最上義光歴史館

最上義光歴史館
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【楯岡甲斐守光直/たておかかいのかみあきなお】 〜兄・義光のために祈った〜
   
 「立石寺の薬師様の御前に、鰐口一箇を寄進します。そのわけは、出羽の国守、義光公の寿命が長く息災にて、文武ともに久しく発展するよう祈願するものです。」
 慶長13年(1608)10月26日の銘がある巨大な鰐口には、このような内容の漢文がしっかりと刻みつけられている。願主は「山形甲斐守源光直」、義光の弟の祈りのことばである。
 光直は一門の家老として、楯岡城主、1万6千石を与えられていた。
 この年の前後から、最上義光の領国内は、明るい発展のムードがみなぎってくる。
 山形専称寺、宝幢寺、鶴岡極楽寺には京都の「天下一道仁」の鋳造した鐘が納められ、羽黒山の五重塔や慈恩寺の三重塔が落成し、加茂の港は整備され、鶴岡三日町にはじめて橋がかけられ……と、出羽は新たな時代へと変わっていく。
 華やかな桃山文化が、ここ出羽の国につぎつぎと移入され、うつくしく花を開かせはじめていた。
 光直だけでなく、最上家の重臣たちもきそって、寺院や神社に土地、建物や美術品などを寄進して、領内の平和と発展を祈願した。
 この鰐口は、そのころの様子を物語る貴重な史料の一つであり、現在は立石寺の宝物として県文化財の指定を受けている。
 だが、最上家の繁栄を願った光直の祈りもむなしく、1622年(元和8)最上家はわずか一万石で近江に移されてしまう。
 光直は、幕府の命令で山形を離れ、九州小倉城主細川忠利に預けられることとなった。
忠利は、江戸から国もとの家臣にあてて、わざわざ手紙を書いた。(『細川実記』)
 「甲斐守が小倉に着きしだい、百人分の手当てをせよ。宿舎はしばらくは寺をあてるように。家は自分がそちらに行ってから申し付ける。……家来を百二、三十人も連れているのだから、その心得をするように」
 奥羽の雄藩、最上家の改易は、諸大名にとって大きな驚きであったのだろう。手紙につづけて、「光直ハ最上義守ノ次男ニテ、義光ノ弟、其姉ハ伊達政宗ノ母堂ナリ」と注があるが、そういう人物を預かるのはやはり大変なことと受けとめられていたのである。
 光直はやがて出家して「哲齋」と号し、七年後の寛永6年(1629)5月21日に病没する。年齢は65歳、71歳、二つの説がある。
 近くの柳川(福岡県)には、最上家後継ぎ問題で対立した一族の松根光広が住んでいたはずだが、顔を合わせる機会もなかっただろうと思われる。
 光直の子孫は、細川家が熊本に移ったのちも千石を与えられ、代々同家に仕えて明治維新を迎えた。
■■片桐繁雄著

    《平成21年2月分の入館者アンケート集計結果》
 
 この集計結果は平成21年2月1日から同28日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


        企画展示 (2/1〜2/28)


     開館日数・・・・・・・・・・24日間

     入館者数・・・・・・・・・1,162人

     回答者数・・・・・・・・・・ 14人


 1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・22%

  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・7%

  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・14%

  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・0%

  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・0%

  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・7%

  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・29%

  (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・7%

  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・14%
   
   (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%


 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・72%

  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・14%

  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・14%


 3.ご覧になられた感想

  (1)内容はいかがでしたか

    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・43%
 
    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・29%

    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・21%

    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・7%

 (2)最上義光と最上家について

    �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・36%

    �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・50%

    ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・0%

    �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ隠�%

 (3)入館料について

    �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ横�%

    ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・65%

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 〜利用者の声〜

 ◎現在の写真でいいから長谷堂の写真を展示してほしい。

 ◎企画展は、市民が気軽に出展し、見学に来やすいのでいいと思う。展示物に統一性があれば、更に良くなると思う。

 ◎音声ガイドを借りるのではなく、ボタンを押せば説明が聞ける方がいいと思う。

 ◎わかりやすくて、よかった。

 ◎ストラップなど、もう少し可愛い物を置いてもらいたい。



山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【一 義俊遺領を継ぐ】(2)

