最上義光歴史館

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「最上義康終焉の地を訪ねて」

最上義光歴史館HP ボランティアガイドの欄をご覧いただきありがとございます。
この度、庄内の史跡探訪として、最上義康公終焉の地及び菩提寺を訪ねてきました。  
令和8年8月22日(土)、BS11の歴史情報番組「偉人・敗北からの教訓」で、「最上義光・御家騒動と改易を招いた長男の廃嫡と暗殺」が放映されました。
皆さんご覧になりましたか?
出羽国の戦国大名「最上家(57万石)」は元和8年(1622)に改易されました。
解説者の“伊東 潤氏”は、その要因は、最上義光が嫡男義康公を廃嫡し、死に追いやってしまったことが後の家中対立の引き金となり、最上家は改易されたと、そして、なぜ、義光は義康公を廃嫡してしまったのかについて解説しています。義康が暗殺された真相はいまだ謎のままです。

番組放送の後日、最上義光歴史館ボランティアガイド“サポータークラブ義光会”の会員有志数人で、悲劇的な最期を遂げた義康公を偲び、義康終焉の地(鶴岡市山添一里塚)及び義光公が寺領138石を寄進し、長男の義康の菩提を弔った。「常念寺(鶴岡市睦町)を訪ねたものです。
義康公終焉の地では「櫛引観光ガイドの会」の前田 勝様より、「修理塚」及び「首無し地蔵堂」についてご案内を頂き、「常念寺」では、住職渡邊剛紀様よりご対応いただき、義康公のご位牌参拝、義光の黒印状、義光が奉納したという、梵鐘、薙刀、の拝観とご説明をいただきました。


史跡 最上義光嫡子修理太夫碑
(最上家四十七代当主最上公義氏揮毫)


修理太夫碑
碑文
山形城主最上義光嫡子修理太夫最上義康公悪臣の諫言により、父義光の命令にて高野山入山途上、差廻しの家臣によって、当地にて不運の最期をとげる。時に慶長八年八月十六日 行年二十九歳





上山里見主従の墓地
最上義康が暗殺された場所からさほど遠くない、「天澤寺」の境内には、上山里見一族の墓もあります。
これは、義康の廃嫡および暗殺の首魁とされる、里見民部が義康暗殺後に危機を察知して一族と共に逐電するものの、義光の「なにがあっても里見民部を連れ戻して殺せ」との遺言を受けた家親によって粛清され、ここで最期を迎えたと伝わる里見主従23人の墓地となっています。


里見越後守主従23人の墓地




◎知る人ぞ知る加藤清正の墓碑
「天澤寺」にはあの虎退治で有名な加藤清正公の墓碑が、この山形庄内の地にあるのをご存知ですか?

寛永9年(1632)、肥後熊本藩加藤清正の子・忠廣が改易となり、一万石で出羽庄内藩預かりの身となり、
廃城となっていた丸岡城に居館を築き、この地で承応2年(1653)まで22年間過ごし生涯を閉じました。加藤清正の遺骨は、忠廣母子によって密かに熊本から持ち出され、丸岡に埋葬されていると伝わっていた。昭和24年(1949)の発掘調査で、丸岡城跡に隣接する天澤寺敷地内から鎧一領、清正の遺骨を納めた骨壷が発見されました。ここでは、住職の庄司良圓様より、加藤家に纏わる事等についてお話を賜りました。


加藤清正の墓(山形県指定史跡)



昭和24年の調査時に清正の遺骨(肥前弓野焼の骨壺の中に遺骨が収納されていた。)が発見され覆屋が建てられた。覆屋があり内部に五輪塔がある。天澤寺及びその周囲は、昭和38年に丸岡城跡・加藤清正公墓碑として山形県指定史跡に認定されました。

最後に。
BS11の歴史情報番組「偉人・敗北からの教訓 第153回」を見逃した方は、ネットでBS見逃し配信でご覧なってください。
また、義康公終焉の地及び加藤清正公墓碑を拝観したい方は、丸岡城跡及び隣接する「天澤寺」に行ってみてはいかがですか。

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