最上義光歴史館

最上義光歴史館
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新年度がはじまって1週間が経ちました。
春爛漫の季節、霞城公園の桜ももうじき満開です。

お花見の際は山形市のガイドラインに沿ってお楽しみください。
http://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/kankokyaku/sub1/kankojoho/84460pd0331180946.html



スタッフレポートは中の人が変わって新たなスタートです。
歴史館の情報と共に季節のあれこれをお届けしたいと思いますので
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。




展示替えの作業のため
《2021年3月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和3年3月2日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (3/2 〜 3/31)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間
入館者数・・・・・・・・・・・・・825名
回答者数・・・・・・・・・・・・・21人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・5%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・5%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・38%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・5%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・24%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・10%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・14%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・80%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・10%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・43%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・57%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・47%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・53%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜�

〜利用者の声〜

福井市 男性/30代
無料なのに資料が充実してよかった。

東根市 男性/60代
入館料が無料にもかかわらず、館内や展示ともにキチンと管理されており、気持ちよく見学ができました。コロナが収束したら、どんどんイベントを企画して山形をアピールして欲しいです。

盛岡市 男性/大学生
古文書の現代語訳がもっとあると、より義光の人間味が伝わってくるのではないかと思いました。

埼玉県白岡市 女性.50代
説明も分かりやすく、館内はキレイで、スタッフの方も親切。楽しかったです。東北は伊達だけではないことをアピールしてください。

山形市 男性/30代
何度も来ていますが、久しぶりに家族で来ました。解説が分かりやすく、とても楽しめました。

山形市 男性/20代
奥の掲示物が見づらかった。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。
最上家親を見直す−花押に注目して−
    
 山形藩第二代藩主最上家親(1582〜1617)に関しては、治世期間が三年と短いこともあって、その謎の死ばかりが注目されてきた。しかしながら、家親の人生を史料に即して見てみると、義光の跡を引き継ぐだけの器量を有していたことがわかってきた。ここでは、家親の花押(サイン)に注目しながら、家親の実像に迫ろう。花押は、同じものをずっと使うというよりも、その人物の立場の変化などと連動して変える場合も多く、家親の立場の変化を花押の変化から追うことができるからだ。
 家親は、天正十九(1591)年、大森(福島市)で九戸討伐に来た徳川家康に拝謁を遂げ、それ以後は家康の近習となった。慶長元(1596)年からは、秀忠の近習となって江戸で暮らしたが、慶長十九(1614)年二月には第二代山形藩主となる。もっとも、花押は、成人してから使えるので、花押に注目すると、文禄三(1594)年八月五日、十三歳で家親が徳川家康の前で元服式を行なって以後が対象となる。
 家親花押の研究といえば、武田喜八郎氏(『武田喜八郎著作集 巻一 山形県文化史の�躙Φ罅戞幣�松印刷所、2007)によって、明朝体の図(2)と図(4)の二つの花押が知られている。


図(2)�況�


図(4)�祁殖�

明朝体とは、江戸時代に流行した花押型で、徳川判ともいい、「中国の明の太祖が始めたところとも。名乗りの字を使わないで、上下に一画を置いて中間にいろいろな形を作る」(『日本国語大辞典』12、1972)。武田氏は、図(2)は慶長初年頃から、図(4)は慶長十五・六年から元和三(1617)年まで見られるとする。
 もっとも、武田氏は『山形市史史料編1 最上氏関係史料』(山形市、1973、『市史史料編1』)では、文禄四(1595)年八月十三日付最上義康・家親連署状(『市史史料編1』182頁)の家親花押も挙げておられるが、『武田喜八郎著作集』では挙げられていない。理由は書いておられないが、最上義康・家親連署状を後世の写しとされたからであろう。私見も、そうした内容の文書が出されたとは考えるが、写しと考え、花押分析では除いている。そうした武田説は大いに示唆にとみ、基礎的な研究と評価できるが、以下に見直してみる。
 家親文書については、黒田富善氏「最上氏時代の寒河江領主について」(竹井英文編著『シリーズ戦国大名の研究6最上義光』戎光�捗佝如■横娃隠掘砲篶詭攘�氏「最上(寒河江)家親文書に関する一考察」(初出は『西村山の歴史と文化』�検■横娃娃押�後、竹井編『最上義光』採録)の研究があるが、花押の分析などはなされていない。
 管見に及んだ家親発給文書としては、慶長七(1602)年四月二日付の菅井掃部左右衛門義満宛最上家親宛行状が初見である(黒田「最上氏時代の寒河江領主について」924頁の表10−1「最上家親発給文書一覧」参照)。

今度、当村在方扱に依って申出し候事者
右件の赤田千苅は、永代未来に、出し置き候ところは実正である、もし猶自今以後違乱の儀これあらば、彼状をもって糺明を致すべき者なり、仍って件のごとし
 慶長七年
 寅卯月二日 家親(花押)
     菅井掃部左右衛門とのへ
〈菅井文書、阿部酉喜夫氏所蔵写真〉