 元和四年(1618)二月九日、寒松の記録[]年首到来覚帳に、義俊よりの進物として「小袖弐領 綾ハフタへ」があったことを記している。この覚帳は四ケ年分しか見ることはできないが、[日暦]にも断片的に進物の記録があり、寒松からはその年の運勢を見る年筮の進呈とを併せ、義俊の寒松への儀礼的な付き合いは、最上家大破以後もしばらくは続いていったのである。
 同年某月、寒松は義光弟の楯岡甲斐守光直の求めに応じ、達磨像に「碧眼遠来東 渡江冷坐嵩 万人何得敵 面壁一 張弓」と詩文を書き入れた。この詩文の前後の配列から察して、一月末から二月にかけての時期かと思われる。この際、寒松は「最上甲斐守求之」と、本姓を使用していることから、この時期の甲斐守は、末だ楯岡姓を名乗っていなかったのではと、別な意味での疑問を投げかけている。また 同五年六月には、「題屏風画四首 最上源五郎家人鮭庭越前守求之」と、重臣の鮭延越前守秀綱の求めに応じて、屏風画に四首の詩文を書き入れている。
 このようにして、最上の重臣達も寒松の面識を得ていたことが判る。そして、義俊襲封の早い時期に於いては、江戸の藩邸で義俊を補佐しながら、藩の運営にあたっていた重役は、いずれも反義俊の立場を示した、この二人であったものと考えられる。
 同年九月、少年藩主への交代に伴う監察目的と思われる、幕府検使榊原左衛門が山形に派遣された。秋田藩士梅津政景の九月十二日付の日記に、「最上より日野備中書状参候、様子ハ、最上為御検便、榊原左衛門殿御下之由」[注1]と記している。藩主義俊としての初の山形入りは、おそらくこの時期ではなかったろうか。またこの時の幕府検使の山形派遣についての記録は、今のところ政景日記以外には見えていない。最上家騒動の調停に公の手が入ったのは、二年後のことである。この時期の検使派遣は、あくまで藩主交代による藩内監察を目的としたものと、解釈すべきであろう。
 翌五年三月九日付の細川忠興書状によれば、「東奥之衆正宗をハシめいつれも頓ニ被上之由候、此衆路次迄も罷出候ハ、西国衆暇出可申と推量候」[注2]として、東国大名達もやがて出府してくるだろう。そうすれば西国大名達も帰国できるだろうと、この時期の東国大名達の在国を報じている。
 同五年二月二十八日、秋田藩主佐竹義宣は参府への途中、天童にて義俊より贈物を受けている。
 
山方より源五郎様、浅場(羽)下総と申仁、御使者ニ被遣候、御音信物太(大)樽五つ・鳫五つ・しめ鮑弐百人桶壱つ・米弐十表(俵)・大豆拾表被遣候、米・大豆をハ御返被成候、
 
 ある藩主が出府の途中、他藩の城下を通過の際に、藩主が帰国中ならば互いに品々を贈り合うのが儀礼のひとつであったようで、翌二十九日の日記には、その様子をつぶさに伝えている。また昨年九月に山形に入った検使役人が、未だ山形に居たことも判る。

二月廿九日、てん堂(天童)より川崎まて御出被成候、福原彦大夫、最上源五郎様へ為御使者、てんとう(天童)より被参候、御太刀・御馬比内糟毛被進候、日野備中所へ鍋倉鹿毛被遣候、拙者ハ榊原左衛門殿・牟礼郷右衛門殿へ為御使者参候、 (中略) 源五郎様御両人之御検使衆も、長町ノはつれ迄御迎ニ御出被成候、源五郎様より御使者として、日野備中被参候、御太刀馬代銀子弐拾牧(枚)被遣候、備中為音信蝋燭百挺差上被申候、[注3]

 佐竹義宣の江戸入りは三月六日、そして伊達政宗も仙台を発したのが三月十八日で、上杉景勝も九日には米沢を離れている。このように山形近辺の各藩主も、相次いで出府しているので、義俊も相前後して山形を離れたものと考えられる。
 この幕府検使衆と共に、領内査察の日々を過ごしていたであろう新領主と、そして検使自身が半年に渡る滞在中に、最上の内情をどの程度調べ上げたであろうか。一年後の家中騒動の調停を目的とした目付派遣が、その伏線は既にこの時期にあったのではなかろうか。
 同年五月八日、義俊は将軍秀忠の上洛に際しては、江戸留守居を命ぜられているので、四月中までには江戸へ入っていたであろう。そして、まもなく起きた広島藩主福島正則改易事件に於ける、鎮圧勢の一員として参加したことは、義俊の藩主として初めての軍役であった。

五月八日御上洛御首途ありて、神奈川に迫らせらる、本城は国松君、西城は若君をとどめ守らせ給ふ、鳥居左京亮忠政・内藤左馬助政長・酒井宮内大輔忠勝・松平下野守忠郷・松平式部大輔忠次・最上源五郎義俊・福島左衛門大夫正則等留守す、[注4]
 
 この正則の改易事件の直接の原因を、上意を得ずして広島城普請を行ったものとされてはいるが、その根はもっと深いところにあったのであろう。幕府の正則に対しての詮索は、すでに四月中から始まっており、正則は江戸に留め置かれ審議が続けられていた。そして六月二日には正則改易の沙汰が下った。在京中の秀忠の許に在った久世広宣・坂部広勝は、正則が異議を申したてるならば珠すべしとの命を帯び、江戸へ向かった。坂部氏の『寛政譜』に義俊の名が見えている。

