全容は、まだ闇の中にある。しかし、義姫を事件の首謀者としてきた従来の見解は、『貞山公治家記録』の信憑性とあわせて見直されるべきだと思う。

【母子の再会】 
 山形と仙台、別れた二人が再会するのは28年後、元和8年10月のことである。最上氏の改易にともない、義姫は政宗のもとに身を寄せる。しかし二人が仙台で一緒に暮らしたのは束の間。政宗のもとにもどった10ヵ月後、義姫は黄泉へと旅立つ。晩年の義姫は足も不自由で、目も悪かったらしい。しかし、江戸にいる政宗夫人愛姫に手製の下げ袋を贈って感激させるなど、姑としての細やかな気配りを見せている。
 再会した母子の間で交わされた贈答歌が、政宗の歌集に残されている。

○年月久しうへだたりける
         母にあいて
あいあいて心のほどやたらちねの
 ゆくすえひさし千歳ふるとも

○母の返し
双葉より植えし小松のこだかくも
 枝をかさねていく千代のやど

 義姫の生涯は、文字どおり伊達家と最上家の安泰を願って奔走した一生であった。この歌をみると伊達政宗の母としての誇りを終生持ちつづけた大したお母さんではなかったか、と思う。
■執筆:佐藤憲一/仙台市教育委員会文化財課長(1999年執筆当時)・仙台市博物館館長(2008年) 「歴史館だより�癸供廚茲�



 10月25日(土)

 山形駅西口で天地人祭りのイベントがありました。

 (⌒▽⌒)ノ その報告をちょっと・・・

       上杉VS最上で ( ⌒o⌒)人(⌒-⌒ )

 物産合戦、味合戦、芸能合戦が繰り広げられました。

    祭┌(・。・)┘祭♪祭└(・。・)┐祭♪祭┌(・。・)┘祭

 米沢・山形の他に、上山・白鷹・山辺を巻き込んでのお祭りです。

 歴史館も天地人PRの為、参加しました。(・ε・)ノ オー!


 天地人では、敵役として登場ですが・・・

 最上義光の事を知ってもらうのにも良い機会なので・・

 というより・・

          ♪♪♪ d(⌒O⌒)b♪♪♪

 「祭りじゃ〜ぁ!!」

 との事で、歴史館も参戦です。(= ̄+▽ ̄=) キラーン★

 おそろいのハッピを着て、張り切ってPRしましたぁ。

 

 隣で米沢のPRをしていたので、敵地視察・・・

                   〔壁〕 _・。) ジ〜

 のつもりが・・

 「かねたん缶バッジ可愛いぃ〜!」

       〜( ̄▽ ̄〜)(〜 ̄▽ ̄)〜 フラ〜

 思わず、買ってしまいました・・

           ♪~♪ d(⌒o⌒)b♪~♪ルンルン

 早速、スタッフカードに付けて戻ったら・・・

 

 最上軍スタッフに、大ブーイング!

         (;_;)/~~「いぃじゃん・・・」

 「お祭りだし・・・」

 「義光クンの木札も付けてるもん・・・」

       ( ̄▽ ̄P義光q  ☆

 

 敵だろうと、可愛い物は欲しいです…(。−_−。)ぅん

 反抗期のナッツは、現在もはずしていません。(笑)

                    (@ ̄▽ ̄@)ぇへ@

 そぅそぅ♪

 お祭り開始の指揮をしたのは、

 ☆彡(ノ^ ^)ノ コスプレした館長〜♪

 

 一緒に、かねたん♪も登場〜!\(▽⌒\)

 

      「ぃや〜♪♪  可愛いぃ〜!」(かねたん♪)

 ステージから降りた「かねたん」と写真を撮る歴史館スタッフ★

 本人の強すぎる希望により、モザイク処理させていただきましたが・・

 

 最上の殿(館長)と、かねたんがTVの取材を受けていました。

 

 パチ /■\_・) カメラ

 

 TVを見て「天地人祭り」に来た人も多かったみたいですね。

 会場で、最上義光のお酒も販売していましたよ。

       (「・・) ドレドレ

 