 内容は、家親が、赤田(寒河江市)千刈の土地を菅井掃部左右衛門義満に宛行なっている。宛名人の菅井氏は、溝延八幡宮(山形県西村山郡河北町)の神官で、菅井義満は寛永元(1624)年七月二十九日に死去している(『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001、168頁など)。
 本史料から、家親が慶長七(1602)年四月二日には寒河江領主であったことは確実である(『寒河江市史 上巻』(寒河江市、1994、942頁)。ただし、本史料は、寒河江領主としての家親の活動を示すのみならず、家親の花押研究においてもきわめて重要である。
 本文書に書かれた花押は、従来、全く注目されてこなかったが、図(1)のようなもので、これまで知られている図(2)や図(4)の花押とは異なっている。


図(1)�儀�

それゆえ、図(1)の花押を花押�機⊃沺複押砲硫峅,魏峅´供⊃沺複魁法�図(4)の花押を花押�掘複舛硲臓砲閥菠未垢襦�
 それらの三類型の花押は、基本的に図(5)のような、慶長五(1600)年七月七日付村上義明宛徳川秀忠書状に見える徳川秀忠花押(藤井譲治『近世史小論集』思文閣出版、2012、163頁)と似ている。


図(5)
慶長五年七月七日付村上義明宛
徳川家康書状に見える花押

家親は、主人の秀忠の花押に似せた花押を使っていたのである。
 ところで、翌年慶長八(1603)年二月晦日付宛名不詳最上家親知行宛行状(白田佐著『新病院の落成を記念し「白田病院の歴史」を考える』白田病院、1982、15頁)では、家親の花押は図(2)のような�況寝峅,吠儔修靴討い襦�すなわち、慶長七年四月二日から慶長八年二月晦日までの間に花押が変わったと考えられる。その花押変化の背景は明確ではないが、慶長七年七月以降に義康が没落し、家親が家督継承者となったことによるのではと考えている(この点は別稿『最上三代』ミネルバ書房刊行予定で述べる)。なお、慶長八年二月晦日付文書も先の慶長七年四月二日付の文書も、いずれも原史料は所在不明であり、『山形県史』などで紹介されてこなかった文書である。
 ところが、慶長十五(1610)年になると、図(3)のような花押�沓舛砲覆蝓�以後、花押�祁燭鮖箸ぢ海韻襦�


図(3)�祁殖�

管見に及んだ花押�沓舛僚颪�れた初見文書は、以下の慶長十五(1610)年九月十二日付島津家久宛最上家親書状である。

(端裏捻封上書)
「 嶋津陸奥守様    山形駿河守
       人々御中     家親 」
  以上
先刻者、於御城卒度得御意、御残多存候、然者琉球王御奏者申候条、今晩御門へ御礼申度候間、御内儀被仰入可被下候、何様以参可得御意候、恐惶謹言
(慶長十五年)
  九月十二日     家親(花押)
(島津文書、『市史史料編1』291頁、東大史料編纂所架蔵マイクロフィルムにより訂正)

 島津家久は、慶長十五年八月に琉球王尚寧を率いて江戸城に徳川秀忠に拝謁した(『大日本史料』12の7、638頁)。前年慶長十四(1609)年に、琉球王国は嶋津領となったので、島津家久は、その挨拶のために江戸へ参った。家親は、その際、琉球王尚寧を秀忠に取り次ぐ奏者の役を命じられた。本文書の伝えるように、家親は、無事に奏者の役を果たし、そのお礼の挨拶をしたい旨を島津家久に伝えている。
 本文書には、図(3)の花押�沓膳燭�書かれている。図(4)のような花押�祁燭箸呂い┐襪�、右に少し傾いているという相違がある。
 家親はなぜ、�況燭�ら�祁燭慂僂┐燭里任△蹐Δ�。家親は、この尚寧以後も摂家クラスが秀忠との対面に際しては、奏者(取り次ぎ役)を勤めるように命じられた(『徳川実紀』慶長十五年八月二十八日条)。いわば、家親は秀忠の近習から幕閣の一員となったのである。
 とすれば、�況燭�ら�祁燭悗硫峅(儔修蓮�家親が奏者(秀忠のスポークマン)となるなど、幕閣の一員として江戸で活躍するようになったことによると考えられる。そうした立場の変化に応じて、花押を変えたのであろう。
 ところが、慶長十六(1611)年正月十一日付け城志摩宛て最上家親一字状(『山形県史資料編上』378頁)では図(4)のような、傾きのとれた花押となる。また、その花押は、最大縱幅4.0cm、同横幅横7.0cmと大きい花押である。山形藩主継承(予定)者としていわば自信に満ちた花押となってゆく。
 以上、(1)家親の花押は花押�機銑靴了絢鑪爐�あったこと、(2)花押�気老陳梗掲�四月二日には使用されたこと、(3)花押�兇老陳紅�年から十五年まで、花押�靴老陳構集淒�九月十二日には見られ死去するまで使われたこと、(4)花押�気牢┣蝋称亮腓箸靴董�花押�兇狼糎�の家督継承者として、花押�沓舛亘詆椶遼覲佞琉谿�、花押�沓造六碍組夕隋瞥縦蠎圈砲箸靴討硫反討鮠歡Г垢襪海函△覆匹鮟劼戮拭�
 本稿作成に際し、北畠教爾氏、鈴木勲氏のご教示を得た。

■執筆:松尾剛次(山形大学名誉教授)「歴史館だより��27」より
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