福嶋左衛門大夫正則罪ありて国除かるるのとき、広勝、久世広宣とともに御前にめされ、汝等いそき江戸におもむき、正則もし異議に及ハゝ松平下野守忠郷、松平式部大輔忠次、鳥居左京亮忠政、最上源五郎義俊等の兵を下知し、これを誅すへきむね仰をかうむり、御手つから御謀略の書二通を授けらる、

 また[最上家譜]も、義俊の働きを次のように伝えている。

元和五未福島左衛門大夫御改易之節、家人共異心ヲ含候由流布二付、源五郎ヲ被召、彼屋敷江馳向可請取、若家人等及異議候者、不残討捕可申旨被仰付、御城ヨリ直二福島屋敷江馳参請取、為御褒美長光御刀ヲ賜、
 
 また[武功雑記][注5]は「(正則が)江戸ノ内二福嶋屋敷三ヶ所アル内、福嶋イヅレノ屋敷二被居候事シレズ、シカレハ、今度御上洛二付而、御留守二被召置候、人数三万ヲ一万ツヅノ手当ナリ」といい、それを受けて[常山紀談][注6]は、「正則ノ邸ノ門前二蒲生下野守忠郷、裏門へハ鳥居左京亮打向ヒ、皆士卒物具シタリケリ、芝へハ最上源五郎義俊打向ヘリ」として、義俊が芝屋敷に打向ったことを伝えている。
 この事件の山形藩出兵に際しては、若き藩主を支え藩の指揮に当たったのは、鮭延越前守秀綱ではなかったか。先の寒松の記録から、この年の六月には在府していたことが判っており、また『続々本邦史記』[注7]から、この事件に関わる記事の中にも、越前を最上家の責任者として取り上げている。更に正則が信濃に配流されるまでの間、最上家が正則の身柄を預かっていたのではという、次のような記事もある。

去程二両上使より正則墨付請取しさるによって、家士中合て城明渡さすの旨先宿頭を以執城中まて意を訴におよひ、再三に及ひ早打を下し、家来共の決定斯のことく注進ありしかハ、各訴への上ニて正則家来とも方えの直判墨付早速さし出すへきの旨、最上家へ御連判を以徒遺されしかハ、正則御預りの節より最上家ニおゐて鮭延越前守正則一件の支配たりしゆへ、正則にむかひて江戸表より厳命の趣申渡し、云々
 
 この記事は、家中の籠城の気配に包まれた広島城の状況を、急遽江戸表に知らせ、その善後策に走っている様子の一端を述べているものである。越前が最上家の指揮をとっていたことは、この記事から伺い知ることができるが、果たして正則の身柄を最上家内に拘束していたのであろうか。しかし、他にこれを裏付ける確たる史料を見つけ出すことはできない。ただ、正則預かりの経緯について、次のような最上家に関わる記事が書き残されていることから、単に屋敷接収に兵を動かしただけではなく、それ以外にも正則との間に、何らかの関わりがあったのではなかろか。
 [内史畧][注8]より、正則改易事件についての記事の中に、「出羽山形最上氏御預にて長命にて終わる」としている。
 [元寛日記][注9]の元和五年の条に、「上使御請之旨言上ス、於是可被馳羽州庄内賜四万石由、重テ有上使申シテ云、為流人ノ身四万石無其用上返ス、仍於配所賜一万石最上源五郎義俊預之守護ス」とある。
■執筆:小野末三 (H)

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[注]
1、[梅津政景日記](『大日本古記録』)

2、[細川家史料](『大日本古記録』)

3、[注1]に同じ

4、『台徳院殿御実紀・巻50』

5、『大日本史料・12編30』

6、[注5]に同じ

7、『内閣文庫所蔵文書』
原本は不明だが、写本は色々と形を変え各所に見られる。史料として信用度に疑問もあるが、最上家に関わる記述の多さには、目を見張るものがある。

8、『岩手史叢・1』 昭48年

9、『内閣文庫所蔵史藉叢刊』

体験コーナー「ヨロイを着てみよう!!」

武士の晴れ着であるヨロイを着てみませんか!!

なりきり戦国武将大募集!!


【実施日】
2009年 
6月13日(土)・27日(土)、7月11日(土)・25日(土)、8月8日(土)・22日(土)

【時 間】
午前の部
(10:00〜/10:20〜/10:40〜/11:00〜/11:20〜/11:40〜)
午後の部
(14:00〜/14:20〜/14:40〜/15:00〜/15:20〜/15:40〜)


【参加費】
500円

【申込み】
事前に申込が必要です。
ご希望の方は参加希望日の1週間前まで最上義光歴史館に電話(023-625-7101)でご予約ください。

【その他】
着用するヨロイは紺糸威二枚胴具足と黒糸威二枚胴具足です。
ご希望時間とご希望のヨロイをおうかがいします。
お一人様所用時間は約20分です。



参加者第一号の赤木さんと内田さん!!