       (^_[・]) ロックオン 

 試飲発見・・・

 でも、仕事中なので我慢です・・・


 味合戦では、両方の鍋を無料配布♪

 

 山形は**芋煮**

 

 米沢は**謙信ちゃんこ**

 並んでいる人に睨まれないように・・・

 

           コソコソ(・_・ )))))((((( ・_・)コソコソ

 「HP用に写真だけ撮らせてくださ〜ぃ♪」

 食べ物の恨みは、恐ろしいですから・・・(^^;)

 お願いして撮らせていただきました。

 

 山形市の芋煮は、里芋・牛肉・こんにゃく・ごぼう・ネギが入っていて

 「しょうゆ味」

 お外で芋煮会やると、最後はカレーうどんに 

 σ( ̄。 ̄)するんだよねぇ。

 家庭によっては、きのこが入ったりします。

 ナッツの知り合いの家では、豆腐が入るとか・・・

      (  ̄− ̄)フムフム

 里芋じゃなく、ジャガイモやサツマイモを入れる人もいました。

     _φ(・_・”)《そんなにあるのか・・・》

 家庭によって具が変わるのは面白いデス。

 地域によって、豚肉で「みそ味」の所も・・

 ★\(ハ ̄ー ̄イ)/★

 それは、豚汁では・・?

 と思う人も居るかもしれませんが、その地域では豚肉・みそ味が「芋煮」

 それが代々伝えられているので、それが郷土料理になっていま〜す。

 (⌒▽⌒)ノちなみに・・

 ナッツ宅では、しょうゆ味で大量のごぼうが入り、まいたけも入りマス。

      ((^^))マル((^^))マル((^^))マルマルマル



 

 米沢の謙信ちゃんこ!

 o(*^^*)o ワクワク

 初めてみましたぁ〜♪

 とんこつがベースになっていると聞きました。

 米沢ラーメン、鯉のツミレが入っていて・・・

 ((o(^-^)o))おいしそぅ〜〜♪

 今回は食べられないみたいなので、

 米沢のどこに行けば食べられるのか、作っている人に取材を・・・

       _ ((φ( ̄ー ̄ )

 「取り扱い店は、募集中で〜す(^ー^;)」

 ( ̄△ ̄;)《なっ・・》

 天童の鍋合戦用に考案されたとかで・・・

 聞いたら、米沢の人でも食べたこと無い人が多いとか・・( ̄ω ̄;)ムム

 今年の鍋合戦の日は、休みもらって食べに行こうかなぁ〜

 米沢で、飲食業の方・・・

 メニューに加えてください。  m(_ _)m



 

 餅つき⌒★ 餅つき⌒★

 見ていて楽しいです♪

 \(^0^)人(^0^)/

 息が合っていて素晴らしぃ。

 昔は、こんな風に餅つきしていたのにね・・

 ナッツ宅も、現代風に「全自動餅つき機」だもんなぁ・・(._.)

 かってに餅になっているから、気にした事なかった。

 便利な時代になっているケド・・

 伝統や文化も残していかなければいけないよねぇ。(。^_・)ノ


 イベントは、天気もよくて気持ち良かったし⌒★

 楽しかったぁ〜♪  ★⌒(*^▽゜)v

 仕事なのに、仕事じゃないみたいだったよ。(笑)

 かねたんにも会えたし、満足×2♪

 来週は歴史館のイベントだし、

 更に楽しみだぁ〜♪  (*^m^*) ムフッ

 今日みたいに、天気がよくなるように・・

 てるてる坊主でも作ってみようかなぁと思うナッツでした。


 


  と・・・

 気楽に思えるのは、今だけで・・・

 イベントで古い雑巾のようにボロボロになる事を、まだ知らない・・・

                        (。 ̄_ ̄。)ノ~~~


     《平成20年10月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成20年10月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


         常設展示 (10/1〜10/31)
        開館日数・・・・・・・・・・27日間
        入館者数・・・・・・・・・・2,634人
        回答者数・・・・・・・・・・67人

