最上義光歴史館

最上義光歴史館
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【山野辺義忠/やまのべよしただ】 〜水戸徳川家の重鎮となった〜   

 最上義光が巨大な人物だったことは言うまでもないが、その血を分けた息子たちのなかにも、非常にすぐれた人物がいた。
 四男山野辺義忠(改名前は光茂)は、その筆頭に挙げることができるだろう。
 天正16年(1588)生まれ。父義光43歳であった。
 幼名を比治利丸(ひじりまる)と称したという。義光のほかの子等同様、系図類には生母として「某氏」とあるだけだが、おそらくは正室大崎夫人の所生かと思われる。夫人は40歳に近かったのではあるまいか。
 義光の子供たちの生年を見ると、長男義康は1575年生まれ、松尾姫・78年、駒姫・81年、竹姫・84年、それにこの光茂は88年生まれ。異論はあるかもしれないが、14年間に生まれたこの5人を同腹としても矛盾はない。
 家親(義光没後、山形城主)と光氏(後清水城主、義親)は、ともに1582年(天正10)生まれで当然異母兄弟、駒姫とは1歳違いの弟に当たる。
 家親の実母は、慶長3年(1598)12月14日逝去「高月院殿妙慶禅定尼」と最上家過去帳に記載がある。光氏は天童夫人(天正10年10月12日没)の子らしく、彼の領した清水(現大蔵村)の興源院が母子の牌所となっている。
 これら七人の兄弟姉妹からずっと離れて、光茂とは11歳違いの五男光広(1599生、後上山城主)、六男大山光隆(1602生、後大山城主)、徳島で亡くなった女子(旧東根城主、後徳島藩家臣、里見親宜の妻)がいるが、この3人は義光の最後の妻となった、30歳ほど年下だった清水夫人の生した子ではあるまいか。
 さて、四男が義忠を名乗るようになった時期ははっきりしない。山形で見られる名乗りは「光茂」である。鶴岡市の高木家、松山町石川家の慶長年間と推定される文書や、山辺町専念寺、山形市千手堂吉祥院、朝日町大谷大行院の文書など、すべて「光茂」である。
 慶長5年の出羽合戦のときは、13歳の少年であったから、戦陣には加わらなかったと見え、水戸徳川家の『水府系纂巻第三十八』には「関原ノ證人ト為テ神君(徳川家康)ニ参リ静謐ノ後従五位下ニ叙シ右衛門大夫ニ任セラル」とある。人質として家康のもとに預けられたというわけだが、その折家康は「将来恐るべき怪童」と評したという。どこか並々ならぬ素質を具えていたのであろう。
 関ケ原戦後は山野辺家の名跡をつぎ、右衛門大夫を称し、1万9千300石を領した。山野辺は、山形の北西7キロメートルばかりの所にあり、本城を支える重要な城池であった。領地の範囲は、現在の山辺郷周辺の平野部と白鷹丘陵の山間地、及びその西の最上川が峡谷となって北流する五百川郷(現朝日町)を含む範囲だったらしく、最上家改易のとき接収された朝日町の八ツ沼城は「山野辺右衛門の内」と伊達文書に記載されている。
 15歳そこそこの少年でありながら重要な一城をあずかったのも、それなりの器量の持ち主だったからであろう。もちろん、すぐれた家臣団があってのことと推測される。伝承によると、光茂は現在の大石田町深堀で育ち、山野辺に入部するに際して連れてきたという、いわゆる「深堀三十六人衆」と称される人々が家臣団の中核をなしていた可能性もあるが、これについては今後の更なる検討が必要だろう。
 後藤禮三氏の研究をもとに、山野辺城主時代の業績を箇条書きにすれば次のようになる。
 1 山野辺城の拡張改修
 2 城下町の建設と市の開設
 3 釣樋堰の開鑿など灌漑治水事業
 4 神社仏閣の護持
 5 交通路の整備
 最上家改易(1622)までのおよそ20年、山野辺の青年城主としてこれらの事業を成し遂げ、城下町山野辺を小規模ながらも山形の衛星都市として完成させたのである。
 57万石の大大名となった奥羽の重鎮最上義光は、しばしば長期にわたって京都、江戸などに滞在しなければならなかった。そういうとき、留守をまもって領内政治を取り仕切ったのが、確かな史料があるわけではないが、近くに居城を持つ山野辺光茂ではなかったか。
 ともあれ、彼がすぐれた力量の持ち主だったことが、後にお家騒動の原因となったのは、まことに皮肉な巡り合わせであった。