館長とパチリ!!

     《平成21年1月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成21年1月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


          常設展示 (1/1〜1/31)
          開館日数・・・・・・・・・・24日間
          入館者数・・・・・・・・・・579人
          回答者数・・・・・・・・・・ 21人

 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・10%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・0%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・14%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・9%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・5%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・0%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・24%
 (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・19%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・14%
 (10) その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・76%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・14%

 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・24%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・57%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・19%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・0%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・14%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・86%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 (3)入館料について

   �々發ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%
   ��適当である・・・・・・・・・・・・・・・90%
   �0造ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

 ◎斯波氏についてや、義光以前の最上氏についても展示してほしい。

 ◎おみやげやグッズを充実させてほしい。

 ◎展示品の解説がわかりやすかった。


宝光院の文殊菩薩騎獅像
 
 山形市八日町にある天台宗宝光院所蔵の文殊菩薩騎獅像について問題点を述べてみたい。この文殊菩薩騎獅像については、松尾剛次氏の見解が発表されており、これを踏まえて考察する。ただし、騎獅像そのものの評価および宝光院の歴史については割愛する。
 文殊菩薩騎獅像の上部から左上部には次の文言が刺繍されている。「出羽国最上/中野内/寿昌寺住/源末葉/永浦尼繍/永禄六年癸亥四月十七日」とあり、この騎獅像は永禄6年(1563)4月17日に中野の寿昌寺に住する源氏の末葉の永浦尼が刺繍したことになる。
 問題は、騎獅像の右上部にある一行をどう読むかである。松尾氏は「上宝光院住増圓」と解読し、永浦尼が宝光院住職増円にこの文殊菩薩騎獅像を寄付したと理解されていることである。
 しかし、これには問題がある。まず、この刺繍の文言のうち「出羽国最上……永禄六年癸亥四月十七日」の文字は、その大きさや字配りには納得できるものがある。しかし、「上宝光院住増圓」の文字は騎獅像の右上部に偏り、文字も若干小さい印象を受ける。少なくとも、全体の文言の中でこの部分はバランスを欠いていると言わざるを得ない。「上宝光院住増圓」の文字は「出羽国最上……永禄六年祭亥四月十七日」の文字が刺繍された後に付け足されたものではないかと思われる。ただし、永浦尼の刺繍であることを否定するものではない。しかし、後補となれば、当初から宝光院住職増円に寄付されたとするには疑問がある。
 最大の問題は、この部分を「上宝光院住増圓」と解読してよいかということである。このうち「上」については、すぐ左隣に「最上」の「上」の文字があり、比較すると非常に違和感がある。この「上」は「之」と読むべきではないかと考える。とすれば、この部分は「出羽国最上/之宝光院住増圓」と続けて読むほかはないのではないかと思われる。読み方としては異例ではあるが、このように考えざるを得ない。とすれば、この騎獅像は増円の発願により永浦尼が刺繍したと考える余地もある。
 次に寿昌寺および永浦尼についてである。刺繍文によると、寿昌寺は中野にあったわけだが、現在中野に寿昌寺は存在せず、その痕跡も知られていない。永浦尼が住する尼寺であるが、松尾氏が「寿昌寺は最上義守の菩提寺」と断定する根拠は何であろうか。従来、義守の菩提寺は龍門寺しか知られておらず、寿昌寺に関する手がかりはない。
 さらに、この刺繍は永浦尼を「源末葉」としている。永浦尼は源氏の後裔で尼となった人物である。松尾氏は永浦尼を「義守妻(義光の母)」とされているが、義守の妻については、いまだ確認されていない。わずかに小野少将の娘とする説があるが、確実なものではなく、また小野氏が源氏の後裔であったとは思われない。
 義守の妻が夫の存命中、しかも最上氏の当主であった時期に、夫に先立って剃髪・出家し、尼僧となることは考えられない。源氏の後裔となれば最上一族で、義守の姉妹である可能性が高いと思われる。また、義守は中野義清の次男とされるので、義清の妻、つまり義守の生母の可能性もある。
【附記】宝光院の文殊菩薩騎獅像は、現在山形大学附属中央図書館の所蔵となっている。

■執筆:粟野俊之(大本山永平寺史料全書編纂室室長) 
「『村山民俗学会』会報 第207号」(発行日2009年1月1日)より転載

※掲載にあたっては、執筆者の粟野俊之氏並びに村山民俗学会会長野口一雄氏の許可を得て、村山民俗学会事務局市村幸夫氏のご協力をいただきました。