 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・21%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・6%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・8%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・0%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・1%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・6%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・23%
 (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・13%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・18%
  (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%


 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・90%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・4%


 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・39%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・51%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・1%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・47%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・52%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
 
 (3)入館料について
 
   �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
   ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・・82%
   �0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�%

 〜利用者の声〜

 ◎展示物の一覧や、写真資料のCD・DVDを販売してほしい。

 ◎指揮棒を見る事ができなかったのが残念だった。

 ◎虎将と呼ばれる由縁がしりたい。

 ◎解説が解りやすくて良かった。

 ◎展示品が少ない。

 ◎義姫の資料がほしい。

 ◎館内は、とてもきれいで資料も豊富だった。

 ◎当時用いられていた陣太鼓がおもしろかった。

 ◎長谷堂の屏風の解説がわかりやすくて良かった。

 ◎近世の事も展示してほしい。

 ◎もっと広くしてほしい。

 ◎もう少し活躍がわかるように、展示品を充実させてほしい。

 ◎子供でも理解できる説明書きがとても良かった。

 ◎もっとPRしてほしい。

 ◎もう少し鎧などを見たい。

 ◎直江兼続の年表を詳しく説明してほしい。

 ◎とても楽しかった。

 ◎ビデオモニターの広場を広くしてほしい。

 ◎出羽合戦についての資料を増やしてほしい。

 ◎わかりやすくて、とても良かった。

 ◎感動した。

 ◎全体的に良かったが、グッズを増やしてほしい。

 ◎音声ガイドがわかりやすい。

 ◎資料保存の為とはいえ照明が暗くて説明文がよく見えにくい。

 ◎県立博物館、美術館、等の共通券を作ってほしい。


山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【はじめに】

 羽州の地に五十有余万石の領国を築きあげた最上義光が、栄光に満ちたその生涯を終えたのは慶長十九年(1614)一月のことだった。それから八年後の仲秋の頃、孫の源五郎が何故に領国崩壊への道をえらばねばならなかったのか。
 徳川恩顧の父家親早なる死の後は、家中の源五郎の排斥の気配も、さして感ずることなく幼年の源五郎に家督が許されたことは、それが家中の総意に適うものとは限らないにせよ、本領安堵に落ち着いた現状を見るとき、家中一同も一時の安堵の思いに身を馳せたことであろう。しかし、それも束の間のことであって、次第に高まる一族の重臣達を筆頭にしての抗争が、藩主義俊の家中統率の無能さを、表面に出しての論争に発展するところとなっていった。
 義俊の五年余の山形藩主時代は、一片の自己主張すら藩政に反映させることは困難であったろう。それは若年の身に加えて、身辺に漂う悪しき風評の全てが、必ずしも自己の為せる業とは言えないまでも、己の意思の欠如を如実に物語ったものといえよう。祖父義光が営々として築き上げた大藩を守りきるには、若き藩主とそれを支える側の体制では、どうすることもできなかったのである。
 元和三年(1617)五月の襲封から、三年後に起きた幕府監察の導入は、それは最上家内での醜聞を白日のもとにさらけだす結果となった。そして改易を迎えるまで、幕府の表向きの政治的な関与は無かったにせよ、絶えず監視下のもとに置かれていたのであった。そして藩内を二分しての対立の構図がやがては幕閣要人達の利害に絡む論争の場へと、発展して行ったという。
 遠く中世の代に端を発した最上の家を、破滅の道に追い込んだ原因、そしてその責任は誰が取らねばならぬのか。若き源五郎義俊にその全責任を負わせるのは酷であろう。むしろ己の権力保持に汲々としていた重臣達に、義俊を満足に支え切れなかった責任を問うべきである。
 ここでは、最上家側での義俊に関わる記録の希薄さから、その生きざまを満足に語る程に、充実したものを探しだすことは難しい。それでも、何とか義俊の痕跡を捜し求めながら、その生涯をたどって行ってみたい。なお源五郎が家信から義俊に改名したのは、改易後のことであるが、本稿では義俊に統一している。
■執筆:小野末三