 義光亡き後藩主となった兄・駿河守家親が元和3年(1617)3月に急病で亡くなると、その子源五郎家信が12歳で山形の主となる。家信は江戸生まれ、江戸育ち、全国有数の57万石の大封土と、大名クラスの重臣をはじめとする多数の家臣団を統治するには力不足だった。(以下、別項と重複することをお許し願いたい。)
 「義俊(当時は家信)若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠(光茂)をして家督たらしめんことをねがう」と、『最上氏系図』(寛政重修家譜)は述べている。
 このとき、義忠は30歳であった。一族・家臣団の多くは、信望あつい彼に最上の未来を託そうとしたのだった。むろん、義忠自らも領内の最高権力者、責任者となって、出羽国を発展させることに、強い自信を持っていたに相違あるまい。重臣のほとんどが彼を推した。中心となったのが義光の弟楯岡甲斐守光直、千軍萬馬の勇将として知られる鮭延越前守秀綱。
 一方、これに強く反対し「家親の死は、楯岡らの陰謀による毒殺。源五郎家信こそ正統」と幕府に訴え出たのが、一族の老臣松根備前守光広であった。だが、幕府はこれを無根の説と退けて、彼を九州柳川の立花家に預けた。そのうえで重臣たちを呼び出し「皆で最上家を守り立てよ」と説得したにもかかわらず、重臣の多くはこれを拒否した。
 最上のトップたる義忠が、並み居る幕府閣僚を前にして何を語ったかは知ることができないが、自己の主張信念を曲げることはなかっただろう。
 元和8年8月、最上家は改易となった。
 多くの家臣は禄を失って流浪するものが少なくなかった。
 このときに義忠は、岡山池田家に預けられた。ここで約12年を過ごし、寛永10年(1633)9月、三代将軍徳川家光じきじきの命令によって、水戸徳川家の家老として1万石で仕えることとなった。類まれな処遇というべきだろう。
 水戸藩主頼房は、やがて三男千代松(1628〜1700)の教導役を命じたそうである。
 非行少年と心配された千代松は、青年時代から急速に変貌をとげ、仁義の大道を歩むようになる。そうして、ついには名君・水戸光圀公と仰がれるようになるわけだが、その蔭には山野辺義忠の豊かな薫陶があったのであろう。
 頼房が没する(寛文元年/1661)と、光国(のち、圀に改む)が藩主となる。これを見届けたのち義忠は隠居して仏門に入り、道慶と号する。
 義忠の後を嗣いだ義堅は、光圀の妹である利津姫を妻に迎えている。その後も山野辺家は、幾度か主家と縁組を重ねている。改易のとき九州細川家に預けられた楯岡甲斐守光直の孫が、山野辺家の養子となったという奇しき因縁もある。最上義光の血筋は、こうして水戸徳川家を支える名門として伝えられたのである。
 茨城県那珂市にある常福寺は、水戸徳川家の菩提寺で、浄土宗の名刹として知られている。境内の入り口には、山野辺家の墓所がある。巨大な五輪塔が四基立ち並んでおり、右端が義忠の供養塔である。牌記は「良源院殿前堅門貞誉松座道慶大居士」。
 山形にも、山野辺家にゆかりある小堂がある。
 立石寺奥の院近く、中性院前にある「最上義光公霊屋」がそれである。
 これを建立したのは、たぶん山野辺義忠であろう。年次不明6月晦日の千手院別当あての光茂書状に「今度山寺にて玉屋(霊屋)直し申し付け……」とあるが、これは義光没後まもないころに建てた霊屋が破損したので、修理するよう手配したものであろう。
 また、館林市に伝わる『山形風流松木枕』には「宝暦十三年(一七六三)二月七日に、義光公百五十年忌、この御子孫(義忠の子孫)より御弔いあり」という記事があるが、これはたぶん山寺の霊屋のことであろう。水戸に移ってから百五十年たった後にも、山野辺家は先祖のふるさと山形との縁を大切にしていたのである。もっとも、この年は義忠の百年忌にもあたっていたので、その供養も兼ねたのかもしれない。
 霊屋内には、義光・家親二代の位牌を中に、山野辺義忠親子三人の位牌も納められている。義忠の牌記は次のとおり。
 「義光次男従五位上 山野辺右衛門太(ママ)夫義忠 寛文四天極月十四日午ノ上刻」
 「次男」は誤記かどうか。正室が生んだ男子としては、次男に当たるという意味か。
寛文四年は1664年。「極月」は12月。午ノ上刻は正午少し前ごろ。77歳、堂々たる生涯であった。
 東根家に嫁いだ腹ちがいの妹が、遠い徳島で亡くなったのは同年8月のことだが、お互いにそういう事実を知ることができたのだろうか。
■■片桐繁雄著



さあさあお立会い!!山形市民の「宝モノ」を紹介します!!

この展覧会は、山形市民を対象に、「わが家の宝モノ」を募集して、歴史館の展示室に展示し、広く一般に公開する市民参加型の展覧会として企画しました。
自薦他薦を問わず、また、洋の東西・時代・評価額・文化財としての価値なども一切問わず、山形市民の自慢の「宝モノ」を幅広く募集し展示紹介しています。
大変珍しい「宝モノ」やおもしろいエピソードがある「宝モノ」、「えーーー…」とびっくりする!?「宝モノ」などなど…楽しい展示になっています。


1.主催  
財団法人山形市文化振興事業団


2.共催
山形市


3.会期
平成21年1月14日(水)〜平成21年4月5日(日) 

   
4.会場
最上義光歴史館  第一展示室北側展示ケース


5.開館時間(平成21年3月31日まで) 
午前9時30分から午後5時まで 


6.入 館 料(平成21年3月31日まで)
大人300(240)円、高校生200(160)円、小中学生100(80)円
※( )内は20名以上の団体料金。
※毎週土曜日は小中学生の入館は無料


7.出品中の「宝モノ」の応募規定

(1)応募資格 
山形市在住の者

(2)募集する「宝モノ」の条件 
・「宝モノ」として誇れるもの(自薦他薦は問いません)
・出品者の所有であるもの
・展示期間中に変質しないもの(生物や食物などは不可)
・展示中破損の恐れがないもの
・最上義光歴史館に展示可能な大きさのもの


8.現在出品中の「宝モノ」

「最上義光公時代 山形城下絵図」
「鋳物型」
「平清水白化粧片口」
「油絵」
「武内宿禰 三谷光月作」
「神武天皇 松根多吉作」
「菊花立岩図 細谷度外筆」
「巻物(無我流捕手目録)」
「古いおもちゃ」
「『機械學宣言 地を匍う飛行機と飛行する蒸気機関車』稲垣足穂・中村宏」
「『自転車』中村宏画」
「無題 中村宏画」
「陶器雛」
「明治天皇御尊影」
「市之丞正次の鐔」
「日々好日軸 野村万蔵筆」
「気楽坊 平櫛田中作」 
「古いカメラ」
「三宝荒神図 祐徳作」
「南無妙法蓮華経の名号 日通筆」
「枯木名鵙(複製) 宮本武蔵」
「現代詩手帖」
「雲龍図」
「水心子正秀画像」
「山形交通三山電鉄・高畠電鉄廃止日の記念乗車券」
「漢詩『風雲山形城』」
「のらくろ」

※宝モノの名称は出品者によります。

山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【一 義俊遺領を継ぐ】(1)