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【最上駿河守家親/もがみするがのかみいえちか】 〜名門最上家の御曹司〜
 
 第12代山形城主。天正10年(1582)の生まれであるから、清水城主となった光氏(義親)とは同年齢の異母兄弟である。幼名を太郎四郎、左馬助といった。
 天正19年に、徳川家康が奥州九戸の乱を平定するために福島在の大森に着陣しているとき、義光が10歳になった太郎四郎をつれて行き、「この倅をさしあげます。自分の代わりに召し使ってくだされ」と申し出た。家康は「国持ち大名の子息を家来にするとは、初めてのこと」と非常によろこんだという。
 文禄3年(1549)8月5日、家康の前で、徳川四天王の1人井伊直政の理髪で元服をした。名乗りは「家康」の一字を拝領して「家親」。駿河守となる。「康」をもらったのは何人かいるようだが、「家」をもらったのは、最上家親と島津家久の2人だけらしい。それだけ、彼に寄せる期待も、最上家を大切に思う気持ちも、家康にはあったのだろう。
 15歳(慶長元年)から江戸詰め。家康のそばから移って、秀忠に仕えることになった。
 19歳のとき、関ケ原の戦いの直前、徳川軍が会津征伐に出たときは、秀忠にしたがって宇都宮にいたり、ついで信州真田攻めに従軍する。
 いわゆる「武功」の話は聞かれない。名門大名最上家の御曹司ということで、前線に出て戦うよりも、主君秀忠の側にあって、戦陣の心得などを学び取っていたのかもしれない。
 世の中がしずまった慶長10年4月には従四位下侍従に叙され、同月9日には細川忠利とともに宮中において天皇から盃を賜った。その夜、家親は京都の家康邸を訪問しているが、これはおそらくお礼言上のためであろう。
 同じ時期に、父親義光も京都にいた。3月29日には義光は秀忠に随行して参内。天盃を下賜された。4月26日にも、秀忠の将軍宣下に扈従して、殿上に昇った。
 出羽山形57万石、最上家は花盛りだった。
 翌年、家親の嫡男が生まれる。源五郎、後の家信、あらため義俊である。母は不詳。最上家のような名家の妻がどこの出か知れないとは、まったく不思議なことで、世間には「西三条家」の娘だとする説もあるが、根拠となる史料は見あたらない。
 その後の家親は、江戸城内で開かれる正月恒例の御謡初めには着座を許され、琉球国王の訪問では奏者役となり、摂関家から使者が訪問すれば披露役を務めるという具合で、幕府の重要式典に参画しているのが目立つ。詳細を書く余裕はないが、文化的芸術的なたしなみが豊かだったことがうかがわれ、有職故実などにも詳しかったのであろうか。
家親は江戸暮らしが常態だったらしく、その邸には京都から来た公家も訪れた。
 慶長16年(1611)10月21日には、江戸城内で催された申楽に、家親も参席した。
 その4日後、船橋秀賢と山科言経(いずれも京都の公家)の宿所を訪問して、それぞれに紅花50袋をプレゼントしたことが、両人の日記からわかる。
 慶長19年(1614)1月18日、義光逝去。その報せが小田原にいた家康にとどくと、家親はただちに帰国を許され、2月6日、山形城下の慶長寺(光禅寺)において葬儀をすます。そのあと半年ほど山形にいたと推測される。新藩主として、さまざまな政務を処理したと思われるのだが、そのころの最上領内のムードは必ずしも平穏無事ではなかった。
 6月には庄内鶴ケ岡城下で一栗兵部の反乱が勃発、酒田城主の志村光惟と大山城主の下秀実が襲殺されてしまう。最上重臣クラスのなかには、徳川につくか豊臣につくかということで互いに疑心暗鬼の状態だったらしく、家親に親しみ薄いグループの中には大坂方を支持する者があったことも否めないだろう。
 家親は、家督承認の御礼をするために9月に山形を発った。そのとき、これは果たして史実としてよいかどうかだが、野辺沢遠江、日野将監らに、清水城、清水義親討伐の命令を下していたといわれる。家親が駿河で家康に謁していたちょうどそのころ、清水は最上宗家の大軍の攻撃を受けて滅び去る。10月13日とされている。
 同年11月、家康、秀忠は、20万といわれる大軍をもって大坂攻撃を決行する。いわゆる「大坂冬の陣」であるが、このとき家親は徳川の本拠江戸城の留守居役を割り当てられた。翌年4、5月の「夏の陣」でも、家親は江戸城留守居を命じられた。
 「冬の陣」のとき、家親は1日も自分の邸に帰らずに、江戸城本丸に詰めたと『最上家譜』には記されている。
 冬・夏ともに、伊達、上杉、佐竹など東北外様諸大名は軒並み危険な戦場に駆り出されたのに対して、最上家だけは別格の役割だった。これは、家親に対する徳川家の厚い信頼を物語るものであろう。もっとも、多少の軍勢は大坂に派遣したようで、上級家臣武久庄兵衛が大坂で功績があったので賞された旨、分限帳の書き込みが見られる。
 江戸にあって、家親が高名な文人僧、足利学校の庠主(しょうしゅ/校長)寒松和尚と親交を結んでいたことが、近年小野末三氏によって明らかにされている。幾編かの漢詩を贈られたことも、新しい発見であった。
 冬の陣の直後、慶長20年正月16日、寒松が最上邸に参上した時の日記と漢詩を、読み下しで掲げてみよう。
 