 元和三年(1617)三月六日、駿河守家親は三十六歳の生涯を閉じた。その死因と場所などについては諸説紛々としているが、巷に流れているような、奇異に満ちた死因ではなかったようだ。しかし、諸史に書き伝えられてきた死因などを取り上げ、これを真相だとする次のような記事が、依然として一人歩きしているのが現状である。
 「三月五日、家親は鷹狩りに出て一日を楽しみ帰ったが、その夜俄かに死亡したので、最上家の騒ぎは非常なものであった。その死因については文書により数々のことを伝えている。第一江戸に於いて卒去したもの、第二に鷹狩りの日楯岡甲斐守邸で食事をした際、毒を盛られた、第三その夜侍女に刺されて死亡したなどである。江戸で卒去したという説は全然虚構であり、楯岡甲斐守の毒殺というのも事情に適しないのであり、侍女から刺殺されたという説は最も真相と思われる」 (『山形の歴史』川崎浩良) [注1]として、侍女刺殺説を取り上げ、家親の死因としている。
 しかし、この先人達の説に反論する訳ではないが、確たる説をもとに事実として証明せねば、何事も成り立たないのである。当時の家親の実際の行動を、幾分でも掌握しない限りは、これが事実だと言い切ることはできないのである。ここに、元和三年(1617)初頭から死の三月に至る間の、家親とその近習とされる人物の動きを示す、一人の人物の日記から、家親の死を究明していきたい。
 天正十年(1582)三十四歳のとき、武蔵野国足立郡芝郷(現埼玉県川口市)の長徳寺の住持となった龍派禅珠(号は寒松、以下寒松を使用する)は、慶長七年(1602)徳川家康の命により、足利学校の痒主となった名僧である[注2]。その書き残した文書記録類の[寒松稿]と[日暦]には、将軍を始めとして多くの人物が登場しているが、そこには、家親との交遊関係を示す多くの記事が書き残されている。その中から、家親の死に関わる時期の頃の記事を引用する。(注、原文からは関係箇所のみを抽出した)

(イ)□□□(正月大ヵ) □□(朔日ヵ)[  ]立春正月節、十日、晴、登城、自城帰時往最駿州第、昨夜使者口上齟齬故空帰、
  (江戸城にて年筮を献じての帰り、最上邸に寄る。昨夜は使者の口上に食い違いがあり、空しく帰った)
(ロ)(一月)十三日、於駿州晨炊、
  (最上邸にて朝食をとる)
(ハ)(一月)十六日、於道閑晩炊、
(家親の近習の道閑のところで夜食をとる)
(ニ)(一月十七日) 題屏風画十二首 最上駿州求之
  (家親の求めに応じて、最上邸にて屏風画に十二首の漢詩を書き入れる。※漢詩は省略する)
  梅月 元和三年丁巳正月十七日書于江城客簷下
(ホ)三月小、二日、道閑贈餠酒来、
  (道閑より餠と酒を贈られた)

 この寒松の記録から、家親が元和三年(1617)の正月は江戸に在ったことが判り、また近習の道閑(寿庵)[注3]が、三月二日にも寒松と接触していたことは、家親も江戸に居たという証しにもなるのではないか。そして、三月十二日、寒松は江戸より足利への帰路、蕨宿にて家親の病が気にかかり、友人の医師を江戸に遣わしたことを伝えている。そして四月廿日、寒松は足利にて家親の死の報に接した。
 また家親が病に倒れ、それに対して将軍秀忠よりの能々養生せよとの、家親宛の書状[注4]が残されていることから、寒松の記録とも併せ見ると、家親が不審な形で世を去ったとは考えられないのである。
 五月十六日、寒松は「雨、最上源五郎飛脚来、寿庵・侶庵文相添」と、寿庵と侶庵の文をも添えた、義俊からの飛脚があったことを伝えている。それは幕府が義俊の襲封を認めた七日後のことであった。これが代替わりした最上家当主としての、義俊にとっては寒松との最初の接触であり、そこには襲封の挨拶をも含め、父同様に最上家との厚誼を願望する、義俊の姿を垣間見ることができる。そして、十月十七日、足利より江戸に入った寒松は、「於最上源五郎殿晩炊、秉燭而帰」と、最上邸に義俊を訪ね晩食を共にした。これが義俊の山形藩主として、寒松との初めての出会いであった。義俊にしてみれば、将軍を初め幕閣の要人達とも親交のある老師と、父同様に誼を通じることが如何に大事なのかは、十分に理解していたことであろう。そして、その付き合いは、改易後のある時期まで続いていくのである。

元和三巳五ノ三、十二歳節家督、其節被為召被仰出候ハ、祖父・父無二之忠節ヲ尽候事故、最上家大切ヲ被思召候、夫ニ付今程十二才候得者、国々之仕置無覚束、依之家人共上下和順候而、源五郎ヲ守立、国家ノ政道如先規申付候様ニト被仰付、賜御条目[注5]

 元和三年(1617)五月三日、義俊は父の死から二ヶ月後に家督を継いだ。祖父義光そして家親と二代に渡って、徳川との密接なる関係を有していたにせよ、この十二才の少年に奥羽の大藩を委ねた幕府の真意は奈辺にあったのか。
 九日、幕府は七ヶ条条の項目を示した「条書」[注6]を与え、義俊の襲封を許した。その内容とは義光・家親時代の仕置の続行、家中縁組の区分、公事(訴訟)の判断、前代任命の諸奉行に対する措置などに関するものであった。これらに関しては、山形藩を幕府の管理下に置く厳しい措置であるとか、また跡式の許可が下りるまで、二ヶ月の期間を要したことから、義俊家督への不信感を思わせる向きもあったろうが、それでも義俊への本領安堵が為されたことは、この時点に於いては、藩全体に共通した喜びをもたらしたことであろう。   
 この義俊襲封に際して、将軍への御目見は果たして得たのであろうか。重臣の岩屋能登への二月廿一日付の書状(家信の署名)に、「今度、上様御目見へ申候為御祝儀、広末并銀子給候、祝着ニ存候」[注7]とあることから、襲封から近い時期に、お目見を果たしたことは間違いないであろう。
 小倉藩主細川忠興が子息の忠利宛書状によれば、「(十一月廿九日)、景勝・佐竹・正宗于今在江戸、南部信濃も参上候由候、来年西国衆在江戸、云々」[注8]として、この年の東北大名達の江戸在勤を伝えている。当時の大名達の江戸在勤の仕分けについては、大体に於いては東西に大きく区分され、交互に在勤していたようで、新たに家督を継いだ義俊ではあったが、この年の山形下向は果たせなかったであろう。
■執筆:小野末三

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[注]
1、『山形の歴史』(川崎浩良)
 この先人の唱えた家親変死説が、今やすっかり定着した感がある。それは、この説に異議を唱えることも無い程に、最上家全体を含めた調査研究が、遅々として進んでいないことを、端的に表しているのではなかろうか。

2、[寒松史料](『川口市史・近世資料編3』)昭和58年
 龍派禅珠和尚(寒松)が書き残した文書類を総称する。
 [寒松稿]は、純然たる文学としての詩文などを収めたもので、そこには五山の禅僧との詩会を催しての交遊や、また武家や諸国の医師たちとの社交の手段として、詩文を作成した。
 [日暦]は、いわば日記の類いである。その内容は多彩を極め、寒松個人の足跡から、将軍から幕閣の要人を始めとして、武家との交際の実態を書き残している。家親の記事も多く、山形駿州・最上駿州・最駿・駿州・最駿州の名で登場している。また寒松は諸学問・医療面にも通じ、また会得した卜筮は特に重宝がられた。寛永十三年(1636)没。

3、道閑(また寿庵とも)は姓を吉原という。最上義光分限帳に「五十石 蔵米 谷(吉)原道閑」とある人物であろう。寒松の史料にも度々登場しており、「相州人道閑一雲……而精医師、自名書屋曰寿庵」とあり、家親の主治医また学問の師として、間近かに仕えていたようだ。家親、また義俊に近侍していたことが、残された書状により判る。

4、[最上家譜](『山形市史・史料編1』)
  同(元和)三巳病気之節、賜御書
 所労之由無心許、能々養生肝要候、猶酒井備前守可申候也、
  三月   秀忠(黒印)
    最上駿河守とのへ