 「最上家のお屋敷では、珍しいご馳走があった。如白(寒松の弟子か)もお相伴した。その席で「春の雪」の詩を差し上げ、楽しい語らいに時を過ごし、すっかり酔って帰った。

   夜雪空に連なって、月色ゆたかなり、
   壁門金殿、瓦溝めぐる、
   江天暁に到りて、尺をみたし難し、
   ことごとく是れ軍営、喜気消えんか」

 学僧で文人、幕府要人との付き合いの多かった寒松との交際は没年まで続く。元和二2(1616)2月26日、家親は山形六椹八幡宮に鷹の絵を寄進した。「源家親」の記名がある。彼自身の作であろうか。
 ところで、家親については、山形ではとかく好ましからぬ風評が語られている。
 最上家を乗っ取ろうとするグループによる毒殺とか、女に刺し殺された、などという話である。だが、これらは作り話に過ぎない。
 亡くなったのは、元和3年3月6日。36歳。『徳川実記』では「在府して猿楽(能狂言)を見ながら頓死す、人みなこれをあやしむ」とある。「在府」は「江戸府にあって」ということ。「頓死」は「急死」である。
 大大名の若い当主の急死は、うわさ話にはもってこいである。「人みなあやしむ」というのも無理はない。
 確かな史料で見ると、秋田藩重臣、梅津政景の日記によると「四日の晩から苦しみだし、
6日の四つ時(午前10時ごろか)死去した」とされている。
 いっぽう、将軍秀忠からは、病気見舞いの手紙が寄せられている。
 この年の3月4日は、太陽暦では4月9日。江戸は春の花盛りである(鈴木靜兒氏の御教示による。)花見がてらの能狂言、酒に肴に音曲に…。
 このような状況から推測して、これはまったくの想像にすぎないが、家親はにわかな食中毒にかかったのではなかったか。二晩を病に苦しんで亡くなったのであろう。
 後日、一族の松根備前守光広が「毒殺の疑いあり」と訴え出たけれども、幕府は調査のうえこれを却下、光広は偽りの訴えをしたとして築後柳川に流罪となった。幕府の判定も、
変死とはしなかったのだから、やはり病死だったとするのが正しいだろう。
 彼の領内政治がどんなものであったか。今のところ、ほとんど知ることはできないが、小野末三氏の研究によって、その人物像は少しずつわかりかけていると言ってよいだろう。
■■片桐繁雄著