5、[注4]に同じ

6、[注4]に同じ

7、[『秋田藩家蔵文書』所収文書] (『山形市史・史料編1』)

8、[細川家史料](『大日本古記録』)


     《平成20年12月分の入館者アンケート集計結果》


 この集計結果は平成20年12月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


        常設展示 (12/1〜12/31)

      開館日数・・・・・・・・・・24日間
      入館者数・・・・・・・・・・763人
      回答者数・・・・・・・・・・9人

 1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・11%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・0%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・0%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・11%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・0%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・0%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・22%
  (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・11%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・45%
   (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・89%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・11%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

 3.ご覧になられた感想

  (1)内容はいかがでしたか

    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・22%
    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・45%
    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・33%
    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

    �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・33%
    �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・67%
    ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・0%
    �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

  (3)入館料について

    �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�%
    ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・45%
    �0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ苅�%

 〜利用者の声〜

 ◎施設の規模が小さい。

 ◎館内にクラシック音楽でも、ながしてほしい。


 歴史館入館記念スタンプに・・・

 (」゜ロ゜)」新しく⌒★

 カネツグ君が仲間入りしましたぁ〜!

   L(@^▽^@)」 ワーイ 

 

 天地人放送記念という事で、

 大河ドラマ放送期間限定です。

 

 スタンプって置いてあると、なぜか押したくなりますよね。

 ナッツも、行った場所にあると必ず押しますね。

    (*^▽゜)Ω ペッタリ♪

 きれいに押せると、嬉しくなったりして。

         ニャン♪(=´▽`=) ニャン♪

 ナッツにとっての小さな幸せです(笑)

     o(^−^o嬉)♪(喜o^−^)o

 以前からある義光クンも入れて、現在4種類⌒★

  

 遊びに来た際は忘れずに

 スタンプ押してみて下さいねぇ。   ★⌒(v^ー°)


 あけましておめでとうございます。

 ( *゜▽゜)/°・:*【祝2009年】*:・゜\(゜▽゜* )



 2009年1月4日(日)

 今日から『天地人』が始まりますねぇ〜( ̄▽ ̄)ノ

 楽しみですが・・

 一年間、毎週8時からTVの前に座れるか・・

 以前も途中で諦めているし・・o( _ _ )o

 録画して、まとめて見たほうがナッツ的には
 
 ぐぅ〜 d(^^)b なんだよね。



 お正月は、レンタルで『独眼竜政宗』と『義経』を見ていましたが
 
 すごく面白い♪
 
 大河ドラマの魅力に今頃気がつくナッツ・・

 
 政宗で義光クンが悪役のイメージが強い!

 と聞いていたので、見ておこうと思ったのがきっかけ。

 演技力ある役者サンがそろっているし、すごい。

 ナッツ的には、そんなに悪いイメージなかったかなぁ。

 確かに政宗サン、かっこイイですが・・

 主人公ですしね。


 義経は、歴史館にある

 「木曽義仲最期図・屋島合戦図屏風」

 ナッツは、勉強不足でよく知らない・・

 大河ドラマを見れば、

 有名な、この場面も出ると聞いたので・・・



 ただ・・

 必ず誰かに阻止され、なかなか借りられない=3

 ナッツが、�癸院腺気鮖�っていて次に�癸兇�ら借りたいのに・・

 �癸犬世吋譽鵐織訝罎�無い・・(−_−)

 とかね・・

 「えぇ〜!そこから借りるの!?」

     ( ̄△ ̄;)まじかよぉ・・

 と思いながら、日を改めて行くと

         Σ( ̄□ ̄lll) ガビーン

 全てがレンタル中とか・・

    (−_−;)ムゥ・・・

 タイミングが悪すぎる・・・

 早く見ないと、内容忘れちゃうカモ・・

            (; ̄- ̄;)ハァ〜

 
 天地人は、録画して1年後にまとめて見るかなぁ?

 
 とりあえず、今日は見ますけどね。o(^−^)o



 こんな感じで今年も、のんびりと⌒★

 【おびどめ日記】を更新していきますので・・・

 気長〜〜にお付き合いくださいませ。( ̄ ̄▽ ̄ ̄) エヘッ★